本文へスキップ
 



5,000本以上の動画から
キーワード検索!

Google

WWW を検索
"極め”内検索
重要なお知らせ
2010/8月以降おまとめは休止しました。
動画検索はキーワードで!!


リンク切れ、レンタル、
お探し中などの問い合わせ

プロレス/格闘技
誕生日/忌日
10/1

新着(ニュース、興行・結果、Youtube動画)
今日は何の日?


リコ
Rico
1961/10/1

リコ・コンスタンティノRico Constantino)は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。ネバダ州ラスベガス出身。

来歴

プロレスラーになる前はSWATに属し、ボディーガードの職にも就いていた。その後スタントマンに転身して『バットマン』に関わったり、テーマパークのアトラクションで働いていた。また、アメリカのTV番組 "American Gladiators" にも登場し、1990年-1991年シーズンの王者となっている。

1998年、南カリフォルニア地区のインディー団体EWFでプロレスラーとしてデビュー。そこでWWF(後のWWE)の首脳陣の目に留まり、WWEと契約を果たす。

WWEと契約後は、その下部組織であるOVWにまず所属した。WWE昇格後は、オカマのスタイリストというギミックでビリー&チャック(ビリー・ガン&チャック・パルンボ)やスリー・ミニッツ・ウォーニング(ジャマール&ロージー)のマネージャー役を務めた。その後はミス・ジャッキー、チャーリー・ハースとのタッグチームで活動していたが、2004/11/7にWWEを解雇された。

WWE解雇後は全日本プロレスに登場。RO&Dに所属し、ブキャナンと組んでアジアタッグ王座を奪取した。

アジアタッグ王座戴冠中の2005年5月に、警察官になるためにプロレスラーを引退、同時に王座も返上した。

もみあげがトレードマークでWWEの来日公演では「もみあげ」コールが起こり、当時ヒールであったにもかかわらず日本ではベビーフェイス的人気を獲得していた。

リングネーム

リコが用いたことがあったリングネーム

  • リコ・コンスタンティノ
  • ザ・コブラ
  • リコ(引退まで使用)

獲得タイトル

WWE
  • WWE世界タッグ王座 : 1回(w / リキシ)
  • WWEタッグ王座 : 1回(w / チャーリー・ハース)
OVW
  • OVWヘビー級王座 : 3回
  • OVW 南部タッグ王座 : 1回(w / ザ・プロトタイプ)
全日本プロレス
  • アジアタッグ王座 : 1回(w / ブキャナン)
その他
  • HWA王座 : 1回
  • EWF王座 : 1回
  • MPPW王座 : 1回





スペル・アストロ
Super Astro
1961/10/1


メキシコ・バハカリフォルニア州ティファナ出身の覆面レスラー。

義理の兄はレイ・ミステリオ・シニア(WWEで活躍するレイ・ミステリオ・ジュニアの叔父)。

来歴

9歳からルチャを学び、1974年5月にブカネロの名でデビュー、1979年からスペル・アストロに改名し。1983年12月にUWA入り。エル・ソラールとウルトラマンとの宇宙をモチーフとしたトリオタッグチーム「ロス・カデテス・デル・」としても活躍する。1991年3月にEMLL、1992年8月にAAA、1993年2月に再びUWAからCMLLと転戦。

1999年12月にビジャノ3号にマスク剥ぎマッチ破れ素顔になる。

かつてはみちのくプロレス、CMLL・JAPAN、IWA・JAPAN、近年では2006年10月に大阪プロレスに来日している。

またレストラン経営も行なっている。

タイトル歴

  • UWA世界ミドル級王座
  • WWA世界ミドル級王座

 
広告


ヘクター・ゲレロ
Hector Guerrero
1954/10/1

メキシコシティ出身の元プロレスラー。本名はエクトール・マヌエル・ゲレロ・ジャネスHéctor Manuel Guerrero Llanes)。生年は1957年ともされていた。

メキシコおよびアメリカで活躍した名門ゲレロ・ファミリーの一員。父のゴリー・ゲレロ、兄のチャボ・ゲレロ・シニアとマンド・ゲレロ、弟のエディ・ゲレロ、甥のチャボ・ゲレロ・ジュニアもプロレスラーである。

来歴

少年時代にファミリーでアメリカ合衆国のテキサス州エル・パソに移住し、テキサス大学エル・パソ校に進学して体育の学士号を取得。1973年にメキシコでプロレスラーとしてデビューした後、1970年代後半より兄のチャボ・ゲレロも主戦場としていたカリフォルニア州ロサンゼルスのNWAハリウッド・レスリングにて活動する。

