本文へスキップ
 



5,000本以上の動画から
キーワード検索!

Google

WWW を検索
"極め”内検索
重要なお知らせ
2010/8月以降おまとめは休止しました。
動画検索はキーワードで!!


リンク切れ、レンタル、
お探し中などの問い合わせ

プロレス/格闘技
誕生日/忌日
10/12

新着(ニュース、興行・結果、Youtube動画)
今日は何の日?


サムソン・クツワダ
1947/5/1 - 2004/10/12

北海道江別市出身で朝日山部屋所属の元大相撲力士、日本プロレスおよび全日本プロレス所属の元プロレスラー。本名は轡田友継(くつわだ ともつぐ)。四股名は二瀬海(ふたせうみ)、最高位は幕下23枚目。プロレスラー時代は身長190cm、体重120kg。

来歴

1962年1月場所に轡田の四股名で初土俵、1964年1月場所に二瀬海に改名したものの伸び悩み、幕下23枚目の番付となった1967年9月場所限りで廃業した。ちなみに、9月場所は休場で、実質土俵を務めたのは7月場所限り。

大相撲の廃業後、1967年8月に日本プロレスへ入門しジャイアント馬場の付き人となった。1972年10月には全日本プロレスの旗揚げに参加。韓国遠征ではマスクをかぶって覆面レスラーとなりタイガーマスクのリングネームで人気を博し、オーストラリア遠征ではグレート・トージョー(東条)のリングネームで活躍した。

1976年10月には高千穂明久(後のザ・グレート・カブキ)とのコンビでアジアタッグ王座を奪取、グレート小鹿と大熊元司の極道コンビなどを相手に2回の防衛に成功した(高千穂もオーストラリア遠征経験者だったので豪州コンビとよばれた)。シングルでもチャンピオン・カーニバルに再三出場しており、全日本期待の若手の一人であった。

1977年にはジャンボ鶴田とともに新団体設立に動いたが、それが発覚して全日本プロレスを解雇された(この裏事情は解雇当時は公表されず、平成になってからカブキのインタビューで明らかになった)。

2004年10月12日、急性骨髄性白血病のため死去。





ロニー・牛若
1986/10/12

ロニー・マンRonnie Mann)は、イギリス出身の総合格闘家。チーム・トロージャン所属。

父親がイギリス人、母親がタイ人のハーフである。牛若丸(源義経)のような機敏な動きから、SRCではロニー・牛若のリングネームを使用し、キャッチフレーズは「義経降臨」。なお、リングネームの「牛若」の由来は同じジム所属のゼルグ・"弁慶"・ガレシックと練習で戦って勝ったことから付けられた。

来歴

2007年2月10日、Cage Rage 20でアシュリー・グリムショーに判定勝ちし、Cage Rage白星デビューを飾った。

2007年7月14日、Cage Rage 22でロビー・オリヴィエの持つ英国フェザー級王座に挑むも、0-3の判定により敗れ、総合格闘技での初の敗北となった。

2009年3月20日、戦極初参戦となった戦極 〜第七陣〜のフェザー級グランプリ1回戦で山田哲也と対戦し、判定勝ち。リングネームロニー・牛若での参戦となった。

2009年5月2日、戦極 〜第八陣〜のフェザー級グランプリ2回戦で日沖発と対戦し、三角絞めで一本負けを喫した。

2009年11月7日、戦極 〜第十一陣〜で大澤茂樹と対戦し、3-0の判定勝ちを収めた。

2010年9月11日、Shark Fightsでダグ・エヴァンスと対戦し、2-1の判定勝ちを収めた。


 
広告


ジェイミー・ヴァーナー
Jamie Varner
1984/10/12

アメリカ合衆国の総合格闘家。アリゾナ州フェニックス出身。アリゾナ・コンバット・スポーツ所属。元WEC世界ライト級王者。

来歴

大学時代にレスリングの全米選手権で準優勝を収めたほか、ボクシングでもカレッジ王者に就く。総合格闘技には2003年から出場し主戦場であったローカルプロモーションRage in the Cageでは王座を獲得している。

