クルト・フォン・ヘス
Kurt Von Hess
1942/4/10 - 1999/3/13
カナダのプロレスラー。オンタリオ州ハミルトン出身。本名はウィリアム・E・テリー(William E.
Terry)、通称ビル・テリー(Bill Terry)。
全盛時はナチ・ギミックのドイツ系ヒールとなって、カナダを主戦場に活躍。日本でも昭和期の各団体に参戦し、主にタッグ・プレイヤーとして実績を残した。
来歴
1968年、地元オンタリオのトロントを本拠とするメープル・リーフ・レスリング(フランク・タニー主宰)にて、ビッグ・ビル・テリーのリングネームでデビュー。その後、ナチ・ギミックのクルト・フォン・ヘスに変身し、カルガリーのスタンピード・レスリングに参戦。1971年末に同地区のメインタイトルである北米ヘビー級王座を獲得し、翌1972年2月にキラー・トーア・カマタに敗れるまで保持した。
1972年より、モントリオールにて同じギミックのカール・フォン・ショッツ(ジョン・アンソン)とタッグチームを結成。ザ・シークが牛耳っていたアメリカのNWAデトロイト地区にも進出し、同年12月にザ・ストンパー&ベン・ジャスティスからデトロイト版のNWA世界タッグ王座を奪取、以降1974年にかけて、ショッツとのコンビで同王座を再三獲得した。1974年5月には新日本プロレスに揃って初来日している(後述)。なお、ヘスとショッツのタッグチームは、日本では「戦犯コンビ」と呼ばれた。
コンビ解散後、ヘスはビッグ・ジョン・クイン、ショッツはリングネームを本名のジョン・アンソンに戻してドン・レオ・ジョナサンを新パートナーに、1976年にバンクーバー地区でカナディアン・タッグ王座を争っている。以降はシングル・プレイヤーとなって各地を転戦し、アラバマ地区では1977年にガルフ・コースト・ヘビー級王座を2回獲得。ミッドサウスのトライステート地区では、1978年に当時のドイツ系ヒールの新鋭ジークフリート・スタンキーと組み、レイ・キャンディ&スティーブン・リトルベアからルイジアナ・タッグ王座を奪取した。1980年代初頭は、テネシー州メンフィスのCWAに登場している。
キャリア晩年は古巣のトロント地区(メープル・リーフ・レスリング)に定着し、同地区と提携する各メジャー団体にもベテランのジョバーとして出場。1983年はNWAミッドアトランティック地区(ジム・クロケット・プロモーションズ)にてNWA世界ヘビー級王者のリック・フレアーと対戦。同年12/6にはWWFでレネ・グレイと組み、当時のWWFタッグ王者チームのロッキー・ジョンソン&トニー・アトラスと対戦するなど、チャンピオン・クラスの大物選手のジョバーを務めた。1984/1/8にはバズ・ソイヤーの代打として、トロントにてロディ・パイパーとドッグ・カラー・マッチを行っている。
1986年に腎臓病を患い現役を引退。6年以上に及ぶ人工透析を受け、1996年に臓器移植を行ったものの、1999年3月13日、心臓発作により故郷のハミルトンにて死去。享年56歳。
日本での活躍
初来日は1974年5月、カール・フォン・ショッツと共に「NWA北米タッグ王者チーム」として新日本プロレスに参戦している(初代王者チームのパット・パターソン&ジョニー・パワーズを破り、戴冠したとされる。当初はNWFの世界タッグ王者チームとして来日する予定だった)。6/7の札幌大会でアントニオ猪木と坂口征二の黄金コンビの挑戦を退けタイトルをアメリカに持ち帰るも、8/16にロサンゼルスにて猪木&坂口に敗れて王座から陥落。以降、北米タッグ王座は新日本に定着した。
再来日は1977年2月、国際プロレスの『第6回IWAワールド・シリーズ』。同シリーズではシングルのリーグ戦と並行してIWA世界タッグ王座を賭けたタッグ・トーナメントが行われ、ヘスはバンクーバーでもタッグを組んでいたビッグ・ジョン・クインとのコンビで出場。3/25の横浜大会でアニマル浜口&寺西勇を破って優勝しタイトルを獲得したが、翌26日のシリーズ最終戦(東京・蔵前国技館大会)でグレート草津&浜口に敗れ、1日天下に終わった。国際には翌1978年にも参戦し、5/2にマスクド・インターン(トム・アンドリュース)と組んで草津&浜口のIWA世界タッグ王座に挑戦している。
1979年1月には新日本プロレスに再登場。2/25に札幌にてボブ・ループとのコンビで坂口&ストロング小林の北米タッグ王座に挑むも、タイトル奪回は果たせなかった。
1980年8月には全日本プロレスに初参戦。シリーズ中に行われた『PWF杯争奪タッグ・トーナメント』にカール・フォン・スタイガーと組んで出場、1回戦でマスカラス・ブラザーズ(ミル・マスカラス&ドス・カラス)に敗退している。全日本には1982年5月にも来日し、前年のレスリング・ウォーにより新日本から移籍してきたタイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセンのタッグ・パートナーを務めたが、体力的な衰えは隠せず、これが最後の来日となった。
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