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スペシャル・デリバリー・ジョーンズ/S・D・ジョーンズ
Special Delivery Jones/
1945/3/30 - 2008/10/26

コンラッド・エフレイムConrad Efraim)は、アフリカ系アメリカ人のプロレスラー。西インド諸島アンティグア島生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨークシティ育ち。

「スペシャル・デリバリー」とは速達郵便の意味であり、その異名通りのスピーディーなファイトスタイルが身上。1970年代後半から1990年代初頭にかけて、地元ニューヨークのWWWF / WWFを主戦場に、MSG定期戦の前座に欠かせない名ジョバーとして活躍した。

来歴 ]

イギリス領のアンティグア島に生まれ、幼少時に家族でニューヨークに移住。ボディビルやウエイトリフティングで体を鍛え、ニューヨーク出身のプエルトリコ系黒人選手ジョニー・ロッズのトレーニングのもと、1971年にデビュー。当時は黒人レスラーの先輩ルーファス・ジョーンズの「弟」を名乗り、ルーズベルト・ジョーンズRoosevelt Jones)のリングネームでNWAミッドアトランティック地区にて活動していた。

その後、S・D・ジョーンズスペシャル・デリバリー・ジョーンズ)に改名してロサンゼルス地区に移り、1975年1月にポークチョップ・キャッシュとの黒人コンビでハリウッド・ブロンズ(ジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツ)からNWAアメリカス・タッグ王座を奪取。1977年にも黒人のトム・ジョーンズと組んで同タイトルを2回獲得している。

この間、ニューヨークのWWWFにも出場。1976年9月にはボボ・ブラジルのパートナーに起用され、ジ・エクスキューショナーズ(1号=キラー・コワルスキー、2号=ビッグ・ジョン・スタッド)のWWWF世界タッグ王座に挑戦した。1978年頃よりWWWF / WWFに定着し、ベビーフェイスの中堅としてミッドカード戦線で活躍。1981年の下期には、当時の黒人レスラーのホープだったトニー・アトラスとのコンビでミスター・サイトー&ミスター・フジのWWFタッグ王座に再三挑戦した。

1982年1月、新日本プロレスに初来日。アブドーラ・ザ・ブッチャー&バッドニュース・アレンとトリオを組み、ブッチャー軍団の一員となってヒールを演じた。同年は4月と10月にも新日本に参戦し、4月開幕の『ビッグ・ファイト・シリーズ』ではハルク・ホーガンとも対戦。また、10/8の『闘魂シリーズ』開幕戦では長州力の「かませ犬発言」の元となったメインイベントの6人タッグマッチに出場している(猪木、藤波、長州vsブッチャー、アレン、ジョーンズ)。

この時期より、WWFではジョバーを専門に務めるようになり、ヒール選手の引き立て役に徹する。当時のWWFでは、王者ボブ・バックランドの首を狙ってニューヨークに乗り込んできたヒールは、マディソン・スクエア・ガーデンでのデビュー戦でジョーンズを完膚なきまでに叩きのめし、その強さと悪さを観衆に見せつける…という展開がルーティン化されていた。

1984年に入りビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下でWWFの全米侵攻が始まってからもその仕事ぶりは変わらず、1985/3/31のレッスルマニア第1回大会でキングコング・バンディに秒殺された試合は、ジョバーを全うした彼のベストワークとして語り草となった。

WWFには1980年代末までレギュラー出場し、1991年に引退した。タイトル戦線に絡むことはもちろん、特定のアングルが用意されることもなく、ひたすらヒール勢の「やられ役」を担い続けたジョーンズだが、その存在感はファンに強く支持され、1990年代にはアクションフィギュアも発売されている。

2006/4/1には、盟友トニー・アトラスのWWE殿堂入りのプレゼンターを務めた。2008年10月26日、生誕地アンティグア島のセントジョンズにて脳卒中により死去。63歳没。WWEでは、彼を「WWEの影のヒーロー」(WWE’s Unsung Heroes)の一人として称えている。

獲得タイトル

  • NWAアメリカス・タッグ王座:3回(w / ポークチョップ・キャッシュ×1、トム・ジョーンズ×2)





大木金太郎
1929/2/24 - 2006/10/26

韓国・全羅南道出身の元プロレスラー。本名は金一(キム・イル、김일)。身長185cm、体重120kg(現役当時)。生年はかつては1933年とされていた。

来歴

1958年に、同郷の英雄力道山に憧れて漁船で日本に密入国し、プロレス入りのチャンスをうかがっていたが、1959年に入管法違反で逮捕される。力道山が同郷のよしみで身元引受人となり、日本プロレスコミッショナーの大野伴睦代議士を動かしたことで釈放され、「日本プロレス」に入門し同年11月にプロレスデビュー。翌年にはジャイアント馬場とアントニオ猪木が入門・デビューし、「若手三羽烏」と称された。

1963年にアメリカ武者修行に旅立ち、ミスター・モトとのタッグチームでWWA世界タッグ王座を獲得するなど活躍したが、同年12/8に力道山が刺され12/15に死亡したことで、力道山を心の拠り所にしていた大木は居場所がなくなり、韓国へ一旦帰国した。韓国では「大韓プロレス」のエースとして、様々な企画を成功させ韓国プロレス界の発展に尽力した。

その後豊登が「東京プロレス」を旗揚げし、アントニオ猪木も日本プロレスを去って東京プロレスに参加したため、「日本プロレス」はその穴埋めに大木を韓国から呼び戻すと、「金剛山金太郎」のリングネームで売り出そうとしたが失敗。「大木金太郎」へと戻り「日本プロレス」No.2のレスラーとして活躍していたが、東京プロレスは崩壊しアントニオ猪木が出戻り、再び馬場・猪木の陰に隠れた存在となった。

1967年6月に、韓国のソウルでマーク・ルーインからWWA世界ヘビー級王座を獲得し名実共に韓国プロレス界のトップに立ったが、短期間でタイトルを奪回されている。この頃「二代目力道山襲名」「国際プロレス移籍」という話もあったがいずれも実現しなかった。

上田馬之助の密告事件を発端に猪木・馬場が次々に「日本プロレス」を退団し、それぞれが新団体を創立したことにより、遂に「日本プロレス」No.1の地位を獲得し、1972年12月にボボ・ブラジルとの「頭突き世界一決定戦」がインターナショナル・ヘビー級王座の決定戦となり第一戦は敗れるが、3日後の再戦で勝利しインター王座を獲得した。しかし、馬場と猪木の抜けた穴は大きく「日本プロレス」の人気は急激に凋落。坂口征二が日本プロレスのテレビ中継をしていたNETの意向を受けて新日本プロレスとの合併を模索するが、大木はこれに猛反対して合併話を潰してしまう。結果として坂口は退団、同時にNETの新日本プロレスへの乗り換えを招き、日本プロレスは1973年4月に崩壊した。