2006年8月26日、UFC 62でUFC初出場。エルメス・フランカに一本負けを喫した。

2007年3月3日、UFC 68でジェイソン・ギリアムにチョークスリーパーで一本勝ちしUFC初勝利を飾る。その後WECに移籍し8/5、WEC 29でシェロン・レゲットにTKO勝利を収めた。

2008年2月13日、WEC 32でロブ・マックローと対戦、TKO勝利でWECライト級王者に就く。8月3日にはWEC 35でのマーカス・ヒックスに勝利し、初防衛に成功した。

2009年1月25日、WEC 38でドナルド・セラーニと対戦、5Rにセラーニに反則であるグラウンドでの膝蹴りを受け試合続行不可能となり、その時点までの判定で2-1の勝利を収め2度目の防衛を果たした。

2010年1月10日、WEC 46で暫定王者ベン・ヘンダーソンとWEC世界ライト級王座統一戦で対戦し、3ラウンドにタックルを仕掛けたところにカウンターのギロチンチョークで一本負けを喫し王座から陥落した。6月20日、WEC 49でカマル・シャロルスと対戦、金的攻撃によるシャロルスの減点もあったがドローに終わる。12月16日、WEC最終興行となったWEC 53でシェーン・ローラーと対戦し、チョークスリーパーで一本負けを喫した。

獲得タイトル

  • 第5代WEC世界ライト級王座





石川英司
1979/10/12

日本の総合格闘家。千葉県千葉市出身。GRABAKA所属。千葉県立佐倉南高等学校卒業。法政大学中退。

GRABAKAの第二世代の筆頭であり、バックボーンであるレスリングを基盤とした、バランスのよいファイトスタイルを持つ。同チームでは珍しいパワーファイター。得意技はパウンド。

来歴

プロレスラーに憧れ、高校入学と同時にレスリングを始めた。

2002年6月9日、『DEEP 5th IMPACT』の初代ミドル級トーナメントに出場。1回戦では長南亮に判定勝ち。準決勝で窪田幸生に判定負けしたものの、窪田が決勝を棄権したため、決勝に進出。決勝では上山龍紀にアンクルホールドで一本負け。

2003/5/5、『DEEP 9th IMPACT』で桜井隆多と対戦し、マウントポジションからのパウンド連打でTKO勝ち。

2003/7/27、パンクラスで門馬秀貴と対戦し、判定勝ち。

2004/6/22、パンクラスでネイサン・マーコートと対戦し、引き分けに終わる。

2004/12/21、パンクラスで中西裕一と対戦し、判定勝ち。この試合を最後に怪我による長期欠場を余儀なくされた。

2006/12/20、2年ぶりの復帰戦となった『DEEP 27 IMPACT』でデウソン・ヘレノと対戦し、判定負け。

2007/2/16、『DEEP 28 IMPACT』でヘクター・ロンバードにパンチでTKO負けを喫するが、「レフェリーが試合を早く止めすぎた、反則である後頭部への打撃があった」とGRABAKA勢が抗議し、主催者側はこれを認めるも結果は覆らなかった。石川本人も不満を口にしている。

