大仁田厚
1957/10/25
日本の男性プロレスラー、元政治家、タレント・俳優としても活躍。長崎県長崎市出身。元参議院議員。身長181cm、体重77kg(全盛時は105kg)。弟(異父弟)は大東文化大学法学部准教授の松原孝明。
人物
実家は風呂敷の製造・販売業。長崎県長崎市立磨屋小学校長崎市立桜馬場中学校卒業。中学卒業後、瓊浦高等学校に入学するも中退し、日本一周徒歩旅行を計画。長崎県庁前から出発し神戸まで辿り着いたが、火事で家が全焼した知らせが入り断念した。ちなみに長崎県庁を出発する時に自分で地元マスコミを呼び、その様子が新聞に載ったというエピソードがある。
41歳にして高等学校を再受験し合格、1999年4月、駿台学園高等学校定時制課程普通科3年次編入、2000年3月に卒業。2000年4月、明海大学経済学部に入学し、1年で中退。2001年4月、明治大学政治経済学部(二部)経済学科に入学。国会議員、プロレスラー、タレントとして活動しながら大学に通い続け、社会人特別入試合格時には「4年というと嘘っぽくなるから、6年で卒業したい」と語っていたものの4年で卒業。
プロレスラーとして
全日本プロレス時代
1973年、日本一周徒歩旅行を断念後、ジャイアント馬場に憧れ、全日本プロレスに「新弟子第一号」として入門し、1974/4/14の後楽園ホール大会における佐藤昭雄戦でデビュー。
その後アメリカなどへ長らく海外修業に出たが、遠征中の1982/3/7、アメリカ・ノースカロライナ州のシャーロッテコロシアムで、チャボ・ゲレロの持つNWA世界ジュニアヘビー級インターナショナル選手権に挑戦、セコンドに付いたテリー・ファンクの目前で、敵地でのタイトル奪取を成し遂げた。王座奪取後、日本に帰国する前にメキシコ遠征を行い、サングレ・チカナに王座を奪われるものの、すぐに奪回し帰国する。
このベルトを引っさげて凱旋帰国した大仁田は、当時ライバル団体の新日本プロレスで爆発的人気のあったタイガーマスクに対抗し、ジュニア戦線のチャンピオンとして活躍。佐山タイガーの4次元殺法に対して「炎の稲妻」と呼ばれ人気を博すが、1983/4/20、東京体育館でのヘクター・ゲレロとの試合終了後、リングを飛び降りる着地時に足を滑らせ、全体重がかかった状態で膝を床に打ち付けてしまい、左膝蓋骨粉砕骨折をしてしばらく欠場。
一度は復帰するも、ウルトラセブン、マイティ井上、渕正信、マジック・ドラゴンらの台頭によるジュニア戦線の充実についていけず、馬場夫妻の勧告により1984/12/2引退を賭けてマイティ井上と闘うも敗れ、翌1985/1/3に後楽園ホールで引退式。馬場は付き人の大仁田を可愛がり、養子にしようと本気で考えていたし、馬場元子は引退式後に大仁田を抱きしめて涙していたため、馬場夫妻にとっては苦渋の決断だったことが伺える(川田利明は1997年2月に週刊プロレスでのインタビューにおいて「大仁田さんが最初に引退した時、元子さんは号泣していた」と語り、その1997年2月に大仁田は自身の愛弟子であるハヤブサを全日に参戦させようと馬場と交渉の場を持った。その際、馬場は大仁田を邪険に扱うことなく「欲しいものがあったら言え」と大仁田に伝え、ハヤブサの全日参戦を承諾した)。
FMW設立
その後、タレントに転向し、『11PM』等にレギュラー出演するが、この時はタレント活動は長続きせずに辞めてしまう。その後、事業家として一時成功するが、すぐ没落して借金まみれになり、土木作業員や配達員をしてしのいだ後ジャパン女子プロレスでコーチに就任。1988年、同じくコーチをしていたグラン浜田との団体内での遺恨の決着をリング上でつけるために12/3ジャパン女子後楽園ホール大会の浜田戦で現役復帰した。
