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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
9/14

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今日は何の日?


未来
1982/11/17 - 2005/9/14

本名:北上知恵美は日本の女子プロレスラー。身長168cm、体重65kg、血液型AB型。北海道小樽市出身。

経歴・戦歴

2001年に全日本女子プロレス(全女)に入団。9/23の後楽園ホールで森居知子戦で本名でのデビュー、平成13年組として期待されていたが2002年に退団。KAIENTAI-DOJOに練習生として入団したがデビュー前に退団した。

2003年7月、AtoZの旗揚げに際してリングネームを未来に改名し「Z-SPIRITS」の一員となった。

2005年3月に退団し、フリーランスのレスラーとなった。6/4には我闘姑娘の板橋グリーンホール大会に、マスクウーマン流華(るか)として登場し、零とデイブレイクを結成した。その後もKAIENTAI-DOJOに出戻り参戦するなどし活躍した。

2005年9月14日、自宅浴槽での事故により死去。12日のNEOサンピア高崎大会で井上京子・井上貴子戦が最後の試合となった(パートナーは松尾永遠、未来が京子のナイアガラドライバーで敗戦)。

18日にはNEO・JWP後楽園大会(昼夜興行)に出場予定が組まれていた。いずれの大会も追悼セレモニーとしてテンカウントゴングが打ち鳴らされた。JWPでは木村響子戦が予定されていたが、代役としてAtoZ時代の同僚・江本敦子が出場し、これが後のレボルシオン・アマンドラへと繋がる。

また、23日の「息吹」ではメインイベントに出場予定だったが、元AtoZ練習生の新人で最後にシングルで対戦した栗原あゆみが代役を務めた。

最後の試合から1年後となる2006年9月12日に「未来メモリアル〜For The Future〜」(M's Style主催)と題した追悼興行が、男女問わずゆかりのレスラー達により新木場1stRINGで開かれた(メインは木村・栗原組vs江本・零組。ポスターのデザインはAtoZ時代の同僚で当時現役を一時退いていた華名が手掛けた)。興行の最後にはレディゴン殿堂に表彰された。

タイトル歴

  • 初代Diamond Jr.5王座

DVD

  • NEO SUPER SHOW 女子プロレス大感謝祭 in SAPPORO「井上貴子対未来」(NEO PLEX)
  • MIDSUMMER TAG TOURNAMENT V 初代タッグ王座決定トーナメント「井上京子、三田英津子組対零、流華組」(NEO PLEX)
  • 息吹 IBUKI 第2回大会2005.7.31新木場1STRING 第3回大会2005.9.23新木場1STRING 第4回大会2005.11.13新宿FACE「吉田万里子、未来組対日向あずみ、木村響子組&未来インタビュー」(“息吹”事務局)
  • 格闘美Festa「桜花由美対未来」(JDスター)
  • M's Style NEW STYLE SYSTEM「栗原あゆみ対未来ほか」(QUEST)
  • Lady'sゴングVol.84 SPECIAL DVD「未来名勝負集」(日本スポーツ出版社)

入場テーマ曲

  • For the future(Do As Infinity)

AtoZ 未来vs北尾ゆかり





アントニオ・シウバ
Antonio Silva
1979/9/14

ブラジルの総合格闘家。パライバ州カンピナグランデ出身。元Cage Rage世界ヘビー級王者、元EliteXC世界ヘビー級王者。以前はアメリカン・トップチーム所属だったが、現在はフリー。

足のサイズが33cmと巨大であることからニックネームは「PEZAOペザォンペゾンペイザォン)」(ポルトガル語で"デカ足")、英語圏ではそれを英訳した「BIGFOOTビッグフット)」。背中には「PEZAO」の文字と足形をあしらったタトゥーを入れ、右腕には「BIGFOOT」の文字と両親が35歳の時の顔のタトゥーを入れている。そのいかつい風貌と巨体に加えて、HERO'Sに初参戦した際の試合前の煽りVのインタビューで「俺はゴリラだ!ゴリラが日本のリングで暴れるぜ!」と発言したことにより、日本での呼び名は「ザ・ハイパーゴリラ」。

