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プロレス/格闘技
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10/6

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愚乱・浪花
1977/2/15 - 2010/10/6

本名・木村吉公,「浪花」というリングネーム、蟹をモチーフとした覆面に、入場コスチュームを阪神タイガース応援ハッピ、入場曲を「かにの網元」(かに道楽CMソング)とするなど、大阪色を前面に押し出した覆面レスラーだが、出身は栃木県下都賀郡である。
  • 1992年、ユニバーサル・プロレスリングに入団。練習生のままみちのくプロレスへ移籍。
  • 1993/3/16、本名でバトルロイヤルに参戦。プレデビュー。
    • 3/17、本名でデビュー。みちのくプロレス新人レスラー第1号にしてスペル・デルフィンの一番弟子。
    • 6/2、スペル・デルフィンの個人事務所「ワキタ・プロダクション」主催の大阪大会から、「道頓堀の橋の下にいたところをデルフィンにスカウトされた」という触れ込みのマスクマン愚乱・浪花となり、阪神応援ハッピ姿、くいだおれ人形風のオーバーマスクを着用し、「かにの網元」(かに道楽CMソング)の入場曲で登場するようになる。以後、スペル・デルフィン、新崎人生と「デルフィン軍団」を結成。
  • 1994年、TAKAみちのくの軍団入りに抗議、TAKAとの抗争が勃発。後に和解。
  • 1995年8月、第1回ふく面ワールドリーグ戦出場。ザ・グレート・サスケを破る金星。
    • 12月、スーパーJカップ初出場。
  • 1997年、ベスト・オブ・ザ・スーパージュニアに出場。高岩竜一から勝利をとる。
  • 1998/6/5、全日本プロレスに初参戦。
  • 1999年1月、デルフィンたちとみちプロを離脱を発表するが、みちのく預かりとなる。
    • 8月、第2回ふく面ワールドリーグ戦出場。熱戦の末、サスケから勝利するも骨折し欠場してしまう。
  • 2000年8月、正式にフリーへ転向。
    • 広島大会限定で「もみじ饅頭郎」に扮する。
  • 2001年、全日本プロレスに参戦し主戦場とする。
  • 2003年、みちのくプロレス参戦。
    • 5/20、左腕を骨折し長期欠場。以降、リングから姿を消す。
  • 2005/12/31、インディーサミットにて突如乱入 数年ぶりにファンに姿を見せた。
  • 2007年、キングスロードを主戦場に、レッスルランドなどに参戦。
  • 以降、出場していた2団体が消滅し、イベント系の興行に参加する程度の活躍となる。
  • 2010/10/6、心筋梗塞により死去。享年33歳。

リングネーム

これまでデルフィンが名付けたリングネーム。

  • 愚乱・浪花
  • もみじ饅頭郎
YouTube動画おまとめ
サスケ&テリーボーイ&紫龍組vsヨネ原人&新崎人生&愚乱・浪花 /2/2
熱狂!!プロレス物語 3
1996/10/10 両国国技館 正規軍vs海援隊☆DX10人タッグマッチ / みちのくプロレス
グラン浜田/スペルデルフィン/タイガーマスク/愚乱浪花/薬師寺正人vs
ディック東郷・MEN,Sテイオー・獅龍・TAKAみちのく・船木勝一

愚乱・浪花 入場
2002/8/25 みちプロ LoveⅡ
ザ・グレート・サスケ/獣神サンダー・ライガー/TAKAみちのくvs新崎人生/愚乱・浪花/KAZUYA YUASA






ゴリラ・モンスーン
Gorilla Monsoon
1937/6/4 - 1999/10/6

ゴリラ・モンスーン

アメリカ合衆国のプロレスラー。本名ロバート・ジェームズ・マレラRobert James Marella)。ニューヨーク州ロチェスター出身。

そのプロレスラーとしてのキャリアのほとんどをWWWFで過ごし、引退後もWWFでビンス・マクマホンの片腕として要職を務め、テレビの中では実況アナウンサーを担当、生涯をWWEに捧げた。日本でのニックネームは「人間台風」。

