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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
9/10

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フリッツ・フォン・エリック
Fritz Von Erich
1929/8/16 - 1997/9/10

アメリカ合衆国テキサス州出身のプロレスラー。本名はジャック・バートン・アドキッセンJack Barton Adkisson、ハンス・アドキッセンとも)。

ギミック上の出身地はドイツ・ベルリン。アイアンクローの開祖として知られ、「鉄の爪」はそのまま彼の異名にもなった。引退後はテキサス州ダラスのWCCWテリトリーのプロモーターとして活動した。

来歴

13歳の時にアメリカに移住、父母ともにドイツ系ユダヤ人であり、ナチスの迫害を逃れたものだった(とされる)が、リング上のキャラクターとしては「ナチス親衛隊の生き残り」と称することもあった。

大学時代はフットボールの選手として活躍、スチュ・ハートのコーチを受け1954年にプロレスラーとしてデビュー。ナチ・ギミックのヒールとなって活動し、1950年代後半からは彼の「弟」という設定のワルドー・フォン・エリックとの兄弟タッグでも悪名を売った。1963/7/27にはネブラスカ州オマハでバーン・ガニアを破りAWA世界ヘビー級王座を獲得、第9代王者となった。

1966年よりテキサス州ダラスにてNWA傘下の団体NWAビッグタイム・レスリングを設立。同年12月にはメインタイトルであるNWAアメリカン・ヘビー級王座の初代チャンピオンとなり、以降ビッグタイム・レスリングのオーナー兼エースとして活躍。アメリカン・ヘビー級王座には1966年から1977年にかけて、ブルート・バーナード、ザ・スポイラー、バロン・フォン・ラシク、ジョニー・バレンタイン、ボリス・マレンコ、トール・タナカ、ブラックジャック・マリガン、ブルーザー・ブロディ、オックス・ベーカーらを破り、通算15回に渡って戴冠した。また、1975年からは1年間、NWAの会長職も務めている。

1980年代からは団体名をWCCWWorld Class Championship Wrestling)に改称し、1982年のキングコング・バンディ戦を最後に現役を引退。以降はプロモート業に注力し、WCCWのボスとして黄金時代を築く。自らの息子たちをエースに、最盛時には「ダラスのプロレスラーはエリックのホテルに部屋を与えられ、エリックのレストランで食事をし、エリックの銀行の小切手でファイトマネーを支払われる」と言われたほど、経済的にも成功をおさめた。一方で、長男のハンス・アドキッセン・ジュニアが幼くして不慮の事故により夭逝して以降、デビッド、ケリー、マイク、クリスとその息子たちがことごとく死去、「呪われたエリック一家」とも囁かれた(デビッドは日本で病死、一説には急性ドラッグ中毒と言われているが、エリック・ファミリーは否定している。ケリー、マイク、クリスは自殺)。健在なのは次男(プロフィール上は長男)ケビンだけとなっている(ケビンはプロレスラーを引退し、近年は母親や妻子とともにカウアイ島在住)。

1980年代後半、ジム・クロケット・ジュニアの発言力が増してNWA内部のパワーバランスが崩れ始めたことを機に、団体名をWCWAWorld Class Wrestling Association)と改称してNWAを脱退。WWFとの興行戦争に抗するべくテネシー州メンフィスのCWAと合併し、新たに発足したUSWAのダラスにおける興行を手掛けるが、最終的にはメンフィス派と袂を分かちプロレスリング・ビジネスから撤退した。その後、長年連れ添った夫人とも離婚し、1997年に癌のため死去。68歳没。

2009年、フォン・エリック一家のWWE殿堂入りが決定。授賞式にはケビンが出席した。

日本との関わり

1966年の初来日以降、日本に度々遠征し、ジャイアント馬場とはインターナショナル・ヘビー級選手権のベルトをめぐる数々の好勝負を残した。初来日時の東京での馬場とのインター戦は、日本武道館のプロレス初興行のメインイベントであった。日本プロレス時代は馬場戦以外にも、ギミック上の「弟」であるワルドー・フォン・エリックや「青銅の爪」キラー・カール・クラップを従えてのインターナショナル・タッグ選手権や、アントニオ猪木とのUNヘビー級選手権などを戦っている。

1973年、日本プロレス最後のシリーズとなった「アイアンクロー・シリーズ」に参戦。日本プロレスの崩壊後は馬場の全日本プロレスに来日するようになり、最後の来日となった1979年には馬場の弟子であるジャンボ鶴田とも戦っている。「ジャンボ鶴田試練の十番勝負」の最終戦の対戦相手を務めたもので、さすがに年齢には勝てず敗れはしたが、その迫力は健在であった。リング下にいた当時若手の大仁田厚を顔面にアイアンクローをかけてそのままリング上に引きずり上げたのはこの最後の来日時である。1985年頃から日本での提携先を全日本から新日本に変更したが、新日本に来ることはなかった。

また、テキサス州ダラス地区のプロモーター・ブッカーとして、息子たちやブルーザー・ブロディ、ジノ・ヘルナンデス、ファビュラス・フリーバーズなど数々の選手を日本に送り込んだ。

息子たちがまだ幼い頃、一緒に来日した際に広島市の広島平和記念資料館を見学させ、戦争の悲惨さを繰り返し説いていたという。

獲得タイトル

  • AWA世界ヘビー級王座:1回
  • インターナショナル・タッグ王座:1回(w / キラー・カール・クラップ)
  • NWA南部タッグ王座(ミッドアトランティック版):1回(w / ワルドー・フォン・エリック)
  • NWA北米ヘビー級王座(アマリロ版):4回
  • NWA USヘビー級王座(デトロイト版):3回
  • NWA USヘビー級王座(テキサス版):3回
  • NWA世界タッグ王座(テキサス版):2回(w / キラー・カール・コックス、デューク・ケオムカ)
  • NWA世界6人タッグ王座(テキサス版):1回(w / ケビン&マイク・フォン・エリック)
  • NWAテキサス・ヘビー級王座:3回
  • NWAアメリカン・ヘビー級王座:15回
  • NWAアメリカン・タッグ王座:6回(w / ワルドー・フォン・エリック、ビリー・レッド・ライオン、グリズリー・スミス、フレッド・カリー、ダン・ミラー、ディーン・ホー)
  • WWE殿堂:2009年度(フォン・エリック・ファミリーとして受賞。プレゼンターはマイケル・ヘイズ)

 etc.

エピソード

  • 生まれついて掌が大きく握力も強靭で、その握力は一説には200kgを超えていたという。「アイアンクロー」誕生の逸話としては、街で刃物をもった暴漢と遭遇、とっさにその手をつかんだところ、相手は手首を骨折、失神してしまった…などの話がある(他の有力説としては、フットボール選手の頃にボールを握りしめたところ、それを破裂させたことがある経験から考案したというもの)。相手の顔面あるいは胃袋を握りつける、という単純明快な技で、一躍スターダムにのぼりつめる。その「鉄の爪」はルー・テーズのバックドロップなどとともに、20世紀のプロレスを代表する必殺技に数えられる。
  • また、そのアイアンクローで相手選手を出血させたり、自らも試合で出血する場合があり、常に「流血」のイメージがまとわりつくようにもなった。キック力にも優れ、ジャイアント馬場も「馬の蹴りのようだ」と表現したほど。引退の直前までヒール・スター選手であり続けた。
  • 1975年7月に日大講堂で行われたジャイアント馬場との試合の際、場外で男にボールペンで刺される事故に遭うが、平然としている様子が映像に残っている。
  • 梶原一騎は、前記「刃物をもった暴漢と遭遇、とっさにその手をつかんだところ、相手は手首を骨折、失神したのがアイアン・クローの始まり」のほか数々のアイアンクロー伝説を『プロレススーパースター列伝』などで書いた。その中には、「アイアンクローを頭に食って脳波がおかしくなったレスラーは5人をこえる」というものまである。
  • エリックの経済的な成功についての前記の逸話は、『プロレススーパースター列伝』のブルーザー・ブロディ編で取り上げられた。これは1977年にプロレス雑誌で紹介された、当時若手レスラーとしてダラスに参戦していたロディ・パイパーの「エリックの車に乗り、エリックのアパートに住み、エリックのレストランで食べ、エリックのスーパーマーケットで買い、エリックの銀行からファイトマネーを受け取った」というコメントと、「ガソリンをエリックのスタンドで入れ、ファイトマネーの小切手の5%を現金化する際の手数料で払うため、収入の2/3はエリックの懐へ帰る仕組みとなっている」という悪徳マネージャーのゲーリー・ハートの言葉が引用されたものである。

 




YAMATO
1981/9/10

本名は小野寺 正人(おのでら まさと)。岩手県一関市出身。DRAGON GATE所属。

経歴

和術慧舟會を経てDRAGON GATEに入門。小野寺大和のリングネームで2006/7/29京都KBSホールにて対神田裕之でデビュー。デビュー直後にFinal M2Kに見習いとして加入し、オープン・ザ・トライアングル・ゲートのリーグ戦に出場する。総合格闘技を経験しており、キレのあるグランドテクニックと綺麗なブリッジを見せる。

2007年にはNEX-1 トーナメントで優勝を果たし、試合後にはアメリカへ修行に行くと宣言。その後5月7日のSITE-KOBE大会にて日本に帰国。同時にリングネームもYAMATOに変更した。鷹木信悟率いるNEW HAZARDに所属する。

日本に復帰したあとは順調だったが、2007年6月に左肩を脱臼し長期欠場を余儀なくされた。同年9月14日の後楽園大会で、B×Bハルクと共に10月12日の後楽園大会での復帰を宣言。それに合わせて9月からハルクとの海外遠征で一足早く復帰した。

2008年から、斎藤了、CIMA、さらには同門のハルクに対しても、執拗に敵意を燃やすようになる。

2月3日にオープン・ザ・ドリームゲート選手権試合に敗北したGammaと謎の握手をする。

3月7日、NEW HAZARD対マッスル・アウトローズの大江戸式カウントダウン・イリミネーションマッチ後(試合はNEW HAZARDの勝利)にDRAGON GATE復帰を表明した、谷嵜なおきに対して真っ先に異を唱え、3月20日にシングルマッチで対決するが、敗北。しかし、和解し、共闘していくことになる。

4月13日、仲間割れしていたハルクとシングルマッチで激突し、試合は神田裕之の乱入があったものの勝利。試合後、ハルクと和解し握手をする。

4月17日、共闘していた谷嵜なおきとのタッグでGamma&堀口元気と対戦するが、谷嵜を裏切りマッスル・アウトローズに加入、ハルクの髪を切り、サイバー・コングのマスクを剥ぐ暴挙に出た。そして5月14日に鷹木信悟、サイバー・コングも合流し、REAL HAZARDでの活動を開始。同日、自身初のタイトルとなるオープン・ザ・トライアングル・ゲート王座を獲得(パートナーは鷹木信悟、Gamma)。

6月6日、オープン・ザ・トライアングル・ゲート王座選手権試合にて、望月成晃、ドン・フジイ、マグニチュード岸和田組と対戦、望月から勝利を奪い初防衛。その望月とは6月12日の後楽園大会で今度はシングルマッチを行うが敗退。

6月28日、戸澤塾の新井健一郎、岩佐拓、忍組に敗れ、トライアングルゲート防衛に失敗するが、7月12日にはGamma、神田をパートナーに再びトライアングルゲートを獲得し、7月27日には、4wayマッチでの防衛に成功した。

