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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
10/29

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きのこ
1994/10/29

日本の元女子プロレスラー。

身長143cm、体重32kg、血液型AB。埼玉県富士見市出身。

本名は非公開である。あいか・ひなたと同時期に我闘姑娘に入団(当時10歳9ヶ月)。2005年8月、3人そろってデビューした。次の大会では母親の石井美紀もデビューし、珍しい親子プロレスラーであった(同時現役のケースとしてはグラン浜田・浜田文子がいるが、同時期デビューはおそらく日本初)。

2007/2/9、石井美紀と共に我闘姑娘からアイスリボンに移籍した。小柄ながら卓越した運動能力とプロレスセンスを持ち、将来を期待されたが、学業・部活動に専念するため同年9/8を最後にプロレスを卒業した。卒業後も母親の石井美紀は現役を続けていたが、翌2008/2/24にプロレスを卒業している。

所属

  • さくらえび☆きっず(我闘姑娘)(2003年~2004年)
  • 我闘姑娘(2005年~2007年)
  • アイスリボン(2007年)

経歴・戦歴

2005年
  • 8/7、北沢タウンホール大会において、対さくらえみ・春日萌花組戦でデビュー。デビュー戦のパートナーはあいか・ひなた。春日萌花からフォール勝ち。
2006年
  • 9/24、東京・新木場1stRINGにおいて、さくらえみと対戦し敗れる。
2007年
  • 9/8、東京・北沢タウンホールにおいて、石井美紀との親子タッグでさくらえみ・聖菜組と対戦し、さくらえみからのフォール勝ち。

タイトル歴

DDTプロレスリング
  • 第233代アイアンマンヘビーメタル級王座





アントニオ・ブラガ・ネト
Antonio Braga Neto
1987/10/29

ブラジル出身の総合格闘家。グレイシー・フュージョン所属。

右腕にびっしりと刺青を入れている。

来歴

2007年2月、アブダビコンバットブラジル予選99kg未満級に出場。決勝でクリスチアーノ・ラザリニにギロチンチョークで敗れ、準優勝。

2007年12月6日、Fury Fighting Championship 5でファビアーノ・アストリーノと対戦し、1Rにチキンウィングアームロックで一本勝ち。セコンドには同門のハイアン・グレイシーが付いた(ハイアンは12月15日に死去)。

2008年3月5日、戦極旗揚げ戦「戦極 〜第一陣〜」で川村亮と対戦し、判定負け。

2008年6月、ムンジアルに出場。決勝でハファエル・ロバト・ジュニアを破り黒帯スペルペサード級(-97kg)で優勝。

2009年4月、パンアメリカン柔術選手権(パンナム)に出場し黒帯スペルペサード級優勝、アブソルート級でも準決勝でホムロ・バハウ、決勝ではオタービオ・ソウザを破り優勝を果たした。

2009年11月8日、ワールド・ノーギ・チャンピオンシップ2009のアダルト黒帯スペルペサード級に出場し、優勝を果たした。アダルト黒帯アブソルート級では準優勝となった。

獲得タイトル

  • ブラジリアン柔術ブラジル選手権(ブラジレイロ) 茶帯スペルペサード級(-97kg) 優勝(2006年)
  • ブラジリアン柔術世界選手権(ムンジアル) 茶帯スペルペサード級 優勝(2006年)
  • ブラジリアン柔術世界選手権(ムンジアル) 茶帯アブソルート級(無差別級) 優勝(2006年)
  • ブラジリアン柔術ワールドカップ(コパドムンド) 茶帯アブソルート級 優勝(2006年)
  • ブラジリアン柔術世界選手権(ムンジアル)黒帯スペルペサード級 優勝(2008年)
  • 世界ノーギ柔術選手権黒帯スペルペサード級 優勝・アブソルート級 優勝(2008年)
  • パンアメリカン柔術選手権(パンナム)黒帯スペルペサード級 優勝(2009年)
  • パンアメリカン柔術選手権(パンナム)黒帯アブソルート級 優勝(2009年)

 
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AZUMA
1987/10/29

日本の女子キックボクサー。本名は永島 梢(ながしま こずえ)。東京都出身。y-park所属。元極真会館千葉県北支部所属。ニュージャパンキックボクシング連盟BONITA・BOXEO初代フェザー級王者。

女子選手としては破格のパワーを持っており、ほとんどの試合でダウンを量産。2007年12月22日には当時、1階級上のチャンピオン佐々木仁子からもダウンを奪っている(この試合は判定負け)。

来歴

2005年11月18日、極真会館千葉県北支部所属として「天空」第2回大会で18歳でデビュー。この時のリングネームは本名の永島梢であった。

2006年3月4日、「天空」第3回大会でせりと対戦し、判定負け。

2006年9月3日、y-park所属としてアマチュア大会KAMINARIMON CLIMAX '06・52kg超級でバンタムの体格ながら3戦全勝で優勝を果たした。

