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10/14

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キャプテン・ルー・アルバーノ
"Captain" Lou Albano
1933/7/29 - 2009/10/14

アメリカ合衆国の元プロレスラー、プロレス・マネージャー、俳優。本名はルイス・ビンセント・アルバーノLouis Vincent Albano )。ニューヨーク州マウントバーノン出身のイタリア(シチリア)系アメリカ人。

ヒールのプレイング・マネージャーとして知られ、1960年代末から1980年代にかけて、地元ニューヨークのWWF(現・WWE)で活躍した。

来歴

1953年にカナダのモントリオールでプロレスラーとしてデビュー。トニー・アルティモア(トニー・アンジェロ)とのイタリア系ギャングスター・ギミックのタッグチーム、ザ・シチリアンズThe Sicilians)で活躍し、1961年にはシカゴでミッドウエスト・タッグ王座を獲得。その後ニューヨークのWWWFに進出し、1967年にアーノルド・スコーラン&スパイロス・アリオンからWWWF USタッグ王座を奪取した。

アルティモアとのコンビ解消後はマイクパフォーマンスの才能を活かし、1969年よりWWWFでイワン・コロフのマネージャーに転身。1971/1/18にはブルーノ・サンマルチノからWWWF世界ヘビー級王座を奪取させることに成功した。以降、フレッド・ブラッシーやグラン・ウィザードと共に、ビンス・マクマホン・シニア時代のWWWF / WWFを代表する悪徳マネージャーとしてブーイングを浴び続けた。

自他ともに認める悪相の持ち主であったことから、ゴージャスなブラッシーや頭脳派のウィザードと比べ野卑で単細胞なイメージを売り物にし、TVインタビューでゲップを連発するなど意図的に下品な振る舞いをしていた。頬に安全ピンでゴムバンドを括り付けるなど、ビジュアル面でもブラッシーやウィザード同様にファンに強いインパクトを与えたが、どことなくユーモラスで憎めないキャラクターも支持され、後にベビーフェイスとしても人気を集めることになる。

1983年、シンディ・ローパーの『Girls Just Want to Have Fun』のミュージック・ビデオにローパーの横柄で保守的な父親役で出演(出演のきっかけは、プエルトリコ・サンフアンでのコンサートを終えたローパーがニューヨークに戻る飛行機内でアルバーノと出会い、彼に興味を持ったことによる)。同曲は大ヒットし、さらなるビジネスの拡大を目論んだローパーのマネージャー(デビッド・ウォルフ)のアイデアで、1984年よりWWFにて彼女とアルバーノの対立アングルがスタートする。同時期、WWFはビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下に入っており、マーケティング戦略においても新機軸を次々と打ち出していた。同年7月23日、"The Brawl to End It All" と銘打ち、マディソン・スクエア・ガーデンにてローパーとアルバーノの代理対決、ウェンディ・リヒター対ファビュラス・ムーラ戦が行われる。両者がセコンドに付いたこの試合はMTVで放送され大反響を呼び、ロックン・レスリングRock 'n' Wrestling)という新しいコンセプトが誕生、翌年のレッスルマニアへの試金石ともなった。

ローパーとの一連のアングルにより、アルバーノのユニークな個性はプロレスファン以外の一般層からも認知され、1985年からはベビーフェイスのマネージャーに転向。旧敵のハルク・ホーガンやアンドレ・ザ・ジャイアントとも共闘し、その陽気なキャラクターで主に子供ファンの人気を獲得した。1986年の末にWWFを離れ、その後は俳優としてショービジネス界で活躍。1989年の『The Super Mario Bros. Super Show!』ではマリオ役を演じた。

1994年、フェイスターンしたヘッドシュリンカーズのマネージャーとして一時WWFに復帰。1996年にはWWE殿堂に迎えられた。近年もオールドタイマーのリユニオン・イベントに登場し、WWEの番組にも時折出演していた。2009年10月14日、自宅にて老衰のため死去。76歳没。

