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ブルドッグ・ブラワー
Bulldog Brower
1933/9/17 - 1997/9/15

アメリカ合衆国のプロレスラー。本名はリチャード・グランドRichard Gland)、デラウェア州ウィルミントン出身。

来歴

カイロプラクティックのスクールを中退後、1950年代末にプロレスラーとしてデビュー。人の体を治す立場から一転して壊す立場となり、デラウェア・デストロイヤーThe Delaware Destroyer)の異名を持つ巨漢ヒールとなってカルガリーやトロントなどカナダの主要テリトリーで活動。トロントではジョニー・バレンタインと組み、1963年2月にブルーノ・サンマルチノ&ホイッパー・ビリー・ワトソンからNWAインターナショナル・タッグ王座を奪取した。

1960年代半ばよりニューヨークのWWWFに参戦し、1966/11/7にマディソン・スクエア・ガーデンにてブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦。1968年1月にはTBSプロレス時代の国際プロレスに初来日している(同時参加はルー・テーズ、ダニー・ホッジ、ワルドー・フォン・エリックなど)。

以降はアメリカ北東部や五大湖エリアを主戦場に、NWFでは1969年から1970年にかけて、ジョニー・パワーズやアーニー・ラッドと北米ヘビー級王座を巡る抗争を展開。NWAのデトロイト地区ではザ・シークと流血戦を繰り広げた。1972年2月にはエース格として日本プロレスに参戦、ジャイアント馬場のインターナショナル・ヘビー級王座に挑んでいる。1970年代前半は南半球にも度々遠征し、オーストラリアではスパイロス・アリオンとタイトルを争った。

1975年、エディ・アインホーンがミル・マスカラスを世界王者としてアメリカ北東部で旗揚げしたIWAに参戦。ビンス・マクマホンの対抗勢力に協力することとなったが、IWAの崩壊後はキャプテン・ルー・アルバーノをマネージャーにWWWF / WWFに再登場。1979/4/30のMSG定期戦ではボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦した。

1980年にWWFを離れてからはプエルトリコのWWCに登場し、同年4月にルーク・グラハムと組んでNWA北米タッグ王座を獲得している。その後は1983年10月、デトロイトで行われたNWAアメリカン・タッグ王座(フリッツ・フォン・エリックの主宰するテキサス州ダラス地区のタイトル)争奪トーナメントにてロディ・パイパーとのコンビで優勝、チャンピオン・チームに認定された。

1980年代末に現役を引退し、糖尿病との闘病を続けていたが、1997年9月15日、股関節手術後の合併症により死去した。63歳没。

獲得タイトル

  • NWF北米ヘビー級王座:2回
  • NWAインターナショナル・タッグ王座(トロント版):5回(w / スウィート・ダディ・シキ、ジョニー・バレンタイン、ドクター・ジェリー・グラハム、ホイッパー・ビリー・ワトソン×2)
  • NWAオーストラ・アジアン・ヘビー級王座:1回
  • NWA英連邦ヘビー級王座(ニュージーランド版):1回
  • NWA北米タッグ王座(プエルトリコ版):1回(w / クレイジー・ルーク・グラハム)
  • NWAアメリカン・タッグ王座:1回(w / ロディ・パイパー)





チャパリータASARI
1973/9/15

本名:中尾(旧姓:渡邊)真美(わたなべ まさみ))は、日本の元女子プロレスラー。東京都荒川区出身。

ニックネームは『アサリ』。大の長渕剛ファン。

来歴

学生時代は体操部に所属するが、目的が『プロレスラーになる事』だったため、体操の技術をプロレスに活かすことに専念し、減量は一切行わず、そのため体操選手としては無名の存在だった。

1992年全日本女子プロレスのオーディションに合格(その時、上背は無かったものの、体操の経験を活かし、リング上で、後の得意技となるスカイツイスタープレスの原形を披露し、認められる)、入団する。

プロレスデビューは1992/11/19、葛飾区総合スポーツセンターでの対椎名由香戦。

リングネームを本名の渡辺真美からチャパリータASARIに改名する。なお、リングネームの由来は、全女に入団した際、先輩レスラー達への挨拶で自己紹介を行った際、名前の『まさみ』が聞き取りづらく、『アサリ』と聞こえてしまい、それがあだ名となったことと、それにスペイン語で「小さくて可愛い」という意味の『チャパリータ』を組み合わせたことによる。

