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プロレス/格闘技
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9/22

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エル・ヒガンテ
El Gigante

1966/1/31 - 2010/9/22

ホルへ・ゴンサレス(Jorge González)はアルゼンチンのフォルモサ州エル・コロラド出身のプロレスラー。

WWFにおけるジャイアント・ゴンザレスGiant Gonzales)のリングネームでも知られる。日本では、大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントを超える長身から「超巨人」、またプリモ・カルネラのニックネーム「動くアルプス」にあやかり、南アメリカ出身であることから「動くアンデス」などの異名で呼ばれた。

来歴

母国アルゼンチンでは歴代最高の身長を持つバスケットボール選手として活躍。ナショナル選抜チームに所属し、1986年のFIBA世界選手権にも出場した。1988年、NBAドラフトの第3巡でアトランタ・ホークスに指名されるが、NBAのレベルに達することができずに廃業。ホークスと同じくテッド・ターナーが所有していたWCWのジム・ハード副社長およびジム・ロスのスカウトにより、プロレスラーに転向することとなった。

当時WCWのブッカーでもあったヒロ・マツダのもとでトレーニングを積み、1990年5月のPPV "Capital Combat" にてファンの前で紹介された後、同年7/7にメリーランド州ボルチモアで開催された『グレート・アメリカン・バッシュ'90』にてデビューを果たす。スペイン語で「ザ・ジャイアント」を意味するエル・ヒガンテをリングネームに、当日はポール・オーンドーフ&ジャンクヤード・ドッグとのトリオでフォー・ホースメン(アーン・アンダーソン、シッド・ビシャス、バリー・ウインダム)と対戦した。WCWではデビュー以来ベビーフェイスのポジションで活動し、アンドレ・ザ・ジャイアント以上の巨人レスラーとして注目を集め、1991年は2月から6月にかけてリック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に再三挑戦している。

1991/3/21には新日本プロレスの東京ドーム大会『'91スターケードin闘強導夢』に初来日、ビッグ・キャット・ヒューズを一蹴した。以降も新日本プロレスに特別参加の扱いで度々参戦し、同年8月の再来日では獣神サンダー・ライガーと凸凹タッグを結成。1992/1/4の東京ドーム大会ではビッグバン・ベイダーと対戦している。

1993年、ジャイアント・ゴンザレスと改名してWWFに移籍。ハービー・ウィップルマンをマネージャーに付けてヒールに転向し、1/24の『ロイヤルランブル'93』のランブル戦に筋肉柄の全身タイツという異様なコスチュームで乱入、ジ・アンダーテイカーを急襲した。以後、アンダーテイカーとの抗争アングルが展開され、4/4の『レッスルマニアIX』ではクロロホルムを使ってアンダーテイカーを昏睡状態にさせた。しかし、8/30の『サマースラム'93』での決着戦でアンダーテイカーに敗れ、試合後にウィップルマンと決別してベビーフェイスに転向。その後はアダム・ボムとの抗争が予定されていたが、10月にWWFを離脱した。

WWF退団後はリングネームをエル・ヒガンテに戻し、1994/5/1、新日本プロレスの福岡ドーム大会に来日して安田忠夫に勝利。以降は日本を主戦場とし、1995/2/8には仙台でグレート・ムタと対戦した。同年12月はWARに参戦し、北尾光司とのタッグや天龍源一郎との対決も実現した。

翌1996年、坐骨神経痛により引退し、アルゼンチンに帰国。近年は糖尿病との闘病を続け、車椅子での生活を送っていた。2010年9月22日、サン・マルティンの病院にて死去。享年44歳。

エル・ヒガンテvsグレート・ムタ


闘魂Vスペシャル Vol.27
ムタvsヒガンテ
闘魂VスペシャルVol.27
1995/2/8
仙台市体育館
橋本真也vsスコット・ノートン
佐々木健介/天山広吉vs飯塚孝之/中西学

Giant Gonzales Theme
Ray Rougeau Interviews The Giant Gonzalez
Giant Gonzalez Debut
WWF Undertaker vs Giant Gonzales
The giant gonzalez in his hometown
The Undertaker vs Giant Gonzalez Wrestlemania 9
"An Event of Epic Proportions"
1993/4/4 Las Vegas
giant gonzalez vs big van vader

その他 新日本プロレス
収録
1991/3/21 東京ドーム
エル・ヒガンテvsビック・キャット・ヒューズ
91 スターケードin闘強導夢 Part.2
91 スターケードin闘強導夢

1994/5/1 福岡ドーム
エル・ヒガンテvs安田忠夫
収録
94Westling Dontaku in Fukuoka Dome Part.1
94Westling Dontaku

1994/9/17
2対3ハンディキャップマッチ
エル・ヒガンテライガー/獣神サンダー・ライガーvs
エル・サムライ/大谷晋二郎/安田忠夫

1995/2/18
1対2ハンディキャップマッチ
エル・ヒガンテvs永田裕志/安田忠夫

 





ビッグ・ボスマン
Big Boss Man
1963/5/2 - 2004/9/22

レイ・トレイラーRaymond W. Traylor, Jr.アメリカ合衆国ジョージア州出身のプロレスラー。

現役選手時代は、、日本ではビッグ・ブーバーBig Bubba)などのリングネームで活躍した。

来歴

刑務所の看守を経て、1985年にプロレスラーとしてデビュー。1986年夏、ノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区に、ビッグ・ブバ・ロジャースBig Bubba Rogers)のリングネームで登場。黒スーツにソフト帽、サングラスという出で立ちで、悪徳マネージャーのジム・コルネットのボディーガードを務める。服を着たまま試合を行うスタイルが注目を集め、1987年にはミッドサウス・エリアでワンマン・ギャングやスティーブ・ウィリアムスと抗争。1988年3月には全日本プロレスにビッグ・ブーバーの名前で初来日し、ブルーザー・ブロディのパートナーにも起用された。

帰国後、WWF(現・WWE)と契約。服を着て戦うギミックはそのままに、元刑務官というキャリアのもと、制服姿の「暴力看守 ビッグ・ボスマン」に変身する。スリックをマネージャーに、警棒と手錠を凶器に用いる巨漢ヒールとしてハルク・ホーガンやダスティ・ローデスと抗争を展開した。また、ワンマン・ギャング改めアキームとツイン・タワーズTwin Towers)なる超巨漢コンビを結成してタッグ戦線でも活躍。メガ・パワーズ(ホーガン&ランディ・サベージ)、デモリッション(アックス&スマッシュ)、ザ・ロッカーズ(マーティ・ジャネッティ&ショーン・マイケルズ)などのチームと激闘を繰り広げた。