担当選手

  • イワン・コロフ
  • ターザン・タイラー
  • ルーク・グラハム
  • キング・カーティス・イヤウケア
  • バロン・マイケル・シクルナ
  • ザ・スポイラー
  • ラリー・ヘニング
  • ブルドッグ・ブラワー
  • ジョージ "ジ・アニマル" スティール
  • バグジー・マグロー
  • プロフェッサー・タナカ
  • ケン・パテラ
  • グレッグ・バレンタイン
  • キングコング・モスカ
  • ジミー・スヌーカ
  • レイ・スティーブンス
  • アイアン・マイク・シャープ
  • バズ・ソイヤー
  • ファビュラス・ムーラ
タッグチーム
  • モンゴルズ(ジート・モンゴル、ベポ・モンゴル)
  • ブラックジャックス(ブラックジャック・マリガン、ブラックジャック・ランザ)
  • バリアント・ブラザーズ(ジミー・バリアント、ジョニー・バリアント、ジェリー・バリアント)
  • ユーコン・ランバージャックス(ユーコン・ピエール、ユーコン・エリック)
  • エクスキューショナーズ(マスクド・エクスキューショナー1号、マスクド・エクスキューショナー2号)
  • サイトー&フジ(ミスター・サイトー、ミスター・フジ)
  • ワイルド・サモアンズ(アファ・アノアイ、シカ・アノアイ)
  • ムーンドッグス(ムーンドッグ・キング、ムーンドッグ・レックス、ムーンドッグ・スポット)
  • ノース・サウス・コネクション(ディック・マードック、アドリアン・アドニス)
  • USエクスプレス(バリー・ウインダム、マイク・ロトンド)
  • ブリティッシュ・ブルドッグス(ダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミス)
  • マシーンズ(ジャイアント・マシーン、スーパー・マシーン、ビッグ・マシーン)
  • ヘッドシュリンカーズ(サムゥ、ファトゥ、シオネ)

自身がタッグ出身ということもあり、マネージャー時代はタッグチームを手掛ける場合が多く、初代王者チームとなったターザン・タイラー&ルーク・グラハムを皮切りに、担当したほとんどのチームをタッグ王座に就かせた(上記はUSエクスプレス以降がベビーフェイス転向後の担当チーム)。

獲得タイトル

  • WWWF USタッグ王座:1回(w / トニー・アルティモア)
  • WWF Hall of Fame:1996年度(プレゼンターはJoe Franklin)





ステイシー・キーブラー
Stacy "Ann-Marie" Keibler
1979/10/14

アメリカ合衆国の元プロレス・マネージャー、ディーヴァ。現在は女優。

女子プロレスラーとしての活動はほとんどなく、男性レスラーのマネージャーとしての仕事が主である。以前入場テーマ曲にキッド・ロックが歌ったZZトップのカバー曲である『Legs』を使用していた。

来歴

WCWのナイトロ・ガールズに応募したことによりプロレス界入り。ミス・ハンコックのリングネームで1999年にデビュー。デビュー後もレスラーのマネージャー役が中心であった。

WCW崩壊後の2001年、WWF(現WWE)にWCW/ECW連合軍(アライアンス)の一員として登場。トリー・ウィルソンと組んでトリッシュ・ストラタス、リタらとディーヴァ同士の抗争を繰り広げた。アライアンス所属時はタズやダッドリー・ボーイズのマネージャーも務めた。

アライアンスのストーリー終了後はビンス・マクマホンの秘書役を経て2002年の番組分割時はスマックダウンに所属し、ベビーフェイスとして活動していく。その後RAWに移籍し、当時プライベートでも交際していたテストのマネージャー役となった。

2004年には年間の最高のディーヴァに与えられる賞であるWWE・ベイブ・オブ・ザ・イヤーを獲得した。同賞は翌年も獲得している。

豊胸手術などでグラマラスな体型の多い他のディーヴァとは対照的に、スレンダーな体型と美脚を売りにしている。

子供の頃から各種ダンスを習っておりダンスの才能を有していた。アメリカのテレビ番組「ダンシング・ウィズ・ザ・スターズ」に出演している。またアメリカのフィットネス雑誌「Stuff Magazine」への寄稿も行っている。