2009/12/19、DEEP初のケージ大会となったDEEP CAGE IMPACT 2009で渡辺良知と対戦し、2-0の判定勝ちを収めた。

2010/4/11、CAGE FORCEのメインイベントで宮澤元樹と対戦し、3-0の判定勝ちを収めた。

2011/2/6、6年ぶりの参戦となったパンクラスで鳥生将大と対戦し、2-0の判定勝ちを収めた。

2011/7/16、DREAM初参戦となったDREAM JAPAN GP FINALでマリウス・ザロムスキーと対戦し、判定負け。

獲得タイトル

  • 第9回 コンプリートファイティング クルーザー級 優勝
  • 第6回 全日本アマチュア修斗選手権 ライトヘビー級 準優勝





エル・イホ・デル・リスマルク
El Hijo del Lizmark
1972/10/12

メキシコ・ゲレーロ州アカプルコ出身のプロレスラー。本名はファン・カルロス・バニョスJuan Carlos Baños)。

来歴

父は『アカプルコの青い翼』異名を持ったリスマルク。父の元で2年間ルチャの修行を積み、1991/7/1、グアナフアト州レオンにてデビュー。当初は "El Hijo del ?" として誰の息子であるかを伏せていたが、8/16のアレナ・メヒコでリスマルクの息子であることを公表し、エル・イホ・デル・リスマルクリスマルク・ジュニア)と名乗る。

1991年『ボクス・イ・ルチャ』誌の最優秀新人賞受賞、翌年2月父と共にAAAに移籍。その後CMLL、WCW、プロモ・アステカを経て現在はフリー。

2000年はCMLL JAPANに初来日。2003年にはZERO-ONEにドス・カラス・ジュニアと共に参戦し、小川直也とも対戦した。

2005年7月、メキシコ版G1 CLIMAXの『レジェンダ・デ・アズル』(Leyenda de Azul / 青い伝説)に優勝。同年8月と9月には新日本プロレスに来日している。

2007/6/28、コントラ・マッチでブルー・パンテルに敗れてマスクを脱ぎ、以降は素顔のルードとなって活動。


  



エミリオ・チャレス・ジュニア
Emilio Charles, Jr.
1956/10/12

セルジオ・エミリオ・チャレス・ガルドューニョSergio Emilio Charles Garduño)は、メキシコ・ヌエボ・レオン州モンテレイ出身のプロレスラー。

来歴

エミリオ・チャレスの実子で1980年2月にハリスコ州グアダラハラでデビュー。1980年代はEMLLなどでトニー・エース、ベルカーノで「ロス・デストラクトレス」を結成。1988/1/31には「ロス・デストラクトレス」でピラタ・モルガン、ジェリー・エストラダ、オンブレ・バラ組を破りナショナルトリオ王座を奪取。7/17にはアトランティスを破りNWA世界ミドル級王座を奪取。以降アトランティスとは同年9月までNWA世界ミドル級王座のベルト賭けて死闘を繰り返す。

1990年代はショッカー、スコルピオ・ジュニア等で「ロス・ガポス」(のちにメンバーの入れ替えて「タリバネス」と改称)を結成。8/30にハビアー・クルーズを破りナショナルミドル級王座奪取。1993/5/12にはエル・ダンディを破りCMLL世界ミドル級王座を奪取。1995/3/31にCMLL世界トリオ王座奪取。(以降1997年3月にも同ベルト奪取)1997/8/29にCMLL世界タッグチーム王者決定トーナメントで決勝でドクトル・ワグナー・ジュニアと組んでザ・ヘッドハンターズを破り優勝しベルト奪取。2001/3/18にリンゴ・メンドーサを破り再びCMLL世界ミドル級王座を奪取。

日本ではSWSや新日本プロレスに参戦している。現在はIWRGを主戦場にしている。

獲得タイトル

  • CMLL世界ミドル王座
  • CMLL世界トリオ王座:2回(w/ サングレ・チカーナ&ベスティア・サルバヘ、エル・サタニコ&レイ・ブカネロ)
  • CMLL世界タッグチーム王座:2回(w/ ドクトル・ワグナー・ジュニア)
  • ナショナルミドル級王座
  • ナショナルトリオ王座
  • NWA世界ミドル級王座
  • 連邦区ヘビー級王座





ダスティ・ローデス
Dusty Rhodes
1945/10/12

ヴァージル・ラネルズ・ジュニアVirgil Riley Runnels, Jr.)は、アメリカ合衆国の元プロレスラー、現WWEプロデューサー。

人物

テキサス州オースティン出身。ニックネームはアメリカン・ドリームThe American Dream)。日本での異名は獣戦車(それ以前は“極道”)。「俺は配管工の息子から成り上がったんだ」が決め台詞。コテコテの南部訛りでのマイクパフォーマンスを得意とする。

