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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
9/18

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マイク・パイル
Mike Pyle
1975/9/18

アメリカ合衆国の総合格闘家。テネシー州出身。エクストリーム・クートゥア所属。元WEC世界ウェルター級王者。グラップリングで短時間でサブミッションを極める様からクイックサンド(流砂)の異名を持つ。

来歴

テネシー州ドレスデンで育つが、当時ドレスデンには総合格闘技のジムが存在しなかった。17歳で家を出てアラバマ州バーミンガムに移住し、おじが経営する機械屋で機械工として働き始めた。バーミンガムではテコンドーを始めたが、その後に友人から借りたブラジリアン柔術の教則ビデオを熱心に研究した。

1999年11月13日、プロ総合格闘技デビュー戦となるISCFでクイントン・ジャクソンと対戦し、判定負け。205ポンドのジャクソンに対し、パイルは175ポンドで試合に臨んでいた。

2002年7月13日、ジョン・フィッチと対戦し、チョークスリーパーで一本勝ち。

2003年4月6日、M-1でアンドレイ・シモノフと対戦し、ドロー。

2005年10月14日、WEC 17のウェルター級王者決定戦でブレット・バーグマークを三角絞めで下し、第4代WEC世界ウェルター級王者となった。

2006年、IFLに参戦し、ロサンゼルス・アナコンダスに所属。シーズン通算成績は1勝2敗であった。

2008年5月18日、戦極初参戦となった戦極 〜第二陣〜でダン・ホーンバックルと対戦し、三角絞めで一本勝ち。7月19日、Affliction旗揚げ戦Affliction: BannedでJ・J・アンブローズと対戦し、チョークスリーパーで一本勝ち。

2009年5月23日、UFC初参戦となったUFC 98でブロック・ラーソンと対戦し、肩固めで一本負け。

2009年9月16日、UFC Fight Night: Diaz vs. Guillardでクリス・ウィルソンと対戦し、ギロチンチョークで一本勝ち。UFC初勝利となった。

2010年1月2日、UFC 108でジェイク・エレンバーガーと対戦し、パウンドでTKO負け。6月12日、UFC 115でジェシー・レノックスと対戦し、三角絞めで一本勝ち。

2010年10月16日、UFC 120でジョン・ハザウェイと対戦し、3-0の判定勝ち。ハザウェイは初黒星となった。

獲得タイトル

  • 第4代WEC世界ウェルター級王座(2005年)





リスマルク
Lizmark
1949/9/18

メキシコ・ゲレーロ州アカプルコ出身の覆面レスラー。ニックネームは『アカプルコの青い翼』。実の子はリスマルク・ジュニア(エル・イホ・デル・リスマルク)

来歴

ベラウリオ・メンドーサに師事し、1976/3/14に地元アカプルコでデビュー。1979年4月、アメリコ・ロッカを破りナショナル・ウェルター級王座奪取。1980年6月、エル・スプレモを破りNWA世界ウェルター級王座奪取、1982年2月、サタニコを破りナショナル・ミドル級王座、1983年6月、同じくサタニコからNWA世界ミドル級王座、エル・サントに続くウェルター、ミドルの2階級およびナショナル、世界両制覇を成し遂げる。

1984年1月、全日本プロレスに初来日(全日本プロレス正月興行恒例のバトルロイヤルで優勝)。1980年から3年連続最優秀空中ファイター賞、1983年と1984年には年間最高人気選手を各受賞。1988年3月、シエン・カラスを破りNWA世界ライトヘビー級王座奪取しNWA3階級制覇。1992年8月にAAA入り。同年9月18日、地元でウニベルソ・ドスミルを破りナショナル・ライトヘビー級王座を獲得しナショナルの3階級制覇。

1995年よりCMLLに復帰。1996年9月に同じく地元でアトランティスと組んでCMLL世界タッグ王座奪取。1997年2月にはCMLL JAPANに2度目の来日、同年4月、メキシコシティにてミステル・ニエブラ、アトランティスと組んでCMLL世界トリオ王座を獲得、2000年、再度親子で来日。2003年6月、AAAに移籍。その後は長期欠場の末、2005年4月にCMLLに登場。

獲得タイトル

  • ゲレーロウェルター級王座
  • ゲレーロタッグ王座
  • NWA世界ライトヘビー級王座
  • NWA世界ミドル級王座
  • NWA世界ウェルター級王座
  • ナシオナルライトヘビー級王座
  • ナシオナルミドル級王座
  • ナシオナルウェルター級王座
  • WWA世界ライトヘビー級王座
  • CMLL世界タッグチーム王座
  • CMLL世界トリオ王座

リスマルクvsウルトラマン・セブン
新春恒例ヘビー級バトルロイヤル
リスマルクvsマッハ隼人/2/2

 
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ビル・ロビンソン
Bill Robinson
1939/9/18

