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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
10/3

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デイブ・ハーマン
Dave Herman
1984/10/3

アメリカ合衆国の総合格闘家。インディアナ州フォートウェイン出身。Team Peewee's Playhouse所属。

デビューから2年ほどはスパーリングをほとんどせず、アクション映画を観てイメージトレーニングしたり、ランニングやウエイトトレーニングなど基本的には自分ひとりで練習を行っていたため、「エア格闘家」と呼ばれていた。打撃の勢いで圧倒する試合が多く、その拳からSRCでは「ダイヤモンド・ハンマー」の異名を持つ。

定住場所を持たず、車で生活しながら様々なジムでスパーリングパートナーを務めているため、「ホームレス出張格闘家」の異名を持つ。

来歴

高校は飛び級で2年早く卒業したこともあり陸上を軽くやっていた程度であったが、インディアナ大学に入学して本格的にレスリングを始め、オールアメリカンに選出されるなど頭角を現す。

2006年12月31日、総合格闘家デビュー。

2007年は8試合をこなし、10連勝を果たすとともに、デビュー以来の連勝記録を11に伸ばした。

2008年2月16日、EliteXC初参戦。マリオ・リナルディと対戦。膝蹴りからのパンチ連打でTKO勝ち。

2008年6月14日、EliteXCでロン・ウォーターマンと対戦し、TKO勝ち。

2008年10月10日、ShoXCでケリー・ショールと対戦。首相撲から強烈な膝蹴りを放ち、最後はパウンドでTKO勝ち。

2008年11月22日、King of Kombatでクリス・ギレンと対戦し、TKO勝ち。デビュー以来の連勝記録を15に伸ばした。

2009年1月4日、戦極初参戦となった「戦極の乱2009」でチェ・ムベと対戦。スタンドパンチによりTKO負けを喫し、プロキャリア初黒星となった。

2009年9月12日、Shark Fightsでドン・フライにTKO勝ちを収めた。

2009年11月7日、戦極 〜第十一陣〜でビッグ・ジム・ヨークと対戦し、グラウンドでの踵落としでKO勝ちを収めた。

2010年9月30日、Bellator FC初参戦となったBellator 31でマイケル・キタと対戦し、オモプラッタで一本勝ちを収めた。

2010年12月30日、戦極 Soul of Fightで中尾"KISS"芳広と対戦し、3-0の判定勝ちを収めた。

2011年6月11日、UFC初参戦となったUFC 131でユノラフ・エイネモと対戦し、TKO勝ちを収めた。






ジョン・モリソン
John Morrison
1979/10/3

本名はジョン・ヘニガンJohn Randall Hennigan)。カリフォルニア州ロサンゼルス出身。

来歴

WWEの新人レスラー発掘番組、タフイナフIIIの優勝者である。高校時代はレスリング部主将を務め、カリフォルニア大学デービス校を経てプロレスデビューは2002年。その後OVWに所属し、ジョニー・ブレーズジョニー・スペードジョニー・スーパースターなどのリングネームで活動していた。

2004年、RAWのGMを務めるエリック・ビショフの付き人として、ジョニー・ナイトロを名乗りRAWに初登場。「ナイトロ」とは、かつてエリック・ビショフがWCWで携わっていた番組、マンデー・ナイトロに由来する。ビショフの付き人は短期間で終了し、OVWに降格した。

2005/4/14にSmackDown!に登場。セレブというギミックで、ジョーイ・マーキュリー、メリーナと共にMNMを結成、WWEタッグ王座を奪取した。長期に渡り王座を保持するも2006年のジャッジメント・デイでポール・ロンドンとブライアン・ケンドリックに奪われた。その際セオドア・ロングと口論をした結果、メリーナと共にクビを言い渡されRAWへ移籍(これはシングルとしてプッシュするためのアングル)。移籍後はIC王座を獲得してジェフ・ハーディーとの抗争を展開した。