全女ではジュニア王座や世界スーパーライト級王座に就くなど活躍するが、1997年9月に全女の経営難から退団し、ネオ・レディース(現:NEO女子プロレス)に入団(この時、当時アルシオンの社長だった小川宏もASARIをアルシオンにスカウトするつもりでいたが、先に井上京子の方が声をかけたので、ネオ・レディースに入団している)、2年間の活動の後、退団しフリーランスとなり、2003/5/5、現役を引退。2006年8月に年下の俳優と結婚し、現在は主婦。

獲得タイトル

  • WWWA世界スーパーライト級王座
  • 全日本ジュニア王座
  • 全日本タッグ王座
  • スカイ・ハイ・オブ・アルシオン王座

入場テーマ曲

  • Space-Flying Soldier (完全版全日本女子プロレス選手別テーマ曲集に収録)

チャパリータASARI

 
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山本純也
1963/9/15

読売テレビの元男性アナウンサー。
スポーツ中継全般(全日本プロレス中継→プロレスリング・ノア中継、プロ野球、バレーボールなど。2005年9月29日の阪神タイガース対読売ジャイアンツ戦(甲子園)で阪神優勝の瞬間と岡田彰布監督の胴上げを実況。これがアナウンサー生活として最後の実況となった)

  • 実況を担当した試合の中で特に有名なのが、1997/1/20に大阪府立体育会館で開催された、三沢光晴対小橋健太(現・小橋建太)の三冠ヘビー級選手権試合である。この試合は40分を超える壮絶な死闘となり、試合自体のインパクトと相まって視聴者に強い印象を残した。現在でもこの時の実況は語り種となっている。
    • ただし、この試合では三沢が繰り出したタイガー・スープレックス'85を「タイガー・スープレックス'84」と間違えて実況している。





セオドア・ロング/テディ・ロング
Theodore R. Long/Teddy Long
1955/9/15

アメリカ合衆国のプロレス団体・WWEの番組『SmackDown!』でゼネラル・マネージャーを務める人物である。アラバマ州バーミングハム出身のアフリカ系アメリカ人。

来歴

トミー・リッチ、アブドーラ・ザ・ブッチャーの付き人としてプロレスのキャリアをスタートする。1985年にNWA(ジム・クロケット・プロモーションズ)のスタッフとなり、1988年にレフェリーとしてデビュー。テディ・ロングの名でNWAからWCW時代にかけて悪役レフェリーやヒールのマネージャーとして活躍した。

1999年にWWF(現・WWE)に移籍し、2002年まではレフェリーとして活動。その後RAWに移籍し「黒人の地位向上運動家」のギミックでディーロ・ブラウン、ロドニー・マックなどの黒人選手のマネージャーを務める。以降、クリストファー・ノインスキー、マーク・ヘンリーなどヒールレスラーのマネージャーを歴任した。

その後、マーク・ジンドラックのマネージャーとしてスマックダウンへ移籍。2004年にカート・アングルに代わって同番組のゼネラル・マネージャーとなる(なお、同団体のGMとはストーリー上での役割であり、団体の運営そのものには関わらない)。当初はヒールとして職権を濫用するかに思われていたが、突如ベビーフェイスに転身し、良識あるGMとして番組の規律を守ることに務めた。2007年はクリスタルとの恋愛ストーリーが展開され、スマックダウンにて結婚式を行うまでに至ったが、式はお約束的なハチャメチャなものとなり、自身は心臓発作で倒れるというアングルで長期離脱。復帰してからは、自身の代わりにGMに就任したヴィッキー・ゲレロの補佐役をしぶしぶ引き受けていた。

