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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
9/4

新着(ニュース、興行・結果、Youtube動画)
今日は何の日?


ブラックジャック・モース
BLACKJACK MORSE
?- 2010/9/4

本名はランディ・リー・モース。初来日は「本物の」ブラック・デビルとしてであったが、当時デビュー5年目のルーキー。にもかかわらずデストロイヤーとの覆面10番勝負に出場させられたのだから荷が重かった。その後素顔で新日本に参加しているが、全くの木偶の坊で、日本マット界に定着する事はなかった。アメリカではオレゴンやハワイで活躍。
来日
全日本プロレス
1975 8 第2次サマー・アクション・シリーズ
新日本プロレス
1976 8 闘魂シリーズ 
1977 4 ゴールデン・ファイト・S





桝太一
1981/9/4

日本テレビ放送網所属の男性アナウンサー。千葉県出身。麻布中学校・高等学校を経て東京大学農学部水圏環境専修卒業。東京大学大学院農学生命科学研究科修了後、2006年入社。

  • プロレスリング・ノア中継

 
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アメージング・コング
Amazing Kong
1977/9/4

本名:キア・スティーブンスKia Stevens)は、アメリカ合衆国・カリフォルニア州出身の女子プロレスラー。パワーとテクニックを兼ね備え、日米のリングで活躍している。

経歴

全日本女子プロレスの松永正嗣(松永俊国の息子)渉外担当がロサンゼルスでスカウトした。2002/10/20、川崎市体育館にて、堀田祐美子戦でデビュー。リングネームはこの大会をプロデュースしたロッシー小川により「アメージング・コング」とされた。「A・KONG」と表記されることも多い。

2004/1/4にはWWWA世界シングル王座を奪取。外国人レスラーとしてはラ・ギャラクティカ以来約21年ぶりの、そして最後のWWWA世界シングル王者となった。

アジャ・コングとの「Wコング」でWWWA世界タッグ王座にも君臨した。

全女崩壊後はフリーとなりSUNを主戦場とする。

2007/1/14、高橋奈苗を下しAWA世界女子王座を獲得。

ハッスルでは「乙女のマーガレット」として参戦した。

同年、TNAと契約。TNAでは「オーサム・コングAwesome Kong)」のリングネームとして参戦。2008年1月にはゲイル・キムを下し第2代TNA ウーマンズ王座を奪取した。

同年大晦日、元気美佐恵の引退試合のため来日。このときは「アッサム・コング」で出場。

2010年1月、浜田文子とタッグを組み、TNA ノックアウト・タッグチーム王座獲得。

同年3月、TNAを退団。アメージング・コングとしてROHに参戦。

同年5/5、1年半ぶりととなる日本のリングとしてNEO女子プロレスに参戦。

2011年4月頃からWWEのRAW、SmackDown!でコングらしき人物のプロモ映像が流れるようになった。そして同年5/1のWWEエクストリーム・ルールズ2011でカルマというリングネームでデビュー。レイラに敗れたミシェル・マクールに襲い掛かり、衝撃のデビューとなった。その後もRAWでマリース、SmackDown!でアリシア・フォックスと次々にDIVAを撃沈しRAWに所属となった。

タイトル

  • WWWA世界シングル王座
  • WWWA世界タッグ王座(パートナーはアジャ・コング)
  • NEO認定タッグ王座(パートナーは松尾永遠(初代)、木村響子(第3代))
  • AWA世界女子王座
  • NWA世界女子王座
  • TNA ウーマンズ王座
  • TNA 女子ダブルス王座(パートナーは浜田文子)

エピソード

  • 2004年のプロレスリングZERO-ONEの会場に現れ火祭り参戦をアピールしたが橋本真也に「女の子はダメだよ」と却下されてしまった。





オーランド・ジョーダン
Orlando Jordan
1976/9/4

アメリカ合衆国のプロレスラー。バージニア州リッチモンド出身。身長190cm、体重113kg。OJの通称でも知られ、胸に漢字で山猫というタトゥーをしている。

来歴

アマチュアレスリング時代からアメリカ国内で活躍をしており、その後ザ・ロックの父親である、ロッキー・ジョンソンの元でトレーニングを行い、2000年にプロレスデビューを果たす。