1973年の日本プロレス崩壊後は一旦他の日本プロレス選手とともに全日本プロレスに入団するが、対等合併と仲介者に聞かされていたのに実質吸収合併でありマッチメイクで冷遇されたことから退団。インターヘビー・アジアヘビーの防衛戦をやらせてもらえずに不満がたまっていたところに、ザ・ファンクスを招いて馬場がインター・タッグに挑戦した時に、パートナーに大木ではなく新人の鶴田友美(後のジャンボ鶴田)が起用されたのが決定的な原因だったという。

その後、新日本プロレスに参戦して1974/10/10蔵前国技館にて猪木とのシングル戦を行う。この試合は猪木が大木の頭突きをひたすら受け続けてバックドロップで仕留め、試合終了後には二人が感極まって抱き合うという、猪木にとっても大木にとっても後世に残る名勝負となった。また坂口とは日本プロレス崩壊時の「俺が新日本と合併しようとしたのを潰して追い出しておいて何を今さら」という遺恨から、プロレス史に残る壮絶なセメントマッチを展開する。ソウルで猪木の挑戦を受けてインターヘビーの防衛戦を行ったこともあるが、これは猪木唯一のインター戦となった。

1975/10/30、蔵前国技館にてジャイアント馬場とのシングル戦を行う。この試合で馬場は大木の頭突きを受けきった後、猪木と大木の試合時間13分13秒の半分の時間(6分49秒)でフォール勝ちをおさめ、猪木との格の違いをアピールした。

その後は再び全日本を主戦場とするようになり、タイガー戸口(キム・ドク)とタッグを組んでのインターナショナル・タッグ王座獲得、1975年12月にはオープン選手権及び力道山十三回忌追悼興行(「頭突き世界一決定戦」と題されたアブドーラ・ザ・ブッチャー戦)に参加、1977年12月には「世界オープンタッグ選手権」に参加した。1978年と1979年には「世界最強タッグ決定リーグ戦」にも連続して参加している(1979年のパートナーはキラー・トーア・カマタ)。大木・ドクの韓国師弟コンビと馬場・ジャンボ鶴田の日本師弟コンビの抗争はこの時期の全日本のドル箱カードであった。また、アジアヘビー級王座とアジアタッグ王座が全日本で復活した時に王座決定戦でグレート小鹿を破りアジアヘビー級王者になっている。

1980年2月に「国際プロレス」入団。日本では長く封印状態にあったインターヘビーの防衛戦を上田馬之助らと4回行った他、ニック・ボックウィンクルのAWA世界王座にも挑戦した。しかし、同年11月から欠場し、そのまま離脱する。その後「全日本プロレス」に戻る。この時全日本からの「NWA認定のインター選手権を、NWAに加盟していない国際プロレスで実施したのはNWAメンバーとして問題である(大木は馬場の推薦で、韓国のプロモーターとしてNWAに加盟していた)」という勧告に応じてインターヘビーを返上、全日本プロレスで復活させている(引き替えに1977年に馬場に奪取されてそのまま封印されていたアジアヘビー級王座が大木に返還されている)。これを機会に再び全日本に来日するようになったが、1982年の阿修羅・原戦を最後に、首の持病が悪化し事実上の引退となった。

「引退セレモニー」とその後

1995/4/2に行われたベースボール・マガジン社(週刊プロレス)主催のオールスター戦「夢の懸け橋」東京ドーム大会で、それまでの功績を讃えて正式な「引退セレモニー」が行われた。

車椅子姿で花道を入場してきたが、リング・インの際は気丈に立ち上がり、ルー・テーズと共にリング内に進むと四方へ頭を下げ、ファンの声援を受けると現役時代からであるが流暢な日本語で「(感激で)胸がいっぱいで声が出ません」と涙を流した。ファンへの感謝とお詫びの言葉、力道山との思い出などを語り、引退のテン・カウントを聞くと眼を閉じて号泣した。リングを降りる間際ニュートラル・コーナーへ歩み寄ると、鉄柱に頭を付け愛おしそうに撫で、リングをあとにした。

自宅が火災に遭い全焼してしまい、持っていた過去のビデオや資料がすべて焼失してしまった。その後、日本のプロレスファンから、自身の試合を収録したビデオを贈られた際には感激したそうである。

1994年、2000年には本国韓国で国民勲章を受章している。

2005年9月の「月刊朝鮮」によると、ソウル市内の病院に入院中で、頭突きの後遺症による脳血管疾患と高血圧・心不全・下肢浮腫を患っている状態であったという。体重は78kgほどまで落ち、10年前に再婚した夫人が看病に当たっていると韓国国内に報じられた。

2006/9/9、韓国ソウルのソウル蚕室総合体育館で開かれた「世界プロレスリング協会(WWA)2006ソウル大会」に、数少なき後輩たちのファイトを見守るために姿を現した。車椅子に乗った大木ことキム・イルが現われると、2000人あまりの観衆たちは熱い拍手を送り、彼の名前を連呼した。痛風にもかかって体の調子が相変わらずよくはないが、「今大会のような世界的大会が今後も開催されるように、韓国プロレスの発展のお手助けになりたい。多くの方々が心配してくれたお陰で健康状態がよくなった。熱心に後輩たちを後援するつもりだ。今後もファンがプロレスに多くの声援を送ってくだされば良いと思う」とのメッセージを残した。しかし2006/10/26、ソウル乙支病院において慢性心不全と腎臓血管異常による心臓麻痺により死去。77歳没。

死の直前、テレビ番組の企画でアントニオ猪木が病床の大木を訪問している。猪木のデビュー戦の相手は大木であり、若手時代力道山にしごかれていた猪木に親身に接してくれたのも大木であった。

獲得タイトル

  • WWAヘビー級世界王座
  • WWA世界タッグ王座
  • インターナショナル・ヘビー級王座
  • インターナショナル・タッグ王座
  • 極東ヘビー級王座
  • アジアヘビー級王座
  • アジアタッグ王座

得意技

  • ヘッドバット:大木は石頭として知られ、ヘッドバットと言うより「頭突き」と言った方が当てはまる。片手で相手の頭を鷲掴みにし一本足の体勢から投球フォームのように繰り出す独特の頭突きスタイルは「原爆頭突き」(または「一本足頭突き」)と呼ばれ、リングガウンの背中には原爆投下時のキノコ雲のような噴煙も描かれた。藤原喜明に受け継がれており、両者ともにヘッドバットの使い手として知られる。
  • 日本プロレス時代などに「足4の字固め」を決め技として使っていたこともある。
  • 国際プロレスのリングではよく“X固め”を得意技としていた。