ヴィッキー・ゲレロがスマックダウンの正式(完全)なGMに就任してからはECWへ移籍、新ゼネラル・マネージャーに就任した。ECWでは新人発掘に力を注ぐGMとして、エヴァン・ボーン、リッキー・オルティズ、ジャック・スワガーらをデビューさせる。その後、スマックダウンとRAW(代行)のGMを兼務していたヴィッキー・ゲレロが正式にRAWのGMに就任したことで、2009年4月からスマックダウンのGMに復帰した(ECWのGMはアシスタントだったティファニーが引き継いだ)。しかし、6月に久々にスマックダウンに登場した会長のビンス・マクマホンにより、(アングル上で)仮採用に格下げされてしまう。

10月のブレーキング・ポイントでのCMパンクとジ・アンダーテイカーの世界ヘビー級王座戦でテイカーの必殺技を禁止し王座奪取を阻止したことにより一時的にブーイングを浴びていたが、その後はベビーフェイス寄りのGMに戻り、償いとしてTLCのチェアーマッチではバティスタのテイカーへのローブローを反則行為とし、テイカーの勝利をアシストした。

基本的にはベビーフェイスとして温厚な人物だが、ブラッギングライツの番組対抗戦ではRAW所属のビッグ・ショーに「チームを裏切ったら世界ヘビー級王座第一挑戦権を与える」と提案するなど、スマックダウンの名誉のためなら手段を選ばない一面もある。

決め台詞は「ホラ・ホラ・ホラ(Holla, Holla, Holla!)」「ヤー・フィール・ミー(Ya feel me?)」「ユー・キャン・ビリーダッ・プレイヤ!(You can believe that, prayer!)」などアフロアメリカン式のアクセントを好んで使用する。

入場曲

  • MacMilitant

マネージャー時代の担当選手

NWA / WCW
  • ジョニー・B・バッド
  • ノーマン・ザ・ルナティック
  • ドゥーム(ロン・シモンズ & ブッチ・リード)
  • ワンマン・ギャング
  • シッド・ビシャス
  • ダニー・スパイビー
  • "ミーン" マーク・キャラス
  • マーカス・バグウェル
  • 2・コールド・スコーピオ
  • クレイグ・ピットマン
  • クリス・ジェリコ
WWE
  • ディーロ・ブラウン
  • ロドニー・マック
  • ジャズ
  • クリストファー・ノインスキー
  • マーク・ヘンリー
  • ロージー
  • マーク・ジンドラック

etc.







アドリアン・アドニス
Adrian Adonis
1953/9/15 - 1988/7/4

Adrian Adonis

キース・フランクKeith Franke)は、1970年代から1980年代にかけて活躍したアメリカ合衆国のプロレスラー。ニューヨーク州ニューヨークシティ出身。リングネームは、正確には「エイドリアン」と発音する。生年は1954年ともされる。

来歴

かつてはアメリカンフットボールの選手として活躍していたが、1974年にジャイアント馬場やタイガー・ジェット・シンの師匠としても知られるフレッド・アトキンスに弟子入りしてプロレス入り。本名をもじったキース・フランクスKeith Franks)を名乗り、金髪の若手ヒールとして売り出す。

若手時代は「賞金王」「ゴールデン・ボーイ」と呼ばれ、試合のたびに多額な賞金を賭けて戦い「俺を破った奴にはこの賞金をプレゼントしよう」と豪語していた。このスタイルで5年程戦ったが、1回も賞金を取られることはなかった(負けたことはなかった)という。

1977年にはNWAのロサンゼルス地区でアメリカス・ヘビー級王座を獲得し、チャボ・ゲレロやザ・ハングマンらと抗争。ロディ・パイパーとのコンビでアメリカス・タッグ王座も奪取し、ミル・マスカラスやアンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦して日本でも注目を浴びた(当時、日本の専門誌では「ース・フランクス」と表記されていた)。その後、アドリアン・アドニスの名前で太平洋岸北西部のPNW(Pacific Northwest Wrestling)に登場、ロン・スターと組んで1979年4月にパイパー&キラー・ブルックスからパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座を奪取している。

1979年の下期よりAWAに参戦し、ジェシー・ベンチュラとタッグチーム『イースト・ウエスト・コネクションEast-West Connection)』(アドニスがニューヨーク=東海岸出身、ベンチュラが自称カリフォルニア=西海岸出身)を結成。このヒール・コンビで大ブレイクを果たし、1980/7/20にはAWA世界タッグ王座を獲得、翌1981/6/14にハイ・フライヤーズ(グレッグ・ガニア&ジム・ブランゼル)に敗れるまで、1年近くに渡ってタイトルを保持した。

