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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
9/19

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今日は何の日?


高山善廣
1966/9/19

日本のプロレスラー。東京都墨田区出身。東海大学付属相模高等学校、東海大学文学部文明学科卒業。個人事務所・高山堂所属。
学生時代にはラグビーをしていて、湘南でライフガードのアルバイトをしていた、
元ライフセイバー。ダイナミックなレスラーであり、数少ない現役「長身日本人レスラー」の一人。

試合に対する分析力と笑いの要素も含めた会話の能力も優れているため、
プロレスリング・ノア中継のレギュラー解説者であり、またワールドプロレスリングなどでも
ゲスト解説を務めることがある。また、2006年からは、UFCを中継する日テレG+の番組
(現在は放送終了)にも解説者として出演していた。

来歴

Uインター時代

大学卒業後、フジサンケイグループでサラリーマン生活を送っていたが、プロレスラーの夢を捨てられずUWFインターナショナルに入門。練習の厳しさに耐えかねて一旦は夜逃げするも、ライフガードのアルバイト中にUインターの先輩・宮戸優光と再会し、再入門を果たす(なお、第2次UWFの入団試験に合格した経験も持っている)。1992年6月、金原弘光戦でデビュー。

1995/10/9に始まったUインターvs新日本プロレスの対抗戦の流れから、安生洋二、山本健一(現:山本喧一)と「ゴールデン・カップス」を結成。

8月17日、Uインター神宮球場大会で行われたバーリトゥード戦でキモと対戦し、チョークスリーパーで一本負け。

9/11、Uインター神宮球場大会で全日本プロレスの川田利明との対戦が実現するも、ジャンピング・ハイキックで敗れる。

12月のUインター解散後、Uインター関係者が立ち上げた受け皿団体・キングダムに移籍する。

全日本時代

1997年3月、前年に敗れた川田利明を追い、フリーランスとして全日本プロレスに参戦。ゲーリー・オブライトと組んで、メインイベントで川田、田上明組の世界タッグに挑戦するも敗れる。

1999年5月、後追いで参戦していた垣原賢人と共に、全日本プロレスの正式所属選手となる。大森隆男・浅子覚と「ノーフィアー(NO FEAR)」結成(当初は大森・高山のみで、浅子は後に合流)。史上初となる世界タッグとアジアタッグの同時制覇を成し遂げる。

ノア・フリー時代

2000年、三沢光晴らと共に全日本プロレスを脱退し、プロレスリング・ノア旗揚げに参加。

2001年、PRIDE参戦を機に再びフリーランスとなる。以後、ノアを中心に、新日本プロレスやその他の様々な団体、PRIDEなど総合格闘技にも参戦。

6月23日、PRIDE.21でドン・フライとの顔が変形するほどの凄惨な殴り合いにより、格闘技ファンにも知られるようになった。ちなみにこの後ギャラが大幅にアップしたという。

同じ頃、浅子の怪我による引退や大森との喧嘩別れもあって、NO FEARを解散。以後、同ユニットの合言葉だった「いくぞ、ノーフィアー!!」を、解散後も高山が使用したため彼の代名詞となる。

2002/9/7、小川良成を破りGHCヘビー級王座を奪取。高山自身初のシングルタイトルとなった。

新日本プロレスにおいて、2003年にIWGPヘビー級王座(永年空位だったNWFの二冠を制覇した時期もしばらくあった)を獲得。その後鈴木みのると「外敵タッグ」を結成。鈴木とのタッグチームは2008年の健介オフィスでの秋山準・佐々木健介組に敗れるまで無敗であった(試合は健介が高山をピンフォール)。

2004/2/1、北海道立総合体育センターで鈴木と組み、天山広吉・西村修組からIWGPタッグ王座を奪取する。3大メジャー団体のタッグ王座を制覇したのは、この時点でベイダーに続き2人目。

6月、ハッスル・ハウスにて高田総統から「恐れを知らないモンスター」として紹介され、会場に姿を見せた。この興行の前のハッスル3では「高田延彦の遺伝子を継ぐ男」として紹介されている。

8/8、G1 CLIMAXリーグ戦・大阪府立体育会館での佐々木健介戦後、脳梗塞(当初の発表は脳血栓)で倒れ長期戦線離脱となった。

リハビリやタレント活動を経て、2006/7/16、ノア日本武道館大会で復帰。佐々木健介と組んで、三沢光晴・秋山準組と対戦し、秋山のリストクラッチ式エクスプロイダーに敗れた。10/8の新日本両国大会では鈴木みのるとタッグを組み、永田裕志・山本尚史組と対戦。