逸話

  • 豊登、猪木の日本プロレス離脱により、馬場に次ぐ二番手の地位を築いていた大木であったが、猪木の日プロ復帰、坂口の入団などにより中堅の地位に甘んじていた1968年1月には、国際プロレス(当時はTBSプロレス)への移籍話が取り沙汰された。TBSプロレスは旗揚げシリーズで、エース候補として売り出しを図ったグレート草津、サンダー杉山がことごとくタイトルマッチ(TWWA世界ヘビー級選手権)でルー・テーズに敗れ、当初は看板選手として売り出す考えのなかった豊登まで駆り出されるなど、日本人陣営が手薄である事は明白であった。そこで、当時TBSプロレスのブッカーであったグレート東郷が大木に接触し、TBSプロレスへの移籍に一旦は合意。大木は一時は日プロに辞表を提出、TBSプロレスの興行が行われる予定の仙台へ来場したが、日プロ後援者らの介入で直前でこれを阻止され、大木はTBSへの移籍を断念する結果となった。この一件が後にユセフ・トルコによる東郷への暴行事件の伏線の一つとなった。
  • 得意技に頭突きを選んだ理由としては、当時朝鮮系は石頭というステレオタイプ的なイメージから力道山が「お前は韓国人だから頭を鍛えなさい」といわれたことに依拠する。映画力道山での初登場シーンは掛け声とともに鉄柱に突進するシーンである
  • 日本プロレスの崩壊後、韓国を拠点にしつつ、新日本・全日本の両団体に参戦していた大木であったが、1980年2月には視聴率の低迷にあえぐ東京12チャンネル(現在のテレビ東京)に乞われる形で、国際プロレスに入団。しかし、国際プロレスの社長であった吉原功は全く関知しておらず、国際側と12チャンネル側の関係がさらにギクシャクする形となったことは否定できなかった。結局、大木はわずか9か月後の11月10日に退団。翌年には、国際プロレスは12チャンネルから放映を打ち切られて崩壊した。
  • 1968/12/1、宮城県スポーツセンター大会で、大木は左耳の半分が削がれ、大流血する壮絶なリング・アクシデントを経験している。この試合では大木は猪木とタッグを組み、ブルート・バーナード、ロニー・メイン組と対戦。大木の執拗な挑発に対してバーナードは角材を持ち出した。大木はその角材を自慢の石頭で受けようとし、頭を固定するため軽く首を振った瞬間に、バーナードが振り下ろした角材が左耳を直撃。上半身を鮮血で染めるほどの大流血となった。試合後、大木は病院に直行し14針縫合したが、医師の話では「あと2センチほどで左耳は完全に削ぎ落ちていた」というほどの大怪我であった。同様なケースとして、1959年にキラー・コワルスキーがユーコン・エリックの左耳を削ぎ落としてしまった事故が挙げられる。
  • 1970年代後半に交通事故に遭い、一命は取り留めたもののかなりの重症で、しかも頭の中にまでガラスの破片が入り込む程であった。それでもリングに上がり得意の頭突きを見せたが、大木は頭突きを続けながら、その頭の内部に入り込んだガラスの為流血をしたにもかかわらず、それでも頭突きを止めなかった。

 
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ハファエウ・ドス・アンジョス
Rafael dos Anjos
1984/10/26

ブラジルの総合格闘家。リオデジャネイロ州リオデジャネイロ市出身。Evolve MMA所属。

来歴

2008年7月12日、ブラジルのFury FCのライト級王座決定戦で大塚隆史と対戦、2-1の判定勝ちでライト級王座に就く。11月15日にはUFC 91でUFCに初出場、ジェレミー・スティーブンスに3ラウンドに右アッパーを被弾しノックアウト負けとなった。

2009年4月1日、「UFC Fight Night: Condit vs. Kampmann」でタイソン・グリフィンに判定負けを喫するも、ファイト・オブ・ザ・ナイトを獲得した。9月19日、UFC 103でロバート・エマーソンに判定勝ちを収め、UFC初勝利を飾った。

2010年1月11日、「UFC Fight Night: Maynard vs. Diaz」でカイル・ブラッドリーに判定勝ち。4月10日にはUFC 112でテリー・エティムに腕ひしぎ十字固めで一本勝ちを収め、サブミッション・オブ・ザ・ナイトを獲得した。

2010年8月7日、UFC 117でクレイ・グイダと対戦し、自身の顎を負傷しタップアウト負けを喫した。


  



CMパンク
CM Punk
1978/10/26

アメリカ合衆国のプロレスラーである。本名はフィリップ・ブルックス (Phillip Jack Brooks)。イリノイ州シカゴ出身。身長188cm、体重104kg。現在はWWEのRAW所属。

ストレート・エッジ(日本語字幕では「禁欲主義」と翻訳)の信奉者で、手の甲に×印を描くなど自身のギミックにも反映されている。日本のプロレスラーの得意技を組み合わせたファイトスタイルが特徴。

来歴

2006年以前

インディー団体(ROH、IWAミッドサウス等)で活躍後、トライアルとして、「ヒート」でのケン・ケネディーとの試合やダーク・マッチを経て、WWEとディベロップメンタル契約。バル・ビーナスとの試合は、スリリングなレスリング展開や、バルをあと一歩手前まで追い詰める等、ジョバーの枠でありながら異例なものを見せた。 その後、OVWでOVW王座に着くなどの活躍の後、2006年8月1日、ECWのTVショーでデビューする。

番組内でムエタイとブラジリアン柔術の経験者というギミックで紹介され、インディーでも名を知られていたため注目された。デビュー戦でジャスティン・クレディブルと対戦し勝利。その後シャノン・ムーア、マイク・ノックスと抗争。徐々に実績を積んでいく。

同年、サバイバー・シリーズでDXチームの5人目として、PPV初参戦。その後、ディセンバー・トゥ・ディスメンバーに出場しECW王座に挑戦するが王座奪取とはならなかった。翌年1月9日のショーン・デバリ戦で敗れ、シングル戦での無敗記録がストップする。

2007年

ロイヤルランブルに出場するも敗退。その後、WrestleMania 23のマネー・イン・ザ・バンク・ラダー・マッチに出場し、エッジらと鞄を争ったが、敗れる。 9月1日のECWにてECW王座を獲得する。その後ジョン・モリソンやザ・ミズ、復帰したチャボ・ゲレロらと抗争する。

2008年

2008年1月、対チャボ・ゲレロ戦にてエッジの協力(乱入)を受けたチャボにECW王座を奪われる。その後、レッスルマニア直前のノー・ウェイ・アウトにてチャボ・ゲレロの持つECW王座に挑戦するも敗退。 翌週のECWでも同タイトルに挑むが、またしてもチャボの前に敗れ、これをきっかけにECW王座を諦める。 WrestleMania XXIVで行われたマネー・イン・ザ・バンク・ラダー・マッチで優勝し、マネー・イン・ザ・バンクを獲得する。

6月23日に行われたドラフトでRAWに移籍する。翌週のRAWでバティスタの襲撃によりグロッキーになっていたエッジに対し鞄の権利を行使し、世界ヘビー級王者となる。

9月7日のアンフォーギヴェンでチャンピオンシップ・スクランブル形式の世界ヘビー級王座戦に出場予定だったが、試合前のインタビュー中にランディ・オートンらの襲撃を受けてしまい、出場不可能になる(アングル上)。出場予定だったスクランブル戦には代わりにクリス・ジェリコが出場し、ジェリコが世界ヘビー級王座を取ってしまう。後日ジェリコとのスティールケージマッチで世界ヘビー級王座を賭け対戦するが敗れ、奪還することはできなかった。