1981年の後半にベンチュラと共にWWF入り。両者ともフレッド・ブラッシーを共通のマネージャーに迎え、リック・マーテル&トニー・ガレアやチーフ・ジェイ・ストロンボー&ジュールズ・ストロンボーなどの人気チームと対戦したが、当時は同じヒール陣営のミスター・サイトー&ミスター・フジがWWFタッグ王座に就いていたこともあり、それぞれシングル・プレイヤーとして売り出された。アドニスは1982/1/18と2/15のMSG定期戦においてボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に連続挑戦し、初戦ではバックランドの流血によるレフェリー・ストップで勝利を収めている(タイトルは移動せず)。また、インターコンチネンタル王者のペドロ・モラレスにも再三挑戦した。

1982年7月にWWF経由で新日本プロレスに初来日し、以降も新日本の常連外国人としてIWGPリーグ戦などで活躍。ニューヨーク・ヤンキースの革ジャンが入場時のコスチュームだったため、日本ではアメリカの暴走族のイメージから暴走狼のニックネームが付けられた。1983年3月の来日時は、1シリーズだけだがボブ・オートン・ジュニアとタッグを組む。オートンとのチームは「(初代)マンハッタン・コンビ」と呼ばれ、繰り出した「ハイジャック攻撃」の数々は、後に維新軍団他がコピーして、タッグマッチにおける一大ブームとなる(スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディの「超獣コンビ」の対抗馬とも目された)。

しかし、オートンが諸事情でしばらく来日できなくなったため、同年夏以降はディック・マードックが新パートナーとなる。チームリーダーではなくなったものの、傍若無人な暴走ファイトでアントニオ猪木と藤波辰巳の師弟コンビや維新軍団らと激闘を展開した。北部ニューヨーク出身のアドニスと南部テキサス出身のマードック、出身地も個性も対照的な2人のチームは、後にWWFで『ノース・サウス・コネクションNorth-South Connection)』と呼ばれた。

同時期、アメリカではテキサス州サンアントニオ地区のSCW(Southwest Championship Wrestling)を主戦場に、ボブ・スウィータンとサウスウエスト・ヘビー級王座を巡る抗争を展開。1983/5月/26には、真の世界王者(Undisputed World Heavyweight Champion)を決めるべく新設されたSCW世界ヘビー級王座の争奪トーナメントに出場、決勝で盟友のボブ・オートン・ジュニアを下して初代王者となり、ルー・テーズが保持していたNWA世界ヘビー級王座の旧ベルトを手にした。

1984年からは全米侵攻を開始したWWFと再契約し、マードックとのノース・サウス・コネクションでWWF世界タッグ王座も獲得(1984年4月17日、ロッキー・ジョンソン&トニー・アトラスから奪取)したが、その後は薬物依存とストレス性過食症で極度の肥満に苦しむようになる。コンビ解散後はジミー・ハートをマネージャーにゲイボーイ・ギミックの "アドラブル" アドリアン・アドニス"Adorable" Adrian Adonis)に変身し、LA時代の盟友ロディ・パイパーと抗争。パイパーと仲間割れしたカウボーイ・ボブ・オートンをボディーガードに従え、初代マンハッタン・コンビの再結成も見られたが、アドニスのギミックに合わせオートンもピンク色のテンガロンハットを被るなど、かつての暴走チームの面影は微塵もなかった(また、当時のWWFにはベンチュラも在籍していたが、すでに引退していたためイースト・ウエスト・コネクションが復活することはなかった)。このギミックでは、ザ・フラワー・ショップThe Flower Shop)なるインタビューコーナーのホストも担当している。

1987年の後半にWWFを退団してリハビリ施設に入所、以後は末期のAWAにてポール・E・デンジャラスリーをマネージャーに活動し、1988年5月には新日本プロレスへの久々の来日も実現。元のスタイルに復帰して再起を図っていた矢先の1988/7/4、カナダで自動車事故に遭い、34歳で死去。なお、この時の事故では新日本プロレスの常連外国人の仲間入りをしていた双子のタッグチーム、ケリー・ツインズも死去した。