その後、大幅なウエイトダウンに成功したことを機に、1990年よりベビーフェイスに転向。権力を笠に着た悪徳看守から法と秩序を守る正義の刑務官へのキャラクター・チェンジを果たし、かつての仇敵ホーガンの相棒となってテッド・デビアスやアースクエイクらと抗争。ザ・マウンティーとの警官対決や、ネイルズとの「看守vs囚人」の遺恨試合などでも観客の声援を集めた。

1993年にWWFとの契約が終了。同年7月、全日本プロレスにビッグ・ブーバー名義で5年ぶりの再来日。年末の世界最強タッグ決定リーグ戦にもスティーブ・ウィリアムスとのコンビで参加した(WWF在籍中には1990年4/13、東京ドームで行われた日米レスリングサミットにも来日している。当時すでに本国ではベビーフェイスに転向していたが、日本ではヒールとしてジェイク・ロバーツと対戦した)。

1994年、WCWと契約。当初はザ・ボスThe Boss)をリングネームにWWF時代と同じギミックを使っていた。しかしWWF側のクレームを受け、法の番人というキャラクター・コンセプトはそのままに、ガーディアン・エンジェルGuardian Angel)に改名。ベイダーなどと抗争するがブレイクには至らず、ヒールターンしてNWA時代の用心棒ギミック、ビッグ・ブバ・ロジャースに戻る。1995/3/19のPPV "Uncensored" ではスティングからフォール勝ちを収め、同年9月には新日本プロレスに来日した。翌1996年にはnWoに加入。その後nWoを脱退して再びベビーフェイスに戻り、本名のレイ・トレイラーRay Traylor)を名乗ったが、WWF時代のような活躍を果たすことはできなかった。

1998/10/12、突如WWFに復帰し、"悪のオーナー" ミスター・マクマホンのボディーガードとしてRaw is Warに登場。リングネームはかつてと同じくビッグ・ボスマンだが、ブルーの看守服ではなく黒ずくめのSWATスタイルに変身し、マクマホン率いるコーポレーションの一員となりストーン・コールド・スティーブ・オースチンやD-ジェネレーションXと抗争する。同年12/14にはケン・シャムロックとのコンビでニュー・エイジ・アウトローズからWWF世界タッグ王座を奪取。その後もマンカインドやアル・スノーを破りハードコア王座を4回に渡って獲得し、1999年にはビッグ・ショーとスーパーヘビー級の抗争を展開、2000年はブル・ブキャナンとの暴力看守コンビで活動した。その後しばらく怪我で欠場を続け、2001年末にブッカー・Tの用心棒役で現場復帰。以降はWWFの下部団体OVWで若手選手のコーチなどを務めていたが、2003年にWWFを解雇された。

2004/8/31にはIWAジャパンの10周年記念興行に来日し、IWA世界王座争奪トーナメントに出場。WWE〜WCWを通しての宿敵であり盟友でもあるジム・ドゥガンと決勝を争った。帰国後の9/22、ジョージア州ポールディング郡ダラスの自宅にて心臓発作のため死去。41歳没。

獲得タイトル

  • UWF世界ヘビー級王座:1回(1980年代後半にビル・ワットが主宰していたミッドサウス地区の団体の王座)
  • WWF世界タッグ王座:1回(w / ケン・シャムロック)
  • WWFハードコア王座:4回

 
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松永俊国
 - 2002/9/22

全日本女子プロレス元社長、松永家5男。心不全,享年57歳
次男:松永正嗣(取締役・渉外担当)





五味隆典
1978/9/22

日本の総合格闘家。神奈川県愛甲郡愛川町出身。久我山ラスカルジム所属。元PRIDEライト級王者。

KO、一本での勝利(本人曰く『スカ勝ち』)にこだわるアグレッシブな試合が持ち味。

2006/7/22に東京都杉並区久我山に自身のジム「久我山ラスカルジム」を開き、以降はこのジム所属扱いとなっている。

来歴

16歳の時、木口道場レスリング教室に入門。木口宣昭会長のもとレスリングを学び、総合格闘技を始めた。高校を中退し、五味に警察官になって欲しかった父親との仲が悪くなり、縁を切られた。

1998年11月、修斗にてプロデビュー、以降連勝を続けた。2001/8/26にはウェルター級王座決定戦を三島☆ド根性ノ助と行う予定であったが、三島の左脇腹の負傷により試合は中止となった。12/16には佐藤ルミナに勝利し第5代修斗ウェルター級王座を獲得した。

2002年はレオナルド・サントス、クリス・ブレナンに判定勝ちし、12/14には前年に中止となった三島戦を迎える。2Rにフックでダウンを奪い、その後タックルにきた三島に打撃を浴びせTKO勝ちを収め、初防衛に成功した。

2003年8月10日にヨアキム・ハンセンに敗れ、デビュー以来の連勝は13でストップ、ウェルター級王座からも陥落した。10/10、ハワイで開催されたRumble on the Rock 4でBJペンと対戦。何度もバックマウントを取られパンチを浴び、最後はチョークスリーパーで一本負け。

その打撃技術の高さから、当初はK-1参戦が噂されていた五味だったが、総合格闘技の道を選びPRIDE武士道に参戦した。

2004年2月15日のPRIDE 武士道 -其の弐-で初参戦し、シュートボクセ・アカデミーのジャドソン・コスタにマウントパンチでKO勝ち。その後、それまで総合では無敗だったハウフ・グレイシーに試合開始6秒でKO勝ちするなど、海外選手を相手に6連続1ラウンドでのKOまたは一本勝ちを記録し名実ともにPRIDE軽量級のエースとなった。

2005年9月25日に開催されたPRIDEライト級トーナメントに出場。1回戦で川尻達也と対戦し、1ラウンドに裸絞めで一本勝ち。準決勝ではルイス・アゼレードに僅差の判定勝ち。大晦日の決勝戦では、修斗時代の先輩でもある桜井"マッハ"速人と対戦、1ラウンドにパンチラッシュでKO勝利しPRIDE10連勝を飾るとともにトーナメント優勝を果たした。

2006年3月31日、初代PRIDEライト級王者に認定された。しかし、王者としての初戦となった2006年4月2日のPRIDE 武士道 -其の拾-で、ZST GP王者のマーカス・アウレリオに肩固めで一本負け(ノンタイトル戦であったため、王座の移動は無し)。8月26日のPRIDE 武士道 -其の十二-では、フランスのデビッド・バロンに一本勝ちを収めた。11月5日のPRIDE 武士道 -其の十三-でアウレリオとの再戦がライト級タイトルマッチとして組まれた。試合は両者共に前に踏み出せずに膠着が続いたものの、判定2-1で勝利。王座の防衛に成功した。その後12月31日のPRIDE 男祭り 2006にて、アウレリオを破った石田光洋と対戦することが決まり、試合前から舌戦を繰り広げていたが、結果は五味の1ラウンドKO勝ち。

