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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
9/26

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真琴
1989/9/26

日本の女子プロレスラー。本名非公開。身長167cm、体重53kg。兵庫県神戸市出身。ミスター雁之助が代表を務める鬼神道プロダクションに所属し、芸能活動も行っている。

2006年
  • 2月、さくらえみに電子メールで入門を直訴し、我闘姑娘に練習生として入団。
  • 7/25、第2回アイスリボン・千本桜ホール大会で、りほを相手にアイスリボン所属としてマットデビュー。
  • 9/17、NEO女子プロレス・後楽園ホール大会で元気美佐恵・りほ組相手にリングデビュー(パートナーは植松寿絵)。
  • 10/15、千本桜ホール大会、第一部でメカマミーとのシングルマッチを、第二部ではチェリーをパートナーに、同じくメカマミーとハンディキャップマッチを行う。
2007年
  • 2/18、NEO女子プロレス・川崎市体育館大会で行われたイリミネーションマッチにおいて、オーバー・ザ・トップロープでタニー・マウスから初勝利を挙げる。
  • 9/8、Future Star北沢タウンホール大会で、みなみ飛香から初のピンフォール勝ちを収める。(パートナーは希月あおい)
2008年
  • 2/1、アイスリボン・市谷大会で、三田英津子をパートナーにNEOマシンガンズ(タニー・マウス&宮崎有妃)の持つインターナショナル・リボンタッグ王座に挑戦し、勝利。初タイトルを獲得した。
  • 7/13、NEO女子プロレス・後楽園ホール大会で、三田英津子をパートナーに第7回ミッドサマータッグトーナメントに出場。1回戦で木村響子・江本敦子組に敗退。
  • 10/18、アイスリボン・新木場1stRING大会で自ら提唱し作製したICE×60チャンピオンベルトを披露。同年11/15 新木場大会、12/23 北沢大会で行われた初代王者決定トーナメントに出場するが、決勝で聖菜に敗退。
2009年
  • 7/29、初のイメージDVD「ミラクルハンター」が発売される。
  • 8/23、アイスリボン後楽園ホール大会において、ライジングスタースープレックスホールドで市来貴代子を破り、第3代ICE×60王者となる。
  • 11/1、NEO女子プロレス・後楽園ホール大会、三田英津子引退興行でラストシングルマッチの対戦相手を務めた。
  • 12/28、2009年日刊バトル大賞女子プロレス部門敢闘賞を受賞。
2010年
  • 6/1、19時女子プロレス旗揚げ戦にて帯広さやかとシングルマッチで対戦し、勝利。
  • 8/25、アイスリボン道場マッチにて藤本つかさとシングルマッチで対戦し、勝利。後楽園ホール大会で行われるセンダイガールズとのキャプテンフォール10人タッグマッチにおけるキャプテンに就任する(仙女側主将は花月(石野由加莉))。
  • 9/13、バンビと須山浩継によるイベント「バンビの塩辛ナイト3 〜女子プロレスの正しいお色気を真剣に語り合う夕べ」にモデルとして出演。
  • 9/23、アイスリボン後楽園ホール大会において仙女との対抗戦を戦い、最後は花月との一騎打ちの末に敗れる。
  • 10/15、ZERO1新木場1stRING大会「酔いどれナイト」においてバンビと対戦し、敗れる。
  • 10/27、アイスリボン道場マッチにて牧場みのりと組み、さくらえみ・高橋奈苗組の持つインターナショナル・リボンタッグ王座に挑戦するも敗退。
  • 11/28、NEO女子プロレス・東京キネマ倶楽部大会、「日米加墨濠5ヶ国対抗国際Aマッチ」で田村欣子、ヘイリー・ヘイトレッドと組み、マディソン・イーグル、チェリーボム、セクシー・スター組と対戦。ヘイリーがチェリーボムからフォールを奪い、勝利。
  • 12/26、アイスリボン後楽園ホール大会、WWEを目指すためにと自身が熱望したTAJIRIとのシングルマッチを実現。完敗するもTAJIRIから高評価を受け、2011/1/29SMASH新宿FACE大会(ダブルヘッダーの夜興行)にて元WWEディーヴァのセリーナと対戦決定。
2011年
  • 1/3、ユニオンプロレス後楽園ホール大会、新北京プロレス初の『傾国』(ディーヴァ)として「真琴姫(シンキ)」が来場。
  • 1/29、SMASH新宿FACE大会夜興行にてセリーナと対戦。チョップでのけぞらせるなど健闘したが、最後はセリーナのスピアーで敗戦。しかしその試合振りはTAJIRIから絶賛を受けた。試合後、トリプルテイルズの襲撃に遭う。
