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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
9/16

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ダニー・クロファット
Danny Kroffat
1961/9/16

カナダ・ケベック州モントリオール出身のプロレスラー。本名はフィリップ・ラフォンPhilip Lafond)。

来歴

4年間キックボクシングを経験した後、カナダのジムにてブリティッシュ・ブルドッグスのダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミスにスカウトされ、スチュ・ハートの「ハート・ダンジョン」にてミスター・ヒトのトレーニングを受け1983年にデビュー。フィル・ラフルールPhil Lafleur)やレネ・ルージョーRene Rougeau)などのリングネームを用い、フランス系カナダ人のベビーフェイスとしてカルガリーやマリタイム地区で活動した。

1984年10月、旧UWF『ストロング・ウィークス』への参戦で初来日を果たし(リングネームの表記は「フィル・ラファイアー」)、スーパー・タイガー、前田日明、藤原喜明らを相手にキックとサブミッションで渡り合った。

1980年代中盤からは地元モントリオールのインターナショナル・レスリング(Lutte Internationale)を主戦場とし、1986年8月にトム・ジンクとのコンビでビル・アーウィン&ダニー・ジョンソンからカナディアン・インターナショナル・タッグ王座を奪取。その後、"ダンディ" ダン・クロファット"Dandy" Dan Kroffat)と名乗ってプエルトリコのWWCに参戦、"ハングマン" ボビー・ジャガーズのパートナーとなってカウボーイ・ギミックのヒールに変身し、マーク&クリスのヤングブラッド兄弟とカリビアン・タッグ王座を争った。

1988年10月、ダニー・クロファットの名義で全日本プロレス『ジャイアント・シリーズ』に来日、同時参戦していたダグ・ファーナスと意気投合して『カンナム・エクスプレス』を結成。1989/6/5に日本武道館でサムソン冬木&川田利明(フットルース)を破りアジアタッグ王座を奪取。その後1990/3/2、1991/4/20、同年7/6、1993/9/9、計4度にわたり戴冠し、1990年代前半におけるアジアタッグ戦線の中心チームとなった。

1994/10/5には世界タッグ王座に照準を合わすためにアジア王座を返上したものの、四天王やスタン・ハンセン、スティーブ・ウィリアムスなどのトップ勢には体格差もあり歯が立たず、壁を破れない状態が続いた。シングルでは1993/5/21に札幌、1994/7月/12に鹿児島でいずれも渕正信を破り世界ジュニアヘビー級王座を奪取。以降小川良成らがタイトル戦線に食い込むまで渕に代わる「ジュニアの壁」として君臨した。

1996年10月の『ジャイアント・シリーズ』を最後に全日本を離れ、フィル・ラフォンPhil LaFon)のリングネームでファーナスと共にWWFおよびECWで活動、1997年12月にはフル・ブラッデッド・イタリアンズのリトル・グイドー&トレイシー・スマザーズからECW世界タッグ王座を奪取した。その後ファーナスとのコンビを解消し、メキシコ、カナダのインディー団体を転戦した後、2000年の『世界最強タッグ決定リーグ戦』に藤原喜明とのコンビで参戦して全日本に再登場、2001/1/28の東京ドーム大会にも出場したが、膝の怪我で全盛期の活躍は見られなかった。近年はアルバータ州エドモントンのモンスター・プロレスリングにてトレーナーを務めている。

なお、旧UWF来日時の1984/11/1、新日本プロレスの東京体育館大会におけるアントニオ猪木対ストロング・マシーン2号のシングルマッチの際、カルガリー時代からの間柄である若松市政の要請で覆面を被り、ストロング・マシーン3号に扮して2号のセコンドについたことがある。しかし、新日本プロレスへの登場はこれ1度きりで、ストロング・マシーンとして試合は行なわなかったことを、後にプロレス雑誌のインタビューで答えている。

