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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
9/23

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今日は何の日?


柳沼寛香
1981/9/23

日本の女子プロレスラー。

福島県郡山市出身。LLPW所属 (メキシコ無期遠征中)。

身長 158cm、体重 61kg。

リングネームレヴン寛香としての活動で知られる。現在はリングネームをHIROKAと改め、メキシコマットで活動中。メキシコではボーイッシュなスタイルのルチャドーラの需要が少ないため、ショートだった髪を伸ばし、フェミニンなスタイルで戦っている。

夫はCMLLで活躍するミゼットレスラー、ペケーニョ・ダミアン666。

動物が好きで、メキシコでペットショップ「KENTA」を経営している。

経歴

2002/9/18、LLPW北海道礼文島・潮騒ドーム大会でデビュー。リングネームの「レヴン寛香」はこのデビューの地・礼文島から取った。

2006/6/10、アレナ・メヒコでマルセラを下し、CMLL世界女子王座を獲得。10/13にはレディ・アパッチェを髪切りマッチで下したものの、12/25の再戦に敗れ王座から転落した。

2007年1月に久々に日本マットに登場し格闘美や無我ワールド・プロレスリングなどで試合をおこなう。






金丸義信
1976/9/23

日本のプロレスラーである。山梨県甲府市出身。愛称は「マルさん」。
毎日放送のアナウンサー、武川智美とは従姉弟の間柄にある。

経歴

山梨学院大学附属高校時代は野球部に所属し、1994年春の選抜高校野球に控え投手として出場経験を持つ(元プロ野球・オリックスの五島裕二は同級生)。ジャンボ鶴田後援会関係者の口添えでジャイアント馬場と面談し、高校卒業と同時に全日本プロレスに入門。なかなか体重が増えず、一時はレフェリー転向も検討されたが、馬場の「体が小さい者にしかできない動きを研究せよ」という教えを励みに初志を貫き、1年半の練習生期間を経て1996/7/6、浅子覚&志賀賢太郎組戦でデビュー(パートナーは井上雅央)。

デビュー当初は空中殺法を中心とした軽快な動きが特徴で、1997/10/12に行なわれた「格闘技の祭典SPECIAL」では、三沢光晴の代理として2代目タイガーマスクに扮し出場。3代目タイガーマスク(金本浩二)とタッグを組み、初代タイガーマスク(佐山聡)・4代目タイガーマスクと対戦した。

小橋建太(当時「健太」)の最初の付き人を務め、1998年9月に小橋率いるバーニング入り。また、当時全日本マットに参戦していた邪道・外道とタッグを組み(この際、出身地にちなんだ「甲州街道」と命名されるが、実際には使用されず)、彼らの狡猾な動きを身につけることにより、空中殺法一辺倒だったファイトスタイルに変化が生じることになる。2000年5月、(第1次)バーニング解散と同時に付き人を卒業、秋山準率いる軍団に入る(後のスターネス)。

2000年6月、三沢らの全日プロ大量離脱に追従し、三沢が旗揚げしたノアに移籍。旗揚げ興行前の7/28には井上雅央と組んで邪道&外道を破り第7代WEWタッグ王者となった。

2001/6/24、初代GHCジュニアヘビー級トーナメント決勝戦でフベントゥ・ゲレーラを破り初代王者となった。その後2002年、2004年に同王座を獲得している。

2002/8/29には菊地毅と組んで獣神サンダー・ライガー&田中稔組を破り、IWGPジュニアタッグ王座を獲得した。

2005/6/5には杉浦貴と組んでGHCジュニアヘビー級タッグ選手権に臨み、丸藤正道&KENTA組を破って第2代王者となった。この時金丸は第9代GHCジュニアヘビー級王者でありノア史上初のジュニア2冠の同時保持を成し遂げた(相方の杉浦も後に同時保持を成し遂げた)。だが同年7/18の東京ドーム大会のジュニアヘビー級選手権試合でKENTAに破れ王座から陥落した。