イギリス・マンチェスター出身の元プロレスラー。「ビリー・ライレージム」(通称:Snake pit、蛇の穴)出身。「人間風車」「ヨーロッパの帝王」の異名を持つ。

テーマ曲は「人間風車」の別名が付いているが、原曲は『ブルー・アイド・ソウル』である。後年、川田利明もこの曲をハッスルK時代のテーマ曲に使用しており、『燃えよドラゴン』の冒頭部に続けて流していた。

来歴

少年時代からレスリングやボクシングなどの練習に打ち込み、1954年「ビリー・ライレージム」に入門し、先輩のビリー・ジョイスらと共に厳しいトレーニングを積み1959年レスリングデビュー、1963年プロレスラーとなった。自伝(『高円寺のレスリングマスター』)によると、13歳のときに友人の投げたブリキの看板が目をかすめ半年間入院し眼球のレンズの部分が損傷しボクサーへの道が閉ざされた、とある。この関係か片方の目が義眼との説がある。

1960年代は世界中のリングを廻り、1967年1月大英帝国ヘビー級王座を獲得。1968年4月に国際プロレスのリングで初来日を果たした。同年11月に行われた第1回IWAワールド・シリーズで優勝、初代IWA世界ヘビー級王者に認定された。またレスリングの腕を買われ国際プロレスのコーチ役となり、半年間日本で生活したこともある。その後国際プロレスでは外国人ながらエース格の扱いを受けたが、日本プロレス史上外国人がエース、ベビーフェイスになったのはロビンソンが最初であった。1970年にサンダー杉山に敗れてIWA王座から陥落、1974年に返り咲いている。 また1971年のIWAワールドシリーズでは「蛇の穴」の先輩・カール・ゴッチと何度も対戦し、そのクリーンファイトは人気を博した。この時にはモンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)とも対戦している。 バーン・ガニアが国際プロレスを訪れて、ロビンソンをはじめヨーロッパレスラーにアメリカでの道(特にガニアの団体であるAWA)を開いたことで、ロビンソンもアメリカで本格的に活動するようになった。AWAにおいてもロビンソンはコーチ役となり、リック・フレアー、アイアン・シークなどが教えを受けている。しかしシングルのタイトル戦線に絡むことはあまりなかった。

1975年には新日本プロレスに登場。12/11に蔵前国技館で行われたアントニオ猪木とのNWF世界ヘビー級選手権試合(1-1、60分時間切れ引き分け)は伝説的な名勝負となっている。しかし、ギャラを巡るトラブルから新日本参戦はこの一度だけに終わった。ロビンソンによると、新日本が約束したギャラを値切ってきたので不信感を覚えて新日本と手を切ることにしたという。

1976年7月には全日本プロレスに移り、引退まで参戦した(彼が日本で最も長く参戦していたのは全日本である)。しかし、技術を披露する機会はあまり無く、それに加えロビンソン自身のコンディションは落ちていて(体を隠すためかコスチュームもトランクスからレスリングスタイルの吊りパンツに変わっていた)、全盛期の動きからは遠ざかっていた。

1976/7/24のジャイアント馬場とのPWFヘビー級選手権はスコア2-1で敗退したが、これが日本におけるロビンソンの初2フォール負けであった。映像が残っているが、お互いにダブルアーム・スープレックスや十六文キックを受けようとせず相手を引き立たせようとしない様子がはっきり現れている。

その後はジャンボ鶴田からUNヘビー級、キラー・トーア・カマタからPWFヘビー級タイトルを獲得しているものの、馬場は後年ロビンソンのことを問われ、「そんな奴もいたなあ」程度のコメントをした。また、誇り高きロビンソンは馬場に2フォールを取られたことを不本意に思っているらしく、「フォールを取る気ならいつでも取れた」と語っている。

世界最強タッグ決定リーグ戦やチャンピオン・カーニバルにも出場しているが、目立った戦績は乏しかった(もっともチャンピオン・カーニバルは引退3年前の1982年が唯一の参加である)。ただ、鶴田やドリー・ファンク・ジュニアとの対戦は名勝負として語り伝えられている。また、アブドーラ・ザ・ブッチャーとの抗争ではラフファイトにも強い一面を見せた。1984年にAWA世界ヘビー級王者としてアメリカ遠征したジャンボ鶴田に挑戦したが、敗退している。

1985年10月、持病の膝の怪我がもとで現役を引退(得意技のワンハンド・バックブリーカーで痛めたと言われている)。ガードマンなどの職に就いていたが、1992年、UWFインターナショナルのコーチに就任。再び養った技術を伝道するようになる(ニック・ボックウィンクルとのエキシビション・マッチを披露したこともある)。現在は、宮戸優光が主宰する(宮戸は猪木戦を見たことがプロレスを志すきっかけとなった)U.W.F.スネークピットジャパンのヘッドコーチ。