翌1989年、剛竜馬率いるパイオニア戦志のリングに上がり、剛と対戦。さらに7/2に開催された「格闘技の祭典」にて、空手家の青柳政司と対戦した後、手元にあった全財産5万円を元手に自らの団体FMWを旗揚げ。10/6に名古屋市露橋スポーツセンターにて旗揚げ戦を行う(対青柳戦)。1990/8/4に汐留で行われたターザン後藤とのノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで一気にブレイク。この試合は東京スポーツ主催のプロレス大賞年間最高試合賞を受賞する。その後も川崎球場や西宮球場などの大会場で大掛かりなデスマッチを開催し続け、「涙のカリスマ」、「デスマッチの教祖」と異名を取る一方、1991年には日本テレビの『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』にも取り上げられ知名度を上げる。また、ザ・シークやタイガー・ジェット・シン、テリー・ファンクら往年の名選手を招聘し、幾多の抗争を展開した。
1994/11/1には新高輪プリンスホテルで、縫合個所「1000針突破記念パーティー」を開催。
1994/5/5の川崎球場大会のメインイベントで天龍源一郎と対戦するも敗北し、一年後の引退を宣言。翌1995/5/5に、川崎球場で弟子のハヤブサと戦い、2度目の引退。引退試合まで一年間をかけて「引退記念ツアー」を銘打ち、大仁田の試合が見納めになると思ったファンを集めた。
一時は俳優業に専念していたが、ミスター・ポーゴの「引退試合で、ライバルだった大仁田とタッグを組みたい」という願いを叶えるといったアングルで、この一試合限定という建前で1996/12/11のFMW駒沢体育館大会で2度目の復帰戦を行い(大仁田、ポーゴ、田中正人、黒田哲広組
対 テリー・ファンク、大矢剛功、ザ・ヘッドハンターズ組)、そのままなし崩しにリングに上がり続けたが、荒井昌一社長、ハヤブサ、冬木弘道らとの対立が深まり、1998/11/20の横浜文化体育館大会を最後に、FMWを追放される。この時の対戦相手は1997年に現役復帰したミスター・ポーゴであった。
グレート・ニタ
レスラーとしての大仁田厚のもう一つの顔。グレート・ムタのパロディーでもある。元々は、FMWが旗揚げして間もない1990年に、大仁田がアメリカ遠征を行った際、現地の試合でムタばりの顔面ペイントを施し試合を行い、当時の週刊プロレスの記事に『グレート・ニタ?』と紹介されたことをきっかけとする。その時は、遠征時だけの限定だと思われており、大仁田自身もこの『グレート・ニタ』に関しては全く語ることはなかったが、1994年にミスター・ポーゴとの抗争において12/1の広島グリーンアリーナ大会で、正式にグレート・ニタとしてのデビュー戦を行う(ニタ、ホー・チー・ウィン組対ポーゴ、大矢剛功組)。素顔の時と違い、奇声を発したり、奇妙な行動などを行い、対戦相手を困惑させるファイトスタイルを用いる。ポーゴの凶器攻撃を受けきった後逆襲に転じる試合展開に徹し、大仁田ではできない残虐な攻撃を仕掛けるところに持ち味があった。
大仁田2度目の引退試合に先立ち、1995/5/1に大阪府立臨海スポーツセンターにおいてニタの引退試合が行われた(ニタ、田中正人、新山勝利組対ポーゴ、ザ・グラジエーター、保坂秀樹組)。試合後、ニタは大阪湾の彼方に消え、二度と現れないものと思われた。
だが、大仁田が現役復帰して新日本プロレスに参戦した際、武藤敬司がニタの存在に不快感を示したのをきっかけに、ニタと本家グレート・ムタとの一騎打ちが決定。その際『ワールドプロレスリング』内では、二タが消えたとされる大阪南港を舞台にした「ニタ復活」の映像が放送された。その寸前まで真鍋由アナウンサーに対し「お前はグレート・ニタを見たいか!」「二タは生きている!今から呼ぶ!」と吼えていた大仁田が、ニタとして大阪湾から現れ、真鍋が驚愕の表情を浮かべる顛末は、もはや奇天烈さすら感じさせる映像となった。
1999/8/28、神宮球場においてムタ対ニタが行われた。しかし盛り上がらぬ試合展開のままニタは敗北し、試合後「ニタは死んだ」として葬式が行われ、いつの間にか現れた大仁田は棺桶の前で嗚咽した。
しかしその後、2003年にWJへの参戦に伴い、「ニタは今魔界から帰ってきた」というアングルで再び復活させ、5/3のグランキューブ大阪大会で馳浩と対戦した(結果は「両者反則負け」)。
フリーレスラーとして
