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プロレス/格闘技
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10/5

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ブライアン・ピルマン
Brian William Pillman
1962/5/22 - 1997/10/5

アメリカ合衆国のプロレスラー。オハイオ州シンシナティ出身。

初期のWCWではライトヘビー級のベビーフェイスとして獣神サンダー・ライガーらとタイトルを争い、ヒールターン後はスティーブ・オースチンとのタッグチームで活躍。晩年はWWFにて、ルース・キャノンThe Loose Cannon)の異名を持つサイコパス系ヒールを演じた。

来歴

幼少期に咽頭癌で30回を超える手術を受けるも克服し、オハイオ州オックスフォードのマイアミ大学ではカレッジフットボールで活動。1984年、NFLのシンシナティ・ベンガルズのトライアルを受け、ラインバッカーとして入団。翌年バッファロー・ビルズに移籍するもステロイドの使用が発覚して解雇され、1986年はCFLのカルガリー・スタンピーダーズに在籍した。

同年にフットボーラーを廃業してプロレスに転向。スチュ・ハートのプロレスラー養成所 "ハート・ダンジョン" でトレーニングを受け、11/25にカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングにてデビュー。スチュの息子ブルース・ハートのタッグパートナーとなり、翌1987年はジェリー・モロー&マッカン・シンなどのチームとインターナショナル・タッグ王座を争った。1989年4月には、カルガリーとの提携ルートで新日本プロレスに初来日している。

WCW

1989年よりアメリカに戻り、前年にNWAのジム・クロケット・プロモーションズを買収したテッド・ターナーのWCWに参戦。Zマンことトム・ジンクとのベビーフェイスのタッグチームで活動し、1990/2/12にはトーナメント決勝でマイケル・ヘイズ&ジミー・ガービンのファビュラス・フリーバーズを破り、NWA認定のUSタッグ王座を獲得した。

空中技を主体としたファイトスタイルからフライン・ブライアンFlyin' Brian)の別名が与えられ、小柄・軽量ながら大型のレックス・ルガーやバリー・ウインダムとも抗争を展開、ウインダムとのルーザー・リーブス・タウン・マッチに敗れると、覆面レスラーのイエロー・ドッグThe Yellow Dog)に変身して再登場したこともある。ジンクとのコンビ解消後は、シングルプレイヤーとなって軽量級戦線に進出。1991/10/27のPPV "Halloween Havoc'91" にてリチャード・モートンを破りWCWライトヘビー級王座(後のWWEクルーザー級王座)の初代チャンピオンとなる。以降、獣神サンダー・ライガーやスコッティ・フラミンゴなどと王座を争った。

1992年9月、当時のWCW副社長ビル・ワットのアイデアによりヒールに転向し、"スタニング" スティーブ・オースチンをパートナーに新チームのハリウッド・ブロンズThe Hollywood Blondes)を結成。1993/3/2、リッキー・スティムボート&シェーン・ダグラスからWCW世界タッグ王座を奪取、以後はフォー・ホースメンのアーン・アンダーソン&ポール・ローマと抗争し、負傷により8月にロード・スティーブン・リーガルにタイトルを譲渡するまで戴冠を続けた。負傷からの復帰後はベビーフェイスに戻り、前パートナーのオースチンと抗争を展開。1994/2/20の "SuperBrawl IV" にはスティング&ダスティン・ローデスと組んで出場、オースチン、ポール・オーンドーフ、リック・ルード組とサンダードーム・ケージ・マッチで対戦し、オースチンからピンフォールを奪った。1995年7月には新日本プロレスの『ベスト・オブ・ザ・スーパージュニアII』に参戦。同大会優勝者のワイルド・ペガサスから勝利を収めている。