1978/1/13にチャボと組んでブラック・ゴードマン&エル・ゴリアスからアメリカス・タッグ王座を奪取し、同年2/10にはマスクド・カナディアンを破りアメリカス・ヘビー級王座を獲得。1978/1/13に開催された同地区のニューイヤー恒例のバトルロイヤルでは、アンドレ・ザ・ジャイアント、チャボ・ゲレロ、マスクド・カナディアン、藤波辰巳、ロン・バス、ディーン・ホー、ビクター・リベラ、ムーンドッグ・メインなどの参加選手を抑え優勝を飾っている。

1979年1月、新日本プロレスに初来日。ボブ・ループ、ジョニー・パワーズ、クルト・フォン・ヘスなどのベテラン勢に混じって、藤波辰巳を相手に好勝負を繰り広げた。以降、テネシー、オクラホマ、フロリダなど南部を転戦しつつ、プロレス人気が下火となっていたロサンゼルスにも継続的に出場を続け、1982年7月9日にはマンド・ゲレロと組んでミスター・トヨ&ミスター・ゴーの日本人コンビを破り、アメリカス・タッグ王座への6度目の戴冠を果たした。

1983年4月には全日本プロレスに初登場し、大仁田厚が保持していたNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に挑戦。翌1984/7/13、ロサンゼルスにて空位となっていたNWA世界ジュニアヘビー級王座の新王者に認定され、翌日の14日にはフロリダにてチャボとのコンビでバリー・ウインダム&マイク・ロトンドからUSタッグ王座を奪取した。8月にはチャボと共に全日本プロレスに再来日している。以後もフロリダで活動し、1985/8/28にはジェシー・バーを下してフロリダ・ヘビー級王座を獲得した

1986年よりジム・クロケット・ジュニアの運営するNWAミッドアトランティック地区に参戦し、同じメキシコ系のマニー・フェルナンデスとのタッグチームを経て、レーザートロンLazer-Tron)なる覆面レスラーに変身。空中技を主体とした試合スタイルで子供の観客からの支持を集め、1987/3/7にはNWA世界ジュニアヘビー級王座に再び戴冠。同じく子供に人気のあったジミー・バリアントともタッグを組み、ミッドカード戦線で活躍した。NWA離脱後は素顔に戻り、1987/10/19にテネシー州メンフィスにて、ドクター・Dをパートナーにジェリー・ローラー&ビル・ダンディーからAWA世界タッグ王座を奪取している。

その後1990/11/22、七面鳥の着ぐるみをまとったゴブリディ・グッカーGobbledy Gooker)に扮してWWFの『サバイバー・シリーズ1990』に登場。当日はミーン・ジーン・オーカーランドとダンスを踊ったが試合には出場せず、ココ・B・ウェアやザ・ブッシュワッカーズとのプロモーション・クリップも製作されたものの、以降登場することはなかった(このキャラクターは、プロレス史上に残るワースト・ギミックとされている)。

セミリタイア後の1990年代はエル・パソのハイスクールでレスリングのコーチに携わりつつ、各団体に単発的に出場。1995年はECWにて2・コールド・スコーピオのTV王座に挑戦。1997年7月にはWCWに登場し、弟のエディ・ゲレロやディーン・マレンコと対戦した。1998/5/22には、エディとのコンビでノースカロライナのインディー団体PWFのタッグ王座を獲得している。

2001年はWWFでゴブリディ・グッカーのギミックを10年ぶりに復活させ、4/1開催の『レッスルマニアX-Seven』で行われたギミック・バトルロイヤルに出場。2005年11月13日に死去したエディ・ゲレロが2006年のWWE殿堂に迎えられた際も、チャボやマンドと共に式典に出席した。

2007年3月、スペイン語のカラー・コメンテーター兼任のロード・エージェントとしてTNAと契約。2008年5月からはホミサイド&ヘルナンデスのラテン・アメリカン・エクスチェンジ(LAX)のマネージャーとなり、チーム3Dやビアマネー・インクとの抗争を指揮した。同年9/25の『TNAインパクト』にてLAXがビアマネー・インクに敗れ、マネージャーの資格を失ってからはコメンテーターに復帰している。






浅野起州
1952/10/1

あさの たつくに、本名・浅野金六は、インディ系プロレス団体・IWAジャパンオーナー兼社長である。宮城県岩沼市出身。IWAジャパンではオカマキャラ及び口調で通している。

経歴

出身は宮城県であり、当初は地元で事業を行っていたものの行き詰ったことから、23歳の時に東京へ上京。朝は定食屋、昼は喫茶店、夜はキャバレーでレジ係として働いて資金を貯めて、数年後に新宿2丁目に第1号店を開店したとされる。

最盛期には新宿を含めて27店(新宿のみで24店)を構え、本屋・蕎麦屋・居酒屋等を運営していたものの、現在は約10店舗に集約されている(尚、店舗の多くは転貸としており、チョコボール向井が経営する店舗も浅野が転貸しているとのこと)。浅野自身が運営する店舗としては定食屋「花膳」喫茶「タントラ」の2店が最も知られており、IWAジャパンの記者会見場としても度々登場している。