日本ではダスティ・ローデスと表記されるが、正式にはダスティ・ローズと発音する(プロ野球選手のタフィ・ローズと同じスペル)。

130kgを越える巨体であったが動きは素早く、コミカルなショーマン・スタイルの第一人者として、1970年代から1990年代にかけて絶大なベビーフェイス人気を獲得した。しかし元々は喧嘩ファイトを得意とするラフファイターであり、ブルロープ・マッチをはじめデスマッチ形式の試合でも数々の流血戦を演じた。

実子のダスティン・ラネルズもプロレスラー(ダスティン・ローデス、ゴールダスト、ダスティ・ローデス・ジュニアなどのリングネームで知られる)。2006年から末子のコーディ・ローデスもプロレス界入りした(ダスティンとは異母兄弟)。

来歴

ウエスト・テキサス州立大学(現ウェスト・テキサスA&M大学)ではアメリカンフットボールの選手として活躍していた(同期にブルーザー・ブロディ、ボビー・ダンカン。ザ・ファンクスは大学の先輩、スタン・ハンセンとテッド・デビアスは大学の後輩)。

ジョー・ブランチャードのコーチを受け、1968年にテキサス州サンアントニオでプロレスラーとしてデビュー。その後、セントラル・ステーツ地区で同じテキサス出身のディック・マードックとタッグチーム「ジ・アウトローズ」を結成し、NWAとAWAの両テリトリーを股に掛けて活躍。日本には1971年11月に国際プロレスに初来日。以降、全日本プロレスと新日本プロレスに参戦した。

AWAではマードックとのコンビでディック・ザ・ブルーザーとクラッシャー・リソワスキーの元祖・極道コンビと抗争を展開。"ダーティ" ダスティ・ローデス"Dirty" Dusty Rhodes)の異名を持つテキサスの荒くれ極道としてヒール人気を高めた。

ジ・アウトローズ解散後の1973年下期、エディ・グラハムが主宰するNWAフロリダ地区のCWF(Championship Wrestling from Florida)に参戦。当初はAWA時代と同じくヒールのポジションだったが、マネージャーのゲーリー・ハート、パートナーのパク・ソンとの仲間割れを機に、1974年5月よりベビーフェイスに転向する。

以降は1980年代半ばまで約10年間に渡ってCWFを主戦場とし、南部のヒーロー的存在となってフロリダ・ヘビー級王座を通算11回、南部ヘビー級王座を通算7回獲得。テリー・ファンク、モンゴリアン・ストンパー、アーニー・ラッド、キング・イヤウケア、ザ・シーク、オックス・ベーカー、キラー・カール・コックス、キラー・カール・クラップ、ブラックジャック・マリガン、ザ・スポイラー、ボブ・ループ、ボブ・オートン・ジュニア、ジョー・ルダック、イワン・コロフ、ニコライ・ボルコフ、バロン・フォン・ラシク、ミスター・サイトー、ディック・スレーター、アレックス・スミルノフ、ブルーザー・ブロディ、ビッグ・ジョン・スタッド、アブドーラ・ザ・ブッチャー、マーク・ルーイン、ケビン・サリバン、エイドリアン・ストリート、ザ・グレート・カブキ等々、名立たるヒール勢を迎え撃った。

フロリダではマードックとジ・アウトローズを再結成したこともあるが、ヒールのマードックを敵に回してシングル対決も行っている。また、ルーザー・リーブス・タウン・マッチに敗れたというアングルの後、マスクを被ってミッドナイト・ライダーThe Midnight Rider)やウバルデ・スリムUvalde Slim)などと名乗り、一時的に覆面レスラーに変身したこともある。体型やファイトスタイルで正体は一目瞭然であり、対戦相手のヒールを撹乱し、ファンを楽しませるための演出だった。