しかし、WWFから移籍してきたハルク・ホーガンやランディ・サベージの重用に伴い活躍の機会は減少、1995年下期に再びヒールターンして10月末からはリック・フレアー率いるフォー・ホースメンに加入するも、舞台裏ではエリック・ビショフの側近だったブッカーのケビン・サリバンと対立。1996/2/11の "SuperBrawl VI" においてピルマンへの粛清として両者の対戦が組まれ、試合に敗れたピルマンがサリバンへのリスペクトをその場で公言するというシナリオが用意された。ところが、ピルマンは試合開始から1分も立たないうちにマイクを掴み、"I respect you, Booker Man!" と叫び、プロレス界にはシナリオライターが存在することを「ブッカーマン」という隠語を用いて観衆の前で示唆、そのまま試合を放棄し控室へ戻った。このハプニングにより、同じくホースメンのメンバーだったアーン・アンダーソンがピルマンに代わって急遽サリバンの対戦相手を務めるも、突然の出来事に観客は困惑。最終的にはリック・フレアーも登場してサリバンに打倒ホーガンへの共闘を持ちかけ、観客の関心をピルマンの行為からそらせることで事態を収拾した。その間、控室でピルマンはビショフと激しく口論し、WCWを解雇された。

WWF

WCW解雇後はフリーエージェントの立場でECWに出場することとなったが、"SuperBrawl VI" での事件から約2カ月後の1996/4/15、自動車事故を起こして左足首を骨折。そのためECWでは試合は行わず、インタビューやマイクパフォーマンスを中心に、車椅子に乗ったサイコパス系のヒールに転じた。しかし、人種差別発言によって黒人レスラーのニュー・ジャックとバックステージで諍いを起こし、短期間でECWを離れた。

ECW離脱後の6月上旬、WWFと契約。ECWで演じていたギミックをそのまま継続させ、何をしでかすかわからない常軌を逸した危険人物を意味するルース・キャノンThe Loose Cannon)をニックネームに、怪我が完治するまでは松葉杖をついて番組内に出演した。

以後、ストーン・コールドのキャラクターに変身し人気上昇中だった旧友スティーブ・オースチンを相手に、仲間割れした元タッグパートナーというWCW時代の因縁を取り入れた抗争アングルが展開される。当時WCWとのマンデー・ナイト・ウォーズで苦戦続きだったWWFは、まだピルマンが試合を行える状態ではなかったこともあり、両者の抗争をリング外を舞台とした新機軸の試みとしてプロデュース。ピルマンの自宅襲撃をオースチンが予告し、それをピルマンが銃で迎え撃つというシナリオのもと、11/4の『マンデー・ナイト・ロウ』において、両者の遺恨劇 "Pillman's got a gun" はケンタッキー州ウォルトンのピルマン宅から生中継された。

番組は大きな反響を呼び、高視聴率を上げたものの、本物の暴行事件と思い込んだ子供達の親から抗議の電話が殺到、ケーブル局の幹部や番組スポンサーからも「やりすぎ」であると強く非難され、5日後の土曜日に放送の『WWFライブワイヤー』にてビンス・マクマホンが視聴者に謝罪するという事態となった。しかし、このアングルは後のWWFのシナリオに多大な影響をおよぼし、セックス&バイオレンスの要素を取り入れたアティテュード路線への方向転換の契機ともなった。

1997年より試合出場を再開し、ヒールターンしたブレット・ハート率いるハート・ファウンデーションに加入。オーエン・ハート、ブリティッシュ・ブルドッグ、ジム・ナイドハートらと共闘してリーダーのブレットを援護し、7/6のPPV『カナディアン・スタンピード』では、ストーン・コールド・スティーブ・オースチン、ケン・シャムロック、ゴールダスト、リージョン・オブ・ドゥームのチームと10人タッグマッチで対戦した。この大会はハート・ファミリーの地元のカルガリーで行われたため、ヒールのピルマンもハート・ダンジョンの出身者として観客の声援を受けた。