WWEでのデビュー戦は2003/5/31のヴェロシティでのジェイミー・ノーブル戦。TV収録でのデビューは、同年6/26、マディソン・スクエア・ガーデンにて行われたSmackDown!の収録である。当時ヒール役であったジョン・シナと戦い、負けはしたものの試合後ジ・アンダーテイカーとリングで握手する場面が見られた。

その後もベビーフェイスとして活動していたが、2004年のグレート・アメリカン・バッシュでWWE王者となったJBLの補佐官としてJBL内閣入りし、一転してヒールとなる。そしてバシャム・ブラザーズと共にJBLの王座保持をサポートする。 デビュー時はスキンヘッドであったが、内閣入りした後は髪を伸ばし始めた。

2005年3月にはジョン・シナからUS王座を奪取する。その後8月のサマースラムでクリス・ベノワに王座を奪われる。ベノワに王座を奪われてからは毎週のようにベノワに挑んではクリップラー・クロスフェイスでタップ負けするのが恒例となっていた。

2006年始めから上層部がベビーフェイスへの転向を画策するものの、ファンが依然ヒールとして見なしたため、その案は短期間で消えてしまった。これに伴い、ジョーダンは登場する機会を失い、「ヴェロシティ」内で若手と対戦することが増えてしまい、5月26日付けでWWEを解雇される。

その後はインディ団体を転戦し、2007年には新日本プロレスに参戦した。

現在はTNAを主戦場にしている。

ポーズ

  • OJと宙に指で描くポーズ。
  • またコーナー上では両手を上空に掲げる独特のポーズをしていた。

タイトル歴

WWE

  • US王座 : 1回

MCW

  • MCW王座 : 1回

アマレス

  • ナショナルレスリング王者 : 2回
  • オールアメリカレスリング王者 : 2回
  • Regionalレスリング王者 : 3回
  • バージニア州フリースタイルレスリング王者 : 1回
  • 全米レスリング王者 : 2回

その他

  • 幼少時の頃は会話が上手く出来なかったため自閉症と誤診されていた。
  • バイセクシャルでありまたその事を公に認めている。またWWEを解雇された理由について、当時のボーイフレンドを会場に連れて来ていたためとされる。
  • 生年月日については1976年4月21日、1978年7月10日、1971年7月10日など諸説あり。





岡村隆志
1964/9/4

現DRAGON GATEの社長。闘龍門JAPAN時代から社長・選手として行動している。士道館出身の空手家でもある。

経歴

世界空手道連盟士道館の師範・選手として活躍した後、武輝道場所属のプロレスラーとして望月成晃・TARU・チョコフレークK-ICHIらと共にWARを主体に他団体に参戦した。後に闘龍門JAPANに参戦し、社長業の傍ら、回数は少ないが選手としてもリングに上がっている。この時は胴衣姿で登場し、得意の空手技を駆使して戦う。

その他・エピソード等

  • 武輝道場時代は、その容姿からあだ名がデビルマンだった事から、ヘアスタイル・コスチュームなどはデビルマン意識した物だった。
  • 闘龍門時代、選手達で誰を社長にするか決める時に、「一番プロレスが下手だから」と言う理由により、満場一致で社長になったと言う。
  • 選手の抗争などによる決着をつける対戦カードや、大きい会場での試合をリング上で決める事があったため、「即決社長」と呼ばれた事もある。選手にとってかなり厳しい条件の試合を決定する事や、入場テーマ曲から「デビルマン社長」の異名も持つ。選手として活動するだけでなく社長としての才能もあり、プロレス業界全体が不景気な中、観客収容率が常に90%を超え、闘龍門時代から常に黒字を出している。以前やっていたヤクルト本社の営業ではずば抜けた成績を残した事があり、それを生かしてチケット販売などの営業面で高い手腕を発揮している。
  • お笑いコンビナインティナインの岡村隆史(おかむら たかし)とは同音異字である。そのせいで、『負けたらリングネームを「岡村隆」から(「おかむらたかし」であるため)「岡村隆」に変更』マッチが組まれた事もあったが、望月成晃を首固めで下し名前を守っている。