  • 2/6、アイスリボン今池ガスホール大会にてりほをパートナーに志田光&藤本つかさの持つインターナショナルリボンタッグに挑戦。最後は志田のスリーカウントを受け敗戦。
  • 4/15、19時女子プロレス大阪大会(大阪プロレスが会場と2試合を提供)にてつくしが持つIW19選手権に挑戦するも敗れた。
  • 4/30、SMASH大阪IMPホール大会にてセリーナ・朱里と組み、トリプルテイルズと対戦。セリーナが華名をフォールし勝利。
  • 5/3、SMASH後楽園ホール大会、メインイベントの3WAYラダー&ダッシュtoベルトマッチにTAJIRIと組んで出場。TAJIRIに伝授された秘策のパープルミストをリン・バイロンに浴びせ、勝利に貢献。
  • 5/11、アイスリボン道場大会の座談会にて、「基礎体力が少し足りない」とSMASH側から指摘されたとの理由でさくらえみからSMASHの合同練習への参加を禁じられていることを告白。腕立て伏せ100回というノルマを巡り、さくら及びさくらに同調した都宮ちいとの遺恨が生じる。
  • 5/20、19時女子プロレスにて都宮ちいとの腕立て伏せ100回勝負を行うが途中棄権。左腕を負傷していたことを明かし、翌日のアイスリボン道場大会を負傷欠場。
  • 5/25、アイスリボン道場大会に来場したTAJIRIは前出の指摘について否定し、SMASH合同練習を許可した。
  • 6/8、練習中の首の負傷によりアイスリボン道場大会を欠場。都宮ちいとの間で行われる予定だったシングル9連戦、および都宮の持つIW19王座への挑戦も白紙となる。
  • 6/15、アイスリボン道場大会にて、7/15のSMASH後楽園ホール大会までの欠場と、それまでSMASH合同練習に専念することを発表。
  • 7/15、SMASH後楽園ホール大会、ディーヴァ王座決定トーナメント1回戦にて都宮ちいと対戦し、新技のスピアーで勝利。
  • 7/22、19時女子プロレスにて都宮ちいの持つIW19王座に挑戦するも、19分時間切れ引き分けで奪取に失敗。
  • 7/30、アメリカ・CHIKARAプロレスに初参戦。サラ・デル・レイ、デイジー・ヘイズと組んで下田美馬、ポーティア・ペレズ、藤本つかさ組と対戦し、敗れる。
  • 7/31、CHIKARAプロレスアサイラム・アリーナ(旧ECWアリーナ)大会にて藤本つかさと対戦し、ビーナスシュートで敗れる。
  • 8/5、19時女子プロレスにて同月21日のアイスリボン後楽園大会を最後にアイスリボンを退団、SMASHへの移籍を発表。
人物
  • デビュー後しばらくは「無気力ファイター」とコールされ、それまでに類を見ないひ弱なプロレスラーとして注目された。
  • 初勝利を上げて以降は「ミラクルハンター」とコールされている。
  • 中学時代は登校拒否。高校は一年で中退。元・対人恐怖症で引きこもりである。
  • 家で三国無双などのゲームやひぐらしのなく頃になどのアニメを見ていたらしく、ゲーム&アニメ好きのアキバ系である。特に真・三国無双の貂蝉を敬愛している。
  • 趣味はコスプレ、絵を描くこと、妄想。
  • ホラー映画が好きである。
  • 愛読誌はコミック百合姫とpopteenと電撃レイヤーズ。
  • 猫好きで、自宅でも2匹の猫を飼っている。
  • WWEファンでもあり、目標としている選手はトリッシュ・ストラタス。好きな男子選手はジェフ・ハーディー。
  • 好きな色は紫。ただし濃い紫はあまり好きでなく、藤色のような薄い紫が好み。
  • 好きなレスラーは、三田英津子。事あるごとに「我愛三田さん」精神を発揮する。
  • 星座はてんびん座。
  • 血液型はO型。
  • スポーツ歴は空手(和道流)とバレーボール。
  • ビッグマッチで着用しているコスチューム(ガウン)は、三田英津子が着用していたものを18歳の誕生日に譲り受けたもの。以前は、同じく三田英津子から譲り受けたスカジャンも入場時に着用していた。
  • デビューから約4年間に渡ってアイスリボン全大会皆勤を続けていたが、2010/8/21アイスリボン・212を都合により欠場したため、連続出場記録が途切れた。
    • 2009/8/29戸田競艇場大会や、2010/3/14三軒茶屋大会も欠場しているが、共にイベント興行であった為、連続出場記録にはカウントされていない。
  • 2010/5/3の後楽園大会よりワンピース水着型リングコスチュームを着用することが多くなったが、この時の対戦相手でもあったバンビの影響を受けたものである。

