本文へスキップ
 



5,000本以上の動画から
キーワード検索!

Google

WWW を検索
"極め”内検索
重要なお知らせ
2010/8月以降おまとめは休止しました。
動画検索はキーワードで!!


リンク切れ、レンタル、
お探し中などの問い合わせ

プロレス/格闘技
誕生日/忌日
9/8

新着(ニュース、興行・結果、Youtube動画)
今日は何の日?


エヴァン・タナー
Evan Tanner
1971/2/11 - 2008/9/8

アメリカ合衆国の総合格闘家。テキサス州出身。元UFC世界ミドル級王者。

グレコローマンレスリングをバックボーンに持つ。格闘技に関しては天性の才能を発揮し、ムエタイやブラジリアン柔術をビデオを見ただけで習得したという。UFCやパンクラスで活躍し、総合格闘技では通算32勝8敗の成績を収めた。2008年9月にキャンプ先のサンディエゴ近郊で死亡した。

来歴

高校時代にグレコローマンレスリングの州王者に2度なった。

1997年4月2日、掌底・ロープエスケープ有りのUSWF(ユニファイド・シュート・レスリング・フェデレーション)のヘビー級トーナメントで総合格闘技デビューを果たした。10月18日にはヒース・ヒーリングを破ってUSWF世界ヘビー級王座を獲得。以降2000年にかけて7度の防衛を果たした。

1998年7月、パンクラスのネオブラッドトーナメントで初来日。美濃輪育久、窪田幸生、ジャスティン・マッコーリーを破り、外国人として初めての優勝を果たした。

2001年2月23日、UFC 30でティト・オーティズの持つUFC世界ミドル級(現ライトヘビー級)王座に挑戦するも、開始早々にティトのボディスラムで失神KO負けを喫した。

2003年11月21日、UFC 45でフィル・バローニと対戦。1R4分過ぎ、タナーのパウンドでバローニがギブアップと言ったと聞こえレフェリーは試合を止めた。しかしバローニはレフェリーの勘違いだと抗議し、UFC 48で再戦の運びとなった。2戦目はタナーがボクシングで主導権を握り、判定勝利を収めた。

2005年2月5日、UFC 51のUFC世界ミドル級王者決定戦でデビッド・テレルを降し、第3代UFC世界ミドル級王者となるが、4か月後の6月4日、初防衛戦となるUFC 53でリッチ・フランクリンに敗れ王座陥落となった。10月3日のUltimate Fight Night 2でもデビッド・ロワゾーに敗れ、生涯初の連敗を喫した。

2006年4月15日、UFC 59でジャスティン・レヴェンスに三角絞めで一本勝ち。しかし、以降2年間試合から遠ざかった。

2008年3月1日、約2年振りのUFC復帰戦となるUFC 82で岡見勇信と対戦し、首相撲からの膝蹴りでKO負けを喫した。最後の試合となった6月21日のThe Ultimate Fighter: Team Rampage vs. Team Forrest Finaleでのケンドール・グローブ戦では1-2の判定負けに終わった。

2008年9月8日、サンディエゴ近郊のパロ・ヴェルデ山中で遺体となって発見された。タナーは9月3日に「身を清めるために」1人でキャンプに出発したが、2日後の9月5日に友人に水とガソリンが切れた旨をメールしたのを最後に消息が途絶えていた。当初は自殺と報じられたが、タナーのマネージャーは否定しており、その意志があったかどうかは定かではない。直接の死因は熱中症であり、遺体発見場所は日中温度が50℃に達する場所であった。

人物

無類の冒険好きとして知られ、本人のブログには度々キャンプに行く姿が書き込まれていた。ガイ・メッツァーはパンクラス時代に散歩につき合わされ、新横浜駅の界隈を英語の標識も無いのに何時間も一緒に歩かされたと述懐している。またタナーはアルコール依存症で あり、何度も身を持ち崩した。幾度かの長期休養もそれが原因である。しかし2008年のUFC復帰に際しては禁酒を徹底し、禁断症状に苦しみながらもト レーニングに集中していた。死の原因となった最後のキャンプはこの症状を抑えるための儀式だったとマネージャーは語っている。