2007年にはECWに移籍し、6/24のヴェンジェンスでは出場予定だったクリス・ベノワが欠場したため代わりにECW王座に挑戦し奪取に成功する。王者となったと同時に記者会見を開き、ドアーズのボーカリストのジム・モリソンにちなんだジョン・モリソンへと改名した。その後CMパンクに敗れてECW王座を失ったが、ザ・ミズとのタッグで活動し、11月にはWWEタッグ王者となった。

2008年はタッグ王者として防衛を続ける傍ら、WrestleMania XXIVのマネー・イン・ザ・バンク・ラダー・マッチに初参戦。敗れはしたものの、見せ場を十分に作り評価を上げた。7/20のグレート・アメリカン・バッシュのフェイタル・4ウェイでWWEタッグ王座を明け渡すも、同年12月に行われたハウス・ショーで再びザ・ミズとのタッグで、世界タッグ王座を奪った。

2009年2月頃から当時WWEタッグ王者だったカリート&プリモと抗争を開始。4月5日のWrestleMania XXVのダーク・マッチのタッグ王座統一戦に敗れ王座を失う。翌日のRAWで、再戦権を行使し、王座に挑戦するも再び敗れる。4/13に行われたドラフトにより、ミズがRAWへ移籍することとなった。その際にリングでミズと最後の握手を交わし、別れを惜しんでいたが、突如ミズに攻撃されタッグは解散となった。

その後の追加ドラフトにより、スマックダウンへ移籍。移籍後はベビーターンし、シェルトン・ベンジャミンと抗争する。ベンジャミンとの抗争終了後はエッジ、CMパンクなどと対戦し、いずれも好勝負を見せた。このころからその高い身体能力と功績などから解説陣に第2のショーン・マイケルズと呼ばれるようになる。

7月にはジェフ・ハーディーの持つ世界ヘビー級王座に挑むが王座奪取とはならなかった。9月にはレイ・ミステリオからIC王座を奪取し、以降はIC王座の第一挑戦者のドルフ・ジグラーと抗争を展開。その後はドリュー・マッキンタイアとの抗争を開始するが、12/13のTLCで破れ王座から転落した。

2010年に入るとマッキンタイアとの抗争はうやむやになってしまい、Rトゥルースとのタッグで、WrestleMania XXVIにおいてビッグ・ショー&ザ・ミズ組の統一タッグ王座に挑むが王座獲得とはならなかった。4/26のRAWで行われたドラフトによりRAWへ移籍が決定する。

NXTシーズン2ではイーライ・コットンウッドを指導するプロとして登場している。

10月にはサンティーノ・マレラ & ウラジミール・コズロフ組と抗争していたシェイマスの邪魔を毎回のようにしたためシェイマスとの抗争に発展。11月のサバイバー・シリーズでシェイマスとの一騎打ちに挑み勝利した。

11月に二年ぶりに開催されたキング・オブ・ザ・リングトーナメントでは予選でタイソン・キッド、1回戦でコーディ・ローデス、準決勝でアルベルト・デル・リオを破るが、決勝でシェイマスに破れ準優勝に終わった。

2011年の最初のRAWで前年のTLCでシェイマスとのラダー・マッチを制して手に入れたWWE王座挑戦権を行使し、元タッグパートナーのミズとエニウェア・フォール形式でのWWE王座戦を行い肉薄するも、敗れ王座獲得はならなかった。

4月3日のWrestleMania XXVIIではトリッシュ・ストラタス、ニコール "スヌーキー" ポリッツィとタッグを組んでドルフ・ジグラー、ミシェル・マクール、レイラと対戦。スヌーキーがミシェルからフォールを奪って勝利した。

リングネーム

現在、過去に用いたことがあるリングネーム

  • ジョン・モリソン(現在使用中)
  • ジョニー・ナイトロ
  • ジョニー・ブレーズ
  • ジョニー・スペード
  • ジョニー・スーパースター

タイトル歴

WWE

  • ECW王座 : 1回
  • WWEインターコンチネンタル王座 : 3回
  • WWEタッグ王座 : 4回(w / ジョーイ・マーキュリー×3、ザ・ミズ)
  • WWE・世界タッグチーム王座 : 1回(w / ザ・ミズ)