2006年10月29日、J-NETWORK「女祭り」で正木純子と対戦し、判定負け。この試合からリングネームを本名からAZUMAに改名した。

2007年3月7日、W.M.F. World Championship 2007に日本代表として出場しインドネシア代表に勝ち、銅メダルを獲得。

2007年12月22日、チームドラゴン主催興行「燃えろドラゴン! その壱」で1階級上のJ-GIRLSフェザー級王者佐々木仁子と対戦。1Rに右ストレートで先制のダウンを奪ったものの、ダウンを奪い返され、0-2の判定負けを喫した。

2008年4月25日、スマックガール最終興行で総合初挑戦もWINDY智美の猛攻の前にKO負けを喫し、試合後ダメージの大きさからリング上で嘔吐した

2008年6月1日付けで所属先であるy-parkがニュージャパンキックボクシング連盟(以下NJKF)に加入した。

2009年3月8日、NAGOYAKICKで現J-GIRLSフェザー級王者大石綾乃と対戦し、1ラウンドにダウンを奪い3-0の判定勝ち。

2009年5月16日、JEWELS 3rd RINGで富田美里とシュートボクシングルールで対戦し、2-1の判定勝ち。

2009年9月27日、J-NETWORK「J-GIRLS Catch The stone〜4」で減量苦のために階級をフェザー級に上げ、WAKO・PROムエタイ世界バンタム級王者のヌシアン・ポー・プラムックと対戦し、1-1の判定ドローとなった。

2010年1月24日、初代NJKF女子フェザー級王座決定戦で成沢紀予と対戦し、二段蹴りからの左フックでKO勝ちを収め王座を獲得した。同王座はNJKF初の女子王座となった。

2010年8月29日、Girls S-cup 2010で超弁慶とワンマッチで対戦し、3-0の判定勝ちを収めた。

2010年11月7日、NJKF興行でメリッサ・ノートン(WBCムエタイ豪州王者)とWBCムエタイルールで対戦し、3-0の判定勝ち。試合後、リング上でDynamite!!出場と佐々木仁子との再戦をアピールした。

2011年1月23日、NJKF興行で行なわれたWBCムエタイ日本女子フェザー級王座決定戦で大石綾乃と対戦し、1-2の判定負けで王座獲得はならなかった。

エピソード

  • 中学生(白帯)で出場した新極真会主催KARATE JAPAN CUP 2回戦で、西山道場の小林由佳と対戦。下腹部への攻撃で減点・判定負け。
  • 女子総合選手と交流が深く、特に禅道会の石岡沙織・杉山しずかとは互いの試合の応援に駆け付けている。
  • ジムであるy-parkが距離的に通えないこともあり高校卒業後、住み込みの内弟子となる。

入場テーマ曲

  • You're the Best(Bill Conti) - 映画「ベスト・キッド」挿入曲

獲得タイトル

  • KAMINARIMON CLIMAX '06 女子52kg超級 優勝
  • W.M.F. World Championship '07 女子バンタム級 銅メダル
  • ニュージャパンキックボクシング連盟BONITA・BOXEO初代フェザー級王座
  • ニュージャパンキックボクシング連盟 2010年度 努力賞






ポール・オーンドーフ
Paul Orndorff
1949/10/29

アメリカ合衆国の元プロレスラー。フロリダ州ブランドン出身。本名はポール・パーレット・オーンドーフ・ジュニアPaul Parlette Orndorff Jr.)。

ボディビルダー顔負けの鍛え抜かれた肉体を武器に、NWA、WWE、WCWなど各団体でトップスターとして活躍した。"ミスター・ワンダフル"Mr. Wonderful)のニックネームでも知られる。日本では、その鋼のような肉体から "鋼鉄男" の異名を付けられた。

来歴

タンパ大学時代はアメリカンフットボールで大活躍した名プレイヤーであり、卒業後はNFLでカンザスシティ・チーフス、ニューオーリンズ・セインツにも在籍している。その後ヒロ・マツダの門下生になり、1976年にプロレスラーとしてデビュー。デビュー後は南部エリアを中心に活動し、1977年にテネシー州メンフィスでジェリー・ローラーからNWA南部ヘビー級王座を、1978年にはトライステート地区でアーニー・ラッドからNWA北米ヘビー級王座を奪取している。

その後はジム・クロケット・ジュニアの管理するNWAミッドアトランティック地区に参戦。1978年12月26日、ジミー・スヌーカとのコンビでバロン・フォン・ラシク&グレッグ・バレンタインを破り、同地区認定のNWA世界タッグ王座を獲得した。1979年10月にはアラバマのSECWにて、タンパ大学時代の盟友ディック・スレーターと組みNWAサウスイースタン・タッグ王者にもなっている。

1980年代に入るとビル・ワットのMSWAを主戦場に、1981年7月にジェイク・ロバーツを破りミッドサウス北米ヘビー級王座を獲得。以降も同王座を巡り、テッド・デビアス、ディック・マードック、マイク・ジョージら強豪と対戦した。1982年からはジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングに進出。バズ・ソイヤー、スーパー・デストロイヤー、マスクド・スーパースター、トミー・リッチから同地区認定のナショナルヘビー級王座を4回に渡って奪取し、次期NWA世界ヘビー級王者の有力候補に挙げられた(同時期、リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦している)。