FMW追放後は、新日本プロレスへ参戦。1999年1月4日の東京ドームでの佐々木健介戦を皮切りに、蝶野正洋、グレート・ムタ、長州力らトップレスラー相手に、メジャーの新日本マットで電流爆破マッチも実現。「大仁田劇場」と称された、真鍋由アナとのやりとりは、視聴者を楽しませた。当時、新日本の選手の試合よりも、大仁田の喋りやパフォーマンスの方(「お前は電流爆破を見たいか?」など)が視聴率が高くなる場合すらあったという、新日本プロレスにとっては屈辱的な事実があった]。また、大仁田を表紙にした専門誌は売り上げが増えたとの報告もある。
また、新日本参戦とほぼ並行して、一部のインディー団体やFMWのOB・OGたちの協力を得て「大仁田厚プロレス」と銘打った自主興行を開催。小規模ながらも団体並みにシリーズを組んで、地方巡業も行った。
2001年、「ジャイアント馬場三回忌追悼興行」で古巣・全日本に16年ぶりの参戦。テリー・ファンクと組み、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ジャイアント・キマラ組と対戦した。
2003年には、WJプロレスに参加。越中詩郎と電流爆破マッチを行う。
2005/3/26午前、日本武道館での明治大卒業式に出席し、午後には、後楽園ホールでプロレス興行「プロレス卒業試合」を行う。試合は、矢口壹琅と組んで天龍源一郎&越中詩郎と対戦する「ノーロープ有刺鉄線ストリートファイトトルネード・バリケードマット・ダブルヘル・フライパンデスマッチ」で、これで3度目の引退となったが、すぐに「曙太郎とデスマッチをやりたい」と発言するなど、誰も本当に引退したとは思っていなかった。
大方の予想を裏切らず、翌2006年には、「国のために死んでいった方々に礼を尽くす、記念すべき大会。もし良かったら参加させてほしい」と、4月1日の靖国神社奉納プロレス大会への参加を中村祥之代表らに直訴し、「大仁田厚提供奉納試合」として3度目の復帰戦を行う(大仁田、田中将斗、ランジェリー武藤組
対 ケルベロス、ヤヤ谷口、イチローキング矢口組)。当初はやはり「この一試合限り」ということだったが、2007年1月に正式にプロレスラー復帰を宣言。2月に行われるプロレス団体・二瓶組復活興行に参戦。それまで認める発言をしていた曙に対し「プロレスにはいらない存在、年内に葬り去る」と発言。
2007/4/29、夕張市でチャリティー興行(自主興行)を開催。自らも出場したメインの有刺鉄線デスマッチには、衆議院議員・鈴木宗男を特別レフェリーに迎え、破天荒な試合を繰り広げた。
2008/2/5、都内会見にて現役復帰を発表(通算5度目)。同月24日のLOCK UP後楽園大会に予告通り乱入し、長州力宛てにタッグ結成を申し出る手紙を渡す。乗り気な発言は見られなかった長州だったが、後日、リキプロ道場にて長州と対面しタッグ結成をほのめかした。4月、金村キンタローの復帰を思わしくないとする発言に、金村本人が激怒。後に開かれた大仁田の会見に金村が乱入し一触即発となった。5月、LOCK
UPの大会にて、金村・折原昌夫vs大仁田・越中がメインに組まれたが、結果は大仁田が毒霧攻撃で反則負けとなった。この2月の会見後、フリーとなった若林健治アナ(元・日テレ)との掛け合いから、「大仁田劇場」も復活となった。
2008/12/18、「昭和プロレス 第2弾興行」後楽園ホールでメモリアルタッグマッチ(20分1本勝負)に出場。栗栖正伸とタッグを組み、グラン浜田・鶴見五郎組に敗退した。
2009年9月26日 『大仁田興行』新木場大会。メイン終了後にターザン後藤が姿を現し,大仁田と握手。歴史的瞬間となった。
2010年5月5日、『大仁田興行』新木場大会で、ターザン後藤と組みザ・グレートパンク&初代ザ・シューター組と対戦し、『6度目』の引退試合を行うが、すでにカムバックを匂わす発言もしている(過去にプロレス雑誌で“生涯現役”と豪語しており、カムバックの可能性大だと予測されている。また、ターザン後藤から大仁田の引退はFMW時代から全く認められていない)。
2010/11/22、ミス・モンゴルのデビュー15周年記念興行で、田中将斗&黒田哲広&ミス・モンゴルと組み、ミスター・ポーゴ&リッキー・フジ&ジ・ウインガー&保坂秀樹組と対戦。大方の予想通りカムバックしている。
評価