2006年は泉田純至に代わって選手会長を務めた。

2007年前半は年始早々からジュニアタッグ王座から陥落し、目立った活躍はなかったものの、その間ジュニアのシングル挑戦に照準を絞り肉体改造を行い減量に成功。同年10/27の日本武道館大会で第13代王者のムシキング・テリーを破り4度目の王座を獲得。再びジュニア戦線に躍り出た。

2009年KENTAの負傷離脱を受けて開催されたGHCジュニアヘビー級王者決定トーナメント(JCBホール)に見事優勝し、第19代チャンピオンに輝く。

2010年3月と4月に防衛戦を行うが、危なげない試合内容で防衛を果たす。しかし、KENTA、鈴木鼓太郎が負傷離脱中であり、丸藤もIWGP戦に集中しているため、GHCジュニアヘビー戦線を盛り上げることができずにいる。KENTAに「ベルトを持っているだけのチャンピオン」と酷評されるが、9/26にそのKENTAをタッチアウトで葬り、6度目の防衛に成功。 10月には平柳玄藩と組んで第4回日テレ杯争奪ジュニアヘビー級タッグリーグ戦に出場。

エピソード

  • 全日本時代、日本武道館で選手のサイン入りボール投げのイベントが行われた際、金丸は野球で鍛えた肩を生かしてボールを2階席や3階席にまで投げ込み、ファンを喜ばせていた。
  • KENTAに「自分が勝っているのにタッチアウトとはこれいかに」と突っ込まれたことがある。
  • ファイトスタイルにおいては、中盤の足攻めや、ミサイルキック、ムーンサルトなど、武藤敬司を彷彿とさせる動きを見せたかと思えば、ラフファイトも交えていくというバランスの取れた選手である。
  • 全日本時代には邪道・外道、ノアではVOODOO-MURDERSやマッスル・アウトローズと組み「外敵の内通者」的な立場となることも少なくないが、一方ではライガーからJrシングル、日高郁人&藤田ミノル組からJrタッグ王座(パートナーは杉浦)を奪還する大役も果たしており、ファンからもここ一番での切り札的な存在と見られている。
  • しかしながら外敵繋がりで言えばなぜか金丸は他団体の選手に自身からベルトを奪取される場合が多い。初代GHCジュニア王者時は高岩竜一に、第4代の時はマイケル・モデストに、第14代の時はブライアン・ダニエルソンに奪われ、第2代GHCジュニアタッグ時には日高郁人&藤田ミノル組に(後に奪還)、第4代時にはブリスコ兄弟にベルトを奪われ他団体に流失させた(唯一外敵以外に奪取されたケースはWEWタッグベルトを本田・丸藤組に、第9代GHCジュニア王者時にKENTAに負けたときのみ)。
  • 坊主・長髪・パーマ等、頻繁に髪型を変える。
  • 2007年8月2日入籍。

タイトル歴

プロレスリング・ノア

GHCジュニアヘビー級王座
初代(防衛2回)、第5代(防衛3回)、第9代(防衛5回)、第14代(防衛5回)、第19代(防衛6回)
GHCジュニアヘビー級タッグ王座
第2代(防衛2回)&杉浦貴、第4代(防衛1回)&杉浦貴、第10代(防衛6回)&鈴木鼓太郎、第14代(現行)&KENTA

新日本プロレス

IWGPジュニアタッグ王座
第9代(防衛4回)&菊地毅

FMW

WEWタッグ王座
第7代 &井上雅央

テーマ
MAXIMUM (Version2.1)
FLING COOL(AJPW)


 
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マット・ハーディー
Matt Hardy
1974/9/23

アメリカ合衆国のプロレスラー。ノースカロライナ州キャメロン出身。本名マシュー・ムーア・ハーディーMatthew "Moore" Hardy)。弟のジェフ・ハーディーもプロレスラーである。

かつてのWWEのキャッチフレーズ「アティテュード」に引っ掛けて「マッティテュード」(Mattitude)というキャッチフレーズを持つ。過激な空中殺法で人気を博す弟のジェフと異なり、ベビーフェイスとヒールの両方をこなせる器用さと、高いレスリングセンスで試合を盛り上げるタイプである。