4歳から始めた空手とブラジリアン柔術がバックボーンで、アメリカン・トップチームでの練習に加え、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ、アントニオ・ホジェリオ・ノゲイラとトレーニングしている。その巨体とパワーに加えて空手、柔道、柔術で黒帯を取得するなど優れた打撃と寝技を兼ね備えており、パウンドが最大の得意技。

ネバダ州アスレチック・コミッションの定める統一階級制度においてヘビー級の上限は265ポンド(120.2kg)以下が総合格闘技におけるヘビー級と定められているが、シウバはアメリカン・トップチーム独自の増減量計画によって、前日計量終了後から試合当日までに20ポンド以上も増量した状態で試合を戦っている。

脳下垂体の腫瘍が原因で、カリフォルニア州アスレチック・コミッション(CSAC)の判断により、カリフォルニア州で戦うことができない。

来歴

2005/3/6、デビュー戦のUKMMAC 10でテンギズ・テドラゼに開始48秒でTKO勝ち。

2005/5/21、CWFC Strike Force 1でMarcus Tchindaに1RでTKO勝ち。

2005/7/2、Cage Rage 12でハファエル・カリノに1RでTKO勝ちし、第3代Cage Rage世界ヘビー級王者となる。

2006/5/3、HERO'Sスーパーバイザーの前田日明の推薦でHERO'Sに参戦。トム・エリクソンと対戦し、レフェリーストップ勝ちで日本デビューを飾った。

2006/10/9、HERO'Sでカイシノフ・ゲオルギーと対戦、1R1分8秒、KO勝ち。

2006/12/2、BodogFightにて、エリック・ペレと対戦、パウンドでTKO負け。キャリア初黒星となった。

2007/2/10、EliteXC: Destinyにてウェズリー"キャベージ"コレイラと対戦し、パウンドでTKO勝ち。

2007/6/2、Dynamite!! USAでジョナサン・ウィゾレックと対戦予定であったが、脳下垂体の腫瘍が原因でカリフォルニア州アスレチック・コミッション(CSAC)の許可が出ず欠場となった。当日開会セレモニーで行われた聖火リレーに参加した。

2007/11/10、EliteXC: Renegadeでジョナサン・ウィゾレックと対戦し、チョークスリーパーで一本勝ち。

2008/2/16、EliteXC: Street Certifiedでリコ・ロドリゲスと対戦し、2-1の判定勝ち。EliteXCのヘビー級(約120kg未満)での参戦のため、大幅な減量を行っての参戦となった。

2008/7/26、EliteXC: Unfinished Businessでジャスティン・エイラーズと初代EliteXCヘビー級王座決定戦で対戦。パウンドでTKO勝ちし、初代EliteXCヘビー級王者となった。試合後の薬物検査でアナボリックステロイドの陽性反応が出たため、1年間の出場停止処分および2,500ドルの罰金処分を受けた。

2009/1/4、戦極初参戦となった戦極の乱2009で中尾"KISS"芳広と対戦。中尾の左膝負傷によりTKO勝ちを収めた。この試合は、アメリカでの出場停止期間中の出場となった。

2009/11/7、Strikeforce: Fedor vs. Rogersでファブリシオ・ヴェウドゥムと対戦し、0-3の判定負け。

2010/5/15、Strikeforce: Heavy Artilleryでアンドレイ・アルロフスキーと対戦し、3-0の判定勝ち。

2010年5月、アメリカン・トップチームを円満離脱し、フリーとなる。離脱理由については「最近は所属選手が増え過ぎて40人から50人ぐらいいるので、自分自身の特別な練習をするためにコーチの集中的な指導を受けるのが難しいから。ATTを辞めたけど、チームと何の問題も抱えてないし、今でもATTが大好きだ」と語っており、その後の試合でもATTのコーチと選手がセコンドに就いている。

2010/12/4、Strikeforce: Henderson vs. Babalu 2ではヴァレンタイン・オーフレイムと対戦予定だったが、ヴァレンタインの負傷欠場によって試合の5日前にマイク・カイルとの対戦が決定。ライトヘビー級を主戦場としているカイルとは大きな体格差があるため、シウバ有利とされたが、1Rに右ストレートを浴びてダウンを奪われ、その後もパウンドを浴び続けるなど危機に陥るが、2Rにテイクダウンしてスピニングチョークを極めかけた後、最後はマウントパンチで逆転KO勝ち。