人によって好き嫌いが極端に分かれるタイプのプロレスラーだが、ドラマに出演し巧みな演技を見せる等、一般的な知名度は比較的高く、またかつては“大仁田信者”と呼ばれる熱狂的な支持者も多かった。特にFMWを興して以降は、それが奇跡のカムバックと捉えられただけでなく、「大好き」とまで公言したプロレスに対して身を投げ打つかのような姿勢が強く支持された。
「テレビ番組が無ければプロレス団体運営は出来ない」と言われていた時代に、奇抜なデスマッチやパフォーマンス、様々なテレビ番組への出演により、プロレスに興味の無かった若年ファンの底辺を広げFMWの経営を軌道に乗せたことを評価すべきだという意見が存在する。また、FMWが対立概念となり、伝統ある他団体の観客動員増にもつながり、業界全体への功績は大きかったとの評価もある。
逆に否定的な評価・意見としては、FMWが成功したために、後にインディープロレス団体が乱立する遠因となったとするものがある」。さらに、FMWでの活動は流血やパフォーマンスが派手でデスマッチ中心であったために「邪道」と呼ばれ、キワモノとする意見も存在した。
新日本参戦後は、ストリートファイトを強調すべく、「邪道」と背中に大きく書かれた黒の皮ジャンに、「EVIL WAYS」と記されたジーンズがトレードマークとなった。しかも入場時には、場内禁煙の会場にもかかわらず、煙草を燻らすパフォーマンスまで行い度肝を抜いた。これには新日本側も一度遺憾の意を示したが、大仁田は「俺は東京ドームで煙草が吸いたい」と頑として譲らなかった。かくして後の東京ドーム大会の入場時には、吸殻がいつ捨てられてもいいように大きい灰皿(鉄板製)を持ったスタッフが、花道の下で大仁田の動きに合わせて歩くという光景も見られた。なお、「邪道」の黒皮ジャンは、2006/4/1の靖国神社プロレス大会で、一回盗難に遭っている。
一方で礼儀を重んじる一面もあり、同期である長州力に対しては、(年上ということもあってか)たとえ敵対時でも名前をさん付けで呼ぶなどして基本的には敬語で接している。これには長州も「さん付けで呼んでくれるのか?」と唖然とするほど。のみならず蝶野正洋や橋本真也、松野行秀ら後輩レスラーに対してまでも、名前をさん付けで呼ぶことすらある。
プロレスラーとしてのエピソード
- 若手時代、ミル・マスカラスが控え室でシャワーを浴びているときに、勝手にマスクをかぶっていたら素顔のマスカラスにみつかり、こっぴどく怒られた。
- 馬場の付き人時代、馬場の試合用パンツを忘れてきたため、外国人レスラーのパンツを黙って借りてきて、馬場に履かせた。これが試合後に発覚し、馬場に怒られた末、空手チョップを受け、数日口を聞いてもらえなかった。その後、今度は馬場の衣服を忘れた時に、今度は正直に告白し土下座して謝ったら、黙って許してもらえた。それどころか馬場は、その時の巡業の間中、団体のジャージでずっと過ごしたという。大仁田はこのことから「馬場さんに大切なことを教わった」と回顧している。
- 大仁田はこれまで、事あるごとに馬場に対する気持ちを語ってきているが、膝の怪我による引退、1年間に及ぶ引退シリーズ、そして幾度かの復帰など、プロレスにおける行動は、NWA世界ジュニアヘビー級インターナショナル選手権を獲得する際にサポートしていたテリー・ファンクとの共通性が強い。
- 経歴欄にある、1989年の「格闘技の祭典」での青柳との異種格闘技戦においては、大仁田側のセコンドにはスペル・デルフィン、邪道、外道(いずれも若手時代)が付き、青柳側のセコンドには佐竹雅昭、松永光弘がいた。試合終了後、両セコンド陣はリング上に殺到し、入り乱れて大乱闘を繰り広げており、陰ながら「夢のカード」が実現していたともいえる。
- 全日本のジュニア戦線で売り出した頃は、片岡鶴太郎に顔が似ていると言われた。その当時のトレードマークは臀部に「ONITA」と書かれた青いショートタイツだった。FMWでのカムバック後は、そのショートタイツに白いタンクトップが加わった。当時、バラエティ番組で芸能人がプロレスの物真似をする際、ダチョウ倶楽部の上島竜兵は、よく大仁田に扮しており、白いランニングシャツとやはり臀部に「ONITA」と書かれた青いタイツを履き、さらに額に大きな絆創膏を貼り付けた格好で登場していた、同じく芸人の我が家の杉山裕之が大仁田に似てるとイジられるネタがあり、2011年2月6日放送の「クイズ☆タレント名鑑」のコーナー「芸能人!このオファー引き受けた?引き受けなかった?クイズ」で「我が家に入った大仁田厚」のオファーを承諾し、杉山と入れ替わり我が家のコントをやった、それが杉山との初対面であり、大仁田自身も杉山に似てると良く言われるとの事。
