1994年に元全日本プロレスのグレート小鹿が神奈川県横浜市に設立したプロレス団体。正式会社名は「大日本プロレスリング興業株式会社.。
歴史
1994/12/21、元全日本プロレスのプロレスラーでWARの営業部長としてフロント入りしていた小鹿信也(グレート小鹿)が、同年10月に興行活動を停止したNOWのケンドー・ナガサキらとともに設立した。旗揚げには、NOWから所属していた若手の谷口裕一とNOWで社長であった登坂栄児がレフェリーとして参加。さらに、元UWF所属であったブルーザー岡本、東京プロレス所属の山川征二(現:山川竜司、山川もNOW所属であったが、谷口や登坂と異なり、東京プロレスを経由して大日本に移籍している)、生え抜き第1号となった小林洋輔(現:アブドーラ小林、当時練習生)が所属選手となり、IWAジャパンや東京プロレスなど他団体の協力を得て陣容を整えた。
旗揚げ戦は1995/3/16神奈川の横浜文化体育館で行われた。草創期は現在も続くデスマッチ路線のほか、エースのナガサキが『打倒、ヒクソン・グレイシー』を明言してバーリ・トゥードへの進出を表明、団体も『ハラキリ』と称してナガサキのバーリ・トゥード路線を支えたが、同年9/26のジーン・フレージャー戦で36秒でKOされ惨敗を喫して以降は、バーリ・トゥード路線は頓挫。デスマッチを中心とした純プロレス路線に方向性を特化していく。
草創期のデスマッチアイテムとしてはFMWなどでも行われていた有刺鉄線(当初、大日本では『バラ線』と称していた)がメインであったが、W★INGプロモーション出身のミスター・ポーゴ(参戦当時はグレート・ポーゴ)、松永光弘、中牧昭二などが参戦する様になってからは過激なデスマッチ路線に拍車がかかり、中牧が所属以前に主戦場としていたIWAジャパンで頻繁に行われていた画鋲やガラスを使用したデスマッチ、さらには松永が考案したサソリやワニ、サボテンなどを使用した奇抜なデスマッチにファンの注目が集まった。また、若手選手の中から山川や小林、さらにIWAジャパンから移籍した志賀悟(現:シャドウWX)などがデスマッチ路線に投じ、後に中心選手として活躍する素地を築いたと言える。また、社長の小鹿自身も当時50代後半に差し掛かりながら現役として復帰、自らデスマッチに出場し、また出場時の様々なコスプレも話題となった。
1996年には後述する新日本プロレスとの抗争が勃発し、翌1997/1/4の新日本・東京ドーム大会では小鹿を筆頭に5名が出場したがそれ以上の進展はなかった。話題作りの一環として同年7月には『レスリング・ベア』(熊)の招聘を計画していたが、動物愛護団体の反発により頓挫するなど試行錯誤が続いたが、最終的にはデスマッチ路線に再び活路を見出すこととなった。この間に中心選手であったナガサキや中牧が大日本を離脱し、デスマッチ路線の陣容は松永、山川、小林、WXらが中心に変わり、新たにデビューした本間朋晃や葛西純などが参入、さらにはアメリカのハードコア団体CZWと提携するなど、陣容を整えてきた。現在の大日本のデスマッチとして代名詞となっている「蛍光灯デスマッチ」は、この当時在籍していた本間によって考案されている。
2001/12/2には横浜アリーナへの興行に進出。ミル・マスカラス、テリー・ファンクの招聘、ガラス爆破デスマッチのほか、当時、頭蓋骨骨折で長期戦線離脱していた山川竜司の復帰戦が行われるなど、現在に至るまで最大規模の興行となっている。
この頃に前後して、上記の選手勢に加え関本大介、伊東竜二、沼澤直樹("黒天使"沼澤邪鬼)ら若手の陣容も整ってきたことから、社長の小鹿は興行に出場する機会が少なくなり「ちゃんこ屋」などの副業に進出、統括部長である登坂が代わって興行の現場監督的な立場として表舞台に立つ様になった。
