グレート小鹿
1942/4/28 (1940年生まれという説もある)
日本のプロレスラー。本名:小鹿
信也(こしか しんや)北海道函館市出身。大日本プロレス代表取締役社長。
経歴
17歳のとき、後を追いすがる家族を振り切り、一旗揚げたいという思いだけを持って青函連絡船に乗りこみ、一人函館を後にする。船中、体格のよさを見込んだ親方に声をかけられ、腹いっぱいご馳走された後、そのまま親方に連れられ出羽海部屋に入門することとなる。
1963年、相撲界を離れ日本プロレスに入団。5/9、マシオ駒戦でデビュー。豊登の命名による『小鹿雷三』のリングネームでファイトする。
1967年に大熊元司とともに渡米しテネシー州、ジョージア州のタッグ王座などを獲得。大熊がホームシックで帰国した後も、『カンフー・リー』などのリングネームを用い、サンフランシスコなどでシングルプレーヤーとして活躍し、姑息なヒール戦法を駆使して憎まれ役としての存在感を発揮。ミル・マスカラスを破って成し遂げたアメリカス王座戴冠の実績が光る。アメリカにおけるタイトル獲得数は、ジャイアント馬場、アントニオ猪木を大きく上回る。
1973年6月、全日本プロレスに移籍。1974年1月にテキサス・アマリロへ再渡米。テリー・ファンクからウェスタン選手権を獲得。その後はジャイアント馬場のセコンドに必ず付いていたほか、大熊元司との名タッグ『極道コンビ』でアンダーカードの一時代を築く。アジアタッグ王座はこのコンビとともにあったといっても過言ではない。
また現役時代からプロモーター業を兼任して、そしてしっかり成功させていたという異色の選手であった。自らの引退興行も自分でプロデュースしている。
事業家・小鹿信也の出発点である。
引退後、地元函館で事業を始める傍ら、プロモーター業を継続。後に天龍源一郎の願いを受けWARの営業部長に就任。巡業ルートの設定などに携わる。また、タレント活動も行なっており、意外なところではミュージカルの出演経験がある(同じミュージカルには、女子プロレスを引退していたミミ萩原も出演していた)。
1994年12月、NOW崩壊の憂き目を見ていたケンドー・ナガサキ・登坂栄児(NOW社長→大日本・統括部長)らとともに、横浜市に大日本プロレスを設立し、社長に就任。
観客動員に苦戦したことから、1995年に現役復帰。『料理の鉄人』、ゴルゴ13、兵隊服などのコスプレをしてリングに上がる「コスプレ社長」として注目を浴びた。1997年1月4日には新日本プロレスの東京ドーム大会に登場。マサ斎藤と対戦した。このときの小鹿の衣装はタキシード。
若手が成長するにつれて自らがリングに上がることはなくなり、事業家としての活動が主となっている。2003年11月、宮城県仙台市に「プロレスちゃんこ小鹿」を、2006年4月には「ホルモン小鹿亭」をオープンさせた。
2006年3月から始めた小鹿自身が運営するブログ「小鹿注意報!」が大きな話題となり、同年12月にはそのブログをまとめた著書『グレート小鹿の「小鹿注意報!」-黄金のプロレス伝説、ここにあり!!』が五月書房から出版された。
2006年12月31日に行われた後楽園ホールでのインディサミット2006に大日本プロレス選手としてバトルロイヤルに出場。サポートはあったものの見事優勝。100万円を手にした。久々に彼の勇姿がファンの前に披露された。
2007年4月30日、「プロレスちゃんこ小鹿」が閉店。開店当初から地元の新聞・テレビに頻繁に取り上げられ、駐車場でプロレス大会を開催するなど一時は話題となったが、同年4月末をもって営業を終了した。それと同時に、小鹿は仙台での3年半の単身生活を終え、横浜の自宅へ戻った。続けて「ホルモン小鹿亭」も同年8月28日に営業を終了した。現在、首都圏に新店舗出店を計画中であるが、この間にも自転車販売や歌手デビュー(WAVE春日萌花とのデュエット曲も発売)と、多くの副業をしようとして、団体経営上副業を快く思わない登坂栄児統括部長から妨害工作を受けたりする。
2009年からは、大日本に参戦している佐々木貴らが立ち上げた団体「プロレスリングFREEDOMS」に参戦。後にバラモン兄弟らと結成した「小鹿軍団」のリーダーとしてリングに上がっている。
