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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
10/16

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スチュ・ハート
Stewart Edward "Stu" Hart
1915/5/3 - 2003/10/16

カナダのプロレスラー、トレーナー、プロレスプロモーター。ハート道場から数多くの門下生をプロレス界に輩出し、また子供達が皆プロレスに関わっていることで知られ、ハート・ファミリーをプロレスの名門に育て上げた人物である。

より原音に近い表記は「ステュー・ハート」だが、本項では日本のプロレス史における慣例的な表記(日本語圏で一般によく知られている名前)に則る。

来歴

サスカチュワン州サスカトゥーン出身。エドモントン・エスキモーズにも所属したアメリカンフットボール選手でもあったが、レスリングの素質も高く、1939年にはカナダ・ナショナル選手権で優勝しオリンピック代表にも選ばれたことがある。しかし第二次世界大戦により1940年、1944年のオリンピックは中止、海軍に入隊し選手生活を続けていたが出場することは叶わなかった。

第二次世界大戦後、1946年にニューヨークでプロレスラーとして活動を始める。現役時代のスタイルはレスリングの経験に基づく関節技の達人で、俗に「シューター」と呼ばれるような実戦派レスラーだったと言われる。アメリカ各地を巡業後、1951年に帰国しアルバータ州カルガリーにプロレス団体クロンダイク・レスリング(後のスタンピード・レスリング)を立ち上げ、プロモーターとしての活動を開始した。またハート家の地下に造られた道場「ダンジョン」(地下牢の意)でホームステイさせている数々のレスラー志望者をトレーニングし、この中には世界規模のスーパースターになった者も少なくない。この団体はスチュの門下生の他に、日本やイギリスなど各地から選手を招聘して人気を高めカナダで一大勢力を誇るようになる。

1960年のレスラー引退後も、プロモーター業は1984年にスタンピード・レスリングをWWF(現WWE)に売却するまで続けた。「ダンジョン」での新人訓練は1992年、77歳で引退。2001年にはカナダ勲章を授与されている。

2003年10月16日、脳梗塞のため死去。88歳没。2010年、プロレス業界における功績を称え、WWE殿堂に迎えられた。
ハート・ファミリーThe Hart family
  • スミス・ハート : 元プロレスラー
  • ブルース・ハート : 元プロレスラー
  • キース・ハート : 元プロレスラー
  • ウェイン・ハート : 元プロレスラー
  • ディーン・ハート : 元プロレスラー
  • エリー・ハート : ジム・ナイドハートと結婚
    • ナッティ・ナイドハート : エリーの娘、プロレスラー
  • ジョージア・ハート : B.J.アニスと結婚
    • テディ・ハート : ジョージアの息子、プロレスラー
  • ブレット・ハート : 元プロレスラー
  • アリソン・ハート : ベン・バサラブと結婚
  • ロス・ハート : 元プロレスラー
  • ダイアナ・ハート : デイビーボーイ・スミスと結婚
    • ハリー・スミス : ダイアナの息子、プロレスラー
  • オーエン・ハート : 元プロレスラー

ダンジョン出身のレスラー

  • ジン・キニスキー
  • フリッツ・フォン・エリック
  • ウイルバー・スナイダー
  • ジョー・ブランチャード
  • モンゴリアン・ストンパー
  • バディ・ロバーツ
  • ニコライ・ボルコフ
  • ジョー・ルダック
  • スーパースター・ビリー・グラハム
  • ロディ・パイパー
  • クリス・ベノワ
  • ブライアン・ピルマン
  • ジャスティン・クレディブル
  • クリス・ジェリコ
  • ランス・ストーム
  • エッジ

日本から遠征したレスラー

  • ミスター・ヒト(後にコーチ役にもなる)
  • ミスター・サクラダ
  • アニマル浜口
  • 阿修羅・原
  • ザ・コブラ
  • 馳浩
  • 佐々木健介
  • 橋本真也
  • 平田淳嗣
  • 獣神サンダー・ライガー

その他

  • ダイナマイト・キッド(無名時代にイギリス遠征中だったブルース・ハートに見出される)
  • ジェシー・ベンチュラ(ブレットによれば「ダンジョン」の名付け親とされる)
  • アレン・コージ(ダンジョンの師範代を務めていた)
  • ジェリー・モロー(国際プロレス崩壊後、スタンピード・レスリングにて若手選手の育成に助力)





真騎士
1983/10/16

マキシモ・ブランコMaximo Blanco)は、ベネズエラの総合格闘家。ファルコン出身。仙台育英高校、日本大学卒業。2009年、リングネームをに変更した。ライト級キング・オブ・パンクラシスト。

2008年7月、戦極(現・SRC)と戦極育成選手(現・SRC育成選手)として契約し、レスリングでのロンドンオリンピック出場も視野に入れつつ、総合格闘技の試合も行っている。