2011/2/12、「Strikeforce: Fedor vs. Silva」での「Strikeforce World Grand Prix」1回戦でエメリヤーエンコ・ヒョードルと対戦。1Rから右ストレートをクリーンヒットさせ、2R開始早々にテイクダウンしてマウントパンチの連打を浴びせ、肩固めを極めかけるなど圧倒。終始試合を優位に進め、2R終了後ヒョードルの右目負傷によるドクターストップにより、大番狂わせのTKO勝ちを収めた。

獲得タイトル

  • 初代EliteXC世界ヘビー級王座
  • 第3代Cage Rage世界ヘビー級王座
  • Cage Warriorsヘビー級王座

 
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小島聡
1970/9/14

東京都江東区出身。血液型A型。

オレンジを基調としたコスチュームがトレードマーク。VOODOO-MURDERSに加入していた時期は、黒と赤を基調としたコスチュームがトレードマークだった。

来歴

新日本プロレス

学生時代に格闘技のバックボーンを持たず(柔道経験があるが特に大きな記録は持っていない)、一度はノーリツに就職したものの退職し、アニマル浜口ジムでトレーニングを積み、1991年2月に新日本プロレスに入門した。

同年7月、山本広吉(現:天山広吉)戦でデビュー。1994年、ヤングライオン杯で全勝優勝を飾り、海外遠征に出発。1996年に凱旋帰国、中西学とブル・パワーズを結成しIWGPタッグ王座を獲得するなど活躍する。

怪我で長期欠場していた復帰後の1998年に武藤敬司に誘われnWo JAPANに加入、ヒールに転向する。体格やファイトスタイルが重複していた天山広吉とタッグを組む機会が増え、「天コジタッグ」として知られる。その後nWoが蝶野正洋率いるTEAM 2000に吸収されるとIWGPタッグ王座を当時の最高記録である6度の防衛を果たすなど名タッグとして活躍。

しかし武藤に追随する形で2002年1月31日に新日本プロレスを退団し、同年2月26日に全日本プロレスに入団した。

全日本プロレス

2003年は火祭り、チャンピオン・カーニバル、世界最強タッグ決定リーグ戦優勝など、数々の実績を残した。また、愚零斗孤士なるキャラに扮したり、A BATHING APEとのコラボレーションによる『BAPE STA!! PROWRESTLING ZEPPTOUR』をプロデュースし、興行を成功させている。同興行ではグレート・コスケなる覆面レスラーに扮している。2004年には、ハッスルに参戦、7月にはプロレスリング・ノアの東京ドーム大会で試合を終えた三沢光晴に対戦を直訴し、古巣に呼び寄せる形でシングルマッチが実現したが敗れた。

2005/2/16、東京・代々木競技場第二体育館で川田利明を破り悲願の第33代三冠ヘビー級王者に就く。これにより小島が平成デビューの選手で初めての三冠王者となり、この試合で川田が約16年間続けてきた平成デビューの日本人選手相手のシングル無敗記録も打ち破った。その4日後、新日本プロレスのIWGPとのWタイトルマッチで、天山を下して第41代IWGPヘビー級王者となり、全日本と新日本の至宝のタイトルを独占した。試合後には、IWGPベルトをリングに投げ捨てるなどの過激な挑発を行い、同年5月14日に陥落するまでの間、一度もIWGPベルトを巻かなかった。その理由として「新日本に居たときは喉から手が出るほど手にしたかったIWGPだけど、今の俺は全日本プロレスの小島聡だから」と理由を述べている(後に巻いておけばよかったかもと多少後悔している)。なお、四冠王者である間にターザン後藤一派の清水大会でターザン後藤&清水の画伯と対戦している。

四冠王者(三冠+IWGP)を奪取したことと、川田利明、武藤敬司、佐々木健介らを撃破して三冠を防衛した実績を評価され、2005年度のプロレス大賞MVPを獲得。授賞式の席では、話題賞を受賞したインリン様から挑発を受け、まんざらでもない様子を見せていた。