1977年にはニューヨークのMSGでスーパースター・ビリー・グラハムのWWF世界王座に連続挑戦。以降もMSG定期戦にはスペシャル・ゲストの立場で何度となく出場し、スパイロス・アリオン、スタン・ステイジャック、ユーコン・ピエール、ジミー・バリアント、トーア・カマタ、キラー・カーン、アンジェロ・モスカらと対戦(1979/12/17の定期戦では王者ハーリー・レイスVS挑戦者ローデスのNWA世界ヘビー級タイトルマッチも行われた)。1978/3/20にはアンドレ・ザ・ジャイアント&ミル・マスカラスと超豪華トリオを結成、ケン・パテラ、トール・タナカ、ミスター・フジ組を破っている。 

1979/8/21、フロリダ州タンパでハーリー・レイスを破り第53代NWA世界ヘビー級王者となるが、5日後オーバー・ザ・トップロープによる反則負けで王座転落(アメリカのルールではトップロープを越えて場外に相手を落とすのは反則である。普通反則負けでは王座は移動しないが、時折特別ルールとして「反則でも王座移動」となることがあった)。その後1981/6/21に再びレイスから(第61代)、1986/7/26にはリック・フレアーから同王座を奪取し(第69代)、計3回に渡って載冠している。1985年頃からはジム・クロケット・ジュニアの運営するノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区でプロデューサーも兼任するようになり、数多くのイベントや試合形式、レスラーのギミックなどを企画した。

1989年から約2年間、WWF(現・WWE)と契約。黒人女子レスラーのサファイアをマネージャーに従え水玉模様のリングコスチュームを身にまとい、テッド・デビアス、ランディ・サベージ、ホンキー・トンク・マン、ビッグ・ボスマンらと抗争した。1990年代はWCWのプロデューサーに就任、一時期は事実上の引退状態だったが、nWoのメンバーでもあった。

WCW崩壊後は各地のインディー団体に出場し、2003年からはTNAのプロデューサーに就任(レスラーとしても活動)。2004年には息子と共にハッスルに参戦した。TNA離脱後、2005年にWWEとレジェンド契約を交わし、現在はWWEのプロデューサー・脚本家として裏方で活躍する一方、時折リング上に姿を見せることもある。2007年にはWWE Hall of Fameに迎えられた(プレゼンターは息子のダスティンとコーディ)。

ローデスのパフォーマンスとして有名なのが「尻振りダンス」である。これは相手を倒した後、尻を左右にクリッ、クリッと振る動作で、アメリカでこれをやると観客は沸いたが、これを見たジャイアント馬場が、「こんなのが流行るのだから、アメリカというのはわからん国だ」と呆れていたという。

日本での活躍

初来日は前述のように1971年11月の国際プロレス。この時はストロング小林のIWA世界ヘビー級王座に挑戦しているが0-2で敗れている。その後1973年6月にディック・マードックとのジ・アウトローズとして再来日。ラッシャー木村&グレート草津のIWA世界タッグ王座に挑戦した。

1975年11月には全日本プロレスに登場。マードックとのコンビでジャイアント馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦し、そのまま2人とも残留してオープン選手権に参加した。国際プロレスの常連外国人で同じくオープン選手権に参加したホースト・ホフマン、バロン・フォン・ラシクはそのまま全日本の常連になったが、ローデスが全日本に来たのはこれが最初で最後だった。開幕戦の日本では最初で最後となったハーリー・レイス戦は、日本でのベストバウトと言われている。馬場はローデスをあまり評価していなかったらしく「レスラーとしては何から何までマードックの方が上」と語っている 。