来歴

WWE以前

ドリー・ファンク・ジュニアの元でプロレスラーとしての基礎トレーニングを積んだ後、1993年ECWFにてプロレスデビュー。デビュー戦は弟との兄弟対決である。

WWF(後のWWE)とは、1994年、1996年に契約のチャンスがあったものの契約に至らなかった。その間、オメガ・レスリングなどのインディー系プロレス団体で活動を行っていた。オメガ・レスリングには、後のリタ、シャノン・ムーア、ザ・ハリケーン、クリストファー・ダニエルズ(後に日本で「カレーマン」というマスクマンに扮する)なども所属していた。彼らはプライベートでも仲が良く、現在でも「The Hardy Show」という番組制作をいっしょに手掛けている。

WWE

1998年 - 2006年

1998年にWWFと契約。ギャングレルとニュー・ブルードというユニットを結成するも短期間で消滅。弟ジェフ・ハーディーと共にハーディー・ボーイズを結成。エッジ、クリスチャンらとの抗争で人気が一気に高まった。後に、リタを加えて「チーム・エクストリーム」を結成。ハーディー・ボーイズでは、世界タッグ王座を5回獲得する活躍をしている。また1999年頃からチームの一員であるリタと実生活において恋人関係になり、ノースカロライナ州で同棲するようになった。

2002年、ジェフを裏切る形でそれまで所属していたRAWからSmackDown!に移籍する。ハーディー・ボーイズを解散すると共に、Matt Hardy - Version 1.0を名乗り、またファンをエムエファーと呼び、カリスマ的キャラクターにギミックを変更した。また同時にシャノン・ムーアやクラッシュとチームを組んだ。2003年にはレイ・ミステリオとクルーザー級王座を巡り抗争し、王座を獲得するなど活躍する。クルーザー級王座には、体重100Kg未満という制限がある為、この間、90kg台の体重を維持させている。

2004年、RAWに再移籍。リタをめぐってケインと抗争を繰り返す。最終的にはアングル上ケインとリタは結婚し、マット・ハーディーはストーリ上敗れ、リタから去ることになる。

2005年4月にWWEから解雇された。またこの間RAWではリタとエッジのアングル上の恋愛ストーリが展開していたが、両者は実生活においても関係を持ち、これをきっかけとしてリタと破局しており、そのトラブルにおいて事情を知らない周囲からの批判に耐え切れず自分のサイトで三角関係を暴露したことが理由とされている。これにより、マットは放送中のRAWに乱入し、たびたびエッジに襲い掛かった。同年7月にRAWに電撃復帰する。同年6月の番組内でアングル上結婚した、エッジ及びリタと抗争を開始した。2005年10月に行われたRAWの番組、WWE Homecomingにおいて、エッジとマネー・イン・ザ・バンク権利争奪&敗者RAW追放ラダー・マッチを行い敗れ、それに伴いSmackDown!に移籍した。

2006年、Survivor Series 2006のトラディショナル・サバイバー・シリーズ・エリミネーション・マッチに合わせて、ハーディー・ボーイズを復活させる。その後、RAWとSmackDown!の番組を跨いで、MNMと抗争する。Armageddon 2006のフェイタル4ウェイラダー・マッチ形式WWEタッグ王座戦に出場するなどした。

2007年

WrestleMania 23のマネー・イン・ザ・バンク・ラダー・マッチに出場。敗れたものの、大会翌日のRAWで行われた10チームバトルロイヤル戦で弟ジェフとともに勝利、通算6度目となる世界タッグ王座を獲得した。4/29のBacklash 2007では、ランス・ケイド&トレバー・マードック組の挑戦を受け、見事に勝利し防衛する。6/3のWWE One Night Stand 2007では、ワールド・グレイテスト・タッグチーム(WGTT)とラダー・マッチによる王座戦を行い王座を防衛するが、翌日のRAWでビンス・マクマホンにより王座戦を組まれ、前日の試合でのダメージも影響し、ランス・ケイド&トレバー・マードックに奪取される。