その後はコフィ・キングストンとタッグを組み、オートンと共に襲撃したコーディ・ローデスやテッド・デビアス・ジュニアと抗争を重ね、ローデス・デビアス組から世界タッグ王座を奪取する。しかし12月に行われたハウス・ショーでジョン・モリソン&ザ・ミズ組に王座を奪われる。世界タッグ王座を失った後、コフィとタッグを解消し再びシングルに戻る。

2009年

シングルに戻った後、IC王者のウィリアム・リーガルと抗争を重ねる。最初に行われたIC王座戦はリーガルが反則負けになったが、GMのステファニー・マクマホンが再戦を決定し、再戦でリーガルが反則負けになってもタイトルが移動する試合形式に変更された。翌週にIC王座戦の再戦が行われたが、今度はパンクが反則を犯してしまう。この事態にまたしてもステファニーが現れ、次週に再々戦を行い、ノーDQ形式に変更してIC王座戦を行うことを発表した。再々戦は激しい試合になったが最後はパンクがGTSを決めてIC王座を獲得した。しかしレッスルマニアの2週間前にRAWで行われたJBLとの王座戦に敗れ、王座を失う。

WrestleMania XXVで行われたマネー・イン・ザ・バンク・ラダー・マッチで2年連続優勝。マネー・イン・ザ・バンクを獲得する。4月のドラフトにより、スマックダウンへ移籍する。移籍後、鞄の権利を行使しようとしているところにウマガの乱入に会う。それによりウマガと抗争を開始する。6月のエクストリーム・ルールズではサモアン・ストラップ・マッチでウマガに勝利しその後のエッジとジェフ・ハーディーのラダー戦後に乱入し、鞄の権利を行使する。新王者となったジェフに勝利し、新世界ヘビー級王者となる。以降ジェフとの抗争を繰り広げ徐々にヒール化していく。そして7月26日のナイト・オブ・チャンピオンズではジェフに敗れ王座を失う。ナイト・オブ・チャンピオンズでは放送終了後にジェフに握手を求めたが、翌週のスマックダウン放送においてジョン・モリソンと闘い王座防衛したジェフを襲ってヒールターン。 その後もジェフの薬物使用歴やリスクの高いファイトを含めた素行を非難、彼を支持するファンにも説教をし始めるが、そのマイクアピールと矛盾する卑劣な暴行を背後からジェフに加え続けた。
8月のサマースラムではTLC戦でジェフと世界王座を争い、ジェフから王座を奪う。しかしその直後ジェフの倒れていた場所に休場していたはずのジ・アンダーテイカーが出現、チョークスラムを浴び撃沈。テイカーとの抗争を開始する。9月にモントリオールで開催されたブレーキング・ポイントでのサブミッションマッチではモントリオール事件を模倣したような結末となり防衛に成功する。しかし10月のヘル・イン・ア・セルではテイカーに敗れ王座を失う。その後はルーク・ギャローズを禁欲主義信者として従えRトゥルースやマット・ハーディーと抗争する。

2010年

年が明けてからも飲酒、喫煙、薬物を徹底して見下すマイクアピールを続ける。それに加えて観客の中から一人を選びリングに上げ、それらを断ち自分たちの仲間(禁欲主義社会、ストレート・エッジ・ソサエティ)入りすることを誓わせ、男女問わず丸刈りにするパフォーマンスを行うようになる。(その際にリングに上げられる観客はFCWの選手や地元のレスラー)セリーナがメンバーに加入してからは丸刈りは行わなくなる。 その後は、レイ・ミステリオと抗争し、WrestleMania XXVIでは、敗退するものも、エクストリーム・ルールズでは、乱入の混乱に乗じ勝利した。5月23日に開催されたオーバー・ザ・リミットでミステリオに負けた場合はパンクは頭を丸め、パンクに負けた場合ミステリオはストレート・エッジ・ソサエティに加入というルールで再びミステリオと再戦するが敗北し、髪を刈られる。翌週のスマックダウンでは、刈られた頭を隠すために覆面をかぶって登場。しかしビッグ・ショーにマスクに手を掛けられ、必死に守るもマスクを取られてしまう。 また2月から開始した新番組NXTではダレン・ヤングを指導するプロ役として登場したが、あまり乗り気ではなかった(ヤングは敗退)。マスクをはぎ取られたことをきっかけにビッグ・ショーと抗争を開始するも、8月15日のサマースラムではストレート・エッジ・ソサエティ対ビッグ・ショーの3対1のハンディキャップ・マッチに臨むも弟子を捨てて逃亡し、敗北を招く。事後、弟子であるギャローズたちのことを考えない自己中心的な態度が目立つようになる。9月3日のギャローズ対ビッグ・ショー戦でギャローズが敗北、これでビッグ・ショーを倒せない怒りが爆発して弟子のギャローズにやつあたりし、GTSで沈めてしまう。パンクの自己中心的な行動によりストレート・エッジ・ソサエティは壊滅状態となる。その後エッジのスマックダウン移籍に伴う保障でトレードによりRAWへ移籍したことで、ストレート・エッジ・ソサエティは完全に消滅する。10月24日のブラッギング・ライツの番組対抗戦ではアルベルト・デル・リオからフォールを奪うがミステリオにフォールを奪われて敗退。この後から腰の怪我のため休場に入る。 11月22日よりRAWのゲストコメンテーターとして復帰した。

2011年

前年末より試合後限定でジョン・シナを立て続けに襲い、その上で利害が一致したネクサスと手を組むようになる。だがウェイド・バレットのネクサス残留が懸かった試合ではバレットの勝利を阻止し、バレットはネクサスを追放される。そして自身がネクサスのリーダーを務めるようになる。その上「新生」ネクサスを結成するにあたり、メンバーに対し自らの思想を押しつけ、制裁としか思えない事を行う。これを機にパンクを見限ったジャスティン・ガブリエル、ヒース・スレイターはバレット側に寝返ってしまう。その後ランディ・オートンと抗争し、WrestleMania XXVIIでの対戦が決定。ネクサスのメンバーを使い対オートン戦までの状況を優位に展開させようと試みるもパンク以外のメンバーが全員オートンにパントキックを食らい長期欠場となる。レッスルマニアではオートンにスプリングボード式ダイビングクローズラインをカウンターのRKOで迎撃され敗北。翌月のエクストリーム・ルールズにてラストマン・スタンディング・マッチで再戦するがまたもオートンに敗北。後のドラフトでオートンのスマックダウン移籍が決まり抗争はフェードアウトした。