2011年6月SRCの活動停止に伴いSRC育成選手契約を解除しアメリカメジャー団体Strikeforce参戦へ

好きな選手はヴァンダレイ・シウバであり、自身もシウバのようなパワー溢れるアブレッシブなファイトスタイルを持つ。

試合に勝利すると、バク宙(バク転)することが恒例である。

来歴

アマチュア時代

14歳からレスリングを始める。それ以前にはテコンドーの経験がある。15歳のときに仙台育英高校に留学する。

高校時代は国体、インターハイで各1勝するにとどまったが、日本大学に進学すると、才能が開花し数々の実績をあげる。

プロ時代

2006年2月、PRIDEと契約したことが発表され、早ければ年内にもデビューする予定であったがPRIDEの消滅もあり実現しなかった。

2008年7月、戦極と戦極育成選手(現・SRC育成選手)として契約。

2008年8月27日、パンクラスで八島勇気と対戦。バスターを放った際、偶然のバッティングにより八島が左瞼をカットしてしまい試合はノーコンテストとなった。

2008年10月1日、第14回パンクラスネオブラッド・トーナメント ライト級準優勝のABと対戦。1R0分22秒、バスターによるKO勝ち。

2008年12月7日、パンクラスで花澤大介13と対戦し、肩固めで一本負け。花澤はブランコのパンチを「以前MFCで闘ったエディ・アルバレスのような重さだった」と評した。

2009年1月4日、戦極初参戦となった戦極の乱2009のオープニングファイトで井上誠午と対戦し、踏みつけによりTKO勝ちを収めた。4月5日、リングネームを真騎士に改めてパンクラスに出場、大石幸史と引き分けた。5月2日、戦極 〜第八陣〜で毛利昭彦と対戦。右フックでダウンを奪うも、直後にサッカーボールキックを見舞ってしまい反則負けを喫した。

パンクラス王座獲得

2009/8/8、「PANCRASE 2009 CHANGING TOUR」で行われたライト級キング・オブ・パンクラスタイトルマッチで井上克也(王者)と対戦。2Rに右フックからのパウンドでTKO勝ちを収め、新王者になった。

2010年3月7日、SRC12でアームバー・キムと対戦し、1R1分10秒左ハイキックでKO勝ち。

2010年6月20日、SRC13でホドリゴ・ダムと対戦し、パウンドによるTKO勝ち。

2010年10月30日、SRC15で國奥麒樹真と対戦し、パウンドによるTKO勝ちを収めた。当初はレオ・サントスと対戦予定であったが、サントスが頸椎損傷および首のヘルニアにより欠場となったため、対戦相手が國奥に変更された。

2010年12月30日、戦極 Soul of Fightで行なわれた「SRC VS DREAM 交流戦」でパーキーと対戦し、3-0の判定勝ち。勝利はしたものの初めての判定勝ちとなった。

人物

  • レスリングを始めたキッカケとして、バク転していた先輩を見てレスリングをやれば自分もできるようになると思ったからだと述べている。
  • 仙台育英高校に留学する際に、「日本はジャッキー・チェンやブルース・リーがいるような国」と思い込んでいたという。

獲得タイトル

  • アマチュア
    • 2002年東日本学生レスリング秋季新人戦 フリースタイルA 66kg級 優勝(2002年11月30日)
    • 2003年東日本学生レスリング春季新人戦 フリースタイルA 74kg級 準優勝(2003年6月27日)
    • 2003年東日本学生レスリング秋季新人戦 フリースタイルA 74kg級 優勝(2003年11月28日)
    • 2003年全日本学生レスリング王座決定戦 優勝(団体戦、2003年9月22日) - 74kg級の選手として2試合に出場し、2勝をあげた。
    • 2005年全日本学生レスリング王座決定戦 優勝(団体戦、2005年9月16日) - 74kg級の選手として4試合に出場し、4勝をあげた。大会後に、最優秀選手賞を受賞した。
    • 2005年全日本学生レスリング選手権大会 男子フリースタイル 74kg級 優勝(2005年8月30日)
    • 第31回内閣総理大臣杯 平成17年度全日本大学レスリング選手権大会 フリースタイル 74kg級 優勝(2005年11月13日)
  • プロ
    • 第3代パンクラスライト級王座(0度防衛)

受賞歴

  • アマチュア
    • 2005年全日本学生レスリング王座決定戦 最優秀選手賞(2005年9月16日)
    • 第31回内閣総理大臣杯 全日本大学選手権 猪名川町長賞(最優秀選手賞)(2005年11月13日)

 
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ケニー・オメガ
Kenny Omega
1983/10/16

本名:タイソン・スミス(Tyson Smith)は、カナダ・マニトバ州出身のプロレスラー。身長183cm。体重91kg。

来歴

ウィニペグ近郊のトランスコナ出身。2000年2月にウィニペグのローカル団体 Top Rope Championship Wrestling でプロレスデビュー。当初はサーフィン初心者にもかかわらず「ハワイのサーファー」というギミックだったが、のちに『ストリートファイター』の波動拳などを得意技として使用する「ゲーム・アニメ好きのギーク(おたく)」というギミックに変更した。