ランス・ケイド&トレバー・マードックとの抗争の後は、MVPとのUS王座をめぐる抗争を始める。しかし、MVPの心臓に不整脈が発見され、命に別条はないもののMVPが試合が行えなくなってしまったために、アームレスリングやボクシング(MVP側は代理選手のイベンダー・ホリフィールド)、1on1などで対決を行う。また、MVPの不用意な発言により二人は嫌々ながらタッグを組まされ、お互い険悪なムードが漂うもののWWEタッグ王座を獲得した。なお、マットがジェフ以外の選手とWWEのタッグ王座を獲得するのはこれが初めてである。しかし、今度はマットが急性虫垂炎により欠場することとなってしまい、タッグ王座から転落することになってしまった。12/31、Royal Rumble 2008でランディ・オートンのWWE王座に挑戦することが決まっていたジェフの激励にRAWの会場を訪れたが、ジェフへの見せしめにするためにオートンに襲撃され、欠場が長引くことになってしまった(欠場期間を利用して、以前より痛めていた肘の手術をするために組まれたアングルである)。

2008年

昨年末からの欠場が長引いたためにWrestleMania 24に参戦するためのストーリーを組むことが出来ず、WrestleMania 24の参戦出来ないかと思われたが、直前にジェフが謹慎処分で欠場することになったため、代役として参戦する案が持ち上がったものの、予選を行っていない選手を出場させる訳にはいかず、結局代役案は実行されなかった。しかし、3月30日のWrestleMania 24で行われたマネー・イン・ザ・バンク・ラダー・マッチに突如観客席から現れ、欠場する以前からの好敵手であったMVPにラダー上からのツイスト・オブ・フェイトを放ち観客席に逃げ込んでいった。4/28のBacklash 2008で行われたUS王座戦でついにMVPを倒し、王座を獲得した。6/23のRAW3時間特番のドラフトにて、US王座を保持したままECWへの移籍が決定。同年7月に行われたグレート・アメリカン・バッシュではスマックダウンに所属するシェルトン・ベンジャミンを相手にUS王座を賭けた防衛戦に臨むも、敗退。タイトルを失う。8月にはサマースラムに出場。マーク・ヘンリーの保持するECW王座に挑戦するがヘンリーのマネージャーであるトニー・アトラスの介入によりヘンリーの反則負けとなり、王座奪取とはならなかった。9月にはアンフォーギヴェンでECW王座を賭けたチャンピオンシップスクランブル戦に出場。試合時間残り3分の所でザ・ミズからフォールカウントを奪い、そのまま試合終了。間接的な形ながらヘンリーからタイトルを奪取、念願のECW王座を初獲得した。

2009年

2009年1月、ジャック・スワガーとのECW王座の防衛戦で敗退し、王座を失う。同年のロイヤルランブルでスワガーのECW王座に挑戦するが敗北する。同PPVで行われたジェフ・ハーディー対エッジのWWE王座戦に介入、ジェフをアシストするかのように見えたがジェフにイス攻撃を仕掛けてジェフを王座から陥落させてしまう。これをきっかけにヒールターン、兄弟による抗争に突入する。そしてレッスルマニア25では苦しみながらも勝利を収めた。4/13のRAW3時間特番のドラフトにて、RAWへの移籍が決定。4/26のバックラッシュでは、「アイ・クイット・マッチ」(一方がI quitと降参を宣言するまで続く形式)でジェフと再戦。終盤でテーブルにテープで縛りつけられ、やられる前に降参するが結局コーナーからのダイビング攻撃で右腕を骨折する。しかし以降は右腕のギプスを悪用しレフェリーの目を盗みギプスで相手を殴打するなどしている。6/22の試合中に腹筋断裂のケガを負う。その後6月末のトレードによりスマックダウンへ移籍する。そして8/7のスマックダウンでジェフ対CMパンクの世界ヘビー級王座戦の特別審判員として復帰し、ジェフの王座防衛をアシストし、ふたたびベビー転向をはたした。その次の週のスマックダウンではジェフとハーディボーイズを再結成し、CMパンク組に勝利した。