OVW

  • OVW南部タッグ王座 : 1回(w / ジョーイ・マシューズ)

入場曲

  • Ain't No Make Believe - 現在使用中
  • Paparazzi - MNM時代に使用

 
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ダニー・バシャム
Danny Basham
1977/10/3

ダニー・ホリーDanny HollyHollieまたはHollidayとも)は、アメリカのプロレスラーである。インディアナ州シーモア出身。身長191cm、体重113kg。TNA所属。

経歴

1999年にOVWにてプロレスデビューを果たす。デビュー時のリングネームはDamajaであった。その後WWEに昇格し、SmackDown!には2003年5月29日に初登場。

SmackDown!登場時にリングネームも現在の「ダニー・バシャム」に改名された。これは、ダグ・バシャムと兄弟、というギミックが与えられたためである(2人のチーム名はバシャム・ブラザーズ)。更に、女王様に扮したDivaのシャニークワの奴隷というギミックも与えられての登場であった。その後、「兄弟」ともに、JBL率いるジェイビーエルズ・キャビネットのメンバー入りをする。2005年6月16日に、「兄弟」揃って離脱するまでメンバーに在籍していた。

2005年6月30日にRawへ移籍。同時にダグ・バシャムとのコンビも終了した。

その後Heatにて怪奇派のヒールに転向するも2007年に解雇された。

現在はTNAにてダマジャ(Damaja)の名でリングに上がっている

タイトル履歴

WWE

  • WWEタッグ王座(&ダグ・バシャム) : 2回

OVW

  • OVW王座 : 4回
  • 南部 タッグチーム王座(&ダグ・バシャムx1、David C.x2)





宇和野貴史
1976/10/3

北海道札幌市出身の元プロレスラー。リキプロ所属。身長184cm、体重102kg。

来歴

札幌南高校時代は柔道部に所属して、全国大会ベスト8の成績を残す。

大学推薦の道を断って上京し、新日本プロレスの入門テストを受けるが不合格。IWAジャパンの選手として1998/11/29にプロレスデビューを果たした。IWA在籍時にはIWA世界タッグ王座を獲得するなど活躍したが、マイナー団体のため生活には困窮しアルバイトをしながらプロレスラーを続けた。プロレスに見切りをつけ引退も考えていた時にWJプロレスの選手募集告知を知り、長州力に師事しようと決意して2002年10月WJに移籍した。WJ崩壊後はリキプロへと移籍して現在に至る。性格の良さが災いして、長州には常に怒鳴られる存在であった。

長州曰く「宇和野、あのくそバカノータリンが。(中略)緊張感が違いすぎる。ドリー・ファンクですよ。」(2005/4/16・RIKIPRO後楽園ホールでのタッグマッチ戦後の宇和野評。ドリー・ファンクのファイトスタイルは緊張感が無い、という意味での比喩。)

2008年2月引退。






能智房代
1975/10/3

東京都大田区出身。身長158cm、体重58kg、血液型O型。
1992/11/19、葛飾区総合スポーツセンター大会の対沼田三絵美、長谷川智香子組戦でデビュー(パートナーは神谷美織)

経歴・戦歴

1992年に平成4年組として全日本女子プロレスに入門。

対抗戦真っ盛りの翌1993年7月に話し合いのうえJWP女子プロレスに円満移籍。1995年からは、本名の外山寿美代から改名した「さぶろう」との「さぶちゃんふさちゃん」コンビで独自路線を築いた。1996/12/8の全女・両国国技館大会ではかつての同期・チャパリータASARIの持つWWWA世界スーパーライト級王座に挑戦したが、その月の12/28の後楽園ホール大会でさぶろうと共に引退した。


  



