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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
9/21

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今日は何の日?


鈴川真一
1983/9/21

兵庫県川西市出身。プロレス興行IGFに参加。尾車部屋(入門時は押尾川部屋)に所属していた元大相撲力士若麒麟 真一(わかきりん しんいち)である。最高位は西前頭9枚目(2008年1月場所)。

来歴

大相撲時代

中学卒業と同時に押尾川部屋に入門し、1999年3月場所に初土俵を踏んだ。相撲経験はなかったが立合いからの突っ張りが得意で、体重の増加とともに重みが増し着実に番付を上げて行った。幕下に定着するまでに時間が掛かったが定着してからは上位まで一気に番付を駆け上がり、2004年9月場所に十両に昇進するとともに四股名を本名の鈴川から師匠(元大関・大麒麟)の四股名に因んで若麒麟と改めた。

十両に昇進した2004年9月場所でも終盤まで優勝争いに加わり、最終的には10勝5敗と地力の高さを見せた。しかし翌場所から2場所連続で7勝8敗と負け越した上、2005年1月場所千秋楽に右膝を故障してしまい3月場所を全休した結果、幕下に陥落した。

この故障のため、5月場所も全休し幕下西50枚目まで番付を落としたが9月場所に東幕下42枚目で7戦全勝で幕下優勝、11月場所も勝ち越し2006年1月場所に5場所ぶりに十両に復帰することが決まった。また、故障中の2005年4月に押尾川親方が押尾川部屋を閉めたため、若兎馬らと共に尾車部屋に移籍した。

十両には復帰したものの体重は新十両だった当時から10kg近く減少し、突っ張りの威力も落ちるなど故障の影響は大きく11月場所でも自ら攻めて勝った相撲はほとんど見られなかった。このため再十両の2006年1月場所も東十両14枚目で4勝11敗と大きく負け越してしまい、1場所で再び幕下に陥落。3月場所と5月場所でもともに2勝5敗と大きく負け越した。

しかし2006年7月場所から5場所連続で勝ち越し、調子を取り戻すと2007年5月場所では西幕下3枚目で全勝優勝。翌7月場所の十両復帰を決めた。この7月場所でも調子のよさを見せて10勝5敗と大きく勝ち越し、一気に自己最高位を更新して十両2枚目に昇進した。さらに幕内がかかった9月場所でも9勝6敗と勝ち越し、11月場所での新入幕を果たした。

幕内昇進場所となる2007年11月場所では幕内下位ながらも13日目まで優勝の可能性を残し最終的には10勝5敗と勝ち越し、2008年1月場所では前頭9枚目と幕内中位にまで昇進した。しかし、その2008年1月場所で4勝11敗と大きく負け越し、2008年3月場所では再び前頭15枚目と幕内下位となった。さらにこの場所でも6勝9敗と2場所連続で負け越し、翌2008年5月場所で十両に陥落した。その後、十両の上位から中位にいたが、十両東3枚目として迎えた2009年1月場所において9勝6敗の成績を挙げ、幕内再入幕も期待されていた。

2008年11月場所では体重252kg(当時)の山本山を立ち合いの張り手1発で土俵に沈めるなど、非常に激しい相撲をとることで知られていた。

大麻取締法違反

2009/1/30、乾燥大麻16グラムを所持していたとして大麻取締法違反(所持)の現行犯で神奈川県警察に逮捕された。神奈川県警察が、別の大麻譲渡事件の捜査中にその事件の容疑者の勤務先である東京都港区六本木のCD販売店の事務所内を家宅捜索し、この際に居合わせた若麒麟が大麻を所持していたため、ヒップホップグループ「練マザファッカー」のリーダー・D.Oらとともに現行犯逮捕に至った。日本人力士が同法で逮捕されたのは初めてのことである。若麒麟はかねてよりヒップホップに造詣が深くミュージシャンとの親交もあり、YOU THE ROCK★(2010年に大麻取締法違反で逮捕)のブログでもしばしば取り上げられていた。

