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スコット "ザ・ホッグ" アーウィン
Scott "The Hog" Irwin
1952/5/14 - 1987/9/5

アメリカ合衆国のプロレスラー。ミネソタ州ダルース出身(フロリダ州セントピーターズバーグ出身ともされる)。

ランバージャック、ヴァイキング、マスクマン、モーターサイクル・ギャングなど様々なギミックを使い分け、ナチュラルな巨体を持つ大型ヒールとして活躍した。実弟のワイルド・ビル・アーウィンもプロレスラーである。

来歴

1975年にAWAのバーン・ガニアのトレーニング・キャンプに参加し、1977年3月にNWAミッドアトランティック地区にてジョニー・ウィーバーを相手にデビュー。1978年にニューヨークのWWWFに登場、ケベック州出身のカナダ人ピエール・ラフレアーのパートナーとなり、ランバージャック・ギミックのタッグチーム "ユーコン・ランバージャックス" のエリック"Yukon Lumberjack" Eric)を名乗る。同年6/26、ドミニク・デヌーチ&ディノ・ブラボーを破りWWWF世界タッグ王座を獲得した。

1979年には『マイティ・ソー』をモチーフとした新ギミック、ソー・ザ・ヴァイキングThor the Viking)としてNWAのフロリダ地区に参戦。バグジー・マグローやジョー・ルダックらヒール勢と組んで同地区のタッグ王座を奪取する。翌1980年からは覆面レスラーのスーパー・デストロイヤーSuper Destroyer)に変身し、ダスティ・ローデスやミスター・フロリダと抗争。以降もジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングやビル・ワット主宰のMSWAなど南部エリアでスーパー・デストロイヤーとして活躍、ジョージアではマスクド・スーパースターとの大型覆面コンビで猛威を振るった。また、WWWF時代から因縁のあるアンドレ・ザ・ジャイアントとのスーパーヘビー級対決も南部各地で繰り広げている。

1983年末よりフリッツ・フォン・エリックが主宰するテキサス州ダラスのWCCWで弟のビル・アーウィンと合体。ビルをスーパー・デストロイヤー2号に変身させ、覆面兄弟チームのスーパー・デストロイヤーズを組んでアイスマン・キング・パーソンズとバック・ズモフの "ロックン・ソウル" と抗争、同団体認定のNWAアメリカン・タッグ王座(後のWCWA世界タッグ王座)を再三に渡って獲得した。

1984年下期からは覆面を脱ぎ、ハーレーダビッドソンにまたがったバイカー系タッグチームのロング・ライダーズThe Long Riders)をビルと共に結成。ジョージア地区を経て1985年よりAWAに登場し、ロード・ウォリアーズやスコット・ホール&カート・ヘニングと抗争を展開した。1986年にはカナダのモントリオール地区にも遠征し、ダン・クロファット&ソロファ・ファトゥからカナディアン・インターナショナル・タッグ王座を奪取している。

1987年9月5日、脳腫瘍のため35歳で死去。余命いくばくもないと診断された際、最期の別れと感謝のために、かつての仲間やライバル達の家を訪ねて周ったという。

日本での戦歴

日本には全日本プロレスに計3回、いずれも覆面レスラーとして来日している。初来日は1980年10月の『ジャイアント・シリーズ』だが、テリー・ファンク、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ワフー・マクダニエル、ビル・ロビンソン、ディック・マードック、キラー・トーア・カマタら豪華メンバーが集結した同シリーズにおいては目立った活躍を残せなかった。このシリーズにはジ・アステロイドThe Asteroid)名義で参戦しており、同時期、アーウィンはアメリカ南部でアステロイドとスーパー・デストロイヤーの2つのリングネームを使い分けていた。

2度目は1982年11月、スーパー・デストロイヤー名義で『'82世界最強タッグ決定リーグ戦』に上田馬之助と組んで出場。即席コンビということもあり得点ゼロの最下位に終わったが、同シリーズにレフェリーとして来日していたルー・テーズは「スタン・ハンセンやブルーザー・ブロディよりも腕力は上」と評価していた。なお、同時期に新日本プロレスが開催した第3回MSGタッグ・リーグ戦にも、ジョージアでタッグを組んでいたマスクド・スーパースターとの覆面コンビで参加が噂されたことがある。