8月にはSummer Adventure Tag Leagueでサイバーをパートナーに出場し、新井&岩佐組に敗北した以外は全勝し、リーグ戦首位で決勝トーナメントに勝ち上がったものの、準決勝でドラゴン・キッド&鷹木組に敗れる。また、この頃からフジイとの確執が始まる。

9月20日、ドン・フジイとノーピープルマッチで激突するが敗北。

10月5日、サイバー・コングをパートナーに土井成樹、吉野正人の持つオープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座に挑戦し、勝利。第5代王者となった。

2009年1月18日、REAL HAZARDからGammaを追放し、新たなリーダーとなった。1月23日にはかつての同僚、鷹木信悟とノーロープマッチを行い、勝利。

2009年6月、新日本プロレス主催のベスト・オブ・ザ・スーパージュニアへ参戦。獣神サンダー・ライガー(3日)、金本浩二(11日)に勝利したが、リーグ戦2勝4敗で予選で敗退。

新日本参戦前からGamma、ダークサイドハルク、フジイ、鷹木と立て続けにシングルマッチで敗れた上にREAL HAZARDの他のメンバーと誤爆を繰り返すなど不和が続き、鷹木戦後の「思い残すことはもうない」などの発言やスーパージュニア終了後も欠場を繰り返し ていたことから週刊誌などで退団が囁かれていたが、6月26日の関西テレビなんでもアリーナ大会に登場しREAL HAZARD脱退と鷹木との共闘=KAMIKAZE加入を表明(欠場は膝の負傷が原因)。7月19日にその鷹木と組んでオープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座に挑戦するも敗れた。 Summer Adventure Tag Leagueには鷹木信悟と組んで出場し優勝を果たし、前王者組にリベンジし斎藤了をギャラリアで仕留め、第8代王者組になった。

2010年3月、両国国技館での土井成樹との試合で土井の必殺技マスキュラーボムを喰らいながらも耐え凌ぎ、最後はギャラリアで勝利を納めオープン・ザ・ドリームゲート王座を奪取。自身初のシングル王座を獲得した。

その後、横須賀、鷹木、望月の挑戦を退けるも2010年7月11日吉野正人に敗北

2011年1月28日、DGUSA・ニューヨークマンハッタン大会でB×Bハルクを破り、オープン・ザ・フリーダムゲート王者になる

タイトル歴

  • オープン・ザ・ドリームゲート王座 第11代
  • オープン・ザ・トライアングル・ゲート王座 第18代(パートナーは鷹木信悟、Gamma)、第20代(パートナーは神田裕之、Gamma)
  • オープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座 第5代(パートナーはサイバー・コング)、第8代(パートナーは鷹木信悟)

その他

  • アメリカ修行から帰国後、デビューまで着用していた『下克上』の文字が入った青のタイツから赤色のショートタイツに変更。日焼けしてビルドアップした肉体、あごひげを蓄える等、ワイルドなイメージになっている。
  • 鷹木信悟からは『YAMAMOTO』と呼ばれている。由来は山本五十六から。
  • ヒールターンするまではNEW HAZARDのメンバーの中でも一番存在感が薄く、地味な正統派のプロレスラーという感じだったが、CIMAへ喧嘩を売り出した頃から豹変が始まり、マッ スル・アウトローズ加入によって、その狂気染みた試合内容や行動によって、一部では「根っからヒールだったのではないか?」との声も上がっている。常に薄 笑いを浮かべ、危険な技を受けた後にすぐ立ち上がって指を「チッチッ」と振る、チョップの打ち合いになると「気持ちいい!」と叫んで挑発するなど、不気味 さが増している。時には観客にも襲い掛かる場合がある。ヒールとしてのキャラを確立したが一方ではツインゲート戴冠やCIMA、鷹木から勝ち星を上げる等 の実績も作り、現在のDRAGON GATEで最も勢いのある選手の一人といえる。また、REAL HAZARDのリーダーとなった後はこれらのギミックは封印しつつある。
  • DRAGON GATEでは珍しくシュートタイツを着用している。また、入場時には前垂れを着けているが試合中に外している。
  • ガンダム、AKB48が好きである。
  • 昔ファンだった選手が他団体の選手との頂上決戦に負けた時に、ショックのあまり裸足のまま夜の町に飛び出したことがある。
  • 実家はリズム食堂





トレバー・マードック/ジェスロ・ホリデー/トレバー・ローズ/トレバー・ローデス
Trevor Murdoch/Jethro Holliday/Trevor Rhodes/Trevor Rhodes
1980/9/10

ウィリアム・ミューラーWilliam Mueller)は、アメリカ合衆国の男性プロレスラーである。カンザス州コフィビル出身。

過去のリングネームの由来であるディック・マードック、ダスティ・ローデスのような肉付きのしっかりした体格に加え、試合技術も非常に古典的なレスリングスタイルである。ジ・アウトローThe Outlaw)の異名を持ち、同名のタッグチームも結成していた。

来歴

WLW・ノア

1999年に、ハーリー・レイスが設立したプロレス道場兼団体でもあるWLWでトレバー・ローズ(ノア参戦時の表記は「トレバー・ローデス」)のリングネームでデビュー。WLWでは3度のヘビー級王者になっている。2002年7月にはプロレスリング・ノアに留学生として初来日。寮に住み込みで、道場において所属選手とともに練習を行っていた。興行の際には、雑用・裏方業務やセコンドなどにも従事、選手会興行にも参加した。それ以後も数度来日して試合を行っている。

ノア参戦時は、入退場時に常にテンガロンハットを着用していたことが特徴であった。また、試合中に最低1度は行う、腰をゆっくりとくねらせながら「フォ〜ウ」と叫ぶパフォーマンス・挑発行為が定着していた。

WWE

WWEの下部組織OVWに入り、2005年にWWEとディベロップメント契約を結ぶ。 同年8月、その風貌が往年の名レスラーディック・マードックに似ていたことから、リングネームをトレバー・マードックに改め、OVWからタッグを組んでいたランス・ケイドと共にケイド&マードックを結成WWEデビューする。 デビューして二週間でPPV大会のアンフォーギヴェンにおいて世界タッグ王座を獲得。しかし翌月のPPV大会タブー・チューズデイにおいてすぐさまケイン・ビッグ・ショー組に同王座を奪われる。 その翌日のRAWにおいて復讐のために、ハードコア形式での世界タッグ王座戦にケイドと共にケイン・ビッグショー組に臨むも敗退。 その後はなぜか、共にデビューしたケイドとのタッグを解消、お互いシングルに専念する(デビューしてすぐに解散するタッグチームは少ないため、観客は違和感を覚えた)。

2006年頃よりシングルプレイヤーとして前座番組であるヒートなどに登場。勝利はしていたもののRAWへの出場は余り無かった。 その後転機によって再びケイドとケイド&マードックを結成。 ビンス・マクマホンに加担し、D-Xを追放するために協力する。

2007年には、ハーディーズとレベルの高いタッグ戦を繰り広げる。そして、同年5月には2度目の世界タッグ王座を獲得した。

2008年には、突如「歌うキャラ」となり、パートナーであったランス・ケイドと決別。6月に行われた追加ドラフトでSmackDown!への移籍が決定するも、7/3にWWEによって解雇された。これによりSmackDown!で試合をすることは結局一度も無かった。

その後は、IWAなどのインディー団体で活動。2008年9月のWLW・NOAH合同キャンプに指導員として参加していた。

TNA

インディー団体を渡り歩いた後、2009年5月より"ジ・アウトロー" ジェスロ・ホリデーのリングネームでTNAへ参戦したが11月に解雇された。

その後、アメリカだけでなくカナダ、メキシコ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、オーストリア、ポルトガル、アイルランド、ベルギー、南アフリカ、オーストラリア、韓国などの様々な団体に出場。

WLW・ノア 再参戦

自らの原点であるWLWにトレバー・マードックの名で再参戦し、再びWLW世界ヘビー級王者になる。

2011年3月より、トレバー・マードックの名で、かつて留学生として来日したノアに7年ぶりの参戦が決定。GHCヘビー級王座の挑戦・奪取を表明した。その後3月7日に、同月21日の福岡国際センターで行われる「GREAT VOYAGE 2011 in Fukuoka」にて同王者の杉浦貴へ挑戦が決定。選手権試合では、あと一歩まで追い込むも、結果は惜敗であった。

獲得タイトル

WWE
  • WWE・世界タッグチーム王座 - 3回
WLW
  • WLW世界ヘビー級王座 - 4回
  • WLW世界タッグ王座 - 3回

 
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マット・モーガン
Matt Morgan
1976/9/10

Matthew Thomas Morganマシュー・トーマス・モーガン)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。コネチカット州フェアフィールド出身。

来歴

WWEの新人発掘番組タフイナフの第2回大会に参加し優勝はならなかったものの、そのパワーを関係者に認められ契約。レスラーとしての活動を開始する。その後、暫くはWWEの傘下団体にあたるOVWでトレーニングし2003年の秋に晴れて1軍へ昇格。ブロック・レスナー率いるチーム・レスナーの一員としてサバイバー・シリーズにてデビューを果たした。

しかし、すぐさまOVWへ降格となる。

2005年にカリートの用心棒として再昇格。このときにはどもりというギミックも与えられていた。200kg以上あるビッグ・ショーをF5で投げるという見せ場を作ったが年内に解雇された。

WWE退団後は全日本プロレスを始め日本のマットにも積極的に上がっている。

2007年からはTNAに参戦している。 その将来性を買われ、ニックネームは「The Blue Print」(青写真の意)である。

獲得タイトル

  • OVWヘビー級王座:2回
  • FNWヘビー級王座:1回





ミルコ・クロコップ
Mirko Cro Cop
1974/9/10

クロアチア(当時ユーゴスラビア)出身の総合格闘家・キックボクサー。元クロアチア国会議員(2003年 - 2007年)。元警察官であり、リングネームのクロコップは、英語で「クロアチア人のコップ(警官)」の意。

総合格闘技の試合では立ち技主体で勝負するストライカーであり、左ハイキックを武器に多くのKO勝利を挙げた。

来歴

格闘技は15歳の頃よりテコンドーを始めたが一度はユーゴスラビア紛争の激化により断念した。その後17歳から空手、19歳でキックボクシングに転向している。

K-1

1996/3/10、「K-1 GRAND PRIX '96 開幕戦」でK-1初代王者であるブランコ・シカティックの一番弟子として、ミルコ・タイガーのリングネームで日本に登場し、前年GP準優勝者のジェロム・レ・バンナからダウンを奪い3-0の判定勝ちを収めた。5/6の「K-1 GRAND PRIX '96 決勝戦」では準々決勝でアーネスト・ホーストのテクニックとローキックに翻弄され、3RにTKO負けを喫した。この試合以降ミルコは師シカティックと決別し、3年間日本のリングから姿を消すこととなる。