タイトル歴

  • 第2代インターナショナル・リボンタッグ王座(パートナーは三田英津子)
  • 第3代ICEX60選手権

入場テーマ曲

  • 「聖少女領域」(ALI PROJECT)聖少女領域
  • 無気力ファイター


真琴 ミラクルハンター
真琴 ミラクルハンター



女子プロレスで噂の美少女・真琴がイメージDVDデビュー!
女子プロレス・アイスリボンのマットで活躍する無気力ファイター・真琴のファーストイメージ。控えめな彼女が見せる激レアなビキニショットや彼女の大好きなコスプレなど、リングとはひと味違う一面が満載。


2010/2/14 真琴vs江本    
2009/4/5 真琴vs市来貴代子    
真琴vs三田英津子 2/2  
2006/ 10/15 真琴vsメカマミー    
  真琴、対メカマミー特訓    
  真琴デビュー    




華名
1981/9/26

本名:浦井 佳奈子は、日本の女子プロレスラー、イラストレーター、ウェブデザイナー、ゲームライター。身長160cm、体重62kg、血液型O型。大阪府大阪市出身。大阪国際滝井高等学校卒業。大阪芸術大学短期大学部卒業。2009/7
/1、株式会社オフィス華名を設立。

経歴・戦歴

  • 2003年6月にAtoZに入門。
  • 2004/6/16、東京・後楽園ホールにおいて、対玲央奈戦でデビュー。全日本女子プロレスのザ・ベストタッグトーナメントで準優勝。パートナーは堀田祐美子。しかし、同日のつくば大会の西尾美香戦で左手首を骨折してしまう。
  • 2005/5/4、ジャガー横田戦で復活し、ダンプ松本、豊田真奈美、前川久美子等と激戦を繰り広げた。「AtoZは最高です!!」がキーワードであるAtoZの看板選手だった。
  • 2006/3/19、慢性腎炎による体調不良で引退。その後は前職であるデザインの仕事を再開し、デザインオフィス華名を立ち上げ。以降、エンターブレインの発刊誌ファミ通Xbox360でゲーム記事を担当するライター業も行っている。
  • 2007/8/4、再びプロレスラーとして現役に復帰する意向を発表。9/22、プロレスリングSUNのリングで高橋奈苗とのシングルマッチで復帰。
  • 2008年レギュラー参戦のNEO女子プロレスにおいて、高橋奈苗、夏樹☆たいよう、華名でトリオユニット『パッション・レッド』を結成。
  • 2008/10/27、格闘探偵団バトラーツ主催による女子版UWFを掲げた興行『女王バチ』のメインで、バトラーツ女子第一号の及川千尋との激戦を制し女UWFの第一人者であるとアピール。
  • 2009/7/1、株式会社オフィス華名を設立し、代表取締役社長となった。
  • 12月、オーナーとしてヘアーサロン「アナザーヘブン」を開店。
  • 2010/1/23、『パッション・レッド』リーダー高橋奈苗との見解の相違を理由に、NEO新木場大会をもって『パッション・レッド』からの離脱を表明。その後、両者共シングル戦を希望していたが、NEO社長・甲田哲也は、「1%の信頼関係すらない状態では試合として成立しない」との判断から、試合を組まないとの決定を下した(代わりの相手には既にタッグ戦が決まってたさくらえみとなり、さくらは1興行2試合を戦う羽目に)。この影響で、高橋と共に出場予定だったセンダイガールズ主催「第2回戦場トーナメント」のエントリーも、「諸事情」を理由に取り消し、植松寿絵が代替出場。
  • 2010/4/29に初の自主興行「カナプロ」を開催。特別試合として藤波辰爾も参戦するなど男女の枠を越えた面子が集まった。
  • 6/19、紫雷美央、紫雷イオとユニット「トリプルテイルズ」を結成。
  • 週刊プロレス8/18号にて「華名のマニフェスト」を発表。女子レスラーとしては異例とも言える表紙も飾った。
  • パッション・レッドを離脱して以降はSMASH、プロレスリングWAVEを主戦場としている他、ローカルインディー団体などにも継続してスポット参戦を続けている。大分のプロレスリングFTOにはリングネーム「スカルリーパー嘩那」として参戦。
  • 2011/1/10、2度目の自主興行「カナプロ2」開催。
  • 2011/9/24、3度目の自主興行「カナプロ3」を京都で開催予定。

華名のマニフェスト

2010年、SMASHにおける朱里との抗争で「マニフェスト」を度々口にしていたが、「週刊プロレス」8月18日号にて女子プロレス改革を謳った「華名のマニフェスト」として発表した。

その内容は以下の五箇条からなる。

  1. 「無きに等しい女子レスラーの存在価値」の見直し
  2. 個性の確立できぬ者は去れ
  3. 女子プロレスファンにだけ通用するプロレスは即刻やめるべし
  4. レスラー同士の慰め合い、傷の舐め合いはするな
  5. 嗚呼、無情。偽物の技の救出

このマニフェスト発表後、某大物女子レスラーからTAJIRI経由で抗議電話が来たり、JWPのレスラー陣がSMASHに乱入して抗争に発展するなど、物議を醸した。

入場テーマ曲

  • 檄!帝国華撃団
  • 情熱浪漫乙女 - 復帰後のテーマ曲
  • 太陽は昇る 大神 - SMASH参戦時等

獲得タイトル

  • 第11代NEO認定タッグ王座(パートナーは高橋奈苗)


カナプロ

華名vs里村明衣子
藤波辰爾vs石川雄規
真霜拳號/山本裕次郎vs佐藤光留/臼田勝美
GAMI/メンズ・テイオー/澤宗紀vs火野裕士/GENTARO/X
華名/栗原あゆみvs植松寿絵/下野佐和子


カナプロ2

華名/藤原喜明vsカルロス天野/石川雄規
ビッグ村上/飯伏幸太/矢野啓太vs高岩竜一/真霜拳號/入江茂弘
ハードコアマッチルール
(場外カウント無し、反則カウント無し、エスケープ無し)
臼田勝美vs木高イサミ
TAJIRI/紫雷美央vs藤田峰雄/紫雷イオ
佐藤光留vsGAMI
里村明衣子vs下野佐和子


 
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ホジャー・グレイシー
Roger Gracie
1981/9/26

ブラジルのブラジリアン柔術家、総合格闘家。リオデジャネイロ州出身。グレイシー・バッハ所属。イギリス・ロンドンで「ホジャー・グレイシー柔術アカデミー」を主宰。

グレイシー柔術の始祖カーロス・グレイシーの娘、ヘイラ・グレイシーを母親に持つ。父親はブラジリアン柔術家のマウリシオ・ゴメス。

世界柔術選手権(ムンジアル)、パンアメリカン選手権、ブラジル選手権、アブダビコンバットなど、数々の大会で優勝経験を持つ。

来歴

ホーウス・グレイシーの黒帯である父親マウリシオの影響もあり、幼少期より柔術に親しんだ。15歳でリオデジャネイロを離れサンタカタリーナ州で従兄弟達と練習を積む中で、「ファイターになり、絶対に負けない」と決意した。2002年のムンジアル茶帯無差別級でホナウド・ジャカレイを破って優勝し、黒帯を授与された。2003年にはイギリスで柔術普及に努めていた父親とともに、ロンドンで「ホジャー・グレイシー柔術アカデミー」を開いた。

2003年5月、アブダビコンバット99kg未満級において、1回戦で1998年の無差別級王者マリオ・スペーヒーに勝利するも、準決勝でユノラフ・エイネモにバックを奪われ敗退。3位決定戦ではシャンジ・ヒベイロに勝利した。

2003年7月、黒帯初のムンジアルではアブソルート(無差別)級にエントリー、決勝まで勝ち進むも、同門のマーシオ・クルーズに敗れ、準優勝に終わる。

2003/10/5、PRIDE 武士道で行われた「日本vsグレイシー 5対5対抗戦」にセコンドとして来日。PRIDE参戦を希望していたが、PRIDEが消滅したために実現には至らず。