6月20日のRAWでのトリプルスレットマッチを制してPPVマネー・イン・ザ・バンクでのジョン・シナの保持するWWE王座挑戦権を獲得し、試合後のマイクで「俺は7月17日(PPV当日)でWWEとの契約が切れる。王座を勝ち取りWWEを去ってやる」と宣言した。更に翌週のRAWではシナの試合後に姿を表し「俺はホーガンやロック、そしてお前がやってきたようにビンス・マクマホンに媚を売らなかったからトップになれなかった」「王座を獲得したらROHや新日本プロレスで防衛戦をやる」「ビンスが死ねばこの団体も少しはマシになるかもな」などのシュート風マイクパフォーマンスを繰り返し演じたことにより、翌日から無期限出場停止処分を受ける(アングル上)。その後シナがビンス・マクマホンに直談判しシナがパンクに敗れた場合WWEから解雇されることを条件にPPVで両者の間で王座戦が行われることが決定する。

こうした経緯からマネー・イン・ザ・バンクでのWWE王座戦は会場がパンクの地元シカゴであることなどもあって声援を受けシナを破りWWE王座を獲得(敗北したシナの解雇は後日撤回された)。さらに7月25日のRAWにて自身の退団(アングル上)によって空位となったWWE王座(ベルトはレプリカ)の新チャンピオンとなったレイ・ミステリオとのタイトルマッチを制したジョン・シナの前に姿を表し、自分が保持する本物のWWE王座を見せつけた。放送終了後には観客に「I'm back!」とマイクアピールし、WWE復帰を果たした。

タイトル歴

WWE
WWE王座 : 1回
世界ヘビー級王座 : 3回
IC王座 : 1回
ECW王座 : 1回
レッスルマニアXXIV(2008年) マネー・イン・ザ・バンク・ラダー・マッチ優勝
レッスルマニアXXV(2009年) マネー・イン・ザ・バンク・ラダー・マッチ優勝
WWE・世界タッグチーム王座(w / コフィ・キングストン)
ROH
ROH世界ヘビー級王座 : 1回
ROH世界タッグ王座 : 2回 (w / コルト・カバナ)
IWAミッドサウス
IWAミッドサウスヘビー級王座 : 5回
IWAミッドサウスライトヘビー級王座 : 2回
OVW
OVWヘビー級王座 : 1回
OVW南部タッグチーム王座 : 1回
OVWテレビジョン王座 : 1回
IWC
IWCヘビー級王座 : 1回
NWAサイバースペース
NWA サイバースペースタッグ王座 : 1回 (w / ジュリオ・ディネロ)
NWAレヴォルーション
NWA レヴォルーションヘビー級王座 : 1回

入場曲

  • This Fire Burns (Killswitch Engage) - 2011年のマネー・イン・ザ・バンクまでに使用
  • Miseria Cantare (The Beginning) / AFI - ROH時代に使用
  • Cult of Personality (Living Colour) - ROH時代、2011年7月25日のRAWから再び使用

その他

  • かつて入場時に武藤敬司のLOVEポーズを借用したり、KENTAの技を数多く模倣するなど日本マットによく見られる技・アピールを好んで使用する一面がある(借用が過剰ではあるが)。試合では日本人のプロレスラーの技を相当数使用する。
  • 選手としてのWWEPPV初参戦は2006年サバイバー・シリーズであるが、それに先立ち、パンクの地元シカゴで開催された同年のレッスルマニア22で、シカゴ・ギャングのコスプレで入場したジョン・シナの取り巻きのギャング役として、ノン・レスリングの役割でのPPV初出演を果たしている。
  • ギミック上で日本で修行したことになっているが、日本の団体への参戦経験は、2003年7月-8月に行われたプロレスリングZERO-ONEのシリーズ「火祭り'03」への来日1回のみしかない。
  • ペプシコーラを愛飲していて、自身の体にペプシのロゴマークのタトゥーをいれる程である。RAW15周年記念特番の最後にも他のメンバーがビールで乾杯する中、ウィリアム・リーガルと共に(自身のギミックも関係してはいるが酒が飲めない為)ペプシコーラを飲んでいた。
  • 2009年6月15日、RAWシャーロッテ大会で世界ヘビー級王座戦(対エッジ対ジェフ・ハーディー)を戦った際、左腕に巻いたバンテージに緑色のマジックで「MISAWA」と書き、その2日前(6月13日ノア広島大会)にリング上で急逝した三沢光晴を追悼した。
  • 禁欲主義時代、長髪で髭を長く伸ばしたイエス・キリストのような風貌で観客に説教をするスタイルを、敬虔なクリスチャンであるショーン・マイケルズにあまりよく思われていないといわれている。
  • 2010年9月21日のNXTでは職務放棄(アングル上)したマイケル・コールの代役として実況を務めた(番組途中でコールは復帰)。
  • WWEのレートに当たる青年男性ファンからの人気が高く、WrestleMania XXVII直前のRAWでランディ・オートンと対峙した際は声援が二分される展開となった。





TAKAみちのく
1973/10/26

日本のプロレスラー。KAIENTAI-DOJO所属。有限会社かいえんたいどうじょう代表取締役社長。本名は吉田 貴男(よしだ たかお)。岩手県盛岡市出身。出生は千葉県であり小学生低学年までは四街道市で過ごしたため、千葉県四街道市出身を自称することも多い。

KAIENTAI-DOJO選手兼代表として活躍、また全日本プロレスにも参戦。軍団のプロデュース能力、WWEで培われたマイクパフォーマンスの上手さ、そしてプロレスセンスと三拍子揃っている。

来歴

岩手県立盛岡工業高等学校時代はレスリングを行っていた。その後ユニバーサル・プロレスリングに入団。

入門3か月後の1992/9/4に行なわれた後楽園ホール興行で、スペル・ティグリートを相手にプロレスデビュー。リングネームは、ユニバーサル・プロレスリングの先輩であり、同郷でもあるザ・グレート・サスケの若手時代のリングネーム「MASAみちのく」を引き継いだもの。

1993年、みちのくプロレス旗揚げと共に移籍。三度笠スタイルでの入場を始める。

1994年4月に新日本プロレスで開催されたスーパーJカップでの活躍により、一気に知名度が向上し、6月に同じく新日本プロレスで開催されたベスト・オブ・ザ・スーパージュニアに参加した。

1997/4/27パンクラスに参戦し山宮恵一郎と対戦。みちのくプロレスを退団し、メキシコを主戦場に活動する。その間にECWの興行にも参戦しアメリカデビューを果たした。それからしばらくして、WWFへの移籍がほぼ決まっていたグレート・サスケのテスト試合の対戦相手として呼ばれる。その試合でビンス・マクマホンがTAKAの方を気に入ってしまい、WWF(後のWWE)と契約することになる。なお、このことでサスケは横取りされたと激怒し、しばらく2人の仲に亀裂が生じていたが後に和解。WWEでは(復活版)初代ライトヘビー級チャンピオンとなり、巨体を生かしたパワーレスリング中心のWWEにおいて、スピード感溢れるレスリングを展開して注目された。1998年には年間最大の祭典レッスルマニアXIVに日本人レスラーとしてシングルで初出場(現在においてもこの大会にシングルで出場した日本人レスラーは彼のみである)。アギラとライトヘビー級王座を賭け勝利している。また、フナキとのタッグチーム・カイエンタイでは、英語でマイクアピールが出来ないという欠点を逆手に取り、映画の吹き替えのように「口と声が合っていない」マイクアピールを行い、不思議な人気を獲得した。この頃、カイエンタイのTシャツが売り上げNo.1になったこともある。また、WWF所属中にみちのくプロレスが経営危機に陥った際に急遽参戦を行ってもいる。