愛称はジノ(Gino)、ゴリラ、モンスーンなど。現役時代は196cm、158kgの体格を活かしたパワーファイターとして活躍した。1994年、WWE殿堂入り。

来歴

現役時代

高校時代はレスリング、アメリカンフットボール、陸上競技などで活躍。アイザック大学を首席で卒業後、地元の高校教師となったが、その体格に目を付けられてスカウトされ1959年にジノ・マレラの名でデビュー。1963年4月に日本プロレスに初来日。同年8月、旗揚げ間もないWWWF(現WWE)に移籍し、ビンス・マクマホン・シニアから「満州出身の元アジア王者」ゴリラ・モンスーンのリングネームを与えられ、怪人ヒールに変身した。モンスーンの由来は前述の「人間台風」(訳すとヒューマン・タイフーンとなる)がヒントになったという。

1963年10月、いきなりブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座への挑戦者としてニューヨーク・デビュー。1か月後にはキラー・コワルスキーとのタッグでスカル・マーフィー&ブルート・バーナードを下しWWWF・USタッグ王座(世界タッグ王座の前身)に戴冠。さらにその数日後には再びサンマルチノに挑み、60分フルタイムドローの熱戦を繰り広げた。USタッグ王座は1965年にビル・ワットとのコンビでも、ジン・キニスキー&ワルドー・フォン・エリックを破り再度獲得している。

サンマルチノの最大のライバルとして活躍後の1969年、ザ・シークに襲われたところを、その宿敵サンマルチノに助けられ、彼との「友情ストーリー」を経てベビーフェイスに転向した。「満州出身」のプロフィールは削除され、ペドロ・モラレスがWWWF王者だった期間は、彼の通訳兼マネージャーとして活動。

1976年、モハメド・アリとアントニオ猪木の異種格闘技戦が決定すると(当時WWWFと新日本プロレスは提携関係にあった)、WWWFのリングに登場したアリに乱闘を仕掛け、エアプレーン・スピンを見舞っている。また翌年にはアンドレ・ザ・ジャイアントとボクシング・マッチを行った。1980年、ケン・パテラとのインターコンチネンタル王座と自身の引退を賭けた試合に敗れ、マイケル・シクルナと引退試合を行い、リングを降りた。

引退後

ビンス・シニアとの友情と信頼により、1976年からWWWFの親会社キャピタル・コーポレーション・レスリングの役員を務めていたため、現役時代からバックステージではブッカー / プロデューサーの立場にあった。ブルーザー・ブロディがWWWFを離れたのもマレラと大喧嘩をしたためである(もっとも、ブロディは各地のプロモーターと必ずと言っていいほど軋轢を起こしており、結局それが原因で刺殺された)。

ビンス・マクマホンが父からWWFを買収した際には自身の持株も売り、その後は裏方の業務と並行して眼鏡がトレードマークの冷静な実況アナウンサーを務めるようになる。ジェシー・ベンチュラ、ジョニー・バリアント、ボビー・ヒーナンといった「ヒール解説者」とのコンビで新時代のプロレスを聴覚面で担い、特にヒーナンとのコンビは現在でも史上最高とも評される。

1993年、実況アナの席をWCWから移籍してきたジム・ロスに譲り、裏方に専念。リング上では「WWF会長」に就任した(前任はジャック・タニー)。レッスルマニア12でのブレット・ハートvsショーン・マイケルズのアイアンマン・マッチでは、会長としてサドンデス式延長戦を命じている。また、『Metal』『Superstars』などの番組において、前座試合のコメンテーターとして再び放送席に座ることも度々あった。テレビ画面に最後に登場したのは1999年のレッスルマニア15で、同年10月6日に腎不全により死去。

WWEでは今でも、いつも彼が陣取って指示を出していた入場ゲート裏をゴリラ・ゾーンと呼ぶ(現在この席にはビンス・マクマホンが座っている)。人格者として多くの人に慕われ、2003年のWWE殿堂入り式典では、当年殿堂入りしたボビー・ヒーナンが壇上スピーチで親友モンスーンへの想いを語り、観客の涙を誘った。

