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ひなた
1994/9/17

日本の元女子プロレスラー。埼玉県出身。本名は非公開。我闘姑娘に所属していた。

きのこ、あいかと同時期に我闘姑娘に入団。ニックネームは「ぽよんちゃん」。2007/4/28を最後にプロレスを卒業した。

所属

  • 我闘姑娘(2005年 - 2007年)

経歴・戦歴

2005年
  • 8/7、北沢タウンホール大会において、対さくらえみ、春日萌花組戦でデビュー。デビュー戦のパートナーはきのこ、あいか。

タイトル歴

DDTプロレスリング
  • 第232代アイアンマンヘビーメタル級王座

DVD

  • 「史上最強中学生女子プロレスラー ぽよんちゃん 我闘姑娘 ひなた」(アストロシステムジャパン)

 
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蝶野正洋
1963/9/17

日本のプロレスラー。アメリカ合衆国ワシントン州シアトル生まれ、東京都三鷹市育ち。闘魂三銃士の1人。

ARISTTRIST」(アリストトリスト)という、マルティナ夫人をトップとするグッズブランド・個人事務所も持っており、夫人がデザインした黒色のガウン、レッグガード付きロングタイツを試合時に着用。プライベートでも主に黒色の服を着用している。「オレだけ見てりゃいいんだオラ! I AM CHONO!」が決め台詞。

デビューから長らく新日本プロレスに所属していたが、2010年より夫人の経営する事務所であるアリストトリストの所属となり、フリーランスとして活動している。

来歴

大手製紙会社のサラリーマンであった父親の赴任先であるワシントン州シアトルで生まれ、2歳で帰国し、川崎市多摩区、東京都渋谷区を経て三鷹市で育つ。東京都立永山高等学校ではサッカーと暴走行為に明け暮れ、その後「親が大学に行けとうるさいから」との理由で2浪した後に神奈川大学に進学するが、同時期に受けた新日本プロレスの新弟子試験に合格。大学に籍を置いたまま入門し、後に中退する。

1984年4月に新日本プロレスへ入門し、同年10月にプロデビュー(初戦の相手は同じくデビュー戦の武藤敬司)。1987年の第3回ヤングライオン杯で橋本真也を破り優勝し、後にドイツ、アメリカ合衆国へ遠征。ドイツでは現在の夫人であるマルティナ・カールスと出会う。アメリカではテーズ道場に短期滞在し、STFを伝授される(当時、道場にいたセッド・ジニアスが直接教えたという説もあり)。

遠征からの帰国後は武藤敬司、橋本真也とともに「闘魂三銃士」として活躍するものの、人気は武藤と橋本の後塵を拝す。しかし、1991年に新日本プロレスの夏期興行G1 CLIMAXの第1回大会を制したことを契機に注目を浴びるようになる。翌年のG1でも優勝を果たし連覇を達成。「夏男」と呼ばれるようになる。

私生活では1991年にマルティナと結婚。2006年7月に結婚15年目にして第1子となる男児が誕生、2009年8月に第2子となる女児が誕生している。

1994年のG1優勝後、「武闘派宣言」によって入場テーマ曲も変えてヒールターン。黒を基調としたコスチュームに一新し、馳浩を大流血に追い込んだ末出血する頭部を掻きむしりながらのSTFで葬る。テーマ曲など現在まで続くスタイルを確立した。週刊プロレスはこの蝶野を「BLACKJACK」と称した。1995年に天山広吉、ヒロ斎藤とヒールユニット狼群団を結成。1996年に新日本と提携していたWCWに参戦、ハルク・ホーガン率いるnWoに加入し、帰国後にその日本支部としてnWo JAPANを結成。その総帥としてグレート・ムタ(既に武藤敬司として活躍)ら日本人、外国人メンバーを次々と増殖し、「nWo Tシャツ」が大量に売り上げられるなど、一大ムーヴメントを起こし、同年「プロレス大賞MVP」を受賞する。1998/8/8、大阪ドームで藤波辰爾を破り、8回目の挑戦にして遂に悲願のIWGPヘビー級王座初戴冠。しかし首の負傷により、防衛戦を行うことなく王座を返上、長期欠場に入り、メンバーであった武藤に託すが、nWoの実権を完全掌握されて、行き場を失った蝶野は武藤に反発した。