岡村隆志ブログ

  



越中詩郎
1958/9/4

東京都江東区出身。血液型はB型。フリーランス。

来歴

デビューから新日本移籍まで

1978年に全日本プロレス入門。1979年に園田一治(後のハル薗田)戦でデビュー。若手のころはジャイアント馬場の付き人を務めた。1983年にはルー・テーズ杯争奪リーグ戦で三沢光晴を破り優勝し、翌年ともにメキシコに遠征。サムライ・シローの名で活躍した。しかし三沢がタイガーマスクとして先に凱旋帰国したことに危機感を抱き、1985年全日本プロレスを離脱。新日本プロレスに押し掛け同然で移籍して帰国(異説については後述)。なお、すぐに新日本プロレスに移籍せず、まず当時設立したばかりのプロモーションだったアジア・プロレスに移籍し、そこから新日に上がるという形を取っていた。

高田との抗争

1986年、IWGPジュニア王座決定リーグ戦に出場し、初代IWGPジュニアヘビー級王座を獲得。その後、旧UWFから戻ってきた高田伸彦とジュニアベルトを争う。高田のキックを愚直にも正面から受けるファイトスタイルはUWFびいきのファンからも支持を集め、一躍人気レスラーとなった。そのキックや関節技を主体とした攻めの高田と、「耐える美学」「人間サンドバッグ」とまでいわれた受けの越中のシングルマッチは「ジュニア版名勝負数え唄」と形容され、当時のプロレスファンの圧倒的な支持を得た。その後武藤敬司とのコンビでIWGPタッグ王座も獲得。

ヘビー級転向と反選手会同盟結成

獣神サンダー・ライガーらの台頭や自身のウェイトアップによりヘビー級に戦いの場を移す。ドラゴンボンバーズへ入るも誠心会館との抗争に関して新日本プロレス選手会と対立しヒールに転向。頭を剃り上げて反選手会同盟(のちの平成維震軍)を結成し、一躍中堅からトップ戦線へ踊り出る。この時期、1995年のG1 CLIMAX初戦でIWGP王者(当時)武藤敬司を破るという実績も挙げている。

1998年、天龍源一郎と組みIWGPタッグ王座獲得。

平成維震軍解散から新日本離脱へ

1999年に平成維震軍を解散し新日本本隊に復帰。その後佐々木健介と組みIWGPタッグ王座に返り咲いた。また2000年には全日本プロレスに参戦し、三冠王者決定トーナメントに出場している。

2003年1月、新日本プロレスを契約満了により退団し、WJプロレスに入団。当初は盟主である長州力の片腕的存在だったが、金銭面で揉め、大森隆男らと共にレイバーユニオンを結成。同年10月31日付でフリーランスとなった。

フリーランスとしての活動

2004年2月、大森隆男とともに、炎武連夢(大谷晋二郎・田中将斗組)からNWAインターコンチネンタルタッグ王座を奪取。さらに、プロレスリング・ノアにも参戦し、平成維震軍の仲間だった齋藤彰俊と共闘。ZERO1-MAXやキングスロードへも参戦。

2007年には、アメトーーク!でケンドーコバヤシによる越中のネタから「越中ブーム」が発生。それも背景に同年5月2日、11年ぶりにIWGPヘビー級選手権試合に臨んだ。試合は敗北したものの、王者永田裕志に対しヒップアタックや侍ドライバー'84、ジャパニーズ・レッグロール・クラッチといった、平成維震軍当時からの大技を遺憾なく発揮した。一時期は天山広吉、真壁刀義らと組み、G・B・Hで活躍したものの、2007年8月に離脱、長州力、蝶野らとともに「レジェンド」を結成した。

2008年に後楽園ホールで行われた『ハッスル・ツアー2008~7.11 in KORAKUEN』からハッスル参戦を表明。日本代表として出場した『ハッスルGP2008』においてザ・モンスター℃を下し、ハッスルデビュー戦を白星で飾った。