ニューヨークで、同じくサンマルチノのライバルとして活躍した、ジャイアント馬場とも親友の間柄であった。そのため、1974年にWWFが新日本プロレスと提携した際も、サンマルチノ同様、馬場との友情関係を理由に新日本への参戦を拒否し、全日本プロレスに出場し続けていた。

獲得タイトル

WWE
  • WWWF USタッグ王座:2回(w / キラー・コワルスキー、ビル・ワット)
  • WWF Hall of Fame:1994年度(プレゼンターはジム・ロス)
その他
  • WWA世界タッグ王座(ロサンゼルス版):2回(w / ルーク・グラハム、エル・モンゴル)
  • IWA世界ヘビー級王座(オーストラリア版):1回
  • WWC北米ヘビー級王座:2回

 
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SUGI
1983/10/6

杉卓也は、日本のプロレスラーである。静岡県袋井市出身。闘龍門X11期生として2003年プロレスデビューを果たした。

その後は、様々なマスクマンで国内外で活動し、現在は、(スギ)としてメキシコの団体・AAAで活動している。

経歴

※主に杉が名乗ったリングネームにおける経歴を古い順に列記する。なお、短期間や単発・不定期のもの、および正体が正式に公表されていないが杉である可能性が濃厚とされるものは別記する。

ミニCIMA

  • 闘龍門JAPANで活動していたCIMA(現:DRAGON GATE所属)のミニ版・ミニCIMAとして、スモールダンディフジ(現:ラッセ)、SUWAシート(現:KAGETORA)、TARUシート(引退)とミニC-MAXを結成する。
  • 本家CIMAに負けず、華麗なファイトのほか、自らのオリジナルホールド、三角跳び式マッドスプラッシュは他団体にも注目視されていた。
  • 闘龍門X解散までヒールスタイルを貫き、団体最終興行も選手全員がセーラーボーイズと踊るなか、一人黙ってポストに座り、最終円陣を組んだ際も一人取り残されたままであった。

遮那王

  • 闘龍門Xが活動を停止し、2004年9月、みちのくプロレスに企画レスラー・MICHINOKUレンジャー金で参戦。
  • 「平安時代からやってきた源義経」をモチーフとする覆面レスラー 遮那王(しゃなおう)となり、みちのく所属選手として再デビューする。
  • 2005年みちのく二人旅トーナメント戦では景虎(現:KAGETORA)と組み、優勝を果たすも表賞式で分裂。後日シングルを組まれるも敗戦する。ファンの一部では「遮那王様」と呼ばれる程の人気を獲得した。

義経

  • 2005年12月、ゲームソフトPS2『義経英雄伝 修羅』の企画にて遮那王から義経(よしつね)へと元服を果たす。
  • 後に新崎人生から元服祝いとして東北ジュニアヘビー級王者TAKAみちのくとの東北ジュニア戦への挑戦権を獲得したが敗戦に終わる。元服時は武蔵坊弁慶のコスプレをした新崎人生とタッグを組んだ。
  • 2006年、プロレスリング・エルドラドへ窓口を移籍し、エル・ブレイザー(後述)としての活動も開始。
  • 2007年、王者GAINAから東北ジュニア王座を奪還。同年のふく面ワールドリーグ戦では獣神サンダー・ライガーを丸め込んで準決勝進出という大金星をあげるも、アトランティスに破れて決勝進出はならなかった。しかしその勢いに乗ってGAINAに挑戦、念願の東北ジュニアヘビー級王座を獲得、第十代王者となる。
  • 性格面の特徴としては、冷静沈着でほとんど喋らない。しかし、上記のライガーから勝利をあげた際は喜びを爆発させ「俺がみちのくを守る!」と絶叫した。それ以来マイクを取るようになる。
  • 2008年、ザ・グレート・サスケと東北ジュニアタッグを奪還。第十一王者組となり、初の東北二冠を達成する。シングル防衛戦にてタッグパートナーであるサスケを破り師匠越えを果たした。その後6度の防衛に成功するが、フジタ"Jr"ハヤトにベルト奪われる。その後タッグ王者からも陥落、さらにケガにより長期欠場、その後は自分を鍛えなおす理由にみちのくのリングを去ることを宣言する。