2006/12/26、ハッスル・ハウスに、鈴木みのると組み電撃参戦。12/27ZERO1-MAXに登場し、かつての盟友・大森を襲撃。

2007/12/2、ノア日本武道館大会で小橋建太と初タッグを結成。なお、この日は腎臓癌摘出手術によって長期欠場していた小橋の復帰初戦であり、自身の復帰戦で予定されていたカードであった。

2008年10月、プロレス・エキスポ初日に参戦。因縁のドン・フライと初タッグを結成した。なお翌日はプロレスリング・ノア武道館大会に参戦。

2009/3/14、全日本プロレス両国国技館大会でグレート・ムタから三冠ヘビー級王座を奪取し、日本国内3大メジャー団体(新日本・全日本・ノア)のヘビー級シングル&タッグタイトルを奪取した。

2010年1月4日、6年前に対戦した中邑真輔のIWGPヘビー級王座に挑戦、ボマイェで敗れるもバックステージではすっきりした顔で「本当にスゲェチャンピオンになったんだな」と中邑を讃えた。 7/10、GHCヘビー級王者の杉浦貴のGHCベルトに挑戦、頭から血を出しながら奮戦するもオリンピック予選スラムで轟沈する。 9/18、佐野巧真とタッグを組み、バイソン・スミス・齋藤彰俊組のGHCタッグチャンピオン王座に挑戦し、ベルト奪取に成功する。12/23、かつて小物扱いしていた岡田かずちかに襲撃を受け、翌1月4日の東京ドームでの対戦表明を受けた。

2011年1月4日、杉浦とタッグを組んで岡田・後藤洋央紀組と対戦。エベレストジャーマンで岡田からフォールを奪い、実力差をまざまざと見せつけた。

6/18、新日本プロレスのIWGPタッグ王者BAD INTENTIONS(ジャイアント・バーナード、カール・アンダーソン組)の挑戦者として逆指名を受け、双方のベルトを賭けた「IWGPタッグ・GHCタッグダブルタイトルマッチ」が実現。佐野がバーナードライバーで敗れ、GHCタッグ王座から陥落。

同6月26日、NOAHの革命ユニットNO MERCYのKENTA、金丸義信組と対戦(パートナーは佐野)。試合中に突如佐野を攻撃。KENTAに佐野からフォールを奪わせ、NO MERCYと固く握手しNO MERCY加入を表明。7/10の有明コロシアム大会から、黒を基調としたロングタイツと黒いグローブの新しいリングコスチュームにチェンジした。