2004年7月のムンジアルでスペルペサード(-97kg)級で優勝を果たした。アブソルート級では決勝でジャカレイと再戦、リードを許した後腕ひしぎ十字固めでジャカレイの肘を脱臼させながら、最後は組み手を避けるジャカレイにポイント差で逃げ切られ、またも準優勝に終わった。ホジャーはこの結果について、レフェリーのミスジャッジと主張した。

2005年5月、アブダビコンバット99kg未満級において優勝を果たし、無差別級では青木真也、ファブリシオ・ヴェウドゥム、シャンジ、ジャカレイから全て一本勝ちし優勝を果たし、モスト・テクニカル・ファイター賞も受賞した。

2005年7月、ムンジアルでスペルペサード級を連覇、アブソルート級決勝では前年と同じ組み合わせとなった。試合はジャカレイに終了間際にテイクダウンを奪われ、3年連続で準優勝となった。

2006年4月、パンアメリカン柔術選手権(パンナム)に出場、スペルペサード級ではシャンジに敗れて準優勝であったが、同じ組み合わせだったアブソルート級決勝でシャンジに三角絞めを決め、リベンジを果たした。

2006年7月、ムンジアルでスペルペサード級を3連覇を達成。アブソルート級決勝でのシャンジ戦ではポイントでリードしながら終盤にテイクダウンで逆転を許し、4度目の準優勝となった。

2006/12/2、カナダで開催されたBodogFightで総合格闘技デビューし、ロン・ウォーターマンと対戦。自ら下になり相手をコントロールし、腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。なお、この試合は11/4にドン・フライと対戦予定であったが、大会自体が延期になり、対戦相手も変更となった。

2007/5/6、アブダビコンバットのスーパーファイトでユノラフ・エイネモと対戦、5-0で判定勝ち。

2007年8月、ムンジアルのアブソルート級で決勝で同門のホムロ・バハルに送り襟絞めで勝利し、黒帯無差別級で初優勝、5年越しの悲願を達成した。元々バハルは同門対決を避け勝利を譲ろうとしたが、ホジャーが「無差別級の優勝者は闘って決められるべきだ」と説得し、本気の勝負が行われた。またスペルペサード級でも4連覇を達成した。

2008/3/5、戦極旗揚げ戦戦極 〜第一陣〜の会場にて戦極 〜第二陣〜への参戦が発表された。

2008/5/18、戦極 〜第二陣〜で近藤有己と対戦し、チョークスリーパーで一本勝ち。

2008年6月、ムンジアルに出場。階級を上げたペサディシモ(+97kg)級では優勝を果たすも、アブソルート級ではシャンジに破れ、5度目の準優勝となった。

2008/9/28、戦極 〜第五陣〜でトラヴィス・ビューと対戦予定であったが、肋間筋損傷により9/22に欠場が発表された。正式な診断書などが提出されないなどの経緯などを踏まえ戦極は厳重な処罰なども検討した。

2009年6月、ムンジアルに出場。スペルペサード級とアブソルート級の両階級で優勝を果たした。

2009/11/20のShoMMA: Strikeforce Challengersに参戦予定であったが、欠場となった。

2010/5/15、Strikeforce初参戦となったStrikeforce: Heavy Artilleryにて、ケビン・ランデルマンと対戦。首相撲からの膝蹴りでダウンを奪うなど課題であった打撃面でも成長を見せ、最後はチョークスリーパーで一本勝ちを収めた。

2011/1/29、Strikeforce: Diaz vs. Cyborgでトレヴァー・プラングリーと対戦し、チョークスリーパーで一本勝ち。総合格闘技4連勝となった。

獲得タイトル

  • 第5回 アブダビコンバット 99kg未満級3位(2003年)
  • 第6回 アブダビコンバット 99kg未満級優勝・無差別級優勝(2005年)
  • ブラジリアン柔術世界選手権(ムンジアル)茶帯ペサード級優勝・アブソルート級優勝(2002年)
  • ブラジリアン柔術世界選手権(ムンジアル)黒帯アブソルート級準優勝(2003年)
  • ブラジリアン柔術世界選手権(ムンジアル)黒帯スペルペサード級優勝・アブソルート級準優勝(2004年)
  • ブラジリアン柔術世界選手権(ムンジアル)黒帯スペルペサード級優勝・アブソルート級準優勝(2005年)
  • ブラジリアン柔術世界選手権(ムンジアル)黒帯スペルペサード級優勝・アブソルート級準優勝(2006年)
  • ブラジリアン柔術世界選手権(ムンジアル)黒帯スペルペサード級優勝・アブソルート級優勝(2007年)
  • ブラジリアン柔術世界選手権(ムンジアル)黒帯ペサディシモ級優勝・アブソルート級準優勝(2008年)
  • ブラジリアン柔術世界選手権(ムンジアル)黒帯スペルペサード級優勝・アブソルート級優勝(2009年)
  • パンアメリカン柔術選手権(パンナム)黒帯スペルペサード級準優勝・アブソルート級優勝(2006年)





丸藤正道
1979/9/26

埼玉県北足立郡吹上町(現・鴻巣市)出身。血液型O型。プロレスリング・ノア所属。取締役副社長。

概要

ジュニアヘビー級らしい軽い身のこなしが特徴で、トップロープやコーナーポスト、エプロンサイドなどリング全体を活かした技を得意としている。ただし、アマチュア時代はレスリングの経験に加えタイガージムに所属していたこともあり、関節技やグラウンドの技術についても高いものを持っている。