1999/4/25、「K-1 REVENGE '99」に出場し、約3年ぶりのK-1復帰を果たした。ミルコ・"クロコップ"・フィリポビッチとリングネームも変え、ヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤに左ストレートで4RKO勝ちを収めた。6/20には「K-1 BRAVES '99」に出場し、準々決勝でリッキー・ニケルソンにK-1のリングでは初となる右ハイキックで1RKO勝ち。準決勝ではジャビット・バイラミに延長1R判定負けを喫し、GP開幕戦の出場権を逃したものの、怪我人の発生で推薦枠で10/3の「K-1 GRAND PRIX '99 開幕戦」に出場を果たした。マイク・ベルナルドをハイキックでいきなりダウンを奪うと、一気にラッシュを叩き込んで2つ目のダウンを奪って1RKO勝ちし、K-1四天王の1人を倒した。12/5の「K-1 GRAND PRIX '99 決勝戦」では、緒戦の準々決勝では武蔵に2RKO勝ち、準決勝でサム・グレコに2RKO勝ちして決勝まで駒を進めたが、武蔵戦ですでに肋骨を骨折していたこともあり、決勝ではアーネスト・ホーストにボディを徹底的に攻められ3RKO負けを喫し、グランプリ準優勝に終わった。その後リングネームを現在のミルコ・クロコップに変更している(ターミネーターの愛称もこの頃から付けられる)。この頃より次世代を担う選手として注目されるようになる。

2000/3/19、「K-1 BURNING 2000」で天田ヒロミと対戦。元暴走族と現役警察官の対決だったため、天田は暴走族を、ミルコは警官隊を引き連れて入場するというパフォーマンスを披露した。なお試合は4RでミルコのKO勝ちであった。6/3にはアンディ・フグのスイスでの引退試合の相手を務める。お互い決定打に欠けたが、手数で勝ったフグに判定負けとなった。10/9の「K-1 WORLD GP 2000 in FUKUOKA」では、準々決勝でグラウベ・フェイトーザに判定勝ち、準決勝で天田ヒロミに判定勝ちを収めた。このトーナメントのファイナリスト2人が12月の決勝戦へと出場できるため、すでに出場権を手に入れていたミルコは、準決勝で怪我をしたこともあり決勝では無理をせず1R終了後に自らタオル投入によるTKO負けを選択している。12月の「K-1 WORLD GP 2000 決勝戦」では準々決勝でアーネスト・ホースト相手に延長まで持ち込むものの、終始試合をリードされ0-3で判定負けに終わった。これ以降両者の対戦は実現せず、ミルコは1勝も挙げることはできなかった。

2001/1/30、「K-1 RISING 2001」で富平辰文に2RKO勝ち。3/17、「K-1 GLADIATORS 2001」のピーター・アーツ戦では、序盤にハイキックとパンチのラッシュでめ込むも、後半は膝蹴りを受けスタミナ切れを起こし失速。最後はクリンチ合戦となった末、ミルコが辛くも2-0で判定勝利を収めた。6/16、「K-1 WORLD GP in MELBOURNE」では緒戦でマイケル・マクドナルドと対戦。相手を格下と見て、試合中に腕を回すなどの挑発行為や余裕な態度をとったが、1RKO負けし、トーナメント敗退となった。

K-1・総合ルール両立時代

2001/8/19、「K-1 ANDY MEMORIAL 2001」にて、K-1と猪木軍との対抗戦に身を投じることとなり、3分5Rの総合格闘技 (MMA)ルールで猪木軍のエース藤田和之と対戦する。試合は下馬評を覆して、藤田のタックルをかわし3度目のタックルに膝蹴りを合わせ藤田の額を割り、ドクターストップによるTKO勝ちを収めた。ミルコはこの勝利が大きな転機となったとコメントしている。10月8日、「K-1 WORLD GP 2001 in FUKUOKA」の敗者復活トーナメントに出場予定だったが、9月11日のアメリカ同時多発テロ事件発生の影響で、当時警察官だったミルコは国内待機となり、GP出場は断念したものの、11/3、PRIDE.17でPRIDE初参戦を果たした。藤田戦と同じルールでの高田延彦との対戦は、高田が試合序盤で右足踵骨を骨折したためリングに腰を降ろしてグラウンドに誘う作戦に出たが、ミルコはこれを拒否し続け、猪木アリ状態のまま試合は終了しドローとなった。ミルコは試合後「高田はチキンだ」「藤田は本物のファイター、高田は偽者のファイター」と罵倒している。そして12/31、「INOKI BOM-BA-YE 2001」にてプロレスラー永田裕志と総合格闘技ルールで対戦し、試合開始から21秒後には左ハイキック一撃で永田をリングに沈め、『プロレスラーハンター』と呼ばれるようになった。

2002/1/27、「K-1 RISING 2002」に出場。K-1ルールで柳澤龍志に1RTKO勝ち。3月3日の「K-1 WORLD GP 2002 in NAGOYA」では前年GP王者マーク・ハントと対戦。序盤、ミルコは3Rには左ハイキックでダウンを奪う。ハントは後半は持ち味の体格を活かしたプレッシャーで逆襲に転じるが、その反撃をかわし切り判定で勝利した。この勝利を以って「K-1は制した」とミルコは語った。4/28のPRIDE.20ではMMA4戦目でPRIDEミドル級王者ヴァンダレイ・シウバと対戦した。ルールは3分5R判定なし、グラウンドでの膠着はブレイクの後スタンドからのリスタートという、MMA経験の浅いミルコに配慮した形となった。また両者の体重差に配慮して98kg契約だったが、計量時はミルコよりもシウバの方が体重を上回っていた。ミルコの左ミドルキックがシウバの脇腹を抉り、紫色に腫れ上がらせた一方、シウバもミルコから数度のテイクダウンを奪い、スタンドでも手数で上回っていた。試合は規定によりドローに終わる。再びK-1ルールに舞い戻った7/14の「K-1 WORLD GP 2002 in FUKUOKA」ではレミー・ボンヤスキーに2RTKO勝ちし、GP本戦の切符を手に入れた。8/28、「Dynamite!」で桜庭和志と対戦。ルールはミルコにとっては初めての5分3R制のPRIDE特別ルールとなったが、体重は20kg近くミルコが重かった。2Rには桜庭にテイクダウンを奪われたものの、脱出の際の顔面への蹴り上げで桜庭の右目が腫れ上がり、眼窩底骨折の疑いでドクターストップがかかりTKO勝利となった。その後椎間板ヘルニアを理由に「K-1 WORLD GP 2002」を欠場、長期休暇を取ったこの間に長年交際してきた女性と結婚している。大晦日には「INOKI BOM-BA-YE 2002」にて藤田和之とMMAルールで再戦し、危なげない試合運びで返り討ちを果たした。

2003/3/30の「K-1 WORLD GP 2003 in SAITAMA」で当時人気絶頂にあったボブ・サップと対戦し、左ストレート一発でミルコのKO勝利。勝利直後、ミルコにしては珍しくリングサイドに駆け上がり、雄たけびを上げた。この試合が、ミルコのK-1における最後のキャリアとなる。ミルコは試合前に風邪をこじらせ、高熱をおしての出場であったのに、試合は母国クロアチアの国営放送で生中継(視聴率は約50%であった)されており、プレッシャーを感じていたからだとコメントしている。

PRIDE

2003/6/8、PRIDE.26からPRIDEシリーズに本格参戦。当時のPRIDEヘビー級3強の1人と言われたヒース・ヒーリングと通常PRIDEルール(1R10分、2・3R各5分)で対戦する。母国クロアチアでも当日ディレイ放送され70%超の視聴率を叩き出したこの試合を左ミドルキックからのパウンドで制する。8/10、「PRIDE GRANDPRIX 2003 開幕戦」でイゴール・ボブチャンチンに左ハイキックで1R1分29秒KO勝利。ヘビー級タイトルマッチへの挑戦を決定的なものとした。10/5には「PRIDE武士道」に参戦。自らこの試合をタイトルマッチのためのクールダウンと称し、ドス・カラス・ジュニアに左ハイキックで1R46秒でKO勝利。11/9、「PRIDE GRANDPRIX 2003 決勝戦」ではアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラとの対戦を迎えた。本来ならこの大会でヒョードルとのタイトルマッチが行われるはずだったもののヒョードルの怪我により暫定王座決定戦となっていた。1Rはミルコが打撃で圧倒し、終了間際には左ハイキックがヒットする場面もあったが、2R開始直後、初めてテイクダウンを奪われると、パウンドを浴び腕ひしぎ十字固めでタップアウト負け。これにより総合格闘技での無敗記録がストップした。なお大晦日には「INOKI BOM-BA-YE 2003」に出場し高山善廣と対戦予定だったが、直前になって出場をキャンセルした。

2004/2/1、PRIDE.27でロン・ウォーターマンと対戦。序盤からいきなりテイクダウンを奪われるも、スタンドに復帰後すぐさま左ハイキックでダウンを奪い、サッカーボールキックを浴びせてKO勝利。2週間後、2/15の「PRIDE 武士道 -其の弐-」では山本宜久にKO勝利する。4/25、「PRIDE GRANDPRIX 2004 開幕戦」のPRIDEヘビー級GP1回戦でケビン・ランデルマンと対戦。1R1分57秒、左フックからのパウンドでまさかの失神KO負けを喫した。トーナメントから早々に脱落したミルコはワンマッチでの出場を続け、5/23の「PRIDE 武士道 -其の参-」では金原弘光に粘られて判定に持ち込まれるが7/19の「PRIDE 武士道 -其の四-」では大山峻護と対戦し1分で試合を終わらせた。8/15の「PRIDE GRANDPRIX 2004 決勝戦」ではエメリヤーエンコ・アレキサンダー相手に左ハイキックで試合を決めている。10/31、PRIDE.28での第10代パンクラス無差別級王者・元UFCヘビー級王者ジョシュ・バーネットとの対決は、1R46秒、バーネットの左肩の脱臼によるタップアウトにより、消化不良のまま終わった。12/31の「PRIDE 男祭り 2004」ではケビン・ランデルマンと再戦、フロントチョークで一本勝ちを収めた。

2005年2月20日、PRIDE.29でマーク・コールマンと対戦。コールマンのタックルを封じ、1R3分42秒右アッパーでKO勝ちし、PRIDEヘビー級王座への挑戦権を獲得。6月26日には「PRIDE GRANDPRIX 2005 2nd ROUND」でヒョードルと同門のイブラヒム・マゴメドフと対戦し、前哨戦を制した。8月28日、「PRIDE GRANDPRIX 2005 決勝戦」でついにエメリヤーエンコ・ヒョードルの持つヘビー級王座に挑戦。ヒョードルはオランダのルシアン・カルビンの元で特訓した打撃で攻め込み、ミルコはバックステップで下がりながらも打撃をヒットさせるが、1R中盤にテイクダウンを奪われるとそこから一気にヒョードルペースとなる。2、3Rはスタンドでもヒョードルにリードされた。ミルコはヒョードルの攻撃にガードポジションで耐えたものの、ヒョードルの優位は動かず判定0-3で敗れ、王座挑戦に失敗。10月23日、PRIDE.30でジョシュ・バーネットと再戦。「ミルコには間合いを空けずプレッシャーをかけ続ければ良い」という持論をバーネットが実践、打撃が思うように出せず劣勢に立たされる。終盤にスタンドでパンチを集めることに成功し、3-0で判定勝利を収めた。大晦日は「PRIDE 男祭り 2005」でマーク・ハントと対戦するも序盤から調子が上がらず、ハントに主導権を握られる。左ハイキックがヒットする場面もあったが、ハントはものともせず常にプレッシャーを掛け続けた。結局1-2で判定負けを喫し、K-1時代のリベンジを許してしまった。判定ではジャッジの1人がミルコに票を入れるが、会場からはブーイングが沸き起こった。後に足首を負傷していたことを告白。怪我のせいか、ミルコにしては珍しくレスリングシューズを履いて試合を行った(PRIDEルールでは自由選択)。