人物

  • 1997年3月、全日に初参戦。前年に敗れた川田を追い、オブライトと組み、川田、田上の世界タッグに挑戦。当初は非常に痩せた身体で、キック以外はあまり見所のない選手のように評されていたが、ジャイアント馬場は「こいつは磨けば光る」と目を付けた。当時の全日本で、初参戦でいきなりタイトルマッチが組まれたのは異例中の異例である。またトップロープをまたいで入場するようになったのは、デビュー当時は普通にロープをくぐってリングインしていたが、新日本プロレス初参戦時にロープの高さがUWFのものよりも低かったため、跨げるのではと思い跨いでみたところ、本当に跨げたためそれ以降の定番になったと本人の著書の中で述べている。その後、浅子覚、大森隆男とのユニット・NO FEARでの活躍あたりから体重も増え、技術の向上もあってプロレス界で頭角を現すようになる。
  • 体重の増加は、持病である重い気管支喘息の薬の副作用、もしくは下腹部の古傷の保護のためとも言われる。元々重い喘息持ちであり、控え室では吸入を欠かさないなど、あまり身体が強いほうではない。2006年1月14日、日本製薬工業協会の提供番組「希望へのメッセージ・くすり物語」(日本テレビ)に、脳梗塞で欠場中の高山が出演。番組進行役の吉田栄作と公園でのインタビューに応じていた。内容としては持病の喘息についてのことで、脳梗塞の点には触れていない。
  • 1996年から「スー族の血を引くクォーター」と称していたが、これは安生洋二のアイデアによるギミックであり、事実ではない。異名のアパッチタワーはこのギミックに由来する。PRIDEに参戦する頃にネタであることが明かされた。
  • 2006年のNHK大河ドラマ「功名が辻」に蜂須賀小六役で出演していたが、本人は自身の日記で「あまりの大根役者ぶりに自分でもびっくりしている」とコメントしている。番宣で「スタジオパークからこんにちは」にも出演した。NHKでは珍しくプロレスの映像が放送された(永田からIWGPを取った試合)。
  • 仮面のメイドガイとのタイアップでメイドのコスプレも行ったことがある。キャッチコピーは「こんなメイドに萌えてみろ」
  • プロレス界の二大巨頭、馬場・猪木が認めるレスラーである。馬場は当時他団体の選手である高山に「昔だったら海外に(当時の全日は選手を海外修行に出させていなかったため)参戦させてやりたかった」とか色々とアドバイスをしたり、食事に連れてったりと、高山を一レスラー・人間として非常に気に入っていた。猪木は新日本(会長をしていた当時)の選手を差し置いて「プロレス界で一番もっともらしいプロレスラー」と評価している、気に入った者しか連れて行かない「イノキアイランド」にも招待している。
  • 公式サイトの日記にて、「大学を卒業して田宮模型に入社していたら今の自分はなかっただろう」と語るほどのプラモデル好き。玩具・フィギュアなどの収集が趣味で、公式サイトにはコレクションしている玩具の写真が掲載されている。最近、田宮最初のラジコンカーをYahoo!オークションで、「妻に言えないような値段で」競り落とした。
  • 聖闘士星矢の声優を演じたことがある。この時、高山は自身が乙女座ということもあり「乙女座のシャカ」のTシャツを着てスタジオに現れた。
  • 団体の枠を越えた活躍ぶりから週刊ゴングの金澤克彦が「プロレス界の帝王」と名付け、それがキャッチフレーズとなる。
  • 2007年1月31日、第1子(男児)が誕生した。奇しくもこの日は全日本プロレス時代の師であるジャイアント馬場の命日でもある。
  • 満足のいく試合が出来なかった日など、ファンに冷たい一面を持ち合わせているが、普段は公式ホームページ等でファンとの交流を図っている。
  • 古いアメ車に乗っている。
  • マシン軍団のメンバーである、ダイナミック・マシン2号の正体と言われているが詳細は不明。

交友関係

幕内力士の北勝力を「英樹」と呼び、弟分のように可愛がっている。また、同年代であるノア所属の杉浦貴と大変仲が良く、杉浦を「スギ」「スギ様」「おすぎ」などと呼んでいる。それぞれライバルに「試合以外での杉浦貴」「夜の高山善廣」を挙げている。

強面で、基本的にはヒールな立ち位置であるが、たとえ自分より年下でも、大森、垣原賢人、鈴木みのるなどの先輩選手には「さん」付けで呼ぶ常識人でもある。ただし、大森との喧嘩別れ以後は「あんな奴」とか「隆男ちゃん」と言ったこともある。また、三沢光晴は「社長(もしくはエロ社長)」、田上明は「田上のおっさん」、武藤敬司は「タコ社長」と呼ぶ。同年齢でキャリアは上の小橋建太は「小橋建太」、年下でキャリアは同じ位の秋山準は「準」、永田裕志は「裕志」、などと呼び、さん付けをしないが、「〜選手」と敬称を付けることが多い。また、最近は鈴木に対して「みのるちゃん」と呼んでおり、同年齢の佐々木健介にも40歳になった記念として「健ちゃん」と呼ぶようになった。健介はその後咄嗟に高山を「高ちゃん」と呼び、鈴木からは、ノア中継放送内や自身のブログなどで「金髪の大男」と呼ばれることが多い。

2004年9月26日に「ウチくる!?」にゲスト出演。その際に馬場・猪木(猪木はVTR出演)とのエピソード・湘南での思い出を披露し、ライフセイバー時代の友人、宮戸、後輩の桜庭和志らが友情出演した。2006年12月、「ウチくる!?」に安藤和津がゲスト出演した回に、友人として登場。

脳梗塞との闘い

2004年8月8日、大阪府立体育会館で行われた新日本G1 CLIMAXリーグ戦・佐々木健介戦後のバックステージで、突然右手の自由が利かなくなり、リング上で受け取った勝利者賞の目録を落とした。その後、控え室に戻ろうとしたが、今度はドアノブを扱えず、立ち眩みで倒れてしまう。周りにいたレスラーや関係者が異変に気付き、救急車を呼び、高山は富永病院へ搬送された。富永病院は大阪府立体育会館のすぐ近くにあり、脳神経治療では国内トップレベルで知られていた。病院に運ばれた高山に、即カテーテル手術が施された。