デビー・マレンコ
Debbie Malenko
1971/10/3

アメリカ合衆国の元女子プロレスラー。本名はデブラ・キリアンDebra Killian)、旧姓名はデブラ・ドレイクDebra Drake)。

マレンコ道場(Malenko School of Wrestling)出身。多彩なサブミッション・ホールドとスープレックスを使いこなすテクニシャンとして、全日本女子プロレスで活躍。全女の次代を担うと目されていた一人であった長谷川咲恵との「日米新世代タッグ」でも名を馳せたが、足の複雑骨折という大怪我がもとで引退した。

来歴

1991年
  • 来日。来日前はアメリカで消防士をしていた。
  • 3/17、後楽園ホールで、吉田万里子と組み、山元真由美、長谷川咲恵組と対戦。いきなりダブルリスト・アームサルトから腕固め、裏アキレス腱固めから膝十字固めと流れるような技を見せた。試合は、エプロンからの吉田のトペ・スイシーダで長谷川が昏倒するアクシデントもあり、最後は2対1の形となり、デビーが山元をノーザンライト・スープレックスで沈め、デビュー戦を飾った。後にデビーは、「(デビュー戦では)羽のように震えていた」と緊張を振り返って語っている。
  • 5/26、後楽園ホールで、井上京子と組み、吉田万里子、エステル・モレノ組と対戦。4人ともルチャ的なスピーディーな動きに対応し、デビーもそれに呼応し切り、手の合う好試合となった。井上京子とのダブル・アルゼンチン・バックブリーカーやダブル・ロメロ・スペシャルなども見せた。
1992年
  • 同時期に在籍していた、年齢は上だが全女では後輩にあたるテリー・パワーと仲が良く、スパーリングを共に行い、日本での生活に関してもアドバイスをしていた。
  • 5/24、後楽園ホールで、下田美馬と組んで、井上貴子、シンティア・モレノ組と対戦。トップロープからの雪崩式ノーザンライト・スープレックスで井上貴子を追い込んだが、貴子のオーロラ・スペシャルに屈した。
  • 6/21、後楽園ホールで、下田美馬と組んで、三田英津子と組んだ、テリー・パワーのデビュー戦の相手を務める。リングアナのコールの際に、馳浩や武藤敬司を意識したTシャツ投げを行った。試合では三田からSTFでギブアップを奪った。
  • 6/27、大宮スケートセンターで、「日米新世代タッグ」のパートナーである長谷川咲恵、ジャパン・グランプリ公式戦で対戦。熱戦となったが、長谷川の切り返しの首固めに敗れた。
  • 7/5、後楽園ホールで、テリー・パワーと「アメリカン・タッグ」を結成し、堀田祐美子、みなみ鈴香組と対戦。初のアメリカ人同士のタッグを組んでの試合となった。試合はデビーが回転足折り固めで堀田をフォールし、大金星をあげた。記者会見でも彼女たちの興奮ぶりが伝わってきた。
  • 7/15、大田区体育館で、下田美馬と組み、吉田万里子、井上貴子組の保持する、全日本タッグ王座に挑戦。トペ・スイシーダを見せるなど健闘したが、敗戦。吉田、井上の場外へのトペを受けた際に右足首をひねり、試合中にアイシング、テーピング治療を受けており、片足一本で復帰したものの吉田にフォール負け。奇しくも、翌年の大怪我と同じ箇所を同じ技で痛めていたことになる。
  • タッグリーグ・ザ・ベストでは、長谷川咲恵と「日米超世代タッグ」を結成。
  • 11/2、博多スターレーンでのタッグリーグ・ザ・ベスト公式戦で、WWWAタッグ王者の山田敏代、豊田真奈美組と対戦。圧倒的不利の予想を覆して、30分フルタイムを戦い抜き、引き分ける。チャンピオン・チームを相手に、ほぼノンストップで戦いきったデビー、長谷川組の、そしてデビーのタッグマッチでのベスト・バウトといえる試合であった。
1993年
  • 全日本シングル王座を獲得。
  • 名古屋国際会議場イベント・ホールで、長谷川咲恵と組んでの山田敏代、豊田真奈美組との試合で、豊田の場外へのトペを受けた際に右足首を逆にひねり、脛を複雑骨折。帰国し治療を繰り返していたが、その後自然にフェイド・アウトしていった。