2006年5月5日、「PRIDE 無差別級グランプリ 2006 開幕戦」に出場し、1回戦で美濃輪育久に1R1分10秒でKO勝利。2回戦となる7月1日の「PRIDE 無差別級グランプリ 2006 2nd ROUND」では、日本重量級のエース吉田秀彦と対戦し、ローキックによるTKO勝利。9月10日の準決勝でヴァンダレイ・シウバと再戦。序盤にシウバの右目にストレートをヒットさせ、右目を腫らして視界を失ったシウバに左ハイキックでKO勝利。続く決勝ではアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラを準決勝で破ったジョシュ・バーネットと3度目の対戦。序盤から攻め立てダウンを奪うとインサイドガードから鉄槌・パウンドを連打。この時の攻防でミルコの手がバーネットの眼に当たり、一時的に視力を失ったバーネットがタップアウト。アクシデントも手伝ったが、内容は一方的なものであり、バーネットは「今日はミルコのための夜だった」と讃えた。32歳の誕生日に初めてのメジャータイトルを戴冠した。

UFC・DREAM

2006年12月30日、米国の総合格闘技団体UFCへの参戦を表明し、5年間出場し続けたPRIDEから離脱した。2007/2/3、UFC 67でエディ・サンチェスと対戦。ミルコの打撃を警戒するサンチェスを追い込み、1RマウントパンチによるTKOで勝利し、アメリカ進出は白星デビューとなった。しかし4/21、勝てばタイトルマッチといわれたUFC 70のガブリエル・ゴンザーガとの対戦ではテイクダウンを許した後グラウンドで頭部へ何度も肘打ちを受け続け、最後は右ハイキックを被弾し失神KO負けを喫した。さらに9/8のUFC 75でシーク・コンゴ戦では終始コンゴの打撃を受け続け、0-3の判定負けを喫した。

2008年は一端UFCを離れ、日本の新団体DREAMに参戦した。3月15日の旗揚げ戦DREAM.1で水野竜也と対戦し、開始55秒KO勝ち。次いで6月15日、DREAM.4でハレック・グレイシーと「グラップリング・チャレンジマッチ」で対戦予定であったが、右肘靱帯亜脱臼のドクターストップにより、急遽欠場となる。DREAM.5にも怪我の回復が間に合わず欠場となった。9月23日、DREAM.6でアリスター・オーフレイムと対戦するが1R6分9秒、アリスターの膝蹴りが下腹部に入り、試合続行不可能となりドクターストップ。故意ではなかったとしてノーコンテストとなった。

2008年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2008〜でチェ・ホンマンとDREAMルールで対戦。両者にイエローカードが提示されるほど両者とも手が出ない試合となったが、左ローキックでKO勝ちを収めた。この試合の序盤にミルコは左ハイキックを挨拶代わりに繰り出した。ガードはされたが、ミルコの左ハイはホンマンの顔面にも届くことを見せ付けた。

2009/6/13、ドイツのケルンで開催されたUFC 99でムスタファ・アルタークと1年9か月ぶりのUFC復帰戦を行い、スタンドパンチでTKO勝ち。アルタークの対戦相手は当初トッド・ダフィーであったが、ヨーロッパで人気が高いミルコに急遽差し替えられた。

2009/9/19、UFC 103でジュニオール・ドス・サントスと対戦するも終始打撃で圧倒され続け、3Rに膝蹴りと目へのアッパーで一時的に失明状態に陥り、戦意を喪失しTKO負け。試合後、引退を示唆する発言をした。

2010/2/20、オーストラリア・シドニーで開催されたUFC 110でアンソニー・ペロシュと対戦。2Rにグラウンドでの肘打ちでペロシュの額をカットさせ、2R終了時にドクターストップによるTKO勝ちとなった。

2010/6/12、UFC 115でパトリック・バリーと対戦。1Rにバリーのパンチで2度ダウンを奪われるも3Rにチョークスリーパーで一本勝ち。サブミッション・オブ・ザ・ナイトを獲得した。

2010/9/25、UFC 119でフランク・ミアと対戦し、3Rに右膝蹴りでTKO負け。同大会でKO決着はこの試合だけだったがノックアウト・オブ・ザ・ナイトには選ばれなかった。

2011/3/19、UFC 128でブレンダン・シャウブと対戦し、3RTKO負けを喫した。

人物
  • 警察官時代はテロ対策特殊部隊に所属していてその傍らアマチュアボクシングで活躍していた(クロアチア警察の格闘技教官も担当)。
  • クロアチアでは国民的な人気があり、テレビゲームや映画の主役になっている。
  • 愛国者としても知られ、2003年11月23日に投開票されたクロアチアの総選挙にクロアチア社会民主党から出馬し初当選。国会議員として4年間活動した。また、2004年2月13日に、当時の日本の内閣総理大臣小泉純一郎と面会している。
  • 2004年、クロアチアのサッカークラブ「チバリア・ヴィンコヴツィ」へ入団。FWとして公式デビューしている。チバリア・ヴィンコヴツィはミルコの好きなチームであり、「このチームでプレーできて嬉しい。」と語っている。
  • 夫人は、サッカーのFIFAワールドカップフランス大会で得点王となったクロアチア代表ダヴォール・シューケルの妹である。
  • 食事に関しては独特の哲学を持っており、生野菜は食べない。これをテレビ番組(生放送)で発言したところ、国会議員という立場からか、猛抗議を受けた。野菜スープを食べている姿がDVDに収録されており、野菜嫌いという訳ではない。また、ステーキは脂身を全て落としたエクストラウェルダン、スパゲティはミートソースでなければ食べないというこだわりぶりである。
  • トランプが好き。PRIDE時代は「ベラ」というクロアチアのゲームへ試合前に興じるのが慣例となっていたと、代理人である今井賢一が紙のプロレスのインタビューで明かしている。
  • 少年期に民族紛争を体験し、友人たちを亡くしている経験を持つ。ボブ・サップ戦の前日記者会見で当時開戦したばかりのイラク戦争に言及が及ぶと、涙ながらに反対を表明している。
  • アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラに敗戦した直後、クロアチアのテレビ番組に出演した際、ノゲイラを侮辱的に扱うジャーナリストを厳しく批判した。

獲得タイトル

  • IKBF 世界ヘビー級フルコンタクト王座
  • PRIDE 無差別級グランプリ 2006 優勝





菊田早苗
1971/9/10

日本の総合格闘家。東京都練馬区出身。GRABAKA主宰。

父親は、死刑廃止論者で明治大学名誉教授・弁護士の菊田幸一。

菊田の寝技は「キク術」とも呼ばれている。

来歴

小学校6年の時に佐山聡のスーパータイガージムに入門。

学生時代には柔道を経験。練馬区立練馬東中学校では中学柔道関東大会で、明大中野高校では高校柔道総体86kg級で優勝を果たした。

日本体育大学柔道部では古賀稔彦の指導を受けるが、体育教師(スクールカラーが体育教員養成系)志望でなかったため中退。その後UWFインターナショナルに入門するも1週間も経たずに退団し渡豪。スタン・ザ・マンも通っていたジムでキックボクシングを習う。

帰国後にアマチュアシュートボクシング全国大会重量級を制し、総合格闘技大会トーナメント・オブ・Jも連覇。

修斗→リングス→PRIDE参戦を経て1999年6月、パンクラスに参戦。2000年にはパンクラスの中で外部勢力を集めた新勢力「GRABAKA(グラバカ)」を立ち上げた。

2001年

4月にアブダビコンバット88kg未満級に出場し、日本人初の優勝を果たした。

8/18、DEEP2001 in YOKOHAMAでシェマック・ウォレスと対戦し、マウントパンチによるTKO勝ちを収めた。試合後のリング上で9月30日のパンクラス興行での美濃輪育久とのライトヘビー級タイトルマッチをアピールした。試合はドクターストップによるTKO勝ちを収めた。

2002年

8/8、UFO LEGENDでアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラと対戦し、右ストレートでKO負け。

12月、GRABAKAジムを東京都中野区にオープン。

2003年

11月30日、タイトルマッチで近藤有己と対戦し、ブルート(左フック)によるKO負けで王座から。

2005年

8月、練習中に右足内腿靭帯を部分断裂。10/2に予定されていた近藤との3度目のタイトルマッチは中止となった。

12/31のPRIDE 男祭り 2005で瀧本誠と対戦。判定勝利を収めるものの試合後にDSEの榊原社長から試合内容について苦言を呈された。

2007年

12/31のやれんのか! 大晦日! 2007で同じGRABAKAに所属する三崎vs秋山戦にセコンドとして付き、その後の再戦騒動に巻き込まれた。

2008年

3/5の『戦極』旗揚げ戦戦極 〜第一陣〜でフィル・バローニと対戦予定であったが、バローニが右肩負傷で欠場となり菊田も欠場となった。

6/8の戦極 〜第三陣〜で約1年半振りに試合を行いクリス・ライスと対戦。腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。

2009年

1月4日戦極の乱2009で吉田秀彦と対戦し2-1の判定勝ち。

2010年

6/20のSRC13でYasubei榎本と対戦。右アッパーでダウンしたところにパウンドで追撃されTKO負け。

10月24日には9年2か月ぶりのDEEP参戦となったDEEP 50 IMPACTでキム・イサクと対戦。タオル投入によるTKO勝ち。

人物

  • 特技はピアノ演奏。
  • 一時期、雑誌「紙のプロレス」インタビューで、「天山広吉・小島聡はロクな死に方をしない、人間的にバカにした商売、騙して連れてきて金を取る」などプロレスラーやプロレスを貶める発言を繰り返し、高田道場やプロレスファンの怒りを買った。これには短期間だが、UWFインターナショナルや新日本プロレスに入門(一部関係者のコメントでは「体験入門程度のもの」)した際、人間関係で何かしらのトラブルが背景にあったということが定説となっている。後に、PRIDE.20で前述の経緯などから菊田に嫌悪感を持つアレクサンダー大塚との試合に勝利した後のリング上で「かつて批判したことはあるが、プロレスも格闘技も素晴らしいものだと思っている」と観客に訴えた。これは後に天山・小島を指したものではなく、プロレスラー全員を指して「ロクな死に方をしない」と言ったことが判明。あまりの問題発言に編集部で作為したのだと後のkamiproに真相が掲載された。

獲得タイトル

  • トーナメント・オブ・J '96 優勝
  • トーナメント・オブ・J '97 ヘビー級 優勝
  • 第4回 アブダビコンバット 88kg未満級 優勝(2001年)
  • 第2代ライトヘビー級キング・オブ・パンクラシスト

  



スティーブ・カーン
Steve Keirn
1951/9/10

ステファン・ポール・カーンStephen Paul Keirn)は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。フロリダ州タンパ出身。

1980年代のスタン・レーンとのタッグチーム「ファビュラス・ワンズ」、1990年代のWWFでの「スキナー」などの活動で知られる。近年はWWEのファーム団体FCWのディレクターを務めている。

来歴

エディ・グラハムが主宰する地元フロリダのCWF(Championship Wrestling from Florida)にて1972年にデビュー。1975年4月には全日本プロレスに初来日している。以降もCWFを主戦場に、正統派レスリングを身上とするベビーフェイスとして活動、1976年にはボブ・バックランドと組んでボブ・ループ&ボブ・オートン・ジュニアからNWAフロリダ・タッグ王座を奪取した。