発症してから手術までの時間が3時間以内であれば、後々の後遺症も最小限で済む可能性が高いと言われている脳梗塞であるが、病院まで救急車で10分以内の距離で発症し、2時間で全ての手術を終えることができたため、主治医は「高山さんはかなり強運の持ち主だった」と語っている(外部リンク参照)。

本人は手術後、喋ることが出来たり、動かなかった手足が動くようになっていたことで、「これはすぐに復帰出来る」と思っていたそうだが、しばらく経つと、思ったように言葉が出なかったり、今まで出来ていた動きが出来なくなっていることに気付いたことから、不安視するようになった(本人は「思考回路すら麻痺していた」と話している)。以後、大好きだったコーヒーをやめて、水を一日6リットル飲むように心がけたり、肉を食べることをやめて魚と野菜中心の食生活にしたりと、日常生活を改善。リハビリも開始した。また、飲酒も止めた(煙草はもともと吸わないとのこと)。

医師からは「自分で体力が戻ったと思ったら、いつでも復帰していいが、その前に診断を受けるように」と言われていた。本人は復帰に向けてトレーニングを続け、2005年の末には、壊死していて以前のような動きができなくなったものに対しては、他の器官で欠場前と同じような動きをできるようにするトレーニングや、少しずつ頭部に負荷をかけるトレーニングをはじめていることを明かした。また、欠場中は先述のゲスト解説に加えて、ラジオ番組やテレビドラマにゲスト出演するなど、タレント活動に専念していた。

復帰までの間、高山は宮戸優光のジム「U.W.F.スネークピットジャパン」にて復帰に向けたトレーニングを積んでいたほか、解説者としてノアの会場を訪れた際も、試合前に受け身などの練習をしていた。2006年3月5日のノア武道館大会に解説者として来場した際、試合前の選手練習中に、病気離脱後初めて後ろ受け身の練習を行った。

約2年間の休養後、2006年7月16日のノア武道館大会にて復帰することが決定し、佐々木健介とタッグを組んで、秋山準・三沢光晴組との対戦という最高のカードが用意された。プロスポーツ選手で脳梗塞から復帰した前例はないとされている(当初は高山のパートナーは小橋であったが、腎腫瘍摘出手術による欠場のため、変更になった)。試合は半分以上高山が捕まる展開となり、その時点で持っている力を出し尽くし、欠場中の小橋へのエールをこめてマシンガンチョップを放ったりしたが、結局三沢のエメラルド・フロウジョンと秋山のリストクラッチ式エクスプロイダーを連続して食らって敗れた。この日は高山の復帰を待望していたかのように、日本武道館には超満員となった。

試合では、散々三沢のエルボーや秋山のジャンピング・ニー・バットを食らい続けたが、10分程控え室で休んだ後元気そうにプレスルームに現れ、健介と肩を組んで元気に記者会見に応じていた。

この復帰戦直前に、元々タッグパートナーとして共闘することになっていた小橋建太が腎臓癌により離脱・手術を行うことになり、復帰戦についてのコメントをノア中継内求められた際、ファンと小橋に向けて「みんながジメジメしたら小橋建太が戦えなくなるから、明るく希望を持って、彼の帰りを待とう。小橋建太のために戦うとか、そういう大それたことは言えないけど、俺は全力で戦って、武道館後もリングに生き残るから、小橋建太、必ず戻って来い」という暖かいメッセージを送った。また別のインタビューでは「俺は脳梗塞を克服して戻ってきた。ここでお前が癌に負けるようなことがあれば、プロレスラーとしてお前は俺に負けたことになるぞ。それが嫌だったら、何年かかっても絶対に戻って来い」と高山ならではの励ましのコメントを送った。

2007年12月2日の小橋建太の腎臓癌からの復帰戦前には、タッグパートナーを務めることに関して「彼の(病気の)ことは俺が一番分かるつもりだから」と話している。


総合格闘技
勝敗 対戦相手 イベント名 開催年月日
× ボブ・サップ INOKI BOM-BA-YE 2002 2002/12/31
× ドン・フライ PRIDE.21 2002/6/23
× セーム・シュルト PRIDE.18 2001/12/23
× 藤田和之 PRIDE.14 2001/5/27
×  キモ  UWFインターナショナル
『5th ANNIVERSARY '96』
1996/8/17 