2000年、プエルトリコにKAIENTAI-DOJOを設立し、生徒を募集する。

2002年、WWFの日本興行出演(フナキのセコンド)を最後にWWFを離脱。千葉県にKAIENTAI-DOJOを設立し、4月20日ディファ有明にて旗揚げ戦を行った。7月よりZERO-ONE火祭りへ参戦(当初、大谷晋二郎はTAKAの参戦に慎重な姿勢であった)、優勝候補の田中将斗から白星を挙げた。

2003年、全日本プロレスが武藤敬司体制になって以降、請われて全日本に参戦するようになり、外国人レスラー軍団「RO&D」を団体内の一大勢力として纏め上げた。また、巧みな話術を生かし、興行スタート時の前説(RO&Dタイム)も務めていた。

2004年10月24日、プロレスリング・ノアに参戦し、金丸義信のGHCジュニアヘビー級王座に挑戦。

2005年1月5日、全日本プロレスの世界ジュニアヘビー級王座を獲得。さらに1月10日、KAIENTAI-DOJOのCHAMPION OF STRONGEST-Kを獲得。全日本プロレスの世界ジュニアヘビー級王座、KAIENTAI-DOJOのCHAMPION OF STRONGEST-K、みちのくプロレスの東北ジュニアヘビー級王座の三冠王となる。また、7月3日にDRAGON GATEに参戦、望月成晃のオープン・ザ・ドリームゲート王座に挑戦した。12月9日に開催されたインディーサミットに出場した。

2006年、RO&Dの活動はVOODOO-MURDERSとの解散マッチに敗れたため終了。6月4日、TOMOみちのくとのタッグでWEWハードコアタッグ王座を獲得。12月31日に開催されたインディーサミットのマッチメイカー兼選手として出場した。

2007年2月、カズ・ハヤシらとメキシコに遠征するはずだったが、車上荒らしによりパスポートを紛失したため、日本に残った。全日本プロレスの3月シリーズより贋メキシカン・トリオ「メキシコ・アミーゴス」のリーダー、ペペみちのくとして登場(他のメンバーはカズ・ハヤシ扮するミゲル・ハヤシJrとNOSAWA論外扮するエル・ノサワ・メンドーサ)。偽物感溢れるメキシカンテイストで人気を博した。一方、プロレスリング・ノアの4月シリーズにおいて、一度袂を別ったブキャナン、ディーロ・ブラウンと再度組んでRO&Dを復活させた。2007年5月2日新日本後楽園大会で、ディック東郷とのタッグでIWGPジュニアタッグ王座を奪取した。8月12日KAIENTAI-DOJO 後楽園大会でSTRONGEST-Kトーナメント初優勝。

2007年12月、結婚したことを自身のブログで発表した。

タイトル歴

WWE
  • WWF・ライトヘビー級王座 : 1回(初代王者)
新日本プロレス
  • IWGPジュニアタッグ王座(パートナー : ディック東郷) : 1回
全日本プロレス
  • 世界ジュニアヘビー級王座 : 1回
KAIENTAI DOJO
  • CHAMPION OF STRONGEST-K : 1回
  • WEWハードコアタッグ王座(パートナー : TOMOみちのく) : 1回
  • STRONGEST-K2007優勝
  • STRONGEST-K TAG王座(パートナーは共に : JOE) : 2回
みちのくプロレス
  • 東北ジュニアヘビー級王座 : 1回
FMW
  • インディペンデントワールド世界ジュニアヘビー級 : 2回
WEW
  • WEW 6人タッグ王座(パートナー : 黒田哲広、五所川原吾作) : 1回
UWA
  • UWA&UWF認定インターコンチネンタルタッグ王座(パートナー : 筑前りょう太) : 1回
IWW
  • IWW ジュニア王座 : 1回
PWI
  • 2003年度PWI シングルレスラーのランキング : 191位(全500位中)
プロレス大賞
  • 2005年プロレス大賞技能賞
K-AWARD
  • 年間最優秀選手賞(2005年)
  • 年間最高試合賞(シングルマッチ部門)(2005年・2007年)
  • 年間最高試合賞(タッグマッチ部門)(2007年)

入場テーマ曲

  • 初代:「みちのくひとり旅」(山本譲二)
  • 二代目:「YAMATO PART4」(MUSASHI) ※キングレコード「KAIENTAI DOJO」に収録
  • 三代目:「KAIENTAI」(WWE在籍時。海援隊時代の相棒・フナキが現在も使用中)
  • 四代目は二代目の「YAMATO PART4」を再び使用。なおこの曲はタイトルマッチバージョンや全日本プロレス参戦時使用するRO&Dバージョンなど使い分けている。

特記

  • 「宇宙人」というニックネームは、かつて新日本プロレスで開催されたスーパーJカップ1stステージにおいて、トップロープ上にノータッチで立ってからのプランチャを見た長州力がつぶやいた言葉(「アイツは宇宙人か?」)に由来する。
  • WWEも実力を高く評価しており、在籍中に怪我で欠場していた際にも、解雇されず、きちんとギャラが支払われていたと、週刊プロレスに連載していた本人のコラムで発言している。KAIENTAI-DOJOを旗揚げする際にも同時期にWWE側からの契約更新のオファーがあったが断ったと語っている。現在でもWWEから小切手が送られてくるそうだが出場する気はないため返送している。(しかし2011年1月29日の本人のUstream放送で「まだ小切手を返送しているのか」という質問に対して「返送せずしっかりもらってる」と返答している)
  • 多くのプロフィールでは岩手県盛岡市出身となっているが、KAIENTAI-DOJO公式サイトでは千葉県四街道市出身と表記している(前述のように、小学校低学年までは四街道市在住)。
  • 「プロ格ヒーローズ」第4弾にフィギュアとして収録された。
  • 新日本プロレスやDDTプロレスリングにも参戦していたが、現在は撤退している。
  • イタリアの親戚筋にあたるPIZAみちのくがDDTに参戦していたが、家業のピザ屋を継ぐために現在は帰国している。
  • 古巣のみちのくプロレスやライバル団体のDRAGON GATEにも参戦している。
  • みちのくドライバーIIは自身が考案した技であり世界でもその名前で通じる技である(ただし、海外では「II」を付けない)。
  • 世界ジュニアヘビー級王座は渕正信の最多防衛回数14回に迫る12回防衛。
  • 入籍前にペットショップにて購入した猫にナナミと名付け、幾度もブログに登場させるほど。とうとうナナミ用ブログを立ち上げた。
  • 筑前りょう太が退団後、彼が属していた千葉商工会議所青年部メンバーになり引き継いだ。