2006年は、「チャレンジする王者」を目標に掲げていた。新日本のG1 CLIMAXへ5年ぶりに出場し準優勝。8月28日にはアパッチプロレス軍で「ストリートファイト有刺鉄線ボードデスマッチ」という試合形式のデスマッチにも挑戦した。同年の世界最強タッグ決定リーグ戦では天山とのタッグ「天コジ」を復活させ、優勝を果たした。

2007年3月のチャンピオンカーニバルでは予選落ち。その後のシリーズも不調が続き、6月にVOODOO-MURDERSへ加入した。全日本プロレス移籍後初めてヒールとして活動することになった。8月26日、両国国技館においてパートナーTARUと世界タッグ選手権に勝利し世界タッグ王者となった。

2008年3月、チャンピオン・カーニバルでは予選落ちし、大会後には右肘負傷のため欠場していたが、7/8、新日本の後楽園ホール大会でリングに登場した。翌日には2年ぶりにG1に出場することが決定し、20日には全日本の後楽園ホール大会で復帰した。8/3石川・産業展示館3号館にて行われた6人タッグ戦終了後、TARUとの仲違いからVOODOO-MURDERSを離脱した。G1からコスチュームを変更したが、最終日の試合でTARUの乱入によって真壁刀義に破れ決勝進出を逃した。 同月、大和ヒロシとKAIと共に「F4」を結成。

11月、天山とのタッグでG1 TAG LEAGUEと世界タッグリーグ戦に優勝し、同年で両団体のタッグリーグ戦を制覇した。

2010/2/7の後楽園ホール大会にて、F4とVOODOO-MURDERSとの負けたら解散マッチに敗れF4を解散。3/21には浜亮太に破れ保持していた三冠ヘビー級王座も失い、同年5月をもって全日本プロレスを退団した。

フリー

7/11、古巣である新日本プロレスの後楽園ホール大会に姿を表しG1参戦を表明。8月、決勝で棚橋弘至を破りG1を初制覇し、同時に新日本プロレス所属外の選手として初のG1制覇者となった。10/11に真壁刀義に挑戦しIWGPヘビー級王座を奪取、12/11には自ら指名した中邑真輔と対戦し、初防衛に成功。

2011年1月4日、レッスルキングダムにて、G1のリベンジに燃える棚橋に敗北。IWGPヘビー級王座から陥落。同月30日、真壁刀義と、IWGPヘビー級王座次期挑戦者決定戦に挑み勝利。棚橋とのリターンマッチの権利を得る。また、この時期よりTAKAみちのく、NOSAWA論外、タイチ、MVPらとのユニット「小島軍(仮)」として活動が活発化。

2/20、仙台大会で棚橋とのIWGP戦に挑むも、試合終盤に棚橋が珍しくラリアットを使いペースを奪われ、最後はハイフライフローで敗退。

3月にNJCに出場、1回戦に真壁と対戦。序盤から再三タイチが試合に介入するも最後に棚橋が登場しタイチを排除、真壁のドラゴンスープレックスでフォールを奪われ、1回戦で敗退。翌4月の後楽園ホール大会ではタイチの介入が裏目に出て(折りたたみ椅子を奪われ攻撃に利用され)真壁とのシングルマッチ連敗を喫する。

5/3、新日本福岡大会で、NJC以降因縁が深まっていた真壁と対戦。試合前に小島がセコンドからタイチを排除し、1対1の完全決着戦に。しかしこの試合に敗北。試合後に真壁から「抗争終結」の意味合いとして握手を求められるもこれを一度拒否(ここで一度真壁が退場)。しかし、直後「小島軍(仮)」のメンバーであったTAKAとタイチが、軍団の長である小島を襲うというクーデター事件が発生。さらに鈴木みのるが突如出現、TAKA達に気を取られているスキを突かれ背後から強襲される。事前にTAKAがみのると密かに接触・結託しており、TAKAとタイチに裏切りられ孤立してしまう。みのるに襲撃された時に真壁がリングに舞い戻り小島を救出。みのる達が退場後真壁と握手を交わし、ひとまず対真壁との抗争を休戦させる。同5/28のディファ有明大会の試合後小島から真壁に握手を求め、真壁が握手でこれに答えた事で晴れて共同戦線が決定。ただし、タッグとしての共闘は互いの目的と利害が一致していただけであり、信頼関係でできたタッグでない暫定的なものである事を真壁と共に主張している。