2009年12月31日から翌元日にかけて行われた天下三分の計にも出場。5対5の「ニューリーダー軍vsナウリーダー軍」のニューリーダーとしてTAKAみちのくに勝利した。また108人参加が参加したロイヤルランブル方式のバトルロイヤルにも20番目の選手として出場。途中退場になったものの全盛期を彷彿とさせるファイトで観客を大いに沸かせた。
逸話
- 大熊との『極道コンビ』は非常に絆が強いコンビとして知られた。頑強だが気が弱い大熊を心身にわたって支え、大熊が怪我をしてほとんど動けないときには、「とにかく立っているだけでいいから」と言って小鹿一人で試合を組み立てるほどだったという(アメリカマットにおいて怪我で試合に出られなくなるということは、そのまま干されることにつながる)。早すぎた大熊の死に、小鹿は深く悲しんだ。
- アメリカ時代は、カリフォルニア米が非常に口に合ったらしく食事の面で困ったことは無い。
- 函館訛りが抜けない話し方で知られる。アメリカでも函館訛りで押し通した。
- 力道山最後の弟子ではあるが、実際彼と接したのは1年ほどであり、また押しも押されもせぬエースと新弟子、という関係だったため、彼との思い出はそれほど無いという。プロレスラーを志して力道山の元を訪ねた際「いい体しているね、頑張りなさい」(その時点で身長は180センチを越えていた)と励まされたものの、後日約束した日に再び彼の元を訪れると「君誰だっけ?」と言われたことがある。これには小鹿は背筋が凍る思いがしたと述べている。なお、力道山時代の昭和のプロレスを語れる数少ないプロレスラーの一人でもある。
- 往年の名悪役・アブドーラ・ザ・ブッチャー来日のきっかけを作った。米国遠征中の小鹿に対し、当時は日本ではまだ無名レスラーであったブッチャーが日本マット参戦を志願。ミスター・モトに仲介したことでブッキングが実現した。全日本や大日本でも幾度となく対戦している。
- 歌が非常にうまく、団体の宴会には必ずお呼びがかかった。
- 1984年、映画『修羅の群れ』に出演。
- 1日1個のゴミを拾っている。
- 子息に陸上の長距離選手がおり、全国高校駅伝、箱根駅伝に出場するほどの実力だった。
- 2006年8月20日1日間の、自身が運営するライブドアBlogである「小鹿注意報!」のユニークアクセス数は丁度100だったが、翌21日に日本最大級ポータルサイトYahoo! JAPAN TOPのトピックス欄に小鹿のBlogが紹介・掲載された途端、その日だけで133,084という、とんでもない数のユニークアクセス数を記録した(現在も最低でも1000アクセスはある。MBSラジオ・「ゴー傑P」にて発言)
- 2010年12月現在、現役日本人レスラー最高齢であるが、引退期間があるため公式にはされていない。
タイトル歴
- アメリカスヘビー級王座
- アジアタッグ王座(日本プロレス時代の最後の王者であり、全日本プロレス時代の最初の王者でもある。)
- 日本海認定世界6人タッグ王座(第3代。パートナーはりほとミスター6号。ケニー・オメガから王座譲渡され第3代王座に認定される。)
- UWA世界6人タッグ(第42代。パートナーはりほとミスター6号)
- 自由が丘広小路会認定6人タッグ王者(第6代。パートナーはりほとミスター6号)
- DDT「両国ピーターパン2010 〜夏休み ああ夏休み 夏休み〜」にて、UWA・自由が丘広小路会認定・日本海認定の6人タッグ3冠統一戦にて勝利し6人タッグ3冠王者となる。
使用したリングネーム
- 小鹿信也(本名)
- 小鹿雷三
- グレート小鹿
- カンフー・リー
- 怪覆面G・K
著書
- 1999年3月 『グレート小鹿の馬鹿モン!文句あっか!!』(ベースボール・マガジン社)
- 2006年12月 『グレート小鹿の「小鹿注意報!」-黄金のプロレス伝説、ここにあり!! 』(五月書房)
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