獲得タイトル

  • 第3代UFC世界ミドル級王座(2005年)
  • パンクラス ネオブラッドトーナメント 優勝(1998年)
  • USWF世界ヘビー級王座(1997年)
  • USWFヘビー級トーナメント 優勝(1997年)





山田隆
1933/5/24 - 1998/9/8

日本のプロレス記者・評論家。東京スポーツ新聞社に所属していた。北海道北見市出身。

来歴

1959年東京スポーツに入社、1967/9/22から日本テレビの日本プロレス中継で解説者を務める。ターザン・タイラーの手錠事件写真を紹介するなど、海外情報知識を生かしたそれまでにはない画期的な解説を取り入れた。ジャイアント馬場との親交が深く、1972年の全日本プロレス旗揚げから1980年代末まで長年にわたって『全日本プロレス中継』の解説者を務めた。特にスタン・ハンセン乱入事件での「ハンセンですよ!」は今でもプロレスファンの語り草になっている。また、外国人レスラーとの交流を通じてアメリカのプロレス事情にも精通し、独特のだみ声での語り口調は実況の倉持隆夫アナウンサーとの名コンビで視聴者に親しまれた。

著書に「プロレスの首領」(東京スポーツ新聞社)がある。

1998年9月8日、肝硬変にて死去。65歳。

山田語録

博識と落ち着いた語り口でお茶の間に親しまれた山田であるが、微妙な発言も多々残している。

  • 「やはり相手が大変に試合巧者のザ・ファンクスなだけに、自分の片足をもって身体をホールドするという一種の捨て身技はなかなか出しにくいんでしょうね」(馬場・鶴田とファンクスの試合で、馬場が十六文キックを余り使っていない理由の解説)
  • 「NWAの世界王者は各地区のローカルチャンピオンに胸を貸してやるのが役目ですから、たとえばニューヨークに行けばニューヨークのチャンピオンであるボブ・バックランドに胸を貸してやる、フロリダに行けばフロリダのチャンピオンであるダスティ・ローデスに胸を貸してやると」(馬場対ハーリー・レイスのNWA世界戦の解説で。バックランドとローデスは新日本プロレスの常連)
  • 「シークがあんな大きな凶器を持ってきてますからねえ、これはちょっと手の施しようがないですね」(ザ・シークの試合で。結果は両者リングアウト)
  • 「今馬場選手が盛んにハンセンの腕殺しやってますね。あれはね、明らかにね、腕を狙っているんですよ」
  • 「私は先ほどの判定は不公平だと思ったんですけどね、両方反則ならいいですね」(1986年11月、輪島大士の国内デビュー戦となった対タイガー・ジェット・シン戦。一旦は下った「輪島の反則負け」という裁定が、セコンドの馬場からの抗議で「両者反則(引き分け)」に変更。その最終的な裁定が、会場内に告げられた際の発言。無論「先ほどの判定」とは、一旦宣せられた反則裁定を指す。当時はこうした不透明決着が山ほどあったが、恩恵に与るよりもむしろそれで涙を呑んだ選手の方が多かった)
  • キラー・トーア・カマタが試合中に流血した際、倉持アナが「トーア・カマタ流血です」と流血のおびただしさをアナウンスした数分後に山田が「トーア・カマタ流血ですね。」と解説した。

 
広告


レイヴェン
Raven
1964/9/8

スコット・レビーScott Levy)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ペンシルベニア州フィラデルフィア出身。オリジナルECWの代表的選手。

ラリー・シャープが主宰するプロレスラー養成機関 "モンスター・ファクトリー" でトレーニングを積み、スコッティ・ザ・ボディのリングネームで1988年にデビュー。オレゴン地区のPNWなどNWA系の団体に参戦した後、1990年8月に全日本プロレスに初来日。1991年にはスコット・アンソニーに改名してテキサス州ダラスのGWFに登場し、カクタス・ジャックやマッカン・シンらと "ザ・カーテル" なるヒール・ユニットを結成、マイクパフォーマンスのスキルを活かし、スポークスマン的存在となって活躍した。