復帰後の1999年、AKIRA、ドン・フライらと共にTEAM 2000を結成。武藤率いるnWoと抗争を開始し、2000年に武藤との決着戦に勝利。nWoを消滅(実際にはWCWとの提携解除に伴いnWoの使用権が消滅したため)させ、nWoの残存勢力を吸収し組織を拡大。同年、所属選手の大半が離脱し、存続の危機に陥った全日本プロレスから渕正信が新日本に登場。蝶野がマイクパフォーマンスで応戦し、対抗戦の口火を切る。単身全日本プロレス日本武道館大会に歴史的参戦。渕とシングルマッチを行い勝利後、「お前ら家に帰ってマスでもこいてろ!」とアピールし全日本ファンを敵に回した。

2001年は武藤率いるBATTと抗争。2002年、札幌大会でアントニオ猪木に指名され、現場責任者に就任。5月2日の東京ドーム大会でプロレスリング・ノアの三沢光晴と初対決。30分ドローに終わる。8月には4度目のG1優勝を果たした。大会後、魔界倶楽部、高山善廣、藤田和之ら外敵との抗争に入り新日本隊に合流し、TEAM 2000は自然消滅。2003年にノアに初参戦、三沢と組み小橋建太&田上明組と対戦。5月の新日本東京ドーム大会では小橋の持つGHCヘビー級王座に左足靭帯損傷の状態で挑戦。敗れるも「ミスタープロレス対ミスタープロレス」と称されたこの試合で蝶野は小橋のハーフネルソンスープレックス6発を受けきって見せ、小橋と共にファンの大喝采を受けた。

2005年にはヒールユニット、ブラックニュージャパン (BNJ) を結成。8月、G1で5度目の優勝を果たし、同年に急逝した橋本真也に優勝を報告した。長州力が新日本に戻ってくると反長州を掲げ抗争を開始。2006年には新日本社長サイモン猪木と抗争を開始する。

2007年1月4日、東京ドーム大会で武藤とタッグを結成して勝利。G1 CLIMAXにおいて真壁に敗北をした後、リング上にて長州、越中、マシン、ライガーを呼び出し、新軍団結成を呼びかけた。

2007年9月1日 - 2日、幕張メッセ国際展示場・11ホールにおいて「蝶野王国2007 in 幕張」を開催。長州力率いる『LOCK UP』、藤波辰爾率いる『無我ワールド・プロレスリング』、新日本プロレスの3団体合同興行となった。これと同時に三田証券と組んでイベントを証券化することも発表された。資金調達の手法としてファンドの活用を行うことはプロレス界にとって初めてのことであった。

2008年から、自身がGM(ゼネラルマネージャー)を務める「PREMIUM」興行を開催。

2009年1月4日、東京ドーム大会でケビン・ナッシュ、カート・アングル、長州力と日米レジェンドタッグを結成し、G・B・Hに勝利を収めた。10月3日、ノア・大阪府立体育会館で行われた三沢光晴追悼興行に参戦。かつて戦った小橋と、GHC王者の潮崎とタッグを結成した。10月12日、蝶野正洋25周年特別興行「ARISTRIST IN 両国国技館」開催。自身は小橋と武藤とタッグを組んでメインイベントに登場して勝利した。

2010年1月4日の東京ドーム大会を最後に、蝶野は首や両膝の治療と本人曰く「体のリビルド」のために長期休養に入った。1/21に自身の25周年記念パーティーを行い、これに先立って行った会見の中で、2010年1月末をもって新日本プロレスを退団し、フリーランスとなった。

2010年11月5日・6日の全日本プロレス台湾興行に参戦。

2011年より師匠であるアントニオ猪木が会長を務める「イノキ・ゲノム・フェデレーション」(IGF)のエグゼクティブプロデューサーに就任することが決まった。なお、IGFでは選手としてはリングに上がらずプロデュースに専念する予定。