2010年

年が明けてからはザ・グレート・カリとタッグを組んで活動。また2月から始まった新番組NXTではプロとしてジャスティン・ガブリエルを指導した。3月のレッスルマニア26ではマネー・イン・ザ・バンク・ラダー・マッチに出場。その試合でドリュー・マッキンタイアが鞄を取るのを阻止したことがきっかけとなり、マッキンタイアとの抗争を開始するが、2010年10月15日、WWEからの解雇が発表された。

2011年

1月、TNAのPPVであるGenesisに電撃出場。ロブ・ヴァン・ダム相手にツイスト・オブ・フェイトを決め、疑惑の判定ながらも勝利を収める。

獲得タイトル
WWE
  • ECW王座: 1回
  • WWE・US王座 : 1回
  • WWE・世界タッグチーム王座 : 6回(w / ジェフ・ハーディー)
  • WWE・タッグチーム王座: 1回(w / M.V.P)
  • WWE・ヨーロピアン王座 : 1回
  • WWE・クルーザー級王座 :1回
  • WWE・ハードコア王座 : 1回
  • WCWタッグ王座 : 1回(w / ジェフ・ハーディ)
OMEGA Pro Wrestling
  • OMEGA Pro Wrestlingヘビー級王座 : 1回
  • OMEGA Pro Wrestlingタッグ王座 : 1回(w / ジェフ・ハーディー)
その他
  • NWA 2000タッグ王座 : 1回(w / ジェフ・ハーディー)
  • NCWライトヘビー級王座 : 2回
  • NEWAヘビー級王座 : 1回
  • NFWAタッグ王座 : 1回(w / Venom)
  • NDWライトヘビー級王座 : 1回

入場曲

  • Loaded
シングルプレイヤー移行後は使わないが、ハーディー・ボーイズでの入場の際は使用。
  • Live For The Moment(Monster Magnet)

その他

  • 弟のジェフと異なりパフォーマンスより、試合内容で盛り上げるタイプである。
  • ジェフとともにテレビ番組に出演することがある。





西村修
1971/9/23

日本の男性プロレスラー。東京都文京区出身。階級はヘビー級。ミスター無我無我の継承者のニックネームを持つ。グラウンドでのサブミッションホールド(関節技・固め技)技を中心としたプロレスを得意とし、そのようなスタイルはしばしば「西村ワールド」と形容される。

来歴

新日本プロレス

錦城学園高等学校在学中に新日本プロレス学校に入門。卒業後の1990年に新日本プロレスに入団。

1991/4/21、沖縄県糸満市西崎総合体育館の飯塚孝之(現:飯塚高史)戦でデビュー。

1993年、第4回ヤングライオン杯に準優勝後、アメリカへ海外武者修行に出発。フロリダのヒロ・マツダのもとで再トレーニングを積んだ後、各地のインディー団体を転戦し、ダラスのGWFでは1994年8月にアレックス・ポートゥからライトヘビー級王座を奪取 。同年11月にはジム・コルネットの主宰するノックスビルのスモーキー・マウンテン・レスリングにも出場している。翌1995年はECWに参戦、1月7日にフィラデルフィアのECWアリーナにてアル・スノーと対戦した。

1995年に海外武者修行から帰国し、藤波辰爾の自主興行「無我」にもレギュラー出場した。

1997年、再び海外修行へ出発し、欧州CWAマットに参戦。

1998年1月4日に凱旋帰国。直後に佐々木健介が持っていたIWGPヘビー級王座に挑戦するが、ミサイルキックを何度も使う単調な試合運びに終始し、批判を浴びる。しかし現在では今につながる西村の頑固ぶりが出た最初の試合と言われている。その後、ガン(後腹膜腫瘍)宣告を受け長期欠場。当時現場責任者であった長州力の横暴なやり方に批判し猛反発を受け、それ以降長州を「独裁主義者」と呼んで非常に嫌っている。週刊プロレスのインタビューにも度々そのことについてコメントしている。これに対し長州は無視を決め込んでいる。