北米ではROHや、JAPW、PWGなどのアメリカのインディー団体で活躍。WWE傘下のDSWに参戦していたこともあるが「レスラーとしての環境としては最高だが、ロボットに作り替えられるようだった」として自ら退団している。

YouTubeなどの動画投稿サイトにエニウェア・マッチの動画が公開され、一部の日本のレスリングファンなどから話題になる。本人の猛烈な高木三四郎への売込みによりDDTがケニー・オメガを日本に招聘し、2008年7月に初来日した。その後継続してDDTのリングに登場している。

2009年1月に再来日した際より飯伏幸太とタッグ「ゴールデン☆ラヴァーズ」を結成し、第28代CMLL認定KO-Dタッグを獲得するなどの結果を残している。

2010年1月31日には新日本プロレスに初参戦し、邪道・外道組と対戦した。試合中のアクシデントによりレフェリーストップ勝ちとなったが、双方とも再戦を熱望している。 2月11日のDDT後楽園大会では同タッグでのIWGPジュニアタッグタイトルへの挑戦も表明した。 4月20日の新日本プロレス大阪大会では外道・ディック東郷組を破り、バックステージで再度同タイトルへの挑戦を要求している。

同年には新日本プロレス主催の『BEST OF THE SUPER Jr.XVII ~STRIKE GOLD~』に出場した。決勝進出こそ叶わなかったが、金本浩二、田口隆祐など新日本の有力選手から勝利し、ブロック3位の成績を残した。 ちなみに実際にはROH所属であるはずだが、今大会についてはDDT所属とされていた。

8月30日にはSMASH.7にも参戦。カナダ時代の師匠であるMentalloと対戦し勝利。

度重なるアピールが実を結び、10月11日新日本プロレス両国大会では、飯伏幸太とのタッグ「ゴールデンラヴァーズ」としてIWGPジュニアタッグに挑戦。 息のあった連携など驚異的な動きで新日本ファンの度肝を抜き、熱戦の末に戴冠を果たした。その後は2度(アポロ55、邪道・外道組)の防衛を果たしている。

人物

北米路上王者・北米路上王などを名乗り、エニウェア・フォールマッチを得意としている。日本のインディープロレス事情に詳しく、アイスリボンなどの女子団体、田中安全プロレスなどのどインディー団体について並々ならぬ知識を有している。

また、テレビゲームや日本の漫画、アニメなどにも詳しく、リングネームも『ファイナルファンタジーVIII』に登場する最強の敵オメガウェポンに由来する。

海外に拠点を置く外国人レスラーにしては珍しく日本語の習得にも熱心で、カナダの興行で同室になった日本人レスラーKUSHIDAが賞賛するほど上達している。

元々は、路上マッチを好み得意とする飯伏幸太に喧嘩を売る形で来日したが、シングルで対戦して以来国籍や言語を越えて友情が芽生えたようである。メディア取材やバックステージコメントでも飯伏については「愛する人」と公言して憚らない。

タイトル歴

  • IWGPジュニアタッグ…第27代(パートナーは飯伏幸太)
  • CMLL認定KO-Dタッグ…第28代(パートナーは飯伏幸太)
  • PCWヘビー級
  • JAPWヘビー級
  • PWG World Championship
  • 日本海6人タッグ選手権王座(第2代。パートナーはりほ・ミスター6号)

入場テーマ

  • Fire Wire [DJ Proz Remix]
  • Dr.Wily
  • 「エアーマンが倒せない」(Team.ねこかん[猫])

 ゴールデンラバーズのテーマ。ムービーもTeam.ねこかん[猫]からゴールデンラバーズバージョンの提供を受けている






ピーター・ポラコ
Peter Polaco
1973/10/16

アメリカ合衆国のプロレスラー。ニューヨーク州出身。プロレスラーとしてのキャリアにおいてジャスティン・クレディブルJustin Credible)のリングネームで知られる。現在のリングネームは「Just incredible(信じられない)」を捩ったもの。

来歴

カルガリーに渡りハート道場でスチュ・ハートらのトレーニングを受け1992年にデビュー。1994年にP.J. ウォーカーP.J. Walker)のリングネームでWWFに登場し、後にポルトガル出身という設定のマスクマンであるアルド・モントーヤAldo Mondoya)に変身したが目立った活躍はなかった。

1997年にECWに移籍しECW・世界ヘビー級王座を獲得するなどして存在感を示し、2001年、ECW崩壊後にWWEに登場し、Xパックのパートナーを務める。また、彼らにアルバート(現・ジャイアント・バーナード)も加わり、「Xファクター」を結成し、悪事の限りを尽くした。

しかし、Xファクター解散後は目立った活躍が無く、2003年1月に解雇。その後TNAに登場し、レイヴェン、サンドマン、ニュー・ジャック、ペリー・サターンといった元ECWのレスラー達とのチーム「エクストリーム・レボリューション」のメンバーとして活動するもこのユニットも短命に終わり、シングルプレイヤーとなったジャスティンはジェリー・リンとの長い抗争を始める。リンとの抗争に敗れた後は、しばらくあまり大きな舞台に立つ事は無かったが、2005年、ECW One Night Stand 2005で久々に姿を見せた。