タイトル

プロレスリング・ノア

  • GHCヘビー級王座 - 第4代(防衛0回)
  • GHCタッグ王座 - 第3代(防衛0回) パートナーは、大森隆男
  • グローバル・タッグ・リーグ戦 - 2010年(第3回)優勝 パートナーは、佐野巧真
  • グローバル・リーグ戦 - 2010年(第1回)優勝

全日本プロレス

  • 三冠ヘビー級王座 - 第39代(防衛2回)
  • 世界タッグ王座 - 第38代(防衛0回) パートナーは、大森隆男
  • アジアタッグ王座 - 第66代(防衛0回) パートナーは、大森隆男
史上初の世界・アジア同時保持となった。

新日本プロレス

  • IWGPヘビー級王座 - 第32代(防衛3回)
    NWFヘビー級王座 - 第20代(防衛7回)
    中邑真輔(IWGP王者)との統一戦に破れ、同ベルトは再び封印された。
  • IWGPタッグ王座 - 第46代(防衛4回) パートナーは、鈴木みのる


WAR

  • WAR認定6人タッグ - パートナーは、安生洋二・山本健一

ZERO1-MAX

  • NWAインターコンチネンタルタッグ - パートナーは、佐藤耕平


プロレス大賞

  • 2002年度 殊勲賞、年間最高試合賞 (高山vs永田裕志)
  • 2003年度 最優秀選手賞
  • 2004年度 最優秀タッグチーム賞(鈴木みのるとのタッグ)
  • 2006年度 カムバック賞
  • 2007年度 年間最高試合賞(三沢光晴・秋山準vs小橋建太・高山)

テーマ
DESTRUCTIVE POWER

高山堂オフィシャルサイト
高山堂

高山善廣オフィシャルブログ
高山善廣ブログ





ブルー・パンテル
Blue Panther
1960/9/19

メキシコ・ドゥランゴ州ゴメスパラシオ出身の覆面レスラー。本名はヘナロ・バスケス・ネバレス(Genaro Vásquez Nevares)。ニックネームは『青豹仮面』。マスク剥ぎ(坊主)のスペシャリストと知られ過去に14回成功している。

来歴

地元でアルコン・スリアーノ、エクトール・ロペスの指導を受け1978年3月、リンピオ(ベビーフェイス)でデビュー。1981年、ルードに転進。1984/12/16にマテマティコを破りUWA世界ウェルター級、1986年11月、グラン浜田を破り同ライトヘビー級王座奪取。1991年7月、EMLLに移籍。同年12/18アカプルコでの決定戦でサタニコを破りCMLL世界ミドル級の初代王座になる。1992/4/3、アレナ・メヒコでラブ・マシーンとのコントラ・マッチで勝利し相手のマスクを剥ぐ。またSWSにも来日した。

同年5月AAAに電撃移籍。1992/7/24、グアナフアト州レオンでオクタゴンを破ってナショナルミドル級王座奪取。1993年7月、AAAに移籍してきたラブ・マシーンと再戦し相手を坊主しリンピオに転進、しかし同年11月再度ルード転進。1994年11月には新日本プロレスの『AAAルチャ・ワールド』に来日した。

1997年にマスカラ・サグラダ・ジュニア等と共にCMLLに移籍。ドクトル・ワグナー・ジュニア、ブラック・ウォリアーとロス・ラグネロス(Los Laguneros)を結成。1999年、ワグナーをパートナーにネグロ・カサス、エル・イホ・デル・サント組の持つCMLL世界タッグに挑戦も失敗。ロス・ラグネロスでメキシコ・ナショナル・6人タッグ王座奪取。2002年、ブラック・ウォリアーがロス・ラグネロス脱退しその後フェルサ・ゲレーラをメンバー入りさせトーナメントで優勝し再度同タイトル奪取。2004年、アトランティスと組みウルティモ・ゲレーロ、レイ・ブカネロ組の持つCMLL世界タッグに挑戦し奪取、同年オリンピコ、レイ・ブカネロ組相手に同タイトル防衛。2005年4月、同タイトルをアベルノ、メフィスト組の挑戦に破れ防衛に失敗した。