最後の来日となった1984年2月の『エキサイト・シリーズ』にはビル・アーウィンとのスーパー・デストロイヤーズで参戦。大阪で阿修羅・原&石川隆士のアジア・タッグ王座にも挑戦した。素顔での来日は1度もなかったが、初来日を果たす前の1980/6/29、カナダのトロントで素顔のスコット・アーウィンとしてブルーザー・ブロディのパートナーに起用され、ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦している。

獲得タイトル

WWWF
  • WWWF世界タッグ王座:1回(w / "ユーコン・ランバージャック" ピエール)
CWF
  • NWA南部ヘビー級王座:1回
  • NWAフロリダ・タッグ王座:1回(w / バグジー・マグロー)
  • NWA USタッグ王座:1回(w / ジョー・ルダック)
GCW
  • NWAナショナル・ヘビー級王座:1回
  • NWAナショナル・タッグ王座:3回(w / ビッグ・ジョン・スタッド、マスクド・スーパースター、ビル・アーウィン)
MSWA
  • ミッドサウス・タッグ王座:1回(w / ザ・グラップラー)
WCCW
  • WCCW TV王座:2回
  • NWAアメリカン・タッグ王座:4回(w / ビル・アーウィン)
Lutte Internationale
  • カナディアン・インターナショナル・タッグ王座:1回(w / ビル・アーウィン)





近野剣心
1983/9/5

本名は近野 健一(ちかの けんいち)。広島県広島市安佐北区出身。DRAGON GATE所属。広島県立安西高等学校出身。

来歴

2008/1/27に行われた武藤塾番外編の新人オーディションに合格。その後全日本プロレスを退団し、DRAGON GATEに入団した。

2008/12/22、DRAGON GATE NEXの藤田洋平(現・RYOMA)戦でデビュー。関東地方で初の試合となった2009/1/25、初勝利を挙げKAMIKAZE入りを果たした。同時にリングネームを近野 剣心(ちかの けんしん)に改名。本隊デビューは1/31。

2009/4/15の後楽園大会にて戸澤陽とタッグを組んで横須賀享&RYOMA組と対戦したが、試合後にダウンしたRYOMAに蹴りを入れたことにより両軍のセコンドが入り乱れる展開となった。その日のメインでKAMIKAZEがトライアングル王座から陥落したことにより来月の後楽園で両軍で5対5のイリミネーションマッチが行われる予定だったが、RYOMAが近野にシングルを要求したことにより4度目(NEX含む)のシングルマッチが行われることになった。その試合では一方的な展開となり近野が勝利し、首の負傷で欠場中の岩佐拓の代わりにイリミネーションマッチに出場し、自身初の1日2試合出場となった。

6月から負傷により欠場。その後は不定期的にNEXに参戦する。

2010/1/27、総合格闘家への転身のため、DRAGON GATEを退団。


 
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藤田ミノル
1977/9/5

日本のプロレスラー。本名は藤田 穣(ふじた みのる)。山口県小野田市(現:山陽小野田市)出身。東京愚連隊所属(ZERO1にも参戦していて公式サイトにプロフィールがあるが、正式所属ではない)。

ZERO1-MAX中継実況の塩野潤二からは、「掃き溜めのブラックジャック」と形容される。

試合中にも嵌めている黒い皮製(?)手袋が特徴。

来歴

山口県鴻城高等学校でレスリング部に所属(大谷晋二郎の5学年後輩)。

大日本プロレス、みちのくプロレスを経て、KAIENTAI-DOJO時代の2002年に突如、新日本プロレスのリングに殴りこみをかける。TAKAみちのくとのシングル戦に敗れた後にKAIENTAI-DOJOを離脱。主戦を新日本プロレス、みちのくプロレスへ。

新日本プロレスへの殴りこみ時には、対戦相手の吉江豊が当時の体重130kgだったことに対抗して自らの体重を135kgでコールしろと田中秀和リングアナウンサーに要求したり、ファンのブーイングをよそに傍若無人の戦いを要求したり、吉江や佐々木や会場の客や新日本のレスラーから「誰だ?お前?」と言われたり、佐々木健介とシングルで「5分以内に俺を負かさなければ俺の勝ち」と我田引水のルールを挙行させた。しかし、1分足らずで健介の本気ラリアットを受け敗北。試合後記憶を飛ばし「恥かかせやがって」と言った。一方佐々木は「誰だ?お前?」と 言い返した。当時はグリーンボーイという印象が拭い去れずに終わったが、その後ZERO1-MAXでは目を見張る成長を遂げた。かつて新日本プロレスで対 戦し木端微塵にした佐々木健介もZERO1-MAXのリングで藤田を見た時に、その目を見張る急成長ぶりを認めたという。