2007年2月24日、PRIDE.33で王者として初のアメリカ進出。試合前からジョルジュ・サンピエールらUFC王者と戦いたいとコメントをしていたが、五味の希望は叶わず、ニック・ディアスと対戦。1Rにフックでダウンを奪い優位に立ったが、2Rにフットチョークでタップアウト負けとなった。その後、ディアスの薬物使用(マリファナ)が発覚し、ネバダ州アスレチック・コミッションの決定により4月9日付けで無効試合となった。

3月21日、第13回全日本コンバットレスリング選手権の73kg級で優勝を果たした。その後はPRIDEの消滅もあり、2007年は試合はすることは無かった。12月29日にラスベガスで行われたUFC 79に来場したが、最終的に参戦には至らなかった。

2008年1月31日、新団体「戦極」への参戦が発表された。エースとしての扱いを受け、3月5日の旗揚げ戦・戦極 〜第一陣〜でドゥエイン・ラドウィックと対戦。1Rに左フックでダウンを奪い、出血によるドクターストップでTKO勝ち。続く8月24日の戦極 〜第四陣〜ではDEEPライト級王者ハン・スーファンに判定勝利を収めるも、11月1日の戦極 〜第六陣〜では無名のセルゲイ・ゴリアエフに1-2の判定で敗れ、2年半振りの敗戦を喫した。試合後、同大会で五味への挑戦権を賭けたライト級グランプリの優勝を決めた北岡悟との対戦が2009年1月4日に行われることが決定した。

2008年11月30日、全日本コンバットレスリング・オープン選手権73kg級に出場。決勝で永田克彦と対戦し、ポイント1-0で判定勝ちを収め、優勝を果たした。

2009年1月4日、戦極の乱2009の戦極ライト級チャンピオンシップで北岡悟と対戦し、アキレス腱固めで一本負けを喫し、王座獲得に失敗した。

2009年5月10日、5年9か月ぶりに修斗に参戦。中蔵隆志と対戦し、パウンドでTKO勝ちを収めた。試合後、リング上で「帰ってきたぜ!」と絶叫した。

2009年8月1日に開催予定であったAffliction: Trilogyでハファエロ・オリベイラと対戦予定であったが、大会が中止となった。

2009年10月30日、10年ぶりの開催となったVALE TUDO JAPAN 09のメインイベントでKOTCライト級王者トニー・ハービーと対戦し、3Rまでは優勢に試合を進めるも4Rから失速し、判定勝ちとなった。試合前には「いい勝ち方をしてリング上で言いたいことがある」と発言していたが、試合後のリング上で「大晦日に魔裟斗選手と…無理だよ。やめる!」と大晦日での引退を公表している魔裟斗との対戦を考えていたものの、納得した勝ち方ができなかったことで尻すぼみの発言となった。

UFC

2010年1月にUFCと契約したことを発表。UFCデビュー戦となった3月31日のUFC Fight Night: Florian vs. Gomiのメインイベントではケニー・フロリアンにチョークスリーパーで敗れ、黒星デビューとなった。

2010年8月1日、UFC on Versus: Jones vs. Matyushenkoではタイソン・グリフィンに開始1分余りで右フックによるKO勝ちを収め、UFC初勝利を挙げるとともにノックアウト・オブ・ザ・ナイトを獲得した。試合後に十八番の駆け上りを金網で実現するも、金網を上ったことを注意された。

2011年1月1日、UFC 125でクレイ・グイダと対戦するも2R終盤にギロチンチョークで一本負けを喫し、UFCでの戦績を1勝2敗とした。

獲得タイトル

  • PRIDE GP 2005 ライト級トーナメント優勝(2005年)
  • 初代PRIDEライト級王座(2006年)
  • 第5代修斗ウェルター級世界王座
  • コンバットレスリング 69kg級 3位(1998年)
  • コンバットレスリング 69kg級 優勝(2001年)
  • コンバットレスリング 74kg級 優勝(2002年)
  • コンバットレスリング 74kg級 優勝(2003年)
  • コンバットレスリング 73kg級 優勝(2007年)

人物

  • 火の玉のようなファイトスタイル、破天荒な性格から男性ファンが非常に多く、各界著名人にもファンが多い。
  • 『人志松本のすべらない話』(2009年12月26日放送分)にゲスト出演。千原ジュニア・松本人志が五味の大ファンであり声をかけたとみられる(千原からの指名で雑誌での対談もしている)。千原のマネージャーネタをうけ、自らのマネージャーネタを披露した。
  • マネージャー(マネジメント全般)は中学からの親友・市川広樹。『Abaddon』でも実名で登場しており、二人の信頼関係がうかがえる。
  • THE MAD CAPSULE MARKETSの大ファン。トランクスにロゴを入れ、PRIDE時代の入場曲に「SCARY -Delete streamin' freq. from fear side-」を使用していた(2010年8月1日のUFC on Versus: Jones vs. Matyushenkoのタイソン・グリフィン戦から「SCARY -Delete streamin' freq. from fear side-」に戻している)。また、矢沢永吉を崇拝している。
  • トレーディングカードゲーム「ディメンション・ゼロ」のイメージキャラクターでもあり、本人出演(本人がCM台本を読んだ)のCMもある。
  • 吉祥寺のハーモニカ横丁でよく飲んでいる(本人のブログより)
  • 中学時代は野球部に所属。ピッチャーを務める。

Abaddon

  • 週刊ヤングマガジンで連載。新宿スワンの著者である和久井健が五味を主人公に描く。和久井が五味の大ファンであることから実現。
  • 2010年3月15日発売号より前半連載開始(8回)。2010年7月23日第1巻(単行本)が発売。
  • 2010年12月6日発売号より2週のみ連載復活。以降不定期で更新予定。

スカ勝ち

修斗時代には判定勝利も多かった五味だが、PRIDE武士道ではKO率8割を誇り、しかもその全てが1Rで決着するというストライカーである。五味自身、KO勝利を「スカ勝ち」と呼び非常にこだわっており、2004年12月31日のPRIDE 男祭り 2004では勝利後にリング上で「大晦日に判定?駄目だよ、KOじゃなきゃ!」と発言している。