2009年8月27日に行われたハッスル主催『越中詩郎デビュー30周年記念大会』では新日本の永田裕志、獣神サンダー・ライガーと組み、天龍源一郎、川田利明、TAJIRI組と対戦。15分18秒、TAJIRIを高角度パワーボムからのエビ固めで破り勝利。試合後、ファンと共にデビュー30年を振り返った。

2011年5月、3月に晴れてプロレスデビューした橋本真也の長男、橋本大地を相手にタッグマッチを行い、「お前の父ちゃんにしこたまやられたんだ!」とマイクでコメントし、実力差をまざまざと見せつけた。

人物像

常にコンディションが良いことで知られる。技術面では受け身の巧さ、切れの良いスープレックス、高角度のパワーボムが特徴である。また、近年はヒップアタック等の尻(ケツ)を利用した攻撃が高い会場人気を集めており、「ケツだけで試合を組み立てられる」職人レスラーと評価されている。地方大会でも常に全力ファイトを見せる。

新日本移籍の経緯

新日本移籍の経緯については、かつて様々な説が流れたが、現在は越中自身が『やってやるって!』(ケンドーコバヤシと共著・扶桑社)や『元・新日本プロレス 『人生のリング』を追って』(金澤克彦著・宝島社)で自ら真相を明かしている。それによれば、全日離脱・新日移籍の経緯は、三沢光晴がタイガーマスクとして先に凱旋帰国したことに危機感を抱いた中、選手の大量離脱に苦しむ新日本側が大剛鉄之助経由で接触してきたというものである。帰国した足で巡業中のジャイアント馬場に詫びを入れに出向き、あくまで移籍を認めない馬場を最終的にとりなしたのは、天龍源一郎だった、ということも語られている。別れ際、天龍は餞別としてつかみきれないほどの一万円札を越中のポケットにねじ込んだという。

タイトル歴

  • IWGPタッグ王座
  • NWAインターコンチネンタルタッグ
  • WAR認定世界6人タッグ
  • IWGPジュニアヘビー級王座
  • '88トップ・オブ・ザ・スーパージュニア優勝
  • CMLL認定KO-Dタッグ選手権

入場曲

  • SAMURAI
  • FORTUNE
  • バイオレンス・サタデーのテーマ(ラロ・シフリン)
中でも「SAMURAI」は反選手会同盟・平成維震軍全盛期に使用していたことや、越中の紆余曲折の人生観を表したような曲調もあり、今でも一部で根強い人気がある。

著書

  • 『やってやるって!!』(ケンドーコバヤシとの共著・扶桑社・)

ゲーム

  • 『越中詩郎の完全無ケツだって!』 - 携帯電話用アプリ。

テレビドラマ

  • 『マッスルガール!』(2011年、毎日放送) - 白鳥洋平 役

koshinaka





木村健悟
1953/9/4

日本の元プロレスラー、宮城野部屋所属の元大相撲力士。現品川区議会議員。 本名は、木村 聖裔(きむら せいえい、きむら たかしと紹介しているプロレスラー名鑑もある)。愛媛県新居浜市出身。プロレスラーとしての最終所属は新日本プロレス。ニックネームは「稲妻戦士」。

来歴

1969年、大相撲の宮城野部屋に入門し、木村山(きむらやま)の四股名で1969年7月場所初土俵。しかし約1年足らずで廃業、最高位は序二段30枚目。大相撲廃業後は、1972年1月に日本プロレスに入門し、1972/8/2に鹿児島県喜界島中学校グラウンドでの佐藤昭雄戦でデビューを果たした。

1973年3月、坂口征二と共に新日本プロレスへ移籍。坂口の付き人だった木村は、アントニオ猪木の付き人であったライバル藤波辰巳と1970年代後半にジュニアヘビー級チャンプを争い、大旋風を巻き起こす。二人とも美しくビルドアップされており、トペやブランチャー等の場外へジャンプして飛び込むといった技は当時の日本では斬新であり若者を魅了。ゴールデンタイムでフルタイムドローになる名勝負の数々でジュニアヘビー級の人気が確立された。これにより、新日本プロレスの人気は全日本プロレスを大きく引き離した。