現在は、自主興行のほか、DDTプロレスリングやKAIENTAI-DOJOと『天下三分の計』と称した合同興行なども行っている(後述する“金村キンタロー選手による女性スタッフ強制猥褻事件”が発生したのはこの興行の最中での出来事である)。また、2007年からは、「興行権付き福袋」と称して、正月に興行権をファンに販売し、興行を開催するという企画も実施している。
2010年に開催された設立15周年記念大会にあっては、かつてCZW軍の主要員として会場を沸かせたニック・ゲージのみならず、欠場となったトレント・アシッドの代理としてCZWオーナーのDJハイドが参戦。おおよそ10年ぶりの団体交流が実現した。
概要
団体スローガン
- 「デスマッチ・メジャー宣言」
- 2005年、デスマッチの地位向上とクオリティ・アップを目指して宣言。
- 「ファンNo.1宣言」
- 2006年、「大日本のファンは素晴らしい」と言えるような団体を目指して宣言。ファンとの交流の場を増やす等、ファンサービスを強化。
- 「ONE MORE BJ」
- 2007年、インディー団体としての原点に立ち返りつつ、更なる一歩を踏み出す。
- 「好きです!さいたま!大日本!」
- 2008年・地域限定スローガン、大会だけでなくイベントやチャリティー活動などにも積極的に参加し埼玉にプロレスの楽しさをより多くの機会で与えていく。
大日大戦~BJW DEATH MATCH WARS~
、CS局「FIGHTING TV サムライ」で放送されている大日本プロレスの実況中継番組。
2009/3/31をもって毎週1時間枠の放送が終了し、4月から月1回の2時間枠「バトルステーション」内での放送となったが、番組名及び実況チーム等の体制は引き継がれる
別ブランド
2009年現在、大日本では3つの別ブランドを設け、デスマッチ以外の様々な試合を提供している。
- 横浜プロレス
- Dダッシュ
- 大日本を含むインディー各団体からキャリアの短い選手の育成を目的に設立。プロデューサーは李日韓。
- MEN'S CLUB FIGHT
- MEN'Sテイオーが主宰する「MEN'S CLUB」参加選手による自主興行。
その他の業務
飲食店
グレート小鹿
2003/11/21、仙台市に単身赴任し、ちゃんことジンギスカンの専門店「プロレスちゃんこ小鹿」を、2006/3/24、同じ敷地内に、「ホルモン小鹿亭」をオープン。2007/4/30、「プロレスちゃんこ小鹿」を閉店し帰京、同年8/28に「ホルモン小鹿亭」も閉店。現在首都圏にて再開を検討中。
グレート小鹿自らが、毎日厨房に立つ他、所属選手が店を手伝うこともあった。また、2004/5/9に「プロレスちゃんこ小鹿大会」が、2006/4/24には「ホルモン小鹿亭開店記念大会」が、駐車場で開催され、試合後には選手との食事会が催された。
山川竜司
自身の長期休養に伴い、2004年10月、札幌市に、バー「薄野プロレスYAMARYU」を開店。
アブドーラ小林
2007年6月、横浜市に居酒屋「海坊主」を開店。
2005/5/19、アブドーラ小林を社長に、引越し業を取り扱う運送会社「大日本プロレス運輸」を開業。新日本プロレスと業務提携をしている「プロレス運輸」から商標権の侵害を理由に裁判を起こされたため、同年12月、社名を「レスラーズ運輸」に改称した。
主に一人暮らしの女性からの依頼が多いらしい。また、「蛍光灯無料引取りサービス」を実施している。集まった蛍光灯は、デスマッチで使用、破壊される。
スタッフは伊東竜二、関本大介、"黒天使"沼澤邪鬼、井上勝正、谷口
本社機能の分離・移転に伴い、2006/5/11、関本大介主導の元、道場を一般開放し、スポーツジム『横浜マッスルファクトリー』を開設。
インストラクターに井上勝正。
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