その後ECWがWWEによって"復活"したことにより、2006年6月ECWに参戦。しかし、わずか3ヵ月後の9月に解雇されてしまう。 現在はフリーランスととして活躍している。






藤田和之
1970/10/16

日本のプロレスラー、総合格闘家。千葉県船橋市出身。八千代松陰高校、日本大学文理学部卒業。

プロレスラーアントニオ猪木を師匠とし、「猪木最後の闘魂継承者」と呼ばれる。猪木のテーマ曲だった「炎のファイター」のオーケストラ・ヴァージョンをテーマ曲にしている。

スタイル

レスリングの選手を経て、プロレスデビューをし、総合格闘技選手としての活動も同時並行して行う。レスリング技術も然ることながら、圧倒的なパワーから繰り出される打撃は非常に強力で、外国人のトップ級ヘビー級選手であっても容易にマットに沈めるほどの威力を持つ。さらにテイクダウンからの打撃、袈裟固め、肩固めなどの技を得意とする。

数々の強豪外国人と対戦した実績から、日本人ヘビー級の最有力選手と見なされていたが、本来全盛期となるべき時期に、怪我や猪木事務所の方針もあり、総合において満足な試合数を重ねることが出来なかった。

来歴

日本大学在学中に1989年より、レスリングで全日本学生選手権4連覇を果たした。1993年に大学を卒業してからは新日本プロレス職員としてアトランタオリンピック予選に挑戦したが敗退し、全日本選手権2度優勝の実績を残してレスリングは引退。

1996年に新日本プロレス所属のプロレスラーになり、11/1に永田裕志戦でデビュー。

2000年1月4日、新日本プロレス東京ドーム大会でキモと対戦。膝蹴りが急所に入ってしまい、4分2秒反則負けとなった。この試合を最後に新日本プロレスを退団。

一時はリングスへの参戦に傾いていたが、アントニオ猪木が経営する猪木事務所所属となり、2000年1月30日の『PRIDE GRANDPRIX 2000 開幕戦』でハンス・ナイマンに一本勝ち、総合格闘技のデビューを飾る。

2000年5月1日、『PRIDE GRANDPRIX 2000 決勝戦』の準々決勝で当時「霊長類最強の男」と謳われたマーク・ケアーに判定勝ち。桜庭和志がホイス・グレイシーを90分の死闘の末破った直後の試合だったが、それ以上の大番狂わせといわれた。しかし準決勝のマーク・コールマン戦ではケアー戦での左膝靭帯の損傷により開始直後にタオルが投入され、TKO負けとなった。

2001/4/9、新日本プロレスのリングでスコット・ノートンを降し、第29代IWGPヘビー級王者となった。6/6に永田裕志、7/20にドン・フライと防衛成功。

2001年8月19日、『K-1 ANDY MEMORIAL 2001』でミルコ・クロコップとMMAルールで対戦。3度目のタックルにカウンターの左膝蹴りを合わせられ、左眉横から大出血。ドクターストップ負けとなった。

人気選手となった2001年には、サントリーの缶コーヒーBOSSコーヒーのテレビCMにアントニオ猪木と共に出演したり、アニメ映画『デ・ジ・キャラット』に声優として出演するなど多彩な活動をした。

2001年12月、練習中に右アキレス腱を断裂。大晦日の『INOKI BOM-BA-YE 2001』出場および2002年1月4日に予定されていた永田裕志とのIWGP世界ヘビー級選手権試合はキャンセルされ、1月4日のリング上で挨拶を行い、IWGP王座返上が発表された。

2002/7/20、9か月ぶりに新日本プロレス札幌大会における垣原賢人戦で復帰し、スリーパーホールドで一本勝ち。

2002/8/8、『UFO LEGEND』で安田忠夫と対戦し、肩固めで一本勝ち。

2002年12月31日、『INOKI BOM-BA-YE 2002』でミルコ・クロコップとのリベンジマッチに挑むも、判定負け。

2003年6月8日、『PRIDE.26』でPRIDEヘビー級王者エメリヤーエンコ・ヒョードルと対戦。右フックでヒョードルをぐらつかせる場面もあったが、最後はスリーパーホールドでタップアウト負け。

2003年12月31日、『INOKI BOM-BA-YE 2003』で元IBF世界クルーザー級王者イマム・メイフィールドと寝技20秒限定ルールで対戦し、スタンド式肩固めで一本勝ち。当初はWBO世界ヘビー級王者レイ・マーサーと対戦予定であったが出場キャンセルとなり、当日になって対戦相手変更が発表された。

2004年5月22日、『K-1 ROMANEX』におけるボブ・サップとの「野獣対決」にパウンドでタップアウト勝ち。『リアルビースト』と呼ばれるようになる。

2004/6/5、大阪府立体育会館において棚橋弘至とIWGPヘビー級王座決定戦を行う(ボブ・サップの王座返上による)。この試合で、棚橋をサッカーボールキックからのKO勝ちに追い込んだ。ただし、前年のアルティメット・クラッシュでは棚橋にタッグながらピンフォール負けを喫している。

