本文へスキップ
 



5,000本以上の動画から
キーワード検索!

Google

WWW を検索
"極め”内検索
重要なお知らせ
2010/8月以降おまとめは休止しました。
動画検索はキーワードで!!


リンク切れ、レンタル、
お探し中などの問い合わせ

プロレス/格闘技
誕生日/忌日
10/17

新着(ニュース、興行・結果、Youtube動画)
今日は何の日?


ブラック・キャット
Black Cat
1954/10/17 - 2006/1/28

マル・ビクトル・マヌエルMar Victor Manuel)、メキシコのプロレスラー、レフェリーである。メキシコシティ出身。プロレスラー、およびレフェリーとしての最終所属は新日本プロレス。愛称は「ネコちゃん」。

甥がスギ・シト、マヌエル・ロブレス、パンチト・ロブレス、父がウロキ・シト

経歴

1977/4/21メキシコにてプロレスデビュー。デビュー当時のリングネームはウロキ・シト・ジュニア、後にクロネコ(Kuroneko)と改名。

メキシコの団体を中心に活動していたが、1981年にプロレス留学目的で新日本プロレスに登場する。日本でのデビュー戦は4/21の小山ゆうえんちにて行われたタッグマッチであった(パートナー:星野勘太郎 対戦者:木戸修・永源遥組)。

以降新日本のリングをレスラー活動の中心の場としていくことになる。晩年まで用いたリングネームのブラック・キャットは日本に来てから用い始めたもので、メキシコで名乗っていた日本語に由来するリングネームを英語読みにしたものである。リングネームはブラックキャットだが、試合表のパンフレットには「クロネコ」と書かれていた。

新日本に所属している間も提携団体を中心に海外マットへも参戦し、1994年2月から6月の間はAAAでルードとして活動し、1998年1月にはWCWへ登場している。また、新日本の台湾遠征の際には、「老虎(タイガーマスク)」としてファイトしたこともある、その時はメインを務め、当時のトップ選手だったワイルド・ペガサスに勝利した。

一時期だけ猫をあしらった覆面を被って試合をしていたが、短期間で素顔に戻っている。

2000年頃から体の故障が多くなる。リハビリの間にアメリカにて栄養科学とボディビルの資格を取得。以降指導者にポジションを変えていくことになる。2003年1月からはレフェリーに転向。新日本のマットでレフェリングを行っていた。選手としての正式な引退はしていない。

2006年1月28日午前3時、急性心不全により死去。

エピソード

  • 1987/3/27大阪城ホールにて開催された「INOKI闘魂LIVE Part2」の「アントニオ猪木VSマサ斎藤」に乱入した海賊男の正体といわれる。当初の予定だと猪木を控室に拉致するはずが、段取りを誤ってマサを拉致してしまった。自分の乱入のために暴動を起こしてしまった事を最後まで気にしていたという。

クロネコ





バロン・フォン・ラシク
Baron Von Raschke
1940/10/17

アメリカ合衆国の元プロレスラー。ネブラスカ州オマハ出身。本名はジェームズ・ドナルド・ラシクJames Donald Raschke)。日本での異名は妖獣

来歴

コロラド大学でレスリングの名選手として活躍、数々のタイトルを獲得して1964年には東京オリンピック・グレコローマンスタイルでアメリカ代表に選ばれたほどの実力者。五輪は怪我で辞退し、同じくレスリングの名選手だったAWAの総帥バーン・ガニアにスカウトされて1966年にプロレス入り。当初はジム・ラシクのリングネームで正統派レスラーとして活動していた。

1967年にマッドドッグ・バションの助言により、カナダのモントリオールにてスキンヘッドのナチ・ギミックに変身し、バロン・フォン・ラシクを名乗ってヒールに転向。同年11月にエドワード・カーペンティアからIWAインターナショナル・ヘビー級王座を奪取して脚光を浴びる。1970年3月にはディック・ザ・ブルーザーを破りインディアナポリス版のWWA世界ヘビー級王座を獲得した。

日本には1971年11月、AWAと提携していた国際プロレスに初来日。ストロング小林のIWA世界ヘビー級王座に挑戦している。1972年3月の再来日では第4回IWAワールド・シリーズに参加し、リーグ戦で対戦したアンドレ・ザ・ジャイアントをレスリングテクニックで翻弄した。同年5月には小林のIWA王座に再挑戦している。