同6/13、新日本初のアメリカ大会で試合に出場(タッグマッチ)。試合後、突如ランス・アーチャーの襲撃を受ける(ランスはその後、小島と敵対する「鈴木軍」のメンバーに。また、この襲撃時にMVPが小島の救出に駆けつけ、「小島軍(仮)」の結束が途切れていない事をさりげなくアピールした)。

6/18、大阪大会で一連の抗争後初となる「真壁と2人だけのタッグ」を組み、鈴木みのる、ランス・アーチャー組と対戦。小島が、みのるのパイルドライバーをくらいフォール負け。

同6/22、ディファ有明大会の「無差別級6人タッグトーナメント」2回戦で、皮肉にも「天コジ」タッグの盟友であった、天山広吉組と激突(試合は小島組の勝利)。試合中から小島、天山ともに感情むき出しでぶつかり合った。試合後小島は、「天山!天山!天山!」と叫び(2005年2月の、IWGPヘビー級、三冠統一ヘビー級、ダブルタイトルマッチ決定時のセルフオマージュ)、その後一言「もう1回だけやろうぜ」と、シングルマッチでの再戦を希望するコメントを残した。

7/18、札幌真駒内大会で、鈴木みのるを相手に福岡の因縁勃発後初のシングルマッチに挑むも、パイルドライバーで敗れる。

獲得タイトル歴

新日本プロレス

  • IWGPヘビー級王座 : 2回(第41代・第55代)
  • IWGPタッグ王座 : 3回(第31代・第36代・第40代)
    パートナーは最初が中西学→後の2回は天山広吉。
  • G1 CLIMAX優勝 : 1回(2010年)
  • G1 TAG LEAGUE優勝 : 3回(1998年・2001年・2008年)
    パートナーは最初が武藤敬司→後の2回は天山広吉。

全日本プロレス

  • 三冠ヘビー級王座 : 2回(第33代・第40代)
  • 世界タッグ王座 : 3回(第47代・第49代・第53代)
    パートナーは太陽ケア→カズ・ハヤシ→TARU。
  • アジアタッグ王座 : 1回(第75代)
    グレート・コスケとして。パートナーは獅龍)。
  • チャンピオン・カーニバル優勝 : 1回(2003年)
  • 世界最強タッグ決定リーグ戦優勝 : 4回(2002年・2003年・2006年・2008年)
    パートナーは太陽ケア→カズ・ハヤシ→06・08年は天山広吉。

MLW

  • MLW世界ヘビー級王座 : 1回(第2代)

ZERO-ONE

  • 火祭り優勝 : 1回(2003年)

プロレス大賞

  • 2000年、プロレス大賞 最優秀タッグチーム賞(天山広吉とのタッグ)
  • 2002年、プロレス大賞 技能賞
  • 2005年、プロレス大賞 最優秀選手賞

入場曲

  • 「STYLUS」(鈴木修)…三冠王座陥落後から使用。VOODOO-MURDERSに加入した時期は、「VooDoo -STYLUS-」を使用した。
  • 「RUSH!!」(作曲:安部潤 演奏:N.J.P. UNIT)…新日本Uターン後(フリー参戦)は、こちらを使用している。
  • 「RIDE OVER 〜煽風〜」(作曲:戸谷勉 演奏:Blue Stealer)
  • 「CRASH DYNAMITE」(作曲:大竹浩行 演奏:炎達)