2004年12月31日、『K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!』でアテネオリンピックレスリング金メダリストカラム・イブラヒムと対戦。パウンドでTKO勝ち。

2005年4月、永田裕志、中西学、ケンドー・カシンとレスリング軍団「チーム・ジャパン(TJ軍)」を結成。

2006/2/1をもって猪木事務所から独立し、株式会社藤田事務所所属となった。

2006年5月5日、PRIDE無差別級グランプリ1回戦でジェームス・トンプソンと対戦、右フックでKO勝ち。

2006年7月1日、PRIDE無差別級グランプリ準々決勝でヴァンダレイ・シウバと対戦。右フックで倒され、サッカーボールキックの連打でタオルが投入され、TKO負け。シウバはヒョードル欠場による代役であった。

2007年4月8日、『PRIDE.34』でUFC対PRIDE対抗戦としてジェフ・モンソンと対戦し、スリーパーホールドで一本負け。

2007年12月12日、PRIDE(PRIDE FC WORLDWIDE)との契約を解除したことを発表。12月31日の「K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!」への出場オファーはあったものの出場は実現しなかったが、Dynamite!!の前日記者会見でピーター・グラハムが「藤田が試合をキャンセルした。腰抜け野郎」と挑発を行った。

2008年3月5日、戦極旗揚げ戦戦極 〜第一陣〜でピーター・グラハムと対戦し、ノースサウスチョーク(公式裁定はスピニングチョーク)で一本勝ち。前日記者会見ではグラハムの挑発に乗り、「こんな胸くそ悪い奴は初めて。このトサカ野郎」と発言し、乱闘寸前の騒ぎを起こしたが、試合後は両者共にお互いを称えあった。

2008年6月8日、戦極 〜第三陣〜でトラヴィス・ビューと対戦するも左のジャブでダウンしたところにパウンドを打ち込まれ失神KO負け。

2009年8月2日、戦極 〜第九陣〜でブラゴイ・アレクサンドル・イワノフと対戦し僅差の判定負け。試合後、師匠のマルコ・ファスが判定に対する不満を露にした。

2009年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜のDREAM vs SRC 対抗戦でアリスター・オーフレイムと対戦し、左膝蹴りでKO負けを喫した。エプロンサイドで倒れたまま自力で起き上がれず、担架で退場。病院に搬送され、重度の脳震盪と診察された。

プロレスでの活動・評価

小川直也のプロレス転向に伴うトレーニングパートナーとして帯同した際、佐山聡に「化け物」と評されたものの、総合格闘技を行うまでの新日本プロレスでの藤田の扱いは前座レスラーだった(1999年1月4日東京ドーム大会でも、藤田は第1試合で中西学と対戦)。しかし、PRIDEでの活躍を経た後は扱いが一変し、2001年4月9日に新日本プロレスの第29代のIWGPヘビー級王座を獲得(ただしこの試合では、藤田のスリーパーで落ちているはずのノートンが、レフェリーのゴング要請後、いつまでも腕を放そうとしない藤田の膝を右手で優しく揉みしだくシーンをテレビ中継で放映され、「ノートンのモミモミ事件」として話題となる)し、トップレスラーに登りつめる。IWGPのベルトはその後も2004年6月5日に棚橋弘至、2005年7月18日に天山広吉を下しIWGPヘビー級王座を計3度獲得した。しかし、リングに上がるのはビッグマッチ中心でほとんど巡業には参加しないことに蝶野正洋などが苦言を呈することもある。

また、対戦相手に勝つことだけを重視した、プロレスというよりは総合格闘技的なファイトスタイルや、プロレスに対してのモチベーションの低さを感じさせる態度はファンも感情移入しづらいため、藤田を否定するプロレスファンも多いことは事実である。

2006年1月4日の、新日本プロレス東京ドーム大会のメインイベントでIWGPヘビー級タイトルへの挑戦が決定していたが、直前の12月になり何の説明もないまま「試合には出られない」としてドーム大会への参加をキャンセルし、ファンや関係者から非難を浴びた。しかし、直後に藤田と公私ともに親しい関係にある元ゴング編集長の金澤克彦が雑誌や携帯サイトのコラム等で、「藤田は、新日本と猪木事務所の軋轢(あつれき)に巻き込まれた被害者であり、彼には何一つ非はない」と擁護している。

なおそのファイトスタイルやキャラクターとは裏腹にかなりの学生プロレスマニアで、新日本プロレスに棚橋弘至が入門してきたときに「おい、ハメ浩(棚橋の学プロ初期のリングネーム)」と声をかけたことがある。

入場テーマ曲

  • Purple Haze(ジミ・ヘンドリックス)
  • PRIDE(高梨康治)