マネージャー履歴

  • デビッド・フレアー (David Flair)
  • ショーン・ステイジャック (Shawn Stasiak)
  • ダッドリー・ボーイズ (Dudley Boyz)
  • テスト (Test)
  • スコット・スタイナー (Scott Steiner)
  • ハリケーン & ロージー (Hurricane & Rosey)

入場曲

  • Legs(Kid Rock)
    ZZトップのカバー曲。
 
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ダニー・スパイビー

1952/10/14

アメリカ合衆国のプロレスラー。フロリダ州タンパ出身。金髪と203cmの巨体から日本では「黄金の鷲」の異名を持ち、主に全日本プロレスで活躍した。ザ・デストロイヤーの元娘婿でもある。

来歴

デビュー〜WWF時代

ジョージア州立大学在学中はアメリカンフットボールで体を鍛え、1984年に幼い頃からファンだったというエディ・グラハムにスカウトされ大学卒業後にプロレス入り。ダスティ・ローデス、バリー・ウインダム、リック・マーテルといった錚々たるレスラー達からレスリングの手解きを受け、ノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区でデビューを果たす。

デビュー後はイーグルというリングネームを名乗り、練習仲間だったコヨーテことスコット・ホールとタッグチーム「アメリカン・スターシップ」を結成し、主にセントラル・ステーツ地区で活動。チームを解散するとミッドアトランティックに戻るが、1986年にWWF(現・WWE)に入団。ゴールデン・ボーイのニックネームで売り出し、離脱したバリー・ウインダムの後任としてマイク・ロトンドのタッグパートナーにもなるが芽が出ず、目立った活躍を果たせないまま離脱することとなった。

全日本プロレス

1988年5月、全日本プロレスに初来日。その風貌から黄金の鷲と呼ばれ、スタン・ハンセン、スティーブ・ウィリアムス、テリー・ゴディと共に全日本最強外国人の1人として活躍。

1989年には当時アメリカのトップスターだったスティングがワンマッチのみで全日本に初来日した際、シングルマッチで対戦し勝利を収めた。

同時期、アメリカではNWA〜WCWを主戦場に、シッド・ビシャスとの大型タッグチーム「スカイ・スクレイパーズ」を結成。リック&スコットのスタイナー・ブラザーズなどと抗争を展開した(ビシャスが怪我で離脱後は、後にジ・アンダーテイカーとして活躍するマーク・キャラスがパートナーとなる)。

1991/7/6、日本武道館で当時同じく全日最強外国人として活躍していたスティーブ・ウィリアムス&テリー・ゴディの殺人魚雷チームが持っていた世界タッグ王座にハンセンと組んで挑戦。第15代世界タッグ王者となった。

2度目のWWF〜引退後

全日本を離脱後は、1995年にWWFと再契約。トレードマークだった金髪を黒く染め、ウェイロン・マーシーのリングネームでアロハシャツに入れ墨という精神異常者ギミックに変身した(ウェイロン・マーシーのキャラクターは1991年に公開された映画『ケープ・フィアー』でロバート・デ・ニーロが演じた主人公=マックス・ケイディをモチーフにしている。同作品は1962年公開の映画『恐怖の岬』のリメイク版)。

引退後は兄の経営する建設会社で働いている。一時期、フロリダの芸能プロダクションに在籍し、俳優やモデル等の仕事をしていた。

獲得タイトル

  • 世界タッグ王座:1回(w / スタン・ハンセン)
  • FCWヘビー級王座:1回
  • UWFアメリカスヘビー級王座:1回





ニコライ・ボルコフ
Nikolai Volkoff
1947/10/14

ヨシップ・ペルゾビッチJosip Nikolai Peruzović)は、クロアチア出身の元プロレスラー。北米に移住後、ロシア系ギミックのパワーファイターとして活躍した。