1992年からスコッティ・フラミンゴのリングネームでWCWに所属。軽量級戦線で活動し、同年6/20のPPV "Beach Blast 1992" にてブライアン・ピルマンからWCWライトヘビー級王座を奪取した。ダイヤモンド・ダラス・ペイジやビニー・ベガスとのヒール・ユニット "ダイヤモンド・エクスチェンジ" の一員としても悪名を高めたが、新副社長ビル・ワットのブッキングに反発してWCWを離脱した。

WCW脱退後の1993年、トークのうまさを買われ、調教師をキャラクターにしたジョニー・ポロを名乗りマネージャーとしてWWF(現WWE)に登場。初期はアダム・ボム、後にザ・ケベッカーズ(ジャック・ルージョー&ピエール・カール・ウエレ)のマネージャーを務め、『マンデー・ナイト・ロウ』のアシスタント・プロデューサーやカラー・コメンテーターも担当していた。

しかし、選手としての活動を続けるべくWWFを離脱し、1995年からECWに参戦。グランジをモチーフとした虚無的なキャラクター、レイヴェンに変身する。トミー・ドリーマーやサンドマンといったライバルたちとのハードコア・レスリングで熱狂的な人気を集め、ECWを象徴する選手の一人となった。ECWではハードコアの教祖と呼ばれるほどのカリスマ性も誇っていたが、サンドマンを十字架に括りつけるなどのパフォーマンスで非難を浴び謝罪したこともある(なお、この時にアマチュア時代のカート・アングルが会場に来ていたが、この演出に失望したため彼とECWとの契約は実現しなかった)。1997年に再びWCWに移籍し、ビリー・キッドマンなどを配下に新ユニットのレイヴェンズ・フロックを組織するが、1999年にECWに復帰した。

ECW崩壊後の2000年からは選手としてWWFと再契約。WWFでもハードコアマッチで活躍したが、団体から徐々にハードコア色が消えていくと共に活動の場も狭まり、またその特異なキャラクターは(他の多くのECW出身者と同じように)メジャー団体のリングでは活かしきれず、2003年にWWEを解雇された。

WWE解雇後はTNAに所属し、ここでもハードコア路線を中心に活躍。2005年6月にはNWA世界ヘビー級王座も獲得したが、ジェフ・ジャレットの術中に嵌まり王座を奪われてしまう。それ以来ジャレットとの再戦を求めるもタイトル管理委員会を務めるラリー・ズビスコがこれを認めず、逆上してズビスコに喧嘩を売る。しかし2006年1月、そのズビスコが送り込んだ刺客のショーン・ウォルトマンと王座挑戦かTNA追放かを賭けた試合に敗れ、TNAを追放されてしまうが、同年のロックダウンで復帰。ズビスコ襲撃を目論んだが、ズビスコが連れて来たセキュリティーに阻まれて未遂に。しかし、ここからズビスコとの抗争を再開。決着戦の髪切りデスマッチでズビスコとの戦いを制し、ズビスコを丸坊主にしてウサを晴らした。

最近はアビス、ブラザー・ラントを相手に再びハードコアな抗争を繰り広げてたのち、カズ、マーティア、ヘイボック(現ジョニー・デバイン)を子分に従え、「セロトニン」なる過激派ユニットを結成するがあまり受けず、カズの反発、脱退を機にセロトニンは解散、再びシングルプレーヤーに転向するが、2008年初頭にTNAを退団。インディー団体を転戦後、2009年4月から再びTNAへ参戦し、2010年7月よりミック・フォーリー、ロブ・ヴァン・ダム、トミー・ドリーマー、スティービー・リチャーズ、ライノ、チーム3D、アル・スノーらとTNA版ECWオリジナルズであるEV 2.0Extreme, Version 2.0)を結成した。

リングネーム

レビーが用いたことがあるリングネーム

  • スコッティ・ザ・ボディ (Scotty The Body)
  • スコット・アンソニー (Scott Anthony)
  • スコッティ・フラミンゴ (Scotty Flamingo)
  • ジョニー・ポロ (Johnny Polo)
  • レイヴェン (Raven)(現在も使用中)