主な戦績

プロレス

  • 2001/4/9、スコット・ノートンを破り、第29代IWGPヘビー級王座を獲得(永田裕志、ドン・フライ相手に防衛後、返上)。
  • 2003/5/2、新日本プロレス「ULTIMATE CRUSH」にて中西学にTKO勝ち。
  • 2004/6/5、棚橋弘至を破り、第38代IWGPヘビー級王座を獲得(柴田勝頼相手に防衛)。
  • 2004/10/9、佐々木健介に破れ、王座から陥落。
  • 2005/7/18、天山広吉を破り、第43代IWGPヘビー級王座を獲得。
  • 2005/10/8、ブロック・レスナー、蝶野正洋との3WAYマッチに破れ、王座から陥落。
  • 2005年、G1 CLIMAXに出場したが決勝で蝶野正洋に破れ、準優勝。

獲得タイトル

  • 第29、38、43代IWGPヘビー級王座
  • 全日本学生選手権(4連覇、1989年 - )
  • レスリング 全日本選手権 フリースタイル 90kg級 優勝(1993年)
  • レスリング 全日本選手権 フリースタイル 100kg級 優勝(1995年)

関連書籍、映像等

書籍

  • "Show"大谷 泰顕(監修)『野獣降臨 藤田和之 THE WILD BEAST coming』 メディアワークス 2000年11月
  • 藤田和之、木村光一(共著)『ファイター:藤田和之自伝』 文春ネスコ 2002年10月

DVD

  • 『藤田和之』 ヴァリス 2001年10月26日

VHS

  • 『闘魂Vスペシャル 特別編 藤田和之特集 -今、明かされる野獣の真実-』 ヴァリス 2000年5月19日

CD

  • 『THE WORLD』 ダイキサウンド 2001年12月20日 (テーマ曲「炎のファイター」のオーケストラ・ヴァージョン収録)

  



大森隆男
1969/10/16

東京都世田谷区出身。保善高等学校、城西大学卒業。

来歴

デビュー前後

城西大学時代はアメリカンフットボールの選手として活躍。アニマル浜口ジムで身体を鍛えた後、全日本プロレスに入団する。端正な顔立ちで、かつ恵まれた体格をしていたが、入門後はなかなか芽が出ず、人の良すぎる性格もあり伸び悩み、苦しい日々が続いた。

アジアタッグでの活躍

一時は、秋山準とのコンビで獲得したアジアタッグ(防衛回数歴代2位)や、スタン・ハンセンからパートナーとして指名されるなど、徐々に力を付けていった。馬場がビンス・マクマホンから選手貸し出しの依頼を受けた際に大森が指名され、1996年、WWF(現WWE)のロイヤルランブルにてランブル戦に参戦したこともある。出場順番は11人目。

ノーフィアー結成

1999年、アックスボンバーを必殺技とすると上昇のきっかけをつかむ。また同時期、なかなか王道プロレスになじめないでいた高山善廣とのタッグを結成すると、双方の伸び悩みの種だった粗さが良い方に回転し始め、ふっ切れたように派手な(ぎこちない)アピールを繰り返し、今までの全日本になかった異色のタッグとして頭角を現す。

そしてNO FEAR(ノーフィアー)というチーム名を名乗り始めた直後、ハヤブサ・新崎人生組からアジアタッグ王座を獲得したのに続き、ジョニー・エース&バート・ガン組をも破り世界タッグ選手権王座も獲得。全日本プロレスが管理するタッグのベルトを同時に保持するという史上初の快挙を演じた。

2000年には、チャンピオン・カーニバルのトーナメント第1回戦で、その1か月前シングルで三沢超えを果たし優勝候補に上げられていた秋山と対戦し、入場時を襲いわずか7秒(ゴングの鳴る前を加えると約30秒)で下すという伝説的勝利を挙げる。準決勝でもスティーブ・ウィリアムスが試合前のロープチェックをしているときにアックスボンバーで奇襲。激怒したウィリアムスの激しい場外戦も切り抜け、アックスボンバーで沈め決勝進出を果たし、日本武道館のメインのシングル戦に挑む。決勝では小橋健太に敗れ準優勝に終わるが、三沢率いる「新生全日本」の象徴となる活躍を見せた。

同年8月、三沢光晴らとともに新設されたプロレスリング・ノアへ移籍。2001年12月には、高山とのタッグでGHCタッグ王座を獲得するも、初防衛戦で敗退。以降、高山との方向性の違いも表面化し、「あばよ!」の言葉を残してタッグチームを解消した。

ノア離脱

2002年6月に、ノア所属のまま渡米。まずはノア役員であるハーリー・レイスの元に預けられアメリカマットを転戦した。7月10日には旗揚げしたばかりだったTNAのPPV大会に参戦。遠征第1戦目でいきなり時のNWA王者ケン・シャムロックの王座への挑戦者に抜擢されると互角に渡り合い、強烈なインパクトを残した。その後は初のシングルタイトルも獲得し2003年2月に帰国。当初はノア所属のままの予定だったが、ここでノアを脱退。この時、三沢は「大森が今後、ノアのマットに上がることはない」と断言した。

WJプロレスからゼロワンへ

その直後、2003/3/1に旗揚げ予定の新団体WJプロレスへの参戦を明らかにした。WJでは越中詩郎とともに「レイバーユニオン」を結成して活躍。天龍源一郎、長州力の二巨頭からシングルでピンフォールを奪う実績を作った。