2011年3月6日、ZERO1両国国技館大会で行われた橋本真也の息子・大地のデビュー戦の相手を務めた。

人物

  • 遅刻癖があるため本来の集合時間より早い時間を集合時間として伝えることを“蝶野時間”と言われている(PS2版レッスルキングダムクロストークDVDで暴露、収録当日も本来の集合時間より一時間早い時間を伝えられていた)。
  • 1999年12月、夫人との二人三脚のブランド「ARISTRIST」(アリストトリスト)を設立。デザインコンセプトはブラックを基調とし、「ストリート・フォーマル・ファッション」をキーワードにアパレル以外にもサングラスから靴までトータルデザインを手がけている。現在表参道に出店。
  • 2007年10月6日に公開された松竹映画『未来予想図 〜ア・イ・シ・テ・ルのサイン〜』を撮った映画監督・蝶野博は、従兄弟にあたる(蝶野の父の弟の息子とのこと)。
  • ルー・テーズの最後の試合相手である(1990年12月26日、浜松アリーナでシングルマッチで対戦)。
  • 自他共に口ひげがトレードマークと認められてきたが、2011/2/15に行われたジレット製品「FASHION ProGLIDE」のPRにて25年ぶりに剃った。
  • 新日本プロレスで初めて大仁田厚とノーロープ有刺鉄線電流爆破マッチを行ったことで有名だがノーロープ有刺鉄線電流爆破マッチには否定的であり長州力がノーロープ有刺鉄線電流爆破マッチで現役復帰した際、解説席にいた蝶野は開口一番「あんなものはレスラーのやるものじゃない。(長州が)現役復帰したとは認めない」と発言している。

夏男

蝶野は新日本プロレスのシングル最強決定戦であるG1 CLIMAXを5度優勝していることから夏男とも呼ばれる。ベビーフェイス時代に3度、ヒールターンしてからは2度優勝を果たしていて、しかも5回中4回がリーグ戦形式による公式戦を勝ち上がっての優勝である。

  • 第1回(1991年)では、優勝決定戦の進出を橋本真也と争い、決勝の相手は武藤敬司であった。優勝を決めた瞬間、大量の座布団が投げ込まれた。
  • 第2回(1992年)では、第75代NWA世界ヘビー級王座を賭けたトーナメントで当時隆盛を誇っていたWCW勢が大挙して来日し、決勝ではそのリック・ルードを破っての優勝であった。
  • 第4回(1994年)では優勝決定後に「俺がG1男の蝶野だ、覚えておけ!」とリング上で周囲、マスコミ、ファンに叫んだ。
  • 第12回(2002年)では、高山善廣ら外敵と新日勢という構図となり、決勝戦は高山にケンカキックを10連発で叩き込んで優勝を果たした。
  • 第15回(2005年)では、7月に橋本が死去したのを受けて必勝を誓って出場し、公約通りに優勝を果たした。優勝決定後、リング上でのインタビューで橋本に優勝の報告をした。決勝戦での入場では、自身の入場テーマのイントロを「爆勝宣言」に差し替えた物を使用。

テレビ出演

  • 1989/11/14の『笑っていいとも!』テレフォンショッキングに橋本真也の紹介で出演した。お友達の紹介は女優の田中美奈子であった。
  • 『どっちの料理ショー』に出演した際には、空腹で途中から全く喋らなくなってしまい、共演者の松本明子から「蝶野さん!蝶野さん!喋ってくださいよ!『I'm CHONO!!』」と言われた。
  • 『めちゃ×2イケてるッ!』に出演した際には愛猫のピーちゃんと毎日ベッドで寝ていること、奥さんの前でバレエの『白鳥の湖』をよく踊ることを暴露された。
  • 『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』の罰ゲームスペシャル「笑ってはいけないシリーズ」で2007年から2010年にかけて制裁ビンタの執行役として登場した。。
  • 横浜ベイスターズの三浦大輔、鈴木尚典と親交があり、以前はnWo時代を中心に三浦がリングサイドで観戦したり、逆に横浜スタジアムの試合前にnWo軍で激励に行ったりしていた。1998年に横浜ベイスターズが優勝した時は、三浦と鈴木尚はnWoのフェイスペインティングをしてビールかけをした。
  • J sports ESPNで放送中の新日本プロレスSXWなどで実況を務めるフリーアナウンサーの鍵野威史は小学校時代の同級生。
  • 行列のできる法律相談所にゲスト出演。
  • なるほど!ハイスクールにAKB48のロケ出演(不定期)。