ボブ・サップ
Robert Malcolm "Bob" Sapp
1974/9/22

アメリカ合衆国のキックボクサー、総合格闘家、プロレスラー。コロラド州コロラドスプリングス出身。元はNFL選手であったものの、遠く日本の地における格闘技の活動から大いなる人気を獲得。2000年代の日本における最も有名なアメリカ人の一人であり、2000年代以降、金城武と並んで、女性誌ananの『抱かれたい男』ランキングに登場した唯一の外国出身者でもある。ニックネームは「ザ・ビースト」。

来歴

少年時から様々なスポーツに取り組み、高校時で既に体重115kgという大柄だった。17歳でワシントン州シアトルにあるワシントン大学にアメリカンフットボールの奨学生として入学し、学業では社会学と薬学を専攻。カレッジフットボールではオフェンスのラインとして活躍し、NFL入りを表明したため、大学は3年間で特進卒業した。

1997年、NFLのシカゴ・ベアーズにドラフト3巡(全体69位)指名で入団するも、度重なる故障に見舞われ、翌シーズンにミネソタ・バイキングスに移籍。さらにボルチモア・レイブンズへ移籍するも両足のアキレス腱を痛め、負傷前の実力を取り戻すに至らなかったため、2000年に現役続行を断念。代わってアメリカのプロレス団体であるWCWに転向・参戦したが、WCWが倒産したため数試合の出場のみにとどまった。

その後、同じく元WCWの選手でかつてK-1に参戦していた友人のサム・グレコの紹介でK-1にスカウトされ、2002年、格闘家としてPRIDE、K-1に参戦。試合ではフットボールの経験を生かした肉弾的な戦いを得意とし、自らをビーストと呼ぶことから、「野獣」「ビースト」といったキャッチコピー(ちなみに、PRIDEにデビューした当初は「暗黒肉弾魔人」)を得た。

2002年8月にPRIDE王者のアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラに善戦し、さらに10月と12月にK-1王者のアーネスト・ホーストに勝利したことで格闘技ファンにも実力を認められ、一方、私生活では知性派であることがメディアに紹介されるにつれ、そのギャップから親しみやすいキャラクターとして話題を呼び、日本の数多くの番組やテレビCMに多く出演することとなった。2004年には映画『IZO』、『デビルマン』に出演した。また、漫画「バビブベボブボブ!!さっぷくん」が月刊コロコロコミック(2003年7月号 - 2006年4月号)に連載された。

2002/4/28、PRIDE.20で日本デビュー。山本憲尚(現山本宜久)を1R2分44秒で下す。

2002/6/2、K-1 SURVIVAL 2002で中迫剛と対戦、K-1ルールを無視して中迫を投げ飛ばし上から殴るなど暴走し反則負け。乱闘騒ぎになる大荒れの試合となった。試合後、石井和義館長は「このままでは収まらない。2人にはきっちり決着をつけさせる」と明言した。

2002/6/23、PRIDE.21で田村潔司と対戦、開始11秒でKO勝利。

2002/8/28、Dynamite!にてアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラに2ラウンド4分02秒で一本負けを喫するも、ノゲイラのフィニッシュ・ホールドである三角絞めを、持ち上げてリングに叩きつけて阻止するなど、その怪力ぶりを発揮。

2002/9/22、K-1 ANDY SPIRITSでシリル・アビディと対戦し、KO勝ち。

2002/10/5、K-1 WORLD GP 2002 開幕戦にてアーネスト・ホーストと対戦、パンチと圧力で攻め1R終了時にドクターストップによりTKO勝ち。K-1を3度制したホーストに勝利したことで知名度は急上昇する。

2002/11/17に、サップをエースとするK-1によるプロレスイベントWRESTLE-1が旗揚げ。フジテレビは「ボブ・サップのバトル・エンターテイメント W-1」というサップの冠番組としてゴールデンタイムに録画中継した。

2002/12/7、K-1 WORLD GP 2002 決勝戦のGP準々決勝にてアーネスト・ホーストと再戦、2R2分53秒でKO勝ち。しかし右拳を骨折しGP準決勝を棄権した。王者になったのは、サップに2度負けたホーストだった。

2002/12/31、INOKI BOM-BA-YE 2002ではプロレスラーの高山善廣相手に打撃では勝負をせずにタックルで倒し、腕ひしぎ十字固めで一本勝ちを収めた。

2003/3/5、フジテレビのバラエティ番組「力あわせてゴーゴゴー!!」内の企画で、シングル「SAPP Time!」をリリースした。オリコン週間チャートは最高28位。

2003/3/30、K-1 WORLD GP 2003 in さいたまでミルコ・クロコップと対戦し、左ストレートでKO負け。試合後、右眼窩内側壁骨折および右眼窩壁骨折と診断された。

2003/8/15、K-1 WORLD GP 2003 in ラスベガスでキモと対戦、2R1分11秒右フックでKO勝ち。試合終了後、マイク・タイソンを挑発した。

2003/10/11、K-1 WORLD GP 2003 開幕戦にてレミー・ボンヤスキーと対戦、2Rに倒れたレミーを殴ってしまい反則負け。

2003/12/31、K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!にて曙太郎と対戦、1R2分58秒でKO勝ち。そのシーンは瞬間最高視聴率で民放がNHK紅白歌合戦を史上初めて上回り、大きな話題となった。

2004/3/28、新日本プロレスにて佐々木健介と対戦、8分24秒体固めで勝利し、第37代IWGPヘビー級王座につく。

2004/5/3、新日本プロレスにて中邑真輔と対戦、12分31秒体固めで勝利し、IWGPヘビー級王座の初防衛に成功する。

2004/5/22のK-1 ROMANEXで藤田和之と対戦、序盤でテイクダウンをとられ、一方的に藤田の打撃を浴びタップアウトで敗北。試合後、保持していたIWGPヘビー級王座を返上。

2004/12/31、K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!においてジェロム・レ・バンナと、1Rと3RはK-1ルール、2Rと4Rは総合格闘技ルールで行うミックスルールで対戦し、時間切れ引き分け。

2005年5月からサム・グレコの下で修行し、6/14のK-1 WORLD GP 2005 IN HIROSHIMAで開催されたJAPAN GPに出場。中尾芳広、堀啓、富平辰文を破り優勝。

総合格闘技大会HERO'Sでは、2005/3/26にキム・ミンスに右ストレートでKO勝利、7/6にはアラン・カラエフに左ストレートでKO勝利を収めた。11/5には「HERO'S 2005 in SEOUL」においてキム・ジョンワンに、8秒でKO勝ち。

並行してプロレスにも参戦。2005/8/4、「WRESTLE-1 GP 2005 開幕戦」においてジャイアント・バーナードと対戦し、5分30秒、横入りエビ固めで勝利。