2004年2月には越中と2人でゼロワンに乗り込み、2002年プロレス大賞最優秀タッグの炎武連夢(大谷晋二郎・田中将斗組)と対戦。炎武連夢からNWAインターコンチネンタルタッグを奪取し、最多防衛記録も樹立した。

この間、全日本プロレスに移籍した武藤敬司とも2度戦い、共に敗れている。1戦目はゼロワンマット、2戦目はチャンピオン・カーニバルでエプロンから場外への断崖式アックスギロチンドライバーなどであと一歩まで追い詰めるが、一瞬のスキを突かれフランケンシュタイナーで敗れる。

その後もゼロワンには継続参戦し、火祭りで準優勝。

ZERO1-MAX所属選手として

ZERO1-MAXの旗揚げには所属選手として参加。旗揚げ戦ではジャンボ鶴田・マサ斎藤に次ぐ日本人3人目のAWA世界ヘビー級王者となった。

2005年11月には若手育成を目的したユニット、アックスボンバーズを結成。指導者、リーダーとしての一面も見せている。2006年1月4日の東京ドーム大会で新日本に初参戦。越中詩郎とのタッグで蝶野正洋&天山広吉組の持つIWGPタッグ王座に挑戦した。

2006/5/31の6人タッグ(後楽園)で新日本プロレスの中西学と2度目の対戦。これを契機に越境タッグを結成した。結成後の初戦(6/24ディファ有明大会)でNWAインターコンチネンタルタッグに挑戦し王座を獲得。2戦目(7/17札幌月寒大会)には新日本マットで暫定IWGPタッグ王座の奪取に成功した。9/20付けで、蝶野&天山組の持つ第48代IWGPタッグ王座は剥奪され、同日付けで正式に第49代IWGPタッグ王者となった。これにより、大森は史上初の4大タッグ(世界タッグ・IWGPタッグ・GHCタッグ・NWAタッグ)制覇を達成。なお、3大メジャーのタッグを制覇したのはベイダー、高山善廣、永田裕志に続き4人目である。タッグチーム名は「ワイルドチャイルド」(別名「ホーフィアー」)とされた。

9/22後楽園で村上和成とシングルで対戦、ラフファイトで応戦したものの松永光弘の乱入もあって大流血・敗北した。12/27後楽園ではかつてのタッグパートナーである高山善廣の襲撃を受けた(試合はノーコンテスト)。

2007年3月、NWAインターコンチネンタルタッグをかけてタイトル戦を行い(大森・中西VS高山・佐藤耕平)、佐藤からフォールを取られタイトルを失う。4日後にはIWGPタッグ戦を新日本で行うも、中西がフォールを取られる。

2007年10月、田中将斗とAWAヘビー級王座をかけて防衛戦を行った。激闘の末に田中のスライディングDでフォール負け、タイトルを失った。

2008/1/1に試合中の仲間割れから中西とのタッグ(ワイルドチャイルド)を解散。3/2にはついに中西とのシングル初対決が実現。これに勝利してZERO1-MAXの意地を見せた。7/23に開幕した火祭りではBブロックに配属され、ライバルである中西を撃破、さらに復帰後約一年に渡って不敗街道を驀進していた田中にも土を付けて田中、中西とともに同ブロック首位に。しかし8月3日、火祭り最終戦での決勝戦進出を賭けた3WAYタッグでは田中の頭脳プレイに敗れ、決勝進出はならなかった。

レスラー活動休業〜復帰

2008/8/26、「一身上の都合」により8月末日をもってZERO1-MAX退団を発表。一時休業することを表明した。8/30、後楽園ホールでの新日本プロレスPREMIUMで蝶野正洋と対戦。終始ペースを握り、場外でアックスボンバーを放ち、蝶野をノックアウトするが、試合は30分時間切れの引き分けに終わった。

2009/3/15、新日本プロレス後楽園ホール大会のセミファイナル6人タッグ戦終了後に突如出現し、休業以来続いていた沈黙を破る。かつての盟友のリング上の中西に握手を求め、再び共闘することをアピールした。8月にはG1クライマックスに出場。IWGP王者の棚橋弘至に勝利する活躍を見せた。

2010/1/20、妻が女将として働く実家の旅館を手伝うため、石川県金沢市に拠点を移し旅館業兼レスラーとして活動することを発表。

2010年9月、離婚し拠点を東京に移す。 2010/11/15のSMASHの記者会見で本格的に復帰すると宣言した。

2011年3月より、古巣の全日本プロレスに参戦。太陽ケアをパートナーにし、世界タッグ選手権に挑戦した。 同年4月、7年ぶりにチャンピオン・カーニバルに出場。7月、ケアとのタッグで再び世界タッグ選手権に挑戦した。