※日本では「ニコリ・ボルコフ」と表記されていたが、正しい発音は「ニコライ」であり、本項の記述もそれに準じる。

来歴

ユーゴスラビア併合後のクロアチア共和国の出身で、父親はイタリア系クロアチア人、母親はロシア人である。ユーゴではウエイトリフティングの選手として活躍し、オーストリアで行われたトーナメントに参加した際にカナダへ越境。

カナダではカルガリーのスタンピード・レスリングでスチュ・ハートのトレーニングを受け、同地区にいたニュートン・タットリー(ジート・モンゴル)のパートナーとしてデビュー。モンゴル人ギミックのベポ・モンゴルBepo Mongol)を名乗り、ジートとの悪役タッグチーム「ザ・モンゴルズ」を結成してアメリカに進出した。

1970/6/15にはニューヨークのWWWF(現・WWE)で ビクター・リベラ&トニー・マリノを破り、WWF世界タッグ王座の前身であるWWWFインターナショナル・タッグ王座を獲得。1972年7月にはザ・モンゴルズとして日本プロレスに初来日し、坂口征二のUNヘビー級王座に挑戦している。

その後、ジートとのタッグを解消してシングルプレイヤーに転向。1974年、フレッド・ブラッシーを マネージャーにロシア人ギミックの大型ヒール「ニコライ・ボルコフ」に変身して再度WWWFに登場し、MSGでブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦して脚光を浴びた。

同年8月にはブラッシーと共に新日本プロレスに来日、タッグマッチでアントニオ猪木からフォール勝ちを収めている。以降も新日本の常連外国人となり、1977年の『第4回ワールド・リーグ戦』ではマスクド・スーパースターとの新旧モンゴルズ対決も実現。翌1978年の『第1回MSGシリーズ』では決勝リーグに進出し、アンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦した。1979/4/17には、ペンシルベニア州アレンタウンで猪木のNWFヘビー級王座にも挑戦している。

その間、1975年にボリス・ブレジニコフBoris Breznikoff)のリングネームでボビー・ヒーナンをマネージャーにAWAに参戦。翌年WWWFにカムバックしてサンマルチノに再挑戦した後はNWA圏を転戦。ジム・バーネットの主宰するジョージア・チャンピオンシップ・レスリングではブルート・バーナードとのタッグチームで活動し、デトロイトではザ・シークとも対戦している。

西側諸国のモスクワオリンピックボイコット問題で米ソ冷戦が最高潮に達した1980年には、エディ・グラハムが運営するフロリダのCWFでイワン・コロフとロシア人タッグを結成。ジャック・ブリスコとジェリー・ブリスコの兄弟チームからフロリダ・タッグ王座を奪取して大ヒールとなる。後にアレックス・スミルノフやバロン・フォン・ラシクも加わり、反米軍団を結成してダスティ・ローデス、ディック・マードック、バグジー・マグロー、ブリスコ・ブラザーズらと抗争を展開した。1981年の後半からはジム・クロケット・ジュニア主宰のNWAミッドアトランティック地区に参戦。同じくロシア系ギミックのクリス・マルコフとのコンビで同地区認定のタッグ王座を獲得した。

1982年1月には全日本プロレスの『新春ジャイアント・シリーズ』に来日。ニック・ボックウィンクルと組んでジャイアント馬場とジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座にも挑戦した。同シリーズには、前年末に新日本から全日本に引き抜かれたスタン・ハンセンも参戦しており、1976年に共にWWWF圏をサーキットしたことのあるボルコフがハンセンのパートナーを務めた。以降は日本での主戦場を全日本に移し、1982/10/9には同じくWWWF時代の盟友であるブルーザー・ブロディとのコンビでインタータッグに再挑戦。1983年5月19日には鶴田のUNヘビー級王座に挑戦し、敗れはしたものの鶴田を片腕でネック・ハンギング・ツリーに吊るし上げるなど、桁外れのパワー殺法を披露した。