入場テーマ曲

「FANTASTIC CITY」
1991年まで使用。作曲はプロレス入場曲を多く手がける鈴木修。
「FANTASTIC CITY '92」
「FANTASTIC CITY」のスローテンポバージョン。1992年から1994年のG1クライマックスまで使用。
「BLACK RAIN」
1994年のG1クライマックスで当初使用していた曲。大会の期間中に再び「FANTASTIC CITY'92」に戻されており、使用期間の非常に短い幻のテーマとなっている。
「クラッシュ〜戦慄〜」
ロイヤル・ハント「MARTIAL ARTS」のタイトル違い。一般的に「CRASH(クラッシュ)」と呼ばれている。現在使用されているパフ・ダディーの「No Way Out」と「VICTORY (NINE INCH NAILS REMIX)」の一部が前奏として付け加えられているバージョンを、特に「AT (ARISTRIST) CRASH」と呼ぶことがある。前奏部分の歌詞は、「Damn. I would have never thought it ever would have been like this.Fuck you all niggaz wanna do!(和訳:クソったれ、こんなになるとは思ってなかった。この野郎、一体何がやりてえんだ)」となっている。テレビ朝日では江頭2:50の登場曲としても使用されることもある。
  • 「nWo CRASH」 - 「CRASH」の前奏部分をnWoジャパン共通の前奏にし、間奏部分に「nWo」などの音声を入れたもの。nWo所属時にのみ使用。
  • 「CRASH 君が代バージョン」 - 「CRASH」の前奏部分を「君が代クラブミックス」(エレクトリックギターベースによる君が代)に変更したもの。東京ドームで行われた大仁田厚とのノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ、女性レスラーであるジョーニー・ローラーとのシングルマッチでの入場時に使用されて、ハマーに乗って登場した。
  • 「HARD CRASH」 - 「CRASH」のハードバージョン。打ち込みサウンド主体・シンセサイザーを効かせた前奏・冒頭の肉声が入らない、などノーマルのCRASHとは一風異なる曲調。蝶野が現場監督を勤めていた一時期のみ使用していた。2003年に参戦したプロレスリング・ノアでも使用した。また、オールスタープロレスリングでも使用されている。
獲得タイトル
  • WWA世界ヘビー級王座 : 1回(第2代)
    • アメリカ遠征中の1988/2/26、ミズーリ州セントジョセフにてマイク・ジョージを破り獲得。
  • NWA世界ヘビー級王座 : 1回(第75代)
    • 第2回G1優勝と共に獲得。日本国外で2度防衛に成功している。1992/9/23のスティーブ・オースチンとの初防衛戦では、(蝶野曰く「変な」)パイルドライバーを受け、古傷の首を悪化させている(ちなみに数年後、オースチンもオーエン・ハートから同じ技を受け首に爆弾を抱えている)。因みにこのベルト保有期間中、UWFインターから挑戦状を叩き付けられた。
  • IWGPヘビー級王座 : 1回(第22代)
    • 8度目の挑戦で初獲得。しかし椎間板セキ椎症を理由に王座返上。以降も3度挑戦するも獲得できず。蝶野にとっては相性の悪いベルトとなっている。
  • IWGPタッグ王座 : 6回(第12・25・28・33・34・43代)
    • 身内の不幸とパートナーの負傷欠場を理由に2度返上をしている。パートナーは武藤敬司→天山広吉で2回→武藤敬司→天山広吉で更に2回獲得。
  • HCWヘビー級王座
  • G1 CLIMAX 優勝 : 5回(1991年・1992年・1994年・2002年・2005年)
    • 最多優勝記録である。このことから蝶野のことを「G1男」「夏男」等と呼ばれる。これに関しては別の節で後述する。
  • SGタッグリーグ優勝 : 1回(1997年)

CD

  • THIS IS CHONO METAL(コンピレーション・アルバム、1999年11月10日発売、TOCP-65295)