タイトル歴

UWA
  • UWA世界ウェルター級王座
  • UWA世界ミドル級王座
CMLL
  • CMLL世界ミドル級王座
  • CMLL世界タッグチーム王座(w / アトランティス)
  • CMLL世界トリオ王座 : 2回(w / ブラック・ウォリアー&ドクトル・ワグナー・ジュニア、ドクトル・ワグナー・ジュニア&フェルサ・ゲレーラ)
  • WWA世界ウェルター級王座
  • WWA世界ミドル級王座
IWA
  • IWA世界ライトヘビー級王座
その他
  • 北メキシコライトヘビー級王座
  • ナウカルパンタッグチーム王座(w / ブラック・テリー)
  • ナショナルミドル級王座
  • ナショナルトリオ王座 : 3回(w / フェルサ・ゲレーラ&サイコシス、フェルサ・ゲレーラ&エル・シグノ)

 
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ジェリー・ブリスコ
Jerry Brisco
1946/9/19

アメリカ合衆国の元プロレスラー、現WWEロード・エージェント。本名はジェラルド・ブリスコFloyd Gerald Brisco)。オクラホマ州オクラホマシティ出身。

元NWA世界ヘビー級王者のジャック・ブリスコの実弟であり、彼と同じくアメリカン・インディアンの血を受け継いでいる。2008年には、兄と共にWWE殿堂に迎えられた。

息子のウェスリー・ブリスコもプロレスラーとして活動しており、現在WWEの傘下団体であるFCWでウェス・ブリスコと名乗っている。

来歴

NWA時代

兄ジャック・ブリスコの後を追い、1967年にデビュー。1969年7月には日本プロレスに初来日している。なお、日本では「中西部の若駒」なる異名が付けられていた。

1970年代は主にジャックのタッグ・パートナーとして、フロリダ(エディ・グラハム主宰のCWF)やジョージア(ジム・バーネット主宰のGCW)などNWAの南部テリトリーを中心に活動。フロリダのCWFでは、1971年2月にジャックとのブリスコ・ブラザーズThe Brisco Brothers)でジ・インフェルノスからNWAフロリダ・タッグ王座を奪取。以降、同年4月にザ・ファンクス、1977年1月にボブ・ループ&ボブ・オートン・ジュニア、同年6月にスーパースター・ビリー・グラハム&オックス・ベーカー、1978年1月にミスター・サイトー&イワン・コロフ、同年6月にはサイトー&ミスター・サトーなど、数々の強豪チームを破り同王座を再三獲得した。

特に、ザ・ファンクスとはオーキー(オクラホマ人)対テキサン(テキサス人)、インディアン対カウボーイという図式のもと1980年代初頭まで南部各地で抗争を展開しており(ポジションはブリスコ兄弟がベビーフェイス、ファンク兄弟がヒール)、ジョージアのGCWでは1978年から1979年にかけてNWAジョージア・タッグ王座を争った。同王座は1975年にも1月にロッキー・ジョンソン、10月にボブ・バックランド(トール・タナカ&ミスター・フジから奪取)をパートナーに獲得し、ジャックとのコンビでは1979年11月にもマスクド・スーパースター&オースチン・アイドルから奪取している。

シングルでは1974年5月にGCWにてジョージア版のNWAサウスイースタン・ヘビー級王座をボビー・ダンカンから奪取。CWFでは1974年8月にパク・ソン、1975年にハーリー・レイス、1978年にディック・スレーターを破り、同地区の看板タイトルであるNWA南部ヘビー級王座を通算3回獲得した。この間、日本には1974年1月、1975年7月、1976年7月に全日本プロレスに来日している。

1980年代に入ってからもフロリダのCWFを主戦場に、エディ・グラハムやダスティ・ローデスの懐刀となってブッカー業務も担当。1981/9/16にはレス・ソントンを破ってNWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得し、兄と合わせての「NWA2階級制覇」を果たした

1983年からはノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区にもジャックとの兄弟コンビで参戦、同地区ではヒールのポジションに回り、リッキー・スティムボート&ジェイ・ヤングブラッド、ワフー・マクダニエル&マーク・ヤングブラッドなどの人気チームとNWA世界タッグ王座を争っている。