なお、2008年8月19日に当時幕内力士だった若ノ鵬が大麻所持により逮捕されたことを受け、2008年9月2日に日本相撲協会が簡易キットによる抜き打ち尿検査を行った際には、1回目の検査結果は陰性であったものの、検査結果が不鮮明だったために2度再検査を受けることになり、最終的には陰性と判定されていた。この際に、露鵬と白露山は、検査に対して陽性を示したため解雇されている。

逮捕翌日の1月31日に師匠の尾車親方が若麒麟の弁護士を通じて、引退の意思を確認し、同日付で引退届を提出した。この引退届の扱いについて、日本相撲協会は一応受け取ったものの、扱いを保留とした。そして、最終的には2月2日の理事会において若麒麟の解雇、及び師匠の尾車親方の二階級降格(委員→年寄)が決定された。

日本相撲協会の寄附行為によれば解雇の場合、退職金に当たる力士養老金の受給資格があったが、2月5日に尾車親方と若麒麟の父親を通じて謝罪の手紙と共に日本相撲協会に力士養老金受け取りの辞退を申し入れた。

その後、若麒麟は2月20日に大麻取締法違反(所持)の罪で起訴された後、4月13日の初公判では起訴事実を認め、また尾車部屋でも大麻を使用したことを明らかにした。これに対して横浜地裁は4月22日、懲役10か月、執行猶予3年の判決を下した。

プロレスへの転向

その後、本名の鈴川真一としてプロレスデビューすべくU.W.F.スネークピットジャパンにて修行を行っていた。アントニオ猪木の指示で2010年5月9日のIGF大阪大会にてデビューすることが発表されたが、変更され9月25日のJCBホール大会「GENOME13」でデビュー。マーク・コールマンと対戦し、11分58秒試合放棄によるTKO勝ちとなった。

2010年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜の第1試合でボブ・サップとIGF特別ルールで対戦する予定であったが、「サップの戦意喪失」による不戦勝となった。この試合は鈴川が執行猶予中ということもあり、電波に乗せる事はできないため、テレビ放送では試合結果のみを伝えるダークマッチの予定であった。






ジョシュ・トムソン
Josh Thomson
1978/9/21

アメリカ合衆国の総合格闘家。カリフォルニア州サンノゼ出身。アメリカン・キックボクシング・アカデミー所属。元Strikeforce世界ライト級王者。

来歴

2001/12/15、ハワイ州で開催されたShogunで山本"KID"徳郁と対戦。2Rに膝蹴りでKIDの股間に当たり、試合続行不可能となったため反則負けが宣告されるも、故意ではなかったとの裁定でノーコンテストとなった。

2005/7/17、PRIDE初参戦のPRIDE 武士道 -其の八-で杉江"アマゾン"大輔と対戦し、膝十字固めで一本勝ち。

2006/3/10、Strikeforce旗揚げ戦でクレイ・グイダとStrikeforce世界ライト級タイトルマッチで対戦し、判定負け。

2008/6/27、Strikeforceでトレーニング仲間のギルバート・メレンデスと世界ライト級タイトルマッチで対戦。主にテイクダウン・グラウンドでのポジショニングで上回り、3-0の判定勝ちにより第3代Strikeforce世界ライト級王者となった。

2008/11/21、Strikeforce世界ライト級王座防衛戦でイーブス・エドワーズと対戦予定であったが、爪先の靭帯損傷により欠場となった。

2009/4/11、Strikeforce世界ライト級王座防衛戦でメレンデスと再戦予定であったが、3/31に行われたビリー・エヴァンゲリスタとのスパーリングで足首上部を骨折し、またしても欠場となった。トムソンの欠場を受け、メレンデスとホドリゴ・ダムが暫定王座決定戦で対戦し、メレンデスが暫定王者となった。

2009/8/15、「Strikeforce: Carano vs. Cyborg」の世界ライト級王座統一戦で暫定王者となったメレンデスと対戦予定であったが、足の負傷が完治していなかったためメディカルチェックをパスできず、3連続の欠場となった。トムソンの欠場を受け、メレンデスと石田光洋が暫定王座タイトルマッチで対戦し、メレンデスが王座を防衛した。