プロレスラーとしての技術に対する評価は高く、他の多くのレスラーや関係者から賞賛されることが多い。「ジュニアヘビー級だけでなく、日本のプロレス界を牽引する一人」「百年に一人の天才」「馬場、三沢のDNAを持つ男」とも呼ばれる。現在、ノアが管理するベルトの全てを獲得しているのは他団体を含め丸藤のみである。また、過去に高山善廣がプライドへ参戦する際には、高山からの要請によりスパーリングパートナーを務めている。

女性からの人気も高く、同じく二枚目のKENTAとのタッグチームは「イケメンタッグ」などと呼ばれることもあった。なお2005年10月に年下の女性と結婚している。

実兄の一人にアニメーターの丸藤広貴がいる。

来歴

入門前〜デビュー〜全日本時代

埼玉栄高校に入学し、レスリング部で活躍、インターハイ出場経験もある(一学年上には柔道部所属の土方隆司がいた)。ちなみに、この埼玉栄時代の卒業前には、ロンドンブーツ1号2号の番組に「全日本プロレス入団内定」という触れ込みで、名前を明かさなかった上、少しではあるが出演を果たしている。また、高校時代には大宮のスーパータイガージム(当時は朝日昇、エンセン井上が在籍)に通っていたことを自ら明かしている。高校2年生時、キングダムの入門テストに合格しているが、キングダム崩壊により、入団は果たされなかった。 卒業後、全日本プロレスに入門。1998/8/28、愛知県・岡崎市体育館の金丸義信戦でプロレスラーとしてデビューを果たした。丸藤がジャイアント馬場存命中最後のデビューとなったため、当時は「馬場の最後の弟子」とも呼ばれ、テレビで特集を組まれたこともあった。馬場の肩の上からミサイルキックを繰り出したこともある。

三沢光晴の付き人を務め、見習い扱いでアンタッチャブルに所属。

ノアへの移籍〜GHCジュニアヘビー級王者時代

2000年7月、三沢光晴を中心とした新設されたばかりのプロレスリング・ノアに移籍する。師匠・三沢光晴がリーダーを務めるユニット「WAVE」の一員として参加。

2001/12/19の有明コロシアム大会で、当時ZERO-ONE所属の高岩竜一を破り22歳で他団体に流出していたGHCジュニアヘビー級王座を奪還した。

2002/1/20、視察のために新日本の獣神サンダー・ライガーと田中稔がやって来ていたが、丸藤が自身の試合後にマイクを取り「ノアのジュニアは最強です」と挑発したことでライガーがブチ切れ、新日本との対抗戦に発展する。しかし、3月に左膝靭帯を損傷し、まともに歩けない状態でありながら4/7に橋誠との2度目の防衛戦に臨んだことから更に膝の状態が悪化、レフェリーストップで敗れることとなった。

三沢からの独立〜イケメンタッグ

復帰直後の2003年1月に、三沢とのシングルを経験する。結果は敗北。これを期に丸藤はWAVEを脱退し、三沢の付き人も同時に卒業する。その直後から「下克上」を旗印に、同じく若手のWILD II(森嶋猛&力皇猛)やKENTAと共闘を始め「ジュニアの体のままヘビーに挑戦」と目標を定める。この一環で2003/4/5には秋山準&齋藤彰俊組が保持するGHCタッグ王座にも森嶋と共に挑戦を果たした。

同年7月には、KENTAとのタッグで初代GHCジュニアヘビー級タッグ王座決定トーナメントに参加する。順調に勝ち進み7月16日に行われた決勝戦で、因縁の相手であるライガー&村浜武洋組を破り初代GHCジュニアヘビー級タッグ王座に君臨した。その後、KENTAとのタッグは連戦連勝を重ね、ノアのジュニア戦線はヘビー級を上回る人気を獲得するようになる。

各王座戦線の最前線へ

2004/9/10、パンクラスの鈴木みのると対戦。試合には敗れたが、鈴木は丸藤を大きく評価、その後意気投合しタッグを結成した。そして、2004/10/16には、秋山準が創設した白GHCことグローバル・ハードコア・クラウンのタイトルにも挑戦する。王者・秋山とは体格差のハンデがあったものの、リングアウト勝ちを収め、第2代王者となった。

これと同時に進行していたKENTAとのタッグでは、防衛回数を積み重ね「ジュニア版絶対王者」とまで称された。計9回の防衛に成功し、2005/5/7・5/8に行われたジュニアの祭典第二回ディファカップでも決勝の日高郁人&藤田ミノル組を破って優勝。しかし6/5、過去2度KENTAとのタッグで敗れている金丸&杉浦組に三敗目を喫し、同王座から陥落した。

しかし王座陥落直後の6/18、イギリス・モアカムにおいてスコーピオ&ダグ・ウイリアムス組に鈴木とのタッグで勝利し、第10代GHCタッグ王者となった。

KENTAとのベストバウトから対ヘビー級戦線へ

2006/1/22、KENTAが持つGHCジュニアヘビー級王座に挑戦。敗れたものの高評価を得た。この試合でジュニア戦線に一区切りをつけた丸藤は、ヘビー級を超えるべくヘビー級戦線に参入した。

3/5の日本武道館大会では5大シングル戦の一戦として、当時前GHCヘビー級王者であった田上明とシングルで対決。最後は隙を突いて完璧首固めで四天王の一角から金星を奪った。

3/10、リアルジャパンプロレスにてジュニア界の伝説・初代タイガーマスクと初対決。丸め込まれ敗れはしたものの、佐山(タイガー)を「日本のプロレスにはまだ凄いのがいる。」と驚かせた。

4/23、日本武道館で小橋建太とシングルマッチを行うも、敗北。

GHCヘビー級王座戴冠&グランドスラム達成

2006/9/9、先の田上戦、小橋戦で対ヘビー級の自信を掴んだ丸藤はGHCヘビー級王者・秋山準に挑み、完璧首固めで勝利(27分29秒)。第10代GHCヘビー級王者となるのと同時に、ノア創立以来史上初のGHC全王座獲得(ヘビー・ジュニア・タッグ・ジュニアタッグ・ハードコア)を達成した。