CM出演

  • マルちゃんソース焼きそば Wソース(1998年)
  • 産経新聞(1999年)
  • 日本文化センターテレホンショッピング「パワートレーナー」
  • フジボウ 「B.V.D.」(武藤敬司と共演)
  • サントリー マグナムドライ(すべて声のみの出演)
    • 『頼れる男篇』(2003年2月8日 - )
    • 『マグナムグルメ篇』(2003年3月1日 - )
    • 『松井いくぞ篇』(2003年5月15日 - )
    • 『マグナム友情篇』(2003年5月20日 - )
    • 『マグナム秘訣篇』(2003年11月1日 - )
    • 『マグナムクエスチョン篇』(2003年11月1日 - )
    • 『おつかれ篇』(2004年7月10日 - )
    • 『みんなで乾杯篇』(2004年6月18日 - )
  • サントリー -196℃ストロングゼロ<ダブルレモン>
    • 『リングで説教篇』(石原さとみと共演)(2009年2月3日 - )
    • 『記者会見で説教篇』(石原さとみ、武藤敬司と共演)(2010年2月2日 - )
  • サントリー ジョッキ生(2009年10月 - )

商品プロデュース

  • STF弁当(「サークルK」より出品した。)
  • STFおにぎり(同上)

映画・Vシネマ出演

  • ブレイド3(2005年・日本語吹き替え) - グリムウッド (演・トリプルH) 役
  • 監督・ばんざい!(2007年)- 蝶天ラーメン店員A役
  • 大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE(2009年) - 究極生命体レイブラッド星人(声)役
  • BECK(2010年)- 運転手 役
  • 不動 1・2(2011年)- 主演・岸田不動 役

著書

  • 『My bible』ルー出版、1998年、
  • 『烈闘生 傷だらけの履歴書』幻冬舎 増補改訂版版 1999年4月 共著:橋本真也・武藤敬司・蝶野正洋
  • 『Gray zone』蝶野正洋・辻義就 共著、アミューズブックス、1999年、
  • 『胎動』三沢光晴・蝶野正洋 共著、アミューズブックス、1999年、
  • 『Chono bible』蝶野正洋 著、瀬古正二 撮影、BOOKMAN-SHA、2002年、
  • 『白兵武者』蝶野正洋 原案、石渡治 作画、小学館、全12巻
  • 『会社に負けない喧嘩の仕方』ワニブックス、2010年、






ジム・コルネット
Jim Cornette
1961/9/17

アメリカ合衆国のプロレスリング・マネージャー、ブッカー、プロモーター、コメンテーター。本名はジェームズ・マーク・コルネットJames Mark Cornette)。ケンタッキー州ルイビル出身。

1980年代から1990年代にかけて、NWA、WCW、WWF(現・WWE)でヒールのマネージャーとして活躍。1990年代前半は自身の団体スモーキー・マウンテン・レスリングを主宰し、2000年代前半はWWEのファーム団体OVWのオーナーを務めた。近年はTNAやROHで活動している。