1980年代に入るとヘビー級に転向。長州力やタイガーマスクがプッシュされる中、引き立て役的な役割が増える。1985年、映画ビー・バップ・ハイスクールに不良たちを一喝する教師役で出演。1985年12月、藤波辰巳とのタッグでアントニオ猪木、坂口征二組に勝利し、初代IWGPタッグ王座を獲得した。その後、藤波と敵対関係となり、幾多の熱戦を繰り広げる。この抗争は非常に盛り上がり、1987年1月には、後楽園ホールにて藤波対木村のシングルマッチのみの興行が行われた。木村は決着戦に敗れ海外遠征に出向き、ベニー・ユキーデのもとでフルコンタクト・キックボクシングを身につけて帰国した。帰国後、パンタロンスタイルとなり、大阪城ホールで、ケリー・ウイルソン(プロ空手)と異種格闘技戦を行い、バックドロップ、右ストレートのコンビネーションで勝利を飾った。

1992年8月、越中詩郎らと反選手会同盟(のちの平成維震軍)を結成。

体力が衰え始めた頃に、小原道由から「こんな弱い奴とやらすな!」とまで罵られたこともあった。その当時、本人もそれを自覚していて2003/4/18後楽園ホールの西村修とのシングル戦(キャッチルール)での大熱戦を最後に、引退した。引退試合の相手には長年のライバル・藤波を希望していたが、藤波の体調が優れず実現されなかった。引退後は、新日本プロレスのスカウト部長の要職に就き、テレビ解説も行なっていたが、2006/3/27付けで自主退社した。

2006年4月、社長として株式会社円天興行を設立した。母体会社の会長を直接の師匠筋である坂口征二から紹介してもらったと新聞インタビューで語っている。

2007年9月に円天興業の社長職を辞した。2008年2月、都内にリサイクルショップをオープンした。

藤波との抗争からワンマッチ興行への流れ

発端は、1986/10/9に開催されたINOKI闘魂LIVEの公開スパーリング(10/6)に遡る。ランス・フォン・エリックとの対戦を予定されていた武藤敬司の凱旋帰国日程が遅れたことによるカード変更を受けて、木村が藤波への挑戦を表明したが、9/23にIWGPタッグ王座を二人で奪回したばかりであり、時期尚早と藤波が対戦を拒否した。

翌シリーズでも木村は対戦を執拗にアピール。前田日明が闘魂LIVEの異種格闘技戦でのダメージからシリーズを全試合欠場となり、11月3日に予定されていたIWGPタッグ防衛戦(藤波&木村vs前田&藤原喜明戦)が流れたことから、藤波も対戦を受諾した。しかし、10月27日の奈良大会で、藤波がコンガ・ザ・バーバリアンにジャーマンを仕掛けた際に負傷(奥歯が抜け、手術して元に戻した)して欠場したため、対戦がまた実現せず(11月3日の代替カードはアントニオ猪木&ケビン・フォン・エリックvs木村&武藤)。

次の'86ジャパン・カップ争奪タッグリーグでは藤波は武藤と、木村はジョージ高野とタッグを組んでエントリーしたが、共に決勝には進めず、12月10日の大阪城ホールで急遽シングルマッチが組まれたが、木村は淡白な内容で藤波に回転エビ固めで敗れた。

翌1987年、新日本の新春シリーズ「ニューイヤー・ダッシュ」開幕戦(1月2日)において木村のアピールで藤波vs木村戦が組まれた。木村は試合前に「正々堂々と戦って勝つ」、そして、選手紹介前に田中リングアナからマイクを取り上げ、「この試合に負けたら俺は海外に行くから! お前もそのぐらいの気持ちで来い!」とコメントした。(この試合のレフェリーはミスター高橋)しかし試合ではゴング前のボクシング・パンチの奇襲攻撃や、レッグサポーターに凶器を入れた稲妻レッグラリアートを敢行。フォール勝ちを奪うも、反則行為が発覚してノーコンテストとなった。木村は試合後に「勝つためには手段を選ばない」とコメントした。