2009/12/19、「Strikeforce: Evolution」でメレンデスと統一王座を賭けて再戦し、0-3の判定負けにより王座から陥落した。

2010/6/26、Strikeforce: Fedor vs. Werdumでパット・ヒーリーと対戦し、チョークスリーパーで一本勝ち。

2010/10/9、Strikeforce: Diaz vs. Noons 2でJ.Z.カルバンと対戦し、3-0の判定勝ちを収めた。

2010/12/31、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜で川尻達也と対戦し、0-3の判定負けを喫した。

獲得タイトル

  • 初代Strikeforce全米ライト級王座(2006年)
  • 第3代Strikeforce世界ライト級王座(2008年)

 
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ロナルド・ジューン
Ronald Jhun


アメリカ合衆国の総合格闘家。ハワイ州ホノルル出身。808ファイト・ファクトリー所属。

義弟のレイ・クーパーも総合格闘家である。

来歴

1998/8/4にSuperBrawl 8でプロ総合格闘技デビューを果たした。以来地元ハワイの大会を中心に活動する。

2000/1/14、修斗に出場し、佐々木有生に一本負け。

2002/1/12、竹内出に判定負けを喫した。6月29日には修斗世界ライトヘビー級王者須田匡昇とノンタイトル戦で対戦するも、0-2の判定で敗れた。

2003/5/16、KOTC世界ウェルター級王座決定戦に出場しショーニー・カーターに判定勝ちを収めた。

2004/8/21、UFC 49でUFC初出場を果たすもクリス・ライトルにフロントチョークで一本負けを喫した。

2006/1/20、ROTRウェルター級トーナメントに出場し、1回戦でフランク・トリッグに判定で敗れる。7月21日には修斗に復帰し初代環太平洋ミドル級王座を賭け中村K太郎と対戦するも、一本負けで王座獲得はならなかった。

2010/9/20、HEAT 15で行なわれたHEAT・X-1団体交流戦でHEAT総合ルール ウェルター級王者新美吉太郎と対戦し、3-0の判定勝ちを収めた。

獲得タイトル

  • KOTC世界ウェルター級王座





リッキー・モートン
Ricky Morton
1956/9/21

アメリカ合衆国のプロレスラー。本名はリチャード・ストラッテンRichard Stratten)。テネシー州ナッシュビル出身。

ロバート・ギブソンとのタッグチーム、ロックンロール・エクスプレスThe Rock 'n' Roll Express)での活躍で知られる。設定上の生年は1960年とされていた。

来歴

地元テネシー州メンフィスのCWAにて1979年にデビュー。師匠のケン・ルーカスや黒人レスラーのソニー・キングのパートナーとなり、マイケル・ヘイズ&テリー・ゴディのファビュラス・フリーバーズやラリー・レイザム&ウェイン・ファリスのブロンド・ボンバーズと対戦、同年9月にはキングとのコンビでボンバーズからAWA南部タッグ王座を奪取した。

以降もCWAを主戦場にベビーフェイスの新鋭として活動後、1983年にロバート・ギブソンとロックンロール・エクスプレスを結成。アイドル系タッグチームとして売り出される。その後、ビル・ワットのMSWAにおけるミッドナイト・エクスプレス(ボビー・イートン&デニス・コンドリー)との抗争劇を経て、1985年よりNWAのジム・クロケット・プロモーションズに移籍。デビュー戦でイワン・コロフ&クラッシャー・クルスチェフからNWA世界タッグ王座を奪取し、以降も同地区のタッグマッチ戦線において活躍。その甘いルックスとスピーディーな試合スタイルで、少女ファンからの絶大な支持を集めた。

ギブソンとのタッグで活動する一方、モートンはシングル・プレイヤーとしての才能も発揮し、リック・フレアーも彼の実力を高く評価した。1986年はフレアーとの抗争アングルが組まれ、当時フレアーが保持していたNWA世界ヘビー級王座に4月から7月にかけて連続挑戦している。1991年にはフレアー・タイプの伊達男系ヒールに転向し、ギブソンを敵に回しての遺恨試合も行われた。