また、過去には全日本プロレスや全日本女子プロレスの興行プロモーターとしての経験もあり、この関係もあってプロレスリング・ノア首脳との繋がりは深く、現在ノアで行われている「のあのあくじ」も、在庫処分で儲かるからと浅野が勧めたものである。また、全女の経営危機に伴う選手大量離脱の際に、IWAジャパン所属の女子選手を助っ人として参戦させている。

IWAジャパンとは当初後援者の内の1人という立場であったが、同団体の経営が迷走する中で1999年頃よりIWAジャパンの社長に就任、2000年2月には「レスラーデビュー」も果たしている。IWAジャパンはエンターテインメント色を打ち出した運営でマニア層からの支持を受け、現在も小規模ながら新宿FACE等を会場として継続的に興行を実施。また、浅野自身も東京スポーツの毎週火曜日「ファイトクラブ」のコーナーで不定期に相談コラムを執筆する等、幅広く活動している。

備考

IWAジャパンでは浅野自身が身体を張った「新宿2丁目劇場」が有名。「ファイアー攻撃」取得用に浅野が口に含んだ灯油を飲み干した騒動(1999年10月)やフレディー・クルーガーによる浅野をバイクで轢き逃げした騒動(2000年2月)等、散々な目に遭っている。






ボブ・ガイゲル
Robert "Bob" Geigel
1924/10/1

アメリカ合衆国の元プロレスラー、プロレス・プロモーター。アイオワ州アルゴナ出身。

スキンヘッドに全身剛毛のヒールとして活動する一方、1960年代から現役引退後の1980年代にかけては、NWAセントラル・ステーツ地区のプロモーターとなって手腕を振るった。NWAの会長職も務め、1978年から1980年、1982年から1985年、1986年から1987年まで、通算3回に渡って就任している。

来歴

ハイスクール卒業後にアメリカ海軍に入隊し、シービー隊員として第二次世界大戦に従軍。終戦後はアイオワ大学にてレスリングで活躍、1948年にはNCAAのチャンピオンになっている。

1950年にプロレスラーとしてデビューし、地元アイオワを含むカンザス、ミズーリなどの中西部(NWAセントラル・ステーツ)やテキサスのアマリロ地区(NWAウエスタン・ステーツ)を転戦。中西部ではテキサス出身の "テキサス" ボブ・ガイゲル"Texas" Bob Geigel)を名乗り、アマリロでは覆面レスラーのA・ボンバーA-Bomber)に変身することもあった。バーン・ガニアが旗揚げした初期のAWAにも参戦し、1961年6月にはジン・キニスキーに代わるハードボイルド・ハガティの後任パートナーに起用されAWA世界タッグ王座を継承。以降、同王座を通算3回獲得した。

1963年、カンザスシティを中心としたセントラル・ステーツ地区のプロモート権を獲得。パット・オコーナーとグスト・カラスを共同経営者にハート・オブ・アメリカ・スポーツ・アトラクションズを立ち上げる。1973年には主力レスラーのハーリー・レイスがNWA世界ヘビー級王者となり、同地区もNWAの要石として隆盛を迎えた。

1974年1月、全日本プロレスの『新春NWAシリーズ』に初来日。全日本には1976年5月の『NWAチャンピオン・シリーズ』にも再来日している。すでにレスラーとしては全盛期を過ぎており、短期間の特別参戦という扱いだったものの、シリーズ名が示す通りNWAと全日本プロレスとの強固な提携関係を印象付けた。以降もジャイアント馬場とは密接なパートナーシップを築き、NWA世界王者のレイスをはじめ配下の選手を全日本にブッキングする一方、佐藤昭雄や高千穂明久などの全日本所属選手をセントラル・ステーツ地区に迎え入れた。

1978年にエディ・グラハムの後任としてNWA会長に初選出され、1980年まで就任。1982年1月には姉妹団体セントルイス・レスリング・クラブをレイスと共にサム・マソニックから買収。当時のNWAの総本山キール・オーディトリアムでのビッグ・イベントを定期的に開催するなどカンザスおよびミズーリ一帯の実権を掌握し、9月にはNWA会長にも再選出された。

しかし、1984年にWWFがビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下で全米侵攻を開始すると、新しいメディアであるケーブルテレビへの参入に乗り遅れたこともあり、他地区同様に経営状態が悪化。1986年9月、ジム・クロケット・ジュニアにセントラル・ステーツ地区の運営権を売却することになる。同月より3度目のNWA会長職に就き、1987年2月にはクロケットから団体を買い戻したが、精力的なM&A戦略でマーケット規模を拡大したクロケットがNWAにおける権限を強大化させたため、同年下期にNWAを脱退。WWF(マクマホン)とNWA(クロケット)への対抗策として、旧セントラル・ステーツ地区に新団体WWAを設立した。