エル・ブレイザー

  • 2006年、プロレスリング・エルドラドに移籍し、同団体に謎の青い覆面レスラーとして登場。前述の通り、みちのくプロレスでの義経と平行しての活動であった。
  • 当初は背に青い羽根を付けていた。名前のとおり青い炎をイメージしたもので飛び技の時は、飛び散る様子を表現しようとした。しかし試合終了後はリングに散らばってしまい、以降は夏服と称し羽根を装着しなくなった。
  • リング外では遅刻やミラニートコレクションa.t.のダンス練習を邪魔するなど、ある意味問題児扱いされていた。
  • 2007/2/22、自らフリーへの道を選びプロレスリング・エルドラドを退団。ZERO1-MAXを主戦場としSWORD軍の一員として活動。
  • 2008年、望月成晃が持つインターナショナルジュニアヘビー級王座に挑戦する。ミニCIMA時代の技を解禁し優勢だったものの敗退。その後、望月からタッグパートナーとして誘われ、それに応じた。

SUGI

  • 2009年7月、メキシコの団体AAAと契約し、メキシコへと主戦場を移した。新キャラクタースギ (SUGI) として同月12日にデビュー(マスクデザインのルーツは義経)。AAAでは日本のリングに縁のある、オリエンタル、ケンゾー・スズキとルード軍「ラ・ヤクザ」を結成する。ジャック・エバンス、エクストリーム・タイガー、ロッキー・ロメロなどと、AAAクルーザー級の中心に君臨する。
  • 2010年12月には、AAAからの派遣としてプロレスリング・ノアへ逆上陸し参戦する。

その他の経歴

MICHINOKUレンジャー金
みちのくプロレスに2004年に登場。その後は遮那王として同団体で活動。正式には正体が杉卓也と公表されていない。
ハッスル仮面レッド
ハッスルに登場した正義のヒーロー。正式には正体が杉卓也と公表されていない。
リトル・ドラゴン
2005年、dragondoorにて活動。
AHII
全日本プロレスに登場。同団体とサンリオによるコラボ・レスラー。正式には正体が杉卓也と公表されていない。
THE★ZEST
2007年にZERO1-MAXに登場した覆面プロレスラー。正式には正体が杉卓也と公表されていない。
ラビット・ボーイ
2008年2月、PLAYBOY CHANNEL NIGHT 2008に登場したレスラー。正式には正体が杉卓也と公表されていない。
なまず仮面
健介オフィスにて登場。他にも2人いるが、1号などの区別がない。正式には正体が杉卓也と公表されていない。

タイトル歴

義経

  • みちのく二人旅2005年優勝(パートナーは景虎)
  • 東北ジュニアヘビー級王座(第10代)





クラッシャー・クルスチェフ/デモリッション・スマッシュ/リポマン
Krusher Khruschev/Demolition Smash/Repo Man
1959/10/6

バリー・ダーソウBarry Allen Darsow)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ミネソタ州ミネアポリス出身。

来歴

地元ミネアポリスでエディ・シャーキーのトレーニングを受けた後、スチュ・ハートが主宰するカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングにてハワイ行きを打診され、1980年代初頭にハワイでデビュー。以後、ニュージーランドやジョージアなどを転戦し、1984年にクラッシャー・ダーソウのリングネームでビル・ワットのMSWAに登場。同団体にてロシア人ギミックのクラッシャー・クルスチェフ(ロシア語の読みではフルシチョフ)に変身し、ニコライ・ボルコフのパートナーとなって頭角を現す。NWAのフロリダ地区ではジム・ナイドハートとのコンビで同地区認定のUSタッグ王座を獲得した。