NWA(WCW)離脱後はギブソンとロックンロール・エクスプレスを再結成し、1990年代半ばまでジム・コルネットの主宰するスモーキー・マウンテン・レスリングやCWAの後継団体USWAにて活動。1992年7月にエディ・ギルバートを破り、USWAユニファイド世界ヘビー級王者となるなどシングルでも活躍した。1997年8月には単身でFMWに来日し、リッキー・フジとニュー・ロックンロール・エクスプレスを結成している。以後、1998年のWWF参戦を経てギブソンとのコンビを一旦解消。ベテランのシングル・プレイヤーとなってインディー団体を転戦後、2000年代に入ってTNAなどでロックンロール・エクスプレスを復活させている。

単独での活動も行い、2007年4月に古巣メンフィスのインディー団体 "Memphis Wrestling" にてキッド・キャッシュと組み、同団体認定の南部タッグ王座を獲得した。近年もギブソンと共にロックンロール・エクスプレスのリユニオン・ツアーを続けており、2010年4月には、かつて主戦場としていたクロケット・プロのブランドネームと同名義のインディー団体 "Mid-Atlantic Championship Wrestling" において、バフ・バグウェル&リッキー・ネルソンからMACWタッグ王座を奪取している。

獲得タイトル

CWA / USWA
  • NWAミッドアメリカ・タッグ王座:1回(w / ケン・ルーカス)
  • AWA南部タッグ王座:6回(w / ソニー・キング、ケン・ルーカス×2、エディ・ギルバート、ロバート・ギブソン×2)
  • CWAタッグ王座:2回(w / ロバート・ギブソン、トッド・モートン)
  • CWA世界タッグ王座:1回(w / ロバート・ギブソン)
  • USWA世界タッグ王座:2回(w / ロバート・ギブソン)
  • USWAユニファイド世界ヘビー級王座:1回
NWAトライステート / MSWA
  • NWAトライステート・タッグ王座:2回(w / エディ・ギルバート)
  • ミッドサウス・タッグ王座:3回(w / ロバート・ギブソン)
ジム・クロケット・プロモーションズ / WCW
  • NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版):4回(w / ロバート・ギブソン)
  • WCW世界6人タッグ王座:2回(トミー・リッチ&ジャンクヤード・ドッグ、トーマス・リッチ&テレンス・テイラー)
スモーキー・マウンテン・レスリング
  • SMWタッグ王座:10回
その他
  • NWA世界タッグ王座(復活版):4回(w / ロバート・ギブソン)
  • MACWタッグ王座:1回(w / ロバート・ギブソン)
  • メンフィス・レスリング南部タッグ王座:1回(w / キッド・キャッシュ)

etc.






百田光雄
1948/9/21

日本のプロレスラー。フリーランス。元プロレスリング・ノア取締役副社長で、テレビ解説も務めていた。東京都港区出身。力道山ジュニア6時半の男などのニックネームを持つ。(2000年-2009年、フリー)

来歴

森村学園を卒業後、1968年2月に日本プロレスに入門。デビュー戦は1970/11/17の新海弘勝戦。

1972年10月、全日本プロレスの旗揚げに参加。1974年2月にはメキシコに初遠征し(リングネームは『リキドーザン(力道山)Jr』)、帰国後に日本では初めてとなるトペ・スイシーダを公開、ジュニアヘビー級戦線で活躍する。1989年4月、仲野信市を破り世界ジュニアヘビー級王座を獲得。2度の防衛に成功した。また、若手選手の壁として立ちはだかり、「6時半の男」と称され人気を博した。1990年代からは、ジャイアント馬場、ラッシャー木村とトリオ(ファミリー軍団)を組んでの永源遙・大熊元司ら(悪役商会)との試合が中心となり、このカードは「休憩前のメインイベント」といわれるほどの人気を博した。

2000年6月、三沢光晴らとともに全日本プロレスを退団し、ノアに移籍、副社長に就任した。ノアではラッシャー木村、永源遙と「ファミ悪」の流れを汲んだ試合が多く、木村の長期欠場(後に引退)以後は永源とのシングル戦が名物になっている。百田vs永源は2004/7/10のノア初となる東京ドーム大会の第1試合でも組まれた。