1979/12/10、前王者ネルソン・ロイヤルの引退で空位となっていたNWA世界ジュニアヘビー級王座決定トーナメントにて、決勝でチャボ・ゲレロを破り新王者となる。翌1980年1月、新日本プロレスに来日。札幌でWWFジュニアヘビー級王者の藤波辰巳とダブル・タイトルマッチを行うが敗退、王座から陥落した(以後、同王座は「NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座」として日本に定着)。

その後はジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングに参戦し、バロン・フォン・ラシクからNWAジョージア・ヘビー級王座を、テリー・ファンクとケビン・サリバンからNWAナショナルTV王座をそれぞれ奪取。1981年からはテネシー州メンフィスのCWAに進出、ロン・バスやバグジー・マグローら巨漢ヒールを破りミッドアメリカ・ヘビー級王座を獲得した。

1982年、フロリダでのライバルでもあったスタン・レーンを相棒に、ファビュラス・ワンズThe Fabulous Ones)をCWAにて結成する。それまでの地味なイメージを払拭し、コスチュームも派手なものに一新。1980年代のアイドル系タッグチームの先駆的存在となり、後のロックンロール・エクスプレスやファンタスティックスなどにも影響を与えた。CWAでは1982年から1985年にかけてAWA南部タッグ王座を通算14回獲得、1984年にはバーン・ガニアが牛耳るAWA本隊にも出場し、ロード・ウォリアーズとも抗争を展開している。

1987年のファビュラス・ワンズ解散後はフロリダ地区に戻り、CWFの後継団体FCW(Florida Championship Wrestling)にて1989年頃まで活動。1990年にはCWAの後継団体であるテネシーのUSWAでファビュラス・ワンズを一時的に再結成した。また、この時期よりプロレスリング・トレーナーとしての活動も開始しており、デニス・ナイト、マイク・オーサム、ジム・スティール、ジェフ・ファーマーなどがカーンの指導のもとデビューしている。

1991年夏、エバーグレーズのワニ密猟者をイメージしたヒール、スキナーSkinner)に変身してWWFに登場。ボロボロのネルシャツをリング・コスチュームに、噛みタバコで口中を真っ黒に染め、狩猟ナイフやワニの爪を凶器に用いるなど、大胆なキャラクターチェンジを図った。ジョバーのポジションながら、ベテランの中堅ヒールとしてWWFには1993年下期まで在籍し、1991/12/3にはPPV "This Tuesday in Texas" にてブレット・ハートのインターコンチネンタル王座にも挑戦。1993年4月4日のレッスルマニアIXでは2人目のドインク・ザ・クラウンDoink the Clown)に扮した。

1994年からはWCWに参戦。盟友スタン・レーンのパートナーでもあった元ミッドナイト・エクスプレスのボビー・イートンと組み、新チームのバッド・アティテュードBad Attitude)を結成するも活躍の機会には恵まれず、PPVのダーク・マッチなどに出場していた。WCW解雇後はセミリタイアし、タンパ周辺のインディー団体に単発的に出場。2001年10月には久々に新日本プロレスに来日し、かつてのライバル藤波とのタッグも実現させた。

2004年よりスマックダウンのロード・エージェントとしてWWEと契約し、翌2005年5月にフロリダ州デイトナビーチにプロレスラー養成所 "School of Hard Knocks" を開校(後にフロリダ州ブランドンに移転)。2007年には、かつて主戦場としていたフロリダ地区の団体と同じ名称の新団体 "FCW" をWWEのファーム組織として旗揚げし、以降は団体運営と後進の指導・育成に携わっている。

獲得タイトル

CWF
  • NWAフロリダ・ヘビー級王座:5回
  • NWAフロリダ・タッグ王座:12回(w / マイク・グラハム×9、ジム・ガービン、ボブ・バックランド、ブライアン・ブレアー)
  • NWAフロリダTV王座:1回
  • NWAブラスナックル王座(フロリダ版):1回
  • NWA南部ヘビー級王座(フロリダ版):2回
  • NWA北米タッグ王座(フロリダ版):1回(w / マイク・グラハム)
  • NWA USタッグ王座(フロリダ版):5回(w / マイク・グラハム×3、スタン・レーン×2)
GCW
  • NWAジョージア・ヘビー級王座:1回
  • NWAジョージア・タッグ王座:1回(w / ミスター・レスリング)
  • NWAナショナルTV王座:2回
CWA / USWA
  • NWAミッドアメリカ・ヘビー級王座:2回
  • AWA南部ヘビー級王座:1回
  • AWA南部タッグ王座:17回(w / スタン・レーン×14、ビル・ダンディー×2、テリー・テイラー)
  • CWAインターナショナル・タッグ王座:1回(w / マーク・スター)
  • CWA世界タッグ王座:2回(w / スタン・レーン)
  • USWA世界タッグ王座:1回(w / スタン・レーン)
その他
  • NWA世界ジュニアヘビー級王座(NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座):1回
  • NWA USタッグ王座(ガルフ・コースト版):1回(w / リッキー・ギブソン)
  • SCW世界タッグ王座:1回(w / スタン・レーン)





グレッグ・バレンタイン
Greg Valentine
1950/9/10

ジョン・ウィスニスキ・ジュニアJohn Anthony Wisniski Jr.)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ワシントン州シアトル出身。ニックネームはザ・ハンマーThe Hammer)。父親は妖鬼の異名を持つジョニー・バレンタイン。

来歴

学生時代にアルバイトとしてリングに上がった経験を持つ。1970年にカルガリーでスチュ・ハートの門下生となり本格的にプロレスを学び、同年7月にアンジェロ・モスカを相手にデビュー(5分ほどで敗退)。その後ザ・シークの元でもトレーニングを受けている。

若手時代はベビーフェイス・ネルソンジョニー・ファーゴのリングネームを名乗り、AWA傘下のローカル・エリアやNWF、テキサスのアマリロ地区などで試合をしていた。

1974年からエディ・グラハムの主宰するNWAフロリダ地区に移り、当初はジョニー・バレンタイン・ジュニア、後にグレッグ・バレンタインの名前で活動する。当時、父親のジョニー・バレンタインはまだ現役選手として第一線で活躍しており、父の意向から息子ではなく「弟」と称していた(息子がデビューするほどの年齢であることが公になると、自分の商品価値が下がってしまうとジョニーが懸念したため)。

1975年2月にロサンゼルスでエドワード・カーペンティアを破りアメリカス・ヘビー級王座を獲得して注目を浴び、4月には当時ジャック・ブリスコの保持していたNWA世界ヘビー級王座に初挑戦した。

同年10月、父ジョニーやリック・フレアーが乗ったセスナ機が墜落するという事故が起きる。この時の怪我で父は引退。グレッグはこの事件後に、ジョニー・バレンタインの息子であるということを公表し、1976年よりジム・クロケット・ジュニア主宰のNWAミッドアトランティック地区を主戦場とする。リック・フレアーとの金髪コンビで同地区認定のタッグ王座を何度となく獲得し、次代を担うヒールとして期待された。

1978年、ニューヨークのWWF(現・WWE)に登場。当時のWWFヘビー級王者ボブ・バックランドと抗争し、メインイベンターの地位を確立した。1983年まではWWFとNWAを行き来しながら試合をしており、NWAではフレアーやロディ・パイパー、ワフー・マクダニエルらと抗争し、USヘビー級王座(後のWCW・US王座、現在のWWE・US王座)を2回に渡って獲得するなどトップ戦線で活躍した。

1984年からはWWFに主戦場を絞り、ティト・サンタナとインターコンチネンタル王座を巡り名勝負を繰り広げる。翌年にはブルータス・ビーフケーキとのタッグ「ドリーム・チーム」でWWF世界タッグ王座を獲得し、ブリティッシュ・ブルドッグスらと抗争。1989年にはホンキー・トンク・マンとリズム&ブルースを結成した。1991年に一時WWFを離脱しWCWに参戦するが、1993年に再びWWFに戻る。

その後インディー団体を転戦し、2004年にWWE殿堂入りを果たした(プレゼンターはWWF時代にマネージャーを務めたジミー・ハート)。現在も現役で試合を続けている。2008/3/31には、WWE・RAWにて行われたリック・フレアーの引退セレモニーに出席した。

日本での活動

日本には、1970年代半ばから新日本プロレスに参戦し、常連外国人の一人であった。1975年にはイワン・コロフとのコンビでアントニオ猪木&坂口征二の北米タッグ王座に挑戦、1979年にもマサ斎藤とのコンビで坂口&長州力に挑戦している。1979年には藤波辰巳の持つWWFジュニアヘビー級王座に体重を減らして挑戦し、好勝負を展開した。1990年代は日米レスリングサミットやSWS、バトラーツなどにも来日している。日米レスリングサミットではザ・グレート・カブキとの対戦が実現した。

獲得タイトル

  • AWAミッドウエスト・タッグ王座:1回(w / ジェリー・ミラー)
  • NWF世界タッグ王座:2回(w / ドン・ファーゴ)
  • NWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座:1回(w / ドン・ファーゴ)
  • NWAアメリカス・ヘビー級王座:2回
  • NWAビート・ザ・チャンプTV王座:2回
  • NWA USタッグ王座(トライステート版):2回(w / ビル・ワット、ゴージャス・ジョージ・ジュニア)
  • NWA USヘビー級王座(ミッドアトランティック版):2回
  • NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版):4回(w / バロン・フォン・ラシク、レイ・スティーブンス、リック・フレアー×2)
  • NWAミッドアトランティック・ヘビー級王座:2回
  • NWAミッドアトランティック・タッグ王座:1回(w / リック・フレアー)
  • NWAミッドアトランティックTV王座:2回
  • NWAカナディアン・ヘビー級王座(トロント版):1回
  • WWFインターコンチネンタル王座:1回
  • WWE世界タッグ王座:1回(w / ブルータス・ビーフケーキ)
  • WCW USタッグ王座:1回(w / テリー・テイラー)
  • WWCカリビアン・ヘビー級王座:1回
  • WWCユニバーサル・ヘビー級王座:1回
  • NWA北米ヘビー級王座:1回(1994年にダラスで新設されたインディー団体のタイトル)
  • IWCCWヘビー級王座:1回
  • AWFタッグ王座:1回(w / トミー・リッチ)

etc.