内容を不服とした藤波から後日再戦の申し入れが出たことを受け、1月14日、後楽園ホールでワンマッチ興行開催の運びとなり、試合前半より中盤は木村の攻勢が目立ったが、先日の試合で見せたトライアングル・スコーピオンを封じられたり、この遺恨のポイントのひとつであったボクシング式パンチもあまり出さなかったためか、徐々に試合巧者である藤波に主導権を奪われていった。結局終盤、勝負を賭けた稲妻を藤波に空中でキャッチされ、サソリ固め→逆エビ固め→バックドロップ→片逆エビ固め、の波状攻撃で最後は無念のギブアップ。今度は藤波が勝利し遺恨に決着がついた。この試合のレフェリーは上田馬之助が勤めた。なお、この試合はTVマッチとして録画中継されたが、急遽組まれたために、既にタレント活動もしていた古舘伊知郎の都合がつかず、映像に後で実況を被せる手法が取られた。これは音声では解説をしているはずの山本小鉄が、リングサイドで立ち働く姿が映像に何度も出てくるところから判明した。

両者の試合運びで注目すべきは、当日「完全決着戦」の色合いが濃かったため、リング中央のスプリングがはずされ、両者はわざと急角度でボディスラムを敢行したり意識的にグラウンドでの攻防を魅せたりと、試合の前半は非常に原始的でオーソドックスな展開となった。そして前述の通り上田馬之助がレフェリーを買って出たが、木村は試合中、再三上田にボクシング式パンチを制止され(プロレスのリングでは拳でのパンチは反則)、前回の試合でかなりダメージを与えた攻撃パターンを封じられたことも敗因として挙げられる。

木村は、普段は地方会場はもちろんのこと、大会場での試合においてであっても自らの持ち技以外めったに大技(言い方を変えれば観客をアッと言わせる技)を使わないが、この日は、トップロープ上に駆け上がった藤波に対して(つまり上に向かって)稲妻を敢行するなど、非常に積極的な動きが目立っていた。

木村の藤波に対する執念は相当なものであり、毎年の初詣で「高級車を買う、家を買う、藤波に勝つ」と3つの祈願をしていた。しかし初めの2つの願いは叶ったが、藤波に勝つ願いは遂に叶わなかった。

稲妻レッグラリアート

脚の攻撃は腕の3倍の威力が出せるという理由で、脚のラリアットである稲妻レッグラリアートを開発して得意技としており、スタン・ハンセンがラリアットを放つ腕にサポーターを付けていたのと同様に、レッグラリアートを放つスネにサポーターを着用していた。また、人差し指を掲げ「イナヅマ!」と叫んでから技を放つことが多かった。技を使い始めた当初は、梶原一騎原作の「悪役ブルース」の主人公・吹雪純也が覆面レスラーとして使っていた技とそっくりだったので「ジャパニーズ・ラリアット」とプロレス専門誌で書かれていたこともあったが、古舘伊知郎がプロレス中継の際に「稲妻のような電光石火で叩き込む足でのラリアート」と叫んだことから、(1983年の年末あたりから)この名前が使われるようになった。(この技は“健吾オリジナル”とも言われた)相手によって高さを使い分け、胸板を打ち抜く稲妻と喉元を打ち抜く稲妻があった。過去にタッグ戦で、喉元を打ち抜く稲妻で佐々木健介をKOし、同じ試合で胸板を打ち抜く稲妻で長州力にフォール勝ちしたこともある(越中・木村組対長州・佐々木組 平成維震軍自主興行)。喉元を打ち抜く稲妻レッグラリアートに対しては、猪木が「俺にはあんな(危険な)技を使うな」とも言っていたことがある。

人物像

入団の経緯からも、新日内では直接の師匠筋である坂口派と見られることが多かったが、猪木に対してかなり敬意を払っていた。ちなみに木村は夫人との結婚を決めた理由を「社長(猪木)の奥さん(倍賞美津子、当時)に瓜二つだったから」と公言している。

