学生時代(大阪芸術大学 柔道部所属)よりプロレスラーに憧れ、小学6年から柔道を経験。栗栖トレーニングジムで半年間トレーニングを積み、1990年6月に入門。11/7に和歌山・岩出町立町民総合体育館での小原道由戦でデビュー。当初から「生涯一ジュニア(ヘビー)」を宣言する。
1992年に「3代目タイガーマスク」に抜擢されるが、自身のスタイルとアクロバットを主体とするタイガーマスクとのギャップに悩み、1年もしないうちに覆面を脱いだ。
その後は米国遠征を経て心機一転。タイガーマスク時代に磨きを掛けた蹴りと空中殺法にラフ殺法を織り交ぜ、開花。1995年にはIWGPジュニア、UWAジュニアの2冠王者となった。
2003/11/3の村上和成戦で負傷するも復帰以降、絶大な人気を得ることになった。[]2004年はG1 CLIMAXにも初出場した。
2005年12月、現在の新日本に対しての極度の不満や問題を感じつつ、試合を続けていたことを告白。井上亘を巻き込む形で、2か月近く会社と揉め続けたが結局は残留した。
2006/5/3、福岡国際センター では、第49代目IWGPジュニアヘビー級王座であるタイガーマスクをファルコンアローで破り3年ぶり5度目のIWGPジュニアヘビー級王座に君臨。しかし5月から6月にかけて行われたベスト・オブ・ザ・スーパージュニア
XIIIでは、タイガー、井上亘に敗れ4大会ぶりに決勝トーナメントに進めなかった。8月にはG1 CLIMAXに出場し、初めて決勝トーナメントに進出。準決勝で全日本プロレスの小島聡に敗れ決勝進出はならず。
10/8にBEST OF THE SUPER Jr.初優勝を遂げた稔とIWGPジュニアヘビー級王座を賭け対戦し、アンクルホールドで見事タップを奪い防衛に成功。G1
TAG LEAGUEでは棚橋弘至とタッグを組んで準優勝という戦績を収めた。
2007/2/18、両国国技館においてジュニア選手として史上初となるIWGPヘビー級王座に挑戦。互角の戦いを繰り広げるも最後はドラゴン・スープレックス・ホールドでピンフォール負けを喫した。
2009/2/12にDRAGON GATEに乗り込みB×Bハルクに勝利を収めると3/22に土井成樹が所持するオープン・ザ・ドリームゲート王座に挑戦するも、マスキュラーボムで沈んだ。
5/6、プロレスリング・ノアへ獣神サンダー・ライガーと共に乗り込み金丸義信、平柳玄藩組と対戦。自らを仲本工事とわざと名前を間違える平柳をアンクルホールドでギブアップを奪い勝利。6月に行われたBEST OF THE SUPER Jr.ではライガー、田口隆祐、タイチ、飯伏幸太らから勝利を収めBブロックを1位通過し、決勝戦ではプリンス・デヴィットに変型アンクルホールドで勝利し、V3を達成。7/20にIWGPジュニアヘビー級王者であるタイガーマスクとベルトを賭け対決するもデストロイ・スープレックス・ホールドで敗れた。
12月にSUPER J-CUP1回戦でフジタ"Jr"ハヤトと対戦。激しい打撃戦を制し2回戦進出を果たすも、田口隆祐に敗れベスト8に終わった。
2010/5/8、SUPER J TAGにエル・サムライと共にエントリー。決勝で田口、プリンス・デヴィット組との激闘を繰り広げ、優勝。同時に第25代IWGPジュニアタッグ王座に君臨。7/19に同タッグチームと初防衛戦を行ったが、サムライがピンフォールを奪われ、同王座に陥落した。
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