10/29には1月にGHCジュニア選手権で敗れたKENTAを次期挑戦者に指名。変形フィッシャーマンズ・ドライバー(後に週刊誌にてポールシフトと発表)にてGHC戦最長タイ(2004年の小橋vs秋山戦)の35分34秒の死闘に終止符を打つ。

しかし12/10、三沢との防衛戦で雪崩式エメラルド・フロウジョンで敗れ、王座から陥落した。

他団体進出・GHCタッグ、ヘビー戦線へ

2006/12/24、第四回力道山杯を受賞。

2007/4/1にDDTプロレスリング初参戦。男色ディーノとのタッグでKUDO&マッスル坂井と対戦し、試合中ディーノの求愛行動に手こずりながらも彼の勝利をアシストした。

4/30にはKAIENTAI-DOJO初参戦。円華とのタッグで真霜拳號&房総ボーイ雷斗と対戦し、雷斗の卑怯な攻撃に翻弄されるもしっかりと勝利をアシストした。

6/8にビッグマウス・ラウドの村上和成と初対戦。注目を集めたこの試合で丸藤は大流血。村上らしさに巻き込まれ、5分50秒、変形STOに敗北。

Shiny Navigation '07では、GHCヘビー級選手権次期挑戦者決定リーグ戦にもエントリーし齋藤彰俊に敗れる波乱がありつつも優勝決定戦に進出。優勝決定戦では森嶋猛と対戦し丸藤が勝利する。優勝したことにより第11代GHCヘビー級選手権者・三沢への挑戦権を手に入れた。挑戦権を行使して2007/9/29大阪府立体育会館でGHCヘビー級王座を奪われた三沢に挑戦するも26分28秒、変型エメラルド・フロウジョンで敗北。

2007/10/27、日本武道館大会にてディーロ・ブラウン、ブキャナンの持つGHCタッグ王座に、杉浦貴と組んで挑戦。25分を超える激闘の末、見事勝利し第16代GHCタッグ王者となった。獲得後、2度防衛をしたが、2008/5/23新潟市体育館で齋藤彰俊、バイソン・スミス組に破れ王座陥落。

欠場、復帰、メジャー3団体ジュニア制覇、初対決

2008/9/28、古巣の全日本プロレスで高校時代の先輩・土方隆司を25分30秒、ポールシフトで破り世界ジュニアヘビー級王座を獲得。

2008年10月27日、日本武道館大会で再びKENTAとの丸藤の持つ世界ジュニアヘビー級王座とKENTAの持つGHCジュニアヘビー級王座のダブルタイトル戦が行われたが60分時間切れ引き分けに終わり、両者防衛成功となった。この興行はノアの主催であったが、試合は世界ジュニアヘビー公式PWFルールで行われ、場外カウント10という方法がとられ、レフェリーとして和田京平が裁いている。

2009/2/6、後楽園ホールにてカズ・ハヤシに進化型WA4で3カウントを奪われ王座転落。

2009/3/11の有明大会で合体パイルドライバーをかけた際に、相手の体重が右ヒザにかかり負傷。翌12日にMRI(磁気共鳴画像装置)検査を受け、右ヒザ前十字靱帯(じんたい)断裂で全治9か月と診断された。様子を見ながら4月に手術を受ける。年内絶望の重傷と言われた。

2009/12/6、「青木篤志“閃光十番勝負”第9戦」(元々は最終戦のはずだったが中嶋負傷欠場のため第9戦になった)で復帰し、タイガー・フロウジョンで勝利を収めた。

2009/12/23、ノアの自身プロデュースの試合のメインイベントに出場した後、新日本プロレス「SUPER J-CUP 5th STAGE」に出場。ノアの試合とJ-CUP決勝までの3連戦の計4試合を勝ち抜き、大会初の2連覇を達成した。

2010/1/4、新日本プロレス東京ドーム大会にて、王者タイガーマスクを下しIWGPジュニアヘビー級王座を奪取。メジャー3団体(新日本・全日本・ノア)のジュニアヘビー級シングルベルトを全て獲得した。

2010年4月に開催されたSpring Navig. '10の「グローバル・リーグ戦10」で川田利明と初対決するも敗戦。

2010/6/19、大阪府立体育会館にて、プリンス・デヴィットに雪崩式ブラディ・サンデーで3カウントを奪われ、IWGPジュニアヘビー級王座6度目の防衛に失敗、王座から転落する。

2010/7/24、ノア創立10周年記念 第2弾大阪府立体育会館大会で新日本プロレスの中邑真輔とタッグで初対決。

2010/7/25、DDTプロレスリングの両国国技館大会で負傷し、変形性頸椎症性神経根症と診断された。この怪我が原因で翌月に出場予定だったG1クライマックスの欠場を余儀なくされ、IWGPジュニア王者のプリンス・デヴィットが丸藤の代役として出場することとなった。

2010年10月より放送されているパチンコ『FEVERタイガーマスク』のTVCMでタイガーマスクを演じる(敵役のレスラー全員、ノアの選手)、本人は当初マスクマン希望だったため、念願が叶った。

2010/12/5、日本武道館大会のKENTA戦で復帰を果たした。

2011/4/17、変形性頸椎症性神経根症再発の疑いにより再び欠場

タイトル歴

プロレスリング・ノア

GHCヘビー級王座
  10代(防衛2回)
GHCタッグ王座
  第10代(防衛2回)&鈴木みのる
  第16代(防衛2回)&杉浦貴
GHCジュニアヘビー級王座
  第3代(防衛1回)
GHCジュニアヘビー級タッグ王座
  初代(防衛9回)&KENTA
  第13代 丸藤正道&青木篤志
GHC(グローバル・ハードコア・クラウン)無差別級王座
  第2代(防衛2回)