1983年末にWWF(現・WWE)へ引き抜かれ、ミスター・ワンダフルのニックネームでヒールとして活躍。1984年よりスタートしたWWFの全米侵攻の重要メンバーとなり、ロディ・パイパー、カウボーイ・ボブ・オートンと悪役トリオを結成する。1985年3月31日のレッスルマニア第1回大会のメインイベントでは、パイパーとのコンビでハルク・ホーガン&ミスター・Tと対戦した。その後、この試合の結果(セコンドのオートンとの同士討ちによる敗北)がもとでパイパーと仲間割れしてベビーフェイスに転向、旧敵ホーガンのタッグパートナーとなる。その抜群のルックスで女性ファンからの絶大な支持を獲得し、WWFナンバー2のポジションに就いた。

しかし、ホーガン人気への嫉妬心からの裏切りというストーリーのもと再びヒールに戻り、ボビー "ザ・ブレイン" ヒーナンを新しいマネージャーにホーガンとの熾烈な抗争を再開する。特に、1986年8月28日にカナダ・オンタリオ州トロントのエキシビション・スタジアムにて7万4000人の大観衆を集めて開催された "The Big Event" のメイン戦や、1987年1月3日のサタデー・ナイト・メイン・イベントで行われたスチール・ケージ・マッチは、WWE史に残る試合として知られている。その後、再度ベビーフェイスとなってリック・ルードらと抗争するが、過酷な全米サーキットを通して首を痛めたこともあり、徐々にフェードアウト。WWF離脱後は1988年のセミリタイアを経て1990年にWCWに登場するも、程なく退団。その後は散発的にジム・コルネットのSMWなどのインディー団体に上がった。

1993年からはWCWに復帰、空位となっていたWCW世界TV王座を獲得した他、WWF時代の後輩 "プリティ" ポール・ローマとのタッグチーム「プリティ・ワンダフル」でも活躍。1994年7月17日にカクタス・ジャック&ケビン・サリバン、同年10月23日にザ・パトリオット&マーカス・バグウェルを破り、WCW世界タッグ王座を2回奪取している。首の怪我の悪化により1995年に引退してからは若手育成機関WCWパワープラントの教官を務める一方、ロード・エージェントとしても活躍し、極東担当を任されていたこともある。

日本には1980年代、WWF入りする以前に新日本プロレスに数回来日した。1980年の初来日時は長州力、藤波辰巳を撃破し、アントニオ猪木とのシングルマッチでも善戦。新間寿は全日本プロレスに転出したスタン・ハンセンの後釜候補に、アドリアン・アドニスと彼の名を挙げていた。1983年には前田日明ヨーロッパ凱旋帰国初戦の相手を務め、フライング・ニールキック、リバース・アームソルトの連続技にあっさりと敗退。試合後、首を押さえながらレフェリーに「なぜ、あんな危険な技を使わせるのか?」と抗議する一幕も見られた。また、次の来日時の再戦でも前田のジャンピング・ニーアタックを食らってのエプロン・カウントアウト負けを喫するなど、前田の売り出しアングルに一役買ったものの、アメリカマットでのスケジュールが多忙だったこともあり新日本に定着することはなかった。

1995年にWCWでIWGPヘビー級王座をかけてグレート・ムタと対戦したことがあるが、新日本プロレス非公認であったため公式にはタイトルマッチとして扱われていない(ベルトを保持していたのはムタではなく武藤敬司であったため)。また、エージェント時代の2000年にはムタのWCWサーキットをプロデュースした。

2005年には1980年代のWWFにおける功績から、WWE殿堂入りを果たしている。プレゼンターはかつてのマネージャーであるボビー・ヒーナンが務めた。

獲得タイトル

  • NWA南部ヘビー級王座(ミッドアメリカ版):1回
  • NWA北米ヘビー級王座(トライステート版):2回
  • NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版):1回(w / ジミー・スヌーカ)
  • NWAサウスイースタン・タッグ王座:2回(w / ディック・スレーター、ノーベル・オースチン)
  • ミッドサウス北米ヘビー級王座:1回
  • NWAナショナル・ヘビー級王座:4回
  • AWFヘビー級王座:1回
  • UWFサザン・ステーツ王座:1回
  • NWLタッグ王座:1回(w / ブライアン・ブレアー)
  • WCW世界TV王座:1回
  • WCW世界タッグ王座:2回(w / ポール・ローマ)
  • WWE Hall of Fame:2005年度(プレゼンターはボビー・ヒーナン)

エピソード

  • 現役時代のライバル、ハルク・ホーガンとは非常に仲が悪いことで有名。共にフロリダ出身でヒロ・マツダに師事しており、学生時代から顔を知っていたともいう。2005年のWWE殿堂式典の際は同じく殿堂入りしたホーガンの入退場の際、壇上で一人座ったまま拍手もしなかった。さすがにホーガンから手を差し出された際には苦笑いしながら握手には応じている。




  

















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