若手時代のあだ名は、一線を超えて試合相手を怪我させてしまうことから「クラッシャー」だった。なおこのあだ名は、後に前田日明→橋本真也へと受け継がれていく。

性格は温厚とされ、武藤敬司はCSのサムライの番組で「おれは木村健吾さんの付き人で楽でよかった、あの人は怒らないから」とコメントした。しかし武藤のスペース・ローンウルフ時代に急遽組まれた猪木&ケビン・フォン・エリック組VS木村&武藤組で、猪木が武藤を試合そっちのけで鉄拳制裁で血だるまにしたことに激怒し、試合後に「あそこまでやることねぇじゃねえか!」と、パイプ椅子を持って猪木の控え室に乗り込んでいったこともある。この時は猪木と坂口が必死になだめた。

FIGHTING TV サムライの番組内にて「稲妻人生相談コーナー」をしていたこともある。

芸能活動

歌手としても活動しており『らしくもないぜ』『デュオ・ランバダ』『孤独(ひとり)』などのオリジナル曲がレコード発売されている。映画俳優としては映画「ビー・バップ・ハイスクール」に戸塚水産高校の教師役で出演。1987年には仲村トオル主演の「新宿純愛物語」に大矢健一と共にヤクザ役で出演している。当時、テレビ朝日のヒット曲の紹介番組であった深夜番組の「若原瞳のラブリー10」にも度々ゲスト出演していた。また、「山口良一のオールナイトニッポン」ではレギュラーコーナーである「闘魂スペシャル」の中で古舘伊知郎(当時テレビ朝日から独立間もない頃)と共にゲスト出演した際に、古舘は「私はこの健吾さんの歌を聞いて玄人はだしの、女性をも泣かす歌声。つまり『孤独』と書いて“ふたり”と読む新しい国語が生まれました」と紹介していた。

政治活動

妻は、目黒区議会議員の木村洋子。1991年に社会民主連合公認で区議選に出馬。初当選し、以後無所属→民主党と所属を変えながら5期務めている。2004年にはひったくりの被害に遭った。長男の木村寛紀も2007年に東京都議補選・大田区議選に出馬したが、いずれも落選に終わっている。

木村本人も1998年の第18回参議院議員通常選挙に民主党から比例区で立候補した。その時、自らハーレーダビッドソンを乗り回して、全国遊説していた。この選挙では名簿12位で公認された江本孟紀が名簿順位の低さに民主党の選挙運動を凍結する動きを見せたが、木村は23位という当選可能性の低い順位だったにもかかわらず「どんなに苦しくても最善を尽くすべきだ」と批判した。結局、江本はぎりぎりの下位当選、木村は落選に終わる。 2011年4月、品川区議会議員選挙初当選。

決め台詞

木村の決めぜりふは得意技の名前でもある「稲妻」であり、テレビのインタビュアーに「一言お願いします」と言われ「イナヅマ!」と答えた。またワールドプロレスリングの放送で、フィリピン遠征の際にいきなり木村の顔のアップが画面に登場して「フィリピンからイナヅマ!」と叫んだ。

得意のムーブ

タッグ戦において「散々攻撃を受けてグロッキー状態になり、攻撃の隙を見計らって四つん這いになりながらコーナーまで帰ってタッチをする」もしくは「タッチできそうなポジションまで這って行くと、対戦相手に足を引っ張られながらリング中央まで引き戻される」等がお決まりムーブである。なお、足を引っ張られる時は自軍のコーナーに手を差し伸べながら引っ張られ、タッチできる場合の這い方は異常に速い。また、シングルマッチの際、決め技である稲妻レッグラリアートを放った後、頭部からマットに墜ちてしまったためにグロッキー状態になり、タッチを求めて(パートナーがいない)自分のコーナーに四つん這いで帰ったことがある。

海外での戦績

海外遠征先のロサンゼルスで、上田馬之助と組んでアメリカス・タッグ王座を所持したことがある。これが、後に何度も起こる上田とタイガー・ジェット・シンの仲間割れの最初の原因とされた。なお、同時期にロスをサーキットしていたロディ・パイパーは移動の際に、健悟の運転するレンタカーをよく利用していた。ちなみに、ロスでの運転免許取得の際、試験に車に乗って行ったというエピソードを持つ。