"バレット" ボブ・アームストロング
"Bullet" Bob Armstrong
1939/10/3

アメリカ合衆国の元プロレスラー。ジョージア州マリエッタ出身。本名:ジョセフ・メルトン・ジェームズJoseph Melton James)。

ジョージア・ジョー・クラッカーGeorgia Jaw Cracker)の異名を持つベビーフェイスのパワーファイターとして、現役選手時代は地元のジョージアやアラバマなどのディープサウスを主戦場に活動した。

息子のスコット、ブラッド、スティーブ、ブライアンもプロレスラーである。

来歴

アメリカ海兵隊では韓国に駐留し、除隊後は消防隊員を経て、1960年代中盤にプロレスラーとしてデビュー。ボブ・アームストロングBob Armstrong)をリングネームにベビーフェイスのポジションで活動し、1967年にNWAの新人賞を受賞、1968年8月には日本プロレスに初来日している。

アメリカでは地元のNWAジョージア地区を主戦場に、1970年11月にポール・デマルコとのコンビでスカンドル・アクバ&バディ・コルトからメイコン・タッグ王座を奪取、タイトル初戴冠を果たした。以降もジョージアではロバート・フラーをパートナーに、ボビー・ダンカンやトール・タナカなどが率いるチームを破りジョージア・タッグ王座を再三獲得している。

1972年3月、ジム・ドランゴJim Durango)の名義で新日本プロレスの旗揚げシリーズに来日。特別参加のカール・ゴッチに次ぐ外国人エース格として参戦し、旗揚げ戦では「弟」という設定のジョン・ドランゴと組んでセミファイナルで豊登&山本小鉄と対戦、シリーズ中はアントニオ猪木とのシングルマッチも2度行われた。

1970年代中盤からはテネシー州メンフィスのNWAミッドアメリカ地区にも進出、1975年9月にモンゴリアン・ストンパーから南部ヘビー級王座を、10月にはハーリー・レイスからミッドアメリカ・ヘビー級王座をそれぞれ奪取した。メンフィスでは1977年にも、ジェリー・ローラーを相手に南部ヘビー級王座を争っている。

1970年代後半よりアラバマのSECW(NWAサウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリング)に定着し、1978年にデビッド・シュルツに勝利してサウスイースタン・ヘビー級王座の初代チャンピオンとなる。以降1985年にかけて、スターリング・ゴールデン、ジョー・ルダック、オースチン・アイドルらを破り、アラバマ地区のメインタイトルである同王座を南部版と北部版を合わせ通算9回獲得した。その間、1981年にミスター・サイトーとデニス・コンドリーを下してNWAアラバマ・ヘビー級王座にも2回戴冠している。1983年12月16日には、バーミングハムにてリック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦した。

アラバマではSECWの後継団体CCW(NWAコンチネンタル・チャンピオンシップ・レスリング)およびCWF(コンチネンタル・レスリング・フェデレーション)へも参戦。ザ・バレットThe Bullet)なる覆面レスラーへの変身や、息子のブラッドやスティーブとのタッグチームなどで活躍し、CWFが活動を停止する1980年代末まで出場を続けた。

引退後は2004年より、ジョージア、アラバマ、テネシーなど、かつて主戦場としていた南部のインディー団体やリユニオン・イベントへのスポット出場を開始。2005年からはB・G・ジェームズこと息子ブライアンのセコンド役としてTNAに登場、2006年4月23日のPPV『ロックダウン』ではコナンとアームレスリングで対決し、2008年2月10日の "Against All Odds" ではブライアンとのコンビでA・J・スタイルズ&トムコのTNA世界タッグ王座に挑戦した。

2011年、プロレス界における功績をたたえ、WWE殿堂に迎えられた。














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