- 2003年の試合中、大仁田の秘書の中牧昭二がセッド・ジニアスに暴行し、その後大仁田がメールで恐喝を行ったとしてセッド・ジニアスから告訴される。大仁田も反訴する意思を見せていたが、2007年3月15日、最高裁判所第一小法廷(裁判長・泉徳治)は、大仁田側の上告を棄却する決定をした。これにより、セッド・ジニアスを蹴った中牧昭二の不法行為と大仁田の使用者責任を認めて78万円の支払いを命じた一、二審判決が確定した。
獲得タイトル
- NWAインターナショナル・ジュニア(前身に当たる「NWA世界ジュニアヘビー級インターナショナル選手権」も獲得)
- AWA南部タッグ (パートナーは渕正信)
- NWA南部タッグ (パートナーは渕正信)
- WWAブラスナックル
- WFDA世界マーシャルアーツ
- WFDA世界マーシャルアーツタッグ
- 世界ブラスナックル
- 旧NWA五大湖地区USヘビー
- 世界ストリートファイト六人タッグ
- ボブワイヤーストリートファイト六人タッグ
タレント活動
芸能活動も積極的に行い、NHKの大河ドラマ『秀吉』では蜂須賀小六役を演じた。2009年現在もタレント活動は続けており、時に番組のゲストであるゴージャス松野に椅子を投げつけるなどの暴力的な言動をとり、他のゲストから一斉に非難を浴びるなど(その後両者は互いに握手を交わして和解、今もその破天荒さは健在である。
後日大仁田は「台本に『松野の言葉にキレた演技をしてくれ』といった内容のことがあるから、従った」と、突発的ではなく段取り通りだったことを雑誌のインタビューで述べている。
しかし、その一方で吉田豪や杉作J太郎などは大仁田を「リング内よりもむしろリング外の方がガチンコの人物で、下手に絡むことが出来ない。天性のアドリブ能力で渡り歩いてきた人物のため、突発的にとんでもない行動を起こすことがある」と評価している。吉田によれば前述の松野への椅子投げなどは台本で想定している演技の範囲を超えた、完全にガチの行動であったという[要出典]。
吉田はかつて大仁田が長州力に挑戦した時の一連のアングル(引退中の長州に大仁田が執拗に対戦表明を行い、長州が練習で汗をかいたシャツを渡して返礼とした)を模して、ターザン山本が大仁田に対戦表明を行い、自身のウンコ付きのパンツを渡すという企画を北野チャンネルで行った際に、大仁田の通っていた学校までマキタスポーツが山本のパンツを渡しに訪れた処、大仁田はパンツを見た瞬間に突然何の前触れもなく「責任者を出せ!!」とマキタスポーツや番組スタッフ相手に大暴れし始め、マキタスポーツに同行していたハチミツ二郎が大仁田に謝罪するまでは、全く番組の収録にならなかったという逸話を語っている]。
出演番組
- 志村けんのだいじょうぶだぁ(フジテレビ)
- 往診ドクター事件カルテ(テレビ朝日)1992年
- 秀吉(NHK)1996年
- ひと夏のプロポーズ(TBS)1996年
- コーチ(フジテレビ)1996年
- ボディーガード(テレビ朝日)1997年
- LOVE&PEACE(日本テレビ)1998年
- 私の青空(NHK)2000年
- サバドル!(テレビ東京)
- 大仁田厚のファイヤーランド(長崎文化放送)
- LOVE&PEACE(日本テレビ)
- 金曜エンタテイメント「大家族デカ(第1作のみ)」(フジテレビ)
- タイムキーパーズ (フジテレビ)
- ぶらり途中下車の旅・京王帝都電鉄線・西武池袋線編(1997年・1998年、日本テレビ)
- 2COOL!(東海ラジオ)
- すんげー!Best10司会(朝日放送・1995年、わずか3か月で降板)
- 大仁田厚のクルージング・ナガサキ(エフエム東京)1998年4月-1999年10月
- ここがヘンだよ日本人(TBS)
映画