来歴
少年時代から筋金入りのプロレスファンで、各地のプロレス番組を視聴するために、3メートルものアンテナを家に取り付けていたという。10代の頃に裏方としてプロレス業界に入り、地元ルイビルを含むケンタッキー州とテネシー州一帯をサーキットエリアとしていたメンフィスのCWAで、リングアナウンサーやタイムキーパー、プロモーション・インタビューの制作などを手掛ける[1]。カメラマン兼任の雑誌通信員としても活動し、日本のプロレス月刊誌『ゴング』(日本スポーツ出版社)にも写真や情報を提供していた。
1982年、CWAを主宰していたジェリー・ジャレット(後のTNA創始者)の発案により、シェリー・マーテルのマネージャーを担当。金持ちのドラ息子でマザコンというキャラクターを与えられ、以降は本格的にマネージャー業に転身する。1984年からはビル・ワットのMSWAでミッドナイト・エクスプレス(ボビー・イートン&デニス・コンドリー)を担当し、その後ダラス地区を経て1985年より彼らと共にジム・クロケット・ジュニアの運営するNWAミッドアトランティック地区に移籍。ママに買ってもらったというテニスラケットを誇らしげに携え、ベビーフェイス勢への罵詈雑言を早口で騒々しくまくし立てるウザさが観客や視聴者のヒートを買い、1980年代のアメリカン・プロレスを代表する悪党マネージャーの1人となった。
ミッドアトランティック地区ではブッカーも兼任していたが、同地区がテッド・ターナーに買収されWCWに移行してからは上層部との軋轢が生じるようになり、1990年11月に当時のWCW副社長ジム・ハードと衝突して退団
。古巣のテネシーに戻り、音楽プロデューサーのリック・ルービンの協力のもと、1991年にノックスビルでスモーキー・マウンテン・レスリング(Smoky Mountain Wrestling)を旗揚げした。同団体はファンタスティックスやロックンロール・エクスプレスなど旧NWA勢を主軸に据えつつ、アル・スノー、グレン・ジェイコブズ、ボブ・ホーリー、ディーロ・ブラウン、クリス・ジェリコ、ランス・ストーム、ニュー・ジャック、クリス・キャンディード、タミー・リン・シッチなどの新しい才能を育て、彼らの飛躍の場ともなった。しかし財政面で苦戦を続け、1993年にWWFと業務提携を開始(同時期、ジェリー・ローラーのUSWAもWWFと提携を結んでいる)。コルネットもヘブンリー・ボディーズ(トム・プリチャード&ジミー・デル・レイ)のマネージャーとして、同年よりWWFのリングに登場した。
1996年の団体閉鎖後はWWFとフルタイム契約を結び、ベイダーらのマネージャーを担当する一方、ブッカーとしてクリエイティブ・チームにも参画。1997年からはカラー・コメンテーターも兼任し、1998年にはロックンロール・エクスプレスやバリー・ウインダムら1980年代のNWAのスターを集め、WWF対NWAの抗争アングルを仕掛けた。以降はプロデュース業務に専念し、2000年より地元ルイビルの下部団体OVWのヘッドブッカー兼オーナーを任される。ジョン・シナ、バティスタ、ランディ・オートンをはじめ数々のスーパースターを輩出したが、2005年7月にアンソニー・カレッリとバックステージで口論を起こし、彼を殴打したことによりオーナー職を解かれWWEを解雇された。現在WWEからは離れているものの、リック・フレアーやリッキー・スティムボートなど様々なオフィシャルDVDのインタビューには登場している。
その後ROHを経て、2006年6月18日よりTNAに登場。番組内で「マネージメント・ディレクター」を演じつつ、ストーリーの立案にも関わった。なお、ジェリー・ジャレットのCWAで働いていたコルネットはジェフ・ジャレットのことをローティーンの頃から知っており、WWFで彼のマネージャーを務めていたこともある。
2009年9月にTNAとの契約を解除され(WWFやWCWのシナリオライターだったビンス・ルッソーのヘッドブッカー起用など、TNAの新方針に不満を持っていたことが原因とされる)、以降はエグゼクティブ・プロデューサーとしてROHに復帰した。ROHとOVWの業務提携により、2010年9月からはOVWのヘッドブッカーにも再び就任している。
関連人物
ポール・ヘイマン
ヘイマンがマネージャー時代に手本としていたのがコルネットであり、共に資産家のバカ息子という設定で、コルネットのテニスラケットに対しヘイマンは携帯電話を小道具にしていた。裏方やマスコミの仕事を通してプロレス業界に入り、ヒールのマネージャーを経て自らの団体を興し、その才能をビンス・マクマホンに見込まれWWEのクリエイティブ・スタッフとなった経緯まで、ことごとく両者は共通している。また、2005年にコルネットがOVWのオーナー職を解かれてからは、ヘイマンが同団体のチーフ・ブッカーを後任した。1980年代末のNWA時代、両者はマネージャー同士の抗争を展開している(1989年7月のグレート・アメリカン・バッシュでは、両者によるタキシード・マッチが行われた)。その際ヘイマンはコルネットに「お前の職を奪ってやる」などと挑発しており、10数年を経てそれが現実に起こった形となったが、その後ヘイマンもWWEを解雇された。なお、コルネットはTNA参戦時の記者発表でヘイマンについて、人間的には感心できないが彼の才能は認めている旨の発言をしている。





ワイルド・ビル・アーウィン
"Wild" Bill Irwin
1954/9/17

アメリカ合衆国の元プロレスラー。本名はバーニー・ウィリアム・アーウィンBarney William Irwin)。ミネソタ州ダルース出身(ジョージア州アトランタ出身ともされる)。

西部のアウトローをイメージしたカウボーイ系ヒールとして、テキサス州ダラス地区を主戦場に活動した。兄のスコット・アーウィンとのタッグチーム、ロング・ライダーズThe Long Riders)での活躍も知られる。