1985年よりジム・クロケット・ジュニアの運営するNWAミッドアトランティック地区に参戦し、イワン・コロフ&ニキタ・コロフとザ・ラシアンズを結成して猛威を振るう。ニキタ・コロフと組んでのロード・ウォリアーズとの抗争は、同地区のドル箱カードとなった。1986年にはニキタとのコンビで全日本プロレスに2回来日している。

1987年、WWF(現・WWE)に移籍。ロシア人ギミックを捨てて顔面ペインティングを施し、デモリッション・スマッシュと改名。デモリッション・アックスとのタッグチーム "デモリッション" の一員となり、WWF世界タッグ王座を3回に渡って獲得する。アックスの離脱後はデモリッション・クラッシュをパートナーに、チーム・リーダーとなって活躍した。

1991年のデモリッション解散後は、新ギミックのリポマンに変身(リポマンとは "Repossession Man" の略で、借金を払わない債務者から自動車を盗む集団の俗称)。黒いアイマスクで顔を隠し、入場時も周囲の人目を気にしながらリングイン。凶器も車の牽引ロープやホイールキャップを用いるなど徹底したキャラクター設定のもと、卑劣かつコミカルな中堅ヒールとして悪党人気を集めた。ダーソウ自身も、リポマンのキャラクターを演じることを楽しんでいたという。

1994年にはWCWに登場。ブラックトップ・ブリーBlacktop Bully)のリングネームで主に前座要員として試合を行うが1995年に解雇される。その後は地元ミネソタ州のプロレスリング・アメリカやシカゴのAWFなどインディー団体を転戦。本名のバリー・ダーソウとして、ゴルファーのギミックでWCWにも単発出場した。

2000年9月には日本のインディー「世界のプロレス」に来日。NWAジャパン・ワールド・タッグリーグにおいてビル・アーウィンのパートナーを務め、ビルの兄スコット・アーウィンのギミック「スーパー・デストロイヤー」にあやかり、覆面を被ってスーパー・デストロイヤー21号を演じた。リポマンの名義でも試合を行ったが、コスチュームはブラックトップ・ブリー時代のものだった。

2001年4月1日、レッスルマニアX-Sevenのギミック・バトルロイヤルでリポマンとして久々にWWEに登場。2007年12月10日のRAW15周年大会でのオールドタイマーによるバトルロイヤルにも出場した。近年もインディー団体へのスポット参戦を続けており、2008年2月29日にはチカラで行われた6人タッグマッチのトーナメントに、アックス&ワンマン・ギャングとの "チームWWF" として出場している。

獲得タイトル

クラッシャー・クルスチェフ
  • ミッドサウスTV王座:1回(初代王者)
  • NWA USタッグ王座(フロリダ版):1回(w / ジム・ナイドハート)
  • NWAミッドアトランティック・ヘビー級王座:1回
  • NWA USタッグ王座(ミッドアトランティック版):1回(w / イワン・コロフ)
  • NWA世界タッグ王座:2回(w / ニキタ・コロフ)
  • NWA世界6人タッグ王座:2回(w / イワン&ニキタ・コロフ)
デモリッション・スマッシュ
  • WWF世界タッグ王座:3回(w / デモリッション・アックス)
  • GLCWタッグ王座:1回(w / デモリッション・アックス)
  • USXWタッグ王座:1回(w / デモリッション・アックス)
リポマン
  • IAWタッグ王座:1回(w / ポール・ローマ)