ジェリー・モロー
"Champagne" Gerry Morrow
1949/9/10

フランス領マルティニーク出身、アフリカ系フランス人のプロレスラー。本名はジェラール・エティフィアGerard Etifier)。日本の国際プロレスでは、稲妻二郎(いなずま じろう)のリングネームで日本人陣営の一員となって活躍した。

来歴

ジャック・クレイボーンことエディ・モローの実弟。パリのレスリング・スクールを経て、1971年に兄エディが日本での主戦場としていた国際プロレスに留学入門し、同年7/6にデビュー。トリニダード・トバゴ出身の黒潮太郎(テディ・ハーバード)に次ぐ留学生第2号であることから、稲妻二郎のリングネームが与えられた。以降は日本人陣営の一員として活動したが、「正体不明の黒人覆面レスラー」という触れ込みのもと、ザ・ワイルド・ヌウなどのマスクマンに変身し、外国人陣営としてシリーズに参戦したこともある。

1975年よりジェリー・モローのリングネームでカナダに遠征し、兄のエディ・モローとのタッグチームで活動。モントリオールのグランプリ・レスリング(マッドドッグ・バション主宰)、カルガリーのスタンピード・レスリング(スチュ・ハート主宰)、バンクーバーのNWAオールスター・レスリング(ジン・キニスキー主宰)など、カナダの主要テリトリーを転戦した。、ポジションは日本同様にベビーフェイスで、カルガリーでは1976年にミスター・ヒト&ヒゴ・ハマグチの悪党日本人コンビやラリー・シャープ&リッパー・コリンズのボーディシャス・ブロンズとインターナショナル・タッグ王座を争っている。

1978年4月に日本に凱旋し、同年7月には国際プロレスの韓国遠征に参加。最終戦の7/28、ソウルにて当時大木金太郎が保持していたインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦した。その後も中堅選手として国際プロレスのミッドカード戦線で活躍し、1979年末から1980年にかけては鶴見五郎&大位山勝三の独立愚連隊と抗争。弘前では鶴見との髪切りマッチに勝利し、鶴見を坊主頭にした。

1981年8月の国際プロレス崩壊後は古巣のカルガリーを主戦場に活動し、デビッド・シュルツやバッドニュース・アレンなどのヒール勢と対戦。1983年7月にはジェリー・モロー名義で全日本プロレスに初登場。1984年8月からは新日本プロレスに参戦し、同年11月の第5回MSGタッグ・リーグ戦では、同じくフランス語を母国語とするアンドレ・ザ・ジャイアントのパートナーに起用された。1987年1月の来日ではレフェリーも務めている。

その間、主戦場のカルガリーではクリス・ベノワ、オーエン・ハート、ジョニー・スミス、ブライアン・ピルマン、日本から海外武者修行に来ていた馳浩や山田恵一などの若手選手の育成にも助力。1980年代末からはキューバン・アサシンを相棒に傭兵ギミックのヒールに転向し、キューバン・コマンドスCuban Commandos)なるフレンチ&スパニッシュのタッグチームを結成。WWFを離脱したダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミスのブリティッシュ・ブルドッグスとも対戦している。1989年にはザ・マーセナリーズThe Mercenaries)のチーム名でプエルトリコのWWCにも遠征し、カリビアン・タッグ王座を獲得した。

キャリア晩年の1990年代は、SWS、PWC、IWA格闘志塾などに来日。PWCでは当初、ジェリー・モローのリングネームで参戦予定であったが、本人の希望で「稲妻ジロー」として出場。鶴見五郎の主宰するIWA格闘志塾には、国際プロレス時代と同様に「稲妻二郎」の名義で参戦した。

1983年にカナダ国籍を取得し、引退後はカルガリーに居住している。

獲得タイトル

  • スタンピード・インターナショナル・タッグ王座:7回(w / エディ・モロー×3、ジョージ・ウェルズ、マッカン・シン、キューバン・アサシン×2)
  • NWAカナディアン・タッグ王座(バンクーバー版):1回(w / エディ・モロー)
  • AGPWノースアメリカン・タッグ王座:1回(w / キューバン・アサシン)
  • WWCカリビアン・タッグ王座:1回(w / キューバン・アサシン)
  • WFWAカナディアン・ヘビー級王座:1回
  • CNWAヘビー級王座:1回





ドン・ムラコ
Don Muraco
1949/9/10

アメリカ合衆国の元プロレスラー。ハワイ州サンセットビーチ出身。本名はドナルド・ムラコDonald Muraco)。元WWFインターコンチネンタル王者、ECW世界ヘビー級王者。

来歴

ハワイでは学生時代にレスリングやアメリカンフットボールで実績を築く一方、サーフィンの名手としても知られたという。1970年、太平洋岸北西部を牛耳るドン・オーエンのPNW(Pacific Northwest Wrestling)にてドン・モローDon Morrow)の名でデビュー。オレゴン州、ワシントン州およびカナダのバンクーバー地区では、後に再三に渡って名勝負を繰り広げるジミー・スヌーカともタッグを組んでいた。

その後、ドン・ムラコのリングネームでバーン・ガニアのAWAにてキャリアを積み、1971年11月には国際プロレスに初来日している(来日時の表記はドン・モロッコ)。AWAでは若手のベビーフェイスとして、ビル・ロビンソンのパートナーにも起用された。1974年よりアメリカ西海岸のカリフォルニア地区を転戦。ロサンゼルスでは空位となっていたアメリカス・ヘビー級王座を1975/5/2に獲得し、サンフランシスコでは1976/3/24、同地区認定のNWA世界タッグ王座をペドロ・モラレス&パット・パターソンから奪取した。

1977年よりNWAのフロリダ地区を主戦場とし、同年7月と1979年10月にはNWAの提携ルートで全日本プロレスに来日している(この間、1978年には地元のハワイで活動、バディ・ローズやトーア・カマタらを破り、NWAハワイ・ヘビー級王座を通算3回獲得した)。フロリダでは当初ベビーフェイスだったが、1980年、ハワイのビーチにたむろするゴロツキをイメージしたヒールに転向し、ダスティ・ローデスやジャック・ブリスコと抗争する。1981年3月には、新日本プロレスに初参戦。タイガー・ジェット・シンのパートナーとなって坂口征二&長州力の北米タッグ王座に挑戦し、シングルでも坂口の持つ北米ヘビー級王座にチャレンジした。

1981年、WWF(現・WWE)に登場。キャプテン・ルー・アルバーノをマネージャーにマグニフィセント・ムラコThe Magnificent Muraco)を名乗り、6/20にフィラデルフィアでペドロ・モラレスからWWFインターコンチネンタル王座(IC王座)を奪取、第4代王者となった。同年8/24には2冠王を目指し、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデン(MSG)でボブ・バックランドのWWFヘビー級王座にも挑戦、60分時間切れ引き分けの死闘を演じている。1982年は新日本プロレスの第5回MSGシリーズにも参加した。

IC王座は1981/11/23にモラレスに奪還されていたが、1983/1/22にMSGで再びモラレスを破り王座奪回に成功。以降、1984/2/11にティト・サンタナに敗れるまで、1年近くに渡って同王座を保持した。この間、1983/10/17にMSGで "スーパーフライ" ジミー・スヌーカを相手にスチール・ケージ・マッチによる防衛戦を行う。ケージ最上段からのスヌーカのスーパーフライ・スプラッシュを真っ向から受け止めたこの試合は、会場で観戦していたミック・フォーリーに大きな衝撃を与え、彼がプロレスラーを目指すきっかけとなった(後の2004年、ムラコがWWE Hall of Fameを受賞した際のプレゼンターはフォーリーが務めた)。

以降もWWFに定着し、1984年にビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下でスタートした全米侵攻にもヒールの重要な戦力として参加。同じハワイ出身のミスター・フジを新しいマネージャーに迎え、新WWF世界王者ハルク・ホーガンに挑戦する一方、1985年からはリッキー "ザ・ドラゴン" スティムボートと抗争。1986年にはカウボーイ・ボブ・オートンとのコンビでタッグ戦線にも進出した。1987年よりスーパースター・ビリー・グラハムをマネージャーにベビーフェイスに転向。その岩石のような肉体からザ・ロックThe Rock)をニックネームに再起を図る。同年11月26日のサバイバー・シリーズ(第1回大会)ではポール・オーンドーフ、ケン・パテラ、バンバン・ビガロと共に、旧敵ハルク・ホーガンとチームを結成した。

しかし1988年、WWFを解雇される(欧州遠征中、ロード・エージェントのニック・ボックウィンクルとトラブルを起こしたことが原因とされる)。その後はカルガリー地区や末期AWAをはじめ各地のインディー団体を転戦(1989年1月には全日本プロレスにも久々に来日)し、1992年より旗揚げ間もないECWに参戦。10/24、因縁のジミー・スヌーカからECW世界ヘビー級王座を奪取し、以降もサンドマンらと同王座を巡って抗争を展開した。1990年代には赤鬼なる覆面レスラーとしてWARにも来日している(パートナーの「青鬼」はタイガー戸口)。

2003年に引退し、地元のハワイで新団体HCW(Hawai'i Championship Wrestling)の設立に参画。2006年まで同団体の運営部長とコミッショナーを務めた。

エピソード

  • 巧みなマイクパフォーマンスのスキルの持ち主であり、ザ・ロックは影響を受けたヒールとして、ロディ・パイパーらと共にムラコの名前を挙げていた。なお、ムラコがWWFで名乗っていたニックネームのひとつが "ザ・ロック" である。
  • 観客の心理操作を通して試合を盛り上げていく選手だったため、言葉の通じない日本マットでは真価を発揮することができなかった。WWFを共にサーキットしたキラー・カーンは「アメリカでの彼はこんなもんじゃない」などとムラコの日本での過小評価ぶりに異を唱えていた。
  • 1987年にWWFでベビーフェイスに転向した際、ショートタイツの色を黒から青に一新させたため、レスラー仲間からは「ビッグ・ブルー」と呼ばれていた。

獲得タイトル

  • NWAメイコン・タッグ王座:1回(w / ロバート・フラー)
  • NWAアメリカス・ヘビー級王座:1回
  • NWA世界タッグ王座(サンフランシスコ版):1回(w / インベーダー1号)
  • NWA USヘビー級王座(サンフランシスコ版):1回
  • NWA英連邦ヘビー級王座(ニュージーランド版):1回
  • NWAパシフィック・インターナショナル王座:1回
  • NWAハワイ・ヘビー級王座:3回
  • NWAハワイ・タッグ王座:1回(w / リック・マーテル)
  • NWAフロリダ・ヘビー級王座:1回
  • NWAフロリダTV王座:1回
  • NWA USタッグ王座(フロリダ版):1回(w / ジョー・ルダック)
  • WWFインターコンチネンタル王座:2回
  • スタンピード北米ヘビー級王座:1回
  • ECW世界ヘビー級王座:2回
  • WWE Hall of Fame:2004年度





スーパースター・ビリー・グラハム
"Superstar" Billy Graham
1943/9/10

アメリカ合衆国の元プロレスラー。アリゾナ州パラダイスバレー出身。本名はエルドリッジ・ウェイン・コールマンEldridge Wayne Coleman)。本名で呼ぶ場合は通常ウェイン・コールマン。

1970年代を代表する文字通りのスーパースター。1980年代以降続々と登場するハルク・ホーガン、ジェシー・ベンチュラ、ランディ・サベージなどのボディビルダー系、マッチョマン系と称されるタイプのレスラーたちのモデルとなった人物であり、彼の存在がプロレス史を変えたとすら言われる。来日した際に付けられたキャッチコピーは「鉄腕」。

怪力と反則を駆使したスタイルでテクニックには乏しかったが、観客とのやり取りやマイクパフォーマンスには抜群の才能を発揮し、ヒールでありながら脅威的な人気を誇った。ハルク・ホーガンも元々は彼の熱狂的なファンの一人であったことは有名。饒舌で知られるリック・フレアーも、元々はグラハムの話術をコピーしたと告白している。一方、プロモーション・インタビューの慣習がなく言葉の通じない日本のマット界では現役当時の評価は低く、「木偶の坊」「期待外れ」などと呼ばれた。