1979年10月には新日本プロレスに初参戦し、アントニオ猪木のNWFヘビー級王座に挑戦。ローデスと新日本とのスタイルの違いを懸念する声もあったが、新日本がWWFとの提携でアメリカ色が強くなっていた時期でもありアメリカ同様に日本でもファンの支持を獲得、以降も新日本の常連外国人となり、平成に入るまで来日を続けた。アメリカでの活動が多忙のため1週間程度の特別参加が多く、シリーズを通しての参戦は困難だったものの、MSGシリーズにおけるアンドレ・ザ・ジャイアントやスタン・ハンセンとの対戦、マードックとのアウトローズ復活、息子ダスティン・ラネルズとの親子タッグなど数々の名場面を残した。

獲得タイトル

  • NWA世界ヘビー級王座:3回
  • NWA世界タッグ王座(デトロイト版):1回(w / ディック・マードック)
  • NWA北米タッグ王座(セントラル・ステーツ版):3回(w / ディック・マードック)
  • NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座:1回
  • NWAアメリカン・タッグ王座:2回(w / バロン・フォン・ラシク、ディック・マードック)
  • NWAブラスナックル王座(テキサス版):2回
  • NWA USヘビー級王座(サンフランシスコ版):1回
  • NWA北米ヘビー級王座(ハワイ版):1回
  • NWA北米ヘビー級王座(トライステート版):1回
  • NWA USタッグ王座(トライステート版):1回(w / アンドレ・ザ・ジャイアント)
  • NWAジョージア・ヘビー級王座:1回
  • NWAナショナル・ヘビー級王座:1回
  • NWF世界タッグ王座:1回(w / ディック・マードック)
  • IWA世界タッグ王座(オーストラリア版):1回(w / ディック・マードック)
  • NWAミッドアトランティック・タッグ王座(インディー版):1回(w / バフ・バグウェル)
  • WCW Hall of Fame:1995年度
  • WWE Hall of Fame:2007年度
チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
  • NWAブラスナックル王座(フロリダ版):2回
  • NWA南部ヘビー級王座(フロリダ版):7回
  • NWAフロリダ・ヘビー級王座:11回
  • NWAフロリダ・タッグ王座:4回(w / ディック・マードック、ディック・スレーター、ボボ・ブラジル、アンドレ・ザ・ジャイアント)
  • NWAフロリダ・グローバル・タッグ王座:1回(w / マグナムT.A.)
  • NWAフロリダ・バハミアン王座:1回
  • NWAフロリダTV王座:2回
  • NWA USタッグ王座(フロリダ版):2回(w / バグジー・マグロー、ブラックジャック・マリガン)
ジム・クロケット・プロモーションズ
  • NWA USヘビー級王座:1回
  • NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版):2回(w / ディック・スレーター、マニー・フェルナンデス)
  • NWA世界6人タッグ王座:2回(w / ロード・ウォリアーズ)
  • NWA世界TV王座:2回






ミスター珍
1932/10/12 - 1995/6/25

ミスター珍


日本のプロレスラー。

本名は、出口 雄一(でぐち ゆういち)。兵庫県宝塚市出身。身長168cm、体重83kg(全盛期)。

くちひげがトレードマーク。プロレス界から離れていた一時期、テレビタレントや俳優としても活動した。

経歴

現役前期時代(国際柔道協会・全日本プロ協会・日本プロレス)

兵庫県警察の機動隊に勤務し柔道の選手として活躍した後、木村政彦や山口利夫が立ち上げた国際柔道協会(プロ柔道)に参加。その後、山口利夫と行動を共にし全日本プロレス協会に参加、P・Y・チャン(トージョー・ヤマモト)とのタッグで人気を呼ぶも、同団体は興行に失敗し崩壊。1955年に日本プロレスへ入団した。チャイナ服を着た中国人スタイルや日の丸に神風と書かれた鉢巻を締める和風スタイルで、下駄を凶器として使用する悪役レスラーとして一世を風靡した。知名度が上がったこの時期、テレビタレントや俳優としても活動するようになり、1971年に日本プロレスを退団。

現役中期時代(国際プロレス)