帰国後はビル・ワットが主宰するMSWAに登場。クラッシャー・クルスチェフとのタッグでルイジアナ、ミシシッピ、オクラホマなどミッドサウス地区一帯をサーキットし、テリー・テイラー、ジャンクヤード・ドッグ、ジム・ドゥガン、スティーブ・ウィリアムスらと対戦した。

1984年、ビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下で全米進出を行っていたWWFと再契約。再びブラッシーをマネージャーにハルク・ホーガンのWWF世界ヘビー級王座に挑戦する一方、サージェント・スローターとの米ソ抗争を開始。スローターのWWF離脱後はアイアン・シークとの反米コンビでタッグ戦線に進出、1985年3月31日のレッスルマニア第1回大会でバリー・ウインダムとマイク・ロトンドのUSエクスプレスを破り、WWF世界タッグ王座を獲得した。その後も長きに渡ってWWFを主戦場とし、リング上でソビエト連邦国歌を斉唱するなどして観客を大いにヒートさせた。

シークがドラッグ問題で解雇されてからはボリス・ズーコフを相棒にザ・ボルシェビクスThe Bolsheviks)なる共産タッグを結成。しかし1990年、ソビエト連邦の崩壊による冷戦終結を機にベビーフェイスに転向する。一転して親米派になり、愛国者キャラクターとして抜群の会場人気を持つジム・ドゥガンのパートナーを務めた。同年、湾岸戦争の勃発によりヒールとしてWWFに復帰したサージェント・スローターとの善悪逆転抗争もスタートさせている。

1992年にWWFを離れた後はインディー団体に上がっていたが、1994年に「ロシア難民」のギミックでWWFに復帰。テッド・デビアスに金で買われた「所有物」として、デビアス率いる「ミリオンダラー・コーポレーション」に組み入れられるが、すでに体力的に全盛期を過ぎていたこともあり、短期間でフェードアウトしていった。

その後は2001年4月1日のレッスルマニアX-Sevenで行われたギミック・バトルロイヤルに出場。2005年には長年に渡る功績をたたえ、WWE殿堂に迎えられた。近年もスペシャルゲストとして、WWEをはじめ各地のインディー団体に顔を見せている。2010年11月15日には、"Old School edition" と銘打って行われたスペシャル版の『Raw』に出演、ウラジミール・コズロフと共にリング上でソビエト連邦国歌を斉唱した。

エピソード

  • WWWFで共産主義者のロシア人としてシングル・デビューしたボルコフだが、ユーゴスラビア移民である本人は共産主義を嫌悪していた。しかし、マネージャーのフレッド・ブラッシーに「共産主義がいかに悪であるかをリング上で演じて、アメリカ人に教えてやればいい」などと諭され、このギミックを受け入れたという。
  • 観客の憎悪を買った大ヒールだった反面、素顔は温厚な好人物として知られ、デビュー当時も子供を養うために倹約するなど、家族を大切にしていた。それは他人の家族に対しても同様で、ブラッシーの娘が何年間も離れ離れだった父親に会いに来た際、ブラッシーに対し彼女に電話をするよう促したこともあったという。ブラッシーは自著で「私はニコライのしてくれたことを忘れない」と記している。
  • ダイナマイト・キッドもボルコフの人柄を称えている。キッドの自著には、ブリティッシュ・ブルドッグスのマスコット犬だったマティルダが水を欲しがっているのを見て、可哀想に思ったボルコフが彼女に水を飲ませてあげたエピソードが書かれている。しかし飲ませすぎたため、当日の試合中にマティルダが脱糞。会場は爆笑に包まれ、キッドたちは大恥をかいたという。
  • 『キン肉マン』に登場するソ連出身のロボ超人、ウォーズマンの本名の由来である。