来歴

10代の頃からアメリカンフットボールや陸上の投てき競技で活躍し、ボディビルのコンテストでは優勝経験も持つ。NFLのヒューストン・オイラーズとオークランド・レイダーズで3年間プレイし、CFLのカルガリー・スタンピーダーズにもスカウトされたが、CFLの先輩でもあるスチュ・ハートにプロレスのトレーニングを受け、1969年に本名のウェイン・コールマン名義でデビュー。

1970年夏、NWAのサンフランシスコ地区にてドクター・ジェリー・グラハムと出会い、長男ジェリー、次男エディ・グラハム、三男ルーク・グラハムからなるグラハム兄弟の「末弟」としてスーパースター・ビリー・グラハムのリングネームを名乗った。スーパースターは当時大ヒットしていたミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパースター』から、ビリーはキリスト教伝道師のビリー・グラハムからそれぞれ付けられたとされる。

その後、1971年にサンフランシスコでパット・パターソンとのコンビで同地区認定のNWA世界タッグ王座を獲得。1972年からはAWAに参戦してワフー・マクダニエルとの抗争で名を売り、1974/8/16にはビル・ロビンソンを破りIWA世界ヘビー級王座を奪取。同年9月、王者として国際プロレスに初来日している。マイティ井上に敗れてタイトルは失ったものの、同じボディビル出身のアニマル浜口とのベンチプレス対決など数々の話題を残した。また入場時に前述したミュージカルのテーマ曲を流したが、これが日本のプロレスにおける入場テーマ曲の最初だと言われている。

西海岸やAWAでのキャリアを通しパット・パターソンやレイ・スティーブンスといった名人たちからヒールとしての観客の心理操作の極意を吸収し、1975年よりグラン・ウィザードをマネージャーにニューヨークのWWWFに登場。翌1976年8月には新日本プロレスに来日し、アントニオ猪木とシングルマッチを行っている。帰国後はNWA圏のフロリダ(エディ・グラハム主宰のCWF)で同地区認定のローカル・タイトルを次々と奪取し、その勢いで再びニューヨークを襲撃。そして1977/4/30、メリーランド州ボルティモアでブルーノ・サンマルチノを破りWWWF世界ヘビー級王座を獲得、第7代王者となる。

その後は「悪党チャンピオン」としてミル・マスカラスやダスティ・ローデスを相手に防衛戦を行い、1978/2/20にマディソン・スクエア・ガーデンでボブ・バックランドに敗れるまで10ヵ月間王座を保持。当時のWWWFでヒールの王者がこれだけの長期政権を築いたのは極めて異例のことであり、MSGの定期戦を毎月ソールドアウトにするなど、彼の悪役人気の高さが窺い知れる。なお、王座陥落直前の1978/2/8には新日本プロレスに再来日して坂口征二とタイトルマッチを行い防衛に成功している。また、同年1/25にはフロリダ州マイアミのマイアミ・オレンジボウルにて当時のNWA世界王者ハーリー・レイスとの史上初のダブルタイトルマッチ(スーパーボウル・オブ・レスリング)も行われた。

王座陥落後は1979年4月に国際プロレスに再来日してラッシャー木村のIWA世界ヘビー級王座に挑戦。同年の秋からはテネシー地区に遠征してジェリー・ローラーやビル・ダンディーとCWA世界ヘビー級王座を争った(テネシーではザ・ハルクこと若手時代のハルク・ホーガンとも対戦している)。しかし、長年使用していたステロイド剤の副作用による病気や怪我に苦しみ、引退と復帰を繰り返すことになる。

一時は癌による死亡説も囁かれたが、1982年にマーシャルアーツ・スタイルに変身しWWFにカムバック。スキンヘッドに口髭を蓄えビジュアルイメージも一新させて再起を図ったものの、筋肉はそげ落ち往時のスーパースターの面影はなかった(同年1月、WWF復帰前に新日本プロレスへの通算6回目の来日が急遽実現し、その変わり果てた姿を見せた)。以降はNWAの南部テリトリーを転戦し、フロリダではケビン・サリバン率いる怪奇派ヒール軍団に加入してダスティ・ローデスやブラックジャック・マリガンと抗争。ジム・クロケット・ジュニアが運営していたノースカロライナのミッドアトランティック地区では、AWA時代の旧敵ワフー・マクダニエルやWWWF時代の盟友ジミー・バリアントとの対戦も組まれた。

その後、再び体調を崩してセミリタイア状態となり、1986年にベビーフェイスのレスラー兼カラー・コメンテーターとしてWWFと再契約。ブッチ・リードらとの抗争を経て、翌1987年に正式に引退した。引退後はフェイスターンしたドン・ムラコのマネージャーを務めていたが、1988年に解雇される。以降はWWFとの関係が険悪になり、テレビ番組でWWF内部の薬物使用問題を暴露。1990年代に行われた「ステロイド裁判」では検察側の証人としてビンス・マクマホンに不利な証言をするなど、以降10年間以上に渡ってWWFとは絶縁状態となった。

しかし2003年にビンス・マクマホンと和解し、翌年にはWWE殿堂入りを果たした(プレゼンターはトリプルH)。近年はステロイド剤の危険性を訴える活動をしているほか、特別ゲストとしてWWEのテレビ放送に登場することもある。

獲得タイトル

  • NWA世界タッグ王座(サンフランシスコ版):2回(w / パット・パターソン)
  • NWAハワイ・ヘビー級王座:1回
  • IWA世界ヘビー級王座:1回
  • NWAブラスナックル王座(テキサス版):3回
  • NWA南部ヘビー級王座(フロリダ版):1回
  • NWAフロリダ・ヘビー級王座:2回
  • NWAフロリダ・タッグ王座:1回(w / オックス・ベーカー)
  • WWWF世界ヘビー級王座:1回
  • CWA世界ヘビー級王座:1回
  • WWE Hall of Fame:2004年度





木村政彦
1917/9/10 - 1993/4/18

日本の柔道家(七段)。

全日本選手権13年連続保持、天覧試合優勝も含め、15年間不敗のまま引退した伝説の天才柔道家。史上最強の柔道家として名高く、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と讃えられた。

その荒々しい柔道スタイルから「鬼の木村」の異名を持つ。

柔道時代

10歳から竹内三統流柔術を修行

熊本県出身。

幼少の頃より父親の仕事、激流の中でザルを使って砂利取り作業をするのを手伝っていたため、強靱な腰ができたといわれる。

10歳で古流柔術の竹内三統流柔術道場に通い始め、出稽古も含め1日に5時間を超える練習量で実力をつけ、旧制鎮西中学(現・鎮西高等学校)4年(現在の高校1年の年齢)には講道館四段を取得。全国大会では大将として鎮西を率い、各種大会で圧倒的な強さで優勝に導き、「熊本の怪童」「九州の怪物」と全国にその名を轟かすようになる。

喧嘩でも熊本で鳴らし、素手はもちろんすべて圧勝し、2度の刃物との戦いも制している。

牛島辰熊に見いだされ拓大へ

1935年、同じ旧制鎮西中学OBであり、拓大の師範をする当時最強の柔道家で、「鬼の牛島」と怖れられた牛島辰熊の東京の自宅「牛島塾」に引き取られて、そこで牛島の激しい稽古をつけられ、さらに1人で出稽古に回り1日10時間という信じられぬほどの練習量をこなして強くなっていく。

牛島は特に寝技が強く、乱取り中にもよく当て身(パンチ)を使ったという。木村に馬乗りになり上から「もっと強くなれ」と泣きながら鉄拳を振り下ろし、木村が亀になると絞め技で落としたという。牛島は全日本を5度獲っていたが、天覧試合は病気に泣き獲れなかった。そのため、弟子の木村にその夢を託していたのである。

1936年、当時寝技の殿堂であり、学生柔道の団体戦として最もレベルの高い高専柔道大会に大将として出場し、拓大予科を全国優勝に導いた。後の木村の寝技の圧倒的な強さは、この高専柔道で磨かれたものであった。

木村は立技も寝技も非常に研究熱心であり、高専柔道時代には「相手の腕を帯や道衣を使って縛って抑える」という非常に斬新的な技術を開発した。これれは現在では世界中で使われているが、木村が拓大予科時代に創出したものである。また、立技から引き込み返しを掛けながらの腕緘も木村の創出、相手が自分の帯を握って頑張っている時に一度逆に振って腕緘に極める方法も木村が考えたものである。

全日本選手権連覇と天覧試合優勝

1937年から全日本選士権3連覇を達成、さらに1940年に行なわれた紀元二千六百年記念行事の天覧試合でも5試合をすべて一本勝ちという圧倒的な強さで優勝した。この後も大小大会に1度も負けなかったが、1942年に兵役に取られ柔道を離れざるを得なくなった。

しかし、戦中に中止されていた全日本選手権に1954年に出場するや、ブランクをものともせず圧倒的な強さで優勝してしまった。他の選手たちは猛稽古を重ねて打倒木村を目指していたが、木村の方は家族を食わせるために闇屋などをやり、まったく練習をしていない中での優勝だった。あまりに他選手と力が離れていた、圧倒的な強さを持つ、まさに最強の柔道家だった。

伝説の練習量

拓大に入ってからの木村の練習量は10時間を超えた。

拓大での稽古だけではなく、他大学や警視庁、皇宮警察などを回って超人的な乱取り量を誇った。

また、夜になると、師の牛島の練習にならって大木に帯を巻いて一日千回打ち込みをし、ついにその大木を一本枯らしてしまった。「寝ている時は練習していない。つまり死んでいるのと同じだ」と考えた木村は睡眠時間を3時間にし、しかもその睡眠時間も目を閉じてイメージトレーニングにほとんど使っていたというから凄まじい。

桁外れのパワー

木村政彦は師の牛島と共に、本格的にウエイトトレーニングをやり、裸の写真にみられるような抜群の筋量とパワーを誇った。

ヘビーウエイトを扱うだけではなく、例えば100kgのベンチプレスを1時間を1セットでぶっつづけて数千回上げ、仕上げに腕立て伏せを1000回など、普通の人間ならばオーバーワークになって怪我をしてしまうだろう。だが、木村はとにかく強くなりたいという欲求、渇仰が他の選手たちと違っていた。それが不世出の柔道王木村政彦を作り上げた。

その鍛え抜いたパワーで障子の桟の両端を持って潰すことができ、太い鉛の棒を簡単に曲げたという。また、師匠の牛島が夏の暑い日、木村に団扇で扇いでくれと言うと、木村はその場にあった畳の縁を持って持ち上げ、その畳を扇のように仰いで牛島を驚かせた。両腕を伸ばした状態で肩から手首に掛けて100kgのバーベルをゴロゴロと転がすこともできたという。

ベンチプレスのマックスは250kgで、スナッチでもオリンピックの重量挙げ代表より重い重量を扱えた。重量挙げを専門にやっていれば、それでオリンピック出場できたということだ。

柔道スタイルと得意技

得意技は立技の得意技は何といっても相手が畳に後頭部を打って必ず失神した強烈な大外刈で、寝技ではあらゆる体勢(上から・下から・立技から)から取ることができる腕緘であった。講道館での出稽古ではあまりに失神者が続出するので木村の大外刈は禁じられ、後には脱臼者が続出するという理由で腕緘も禁じられたという。

大外刈も自分の踵を相手の脹ら脛で打つように掛ける、一種の打撃技、蹴り技だった。こういった独特の技を木村は多く生みだしていった。

170cmで85kgの体格は当時としても柔道家としては大きな方ではなかった(1937年の日本人男子の平均身長は160cm)が、長身選手の得意技とされる大外刈をこれだけ実戦的な技として駆使したのは、この体格では後にも先にも木村ぐらいであろう。