その他

テレビ出演

  • プロレスKING(GAORA)

ラジオ出演

  • 週刊ラジオプロレス(北海道放送)

CM出演

  • ファイト千葉キャンペーン(チバテレビ)

著書

  • TAKAみちのくの毒針日記(ベースボール・マガジン社)






クルガン
Kurrgan
1969/10/26

ロバート・マイエRobert Maillet)は、カナダ・ニューブランズウィック州出身のプロレスラー。

ファミリーネームは「マイレット」または「メイレット」などどローマ字読みで表記される場合もあるが、 本項では原音に近い表記に則る。

来歴

1989年、地元ニューブランズウィックをサーキット・エリアとするカナダ大西洋岸のマリタイム地区にてデビュー。フランス語が母国語のアケイディアンであることから、デビュー当時はアケイディアン・ジャイアントAcadian Giant)のリングネームを名乗った。

巨人レスラーとして注目され、カナダを主戦場にプエルトリコにも遠征。1993年3月にはプエルトリコとの提携ルートでW★INGプロモーションにゴライアス・エル・ヒガンテGoliath El Gigante)として初来日。7月の再来日ではクラッシュ・ザ・ターミネーターとW★ING認定世界ヘビー級王座決定トーナメントの決勝を争った。

1997年、テネシー州メンフィスのUSWAに参戦。インテロゲーターInterrogator)と改名して軍人スタイルに変身し、南アフリカの治安部隊をギミックとしたユニット「トゥルース・コミッションThe Truth Commission)」を結成。リーコンことバリー・ブキャナンをパートナーに、ポール・ダイヤモンド&スティーブン・ダンなどのチームを破りUSWA世界タッグ王座を通算3回獲得した。同年下期より、トゥルース・コミッションとしてWWFに登場。スナイパーを加えたトリオでクラッシュ率いるDOAやリージョン・オブ・ドゥームと軍団抗争を展開した。

1998年、リングネームをクルガンKurrgan)に変更してシングルプレイヤーに転身後、大巨人ジャイアント・シルバ、覆面レスラーのゴルガ、怪奇派女子レスラーのルナ・バションらと共に、映画『フリークス』をイメージした異形の怪物集団「ヒューマン・オディティーズThe Human Oddities)」の一員となる。当初の彼らはジャッカルがマネージャーに就きヒールのポジションだったが、やがてセイブルやインセイン・クラウン・ポッシーと共闘し、コミカルなベビーフェイスのユニットに転向。小柄なカイエンタイ(TAKAみちのく、ディック東郷、MEN'Sテイオー、ショー・フナキ)との凸凹抗争でミッドカード戦線を沸かせた。

1999年にWWFを解雇されてからはカナダのインディー団体を転戦し、トゥルース・コミッション時代の盟友スナイパーの仲介でヨーロッパのCWAにも遠征。2005年7月にはジャック・ルージョーがプロモートしたモントリオールでの興行でジム・ドゥガンと対戦した。

その巨体と強面を買われ、近年はアクション俳優として『300 〈スリーハンドレッド〉』などの映画作品に出演している。2011年3月17日にはオンタリオ州のTWAにて久々にリングに復帰、ジェイソン・センセーションから勝利を収めた。

獲得タイトル

  • USWA世界タッグ王座:3回(w / リーコン)
  • ECCWヘビー級王座:2回
  • RAWヘビー級王座:1回

出演作品

  • 『300 〈スリーハンドレッド〉』(2007年)
  • 『シャーロック・ホームズ』(2009年) - ドレッジャー
  • The Big Bang』(2011年) - アントン
  • Monster Brawl』(2011年) - フランケンシュタイン
  • 『インモータルズ -神々の戦い-』(2011年) - ミノタウロス
  • A Little Bit Zombie』(2012年) - テリー

  



コンバット豊田
1967/10/26

日本の元女子プロレスラーである。本名豊田 記代(とよだ のりよ)。和歌山県和歌山市出身。身長168cm、体重80kg。

宍戸江利花との試合で1986/9/17にデビュー、同年に全日本女子プロレスの新人賞を獲得。1988年に全日本女子プロレスを退団する。

その後、全日本女子プロレス時代の同期であった天田麗文、工藤めぐみと共にFMWのマットに乱入し、1990/3/13に工藤めぐみと組んでカムバックする。当初は本名で通していたが、しばらく後、リングネームをコンバット豊田に改めた。

パワーボムとライガーボムをその決め技として転戦しつつ、シャーク土屋などの後継を育成。

1996年5月5日、長い付き合いとなった工藤めぐみとともに、女子としては史上初であったノーロープ有刺鉄線・電流爆破デスマッチを行い、世界のハードコア・レスリングの歴史にその名を大きく留めるとともに、この試合の終了をもってプロレスラーを引退した。






エル・サタニコ/サタニコ
1959/10/26

ダニエル・ロペス・ロペスDaniel López López)は、メキシコ・グアダラハラ出身の男性プロレスラー。

また後進のレスラー育成にも力を注いでいる。

来歴

1973/6/17に地元でマスクマンでデビュー。1974/1/4にアレナ・コリセオでエル・ベンガドールにマスカラマッチで破れ素顔になる。1979/10/19にカチョーロ・メンドーサを破りメキシカンナショナルミドル級王座奪取。以降80年代にはナショナルミドル級は2度奪取する。1980/3/28にメキシコシティーで佐山聡を破りNWA世界ミドル級王座を奪取。以降80年までにNWA世界ミドル級王座は4度奪取する。また1984/4/5には三沢光晴相手に防衛戦を行い勝利している。1983/7/28にはリンゴ・メンドーサを破りNWA世界ライトヘビー級王座を奪取。またMS1、ピラタ・モルガンとで「ロス・インフェルナレス」を結成。1985/3/8にはナショナルトリオ王座決定トーナメントで優勝し初代王者になる。 以降UWA、EMLL(後のCMLL)を拠点。1991/11/22にはCMLL世界トリオ王座決定トーナメントで優勝し初代王者になる。1994/11/27にはアポロ・ダンテスを破りCMLL世界ミドル級王座奪取。日本にはSWS、FMW、みちのくプロレスなどに来日した。1997年にはTAKAみちのくを破りインディペンデント・ワールド・ジュニアヘビー級王座を奪取。2003/11/25にはフェリーノを破りCMLL世界ウェルター級王座奪取。

獲得タイトル

  • メキシコナショナルミドル級王座:3回
  • NWA世界ミドル級王座
  • NWA世界ライトヘビー級王座:4回
  • UWA世界ミドル級王座
  • メキシコナショナルトリオ王座:2回(w/ MS-1 & ピラタ・モルガン w/ アベルノ & メフィスト)
  • CMLL世界トリオ王座:3回(w/ MS-1 & ピラタ・モルガン w/ エミリオ・チャレス・ジュニア & レイ・ブカネロ w/ アベルノ & メフィスト)
  • CMLL世界ミドル級王座
  • CMLL世界ウェルター級王座
  • インディペンデント・ワールド・ジュニアヘビー級王座