2005/10/2、「WRESTLE-1 GP 2005 2回戦」において秋山準と対戦し、7分21秒、ビーストボムからのエビ固めで勝利。

2006/5/13、K-1 WORLD GP 2006 IN AMSTERDAMにおいて、アーネスト・ホーストの国内引退試合の相手を務めるはずであったが、契約問題のこじれから試合直前になって試合をボイコット。この件でサップは弁護士を介しての声明文や外国人記者クラブで会見を行うなどし、一方、FEG社長谷川貞治もサップへ法的措置をとると会見するなどして、両者で争うことになった。『サンデー毎日』2006年12月31日号では、映画に出演すると共に、獣医を目指して勉強中と報じられた。10/15にはWWEのトライアウトを受けていた。

2007/2/10、Cage Rage 20のリングに上がり、4/21のCage Rage 21への参戦を表明したが、開催直前になって出場がキャンセルされた。

2007年6月、サップを契約違反として民事裁判の提訴をしたK-1と和解、6/23のK-1 WORLD GP 2007 IN AMSTERDAMでピーター・アーツと対戦。試合は、開始早々突進しみぞおちへの左膝蹴りを受けダウン、そのまま立ち上がらず26秒でKO負けを喫した。その姿に観客からは大ブーイングとともにリングに物が投げ入れられた。試合後の会見で谷川貞治K-1イベントプロデューサーは裏切られたと不快感を露わにした。なおこの試合前に発表されたサップの体重は180kgと、1年前に比べ20 - 30kg重く体が緩んでいた。各メディアで練習不足による肥満が指摘された。

2007/10/16、ハッスルの会場に姿を現し、モンスター・ボノの「バブー」をパロって「ボブー」と言った。11/22、ハッスルマニア2007でHGに勝利。

2007/12/31、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!でボビー・オロゴンと対戦、パウンドでKO勝ち。

2008/2/23、米国での総合格闘技デビュー戦となるStrikeforce: At The Domeでヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤと対戦し、パンチを連打されTKO負け。Strikeforceとは15試合の長期契約を締結したと報道された。

2008/12/31、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2008〜のDJ OZMAプロデュース試合でキン肉万太郎と対戦し、スタンドパンチ連打でTKO勝ちを収めた。

2009年1月、プロ野球北海道日本ハムファイターズの坪井智哉と東京都内のジムで自主トレーニング(格闘技トレーニング)を行った。

2009/5/26、DREAM.9のスーパーハルクトーナメント1回戦でミノワマンと対戦し、アキレス腱固めで一本負け。

2009/6/27、Ultimate Chaosでボビー・ラシュリーと対戦し、グラウンドパンチで1ラウンド3分17秒、タップアウト負け。闘争心を見せない試合ぶりに観客からブーイングを浴びる。

2009/10/6、ゲガール・ムサシの負傷欠場により敗者復活となり、DREAM.11のスーパーハルクトーナメント準決勝でソクジュと対戦し、パウンドでTKO負け。

2010年、格闘家として第一線を退き、韓国でトークショーの司会や、会社の経営に乗り出していると明言。

2010/11/27、スウェーデンのRumble of the Kingsのメインでユルゲン・クルトとK-1ルールで対戦し、ひざ蹴り一発で戦意を喪失して、タオル投入による1ラウンド98秒のTKO負け。

2010/12/31、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜で鈴川真一とIGF特別ルールで対戦する予定だったが、試合放棄したため、「サップの戦意喪失」として不戦敗扱いとなった。

獲得タイトル

  • 第37代IWGPヘビー級王座
  • K-1 WORLD GP 2005 IN HIROSHIMA JAPAN GP 優勝

FEGとの争い

2006年K-1オランダ大会ボイコット

2006/5/13、K-1 WORLD GP 2006 IN AMSTERDAMにおいて、アーネスト・ホーストの国内引退試合の相手を務めるはずであったが、契約問題のこじれから試合直前になって出場を固辞、試合をボイコットした。FEG側の説明では「(サップ側から)試合前に無理難題を吹っかけられ、拒否したら突然『やらない』と言い出した」としていて、その無理難題の内容は「契約上明かすことは出来ない」として説明を避けた。契約上問題があると法的措置も検討していて、K-1永久追放の可能性も示唆していた。この時谷川の口から4/23プロレスリング・ノア日本武道館興行のオファーを蹴っていることが明かされた。本人はハッスルに参戦したいと語っていた。

2006/6/27、K-1オランダ大会ボイコットの件に関しての声明を発表し、当時の詳細を語った。その中でサップは、オランダでK-1を共催した人物から脅されたとも語っている。これに対し6/29、K-1サイドは「事実に反する」と反論し、サップ側から長期契約からのリリースの要求があったと主張。さらに7/3、ボブ・サップの代理人から、K-1サイドの事実誤認に対する指摘がなされた。その後2007年6月、サップ側の申し入れによりFEGと和解、6/23のK-1 WORLD GP 2007 IN AMSTERDAMに出場することとなった。しかし、試合内容に激怒した谷川は、損害賠償などの法的措置を取り下げないことを発表した。

2010年Dynamite!!試合放棄

2010年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜に、エグゼクティブプロデューサーに就任したアントニオ猪木による提供試合として鈴川真一の対戦相手としてIGF特別ルールでマッチメイクされた。しかし大会当日になってサップが試合放棄したことにより、戦意喪失による鈴川の不戦勝と発表された。これを受けて谷川は1月1日の記者会見の場にて「二度と呼ぶことはないでしょう」と事実上のFEG関連興行からの永久追放を宣言した。谷川はサップが「売店で俺のフィギュアが売っているが、ロイヤリティをもらってない」と言っていたという。さらに素手で戦うIGF特別ルールがプロレスなのか格闘技なのかの解釈の違いがファイトマネーのトラブルの原因になったという憶測については、FEGもIGFも格闘技のつもりでオファーしたとしている。一方、サップの側は、3万ドルのファイトマネーでFEGからオファーされたのに来日すると1万5千ドルに半減されたのが試合放棄の原因だとインターネットメディアで主張した。対戦相手だった鈴川が所属するIGFの渉外のサイモン・ケリー猪木はTwitterで、一番悪いのは主催のFEGだとサップに同情するコメントをしている。