1975年12月、全日本プロレスのジャイアント馬場が「アントニオ猪木の新日本プロレスをも含めた他団体に広く門戸を開く」として開催したオープン選手権に国際プロレスが協力した関係でラシクも参戦する。この大会でラシクは馬場の開幕戦の相手に起用され、得意のブレーン・クローで健闘するも、馬場の十六文キックと三十二文ドロップキックの前に敗退(なお、馬場の最終戦の相手には同じく国際の常連外国人でオープン選手権に参加していたホースト・ホフマンが起用された)。これ以降ラシクは全日本プロレスに参戦することとなった。

1977年3月にはノースカロライナ州グリーンズボロで馬場のPWFヘビー級王座に、また同年5月には札幌でジャンボ鶴田のUNヘビー級王座に挑戦している。1981年の世界最強タッグ決定リーグ戦には「青銅の爪」キラー・カール・クラップとの「クロー・コンビ」で参戦したが、両者とも明らかに全盛期を過ぎており、馬場&鶴田、ザ・ファンクス、ブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカ、ハーリー・レイス&ラリー・ヘニング、タイガー・ジェット・シン&上田馬之助、ザ・シーク&マーク・ルーインといった強豪の中に入っては下位に甘んじるほかなかった。現役での来日はこれが最後となったが、ジャンボ鶴田がAWA世界ヘビー級王者としてアメリカで防衛戦を行った時にラシクも挑戦している。

アメリカではトップクラスのヒールであり、1970年代はフレッド・ブラッシーをマネージャーにニューヨークのWWWFを襲撃、1977年3月28日と4月25日のMSG定期戦にてブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に連続挑戦した。NWAの主要テリトリーでも活躍し、南部エリアではダスティ・ローデスと抗争を展開、アンドレ・ザ・ジャイアントとのシングルマッチも各地で組まれた。タッグ・プレイヤーとしても才能を発揮し、主戦場のAWAではパワーファイターのスーパースター・ビリー・グラハム、ラフファイターのマッドドッグ・バション、技巧派のホースト・ホフマンなど、それぞれタイプの異なるパートナーとのチームで実績を残している。WCWの前身であるNWAミッドアトランティック地区ではポール・ジョーンズやグレッグ・バレンタインとのコンビでNWA世界タッグ王座も獲得した。

1982年頃に古巣のAWAでベビーフェイスに転向し、クラッシャー・リソワスキーとベテラン・コンビを結成。1984年5月6日にケン・パテラ&ジェリー・ブラックウェルからAWA世界タッグ王座を奪取し、8月25日にロード・ウォリアーズに敗れるまで保持した。ウォリアーズとはその後、ミッドアトランティック地区でも抗争。1988年にはWWFと短期間契約し、ザ・バロンの名前でパワーズ・オブ・ペイン(ザ・バーバリアン&ザ・ウォーロード)のマネージャーを務めた。

以降はAWAに戻り、1991年にAWAの活動が終了するまで単発的にリングに上がっていたが1994年に引退。近年もカリフォルニア・アレイ・クラブなどのOB会やイベントに時折顔を見せており、2010年4月17日にはTNAロックダウンのファンフェスタに、ドリー・ファンク・ジュニアやボビー・ヒーナンと共にレジェンドとして出席した。

プライベートでは哲学書を読むなど読書家でもあり、博学で紳士的な一面も持ち合わせる。

獲得タイトル

シングルタイトル
  • WWA世界ヘビー級王座(インディアナポリス版):3回
  • NWAジョージア・ヘビー級王座:1回
  • NWAフロリダTV王座:1回
  • NWAアメリカン・ヘビー級王座:1回
  • NWAブラスナックル級王座(テキサス版):1回
タッグタイトル
  • AWA世界タッグ王座:1回(w / クラッシャー・リソワスキー)
  • NWA世界タッグ王座(セントラル・ステーツ版):1回(w / マッドドッグ・バション)
  • NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版):3回(w / ポール・ジョーンズ×2、グレッグ・バレンタイン)
  • NWA世界6人タッグ王座(ミッドアトランティック版):1回(w / イワン・コロフ&ニキタ・コロフ)
  • WWA世界タッグ王座(インディアナポリス版):1回(w / アーニー・ラッド)
  • PWAタッグ王座:2回(w / ケン・パテラ、ブラッド・レイガンズ)

etc.


 
広告







  

















 ↑ トップへヤフーオークション
 


 Copyright(c) Mitsuishiya, Inc. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system