  ※団体創立から初めて全てのノア公式王座を獲得している。

全日本プロレス

世界ジュニアヘビー級王座
  第27代 (防衛4回)

新日本プロレス  

IWGPジュニアヘビー級王座
  第59代(防衛5回)

その他 

WEWタッグ王座
  第8代(防衛1回)&本田多聞
スーパーJカップ
  第4回・第5回優勝
ディファカップ
  第2回優勝
プロレス大賞
  1999年 新人賞
  2003年 最優秀タッグチーム賞(丸藤正道&KENTA)
  2006年 年間最高試合賞(丸藤正道×KENTA)、殊勲賞
  2008年 年間最高試合賞(丸藤正道×近藤修司)

入場テーマ曲

テレビゲーム好きのため、新人の頃はダンスダンスレボリューションの曲を使用していた。

  • BRILLIANT 2U / NAOKI
  • 5,6,7,8 / The Steps
めちゃ×2イケてるッ!のコーナー「めちゃSTEPS」に他のノア所属選手らと共に出演した際、岡村隆史からプレゼントされ、三沢から半ば脅迫に近い形で使用させられる。しかし、その試合で敗北したため使用は1試合のみに終わった。
  • HYSTERIC
  • HYSTERIC(Trance Version)





ガルーダ
1978/9/26

本名:森田 友和は、ガルダをモチーフとした覆面レスラーである。"聖獣"というニックネームを持つ。千葉県君津市出身。君津高校卒。O型。かつて本名で活動していたこともある。

経歴

高校卒業後に上京し、新聞配達をしながらアニマル浜口ジムに3年間通う。レスラーになるための基礎を学んだのち、FMWの入門テストを受けて合格した。

2000/9/7、福井市体育館における対保坂秀樹戦でデビュー。8分34秒、テキサスクローバー2000で敗れる。同日デビューには佐々木義人、牧田理がいる。

メキシコ遠征を経て、2001/11/23、横浜文化体育館における、天龍源一郎、冬木弘道組を相手にマスクマン・ガルーダとしてデビュー(パートナー黒田哲広)。冬木に23分33秒、片エビ固めで敗れる。

FMW崩壊後の2002年8月、ハヤブサ率いるWMFの旗揚げに参加。エース候補として期待を集める。12/12、WMF後楽園大会で「ガルーダ試練のスペシャルマッチ」と題して、新崎人生とシングル戦をして敗れる。人生厳しい攻めに素顔をさらしながら、なおマスクマンとして生き続ける決心をした。

2003年、首の負傷により長期欠場。同年12月復帰。以後首の負傷による欠場をたびたび繰り返すようになる。

2004年2月、第4回スーパーJカップに出場しベスト4進出。6月に新日本プロレスのベスト・オブ・ザ・スーパージュニアに初出場する。

2005年5月末でWMFと契約解除し、フリーになる。その後みちのくプロレス や大阪プロレス等、さまざまな団体に参戦する。

2007年11月、華☆激に参戦しコスモ☆ソルジャーとのタッグで博多タッグタイトルを奪取。現在華☆激を中心にフリーランスのレスラーとして活躍している。

ハヤブサの後継者

FMWの終身コミッショナーに就任した冬木弘道が2001/11/1、負傷欠場中のエース、ハヤブサに代わる救世主「ガルーダ」を引き連れ、メキシコから帰国。現地語で「鳥神」を意味するマスクマンだが国籍、年齢、経歴などはすべて不明だった。10/28にメキシコに旅立って以来、精力的に選手発掘を続けてきた冬木は「向こうで見つけてきたんだけど、一切ナゾだから分からない」と話していた。

実際はデビュー1年と少ししかたっていない森田友和が「メキシコから招聘した」という触れ込みで急遽スターに仕立て上げられたマスクマンだった。 正体がキャリア数年の若手選手であったため、周囲の期待に応えられず苦悩の日々を過す。

2002/12/12、WMF後楽園大会で新崎人生と一騎打ちをする。これはハヤブサが、「本来ならオレが闘って伝えるべきだが、こんな状態だから…。アイツの迷いを取り払って欲しい」と人生に重要な役目を託したものだった。人生はガルーダのマスクをはぎとっておいての極楽固めで大きなダメージを与えると、最後は念仏パワーボムからこの日2度目の強烈な極楽固めを極め、レフェリーストップで試合終了となった。

試合後のリング上では、ハヤブサが「森田、もういいだろう。いつまでもオレの陰にくすぶっていないで、今のままの自分に戻ってくれ。オレから言えるのはそれだけだ。」と、ガルーダのマスクを取っていいと言い、人生も無言でうなずいていたが、ガルーダは「ずっと江崎さんのことが頭に残っていました。でも、自分はこのマスクから逃げたくありません。もう森田友和には戻りません。俺はガルーダだ!」とマイクアピール。解説席のハヤブサの目をしっかりと見据えてリングを後にした。試合後のインタビューで「ウジウジした自分とはお別れです。江崎さんの陰ではなく、森田を捨ててガルーダとしてやっていきます。」と語った。

ハヤブサの思いはガルーダにも観客にも伝わり、森田は自分の意志でマスクを被ることを決意した。人生は肌を合わせてみて彼の潜在能力の高さを知り、未来のエースになれることを確信した。このエピソードはガルーダが名実共にハヤブサの後継者であることを物語っているであろう。

その他

  • コスモ☆ソルジャーとのコンビ名は「ファイヤーウイングス」である。
  • 趣味はトレーニング。

タイトル歴

  • 博多タッグ王座

  