トミー青山
1958/10/6 - 2011/7/19

元女子プロレスラー。本名・冨高 千賀子。三重県出身。

人物

中京大学を中退して全日本女子プロレスに昭和52年組として入門。メキシコ遠征を経験して、空中技を中心に多くの技をマスターした。

ルーシー加山とのタッグ「クイーン・エンジェルス」として活躍し、レコード「ローリングラブ」をリリースした。

リングネームは苗字から「トミー」、「青山」は全女の経営者である松永兄弟が青山で飲んでいた際に思いついたのが由来。

新人時代のライオネス飛鳥が付き人をしていた。

引退後は結婚して2児の母となったが、離婚。

2011年7月19日、食道癌のため死去。

経歴・戦歴

1977年
  • 9/5、大宮ステートセンターにて対塙せい子戦でデビュー。
1980年
  • 8月、右膝の故障のため引退。
2007年
  • 3月11日、ジャガー横田30周年記念興行にて30人ミラクルバトルランブルで他の全女OGらとともに参戦。

獲得タイトル

  • オールパシフィック王座
  • WWWA世界タッグ王座(パートナーはルーシー加山)

出演

  • 探偵物語 第10話「夜の仮面」(1979年、日本テレビ)ルーシー加山とともにレスラー役として出演

  



ブルーノ・サンマルチノ
Bruno Sammartino
1935/10/6

1960年代から1970年代を全盛期に、アメリカ合衆国で活躍したプロレスラー。本名ブルーノ・レオパルド・フランチェスコ・サンマルチノBruno Laopardo Francesco Sammartino)。イタリア・アブルッツォ州キエーティ県ピッツォフェッラート出身。

無類の怪力とタフネスを誇り、「人間発電所」の異名を持つ。長期に渡ってWWWF世界ヘビー級王者に君臨し、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンに出場し続けたことから「MSGの帝王」とも呼ばれた。