1998年よりの欠場から徹底した台湾での漢方療法、イタリア・シチリア島での無農薬完全野菜療法、インド・ケララ州でのアーユルヴェーダ療法、海水を用いた海水浴療法、座禅、ヨガ、瞑想、玄米菜食法に取り組む。 独自の食養療法と精神修行に励み、2000年に藤波戦で1年8か月ぶりに復帰。藤波と組んでIWGPタッグ王座を奪取。

2002年、プロレスリング・ノアに一日トレードの形で出場し、志賀賢太郎と対戦。

2003年、ノアの秋山準とG1 CLIMAXで対戦し勝利している。

2004年、かつての先輩である武藤敬司率いる全日本プロレスのマットへと上がった。両団体に出場することで新日本に無いものをこの両団体で感じ取れたと言い、段々新日本のプロレスが物足りなくなっていき、他団体への興味を持ち始める。同年、映画「いかレスラー」に主演(共演はAKIRA)。主題歌も歌っている。

新日退団、無我旗揚げ

2006/1/24に新日本プロレスを退団。フリーバード(フリーランス)として「地位や名誉などいらない。本当のプロレスをしたい」とフリーとして世界中にある数多の団体のマットに上がることを宣言した。

同年8/2、後楽園ホールで西村修+田中秀和自主興行『新無我伝説 エピローグ〜BLACK CAT MEMORIAL』を行い、ヒロ斎藤と対戦した。これを契機に、藤波辰爾ら元新日本プロレスのフリー選手や田中秀和とともに新団体、進化し続ける現代のプロレスにアンチテーゼを投げかけた原点回帰論をテーマにした「無我ワールド・プロレスリング」を設立。

2007年10月、ハッスルにTAJIRIの洗脳を解いた「ムガール帝国の賢人」ニシム・ラマとして登場。TAJIRIも無我に参戦した。

藤波と決別・全日へ

2007/10/19、全日本プロレスに移籍を発表。無我ワールド側へは何も伝えず「言わば無我からの亡命」と発表し、無我ワールド側も西村=無我という概念を打ち崩せなかったと発表した。

2008年5月には新韓国プロレス大会に参戦。カート・アングル、力抜山との3WAYマッチを制し、NKPW世界ヘビー級王座を獲得。さらには諏訪魔が持つ三冠ヘビー級、鈴木・ケア組が持つ世界タッグ王座に諏訪魔と組んで挑戦している。

2009年になってからは、全日本プロレスに長州力が参戦。対抗意識を燃やし、直近の弟子である征矢学を従えて長州力と対戦を続ける。しかし、征矢が長州への弟子入りを志願。弟分の裏切りにあった西村は、征矢以上に自分のスタイルに近い真田聖也を指導していくこととなる。

政治家への挑戦

自らが癌を患い、いかなる化学療法を用いず今までのアメリカ型食生活を日本人本来の穀物を中心とした食生活に変え、自らの体験の元に癌を見事に食の改善で克服。その経験を生かし食の改善を目的としたフリースクールを展開。食を改善し体力を強化させることで薬漬けの多くの子供たちを救う。その思いを今度は国レベルから、行政レベルからの変革を求め選挙では強烈な強さのインパクトはないが、自らの信念と体験に基づいた食育を第一の政策にぶち上げ政治の世界に挑戦。 2010年3月21日、全日本プロレスでの試合後に挨拶を行いプロレスを休業することを発表。翌22日、全日本プロレス事務所で会見し、同年夏の参議院議員選挙への出馬を表明した。3月24日には、国民新党公認候補(新党日本推薦)として比例代表より出馬することが発表された。同年7月、第22回参議院議員通常選挙で国民新党の比例代表から出馬するも落選。

2011年1月24日、同年4月24日に統一地方選挙の一環として実施された東京都文京区議会議員選挙に、国民新党公認候補として立候補を表明。これに伴い、同年2月6日に全日本プロレスとの所属選手契約を解除し、政治活動に集中することを発表した。結果、2226票を獲得し6位(定数34)で初当選を果たした。