その後はゴールダストを相手に、彼のマネージャーであり妻でもあったマレーナ(テリー・ラネルズ)を巡る抗争を展開。9/7開催の『グラウンド・ゼロ』にてゴールダストを破りマレーナから30日間の奉仕を受けられる権利を獲得すると、彼女を辱めるシーンを収めたビデオを "Brian Pillman's XXX Files" と題して毎週公開し、ゴールダストを挑発した。なお、マレーナはゴールダストと結婚する以前、WCWにてアレキサンドラ・ヨークと名乗っていた頃に、ピルマンと実際に肉体関係を持っていた。

ゴールダスト&マレーナとのアングルが継続中の1997/10/5、PPV『バッド・ブラッド』が開催される当日に、ミネソタ州ブルーミントンのホテル・ルームにて死去。35歳没。自動車事故による鎮痛剤の過剰摂取および長年に渡る薬物の服用が動脈硬化性心疾患につながり、心臓発作を引き起こしたとされている。翌10月6日に放送の『マンデー・ナイト・ロウ』には未亡人のメラニー・ピルマンが前年の "Pillman's got a gun" の舞台にもなった自宅からのライブ中継で出演し、薬物問題を含むビンス・マクマホンのインタビューに応じた。

彼の死後、1998年から2001年まで、当時のWWF、WCW、ECWの各団体の選手によるトリビュート・イベント "Brian Pillman Memorial Show" が故郷のオハイオにて開催され、その収益金はピルマンの遺児の養育費に充てられた。2006年には2枚組のトリビュートDVD "Brian Pillman: Loose Cannon" がWWEより発売されている。

なお、義理の娘であるアレクシス・リードが女性マネージャーの "セクシー" レクシー・ピルマンとして2008年1月にデビュー、ジョージアのインディー団体で活動し、TNAのトライアウトも受けていたが、2009/11/26、自動車事故により26歳で死去した。

獲得タイトル

スタンピード・レスリング
  • インターナショナル・タッグ王座:2回(w / ブルース・ハート)
WCW
  • NWA USタッグ王座:1回(w / "Zマン" トム・ジンク)
  • WCWライトヘビー級王座:2回
  • WCW世界タッグ王座:1回(w / "スタニング" スティーブ・オースチン)





マット・ハミル
Matt Hamill
1976/10/5

アメリカ合衆国の総合格闘家。オハイオ州ラブランド出身。チーム・パニッシュメント所属。

生まれつき聴覚障害を持っており、ラウンド間のインターバルでは手話でセコンドの指示を受ける。

来歴

ロチェスター工科大学在学時にレスリングのNCAAディヴィジョンIIIで3度の優勝を果たした。またデフリンピックでも1997年大会(コペンハーゲン)ではフリースタイル、グレコローマンの両部門で優勝、2001年大会(ローマ)でもフリースタイル優勝、グレコローマン準優勝の実績を残す。

2006年、UFCのリアリティ番組「The Ultimate Fighter」のシーズン3に参加、ティト・オーティズのチームに所属しマイク・ニッケルズに勝利するも怪我でシーズンから離脱する。6/24のフィナーレではジェシー・フォーブスにTKO勝利を収めた。

2007/9/8、UFC 75でマイケル・ビスピンと対戦。試合を優位に運ぶも、1-2の判定で敗れた。

2008/9/6、UFC 88でリッチ・フランクリンと対戦し3ラウンドにTKO負けを喫した。12/27のUFC 92ではリース・アンディにTKOで勝利した。

2009/3/7、UFC 96でマーク・ムニョスと対戦し、右ハイキックでKO勝ち。ノックアウト・オブ・ザ・ナイトを受賞した。

2009/12/5、The Ultimate Fighter 10 Finaleでジョン・ジョーンズと対戦。劣勢を強いられたが、マウントポジションを取られた際にジョーンズの垂直に落とす肘打ちを顔面に2発受けて続行不能となり、ジョーンズに反則負けが宣告された。