来歴

デビュー後の1970年代後半は、ジム・バーネットの主宰するジョージア・チャンピオンシップ・レスリングで活動。アブドーラ・ザ・ブッチャー、スタン・ハンセン、アーニー・ラッド、マスクド・スーパースター、イワン・コロフ、オレイ・アンダーソン、リック・フレアーなどの大物ヒールのジョバーを務めながら、ラフファイターとしてのキャリアを積んだ。

1979年より中西部のNWAセントラル・ステーツ地区に転戦し、翌1980年1月に全日本プロレスの『新春ジャイアント・シリーズ』に初来日。ビル・ロビンソン、ブルーザー・ブロディ、アンジェロ・モスカが外人勢の主力となった同シリーズにおいて、同じく初来日のダッチ・マンテルと共に荒削りながらイキのいいラフファイトを披露、以降も全日本には度々来日することとなった。

1980年の下期からは、試合スタイルの荒っぽさから当時「無法地帯」と呼ばれていたテネシー州メンフィスのCWAに参戦。ジミー・ハート率いるヒール軍団「ファースト・ファミリー」に加入してジプシー・ジョーやキラー・カール・クラップともタッグを組み、ジェリー・ローラー、ビル・ダンディー、ジミー・バリアントらと流血の喧嘩試合を繰り広げた。同年8/11には、バリアント、ポール・エラリング、エディ・ギルバート、ソニー・キング、リッキー・モートンなど8選手が参加のワンナイト・トーナメントに優勝し、AWA南部ヘビー級王座を獲得している。

1981年の末よりテキサス州ダラスのWCCWに進出し、アンドレ・ザ・ジャイアントともシングルで対戦。1982年9月にはキングコング・バンディと組んでケビン&ケリー・フォン・エリックを破りNWAアメリカン・タッグ王座を獲得したが、11月にファビュラス・フリーバーズに奪取されている。以降もWCCWを主戦場に、1983年下期からはスカンドル・アクバをマネージャーに覆面レスラーのスーパー・デストロイヤー2号Super Destroyer #2)に変身、1号の兄スコット・アーウィンとのスーパー・デストロイヤーズで活動した。

1984年下期、ハーレーダビッドソンにまたがったバイカー系タッグチームのロング・ライダーズThe Long Riders)をスコットと結成。ジョージア地区を経て、1985年よりミネアポリスのAWAに参戦。ロード・ウォリアーズやスコット・ホール&カート・ヘニングと抗争を展開した。同年9/28にシカゴのコミスキー・パークで行われたビッグイベント "SuperClash" ではハーリー・レイスとトリオを組み、日本から遠征してきたジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、天龍源一郎のチームと対戦している。

スコットが病気のためリングを離れた1986年の下期からはカウボーイ・スタイルのシングル・プレイヤーに戻り、古巣のWCCWやビル・ワット主宰のUWF、初期のWCWなどを転戦(スコットは1987年9月に死去)。1989年11月には、WCCW時代の盟友テリー・ゴディのパートナーとして全日本プロレスの『世界最強タッグ決定リーグ戦』に来日。戦績は芳しくなかったものの、牛追い鞭を振り回してスタン・ハンセンに喧嘩を売るなど変わらない無法ぶりを見せた。

1990年代前半はWCCWの実質的な後継プロモーションであるダラスのGWFで活動。1996年からはアイスホッケーのダーティー・プレイヤーをギミックとしたザ・グーンThe Goon)を名乗り、WWFのミッドカードに単発出場。エルボーイングやチャージングなどホッケーの反則行為を攻撃手段に、ベテランのジョバーとなってジ・アンダーテイカーとも対戦した。

1999年6月と2000年9月には日本のインディー団体「世界のプロレス」に来日。以降もダラスのインディー団体に参戦しつつ、ザ・グーンのキャラクターでWWEに時折登場しており、2001/4/1の "WrestleMania X-Seven" のギミック・バトルロイヤルや、2007/12/10の "RAW 15th Anniversary" でのスペシャル・バトルロイヤルなどに出場した。