胃潰瘍の手術の影響で事実上引退したと思われていたが、国際プロレスに参戦し現役復帰。この時期に初のアメリカ遠征を経験し、テネシー州でトージョーと再会しアメリカ南部地区を転戦して人気を博し、テキサス州にて同州認定世界タッグ王座を獲得する。カナダではミスター・ヨトとして活躍。凱旋帰国の際もミスター・ヨトとして外人側で出場した。1980年には鶴見五郎と大位山勝三の「独立愚連隊」のマネージャー役も務めた。しかし、国際プロレスは1981/8/9の北海道・羅臼大会で活動を中止したため、再び事実上引退した(この時の対戦相手は冬木弘道)。

その後、「現役最古参・最高齢レスラー」という肩書きで、週刊プロレスにコラムを連載した。

晩年時代(FMW)

1993/7/16、60歳を超える高齢でFMWに参戦し、正式デビューを控えた練習生の田中正人(現:田中将斗)と対戦(田中の正式デビュー戦は1993/7/23のリッキー・フジ戦)。突如現役復帰を果たし、日本人現役最高齢レスラーとなった。

第一級身体障害者に認定される程、重度の糖尿病を長年患っており、人工透析を頻繁に受けなければ生命の維持が困難な身体であるとマスコミで公表。度々、現役の引退と復帰を繰り返した原因であることを明かした。大仁田厚の厚意で、人工透析を続けながらイレギュラーでFMWの前座試合に参加。孫のような世代の若手選手を相手に、全盛期の下駄以外にもゴムを凶器として使用するコミカルな試合を展開し、ミスター珍の全盛期を知らない若い世代のファンも喜ばせていたが、病状が悪化し、1995年6月25日に慢性腎不全により死去。62歳没。

死後、そのレスラーとしての壮絶な半生が驚きももの木20世紀で特集された。

獲得タイトル

  • テキサス州認定世界タッグ王座

出演作

映画

  • こんにちは赤ちゃん(1964年、日活)
  • 暗黒街全滅作戦(1965年、東宝)
  • 昭和残侠伝 一匹狼(1966年、東映) 他

テレビドラマ

  • 忍者部隊月光 第25、26話「黒豹作戦 - 前・後篇 - 」(1964年、フジテレビ / 国際放映) - レオ
  • ザ・ガードマン 第24話「ガードマン空へ」・第25話「続ガードマン空へ」(1965年、TBS / 大映テレビ室)
  • 泣いてたまるか 第1話「ラッパの善さん」(1966年、TBS / 国際放映)
  • キイハンター 第68話「殺されに来た黄金の男」(1969年、TBS / 東映)
  • 宇宙鉄人キョーダイン 第18話「出たーっ!! 闇から襲う狼人間」(1975年、毎日放送 / 東映) - 狼人間
  • 非情のライセンス 第2シリーズ 第89話「兇悪犯指名手配」(1976年、NET / 東映) - 赤根組幹部
  • ベルサイユのトラック姐ちゃん 第16話「女は裸で一人旅」(1976年、NET / 東映)
  • ザ・カゲスター 第21話「ゴリラ怪人大あばれ作戦!」(1976年、NET / 東映) - 珍田
  • 快傑ズバット 第7話 「悪い風だぜ港町」(1977年、東京12チャンネル / 東映) - グレートコング
  • ジャッカー電撃隊 第22話「赤い大逆転!!自爆軍団を攻撃せよ」(1977年、テレビ朝日 / 東映) - スクラップ軍団員
  • 西部警察PART-Ⅲ第2話「護送」(1983年、テレビ朝日 / 石原プロ)- 小坂啓造

著作

  • 糖尿地獄からの生還―失明の危機、人工透析、白内障…26年におよぶ糖尿病との執念の闘い(1994年、ザ・マサダ刊 )










 ↑ トップへヤフーオークション
 


 Copyright(c) Mitsuishiya, Inc. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system