しかし両メジャーには太刀打ちできず、1989年初頭にWWAは活動を停止。ガイゲルもプロレスリング・ビジネスから撤退した。

獲得タイトル

NWAセントラル・ステーツ
  • NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座:6回
  • NWA USヘビー級王座(セントラル・ステーツ版):2回
  • NWA北米タッグ王座(セントラル・ステーツ版):9回(w / ボブ・ブラウン×5、ビル・ミラー、ザ・ヴァイキング、ザ・ストンパー、ルーファス・R・ジョーンズ)
  • NWA世界タッグ王座(セントラル・ステーツ版):4回(w / ルーファス・R・ジョーンズ×2、アキオ・サトー、パット・オコーナー)
NWAウエスタン・ステーツ
  • NWA北米ヘビー級王座(アマリロ版):1回
  • NWAサウスウエスト・ヘビー級王座:2回
  • NWAサウスウエスト・タッグ王座:4回(w / ドリー・ファンク×2、マイク・ギャラガー、ボリス・カルミコフ)
AWA
  • AWAミッドウエスト・タッグ王座:1回(w / ザ・ヴァイキング)
  • AWA世界タッグ王座:3回(w / ハードボイルド・ハガティ、オットー・フォン・クラップ、スタン・コワルスキー)

  



エリオ・グレイシー
Hélio Gracie
1913/10/1 - 2009/1/29 

ブラジル出身の男性ブラジリアン柔術家であり、グレイシー柔術の創始者。ブラジリアン柔術十段(赤帯)。ガスタオン・グレイシー家の五男。身長170cm、体重65kg。

来歴

父ガスタオン・グレイシーから依頼され前田光世は兄カーロス・グレイシーやエリオを含む5人兄弟に柔道(柔術)の技術と精神を教えていた。その後、カーロスとエリオは、グレイシー柔術の技術体系を築き、エリオは「グレイシー柔術アカデミー」総裁となる。1930年代からバーリ・トゥードを戦い始め、約20年間無敗を誇りブラジルスポーツ界の英雄となる。

43歳の時、弟子であったヴァウデマー・サンターナと対戦。3時間以上の試合となったがKO負けとなり、この試合を最後に引退した。

90歳を過ぎてからも、道着に袖を通し道場に姿を現しては稽古、指導を行っていた。

2008年2月に、ヒクソン・グレイシーを会長とする全日本柔術連盟(JJFJ)の相談役に就任した。

2009/1/29、リオデジャネイロ郊外のBeneficencia Portuguesa Hospitalにおいて死去。享年95歳。

日本人柔道家との対戦

1951/9/6にリオデジャネイロ市で加藤幸夫とブラジリアン柔術ルールで対戦し、10分3ラウンド引き分け。9/23に再戦し8分目で加藤を絞め落としエリオの一本勝ち。

1951/10/23にブラジルリオデジャネイロ市のマラカナン・スタジアム(観衆はブラジル大統領を含む3万人)で木村政彦と対戦(10分3ラウンド)。2R開始3分で大外刈からのキムラロック(本来の名称は柔道の腕がらみ。木村が掛けた技である為、後にこう呼ばれる。)で腕を取られ、エリオは意識がなくなっていた(一説に骨折したと言われている)ため兄のカーロスがタオルを投入し敗北した。

他にも、矢野武雄、冨川富興、小野安一(2度対戦し2引き分け)らと対戦したが、木村以外に対しては不敗であった。

家族

  • 父ガスタオン・グレイシー
  • 長兄カーロス・グレイシー(Carlos Gracie
  • 四兄ジュルジ・グレイシー
  • 長男ホリオン・グレイシー(Rorion Gracie)1952/1/10生
    • ヒイロン・グレイシー(ホリオンの長男)
    • ヘナー・グレイシー(ホリオンの次男)
    • ハレック・グレイシー(ホリオンの三男)
  • 次男ヘウソン・グレイシー(Relson Gracie)1953/3/28生
  • 三男ヒクソン・グレイシー(Rickson Gracie)1959/11/21生
    • 孫ハクソン・グレイシー(Rackson Gracie、ヒクソンの長男)
    • 孫クロン・グレイシー(ヒクソンの次男)
  • 四男ホウケル・グレイシー(Rolker Gracie)1964/722生
  • 五男ホイラー・グレイシー(Royler Gracie)1965/12/6生
  • 六男ホイス・グレイシー(Royce Gracie)1966/12/12生
  • 七男ホビン・グレイシー(Robin Gracie) 1971/8/17生
















 ↑ トップへヤフーオークション
 


 Copyright(c) Mitsuishiya, Inc. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system