獲得タイトル

WWE
  • WWWFインターナショナル・タッグ王座:2回(w / ジート・モンゴル)
  • WWF世界タッグ王座:1回(w / アイアン・シーク)
  • WWE Hall of Fame:2005年度(プレゼンターはジム・ロス)
NWA
  • NWAジョージア・ヘビー級王座:1回
  • NWAフロリダ・タッグ王座:1回(w / イワン・コロフ)
  • NWAミッドアトランティック・タッグ王座:1回(w / クリス・マルコフ)
MSWA
  • ミッドサウス北米ヘビー級王座:1回





ジャック・ランザ/ブラックジャック・ランザ
Jack Lanza
1942/10/14

来歴

カウボーイの家系に育ち、学生時代はレスリングに熱中する一方、ロデオでも活躍。南部3州のロデオ大会で優勝したこともあるという。ドリー・ファンク・シニアにスカウトされ、1962年にプロレスラーとしてデビュー。当初はカウボーイ・ジャック・ランザをリングネームに、西部の伊達男風のベビーフェイスとして売り出されていたが、1967年にインディアナ州のWWAでヒールに転向。ボビー・ヒーナンをマネージャーに従えブラックジャック・ランザと改名し、当時のWWA世界王者ウイルバー・スナイダーとの抗争で脚光を浴びる。NWA圏のミズーリ州セントルイスではアーニー・ラッドとも抗争を展開した。

その後1971年、ビッグ・ボブ・ウインダムことブラックジャック・マリガンと黒ずくめのカウボーイ・コンビ「ザ・ブラックジャックス」を結成。WWAとAWAを股にかけて、ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーの極道コンビと抗争を繰り広げた。1973年には単身でニューヨークのWWWF(現・WWE)に登場し、ペドロ・モラレスのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦。10月15日のマディソン・スクエア・ガーデンにおける定期戦ではアンドレ・ザ・ジャイアントともシングルマッチで対戦している。

1974年はテキサス州ダラスのNWAビッグタイム・レスリング(後のWCCW)に進出、マリガンとのブラックジャックスで同地区のタッグ戦線を席巻する一方、シングルでは10月にホセ・ロザリオからブラスナックル王座を奪取し、同年末にかけてはフリッツ・フォン・エリックとアメリカン・ヘビー級王座を争った。WWWFには1975年にもマリガンと共に参戦、8月26日にフィラデルフィアでドミニク・デヌーチとパット・バレットのチームを破り、WWWF世界タッグ王座を獲得した。

1976年にブラックジャックスを解散してAWAに復帰。ボビー・ダンカンを新パートナーにして同年7月23日、ブルーザー&クラッシャーを撃破し第32代AWA世界タッグチャンピオンとなった。AWAでは1978年にボブ・オートン・ジュニアともタッグを結成している。1979年にはマネージャーのヒーナンと共に、ジム・バーネットの主宰するNWAジョージア地区のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングに転戦し、5月14日にボブ・アームストロングからTV王座を奪取。4日後の5月18日、アトランタのオムニ・コロシアムで行われたジョージア・タッグ王座争奪トーナメントにはロン・バスと組んで出場、1回戦でボブ・アームストロング&ロバート・フラー、2回戦でダスティ・ローデス&ディック・スレーターを下し勝ち進んだが、準決勝でワフー・マクダニエル&トミー・リッチに敗れている。

1980年に体調を崩して一時リタイアした後、1983年に古巣のAWAで復帰。かつてと同様にヒールのポジションでジェシー・ベンチュラやケン・パテラと共闘し、NWAセントルイス地区ではキール・オーディトリアムにてデビッド・フォン・エリックやジェリー・ローラーとも対戦したが、同年秋にマネージャーのボビー・ヒーナンと仲間割れ。これを機に、白いテンガロンハットとタキシード・ジャケットを身に付けたベビーフェイスに変身した。1984年3月4日にはイリノイ州シカゴにて、日本でAWA世界ヘビー級王座を奪取したジャンボ鶴田のアメリカでの初防衛戦の相手も務めており、この試合は日本でも中継されている。