現在は高円寺に定住し、骨を埋める覚悟で後進の指導に当たっている。1999年8月放送の『タモリ倶楽部』では、ジョーダンズ・久住昌之・こずえ鈴らと共に高円寺界隈に引越しの挨拶回りをする様子が放送された。

評価・他のレスラーに対するコメント

技の切れやスピード、隙なく妥協のない、けれんみのないレスリングは、当時世界最高と喧伝され、昭和のプロレスにおいて、ルー・テーズ、カール・ゴッチ、ロビンソンを含めた3人を「ストロングスタイル3強」と語り継がれる強豪であった。しかし、ゴッチ等と同様、主要世界タイトルには縁がなく、AWA王者の時期有力候補と言われながら、遂に果たすことが出来なかった(以外にダニー・ホッジ、ローラン・ボック、ジョージ・ゴーディエンゴ等)。本人はイギリスの蛇の穴こと、ビリー・ライレージム修行時代のビリー・ジョイスが最強であったと語っている。また、これまで戦った日本人レスラーのうち、アントニオ猪木が最も手ごわかったと語っている。

主なタイトル

  • 大英帝国ヘビー級王座
  • IWA世界ヘビー級王座(初代)
  • IWA世界ヘビー級王座(オーストラリア版)
  • AWA世界タッグ王座(w / バーン・ガニア、クラッシャー・リソワスキー)
  • PWFヘビー級王座
  • UNヘビー級王座
  • CWA世界ヘビー級王座
  • NWA南部ヘビー級王座(フロリダ版)





吉葉礼子
1937/10/11 - 2008/9/18

女子プロレス黎明期に活躍した元女子プロレスラー。本名:田口禮子(旧姓:松永)。元全日本女子プロレス会長の松永高司はひとつ上の兄。妹の山口洋子、長女の影かほるも元女子プロレスラー。東京都目黒区出身。

人物

兄たちから柔道を習い、1955年に猪狩定子らを擁する全日本女子プロ・レスリング協会(全日本女子プロレス興行とは別団体)に入門。リングネームは当時の人気横綱であった吉葉山から取って付けられた。

1956年1月、日大講堂で全日本バンタム級王者の立花蓉子に挑戦しドロー。

1960年に一度引退。マネージャーとして巡業を回っていた。

1968年、兄が全日本女子プロレスを旗揚げすると、短期間ながら選手復帰を果たす。引退後は全女ではマネージャーとして全盛期を支えた。

退社後に結婚して1男2女を儲け、長女は影かほるのリングネームで母と同じ道を歩んだ。

2008年9月18日19時3分、肺がんにより死去。70歳没






ジョン・トロス
John Tolos
1930/9/18 - 2009/5/28

カナダ・オンタリオ州ハミルトン出身のプロレスラー。ザ・ゴールデン・グリークThe Golden Greek)の異名を持つギリシャ系カナダ人のヒールとして活躍した。

日本では、1971年にアントニオ猪木がユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座を奪取した相手として知られる。

来歴

デビュー時から兄のクリス・トロスとのタッグチームで活動し、1953/10/27にアメリカ西海岸のサンフランシスコ地区にてラモンとエンリキのトーレス兄弟からNWAパシフィック・コースト・タッグ王座を奪取。ロサンゼルスのWWAでは同じカナダ出身のジン・キニスキーのパートナーに起用され、1954年10月13日にボボ・ブラジル&ウイルバー・スナイダーを破りWWAインターナショナルTVタッグ王座を獲得している。

以降も1950年代半ばから1960年代後半にかけて、10年以上に渡りクリスとの兄弟タッグで北米の主要テリトリーを転戦。カルガリー、トロント、バンクーバー、オハイオ、インディアナ、デトロイト、フロリダなど各地のタッグタイトルを総なめにした。ニューヨークのWWWFにも参戦し、1963/12/28、ニュージャージーにてゴリラ・モンスーン&キラー・コワルスキーからWWWF USタッグ王座を奪取。また、1968年5月には単身で日本プロレスに初来日している。

1970年代に入るとロサンゼルス地区(NWAハリウッド・レスリング)を主戦場に、シングルプレイヤーとなって活躍。1970/11/20にパンテラ・ネグラを下し第3代のユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王者となる。12月にレイ・メンドーサに敗れ王座から陥落するも、翌1971年に再び戴冠。同年3/26、日本から遠征してきたアントニオ猪木に敗れベルトを日本に流出させたが、6週間後の5月7日にはフレッド・ブラッシーを撃破し同地区の看板タイトルであるアメリカス・ヘビー級王座を獲得した。以後1976年にかけて、キラー・コワルスキー、ビクター・リベラ、パク・ソン、グレッグ・バレンタインらを破り、同王座を再三獲得。ミル・マスカラスやアーニー・ラッドとも王座を賭けた抗争を繰り広げ、トップ・ヒールとしてLAマットに君臨した。