8/27に行われるALL TOGETHER 東日本大震災復興支援チャリティープロレスへの出場が発表された。

人物

内館牧子著の『プロレスラー美男子列伝』では「ノーブルな正統派美男子」と評され「こういったコラムを書く時には彼を初回に書くつもりだった」と言わしめるほどの美形レスラーでもある。ZERO1-MAX中継実況の塩野潤二からは、“和製ヘラクレス”と形容される。趣味は釣りで、東京中日スポーツにて不定期連載有り。プライベートでは同じく釣り好きの田上明と仲がいい。また読書も趣味で、ジャン=ポール・サルトルの「嘔吐」などを愛読している。

AWA王座への挑戦に伴うAWA紳士マニュアル遵守規定に感化されて以来「プロレスラーは紳士であれ」がモットー。公式の場では必ずスーツを着用している。またファンとの交流でも、サインを求める子供たちに笑顔で応じる場面が目撃されるなど、ギミックではない大森本人の紳士ぶりが窺える。一方で、新日本プロレス初参戦のIWGPタッグ戦で敗れると、悔しさのあまりトロフィーを破壊し、ファンからのブーイングを浴びるとともに実況からも「大森は非常に紳士的な選手だと思っていたのですが…」「今まで見たこともないような酷い行為」と言われるなど、感情的な一面もある。

東洋水産のカップ麺「でかまる」が「おおもり」姓の人を集めるキャンペーンを実施した際、スタッフに勝手に一般応募され、当選。イベントでは前述のタッグ王座ベルトとカンニングペーパーを手に参加し、会場を大いに沸かせた。その後、党首決定選挙を勝ち抜き、でかまる党党首に就任している。

2002年に結婚した元妻(2010年離婚)とは、馳浩の選挙応援の際に知り合っている。

映画「ヒトリマケ」に出演した際にはオカマの借金取り役となり、演技力の高さも披露した。その後も映画「ジェネラル・ルージュの凱旋」「ヤッターマン」などに出演している。

タイトル歴

全日本プロレス
  • 世界タッグ王座
  • アジアタッグ王座(防衛回数12)
  • 2000年チャンピオン・カーニバル準優勝
  • 第2回および第3回あすなろ杯争奪リーグ戦準優勝
プロレスリング・ノア
  • GHCタッグ王座(第3代)
新日本プロレス
  • IWGPタッグ王座(第49代)
ZERO1-MAX / ZERO-ONE
  • AWA世界ヘビー級王座
  • NWAインターコンチネンタルタッグ
  • NWA認定UNヘビー級王座
WLW
  • WLW世界ヘビー級王座
EWA
  • EWA世界ヘビー級王座
その他
  • GAY世界アナル級初代王座(男色ディーノによる自作ベルト。しかし戴冠直後に返上)

参加した旗揚げ戦

前述のように、多くの団体の旗揚げ戦に参戦している。以下は旗揚げ興行に参加した団体である。

  • プロレスリング・ノア(2000/8/5)
  • ZERO-ONE(2001/3/2)
  • WJプロレス(2003/3/1)
  • ZERO1-MAX(2005/5/1)
  • キングスロード(2006/1/15)
  • レジェンド・ザ・プロレスリング(2011/1/10)

入場テーマ曲

  • SEE FAR MILES / 佐野元春 with THE HEARTLAND
  • SMASH UP / WJ.ROCK's (未CD化)

大森隆男スペシャルシングルマッチ

FIGHTINGTVサムライが名づけた、大森の一連のシングルマッチ(特にエンターテイメント系選手との対戦)の呼称。

  • 第1弾 DJニラ戦 2005/2/27 池袋サンシャインシティ
  • 第2弾 男色ディーノ戦 2005/6/17 後楽園ホール
  • 第3弾 ランジェリー武藤戦 2006/5/5 後楽園ホール
  • 第4弾 "ハリウッド"ストーカー市川戦 2007/11/13 後楽園ホール(デビュー15周年記念試合)






今井良晴
1959/10/16

日本のリングアナウンサー、プロモーター、株式会社マルプロ代表取締役社長。東京都目黒区出身。

経歴

1991/4/21、全日本女子プロレス後楽園ホール大会の高橋美華・神谷美織組対長谷川咲恵・山元真由美組戦で初コール(デビュー)。全日本女子プロレス後期のメインリング・アナウンサーとして活躍し、リング外では広報を担当して経営を支えた。クラッシュギャルズ解散後の低迷期、団体対抗戦ブーム、新生全女、全女の解散と、1990年代以降の全女を知る人間の一人である。会長であった松永高司とは、全女解散後も何かある場合に同行おり、公私ともどもの付き合いが続いている。

全女に関わる傍らで、2001年4月に設立した株式会社マルプロの代表取締役社長となり、総合格闘技のプロモーター業も行うようになる。2004年にはマルプロジムを設立してジムの運営を始めた。リング・アナウンサーとしてもさまざまな団体でリング・アナウンサーを行っている。また『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』の企画『山崎 VS モリマン』のリング・アナウンサーを6度目の対決から全て担当している。

人物

  • 矢沢永吉信者である。
  • 全女最後の2年間は一度も給料が出なかったため、早朝に豆腐配達をするなどで生計を維持した。













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