前座での試合が多いものの、2003/12/11には菊地毅と組んで丸藤正道&KENTAが持つGHCジュニアヘビー級タッグ王座に挑戦、2004/2/15、新日本プロレス両国国技館大会に乗り込みメインイベントで獣神サンダー・ライガーが持つGHCジュニアヘビー級王座に挑戦。2006年にはGHCジュニアの挑戦者決定時間差バトルロイヤルに参戦、SUWAと抗争を繰り広げるなど、試合に敗れはしたものの健在振りをアピールした。

全日本時代からTV中継(全日本プロレス中継、プロレスリング・ノア中継)では解説も担当している。また「要するに」が口癖で、さらに普段は終始冷静だが、試合中大技が飛び出すと「おおっ!」「アーッ!」という大声を発するという特徴がある。

2004年に韓国で製作され、2006年3月に日本上映された「映画・力道山」に、特別協力として名を連ねている。

ノア離脱以後

2009/7/6には、三沢光晴の死去に伴い開かれたプロレスリング・ノアの臨時株主総会で同社の相談役に退くことが発表されたが、翌7/7に同社に辞表を提出した。新社長の田上明は当初辞表を受理せず進退を保留したが、結局7/10の役員会で辞表が受理された。

辞意を示した理由は当初「三沢の後任の社長に小橋建太を推したが認められず、三沢の遺族の要望で田上が社長に就任したこと」としていたが、7/12に後楽園ホールで開かれたノアの興行に挨拶のため訪れた際には「三沢のお別れ会の日程を仲田龍(元同社取締役統括部長)が独断で勝手に決定し、他の役員は誰も聞いてなかった」「相談役就任は、三沢夫人の委任状を持った早川(早川久夫・同社常務取締役)に言い渡されたが、早川に言われる筋合いはない」「三井営業部長(三井政司・同社取締役)になってから業績が下がったのに昇進している。こんなバカな人事があるか」など、一部の役員を名指しで批判し、役員の間で軋轢があったことを露にした。

今後の身の振り方について、当初フリーのプロレスラーとして現役は続行する考えを示した一方で、後に「引退試合は行いたい」としつつも選手としても身を引く意向と伝えられるなど、現役を続行するかどうかはっきりしない状態が続いていたが、2010年4月に行われる天龍源一郎の自主興行「天龍プロジェクト」への参戦が発表され、当面は現役を続行することが明らかになった。本人はラッシャー木村の持つ現役最年長記録(61歳10か月)の更新を狙っており、「春には引退しようと思っていたけど、7月までやれば(ラッシャー木村が持つ)61歳10か月の最年長記録クリアできるんです」とその意気込みを語っている。

エピソード

  • 還暦の際のインタビューでニンテンドーDSの脳内年齢測定ソフトで声とテストによる測定をしたところ、声と本体の相性があまりにも悪かったため、「測定不能」となった。
  • 怒ると「ジジィをなめんなよ!」と叫ぶ。
  • 日本国内で初めてトペ・スイシーダを使用したレスラー、メキシコからトペ・スイシーダを持ち込んだレスラーとして著名である。
  • 実息がノアに練習生として入門したがデビューには至っていない。

タイトル歴

  • 世界ジュニアヘビー級王座:防衛2回(第8代)

入場テーマ曲

  • 「Gonna Fly Now(ロッキーのテーマ)」 メイナード・ファーガソン

著書

  • 「父・力道山」(小学館文庫)

  



ジャック・ブリスコ
Jack Brisco
1941/9/21 - 2010/2/1

フレディ・ジョー・ブリスコ(Freddie Joe Brisco)はアメリカ合衆国の元プロレスラー。オクラホマ州ブラックウェル出身。日本での異名は「南部の麒麟児」。実弟ジェラルド・ブリスコ(ジェリー・ブリスコ)も元プロレスラー。

来歴

NCAA全米学生選手権で1964年2位、1965年優勝をはじめ、レスリング時代の戦績89戦87勝2敗という実績をひっさげてオクラホマのプロモーター、リロイ・マクガークにスカウトされ1965年にプロレスラーとしてデビュー。その後テキサス州、オーストラリア、フロリダ州を転戦。同郷のダニー・ホッジとの連戦で力を付ける。