エピソード

  • 小島の右腕は、自らの相手レスラーへの攻撃と相手レスラーらの度重なる攻めなどにより真っ直ぐ伸びない状態となっている。
  • 2002年7月に入籍したことを翌年に会見で発表。2006年10月に長女をもうけた。
  • ヨーロッパ武者修行中のリングネームは、ジョー・ジョー・リー
  • アレルギー性鼻炎に悩まされているため、2000年頃からはノーズクリップ(鼻孔拡張テープ)がトレードマークになっている。
  • 2003年にはZERO-ONEの「火祭り」で優勝、賞金と火祭り刀を手に入れるが火祭り刀が抜けなかったので返還、オレンジ色の火祭り刀を作ってもらい入場時に持つようになっていた。
  • ヒールとしてnWoに在籍していたにもかかわらず、新日本のマークのついたシャツを着てインタビューを受けていたこともある。
  • 小島の兄 (RYO) はハードコアパンクバンド「鉄アレイ」のボーカルで、インディーズバンド界の重鎮である。
  • 似顔絵が得意。桂三枝の物真似も得意。
  • 天山とは同学年ではあるが入門が遅いためか、公では天山の“コジ”に対して“天山さん”と、さん付けで呼ぶ場面がみられる。
  • 武藤に誘われ、リック・フレアー、トリプルH、ステファニー・マクマホンと食事をしたことがある。しかし、緊張のあまりほとんど会話はできなかったと本人は語っている(普通に談笑している武藤をみて、改めて偉大さを知ったとも話していた)。
  • 2006年3月から放送された、TBS愛の劇場『すてきにコモン!』で小学校の先生役で出演するほど、ルックスが良く、演技力にも評判があった。その後、2007年9月から放送された『家に五女あり』にも医師役でゲスト出演している。
  • 愛犬の血統書付きのチワワの体重が5kg位有り同種ではかなり大型のため、パピヨンとよく間違われるとのこと。
  • 天山広吉とタッグを組んだ際に「俺達は1+1=2じゃねえ、1+1=200だ! 10倍だぞ10倍!!」と言ったことがある。

コジログ 小島聡 オフィシャルブログ





マッドドッグ・バション
Mad Dog Vachon
1929/9/14

カナダの元プロレスラー。ケベック州モントリオール出身。本名はモーリス・バションMaurice Vachon)。

レスリングオリンピック代表の地力をベースにしながらも、それを感じさせない凶暴な喧嘩ファイトで、180cmに満たない小柄な体格ながら30年以上トップスターとして活躍した。モントリオールではプロモートも行った。弟のブッチャー・バション(ポール・バション)もプロレスラーで、兄弟タッグとしても実績を残した。妹のビビアン・バションもまたプロレスラー(夫はバディ・ウォルフ)。女子プロレスラーのルナ・バションはポールの娘でモーリスの姪にあたる(夫はデビッド・ヒース)。

来歴

13人兄弟の一人として生まれる。10代よりレスリングで頭角を現し、カナダのナショナルチームに入る。1948年にはロンドンオリンピックに19歳でカナダ代表として出場した。1950年にプロ入り。当初はジュニアヘビー級であったが、やがて「マッドドッグ」と通称される凶暴ファイトを売りにするようになる。アメリカに転じてテキサス州、南部、大西洋岸などで多くのタイトルを獲得した。

1960年代に入るとAWAを主戦場とするようになる。1964年5月にネブラスカ州オマハでバーン・ガニアを破りAWA世界ヘビー級王座を獲得した。同月中にガニアに奪回されるが、その後もガニアと血の抗争を繰り広げ、4度王座に返り咲いた。1969年には弟のブッチャー・バションとのチームでディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキー組を破りAWA世界タッグ王座も獲得するなど、AWAのトップヒールとして活躍した。ガニアとの抗争においては、凶暴ファイトを抑えガニアのお株を奪うようなレスリング仕込みのテクニックを披露することがあった。また逆にガニアがバションの機先を制して凶器攻撃を仕掛けたこともあり、玄人をもうならせる濃い試合内容に高い評価が残っている。

1970年代には一時AWAを離れて故郷のモントリオールを主戦場とし、自らグランプリ・レスリングを主宰してエースレスラー兼プロモーターとしても活動した。その後AWAに戻り、50歳を目前とした1979/6/6、かつての仇敵ガニア(当時53歳)とのチームでレイ・スティーブンス&パット・パターソンを破りAWA世界タッグ王座を獲得、大悪党から人気者に転身する。同王座は翌1980/7/20にジェシー・ベンチュラ&アドリアン・アドニスに明け渡すまで、1年以上に渡って保持した(その間、カナダのウィニペグにてスタン・ハンセン&ボビー・ダンカンに王座を奪われたともされている)。