AWAではフロント職のブッカーとしても才能を発揮し、「AWAの頭脳」とも評されたが、その手腕をビンス・マクマホンに見込まれ、1985年にロード・エージェントとしてWWFへ移籍。以降、四半世紀以上に渡り、パット・パターソンらと共にWWEの隆盛を裏方で支え続けている。2006年4月1日にはマリガンとのブラックジャックスでWWE Hall of Fameに迎えられた。

日本との関わり

日本には1966年7月に本名のジャック・ランザ名義で日本プロレスに初来日。ブラックジャック・ランザに改名後の1971年7月には国際プロレスにマネージャーのヒーナンを帯同して来日。ストロング小林のIWA世界ヘビー級王座にも挑戦している。

3度目の来日は1978年12月の全日本プロレス。当時のAWA世界王者ニック・ボックウィンクルと共に、AWA代表チームとして世界最強タッグ決定リーグ戦の第1回大会に参加した。ファンの注目を集めていたニックの影に隠れる形となったものの、ニックとはヒーナン・ファミリーの盟友でもありチームワークは抜群だった。また、テリー・ファンクに十八番のブレーン・クローを決め、そのままリング外へ放り投げたシーンは観客を沸かせた。

以降は選手として来日することはなかったが、前述のように1984年、シカゴのローズモント・ホライズンで行われたAWA世界王者ジャンボ鶴田とのタイトルマッチが全日本プロレス中継にて放送された。

WWEのスタッフとなってからは、1991年3月30日に開催されたSWSとの合同興行『レッスル・フェスト in 東京ドーム』(メインイベントはハルク・ホーガン&天龍源一郎対リージョン・オブ・ドゥーム)や、1994年5月に行われたWWF初の単独日本遠征『マニア・ツアー』(ブレット・ハート、ジ・アンダーテイカー、ヨコズナらが参加)などに、現場の総責任者として来日している。

相棒マリガンとのブラックジャックスとしての来日は、一度も実現することがなかった。日本での異名は、マリガンの「黒い猛牛」に対し、ランザは「黒い荒馬」と呼ばれていた。

WWEでの重職

WWEでは1985年以来、ロード・エージェントとなって試合のストーリー構成や選手の管理業務に携わっている。パット・パターソンやトニー・ガレアのようなマクマホン・シニアの代からのブレインではない「外様」の幹部ではジェリー・ブリスコと並ぶ古株である。戦力外と判断されれば選手同様に裏方の人間も頻繁に解雇されるWWEにあって20年以上も要職を務めており、ビンスからは「会社を任せられる男」として全幅の信頼を寄せられている。

歴代スーパースターからの信任も厚く、スティーブ・オースチンは自著でランザのことを「親父のような存在」などと評している。 ランザはオースチンがリング・マスターのニックネームでWWF入りした1995年当時から目をかけ、専任エージェントとして彼の試合のほとんどのブックを手掛けた。ストーン・コールドのキャラクターで大ブレイクしてからも、オースチンはランザにアドバイスを仰いでいたという。

また、人気面では不発に終わったが1997年にはバリー・ウインダムとジャスティン・ブラッドショー(ジョン・レイフィールド)のニュー・ブラックジャックスのプロデュースも担当した。レイフィールドとは義理の叔父と甥の関係にある。

獲得タイトル

WWE
  • WWWF世界タッグ王座:1回(w / ブラックジャック・マリガン)
  • WWE Hall of Fame:2006年度(ザ・ブラックジャックスとして受賞)
AWA
  • AWA世界タッグ王座:1回(w / ボビー・ダンカン)
WWA(インディアナポリス)
  • WWA世界タッグ王座:1回(w / ブラックジャック・マリガン)
NWAビッグタイム・レスリング
  • NWAテキサス・ブラスナックル王座:2回
  • NWAテキサス・タッグ王座:1回(w / ブラックジャック・マリガン)
  • NWAアメリカン・タッグ王座:2回(w / ブラックジャック・マリガン)
ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング
  • NWAジョージアTV王座:1回

  

















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