1967年には日本プロレスに初来日。1971年8月にはアントニオ猪木のUNヘビー級王座に挑戦して敗れている。

最初から超大型新人だったこともあって、テキサス北部のプロモーターだったドリー・ファンク・シニアに息子たちの売り出しの道具として利用されるが、次第にスター選手の地位を確立し、1973/7/20、テキサス州ヒューストンでハーリー・レイスを破り第48代NWA世界ヘビー級王者となる。1974年1月には全日本プロレスに初登場し、現王者ブリスコ、前王者レイス、元王者ドリー・ファンク・ジュニアが揃った豪華シリーズで、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、ドリー、レイス、ザ・デストロイヤーの挑戦をすべて退ける。12/2鹿児島県立体育館で馬場に敗れて王座転落も1週間後豊橋市体育館にて奪回。1975年12月テリー・ファンクに敗れて王座転落後は一度も返り咲いていない。1976年8月にはジャンボ鶴田と復活したUN王座の決定戦で対戦するが敗れている。

1979年には新日本プロレスに登場し、NWF選手権で猪木と再び対戦するが敗戦。最後の来日は1981年、全日本への参戦でチャンピオン・カーニバル及びインターナショナル・ヘビー級王座決定トーナメントに出場した。以上のように、馬場から王座を奪回した試合を除いて日本でのビッグマッチでほとんど勝っていないという奇妙な一流レスラーである。ただし、それぞれの試合の名勝負としての評価は確たるものがある。

以降は主にジェリーとのタッグなどで活動し、第一線からは退いた。NWAジョージア地区(GCW)の興行株を取得し、弟ジェリー、オレイ・アンダーソン、ポール・ジョーンズ、ジェリー・オーツ、フレッド・ワードと共に株主になっていたが、1984年4月に自らとジェリー、ジョーンズ、オーツで興行株の持分合計51%をWWF(現・WWE)のビンス・マクマホンに売却し、自分たちもWWFに移籍する。

このブリスコ兄弟の行動は、結果としてNWAの衰退とWWFの全米侵攻を促進したわけで、そのため同業者のプロモーターからの激しい憎悪を買った。WWF移籍後しばらくは番組にも登場したりしていたが、1984年12月を最後に、引退試合を行わないままリングを去っている。それ以来、ブリスコ本人は『プロレスが行われるアリーナには出向いていなかった』という。引退後はフロリダで自動車修理工場を経営していた。

一方、弟ジェリーはWWEに残り、現在も重役の責を担っている。一時期は前述の事情でOB会などにも姿を現さなかったが、近年になって顔を出すようになったという。

2008年3月には弟ジェリーと共にWWE殿堂に迎えられた。

2010/2/1に死去。68歳没。近年は循環器系の問題や肺気腫にかかるなどに健康に問題を抱えており、亡くなる数週間前に開胸手術を行い、リハビリを受けている最中であった。

獲得タイトル

  • NWA世界ヘビー級王座
  • フロリダ地区認定南部ヘビー級王座
  • フロリダヘビー級王座
  • ミズーリ州ヘビー級王座
  • フロリダタッグ王座

その他含め13タイトルを合計45回獲得している。

補足

  • レスリングのバックボーンを生かし、スマートなスタイルで人気を得たものの、その分力強さに欠け、また技にオリジナルなものが無かったため、同業者からの評価はあまり高くない。ジャイアント馬場は「逃げるレスリングをしていた」と評していて、ブリスコからならNWAベルトを取れると目論んでいたらしい(事実そうなった)。もっとも、ルー・テーズからの評価は高く、「すべてにおいて文句の付けようがない。NWAの権威を守った最後のレスラー」と絶賛している。
  • 生涯のライバルはドリー・ファンク・ジュニア。新人時代にかませ犬にされたことから始まり、キャリアを積んだ後もNWA王座を巡って何度も対戦している(日本でも1974年1月にこの二人の対戦は実現している)。
  • レイス・モデルのNWAヘビー級ベルトを赤のベルベットから黒革に作り変えたのはブリスコである。また同ベルトを最初に使用したのもレイスではなくブリスコである。
  • アメリカン・インディアンの血を受け継いでいる。
  • NWA王者時代の超ハード・スケジュールから、「飛行機のシートが私のベッドだ」という言葉を残した。
















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