相方・日高郁人と共に、ZERO1-MAXへ入団。PWFユニバーサルタッグ王座(パートナーは日高郁人)は、スティーブ・コリノ&CW・アンダーソンに取られるも、2005年3月27日ZERO1-MAX後楽園大会での、vsレオナルド・スパンキー&アレックス・シェリー組とのNWAインタナショナルライトタッグ王座決定戦で勝利し、同王座獲得。

2005年5月、第2回ディファカップではZERO1-MAX代表として、盟友日高とのタッグで決勝まで進むも、プロレスリング・ノア代表の丸藤正道、KENTA組に敗北。

日高とのタッグの勢いは止まらず、2005年10月10日ZERO1-MAX後楽園大会ではヘビー級の佐藤耕平&崔領二組からNWAインターコンチネンタルタッグ王座を奪取、ジュニアとヘビーのタッグ2冠王に君臨した。さらには大谷晋二郎&田中将斗組(炎武連夢)を相手に防衛に成功。ZERO1-MAX最強タッグであることを証明した。

これらの実績が評価され、日高・藤田組として2005年度のプロレス大賞最優秀タッグチーム賞を獲得した。

2006年2月にはNWAインターコンチネンタルタッグ王座をスティーブ・コリノ&Y2P-150kg組に奪われるも、3月にはノアの日本武道館大会に乗りこみ、金丸義信&杉浦貴組からGHCジュニアヘビー級タッグ王座を奪取することに成功。第3代王者となった。その後も防衛を重ねるが、同年8月にノアのディファ有明大会にて金丸&杉浦とのリターンマッチに敗れ王座陥落する。

直後に行われたZERO1-MAX主催のジュニアトーナメントである天下一Jr.2006シリーズでは、NWAインタナショナルライトタッグ王座をクリス・セイビン、アレックス・シェリーに奪取されついに無冠になってしまう。しかし肝心のトーナメント本戦では日高郁人、高岩竜一、菅原拓也とZERO1-MAX内の強豪レスラーを倒し見事優勝する。同時に新設されるAWA世界ジュニアヘビー級王座初代王者として認定された。

2007年に入りAWA世界ジュニアヘビー級王座を日高に奪われ、天下一Jr.2007ではDRAGON GATEの望月成晃を相手に1回戦敗退する等、不調が続いていた。そんな中、前年の天下一Jr.決勝で戦った菅原拓也とのタッグが定着し、高山善廣&佐藤耕平が所持していたNWAインターコンチネンタルタッグ王座を奪取するという大番狂わせを引き起こした。

2008年からは所属のZERO1-MAXでは2チームによるチーム対抗戦という形に(完全に縛られたわけではないが)なり、藤田は大森隆男率いるアックス軍に所属しているため、かつての相棒といわれた日高郁人(ソード軍所属)よりは、同じアックス軍である佐藤耕平(フリー)や兄弟コンビと言われる菅原拓也(エルドラド)とのタッグが多い。

2008年4月のJCBホール大会では因縁のクリス・セイビン、アレックス・シェリーとNWAインターコンチネンタルタッグ王座、NWAインタナショナルライトタッグ王座を賭けたダブルタイトルマッチに勝利し、二冠王者となった。

2010年、以前から共闘していた東京愚連隊に正式入団。

2011/4/6、DDTプロレスリング新木場大会の朝の会にて、同団体GMである鶴見亜門が「最近、呼んでもいないのに勝手に来て試合をする選手がいる」という問題点を指摘する。その呼ばれていない選手というのは藤田であることが判明し、DDTプロレスリング出入り禁止処分となる。…にも関わらず、第4試合において、HARASHIMA vs 中澤マイケル vs アントーニオ本多 vs DJニラ の4WAY戦にさり気なく出場しようとするも、見つかってしまい、鶴見亜門GMに退場を命じられた。試合終盤、他の3選手から集中攻撃を浴びた、HARASHIMA選手を救出に、突如HERO!が登場。このHERO!の乱入により、試合は無効試合になる。しかし、かねてよりHERO!ファンであった鶴見亜門GMの計らいにより、同月13日に行われる新宿大会で、HARASHIMA&HERO!組での出場が決定した。このHERO!と藤田が同一人物かどうかは明らかにされていない。これ以降、藤田の消息は不明である。