この頃(1978年)のロスでは、日本での所属団体に関わらないマッチメイクが行なわれており、7月7日のオリンピック・オーデトリアムの興行では、健悟はミル・マスカラスと、上田はプリンス・トンガと対戦している。なお、アメリカやメキシコに遠征していた際のリングネームは「パク・チュー」であった。

藤原との対立

若手時代から藤原喜明との不仲は有名で、村松友視はこの二人を主人公にした短編小説を書いている。

主なタッグ・パートナー

  • 藤波辰爾(新日ニューリーダーズ)
  • 坂口征二
  • 木戸修(KKコンビ)
  • 越中詩郎
  • ジョージ高野

タイトル歴

NWA
  • NWA世界ライトヘビー級王座 : 1回
  • NWAインターナショナル ジュニアヘビー級王座 : 1回(1980/7/23、ブレット・ハートとの王座決定戦に勝利)
  • アメリカス・タッグ王座 : 2回(w / ミスター・イトー、ロディ・パイパー)
新日本プロレス
  • IWGPタッグ王座 : 4回(w / 藤波辰巳×4)
WWF
  • WWFインターナショナルタッグ王座 : 1回(w / 藤波辰巳)
大日本プロレス
  • BJW認定タッグ王座 : 1回

入場テーマ曲

  • ビューティフル・フライト(LP新日本プロレス・スーパーファイターのテーマに収録)
  • Critter Skitter(The Critters [Soundtrack]に収録)
  • ブラック・ストーム





梶原一騎
1936/9/4 - 1987/1/21

日本の漫画原作者、小説家、映画プロデューサー。本名は、高森朝樹(たかもり あさき)。高森朝雄(たかもり あさお)の筆名も使用した。格闘技やスポーツを題材に、男の闘う姿を豪快に、ときには繊細に描き出し、話題作を次々と生み出した。自身の破天荒な生き方や数々のスキャンダルでも話題を呼んだ。

1966年から『週刊少年マガジン』に連載された漫画『巨人の星』の原作者として名声を上げ、以後『あしたのジョー』(高森朝雄名義)、『タイガーマスク』など、所謂「スポ根もの」分野を確立した功績をはじめ、多くの劇画・漫画作品の原作者として活躍した。

弟は漫画原作者、空手家の真樹日佐夫。妻は高森篤子。離婚期間があり、その間台湾のトップスター、白冰冰(パイ・ピンピン)とも婚姻関係を結ぶ。白との間に娘・白暁燕(パイ・シャオイェン)がいた。

主な作品

  • チャンピオン太(絵:吉田竜夫)
  • 空手バカ一代(絵:つのだじろう・影丸穣也)
  • タイガーマスク(絵:辻なおき)
  • タイガーマスク二世(絵:宮田淳一)
  • 悪役ブルース(絵:峰岸とおる)
  • 新戦艦大和(絵:団鉄也)
  • 巨人の星(絵:川崎のぼる)
  • 赤き血のイレブン(絵:園田光慶)
  • 朝日の恋人(絵:かざま鋭二)
  • 愛と誠(絵:ながやす巧)
  • おとこ道(絵:矢口高雄)
  • 侍ジャイアンツ(絵:井上コオ)
  • あしたのジョー(高森名義・絵:ちばてつや)
  • 夕やけ番長(絵:荘司としお)
  • 四角いジャングル(絵:中城健)
  • ジャイアント台風(高森名義・絵:辻なおき)
  • 紅の挑戦者(高森名義・絵:中城健)
  • プロレススーパースター列伝(絵:原田久仁信)
  • カラテ地獄変(絵:中城健)
  • 新カラテ地獄変(絵:中城健)
  • キックの鬼(絵:中城健)
  • 柔道一直線(絵:永島慎二)
  • 男の星座(絵:原田久仁信)
  • 人間兇器(絵:中野喜雄)
  • 恋人岬(絵:牧美也子)
  • 柔道讃歌(絵:貝塚ひろし)
  • 甲子園の土(絵:一峰大二)

格闘技の祭典(梶原一騎追悼興行)ビデオ紹介
力道山DVD紹介
チャンピオン太/2/3/3/3




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