2011年8月13日、全日本プロレスで復帰、今後は議会とのスケジュールを調整しながらフリーランスとして団体問わずスポット参戦していく事を発表した。

人物

  • 1993年からのタンパでの海外武者修行時代、ヒロ・マツダに弟子入り。マツダが一匹狼として世界で活躍できたかの話に感銘を受ける。
  • 1993年の海外遠征を機にフロリダを拠点とする生活を開始。西村はマツダ、ドリー・ファンク・ジュニア、ジャック・ブリスコ、カール・ゴッチからそれぞれ日本人としては最後の弟子として教えを受けている。
  • マツダ、ゴッチの影響を受けて現代のレスラーの主流となるウエートトレーニングを否定し、器具を使わない昔ながらのトレーニング方法でコンディションを整えるようになった。
  • 1997年には、オットー・ワンツ代表のCWAキャッチトーナメントに日本代表選手として参加。トニー・セント・クレアーに徹底した指導を受ける。
  • 2010年にゴルフ界MVPになった藤田寛之と感じが非常に似ているので比較されるようになった。
  • 食事を特別に制限を設けているわけではないが、スナック菓子、ジュースをはじめとした甘いものは一切口にしない。
  • 長期に渡る海外生活で愛用のユナイテッド航空の、100万マイル搭乗のミリオンマイルフライヤーでもある。
  • アメリカ車をこよなく愛すが、区議会当選を機に売却。
  • 82年の歴史をもつ文京区立大塚公園のラジオ体操には、毎日参加。
  • 実家で飼う愛犬は、ポメラニアン。
  • ブーム前の85年より始めたスノーボードの腕前はプロ級。当時より山形蔵王スキー場をホームゲレンデとする。
  • 実の祖母の長男・細田彦一は、同じ地元で4期務めた元文京区議会議員であり、政治の血を受け継ぐ家系でもある。
  • 2011年6月に、2年間交際し島根県出身の都内百貨店勤務の16歳年下の女性と結婚。

タイトル歴

  • IWGPタッグ王座(パートナーは藤波辰爾、天山広吉)
  • NKPWA世界ヘビー級王座
  • GWF認定ライトヘビー級選手権
  • CWAシュートファイティング王座
  • フロリダ地区認定USヘビー級王座

西村修ブログ





エル・サント
El Santo
1917/9/23 - 1984/2/5

メキシコのプロレスラー、俳優。メキシコの国民的英雄である。本名ロドルフォ・グスマン・ウエルタRodolfo Guzmán Huerta)。 白銀のマスクマンEl Enmascarado de Plata)というニックネームでも知られる。

エル・サントはおそらくラテンアメリカで最も著名なルチャドール(プロレスラー)であり、メキシコでは伝説的存在として語り継がれている。彼のプロレス界におけるキャリアは40年近くにもわたり、その存在はルチャ・リブレ(メキシコのプロレス)の枠を飛び越え、人々のヒーロー・正義のシンボルにまでなった。コミックや映画の主人公でヒーローを演じ、特に後者は彼の人気と神話の形成においてルチャリブレ以上の貢献を果たした。

生い立ち

1917/9/23、ロドルフォ・グスマン・ウエルタはイダルゴ州トゥランシンゴにおいて、ヘスス・グスマン・カンプサーノとホセフィーナ・ウエルタ・デ・グスマンとの間に七人兄弟の五番目として生まれた。1920年代にメキシコシティのテピート地区に移住した。野球とアメリカンフットボールに親しんだのちルチャリブレに興味を持ち、柔術とグレコローマンレスリングを学んだ。