2010/6/19、The Ultimate Fighter 11 Finaleでキース・ジャーディンと対戦し、2-0の判定勝ちを収めた。

2010/10/23、UFC 121でティト・オーティズと対戦し、3-0の判定勝ち。UFC5連勝となった。


 
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金原弘光
1970/10/5

日本の総合格闘家、元プロレスラー。愛知県尾張旭市出身。リングス金原道場所属。

来歴

1991/12/22、UWFインターナショナルの前田雅和戦でデビュー。1992年末に開催されたジュニアリーグ戦では、高山善廣などを押さえて優勝した。同団体がタイからムエタイのコーチを招聘していたことからムエタイに傾倒。タイで幾度かの試合を経験、1996/3/1にはUインター興行でチャンプア・ゲッソンリットとK-1ルールで対戦し、同時期には石井和義館長からもK-1本格参戦のラブコールを受けていた。頭脳的なファイトスタイルから「UWFの智将」と呼ばれた。

その後キングダムに戦いの場を移し、1998年には山本喧一と共にリングスに移籍した(3/28の興行から出場、7/5付けで正式所属)。

リングス時代は12連勝という記録を樹立、KOKルールに移行してからはダン・ヘンダーソン、ヒカルド・アローナ、ジェレミー・ホーン、マット・ヒューズ、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラらと激闘を展開。後にアブダビコンバットで優勝するアレッシャンドリ・カカレコには一本勝ちを収めるなどリングス最後のエースとして活躍。

2000年3月、アブダビコンバット99kg未満級に出場。1回戦でヒカルド・アローナと対戦し、判定負け。

2002年にリングスが活動停止すると、PRIDEに参戦。2002/11/24、PRIDE初参戦でいきなりヴァンダレイ・シウバとミドル級タイトルマッチを行うが、防戦一方となり、セコンドのタオル投入でTKO負け。その後、ミルコ・クロコップ、アリスター・オーフレイム、マウリシオ・ショーグンと戦うがPRIDEでは4戦全敗となった。

2005/8/20、リングスのエカテリンブルク大会でユーリ・ベキシェフと対戦し、カットによりTKO負け。

2005/10/2、初参戦となったパンクラスで近藤有己と対戦し、判定負け。

2005/11/5、HERO'S初参戦となったHERO'S 2005 in SEOULでハリッド"ディ・ファウスト"と対戦し、0-2の判定負け。

2006/8/15、友人でもあるエンセン井上がプロデュースした興行「『心』 〜Kill or be Killed〜」に出場し、アブドルザコフ・ルスランにヒールホールドで一本勝ち。4年7か月ぶりの勝利となった。

2006/10/28、MARS 05でマルセロ・ブリットと対戦し、腕ひしぎ十字固めでレフェリーストップ負け。金原はレフェリー・主催者に対し抗議した。なお、金原の公式サイトでは「協議中」となっている。

2007/3/18、パンクラスで川村亮と対戦。壮絶な殴り合いの末にKO負けを喫し、リング上で「あと1試合で引退します。パンクラスで引退します」と表明した。その後、12月に引退を撤回した。

2008/3/26、復帰戦となったパンクラスで竹内出と対戦し、0-3の判定負けを喫した。この試合からライトヘビー級からミドル級に階級を下げた。

2009/4/16、DEEP初参戦となったDEEP 41 IMPACTで長井憲治と対戦し、TKO勝ちを収めた。

人物

  • 独特なルックスを皮肉った「美獣」というニックネームがある。
  • 大の車好き。
  • 矢沢永吉のファン。
  • 過去、新日本プロレス学校に在籍していた。同期に天山広吉、西村修がいる。

その他

  • 2005年に韓国で行われたHERO'Sの大会では、韓国の実況アナウンサーが金原を「キム・フングァン」(金弘光 韓国語:김홍광)と紹介していた。
  • リングに入場した際には、顔の前で合掌をしながら、体をしゃがみこませ、くるりとリング中央で一回転する独特なパフォーマンスを毎回行っている。







  

















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