人物

  • 出生年には1973年生まれ説と1974年生まれ説があるが、これはサップの両親が離婚して、両親の出生届けが父(1973年)、母(1974年)となったためである。
  • 身長に関しては諸説あるが、PRIDE初参戦時は205cmと紹介されていた。後にK-1にも出場、そのときは200cmに訂正された。大学フットボール時代ならびにNFL時代は6フィート4インチ≒193cmである。
  • NFL時代のパワーリフトMAXは、ベンチプレス266kg、インクラインベンチ363kg、パワークリーン191kgと公表している。また、100mを11秒台で走っていた。
  • 格闘家として活躍時の体脂肪率は11 - 13%程度で、筋力維持のため毎日400g程度のプロテインパウダーを摂取しトレーニングに励んでいた。また、その低い体脂肪のせいで水の中では沈んでしまい、ビート板がないと泳ぐことができない。
  • 家族構成は警察官の父親、専業主婦の母、兄、妹、2人の弟がいる。
  • 昔はバーの用心棒をしていた。
  • 利き手(書字など)は左だが、利き腕(ストレートパンチなど)は右である。
  • プロレス転向時には自前でプロモーションビデオを製作し、団体に売り込んだ。
  • 1日に7回食事をする。
  • シアトルに豪邸を持っていて、中にはホームシアターが完備されている。
  • 「トリニティ」という名前のサーバルキャット(メス)を飼っていた。
  • 実兄までもがK-1に参戦する発表があったが、怪我をしたという理由で試合がキャンセルされた。
  • 教育熱心で厳格な家庭で育った。特に両親の離婚後母の教育熱がエスカレートし、テレビは教育テレビのみ視聴することを許されていたとインタビューで語った。

スポーツマン№1決定戦成績表

  • ワークアウトガイズ ミルク缶が連結していなかったので失格
  • スピンオフ №1
  • ザ・タッグオブウォー 準決勝敗退(3位)
  • ザ・ガロンスロー 2004年大会5m50cm 2006年大会7m00cm

出演

映画

  • IZO(2004年) - 門衛の怪物
  • デビルマン(2004年) - モリソン
  • エレクトラ(2005年) - ストーン
  • ロンゲスト・ヤード(2005年) - スウィトウスキ
  • Big Stan(2005年) - Big Raymond
  • Blood and Bone(2009年) - Hammerman
  • Frankenhood(2009年) - Frankie
  • Conan the Barbarian(2011年) - Ukafa

テレビ

  • 日本列島元気満点!力あわせてゴーゴゴー(フジテレビ) - ぼぶはげ
  • 笑いの金メダル(テレビ朝日) - 途中降板(実質的出演は3回)
  • USO!?ジャパン(TBS) - ゲスト
  • 天才てれびくんMAX(NHK教育) - コーナーゲスト
  • 志村けんのバカ殿様(フジテレビ) - ゲスト
  • 東京ラブ・シネマ(フジテレビ)- 第1話ゲスト
  • 逮捕しちゃうぞ(テレビ朝日) - 第6話ゲスト

CM

  • バイク王
  • UHA味覚糖(ぷっちょ、シゲキックス)
  • ピザーラ(エビマヨ)
  • コカ・コーラ(ジョージア)
  • ライオン(ソフト&ドライ)
  • ロッテ(モナ王)
  • 松下電器産業(DIGA)
  • スパワールド
  • olleh(韓国携帯電話)
  • 日清食品(日清焼きそばカップ Wからしマヨネーズ)

出版物

書籍

  • ザ・ビースト ボブ・サップ公式マガジン (扶桑社、2002年)

CD

  • SAPP Time!(ロッテ「モナ王」CMソング、2003/3/5)

ビデオ

  • SAPP Time!(DVD版・VHS版、2003/5/21)

  



レオ北村
1969/9/22

本名:北村 真実は、日本の元女子プロレスラー。

身長163.5cm、体重63kg、血液型B型。神奈川県横浜市出身。

経歴・戦歴

1989年
  • 1/14、埼玉・本庄市民体育館において、対半田美希戦でデビュー。
1991年
  • LLPW旗揚げに参加。





スペル・デルフィン
Super Delfin
1967/9/22

大阪プロレス、沖縄プロレスの創始者。イルカをモチーフとした覆面レスラーである。本名:脇田 洋人(わきた ひろと)。大阪府和泉市出身。かつてモンキー・マジック・ワキタのリングネームで活動していたこともある。沖縄プロレス所属。ザ・グレート・サスケ、ウルティモ・ドラゴンと並びジャパニーズ・ルチャの立役者の一人で、"Sr.Perfecto"(セニョール・ペルフェクト、英語のミスター・パーフェクトと同義)というニックネームを持つ。妻はタレントの早坂好恵。

来歴

デビュー

  • プロレス入り前にはサンボを経験している。父親は土地家屋調査士で、若い頃、父の測量現場の仕事なども手伝っていた。デビュー戦は、1989/3/19オランダのアムステルダムのエイデンホールにおける対ブルドッグKT(現:外道)。その後、たけしプロレス軍団、FMWを経て、ユニバーサル・プロレスリングに参加。
FMW所属時代、日本国外の試合に出るため乗った飛行機がエアポケットに入って強い揺れに見舞われて散々な目にあって以来、大の飛行機嫌いとなる。
  • ユニバーサル時代の初期には前座として『モンキーマジック・ワキタ』のリングネームで、MASAみちのく(現:ザ・グレート・サスケ)と組み、ブルドッグKT&クーリーSZ(現:邪道)と主に対戦。その後、MASAみちのくと共にメキシコに渡った。

メキシコでの活動

  • 1991年、スペル・エストレージャ'91というシリーズにてアカプルコ出身の謎の覆面レスラー、スペル・デルフィン(当時のマスクは、顎まで覆うタイプ)として一度帰国するも正体は明かさなかった。デルフィンはしばらくしてリンピオからルードに転向し、シリーズ後に再度メキシコに遠征する。
  • メキシコで漫画『THE MOMOTAROH』をモチーフにした覆面レスラー、モモタロウなる覆面レスラーとなり、スコルピオ・ジュニアやアンヘル・モルタルらとともにルードとして活躍する。なお、このマスクは帰国後に著作権の関係もあり使用できなくなったが、当作品の原作者であるにわのまことは、『モモタロウ』という名前のレスラーが実現したことを喜んでおり、その旨のコメントと自身のイラスト入りのハガキを週刊プロレスに投稿し、同誌読者欄に掲載された。

帰国

  • 1992年、スペル・エストレージャ'92というシリーズにて再度帰国。モモタロウのマスクを被り、モンキーマジック・ワキタのリングネームで試合に登場したが、三本勝負での二本目でスペル・デルフィンのマスクの上に被っていたモモタロウのマスクを脱ぎ捨て、以降はスペル・デルフィンとして活動することを表明した。