WWF / WWE時代

長年に渡ってNWAで活動してきたブリスコ兄弟だが、GCWブッカーのオレイ・アンダーソンとの確執もあり、1984/4/9、所有していたGCWの株式を団体オーナーのジム・バーネットらと共にWWFのビンス・マクマホンに売却。同年7/14からはWTBSで放送されていたNWAジョージア地区のプロレス中継がWWFのプログラムに取って代わり、ブラック・サタデーと呼ばれる事件となる。これにより、ブリスコ兄弟はNWAを離れ、当時全米侵攻を推進させていたWWFに参画することとなった。

当初はベビーフェイスのベテラン・タッグチームのポジションでディック・マードック&アドリアン・アドニスのノース・サウス・コネクションなどと対戦していたが、やがてジャックはプロレス界から身を引き、ジェリーも現役を引退してWWFのロード・エージェントに就任。以後、パット・パターソン、トニー・ガレア、ジャック・ランザらと共に、WWEの重鎮としてバックステージを取り仕切っている。

1990年代末から2000年代初頭にかけてのWWFアティテュード路線の最盛期には、"悪のオーナー" ミスター・マクマホンの側近役をパターソンと共に演じ、自らも『Raw is War』のレギュラーキャストとして番組に出演。マクマホン率いる権力ヒールユニット「コーポレーションThe Corporation)」の一員となり、ストーン・コールド・スティーブ・オースチンやミック・フォーリーらを陥れるべく姦計をめぐらすなど、マクマホンに媚びへつらう悪の幹部として観客のブーイングを煽った。

選手として本格的にリングに復帰することはなかったものの、2000/6/6にクラッシュ・ホーリーからWWFハードコア王座を奪取。WWFマットにおける初戴冠を果たしたが、タイトルに欲を出したパターソンの裏切りに遭い王座から陥落。同年6/25のキング・オブ・ザ・リングでは、マクマホンの命によりパターソンとの女装でのイブニング・ガウン・マッチによるハードコア王座戦が組まれた(インディアンの血を引いていることから、コメンテーターのジェリー・ローラーはブリスコを見て「ポカホンタス!」などと叫んでいた)。

WCWとの視聴率戦争の終結と同時期にアングル上からは姿を消し、以降はエージェント業務に専念している。2008年3月29日にはプロレス界における功績を称え、兄ジャック・ブリスコと共にWWE殿堂に迎えられた(インダクターはジョン・レイフィールド)。

獲得タイトル

NWAフロリダ(CWF)
  • NWA南部ヘビー級王座(フロリダ版):3回
  • NWAフロリダTV王座:1回
  • NWAフロリダ・タッグ王座:8回(w / ジャック・ブリスコ)
  • NWA USタッグ王座(フロリダ版):5回(w / ジャック・ブリスコ)
  • NWA北米タッグ王座(フロリダ版):2回(w / ジャック・ブリスコ)
  • NWA世界ジュニアヘビー級王座:1回
NWAジョージア(GCW)
  • NWAサウスイースタン・ヘビー級王座(ジョージア版):1回
  • NWAジョージア・タッグ王座:4回(w / ロッキー・ジョンソン、ボブ・バックランド、ジャック・ブリスコ×2)
NWAミッドアトランティック(JCP)
  • NWAアトランティック・コースト・タッグ王座:1回(w / サンダーボルト・パターソン)
  • NWAイースタン・ステーツ・ヘビー級王座:4回
  • NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版):3回(w / ジャック・ブリスコ)
NWAウエスタン・ステーツ(アマリロ地区)
  • NWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座:1回
NWAカナダ(マリタイム地区)
  • ESAインターナショナル・タッグ王座:1回(w / ジャック・ブリスコ)
WWC
  • WWC北米タッグ王座:1回(w / ジャック・ブリスコ)
  • WWC世界ジュニアヘビー級王座:1回
WWE
  • WWFハードコア王座:2回
  • WWE Hall of Fame:2008年度





吉村道明
1926/9/19 - 2003/2/15

日本のプロレスラー。日本プロレス界の黎明期を支えた一人。火の玉小僧と呼ばれた。
現役引退後は、近畿大学相撲部顧問として後進の指導にあたった。岐阜県岐阜市出身。

来歴

プロレス界での活躍

14歳で大日本帝国海軍の志願兵となり、海軍通信学校高等科練習生を5番の成績で卒業。太平洋戦争に出兵。シンガポール駐留中に海軍相撲で活躍、終戦後に近畿大学へ入学し、相撲部に入部。学生横綱(1949年、史上2人目となる大学1年での優勝)、国民体育大会個人優勝など輝かしい実績を残す。