来歴

  • 1935年10月6日 - イタリアの大工の家に生まれる。
  • 1951年 - 一家揃ってアメリカ・ペンシルベニア州ピッツバーグに移住。
  • 1953年から1955年まで兵役に就く。除隊後は建設労働者として働いていた。
  • 1959年 - 東部地区でプロレスラーとしてデビュー。
  • 1962/11/22 - カナダ・トロントでジョニー・バレンタインを破り、NWA・USヘビー級王座を獲得。
  • 1963/5/17 - ニューヨークのMSGでバディ・ロジャースを48秒で破り、第2代WWWF世界ヘビー級王者となる。
  • 1964/2/17 - MSGでWWWF王座の防衛戦を行う。2度目の武者修行で全米をサーキット中であったジャイアント馬場(ババ・ザ・ジャイアント)の挑戦を受け、バックブリーカーで勝利を収めた。
  • 1967年3月 - 初来日し、日本プロレスに参戦。馬場のインターナショナル・ヘビー級王座に連続挑戦する。結果は2回とも馬場の防衛。
  • 1968/8/7 - 日本プロレスに再来日し、馬場のインターナショナル・ヘビー級王座に再度挑戦。結果は馬場の防衛。
  • 1968/8/9 - レイ・スティーブンスと組んでBI砲(馬場&アントニオ猪木)のインターナショナル・タッグ王座に挑戦するが敗退。これがサンマルチノにとってはシングルとタッグを含めて唯一の猪木とのタイトル戦。
  • 1971/1/18 - イワン・コロフに敗れてWWWF王座から転落する。在位期間は7年8ヶ月。
  • 1971/6/18 - ドミニク・デヌーチと組んでザ・モンゴルズ(ジート&ベポ)からWWWFインターナショナル・タッグ王座を奪取。
  • 1971/11/25 - 馬場のインターナショナルヘビー級王座に最後の挑戦。結果は馬場の防衛。
  • 1972/9/30、ニューヨークのシェイ・スタジアムで開催された "Showdown at Shea" にて、ペドロ・モラレスのWWWF王座に挑戦。23時までに興行を終了しなければならないニューヨーク市の条例(カーフュー)により引き分け。
  • 1972年10月 - 全日本プロレスの旗揚げシリーズに参戦。世界選手権争覇戦(後に「PWFヘビー級王座争覇戦第一戦」となる)で馬場と対戦。
  • 1973年10月 - 凱旋帰国した鶴田友美(ジャンボ鶴田)の国内デビュー戦でタッグパートナーを務める。
  • 1973/7/21 - インディアナポリスのWWAにてディック・ザ・ブルーザーと組み、アーニー・ラッド&バロン・フォン・ラシクからWWA世界タッグ王座を奪取(翌1974/1/5、バリアント・ブラザーズに敗れるまで保持)。
  • 1973/12/10 - スタン・ステイジャックを破り第6代WWWFヘビー級王者に返り咲く。
  • 1975年5月 - 自らのWWWF王座もかけて、馬場の持つPWFヘビー級王座に挑戦。
  • 1976/4/26 - スタン・ハンセンとのWWWF王座防衛戦で、ハンセンの放ったボディスラムで脳天からリング上に落下、ケイ椎を損傷する重傷を負う(試合はストップされず、その後もサンマルチノは戦い続けたものの、額から流血しているのをレフェリーが確認して試合を止めた)。
  • 1976/6/25 - "Showdown at Shea" の第2回大会に出場、負傷した首が完治しないままスタン・ハンセンとのリマッチに臨み、場外カウントアウトで勝利。同日はアントニオ猪木vsモハメド・アリの異種格闘技戦がクローズドサーキット方式で衛星生中継されたが、チケットの売れ行きが芳しくなかったためにビンス・マクマホン・シニアがサンマルチノに出場を依頼した。
  • 1977/4/30 - スーパースター・ビリー・グラハムに敗れてWWWF王座陥落。
  • 1978/5/5 - プエルトリコのWWCにてゴリラ・モンスーンを破りWWC北米ヘビー級王座を獲得、同年7月22日にモンスーンに奪回されるまで保持。
  • 1980/8/9 - "Showdown at Shea" の第3回大会にて、かつての愛弟子ラリー・ズビスコとスチール・ケージ・マッチで対戦。
  • 1981年10月 - 引退を表明、全日本プロレスの創立10周年記念興行に来日し、10/9に馬場とのコンビでタイガー・ジェット・シン&上田馬之助と対戦。これが事実上の引退試合となる。
  • 1984年9月 - TVショー "Superstars of Wrestling" のカラー・コメンテーターとしてWWFに復帰。
  • 1985/5/20 - リングに一時復帰。息子のデビッド・サンマルチノと組み、MSGでブルータス・ビーフケーキ&ジョニー・バリアントと対戦。その後WWFではロディ・パイパーやホンキー・トンク・マンとの抗争も行われた。
  • 1986/4/7 - レッスルマニア2(シカゴ大会)でのバトルロイヤルに出場。サンマルチノの選手としてのレッスルマニア出場は、この第2回大会のみである(前年の第1回大会にはブルータス・ビーフケーキと対戦したデビッド・サンマルチノのセコンドとして登場)。
  • 1988年3月 - WWFを離脱。WWFでの最後の試合は1987/8/29、ハルク・ホーガンとタッグを組んでのキングコング・バンディ&ワンマン・ギャング戦。
  • 1989/10/28 - WCWのPPV "Halloween Havoc" にて、サンダードーム・ケージ・マッチ(リック・フレアー&スティングvsテリー・ファンク&グレート・ムタ)のスペシャルレフェリーを務めた。
  • 1999/5/2 - 全日本プロレスの東京ドーム大会に来日。ジャイアント馬場「引退試合」に友人(兼対戦相手)として参列。
  • 2001年 - 故郷に銅像が建立され、自らの名前がついた記念体育館が建設される。

ジャイアント馬場との関係

ジャイアント馬場とはレスラーとしてのキャリアは1年しか違わず、若手時代からの友人であり出世を誓い合った最大のライバルの一人であった。その後両者ともに出世し、時期は違えど世界王座奪取を成し遂げて、お互いに世界王者の立場で対戦したことが何度かある。しかし、ダブルタイトルマッチは1975年5月(PWFとWWWF)の1回きりで、それ以外はお互いに相手の保持するタイトルに挑戦していた(もっぱらサンマルチノが馬場の持つ王座に挑戦する形であった)。