みちのくプロレス参加

  • ユニバにて、ブラックマンをマスカラ・コントラ・マスカラで破ったり、セレスティアルを破りUWFスーパーウェルター級王座に就くなどして活躍するが、ユニバーサルの経営難によるギャラの不払いに端を発し、1993年、ザ・グレート・サスケのみちのくプロレス旗揚げに参加、ルード集団のデルフィン軍団を率い、サスケのライバルとして一時代を築いた。
  • 1994年に行われた新日本プロレス主催の第1回のベスト・オブ・ザ・スーパージュニアでは優勝決定戦まで進出したが、この試合では半分がライガーのコスチューム(通称:デルイガー)で登場する。デルフィンはこのシリーズ参戦で広く人気を獲得し、プロレス雑誌の好きなレスラー1位になった。
この頃、前途した飛行機嫌いゆえ、大阪の自宅から新幹線で岩手まで通っていた。

股くぐり事件

  • 1995年、ディック東郷率いる平成海援隊(後に「海援隊DX」にチーム名変更)と抗争状態になるが、この頃から試合での不甲斐なさが目立ち、他のデルフィン軍団が奮闘する中デルフィン一人がダウンしている事も多くなった。マスクも破られたり、剥ぎ取られて素顔を晒して制裁を受ける事も度々だった。見かねたサスケ率いる正規軍とも共闘する(この時点でデルフィン軍団は正規軍に吸収されたといえる)が状況は変わらず、頂上決戦となった浪江町での大会におけるデルフィン対ディック東郷戦において、デルフィンが東郷の猛攻で戦意喪失、「俺の股をくぐれば許してやる!」と東郷のマイクアピールを受け、言われるがまま四つん這いで股をくぐる。東郷のアピールは嘗て覆面剥ぎマッチや髪切りマッチなどで連敗した高く厚い壁であったデルフィンのあまりの不甲斐なさに業を煮やして、そこまで言われれば発奮するだろうと思っての事だったが、本当にくぐった事で海援隊メンバーは激怒、逆にそれまで以上の制裁を受け、マスクを破られコスチュームを切り裂かれ、着色スプレーで背中に「バカ」と書かれるという事件が発生。怒った観客は暴動を起こし、デルフィンはシリーズ途中で失踪してしまう。
  • その後、試合会場に素顔にサングラス姿のデルフィンが現れ、試合後のサスケが檄を飛ばし、デルフィンは復帰を宣言。
  • デルフィンは新たに「大阪臨海アッパー」なる技を習得して復活。肉体改造にも成功して、復帰戦となった両国国技館「竹脇」大会の6人タッグでは上半身裸のコスチュームで以前との筋肉の違いを見せつけ、観客からは「すげえ・・・」という声も上がった。試合の最後で東郷に「大阪臨海アッパー」を決めてKO、雪辱を果たした。(なお、プロレスでは拳で殴るのは反則のため、本技は掌打である)

大阪プロレス旗揚げ

  • 海援隊DXがWWF(現:WWE)参加のため離脱。デルフィンは今後の団体運営に対する考え方で、サスケと対立するようになめる。
  • 1999年、薬師寺正人、星川尚浩、瀬野優(大王QUALLT)、練習生の木川勇人(現怪人ハブ男)、レフェリー松井幸則ら、とともにみちのくプロレスを退団。大阪プロレスを旗揚げする。以降からサスケとは絶縁状態が続いた。
  • 2003年、サスケが議員になったことにより、社長となった新崎人生のブッキングによって、みちのく10周年大記念会にて、サスケvsデルフィン戦が実現し、デルフィンが勝利する。
  • また、この頃に大阪プロレスの事務局長も務めていた元タレントの夫人と二度目の離婚。(初婚は一般女性)
えべっさん(現・菊タロー)の紹介で、2003/12/24タレントの早坂好恵との再婚を果たした。
大阪プロレス名物六人タッグではえべっさんから「誰が嫁さん紹介したんや~!」としばしネタにされ観客の笑いを誘い、会場は微笑ましい空気に包まれた。
  • 大阪プロレスでは2006年2月26日、ギミック上の弟であるスーパードルフィンをデルフィンスペシャル0号で破り大阪プロレス王者となった。4月16日松下IMPホールではみちのくプロレス社長の新崎人生と初のシングルマッチを行い、勝利している。5月21日、大阪プロレスIMPホールにて南野たけしと大阪プロレス王者&東北ジュニアヘビー級ダブルタイトルマッチを行いジャーマン・スープレックス・ホールドで勝利。二冠王になる。6月10日には、7年半ぶりにみちのくプロレスへ参戦し、気仙沼二郎に勝利して初防衛に成功した。
  • 8月26日にビリーケン・キッドに敗れ大阪プロレス王座を失う。10月8日にはみちのくプロレスのザ・グレート・サスケとの防衛戦ではサスケにジャーマン・スープレックスで敗れ、東北ジュニアヘビー級王座も失った。
  • 2007年2月5日、浪人中だった中村紀洋が堺浜野球場で行なった架空キャンプに球拾いなどの手伝いで参加。

沖縄プロレス旗揚げ

  • 2006年、沖縄県産業振興公社「沖縄ベンチャービジネスサポート事業」に応募。
  • 2007年5月、沖縄プロレスが「2007年度沖縄ベンチャービジネスサポート事業」に採択される。その頃、沖縄プロレスの経営に専念することを決意。2007年8月、「大坂プロレス」を売却。
  • 2008年2月、大坂プロレスの取締役社長を解任される。
  • 2008年5月、沖縄プロレス株式会社を設立。
  • 2008年7月、沖縄プロレス旗揚げ。
  • 2008年9月を最後に、大阪プロレスの興行には参戦していない(沖縄所属選手の参戦も2008年10月が最後、ただし大坂プロレス所属選手の自主興行には参戦する場合もある)。
  • みちのくプロレス15周年ノスタルジックツアーシリーズ参戦。

タイトル歴

  • 大阪プロレス王座
  • スーパーウェルター級
  • UWA世界ウェルター級
  • CMLL世界ウェルター級
  • 東北ジュニアヘビー級王座
  • NWA世界ウェルター級
  • NWAインターナショナルジュニアヘビー級

リングネーム

これまでデルフィンが名乗ったリングネーム。

  • スペル・デルフィン
  • モンキーマジック・ワキタ
  • モモタロウ

人物像

趣味

プロ野球チームのユニフォーム収集が趣味。かつてプロ野球のパリーグに在籍していた大阪近鉄バファローズのファンであった。元大阪近鉄バファローズの外野手・内匠政博は、リトルリーグ時代のチームメイトである。他にも、Jリーグのセレッソ大阪ファンである。また、ヒーローものを中心としたフィギュア収集も趣味で、プロレス界ではライガーもフィギュア収集が趣味で有名である。ちなみにライガーの夫人は自身の飼い犬に「デルフィン」と名付けるほどデルフィンの大ファンである。