キャリア末期の1984年にはWWFと契約し、同年にスタートしたビンス・マクマホンによる全米進出サーキットに参加。AWA圏での興行を中心に、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにも出場した。1986年に引退。

日本には1968年、日本プロレスに初来日したが、小柄なためにジャイアント馬場のインターナショナル・ヘビー級王座への挑戦権は与えられず、米国での実績からすれば低い扱いだった。

1971年にはブッチャー・バションとAWA世界タッグ王者として国際プロレスに登場、壮絶な暴れっぷりで日本勢を蹂躙し、以降は国際プロレスの常連となった。1973年にはイワン・コロフとのチームでIWA世界タッグ王座を、1975年にはマイティ井上からIWA世界ヘビー級王座を獲得。1977年には第6回IWAワールドシリーズに参戦、ラッシャー木村と決勝を戦っている。またモントリーオールでの抗争を再現したジプシー・ジョーとの死闘も話題を呼んだ。

以上のように日本でも充分な実績を残したが、馬場やアントニオ猪木とシングルのタイトル戦を行っていないために、アメリカ・カナダでのキャリアや実力に比べれば日本での評価や知名度がやや低いレスラーではあった。

2007年3月にリリースされたDVD『不滅の国際プロレス1974-1981』には1975年と1977年の来日時の木村、井上、ジョーらとの4試合が収録されており、当時既に50歳近かった年齢を感じさせない凶暴ファイトにファンの注目が改めて高まった。

プロレスラーを引退した後の1987年に交通事故で右足を切断したが、その後も度々WWEの興行や番組にスペシャル・ゲストとして登場。近年もネブラスカ州オマハで健在である。2010年にはWWE殿堂に迎えられ、車椅子でセレモニーに出席した(プレゼンターはAWAでの旧敵パット・パターソン)。

人物

リング上の暴れっぷりとは対照的に、素顔は温厚な人格者として知られる。だがその一方で、怒らせたら怖く喧嘩には滅法強かったともいわれている。リック・フレアーも彼の喧嘩の強さを認めており、ハーリー・レイス、ブラックジャック・マリガン、ワフー・マクダニエル、ディック・スレーターなどと並んでプロレス界でもトップクラスだったと自著で記している。また、酒場で見つけた荒くれ者をプロレスラーにスカウトしていたともいわれ、ザリノフ・ルブーフやクレージー・セーラー・ホワイトはその1人とされている。

獲得タイトル

AWA
  • AWA世界ヘビー級王座:5回
  • AWA世界タッグ王座:3回(w / ブッチャー・バション×2、バーン・ガニア)
  • AWAミッドウエスト・タッグ王座:2回(w / ブッチャー・バション、ボブ・オートン)
NWA
  • NWAテキサス・タッグ王座:3回(w / ピエール・ラセール、ブッチャー・バション、デューク・ケオムカ)
  • NWAテキサス・ブラスナックル王座:1回
  • NWAカナディアン・タッグ王座(カルガリー版):3回(w / ブッチャー・バション)
  • NWAインターナショナル・タッグ王座(カルガリー版):3回(w / ブッチャー・バション)
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座:6回
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座:1回(w / フリッツ・フォン・ゲーリング)
  • NWA南部タッグ王座(ミッドアトランティック版):1回(w / ブッチャー・バション)
  • NWA世界タッグ王座(ジョージア版):1回(w / ブッチャー・バション)
  • NWA世界タッグ王座(セントラルステーツ版):1回(w / バロン・フォン・ラシク)
IWAモントリオール
  • インターナショナル・ヘビー級王座:2回
  • インターナショナル・タッグ王座:1回(w / エドワード・カーペンティア)
IWE
  • IWA世界ヘビー級王座:1回
  • IWA世界タッグ王座:1回(w / イワン・コロフ)

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