ルチャドールとしてデビューした日付については、いまだ正確には定まっていない。1934/6/28アレナ・パラルビージョ・コスメルでの試合(本名使用)がそうだと主張する者もいれば、1935年メキシコシティのデポルティーボ・イスラスにおいてであるとする説もある。ともかく1930年にはすでにレスラーとしての位置を確立しており、ルディ・グスマン、エル・オンブレ・ロホ、エル・エンマスカラード、エル・デモニオ・ネグロ、エル・ムルシエラゴ・セグンドといったリングネームを使用していた。最後のリングネームは当時有名だったレスラー、ムルシエラゴ(「蝙蝠」の意)からの借用であり、ムルシエラゴ本人の異議申し立てにより、メキシコボクシング・ルチャ委員会はグスマンが「ムルシエラゴ」のリングネームを使用することを禁じた。

スターへの道

1940年代はじめに、グスマンはマリア・デ・ロス・アンヘレス・ロドリゲス・モンターニョと結婚し、その後10人の子をもうける。そのうちの一人が、のちに父と同じくルチャリブレの道において輝かしい成功を収めることになるエル・イホ・デル・サントである。 1942年、トレーナーであったヘスス・ロメリ(Jesús Lomelí)が新団体を設立するにあたって、彼に参加を呼びかける。ヘススは彼に三つのリングネーム候補を挙げた。エル・サント(聖人)、エル・ディアブロ(悪魔)、エル・アンヘル(天使)の三つの中からロドルフォが選択したのは、最初の候補だった。こうして同年6/26、アレナ・メヒコにおいて、「エル・サント」が誕生することとなった。デビュー当初は悪役(ルード)側で戦っていたが、のちに善玉(テクニコ)側へと転身した。新しいリングネームのもと彼は自分自身のスタイル、敏捷さ、技のバラエティに磨きをかけ、その名声を高めていった。

偶像への道

1950年代になると、ホセ・グアダルーペ・クルスという芸術家兼編集者が、サントの漫画を出版するようになる。サントはその中でメキシコの歴史における最高のルチャドールとされ、彼に比肩しうるのは伝説の人物、カリマンだけであった。 50年代後半、プロレスラー兼俳優フェルナンド・オセスの誘いによって、サントは映画界へと足を踏み入れることになる。とはいえルチャドールとしての活動を打ち切ることのない、二足の草蛙状態での俳優活動であった。 こうして、映画俳優サントのデビュー作『サント対悪の頭脳』(Santo contra el Cerebro del Mal)、『サント対地獄人間』(Santo contra los Hombres Infernales)が完成した。双方とも1958年公開、脚本はフェルナンド・オセスとエンリケ・サンブラーノ、監督はホセリート・ロドリゲスである。ちなみにこれら二作の撮影はキューバで行われ、撮影が終了したのは、フィデル・カストロがハバナ入りし、キューバ革命の勝利を宣言した前日のことであった。

獲得タイトル

Comisión de Box y Lucha Libre de México, D.F.

NWA世界ウェルター級王座
  1. 1943/2/21、対シクロン・ベロス(Ciclón Veloz)戦にて

(註:1993年10月、WWAによるものではあるがエル・イホ・デル・サントも同名のタイトルを奪取)

NWAミドル級世界王座
  1. 1943/3/19、対ヘスス・"ムルシエラゴ(蝙蝠)"ベラスケス (Jesús "Murciélago" Velásquez)戦にて
  2. 1946/5/31、対タフィ・トゥルースデル(Tuffy Truesdel)戦にて
  3. 1956/9/14
  4. 1963/6/28

(註:サントの兄であるブラック・グスマンも、同タイトルを1941年に獲得。エル・イホ・デル・サントもやはり、1996年に同タイトルを獲得している)

UWAライト級世界王座

サントはライト級であったことはなく、この王座を獲得することはなかった。息子であるエル・イホ・デル・サントが、クアトロ・カミーノス闘牛場におけるネグロ・カサス戦において同タイトルを獲得することとなる。

Asociación Nacional de Lucha

ウェルター級王座
  1. 1946/5/13、対ペテ・パンコ(Pete Panco)戦にて
世界ミドル級チャンピオン
  1. 1954/1/1

(註:兄ブラック・グスマンも、1941年12月に同タイトルを獲得)


  

















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