デルフィン社長の秘密基地





オレイ・アンダーソン
Ole Anderson
1942/9/22

アラン・ロゴウスキーAlan Robert Rogowski)は、アメリカ合衆国の元プロレスラー、ブッカー。ミネソタ州ミネアポリス出身のポーランド系アメリカ人。

来歴

ミネソタ州立大学でレスリングの選手として活躍後、1967年8月に地元ミネアポリスのAWAにて、ロック・ロゴウスキーRock Rogowski)のリングネームでデビュー。レスリングの下地を持つ若手ヒールとして頭角を現し、AWAの新人賞を獲得した。1960年代末よりNWA圏のミッドアトランティック地区に転出し、オレイ・アンダーソンと改名。ジン・アンダーソン&ラーズ・アンダーソンのミネソタ・レッキング・クルーThe Minnesota Wrecking Crew)に加入する。

以降、ラーズ脱退後のジンのパートナーとなり、1970年代全般にかけてミッドアトランティックやジョージア州のGCWGeorgia Championship Wrestling)など、NWAの南部テリトリーを席巻。ミッドアトランティックではリック・フレアー&グレッグ・バレンタインやダスティ・ローデス&ディック・スレーターなどの強豪チームを破り、NWA世界タッグ王座を再三獲得した。GCWではラーズともコンビを組み、1978年3月にミスター・レスリング2号&トニー・アトラス、1980年6月にイワン・コロフ&アレックス・スミルノフを下しジョージア・タッグ王座を奪取している。

ジンとのコンビ解消後はGCWを本拠地とし、ワフー・マクダニエル、ジャック・ブリスコ、トミー・リッチ、マスクド・スーパースター、スタン・ハンセンらと激闘を展開。ハンセンとはタッグも組んでおり、1982/2/28にアトランタで行われたミッドアトランティック版NWA世界タッグ王座の争奪トーナメントでは、ハンセンとのチームで優勝を飾っている(このトーナメントには日本からジャンボ鶴田と天龍源一郎の鶴龍コンビも出場しており、両チームは準決勝で対戦した)。

GCWではプロモーターのジム・バーネットの懐刀となりブッカーも兼任していたが、1984/4/9、GCWがビンス・マクマホンのWWFに買収されたために失脚(「ブラック・サタデー」の項も参照)。以降は新組織のCWG(Championship Wrestling from Georgia)に参画し、1985年4月にミッドアトランティックのジム・クロケット・プロモーションズがCWGを吸収合併すると同団体に移籍。CWGでのパートナーだったミネソタ・レッキング・クルーの「四男」アーン・アンダーソンとのタッグチームで活動し、1986年からはアーン、リック・フレアー、タリー・ブランチャードらとフォー・ホースメンThe Four Horsemen)を結成した。

クロケット・プロがテッド・ターナーに買収されてWCWに移行してからはセミリタイアし、ジョージア時代と同様にブッキング業務を担当。1990年にはヘッド・ブッカーに就任した。しかし1993年末、息子のブライアン・ロゴウスキー(ブライアント・アンダーソン)を売り込むためにジム・コルネットのSMWと接触したことが原因でエリック・ビショフによって解雇された。その後はプロレスリング・ビジネスとの関わりを絶っていたが、WCW崩壊後の2003年に自伝 "Inside Out" を編集者との共著で発表している。

ブッカー兼務で多忙だったこともあり、来日回数は通算3回と少なく、初来日は1970年1月の日本プロレス、再来日は1973年10月の国際プロレスで、それぞれジン・アンダーソンとのコンビで参戦した(日プロではアントニオ猪木&吉村道明のアジアタッグ王座に、国プロではラッシャー木村&グレート草津のIWA世界タッグ王座に挑戦している)。3度目は1986年3月、旧友スタン・ハンセンの仲介で全日本プロレスに来日し、久々の日本マット登場を果たした。このときはレスラーとしてよりも、当時のアメリカにおけるNWAとWWFのレスリング・ウォーの内情を知る人物として関係者の注目を集めた。

エピソード

  • 毒舌家として知られ、ブッカー時代はブラックジャック・マリガンをはじめ選手との衝突も少なくなかった。しかし、スタン・ハンセンは彼の口の悪さをジョークとして受け流し、時には悪口で切り返すことで親友になったと自著で述懐している。ハンセンはオレイのことを、アメリカン・プロレス全盛時におけるベスト・ブッカーだったと高く評価している。
  • GCWがWWFに買収された翌日、TBSのスタジオに入ろうとしたビンス・マクマホンとゴリラ・モンスーンに対し「ここから消え失せろ」などと毒づいた。その際、ビンスは和解案として協働を持ちかけたものの、オレイは嫌悪感を露わにしながらそれを拒絶したという。オレイはGCWの株式を10%保有していたが、主要株主のブリスコ兄弟(ジャック&ジェリー)と不仲だったこともあり、WWFとGCWの株取引はオレイ不在の状態で進められていた。

獲得タイトル

AWA
  • AWAミッドウエスト・ヘビー級王座:1回
  • AWAミッドウエスト・タッグ王座:2回(w / オックス・ベーカー、ザ・クロウ)
CWF
  • NWAフロリダ・タッグ王座:1回(w / ロン・ガービン)
  • NWAフロリダTV王座:1回
GCW
  • NWAコロンバス・ヘビー級王座:1回
  • NWAジョージア・タッグ王座:17回(w / ジン・アンダーソン×7、イワン・コロフ×5、ラーズ・アンダーソン×2、レネ・グレイ、アーニー・ラッド、ジェリー・ブリスコ)
  • NWAジョージアTV王座:2回
  • NWAメイコン・ヘビー級王座:1回
  • NWAメイコン・タッグ王座:1回(w / ジン・アンダーソン)
  • NWAナショナル・タッグ王座:1回(w / サンダーボルト・パターソン)
  • NWAサウスイースタン・タッグ王座(ジョージア版):1回(w / ジン・アンダーソン)
JCP / WCW
  • NWAアトランティック・コースト・タッグ王座:4回(w / ジン・アンダーソン)
  • NWAイースタン・ステーツ・ヘビー級王座:1回
  • NWAミッドアトランティック・タッグ王座:3回(w / ジン・アンダーソン)
  • NWAナショナル・タッグ王座:1回(w / アーン・アンダーソン)
  • NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版):8回(w / ジン・アンダーソン×7、スタン・ハンセン)
  • WCW Hall of Fame(1994年)
SECW
  • NWAサウスイースタン・ヘビー級王座(北部版):1回










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