近年はホームタウンのミネソタ州ダルースにてレスリング・スクールを運営していると伝えられている。

獲得タイトル

NWAセントラル・ステーツ
  • NWAセントラル・ステーツ・タッグ王座:1回(w / ブライアン・セント・ジョン)
CWA
  • AWA南部ヘビー級王座:1回
  • AWA南部タッグ王座:1回(w / ラリー・レイザム)
WCCW
  • NWA世界タッグ王座(テキサス版):2回(w / フランク・デュセック、バグジー・マグロー)
  • NWAアメリカン・タッグ王座:5回(w / キングコング・バンディ、スーパー・デストロイヤー1号×3、スコット・アーウィン)
  • NWAテキサス・ヘビー級王座:1回
  • WCCW TV王座:4回
GCW
  • NWAナショナル・タッグ王座:1回(w / スコット・アーウィン)
Lutte Internationale
  • カナディアン・インターナショナル・タッグ王座:1回(w / スコット・アーウィン)
UWF
  • UWF世界タッグ王座:1回(w / "バッド・バッド" レロイ・ブラウン)
GWF
  • GWFブラスナックル王座:1回
  • GWFタッグ王座:1回(w / ブラック・バート)

  



ブルドッグ・ブラワー
Bulldog Brower
1933/9/17 - 1997/9/15

アメリカ合衆国のプロレスラー。本名はリチャード・グランドRichard Gland)、デラウェア州ウィルミントン出身。

来歴

カイロプラクティックのスクールを中退後、1950年代末にプロレスラーとしてデビュー。人の体を治す立場から一転して壊す立場となり、デラウェア・デストロイヤーThe Delaware Destroyer)の異名を持つ巨漢ヒールとなってカルガリーやトロントなどカナダの主要テリトリーで活動。トロントではジョニー・バレンタインと組み、1963年2月にブルーノ・サンマルチノ&ホイッパー・ビリー・ワトソンからNWAインターナショナル・タッグ王座を奪取した。

1960年代半ばよりニューヨークのWWWFに参戦し、1966/11/7にマディソン・スクエア・ガーデンにてブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦。1968年1月にはTBSプロレス時代の国際プロレスに初来日している(同時参加はルー・テーズ、ダニー・ホッジ、ワルドー・フォン・エリックなど)。

以降はアメリカ北東部や五大湖エリアを主戦場に、NWFでは1969年から1970年にかけて、ジョニー・パワーズやアーニー・ラッドと北米ヘビー級王座を巡る抗争を展開。NWAのデトロイト地区ではザ・シークと流血戦を繰り広げた。1972年2月にはエース格として日本プロレスに参戦、ジャイアント馬場のインターナショナル・ヘビー級王座に挑んでいる。1970年代前半は南半球にも度々遠征し、オーストラリアではスパイロス・アリオンとタイトルを争った。

1975年、エディ・アインホーンがミル・マスカラスを世界王者としてアメリカ北東部で旗揚げしたIWAに参戦。ビンス・マクマホンの対抗勢力に協力することとなったが、IWAの崩壊後はキャプテン・ルー・アルバーノをマネージャーにWWWF / WWFに再登場。1979/4/30のMSG定期戦ではボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦した。

1980年にWWFを離れてからはプエルトリコのWWCに登場し、同年4月にルーク・グラハムと組んでNWA北米タッグ王座を獲得している。その後は1983年10月、デトロイトで行われたNWAアメリカン・タッグ王座(フリッツ・フォン・エリックの主宰するテキサス州ダラス地区のタイトル)争奪トーナメントにてロディ・パイパーとのコンビで優勝、チャンピオン・チームに認定された。

1980年代末に現役を引退し、糖尿病との闘病を続けていたが、1997年9月15日、股関節手術後の合併症により死去した。63歳没。

獲得タイトル

  • NWF北米ヘビー級王座:2回
  • NWAインターナショナル・タッグ王座(トロント版):5回(w / スウィート・ダディ・シキ、ジョニー・バレンタイン、ドクター・ジェリー・グラハム、ホイッパー・ビリー・ワトソン×2)
  • NWAオーストラ・アジアン・ヘビー級王座:1回
  • NWA英連邦ヘビー級王座(ニュージーランド版):1回
  • NWA北米タッグ王座(プエルトリコ版):1回(w / クレイジー・ルーク・グラハム)
  • NWAアメリカン・タッグ王座:1回(w / ロディ・パイパー)
















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