獲得タイトル

インターナショナル・レスリング
  • カナディアン・インターナショナル・タッグ王座:2回(w / トム・ジンク、アルマンド・ルージョー)
WWC
  • WWCカリビアン・タッグ王座:2回(w / ボビー・ジャガーズ)
  • WWC世界タッグ王座:1回(w / サム・ファトゥ)
全日本プロレス
  • アジアタッグ王座:5回(w / ダグ・ファーナス)
  • 世界ジュニアヘビー級王座:2回
UWA
  • UWA世界タッグ王座:2回(w / ダグ・ファーナス)
ECW
  • ECW世界タッグ王座:1回(w / ダグ・ファーナス)





ハル薗田
1956/9/16- -1987/11/28

本名:薗田 一治(そのだ かずはる)は日本のプロレスラー。宮崎県小林市出身。元FMWの女子レスラー石倉由加利は姪に当たる。

来歴

中学、高校時代は柔道を経験。1974/7/25に全日本プロレス入門、1975/1/15の渕正信戦にてデビュー。大仁田厚、渕正信らと共に若手三羽烏と呼ばれた。初期のリングネームは本名を用いているが、字は草冠なしの「園田」としていた。

1978年4月、短期ながら東南アジア遠征を体験。これは選手個人の海外修行ではなく全日本プロレスの海外興行であった。翌1979年9月からは海外修行を開始、プエルトリコを皮切りにアメリカで活動した。プエルトリコではミツ・イシカワとタッグを組み、ノース・アメリカン・タッグ王座を獲得。アメリカ本土ではマスクマンのマジック・ドラゴンとして活動。フリッツ・フォン・エリックのテリトリーであったテキサス州ダラスに転戦後、ザ・グレート・カブキとタッグを組み活躍した。

帰国後も、ジャイアント馬場の付き人を務めながらマジック・ドラゴンとして活動を続けるが、1985年、小林邦昭とのマスカラ・コントラ・カベジュラ戦で敗北し、マスクを脱いだ。これを機にリングネームをハル薗田に改名。6人タッグなどでメインイベントに出場するなど、所謂バイ・プレイヤーとして活躍。またこの頃より、若手のコーチ役を兼務している。

1987年9月に結婚。しかし2ヵ月後の1987/11/28、新婚旅行を兼ねた南アフリカ遠征の途上で南アフリカ航空295便墜落事故に遭遇、夫婦で事故の犠牲となった。

エピソード

  • 無骨な顔立ちながらその率直な性格が愛され、周囲からは「ゴリ」の愛称でかわいがられた。また、ジャイアント馬場の信頼も厚く、「ゴリに言っておけば、(全日本の)全員に誤解なく伝わる」と薗田を評している。
  • 夫婦揃って南アフリカ航空295便墜落事故に巻き込まれる一因となった南アフリカ遠征は、ジャイアント馬場がタイガー・ジェット・シンの招聘(当時南アフリカでブッカーとしても活動していた)に応えたところから薗田の遠征が決まった。薗田の仲人でもあった馬場は、「新婚旅行も兼ねて」とブッキングし航空券を渡したのは自分であり、この事故から後々に至るまで強い自責の念に駆られたと自伝に残している。なお、本来航空券は東京発パリ経由であったが、相手プロモーターが手違いで台北経由のチケットを送ってきたという。
  • 薗田の事故後、1987/12/16、後楽園ホールで『ハル薗田選手夫妻を偲ぶメモリアル・セレモニー』が開催された。告別の辞を述べたジャイアント馬場は、遺影を前に涙が止まらず絶句した。まずは弟子たちによる追悼試合が行われ、その後10カウントゴングと共に1分間の黙祷が捧げられた。
  • コーチを兼務していた時期に、デビュー前の田上明、北原光輝、小橋建太、菊地毅らを指導している(小橋と菊池は本デビューに先駆け、『ハル薗田選手夫妻を偲ぶメモリアル・セレモニー』で行なわれたバトルロイヤルでデビューしている)。
  • かつての教え子が多く在籍しているプロレスリング・ノアでは、2007年に実施された若手選手のリーグ戦(かつての全日本に於けるあすなろ杯に当たる)は、薗田の遺志を汲み、薗田が乗った飛行機が墜落した場所であるモーリシャスにちなんで「モーリシャス杯」と名付けている。

リングネーム

  • 園田一治、薗田一治
  • マジック・ドラゴン
  • ハル薗田

 
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