タイトル歴

  • GHCジュニアヘビー級タッグ王座(1回/&日高郁人)
  • AWA世界ジュニアヘビー級王座(1回)
  • NWAインターコンチネンタルタッグ王座(2回/&日高郁人、&菅原拓也)
  • NWAインターナショナルライトタッグ王座(&日高郁人)
  • 天下一Jr. 2006 優勝

入場テーマ曲

  • 世直し GOOD VIBRATION / SEX MACHINEGUNS

その他

テレビ出演

  • THIS IS KAIENTAI-DOJO(GAORA)

ラジオ出演

  • 週刊ラジオプロレス(北海道放送)





グレイ・メイナード
Gray Maynard
1979/9/5

アメリカ合衆国の総合格闘家。アリゾナ州フェニックス出身。エクストリーム・クートゥア所属。

来歴

総合格闘技デビューまで

3歳の時にレスリングを始め、高校時代は全米大会に優勝し、ミシガン州立大学に進学、一時期はラシャド・エヴァンスとルームメイトだった。その後アテネオリンピックを目指していたが、出場は叶わなかった。その後、BJペンにレスリングを指導したことがきっかけとなり、2006年にランディ・クートゥアの元で総合格闘技の練習を開始。同年4/21にTitle Fighting Championships 1で総合デビューを果たした。

The Ultimate Fighter

2007年にはUFCのリアリティ番組「The Ultimate Fighter」のシーズン5に参加し、BJペン率いるチーム・ペンに所属。エリミネイションバウトでは1回戦でウェイン・ウィームズ、2回戦でブランドン・メレンデスを破るも、準決勝でネイサン・ディアスにギロチンチョークで敗れた。6/23のフィナーレではロバート・エマーソンと対戦、エマーソンを投げた際に負傷させてタップさせたが、メイナードもマットに頭を打って気絶し、無効試合となった。

UFC

2008/4/2、UFN 13でフランク・エドガーに3-0の判定勝ちを収めた。10/25、UFC 90でリッチ・クレメンティに3-0の判定勝ちを収めた。

2009/3/7、UFC 96でジム・ミラーと対戦し、3-0の判定勝ちを収めた。9/16、UFC Fight Night: Diaz vs. Guillardでロジャー・ウエルタと対戦し、2-1の判定勝ちを収めた。

2010/1/11、UFC Fight Night: Maynard vs. Diazのメインイベントでネイサン・ディアスと再戦し、僅差の判定勝ちでリベンジに成功した。

2010/8/28、UFC 118でケニー・フロリアンを相手にテイクダウンとポジショニングで上回り、3-0の判定勝ち。プロ公式戦無敗のままフランク・エドガーの持つライト級王座への挑戦権を手にした。

2011/1/1、UFC 125のライト級タイトルマッチで王者フランク・エドガーと2年9か月ぶりに再戦。1Rにパンチでダウンを奪ったものの、1-1の判定ドローで王座獲得ならず。大会のファイト・オブ・ザ・ナイトとなった。






レイ・スティーブンス
Ray "The Crippler" Stevens
1935/9/5 - 1996/5/3

アメリカ合衆国のプロレスラー。ウェストバージニア州ポイント・プレザント出身。本名はカール・レイモンド・スティーブンスCarl Raymond Stevens)。

現役選手時代は"Blond Bomber"の異名を持つ金髪のヒールとして活躍した。小柄ながら、気風のいいファイトスタイルとケレン味のある試合巧者ぶりで一時代を築き、スーパースター・ビリー・グラハムやリック・フレアーをはじめ彼から影響を受けた選手は数多い。

※日本では「レイ・スチーブンス」と表記されていたが、本項では原音に近い表記に準ずる。

来歴

当時売り出し中だったバディ・ロジャースに憧れて1950年に15歳でプロレスラーとしてデビュー。ドン・ファーゴやロイ・シャイアーのパートナーとしてキャリアを積み、シャイアーとのタッグでは彼の弟と称してレイ・シャイアーRay Shire)を名乗った。その後、リングネームをレイ・スティーブンスに戻してサンフランシスコ地区を主戦場とし、1960年に同地区認定の初代USヘビー級チャンピオンとなる。以降、同王座を巡ってウイルバー・スナイダー、ボボ・ブラジル、パット・オコーナー、キング・カーティス・イヤウケアら強豪と対戦。1967/7/15には同地区に遠征してきたブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦し、カウントアウト勝ちを収めている(タイトルは移動せず)。