大学卒業後の1954年4月、大阪を本拠地として活動していた全日本プロレス協会(山口利夫が設立。ジャイアント馬場の全日本プロレスとは無関係)へ入団。1956年に全日本プロレス協会は崩壊するが、力道山にスカウトされて1957年5月に日本プロレスへ移籍する。移籍前の57/4/8、初代選手権者の駿河海を下して日本ジュニアヘビー級王座を獲得した。(日本プロレス移籍の経過については、門茂男「力道山の真実」角川文庫が詳しい。)

日本プロレスへ移籍後は、力道山の脇役であったが、軽快な身のこなしからの回転エビ固め等の得意技で人気者となる。また、若手レスラーの壁として立ちはだかり、デビュー間もないアントニオ猪木(当時は猪木寛至)との対戦成績は19連勝を記録している。1961年にヘビー級へ転向し、力道山のパートナーとしてタッグチームを組む機会も多くなり、大柄の外国人レスラーに血だるまで立ち向かう姿から「火の玉小僧」と呼ばれ活躍した。一人で相手の攻撃を受けまくる姿は、結果的に力道山をはじめとするタッグ・パートナーを引き立たせる効果もあげていた。また日本プロレス屈指の技巧派としても有名で、カール・ゴッチ、キラー・カール・コックスの初来日に際して第一戦の相手として起用されたのも吉村である。必然的にそれぞれの必殺技であるジャーマン・スープレックスとブレーンバスターを日本で最初に食ったのも吉村となった。なお、ゴッチは吉村を力道山より上だと評価しており、初来日の36年に13回、2度目の41年に1回対戦した。戦績は吉村の1勝3敗9引分1ノーゲームで、ゴッチから2フォール勝ちを奪った唯一の日本人である。

しかし、1963/12/15に力道山が不慮の事故で急逝。窮地に立たされた日本プロレスは、吉村、豊登、芳の里、遠藤幸吉を4幹部として再起を図るが、社長に就任した豊登の横領・放漫経営などで経営が悪化、1965年末に豊登を事実上追放し、ジャイアント馬場、アントニオ猪木をエースとする体制に移行する。新社長となった芳の里と遠藤は現役を引退して経営に専念したが、吉村は重役を兼務しながら現役を続行、アジアタッグ王座を長く保持し、馬場、猪木、大木金太郎と共に日プロ四天王と呼ばれ、中心レスラーとして活躍した。しかし、日本プロレスは1971年末に猪木が、翌年に馬場が相次いで離脱し新団体を設立したことにより崩壊。馬場の全日本プロレスにしばらく参戦した後の1973/3/3に母校の近畿大学記念館大会で引退している。(なお、猪木が離脱前後に「ダラ幹」として当時の幹部を批判した際、一番名指しされたのは彼である。)

団体のゴタゴタにもかかわらず、力道山の死後も吉村は選手としては、持ち前のテクニックを生かし、馬場、猪木、大木、坂口征二ら後輩レスラー達のパートナーとしてタッグタイトルを保持、46歳の引退まで奮闘した。選手晩年は火の玉小僧に変わり「闘将」と呼ばれた。

意外と知られてないのは、彼の人柄である。日本プロレス時代には縁の下の力持ちで現場監督の他、興行の業務処理などを担当していた。人格者であったので多くの後輩から慕われてきた。

プロレス引退後

プロレス引退後の吉村は、母校の近畿大学相撲部顧問として後進の指導にあたりながら事業にも取り組み、プロレス界からは完全に身を引き長く絶縁状態を貫いた(例外は、1974年10月の猪木vs大木戦で「遺恨をマットに持ち込むなら試合を止めろ」とメッセージを両名に送った事)。だが90年代に入りレスラーのOB会会長に就任してからは、会場に姿を見せる機会がわずかながら見られるようになった。

近畿大学相撲部では、後に大関となる長岡末弘(朝潮、現高砂親方)を指導し、2年連続してアマチュア横綱に導くなど手腕を発揮した。

晩年は入退院を繰り返すようになり、20032/15に呼吸不全のため神戸市内の病院で死去。享年76。葬儀・告別式は身内だけで営まれ、関係者に訃報が届いたのは2日後の17日だった。

獲得タイトル

  • 日本ジュニア・ヘビー級王座
  • インターナショナル・タッグ王座
  • アジアタッグ王座




  

















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