獲得タイトル

TNA
  • NWA世界ヘビー級王座 : 1回
WWF / WWE
  • WWFハードコア王座 : 27回(団体最多)
WCW
  • WCWライトヘビー級王座 : 1回
  • WCW USヘビー級王座 : 1回
  • WCW世界タッグ王座 : 1回(w / ペリー・サターン)
ECW
  • ECW世界ヘビー級王座 : 2回
  • ECW世界タッグ王座 : 4回(w / スティービー・リチャーズ×2、トミー・ドリーマー、マイク・オーサム)

etc.






ザ・グレート・カブキ
The Great Kabuki
1948/9/8

本名:米良 明久)は、日本のプロレスラー、レフェリー。現在、プロレスラーとしてはセミリタイア状態。

宮崎県延岡市出身。

アメリカでも大きな成功を収めたレスラーである。東洋の神秘の異名も同リングネームに関連して持つ、代表的なペイントレスラーの一人。

経歴

ザ・グレート・カブキ以前

生まれは宮崎県だが、中学2年のとき愛知県知立市に移っている。学生時代は水泳選手として活躍した。

1964年に日本プロレスに入団。同年10/31、宮城県石巻市での日本プロレスでの興行に於いて、高千穂 明久のリングネーム(出身地に因んで豊登が「高千穂」と名付けた)でプロレスラーとしてデビュー。デビュー戦の相手は山本小鉄であった。

1970年からアメリカ遠征に出る。(このときのリングネームは「デビル・サト」。この「デビル・サト」と名乗るレスラーにおいて、高千穂は2代目である。初代は芳の里)

1972年日本プロレス崩壊の危機に際し、帰国。

1973年、ジョニー・バレンタインを破りUNヘビー級王座獲得。

日本プロレスが崩壊した1973年に全日本プロレスへ移籍。1977年、「世界オープンタッグ選手権」にマイティ井上(国際プロレス)とタッグチームを結成して高千穂明久として出場した。その後オーストラリア、アメリカと海外遠征を多く経験する。

ザ・グレート・カブキとして

元々は正統派で堅実なファイトスタイルであったが、アメリカ遠征中の1981年、テキサス州ダラスにおいてアメリカ人のマネージャー、ゲーリー・ハートのアイデアで、歌舞伎役者をモチーフにした、東洋系を前面に押し出したペイントレスラーにギミック変更。同時にザ・グレート・カブキのリングネームを用いだす。デビュー戦は1981/1/10、対戦相手はザ・スポイラーだった。当初ゲーリー側の思惑ではこのギミックは3ヶ月ほどでよく、次の大物を呼ぶまでのつなぎでしかなかった。。

なお、このリングネームを名乗るのは米良で2人目であったが、後の米良の活躍によりこのリングネームは米良の代名詞となる。(初代は主に「ザ・カブキ」と名乗っており、ザ・グレート・カブキ名義は初代とも言える)両者は1972年頃、デトロイトでタッグを組んだことがあるという。また、ペイントレスラーの元祖とされているが、カブキ以前にもペイントを施して戦うレスラーはいた。しかしコンスタントにペイントレスラーとして活動し、流行のきっかけを作ったのはカブキであり、マサ斎藤はワールドプロレスリング解説時に「僕も昔、顔に塗ってこういうスタイルでファイトしてました。外人には受けるんですよね。カブキ以前にもいたことはいるんですけどね。でもやっぱり彼が元祖ですよ」と語っている。

顔にペイントを施し、着物や能面を着けて登場、ヌンチャクを操り毒霧を吹くという東洋系のヒールキャラクターが受けて、アメリカ各地の団体で活躍。時に連獅子姿の他に鎖カタビラに日本刀を携えた忍者をモチーフにしたコスチュームでも登場し、フォン・エリック・ファミリー、ブルーザー・ブロディ、ハーリー・レイス、ダスティ・ローデス、リック・フレアー、アンドレ・ザ・ジャイアント、トミー・リッチらのトップスターと対戦した。