剛柔流空手と松濤館空手の道場にも通い打撃技を習っていた。

また、戦後は米兵のヘビー級ボクサーとスパーリング中心の練習をこなしてボクシング習得にも情熱を燃やしていた。

負けたら腹を切る

木村を語る場合、フィジカルの強さや練習量だけではだめだろう。

木村が他の柔道家と比べて最もずば抜けていたのはその精神力であった。これは師匠の鬼の牛島の薫陶が大きかったが、それをすぐにものにし、自分の哲学として昇華していった。

そして木村が到達した答は「負けたら腹を切る」ということであった。切腹である。試合前夜には短刀で切腹の練習をして試合に臨んだ。壮絶なる覚悟である。そして15年間無敗でプロに転向し、切腹を免れたのである。

プロ柔道家に

牛島が国際柔道協会旗揚げ

1950年2月、それまで内定していた警視庁での柔道師範の話を断り、師匠の牛島辰熊が旗揚げした国際柔道協会いわゆるプロ柔道へ山口利夫、遠藤幸吉らと共に参加する。4/16には後楽園にてプロ柔道としての初試合を行い、トーナメントを勝ち抜き簡単に優勝する。プロでも木村は1度として敗れず、連勝を重ねていった。

その後プロ柔道は地方巡業に出るが、客足は次第に衰え、またスポンサーの経営不振も重なり、給料も未払いの状態が続くこととなる。

時を同じくして妻が肺の病に侵されたため、治療費を稼ぐ必要に迫られた木村は、後ろ指を指されることを覚悟の上で国際プロ柔道協会を脱退し、夜逃げ同然にハワイへ渡航する。これは、ハワイに住む日系の実業家による、充分な報酬を条件としたハワイ諸島での柔道巡業の要請に応じてのものであった。なお、協会の主力選手であった坂部保幸と山口利夫が木村に同調し脱退したため、国際プロ柔道協会はすぐ後に消滅する。

ハワイでの巡業では、腕自慢の飛び入りを相手にしたり10人掛をしたりと荒いものであったが、現地ではこの興行が人気を博した。3か月の任期満了も近くなった頃、この人気に目をつけたプロレスのプロモーターに誘われ、木村と山口はプロレスラーに転身した。

エリオ・グレイシーとの死闘

1951年、サンパウロの新聞社の招待で、山口利夫、加藤幸夫とともにブラジルへ渡る。プロレス興行と並行して現地での柔道の指導も行い、瞬く間に柔道人気は広まることとなる。現地で昇段審査も行い、木村が直接審査をするという話を聞いた柔道家たちがブラジル各地から集まる程であったという。

ところが同年9月23日、加藤幸夫が現地の柔術家エリオ・グレイシー(ヒクソンやホイスの父)に試合を挑まれ、絞め落とされてしまった。兄のカーロス・グレイシーが前田光世より受け継いだ柔道に独自の改良を加え寝技に特化させたブラジリアン柔術の使い手であった。エリオは加藤だけではなく、木村がブラジルに来る前から日系人柔道家たちを次々と破り、ブラジル格闘技界の英雄となっていた。対する日系人柔道家たちは小さくなっていた。

そんな状況の中、日系移民たち25万人の悲痛な思いを背負って、木村は10月23日にリオデジャネイロのマラカナン・スタジアムでエリオと戦った。

立技での一本勝ちは無し、ポイントも無し、抑え込み30秒の一本も無し、決着は「参った」(タップ)か絞め落とすことによって決まるデスマッチルールであった。

棺桶まで用意された中での試合であったが、2R目、得意の大外刈から腕緘に極めた。エリオは「参った」(タップ)しなかったが、セコンドを務めたカーロスがタオルを投げ込み、木村の一本勝ちとなった。腕緘がブラジルやアメリカで「キムラロック」あるいは単に「キムラ」と呼ばれるのは、このためである。エリオが木村のあまりの強さに敬意を払って、こう名付けた。

95歳まで生きたエリオは、最晩年に「私はただ一度、柔術の試合で敗れたことがある。その相手は日本の偉大なる柔道家木村政彦だ。彼との戦いは私にとって生涯忘れられぬ屈辱であり、同時に誇りでもある」と語っている。グレイシー博物館には、木村と戦った時に着た道衣が誇らしげに飾られているという。

プロレスラーへの本格的転身

帰国した木村はプロレスラーとして力道山とタッグを組み、1954/2/19にはシャープ兄弟と全国を14連戦した。リングサイドで木村を見守る牛島の姿も確認されており、国際柔道協会脱退で師弟関係がこじれたという噂をも一蹴している。試合は日本テレビ、NHKによって初めてテレビ中継され、新橋駅前広場の街頭テレビには約2万人もの観衆が集まったという。これを機にプロレスの人気は不動のものとなった。

しかし、このシャープ兄弟とのタッグ戦でいつも負け役ばかりやらされる木村の怒りが爆発、ついに朝日新聞紙上で「真剣勝負なら負けない」とぶちまける。力道山も怒り、結局プロレス日本一をかけて戦うこととなった。

だが、この「昭和の巌流島」と呼ばれる戦いで木村政彦は謎のKO負けを喫してしまい、一線を退くこととなる。

本来この試合はあくまでプロレスで、東京などの大きな会場で勝ったり負けたり引き分けになったりしながら全国を興行する予定であったが、初戦で試合中、力道山がその約束を反故にして突然木村に殴りかかり、木村が戸惑っているうちにKOされてしまった。

木村は、晩年、NHK福岡の取材に応じ、「最初の試合は引き分けで、次回からは順番で勝敗を決めるという話だった」と証言した。

望まぬプロレスラーとしての活動、そしてさらに望まぬ力道山の引き立て役を演じたことや、前述の通りの屈辱的な敗戦、そしてその屈辱をいくばくかの金で和解したのは、すべて当時木村の妻が結核を患っており、アメリカ製の高価な薬ストレプトマイシンの費用を捻出するためには止むを得ない選択であったと後に木村は語っている(なお、この薬のおかげで妻は命を取り留めた)。さらに後日それぞれの後ろ盾になっている興業を仕切る暴力団同士で、手打ちが決まり和解することになった。

再び柔道家に

1961年、再び柔道家として拓殖大学柔道部監督に就任。のちに全日本柔道選手権大会覇者となる岩釣兼生らを育て、1966年には全日本学生柔道優勝大会で拓殖大学を優勝に導いた。なお、その時の練習の厳しさは今でも語り草になっている。フジテレビ番組『SRS』のインタビューで、岩釣は「オリンピック選手候補でも木村先生にはかなわなかった」と語った。

1985年出版の著書『わが柔道』の山下泰裕との対談では、物議を醸した1980年の遠藤純男との試合は「明らかに君(山下)の負け」としたうえで、「強いんだから全日本選手権を10連覇しなさい」という旨を述べる。1990年代、テレビ朝日『ニュースステーション』にビデオ出演。山下泰裕、斉藤仁らが活躍する柔道界を「今の柔道はブタのやる柔道」と批判。

1993年4月18日死去。75歳没。

柔道界での名声と総合格闘技界での名声の「捻れ」

かつてプロとしての活動をしたため、後に柔道界に復帰し、母校拓殖大学の指導にあたるが、講道館は最後まで木村にプロの烙印を押したまま七段から昇段させず、柔道殿堂にも入っていない。

しかし、一方で、1951年にブラジルでエリオ・グレイシーの挑戦を受け、得意の腕緘を極めて圧勝し、総合格闘技の種を蒔いたという意味で、総合格闘技の先駆であった。日本では柔道界では排斥されたままだが、海外の総合格闘家やブラジリアン柔術家たちはマサヒコ・キムラの名前に非常に敬意を持っている。

史上最強の称号

15年間不敗のまま引退したことから、木村はしばしば史上最強の柔道家と評価される。

同じく史上最強と評価されることもある山下泰裕と木村両方の全盛時代を知るライバル広瀬巌(1941年の全日本選士権覇者)は「今、山下君が騒がれているけれど、木村の強さはあんなものじゃなかったよ」と言い、1948年の全日本選手権を制し東京オリンピック監督も務めた松本安市は「絶対に木村が史上最強だ。人間離れした強さがあった。ヘーシンクも山下も含めて相手にならない」と語っている。

また、前三角絞めの開発者として有名な高専柔道出身の早川勝(旧制六高OB、元日経連専務理事)は「較べものにならない。山下君もたしかに強いけども、僕らの時代は木村先生と何十秒間試合できるかというのが話のタネだった」と語っている。

同じく両者の全盛時を見ている柔道新聞主幹の工藤雷介は「技の切れ、凄さからすればやはり木村君だ」と断言し、直木賞作家の寺内大吉も「戦中の木村柔道をぼくはほんの二試合ほどしか見ていないが、それでも『鬼の政彦』を実証する強さだった。もちろん比較はできないが山下泰裕より遙かに上位をゆく豪力であったと思う」と語っている。

また、木村の愛弟子で全日本選手権も獲っている岩釣兼生は現役時代に50歳の木村とやっても寝技ではまったく歯が立たなかったようで、「木村先生のパワーにはぜんぜん敵わないと思いますよ。山下君にも間違いなく腕緘を極めるでしょう。これは断言できます。私でもロジャース(東京オリンピック重量級銀メダリスト)でも寝技でぼろぼろにやられましたから」と言い、同じく木村に稽古をつけてもらった弟子蔵本孝二(モントリオールオリンピック軽中量級銀メダリスト)は「(山下とは)ぜんぜん問題にならないです。立っても寝ても腕緘一発です」と断言している。

拓殖大学の後輩で極真空手の創始者である大山倍達も実際に木村の試合を観戦しているが「木村の全盛期であればヘーシンクもルスカも3分ももたないと断言できる」と述べている。

木村政彦を主役にした作品

『ゴング格闘技』誌が「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」(増田俊也)というノンフィクション作品を長期連載している。木村政彦の幼少時から生涯を追い、実に連載3年を超える大長編作品となっている。

旧制鎮西中時代の怪物的強さから、師匠牛島辰熊との出会い、そして牛島塾での猛修行。木村が大将として拓大予科が初参加した高専柔道大会優勝、全日本選士権3連覇、天覧試合制覇などが緻密な取材と膨大な資料で詳細に描かれた。

そして戦争中の木村の軍隊内でのバンカラぶり、戦後の闇屋の頃の喧嘩、米兵ボクサーにボクシングを習うシーン。プロ柔道についても今までの資料にない取材を繰り返しており、数回にわたって詳しく描かれている。

圧巻だったのはブラジルでのエリオ・グレイシー戦である。連載4回に分けて、木村がキムラロックでエリオを破ることによって日系移民たちの救世主となるまでを迫力の筆で描いた。そして2011年2月号では遂に力道山と雌雄を決する「決戦」という大特集を打った。

主な木村の著作


関連DVD 

   岩釣兼生 木村政彦伝 鬼の柔道
   

君は木村政彦を知っているか/2/8/3/8/4/8/5/8/6/8/7/8/8/8


万年東一 
1908/9/10 - 1985/3/28

愚連隊の首領、右翼活動家、総会屋。右翼団体大日本一誠会初代会長。全日本女子プロレス初代会長。山形県飽海郡松嶺町出身。

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