オースチン・アイドル
Austin Idol
1949/10/26

アメリカ合衆国の元プロレスラー。本名はデニス・マッコードDennis McCord)。フロリダ州タンパ出身。

オースチン・アイドル名義での現役選手時代はネバダ州ラスベガス出身を自称し、スーパースター・ビリー・グラハムとリック・フレアーを足して割ったような金髪の伊達男系マッチョマンとして活躍。1980年代初頭は、同じくグラハムの影響下にあるハルク・ホーガンと比較されることも多かった(両者は1970年代末、テネシー地区を共にサーキットしていた)。

来歴

1972年に地元のNWAフロリダ地区でデビュー。当時はアイアン・マイク・マッコードIron Mike McCord)を名乗り、オーストラリアにも遠征しタッグ王座を獲得したことがある。1975/2/20、小型飛行機で移動中に事故に遭い、一時は選手生命を危ぶまれたが1978年にカムバック。オースチン・アイドルと改名し、髪を金髪に染めビルドアップされた肉体を誇示するヒールとしてテネシー地区で再起を図った。

1979年にジェリー・ローラーとの敗者追放マッチに敗れ、ジム・バーネットの主宰するジョージア・チャンピオンシップ・レスリングに転戦。スタン・ハンセンやケビン・サリバンとの抗争で頭角を現し、ハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座にも挑戦。1980年2月にはニューヨークのWWFにゲスト参戦してマディソン・スクエア・ガーデンのリングに登場するなど、日本でも「まだ見ぬ強豪」として注目を集めた。

同年8月、全日本プロレスに初来日。開幕戦のタッグマッチではジャンボ鶴田から得意のラスベガス・レッグロックLas Vegas Leglock)でギブアップを奪う。同じシリーズに来日していたミル・マスカラスとの抗争アングルでもヒールとしての持ち味を十二分に発揮し、期待に違わぬ活躍を見せた。

再来日が待たれたが、その後は全日本と提携関係のなかったテネシー州メンフィスのCWAやアラバマ州のガルフ・コースト地区に定着し、他地区への遠征をほとんど行わなくなったため来日はストップする。CWAではヒールとベビーフェイスの両方のポジションで活躍、ジミー・ハートをマネージャーに同地区のヒーローだったジェリー・ローラーやトミー・リッチと抗争する一方、フェイスターンして彼らのタッグパートナーも務めた。CWAインターナショナル・ヘビー級王座を始め同団体認定のシングル・タイトルも何度となく獲得し、ビル・ロビンソン、デビッド・シュルツ、ケン・パテラ、スタン・ハンセン、ランディ・サベージ、リック・ルード、バンバン・ビガロらを相手に激闘を繰り広げている。また、1986年にはプロレス界にデビューして間もないポール・E・デンジャラスリーをマネージャーに迎えていた。

1987年8月、WWF入りしたテッド・デビアスに代わり、旧友スタン・ハンセンのPWF世界タッグ王座のパートナーに起用され全日本プロレスに久々に来日したが、天龍源一郎&阿修羅・原の龍原砲に敗れた。翌1988年3月にはジョージアとテネシーを通しての盟友トミー・リッチとのコンビで参戦するも、初来日時のような勢いは見られず、これが最後の来日となった。

以降もテネシーやアラバマを主戦場に活動を続けた後、1998年に現役を引退して不動産バイヤーに転身した。

獲得タイトル

CWA
  • AWA南部ヘビー級王座:3回
  • AWA南部タッグ王座:1回(w / ジェリー・ローラー)
  • CWAインターナショナル・ヘビー級王座:4回
  • CWA世界ヘビー級王座:1回
  • CWA世界タッグ王座:3回(w / ダッチ・マンテル×2、ジェリー・ローラー)
GCW
  • NWAジョージア・ヘビー級王座:1回
  • NWAジョージア・タッグ王座:1回(w / マスクド・スーパースター)
  • NWAナショナル・ヘビー級王座:1回
  • NWAジョージアTV王座:2回
SECW
  • NWAアラバマ・ヘビー級王座:2回
  • NWAサウスイースタン・ヘビー級王座(北部版):3回
  • NWAサウスイースタン・ヘビー級王座(南部版):1回
その他
  • PWF世界タッグ王座:1回(w / スタン・ハンセン)
  • NWAオーストラ・アジアン・タッグ王座:1回(w / ジミー・ゴールデン)
  • TASヘビー級王座:1回(サンアントニオ地区のタイトル)





ケビン・サリバン
Kevin Francis Sullivan
1949/10/26

アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン生まれのプロレスラー。

来歴

1970年に「ボストン・ブローラー」の名前でデビュー。ニューヨークのWWWF地区(現・WWE)で売り出し、1974年に全日本プロレスに初来日。当初はジュニアヘビー級の新星として大いに期待されたが、1982年にNWAのフロリダ地区に定着してから怪奇派のヒールとして開眼、勇名を馳せる。フロリダではパープル・ヘイズ(マーク・ルーイン)、マハ・シン(ボブ・ループ)とのユニットで猛威を振るい、その後はWCWでタスクマスターThe Taskmaster)を名乗り、ヒール軍団「ダンジョン・オブ・ドゥーム」を率いて怪奇派の道を貫いた。

NWA、WCW、ECW、TNAなど幾多のプロモーションで長年活躍し、1994年にはカクタス・ジャックとのコンビでWCW世界タッグ王座にも就いている。

日本には1977年に全日本へ再来日して以来、しばらく来日の機会がなかったが、1992年にFMWに参戦、ザ・シークの参謀役として存在感を現した。その後、日本の主戦場をW★INGプロモーションに移し怪奇派のリーダーとして活躍した。

1985年に女性マネージャーのウーマンと結婚したが、後にクリス・ベノワに略奪婚されている(当初はアングルとしての三角関係の不倫抗争だったが、後にベノワとウーマンは実際に恋仲になり、ウーマンはサリバンと離婚の上で正式にベノワと再婚した)。1997年にはWCWとの提携ルートで新日本プロレスの東京ドーム大会に来日し、ベノワとの因縁マッチを行っている。引退後はWCWのプロデューサーを務めた。






プリモ・カルネラ
Primo Carnera
1906/10/26 - 1967/6/29

イタリア生まれのプロボクサー。ニックネームは動くアルプス。身長205cm。体重120kg。

ニコライ・ワルーエフが世界ヘビー級王座を獲得するまで、「史上最も体重の重いヘビー級チャンピオン」であった。

来歴

1933/6/29、ジャック・シャーキーに6回KO勝ちして世界ヘビー級王座を獲得。

1934/6/14、3度目の防衛戦でマックス・ベアに11回TKO負けを喫し王座から陥落した。

1941年にプロレスラーに転向し、1955年には日本プロレスに来日して力道山と対戦している。

バッド・シュールバーグの小説「殴られる男」は、カルネラをモデルに書かれた。後にマーク・ロブソン監督、ハンフリー・ボガート主演で映画化された。





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