1983年、ジャイアント馬場から帰国命令が出たため、全日本に凱旋帰国。帰国後もカブキのギミックのまま全日本プロレスに登場し、アメリカでの活躍もあって人気を得る。専門誌だけでなく一般誌にもとりあげられ、子供向けの本にまで登場し人気は馬場やジャンボ鶴田に引けを取らなかったものの、リング上の格は2人の後に甘んじ、ギャラの面においてもカブキにとっては決して満足のいく扱いではなかったという。後にムック本のインタビューで、カブキの凱旋帰国シリーズがTV放映権料を除く興行収益で全日本設立以来初の黒字(馬場が欠場していたのにも関わらず)になったり、一般マスコミの取り上げ方やTV出演依頼が殺到したため、馬場を含む先輩レスラー達の嫉妬を買ってしまった事や、映画『カランバ』のプロモーション(映画CMを真似て、腕にロープを巻き、ジープで引っ張ってどこまで耐えられるか、というイベント)についても、映画配給会社がカブキを名指しして依頼が来たために、出演について直前までもめた事が明かされている。しかしながら、馬場は若手に対して「よくカブキの試合を見ておけ」と言っていたということから技術面においては認めていたようである。

その後、ダラス地区WCWAと全日本を行き来する形となっていたが、長州力らジャパンプロレスの参戦や、WCWAの新日本プロレスとの提携もあって扱いはさらに悪くなり、一時期は造反してテリー・ゴディとの共闘で外国人サイド扱いを受けるが、ギャラはゴディに比べて格段に低かったと言われる。そして長州らの新日復帰前後に全日正規軍に戻される形となり、天龍同盟との試合で熱い闘いを繰り広げ、再度脚光を浴びる。

1990/7/30に全日本を退団。この前日には鶴田と組んで世界タッグ王座を獲得している。

全日本プロレス退団後

全日本退団後は、天龍源一郎らが旗揚げしたSWSに入団。選手兼ブッカーとして活動する。SWS崩壊後はWARに所属するも数多くの団体に登場するようになる。新日本プロレスにも登場するようになり、平成維震軍の一員となった。

1993/5/25、WAR日本武道館大会においてグレート・ムタとの「親子対決」が実現した。 実況アナウンサーから「地獄絵図」と形容される程の凄惨な試合を展開。結果はムタがレフェリーの海野宏之(現:レッドシューズ海野)にイスで暴行を加えたことによるカブキの反則勝ち。試合には勝ったものの、カブキは試合後腹の底から震えるような声で「ムータ~~!!」と叫び「My soooon! I kill you son of a bitch...」とマイクで続けた。

6/15、新日本プロレス日本武道館大会において「二度目の親子対決」(IWGPヘビー級選手権試合)が実現した。ムタの猛攻に額を割られカブキは大流血となったが、血管が切れてしまい額から文字通りぴゅーっと勢いよく噴き出す血を倒れているムタの体に上からかけるおぞましい技を見せ、客を震え上がらせるとともに息子であるムタに格の違いを見せ付けた。マサ斎藤は「口からは毒霧、額からは血が…」と語った。結果はカブキが海野レフェリー(WAR)に毒霧を吹きかけ、さらに止めに入った田山正雄レフェリー(新日本)にもイスで暴行を加えたことによるカブキの反則負け。試合後カブキは「Hey! my son...look me father!? I'm tough I'm tough!! My son listen to me!! listen to me...next time next time I kill you」とマイクアピールを行い、あまりの過激さから、試合はタイトル戦にもかかわらずテレビ中継が中止となり、ビデオソフト化による放映となった。

1994年には、一度だけWWFに登場。ロイヤルランブルのランブル戦に出場した。

1995年より石川敬士が興した新東京プロレスに参戦し、1996年に発表された『インディー統一機構(ファイティング・フォー・フューチャー、略称『FFF』)』でもエース級選手の一人としての扱いを受けるが、FFFは旗揚げ前に頓挫。