長嶋美智子
1970/9/26

身長164cm、体重62kg。血液型A型。群馬県渋川市出身。
1989/12/6、真岡市民体育館において、対鈴木敦子戦でデビュー。

経歴・戦歴

1989年
  • 12/6、栃木・真岡市民体育館において、対鈴木敦子戦でデビュー。
1998年
  • 6/21、後楽園ホールにおいて、引退。

タイトル歴

  • LLPW認定6人タッグ

入場テーマ曲

  • 「狂麗」「LLPW華激ルネッサンス」に収録。





杉作J太郎
1961/9/26

愛媛県松山市出身の漫画家・俳優・タレント・ミュージシャン・ライター・映画監督。男の墓場プロダクション代表。愛光高等学校中退、駒澤大学卒業。

プロレスの解説者としても知られ、冬木弘道が指揮していた頃のFMW(後はWEW)のストーリー構成に携わっていたことがある。







ケンドー・ナガサキ
1948/9/26

本名(戸籍上の表記)は櫻田 一男(読みは同じ)。北海道網走市出身。のリングネームで知られる。

来歴

父は網走刑務所の職員だった。中学卒業後、大相撲の立浪部屋に入門し、『網走洋』の四股名を名乗るが、先輩力士とのトラブルに端を発し、部屋の親方と反りが合わなくなり廃業。その後、1971年に日本プロレスに入門し、同年6/27、戸口正徳戦にてデビューした。

日本プロレスには1973年の崩壊まで残り、その後、全日本プロレスに移籍。1976年10月、天龍源一郎のアメリカ武者修行に帯同し渡米するが、渡米後は天龍と別行動を取り、アメリカのみならずカナダやプエルトリコなど北米各地を転戦。カナダのカルガリーではミスター・ヒトとのタッグで活躍した。1978年には国際プロレスの『日本リーグ争覇戦』にミスター・サクラダとして参加した。

1982年の全日本プロレス帰国時は、覆面レスラーの『ドリーム・マシーン』として活動する。その後、再渡米した際にフロリダ地区でペイントレスラーの『ケンドー・ナガサキ』に変身し、頭頂部を剃り上げた落武者スタイルの怪奇派ヒールとしてダスティ・ローデスらと抗争。1985年に全日本プロレスを退団し、ノースカロライナ州のミッドアトランティック地区で後藤達俊と覆面タッグチーム『ライジング・サンズ』を結成。同年10月に新日本プロレスに参戦、リングネームを『ランボー・サクラダ』に改め、素顔で試合を行った。

しかし、この改名が不評であったため、同年末には再びペイントを施して『ケンドー・ナガサキ』に戻り、ミスター・ポーゴをパートナーにIWGPタッグリーグ戦に出場。以降はポーゴとのヒールタッグで活躍した。

その後、再び渡米してWCW等で活動、日本のヤクザをイメージしたキャラクターの『ドラゴンマスター』に改名し、グレート・ムタやテリー・ファンクらとタッグを組み、フォー・ホースメンと抗争する。その後帰国し、旗揚げ間もないFMWに参戦、栗栖正伸とタッグを組み、大仁田厚&ターザン後藤とストリートファイトマッチで対戦し、高い評価を得るが、FMWには1シリーズのみの参戦となり、1990年に将軍KYワカマツと共にSWS設立の中心人物として活動。SWS旗揚げの際には再びケンドー・ナガサキのリングネームに戻し、『道場・檄』の実質的なリーダーとして活躍した。

SWS崩壊後は、『道場・檄』のメンバーとジョージ高野&高野俊二の所属していたパライストラとの合同でNOWを旗揚げするが、正式な旗揚げ戦の前に高野兄弟が離脱し、NOWのエースとなるものの、経営不振のために崩壊した。

その後、1995年にグレート小鹿に誘われ大日本プロレスに参加し、デスマッチ路線で活躍するが、小鹿の意向でバーリトゥード挑戦を表明、当時「セメントマッチならナガサキが最強」と言われていたため、その強さを期待され、ジェラルド・ゴルドーの兄であるニコ・ゴルドーと対戦、年齢的な問題もあり苦戦したものの勝利を収めた。

そして、同年9/26、47歳の誕生日であるこの日にシューティング(現:修斗)が主催した総合格闘技大会「Vale-Tudo Perception」に参戦し、キックボクシング出身のジーン・フレージャーと対戦し、試合開始後わずか36秒で失神KO負けとなり、以後バーリトゥード路線から撤退することとなる(この試合に関しては、事前に対戦相手のことも調べず、バーリトゥード向けのトレーニングも行っていなかった)。

その後、小鹿との相違もあり大日本プロレスを離脱。フリーランスとしてSPWFやIWA・JAPANに参戦、自主興行も開催するが、その一方で神奈川県小田原市にちゃんこ料理店とスナックを開店、さらには魚料理のケータリングサービスを行なう会社を設立し、現在はこちらの経営が主となっており、プロレスのリングにはたまに上がる程度になっている。なお、料理店の食材仕入れはキラー・カーンの店と共同で行っている。

リングネーム

  • 桜田一男(Kazuo Sakurada)
  • ミスター・サクラダ(Mr. Sakurada)
  • チャン・チュン(Chan Chung)
  • ドリーム・マシーン(The Dream Machine)
  • ケンドー・ナガサキ(Kendo Nagasaki)
  • ランボー・サクラダ(Rambo Sakurada)
  • ドラゴンマスター(The Dragonmaster)

マネージャー

  • タイガー服部 - ミスター・サクラダ(フロリダ)
  • J・J・ディロン - ケンドー・ナガサキ(フロリダ)
  • 将軍KYワカマツ - ケンドー・ナガサキ(新日本プロレス)
  • ヒューゴ・サビノビッチ - ケンドー・ナガサキ(WWC)
  • ゲーリー・ハート - ドラゴンマスター(WCW)










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