馬場が全日本プロレスを旗揚げするときに、アメリカで真っ先に相談に行ったのはどの地区のプロモーターでもなく、サンマルチノであった。

WWWFは全日本プロレスと友好関係にあったが、1974年に新日本プロレスと提携した際も、馬場との友情関係を理由に新日本への参戦を拒否し、全日本プロレスに出場し続け、WWWFとPWFのダブルタイトルマッチの実現に至っている。提携の際、サンマルチノとアントニオ猪木の試合が計画されていたが、参戦拒否を受けてこれも実現しなかった。

サンマルチノが引退後に新団体IWFを旗揚げした際、馬場はIWFの若手レスラーを日本へ呼ぶなど積極的に協力している。しかし、馬場の協力はあったもののIWFはWWFとの興行戦争に破れ崩壊している。

サンマルチノはキャデラックを愛車としていて、馬場もそれに倣った(1990年9月放送の馬場デビュー30周年記念特番において「窮屈そうに国産車に乗っていた俺の姿を見たサンマルチノがキャデラックをプレゼントしてくれたんだ」と馬場自ら語った)。そして馬場は車を買い換えるときには常に同じ色・型のキャデラックを選び続けた。

1999/5/2、サンマルチノは馬場没後の「引退試合」の際に、最後の対戦相手としてジン・キニスキーと共に指名され来日。「ババ、君に挨拶するために来た。君は体だけじゃなく、心もジャイアントだった。君はすべての人に愛され、大切にされた素晴らしい人物だった。今日この場にいられることを嬉しく思う」とスピーチした。

人物

  • スタン・ハンセンによると、ニューヨークでキャリアを築いていくにあたり、色々と親身に相談に乗ってくれたのがサンマルチノであり、それはハンセンがボディスラムのかけ損ないでサンマルチノに大怪我をさせてからも変わらなかったという。
  • 初来日時、一緒に来日していた怪力黒人レスラーのセーラー・アート・トーマス("Sailor" Art Thomas)に対し「黒人とタッグを組むのは嫌だ」と差別的な発言を行い、怒ったトーマスの要求で2人のシングル戦が組まれたという(真偽は不明)。結果はサンマルチノの勝利(原康史『激録 馬場と猪木』による)。
  • 1970年代以降はカツラを着用しており、試合中に相手レスラーから頭部を掴まれることを極端に嫌っていた。その当時、既にトップレスラーとして不動の地位を確立していたサンマルチノに対しては、暗黙の了解として御法度の技が存在した(カツラが外れる怖れのあるヘッドロックなど)。もっとも、この頃全日本に登場したサンマルチノに対し、馬場は遠慮無く脳天チョップを放っているが、これによって2人の友情が壊れるようなことはなかった(当時はインターネットなどなく、日本でカツラが脱げたとしてもそれがニューヨークに報じられる可能性はまったくなかった)。
  • サンマルチノはニューヨークマットの第一人者として東海岸テリトリーだけでなく、NWA世界王者のルー・テーズやAWA世界王者のバーン・ガニアと並ぶアメリカンプロレスの英雄としてもその名を高く知られた。
    その功績からWWE殿堂に迎えられて然るべき人物だが、ビンス・マクマホンとの絶縁状態が続いているため、WWE側からの再三に渡る要請にも一切応じようとせず、現在まで殿堂入りは実現していない。

獲得タイトル

NWA
  • NWA USヘビー級王座(トロント版):1回
  • NWAインターナショナル・タッグ王座(トロント版):1回(w / ホイッパー・ビリー・ワトソン)
WWWF
  • WWWF世界ヘビー級王座:2回
  • WWWFインターナショナル・タッグ王座:2回(w / ドミニク・デヌーチ、トニー・マリノ)
  • WWWF USタッグ王座:1回(w / スパイロス・アリオン)
その他
  • GPWタッグ王座:1回(w / エドワード・カーペンティア)
  • WWA世界タッグ王座:1回(w / ディック・ザ・ブルーザー)
  • WWC北米ヘビー級王座:1回
















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