1997年からはIWA・JAPAN所属となる。1998年に現役引退を表明。引退に際してムタの代理人である武藤敬司が「パパと一緒に試合がしたい」とコメントした。そして同年8/8の新日本プロレス大阪ドーム大会ではカブキとムタの「親子タッグ」が実現。後藤達俊、小原道由組と対戦し、後藤からピンフォール勝ちを収める。試合後、ムタは控室に引き上げる際「I miss daddy...I love kabuki kabuki!!」と声を上げ、さらに「I miss daddy I love you I miss you I love you!!」とムタなりにカブキの引退に際してのコメントを送っている。

また同年7月には、漫画『プロレス・スターウォーズ』の中でしか実現していなかった、カブキ&ケンドー・ナガサキ(オリエンタル・ミステリータッグ)で、後楽園ホールのメインを飾った。

セミリタイア後

1998年に引退した後は、東京都飯田橋にて居酒屋「串焼き・ちゃんこ かぶき」を経営する傍ら、IWA・JAPANにてレフェリーを務め、折を見て試合にも出場するセミリタイア状態となっており、時折観客として後楽園ホールなどにも足を運んでいる。インディレスラーのコーチとして指導に当たることもあるが「必ず基礎の受身からやる」「アルバイトをしながらプロレスをやっているようではダメになっていく」と語り、プロ意識を持つことの重要性を説いている。

2009/12/6の大阪プロレス、6人タッグ戦において久々にレスラーとして試合に出場。ミラクルマン、くいしんぼう仮面、タコヤキーダー組と対戦し(パートナーは松山勘十郎、救世主忍者乱丸)10分00秒、竹とんぼ式ラリアットからのエビ固めでタコヤキーダーからフォール勝ちを収める。

タイトル歴

  • 全日本プロレス
    • 世界タッグ王座 : 1回(w / ジャンボ鶴田)
    • アジアタッグ王座 : 1回(w / サムソン・クツワダ)
  • NWA
    • NWA テキサス世界タッグ王座 : 1回(w / チャン・チュン)
    • NWA 中部大西洋TV王座 : 1回
    • NWA 西部タッグ王座 : 1回(w / リッキー・ロメロ)
    • NWA 中部タッグ王座 : 2回(w / パク・ソン、キラー・カール・コックス)
    • NWA "Beat the Champ"TV王座 : 1回
    • NWA オーストラリアタッグ王座 : 1回(w / ヒロ・トージョー)
  • WCCW
    • WCCW アメリカヘビー級王座 : 1回
    • WCCW テキサスブラスナックル王座 : 2回
    • WCCW TV王座 : 1回
  • CWF
    • NWA フロリダタッグ王座 : 2回(w / ミスター・サイトー)
    • NWA フロリダUSタッグ王座 : 2回(w / ミスター・サイトー)
  • その他
    • 中南部ルイジアナヘビー級王座 : 1回
    • 中部アメリカヘビー級王座 : 1回
    • UNヘビー級王座 : 1回

エピソード

プロレスリング・ノアの三沢光晴社長が不動産仲介会社リーヴライフ トゥエンティーワン(通称:ザ・リーヴ)のCMに出演したきっかけは、カブキの紹介によるものである。ノア所属選手のCM出演を切望していたザ・リーヴの佐藤和弘社長が、親交のあったカブキから三沢を紹介され、同年齢で、生まれた月、血液型も同じであったため意気投合した。

リングネーム

米良が用いたことがあるリングネーム

  • 高千穂明久
  • タカチホ
  • ヨシノサト(アメリカ修行中に使用)
  • デビル・サト(アメリカ修行中に使用)
  • ミスター・サトー(アメリカ修行中に使用)
  • ミスター・ヒト(アメリカ修行中に使用)
  • ヒト・トージョー(アメリカ修行中に使用)
  • タイガーマスク(韓国遠征時)
  • カブキ
  • ザ・グレート・カブキ(アメリカ遠征中の1981年より。以降現在も使用中)

入場テーマ曲

  • ヤンキーステーション
    • ザ・グレート・カブキ時
  • ザ・グレート・カブキ
    • SWS時代のザ・グレート・カブキ時

グレートカブキの店




 ↑ トップへヤフーオークション
 


 Copyright(c) Mitsuishiya, Inc. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system