獲得タイトル

  • NWAアメリカス・ヘビー級王座(ロサンゼルス版):1回
  • NWAアメリカス・タッグ王座:2回(w / ブラック・ゴードマン、ロディ・パイパー)
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座:1回(w / ロン・スター)
  • AWA世界タッグ王座:1回(w / ジェシー・ベンチュラ)
  • SCWサウスウエスト・ヘビー級王座:1回
  • SCW世界ヘビー級王座:1回
  • WWF世界タッグ王座:1回(w / ディック・マードック)

  



ウイルバー・スナイダー
Wilbur Snyder
1929/9/15 - 1991/12/25

米国ユタ州ソルトレイク出身のプロレスラー。日本での愛称は原爆男ウィルバー・スナイダーとも表記される。息子はマイク・スナイダー。

来歴

ユタ州立大学卒業後、NFLのロサンゼルス・ラムズに入団。その後CFLのエドモントン・エスキモーズに在籍、このときのチームメイトにはジン・キニスキーがいた。

  • 1952年 - ロサンゼルスにてヒュー・ニコルズにスカウトされてプロレス入り。
  • 1953/1/11 - ミスター・モトを破ってカリフォルニア・ヘビー級王座を奪取。
  • 1956/4/7 - バーン・ガニアを破りNWA・USヘビー級王座を奪取。
  • 1958年11月 - ネブラスカ州オマハにてバーン・ガニアを破りAWA世界王座を奪取。
  • 1961/5/23 - レオ・ノメリーニと組んでジン・キニスキー、ハードボイルド・ハガディ組を破ってAWA世界タッグ王座を奪取。
  • 1964年1月 - デトロイトでルー・テーズのNWA世界ヘビー級王座に挑戦、60分時間切れ引き分け。この試合を観戦していたジャイアント馬場は、「自分が観戦した試合では一番の名勝負」と後に語っている。
  • 1966年春 - 日本プロレスに初来日し東京体育館にて第8回ワールドリーグ戦で決勝でジャイアント馬場に敗れる。
  • 1967/11/10 - パット・オコーナーと組んでハーリー・レイス、クリス・マルコフ組を破ってAWA世界タッグ王座を奪取。
  • 1969/1/9 - 再来日しダニー・ホッジと組んでジャイアント馬場、アントニオ猪木組(BI砲)を破りインターナショナル・タッグ王座を奪取。
  • 1973年1月 - 全日本プロレス『新春 ジャイアント・シリーズ』に来日。世界選手権(後のPWFヘビー級王座)争覇戦の第5戦・第6戦で馬場と対戦。

ジャイアント馬場は、その実力を高く評価していたが、当時の日本プロレスはスナイダーをあまり評価せず、アメリカでのスナイダーの多忙もあって常連レスラーにはならなかった。その後、馬場が全日本プロレスを旗揚げした後、すぐに招聘している。BI砲はインター・タッグから3回陥落しているが、他の2回がディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキー、ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクというプロレス史上に残る強力チームであるのに対し、スナイダー&ホッジはインター・タッグ奪取以外に大きな実績のない急造チームであり、この二人の強豪ぶりをうかがい知ることが出来る。

引退後はシカゴで余生を送る。1991年白血病で死去。

獲得タイトル

  • AWA世界タッグ(インディアナポリス版): 2回
  • AWA・USヘビー級: 2回
  • NWAインターナショナル・タッグ王座: 1回
  • NWA・東部ヘビー: 1回
  • NWA・USタッグ: 1回
  • NWA・USヘビー(シカゴ版): 2回
  • NWA・USヘビー(デトロイト版): 2回
  • NWA・ビート・ザ・チャンプ・インターナショナル・テレビ: 2回
  • NWA・インターナショナル・テレビ: 4回
  • NWA・USヘビー(サンフランシスコ版): 1回
  • NWA・世界タッグ(テキサス版): 2回
  • WWA世界タッグ: 13回
  • カリフォルニア・ヘビー: 2回
















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