- 刑事物語 くろしおの詩(1985年・東宝)
- 幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬 (1986年・東宝)
- ダンガン教師 (1995年)
- ソクラテス(1996年・日活)
- モスラ3 キングギドラ来襲(1998年・東宝)
- トリック劇場版2(2006年・東宝)
- attitude(2008年)
テレビゲーム
- 大仁田厚 FMW(スーパーファミコン) - ※ゲーム中にレスラーとして本人が登場する。
- いつでもどこでも 大仁田厚の政治クイズDS(ニンテンドーDS)
政治家として
2001/7/29に実施された第19回参院選に比例区で出馬、当選。「小泉チルドレン」の一人となった。元参議院議員平野貞夫によると、当初は自民党からではなく小沢自由党から出馬することが決定していたが、大仁田が仕事の金銭問題を理由に出馬断念を表明した(平野によると大仁田は他党から出ないことを明言していた)。しかしその直後に自民党から出馬を表明してこの約束を反故にしたという。同選挙では自由連合より佐山聡も出馬していたことから、かつてのライバル関係を知るファンから注目を浴びたが、双方とも互いの出馬にはほとんど触れず、大仁田のみ当選。
2005/8/8、参議院本会議での郵政民営化関連法案採決を棄権。理由は「離島の郵便局が守られないから」とされる。2007/6/23、次期参議院選挙に不出馬、政界引退を表明。9/7、自民党を除名された。
パフォーマンス
- 2001年7月の参院選に出馬の際、「当選したら猪木と闘う」という選挙公約を掲げていた。
- 「当選したら学生服で登院する」とも主張していたが、初登院時はスーツ姿で登場。以後1度も学生服で議員活動をすることは無かった。
- 2003年7月25日、参議院外交防衛委員会でイラク特措法案(イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法案)の採決で、委員長の護衛役としていたが強行採決となり、自由党(当時)参院議員の森裕子に髪をつかまれ頭を殴りつけられた。これに対してはマスコミのインタビューを通して森に猛抗議を行っている。
- 2005年8月8日、参議院での郵政法案否決後、国会から『ワイドスクランブル』(テレビ朝日系)に生出演。ゲストとして出演していた浜田幸一に「議決権を行使しない者に議員の資格はない」「反対なら反対できちっと明確に意思表示をする。それが、あなたの長崎県の代表としての務めだ」などと言われ「でも、僕は小泉さんの子供ですから…僕には裏切れなかったんですよ!!」と突如怒鳴りだした。しかし、浜田から「何でお前がそこで怒鳴るんだよっ!!」と逆に激怒され、さっきまで激怒していた大仁田が突如冷静になり、逆に浜田から窘められる場面もあった。大仁田はその後「すいません」とだけ言ってカメラの前から立ち去った。
- 参議院での採決前には「衆議院が解散されたら離党する」と発言。しかし実際には離党しなかったため本人のホームページには非難の書き込みが殺到した。
- 郵政法案採決前に「小泉総理に直談判する」として面会を求めたが事前告知無しだったため断られる。法案否決直後は涙を流して小泉首相の強権的手法を批判した。しかし、第44回総選挙で自民党有利の情勢が伝えられると、掌を反して「民営化こそ改革です」と主張して片山さつきの応援に出向いた。この変節振りに非難が集中した。さらに、総選挙後法案採決に棄権したことに関して党紀委員会より戒告処分を受けた。
- 自民党衆院議員の杉村太蔵の軽率な言動に対し、彼の教育係を自ら買って出た。しかし杉村本人と党幹事長の武部勤は全く無視し、そのため武部に抗議文を提出した。
- 杉村の事務所に訪問した際、杉村本人が不在であったためマスコミに囲まれる中で不満を爆発させた。それ以外にもさまざまな行動で杉村・武部を批判する。
- マスコミから「(杉村への言動が)パフォーマンスなのでは?」という質問を受け「パフォーマンスですよ。パフォーマンスしてなんで悪い?」と発言した。