1968年7月、日本プロレスの『第一次サマー・シリーズ』に初来日、スカル・マーフィーとブルーノ・サンマルチノをパートナーに、ジャイアント馬場&アントニオ猪木のインターナショナル・タッグ王座に2回挑戦した。サンフランシスコでは1960年代後半よりパット・パターソンと金髪のヒール・タッグチーム「ブロンド・ボンバーズThe Blond Bombers)」を結成。ザ・デストロイヤー&ビリー・レッド・ライオン、ペドロ・モラレス&ペッパー・ゴメスなどと抗争する。弟分のパターソンとは後に仲間割れを起こし、USヘビー級王座を巡り対決したこともあった。

1970年代に入ると当時サンフランシスコ地区と提携していたAWAに参戦。ボビー・ヒーナンをマネージャーにニック・ボックウィンクルとタッグを組み、1972/1/20にクラッシャー・リソワスキー&レッド・バスチェンからAWA世界タッグ王座を奪取する。その後、同年12/30にバーン・ガニア&ビル・ロビンソン、1974/7/21にリソワスキー&ロビンソンに敗れタイトルを失うが、いずれも短期間で奪回。1975/8/16にディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーに王座を明け渡すまで、AWAを代表する悪党王者チームとして活躍した(ボックウィンクルとのコンビでは1972年にフロリダ地区にも遠征し、同年7/20にヒロ・マツダ&ティム・ウッズからフロリダ・タッグ王座を奪取している)。

この間、1974年11月に国際プロレスの『ワールド・チャンピオン・シリーズ』にAWA世界タッグ王者としてボックウィンクルと共に来日。IWA世界タッグ王者チームのラッシャー木村&グレート草津とダブルタイトルマッチを行った(同シリーズにはAWA世界ヘビー級王者のバーン・ガニアも来日しており、AWAの世界王者3人が揃い踏みしたことで話題になった)。1975年下期はザ・ファンクスがプロモートするテキサスのアマリロ地区に参戦し、ボビー・ジャガーズらを破りブラスナックル王座を通算3回獲得。翌1976年1月にはアマリロとの提携ルートで全日本プロレスの『新春ジャイアント・シリーズ』前半戦に特別参加している。

その後、AWAでパット・パターソンとブロンド・ボンバーズを再結成。1978年9月23日、前王者ハイ・フライヤーズの片割れジム・ブランゼルの負傷欠場による王座剥奪に伴い、新王者チームに認定され世界タッグ王座に返り咲く。翌1979/6/6にバーン・ガニア&マッドドッグ・バションに王座を奪われてからは、ノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区に転出。1980年から1981年にかけて、グレッグ・バレンタイン、ジミー・スヌーカ、イワン・コロフとパートナーを変えて同地区認定のNWA世界タッグ王座を3回に渡って獲得した。1982年の下期からはニューヨークのWWF(現・WWE)を約1年間サーキット。フレッド・ブラッシーとキャプテン・ルー・アルバーノの2人をマネージャーに、NWA時代のパートナーだったジミー・スヌーカと因縁の抗争を展開した。

WWFを離れてからはセミリタイアしていたが、1980年代後半に末期のAWAでカラー・コメンテーターとしてカムバック。1991年にAWAが活動を停止するとプロレス界から引退した。1996年5月3日、心臓発作のため死去。60歳没。

獲得タイトル

  • NWA南部ジュニアヘビー級王座(テネシー版):3回
  • USヘビー級王座(サンフランシスコ版):9回
  • NWA世界タッグ王座(サンフランシスコ版):3回(w / ペッパー・ゴメス、ピーター・メイビア、ムーンドッグ・メイン)
  • AWA世界タッグ王座:4回(w / ニック・ボックウィンクル×3、パット・パターソン)
  • NWAフロリダ・タッグ王座:2回(w / ニック・ボックウィンクル、マイク・グラハム)
  • NWAフロリダTV王座:2回
  • NWAテキサス・ブラスナックル王座(アマリロ版):3回
  • NWAミッドアトランティック・ヘビー級王座:1回
  • NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版):3回(w / グレッグ・バレンタイン、ジミー・スヌーカ、イワン・コロフ)
  • IWA世界ヘビー級王座(オーストラリア版):2回
  • IWA世界タッグ王座(オーストラリア版):1回(w / アート・ネルソン)

 etc.


  


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