この間、1973年1月に新日本プロレスに来日。猪木との因縁の対決が話題を呼んだ(新日本には同年10月にも再来日)。また、WWWFのMSG定期戦にもゲスト・ヒールの立場で時折出場しており、1974/7/22の定期戦ではブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦している。1975年にはフリッツ・フォン・エリックの主宰するテキサス州ダラスのNWAビッグタイム・レスリング(後のWCCW)に参戦し、アル・マドリルやピーター・メイビアを相手にテキサス・ヘビー級王座を巡る抗争を展開した。

1977年から1978年にかけてはハワイに定着し、ベビーフェイスとして活動。同地区の人気スターだったビリー・フランシスらとコンビを組み、ジェシー・ベンチュラ&スティーブ・ストロング、バディ・ローズ&ビッグ・ジョン・スタッドなどのチームとタッグ王座を争った。1979年3月には国際プロレスに来日し、ラッシャー木村のIWA世界ヘビー級王座に挑戦。その後はテキサスのアマリロ地区を経て古巣のロサンゼルス地区に戻り、1980年にウォルター・ジョンソン、1981年にクリス・アダムスを破りアメリカス・ヘビー級王座に返り咲いたが、これが最後のタイトル載冠となり、1984年に正式に引退した。

引退後は1986/10/9に両国国技館で行われた猪木対レオン・スピンクスの異種格闘技戦(『INOKI闘魂LIVEパート1』)にジャッジの1人として来日。アメリカでは久しくプロレスリング・ビジネスから離れていたが、1990年にカリフォルニア州マリナ・デル・レイのUWF(ハーブ・エイブラハム主宰)にてカウボーイ・ボブ・オートンやカクタス・ジャックのマネージャーとして業界に復帰した。1991年にはミスター・パーフェクトのトレーナー兼マネージャーのコーチCoach)を名乗りWWFに登場している。1992年9月にはFMWの横浜スタジアム大会に来日し、往年の宿敵キラー・コワルスキーとのエキシビション・マッチを行った。

晩年はロサンゼルスのウッドランドヒルズに在住し、心臓発作・脳梗塞との闘病生活を送っていた。2009年5月28日、腎不全により死去。78歳没。

獲得タイトル

NWAハリウッド・レスリング(ロサンゼルス)
  • NWAアメリカス・ヘビー級王座:10回
  • NWAアメリカス・タッグ王座:5回(w / グレート小鹿、Louie Tillet、Rock Riddle、チャボ・ゲレロ、ジ・アサシン)
  • NWAビート・ザ・チャンプTV王座:3回
  • NWAブラスナックル王座(ロサンゼルス版):3回
  • NWAユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座:2回
NWAオールスター・レスリング(バンクーバー)
  • NWAパシフィック・コースト・ヘビー級王座:1回
  • NWAカナディアン・タッグ王座:7回(w / トニー・ボーン×2、クリス・トロス×2、ブラック・テラー、ダッチ・サベージ、ドン・レオ・ジョナサン)
  • NWA世界タッグ王座(バンクーバー版):3回(w / トニー・ボーン、クリス・トロス×2)
NWAビッグタイム・レスリング(ダラス)
  • NWAテキサス・ヘビー級王座:2回
  • NWAテキサス・タッグ王座:1回(w / デューク・ケオムカ)
NWAミッドパシフィック・プロモーションズ(ハワイ)
  • NWAハワイ・ヘビー級王座:1回
  • NWA北米ヘビー級王座(ハワイ版):1回
  • NWAハワイ・タッグ王座:2回(w / ビル・フランシス、スティーブ・ストロング)
NWAその他
  • NWAパシフィック・コースト・タッグ王座(サンフランシスコ版):1回(w / クリス・トロス)
  • NWAインターナショナル・タッグ王座(カルガリー版):1回(w / クリス・トロス)
  • NWAインターナショナル・タッグ王座(トロント版):3回(w / クリス・トロス)
  • NWA世界タッグ王座(フロリダ版):1回(w / クリス・トロス)
  • NWA世界タッグ王座(デトロイト版):1回(w / クリス・トロス)
  • NWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座(アマリロ版):1回(w / ミスター・サトー)
WWA
  • WWAインターナショナルTVタッグ王座:1回(w / ジン・キニスキー)
WWWF
  • WWWF USタッグ王座:1回(w / クリス・トロス)

  

















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