- 2005年12月22日、共同通信は2006年2月の長崎県知事選に大仁田が立候補を検討していることを報道した。このことは大仁田の関係者が長崎市内で開かれた知事選の立候補予定者説明会に出席していることから明らかになったものである。
- 2006年1月10日、長崎県知事選への立候補見送りを表明。金子知事が自身の掲げた政策の取り入れを検討するとしたため。この立候補見送りに対し、最初から立候補する意志はなく、一連のパフォーマンスではないかとの声もある。
このような数々のパフォーマンスから自民党衆議院議員の川条志嘉・杉村太蔵、参院議員の山本一太とともに「自民党のパフォーマンス議員」と揶揄される。
政界引退
2007年7月29日に行われる第21回参議院議員通常選挙では初当選時に引き続き比例区での公認が内定していたにもかかわらず、6月23日に記者会見を開き突如政界からの引退を表明した。
通常国会の国会会期延長により当初は7月22日に予定されていた投票日が1週間ずれ込んだことなどを理由に安倍内閣への不信感が強まったとしているが、スキャンダルが6月25日に週刊ポストに掲載予定で、当選の見込みがなくなったための身引きであることは明らかであり、この行動は批判を浴びた。なお、会見の中で「自分は若者の代表だ。夏休みでは若者の投票が減る」といった発言をしているが、当の本人が当選した2001年の参議院選挙の投票日も7月29日である。このことを大仁田本人が自覚しているのかは不明である。
6月25日発売の『週刊ポスト』は、大仁田が国土交通省のキャリア官僚とキャバクラ嬢やAV女優を参議院宿舎に招いて「乱痴気パーティ」を開いていたことを報じている。このことについて本人からは何のコメントもないが、大仁田と同期当選の舛添要一は東京スポーツ紙上で「この件が明るみに出て、これで引退するのなら格好悪い話」とコメントしているが、この報道が真実であるかは定かではない。
7月17日には党本部に離党届を提出した。その後は野党候補の応援演説(民主党公認の森裕子。大江康弘や同党、新党大地、国民新党推薦の多原香里など)をしていた。9月7日に、前述の野党候補の応援を理由に、党紀委員会全会一致で自民党を除名された。なお、提出され党本部預かりとなっていた離党届は不受理。
長崎県知事選出馬
政界引退後、故郷である長崎県でテレビやラジオの出演、地元紙への登場など精力的に活動を行う。景気低迷で中小企業等が厳しい状況に苦しむ姿を目撃し、長崎の再生を決意したとされる。
2009年10月20日、翌2010年2月の長崎県知事選挙に出馬する意向を固めたことが明らかになり、2010年2月4日に正式に立候補を届け出。2月21日に執行された選挙では9万8200票を獲得したが6人中3位となり落選した。
政治家としてのメディアへの登場
- 月刊誌「サイゾー」内の「ニュースのミカタ」
- 2006年12月号:中川昭一政調会長の核武装論問題についてコメント
- 2007年1月号:教育基本法改正問題についてコメント
- 2007年2月号:安倍政権100日目の総括についてコメント
その他のエピソード
- 大仁田がプロレスラーになろうと決心したのは、「子供の頃1967年4月に放送されたウルトラマンの最終回で初代ウルトラマンがゼットンに敗れたシーンを見て衝撃を受け、そのためウルトラマンの仇を討つために打倒ゼットンを志した」とされている。(1987年放送TBS「わいわいスポーツ塾」より)。同じプロレスラーの前田日明にも同様のエピソードがある。つまりウルトラマンがゼットンに倒されなければ大仁田がプロレスラーになることもなかったことになる。
- テレビ番組収録時に怪我をして大きな切り傷から出血してしまったが、近くに病院がないため、その場にあった瞬間接着剤で傷口を塞いでその場をしのいだ。その後、病院に行ったところ医者から「その処置は正しい」と言われた(その時使用した瞬間接着剤が、医療用の物かどうかは不明)。
- 2008年1月13日付けの本人のブログで、誤って自身のものと思われる携帯のメールアドレスを掲載してしまう。すぐに削除されたものの、コメント欄に乗せられたりしている。しかし、本人はアドレスを変える気がない様子。
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