日本のプロレスラー。ワールド女子プロレス・ディアナ株式会社代表取締役社長。山形県南陽市出身。
顔に施したペイントがトレードマークである。
所属
- 全日本女子プロレス(1988年 - 1997年)
- フリーランス(1997年)
- ネオ・レディース(1997年 - 2000年)
- ECW JAPAN(2000年)
- NEO(2000年 - 2010年)
- フリーランス(2010年)
- ワールド女子プロレス・ディアナ(2011年 - )
バイオグラフィー 全女時代は、抜群のスタミナ・スピード・テクニック・パワーを兼ね備え、ヒールでありながらあくどいファイトを行わなかったため、男女の境無しに人気を博した。対抗戦時代は、JWP、LLPWとも対戦し、神取忍ともシングルマッチを行ったが、もともと、対抗戦自体にそれほど興味を持っていたわけではなかった。次第に、自らのアイドルであり獄門党のトップであるブル中野越え、1年先輩であり心技体共に双璧といってよい存在であった豊田真奈美越えが、大きなテーマとなっていった。 1988年
10/10、全日本女子プロレスの後楽園ホール興行での対井上貴子戦でプロレスデビュー。井上貴子とは後にタッグチームを組み、第100代WWWA世界タッグ王座となった。 1990年
7/21 大田区体育館では、神谷美織・吉田万里子と組み、三田英津子・下田美馬・伊藤薫と対戦。コスチュームの背中には「井上京子」の文字があった。大場所での試合としては最初期にあたる。この試合では、まだペイントをしていなかった。足四の字に固めてのジャイアントスイング、カンパーナなども見せた。
10/7 後楽園ホールでのアジャ・コングと組んでみなみ鈴香・北斗晶組と対戦、試合後、勝利したアジャは獄門党脱退を宣言、ブルは破門を宣言し「付いてくる奴だけついてこい」とマイクし控室に引き返す。この試合でパートナーを組んでいた井上京子はどちらにつくか迷った様子を見せたが、涙を見せながらブルの方に歩いていった。
11/14 横浜文化体育館でのブル中野対アジャ・コングの金網デスマッチ。ブルの伝説的な金網最上段からのギロチン・ドロップの出た、女子プロレス史上の名勝負となったこの試合後、バイソン木村が仇討ちをアピール、アジャがタッグでの対戦を要求する。そこで京子はマイクを取って「中野さん、自分じゃ駄目ですか、自分じゃ?やりましょう!やりましょう!やりましょう!やりましょう!」と連呼。ブルもそれを受けいれ、敗者髪切りタッグを宣言した。 1991年
1/11 後楽園ホールでのメインイベントで、ブル中野のパートナーとしてバイソン木村・アジャ・コング組と敗者髪切りマッチで対戦。史上初のタッグでの髪切りマッチとなったが、ブルをアシストして勝利を収めた。
3/17 後楽園ホールのメインイベントで、ブル中野のパートナーとしてバイソン木村・高橋美華組と対戦。デビュー2年半にして、メイン・イベンターとして、そしてブルのパートナーとしての成長ぶりを見せた。19分7秒、ブルのギロチン・ドロップで勝利。 ジャパン・グランプリ'91で、1日3連勝と破竹の勢いで初優勝。一躍、スターダムにのし上がる。 1992年
7/5、後楽園ホールでのジャパン・グランプリ公式戦で、吉田万里子と対戦。この試合ではルチャをベースにした京子と吉田のレスリング・センスがまんべんなく発揮された、明るさ、楽しさと激しさが並び立った好試合であった。会場内で鬼ごっこをする、トペにいこうとした京子を避けた吉田が、リングの下を潜って反対側から姿を現す、京子が吉田の得意技である、バンザイ式モンキー・フリップを敢行、コーナーにレフェリーの村山大値と京子を追い込んで、京子にかけるつもりが京子に逃げられて、村山にバンザイ型のモンキー・フリップを敢行、すかさず京子がカウント3を入れる、といった見せ場があった。試合結果は30分フルタイムの引き分け。 1993年
4/2 横浜アリーナでの夢のオールスター戦で、対抗戦初出場。井上貴子と組んで、JWPのキューティー鈴木・尾崎魔弓と対戦。キューティーをジャイアントスイングで39回転するなど伸び伸びとしたプロレスを展開。最後はのど輪落としとナイアガラ・ドライバーで貴子が尾崎をフォール。
4/11 大阪府立体育会館での夢のオールスター戦第2弾で、堀田祐美子、井上貴子と組んで、JWPのキューティー鈴木・コマンド・ボリショイ・プラム麻里子組との対決。いきなりボリショイとのムーブ合戦でお互いがお互いを真似てユニークな動きを連発、観客は大歓声をあげた。試合ではボリショイに32回転のジャイアントスイングを見舞い、最後は21分28秒、エアプレーン・スピンからボリショイをフォール。
8/25 日本武道館での「武道館女王列伝」では、LLPWの神取忍と初対決。かみ合わないと思われていたが、京子は神取のサブミッションを切り返し、いつもと同じ京子ワールドを展開。パワーでは神取に勝るところも見せたが、徐々に神取の無骨な荒技と関節技、絞め技に追い詰められ、大熱戦となった。最後は18分44秒、腹固めでギブアップ負けを喫した。試合後京子は、神取の印象を聞かれ「固かった・・・石みたいだった・・・」と語った。
10/9 東京ベイNKホールでの「レッスル・マリンピアード'93」では、JWPのデビル雅美と対戦。新旧の実力者同士の対決となったが、デビルがペースを握り、苦戦する。ナイアガラ・ドライバーも返され、高角度パワーボムを食うなど厳しい展開となったが、最後は11分50秒、ブレーンバスターに来たデビルを、意表を突く一瞬の飛び付き式回転エビ固めで仕留め、金星を挙げた。
11/28 大阪城ホールでの「大阪美神王国」では、FMWの鍋野ゆき江とシングル・マッチ。FM勢唯一の参戦となったが、小兵でアンコ型のユニークな鍋野は明らかに格下であったが、不器用ながらガッツあふれるファイトを見せて観客を沸かせた。京子もしっかりそれに応え、超高速のジャイアントスイングも見せた。最後は三角跳び式ダイビング・エルボー・ドロップでフォール勝ち。試合後は鍋野の手をあげて、奮闘を称えた。 1994年
8/24 日本武道館で、オールパシフィック王者として、IWA王者である豊田真奈美とダブル・タイトルマッチ。ジャパニーズ・オーシャン・サイクロン・スープレックスを返すなど、後一歩のところまで追い詰めるが、豊田も、京子の三角跳びからの雪崩式フロント・スープレックス、ナイアガラ・ドライバーをしのぎ切る。両者フィニッシュ・ホールドを出し尽くした死闘となったが、豊田がカウンターでのロープの反動を利用しての高角度回転固めで23分31秒、勝利をもぎとりシングル二冠王となり、京子は無冠となった。
10/9 川崎市体育館の「レッスル・マリンピアード'94」では、井上貴子と組んでのダブル井上コンビで、山田・豊田組のWWWA世界タッグ王座に挑戦、2-1で勝利し、同王座を初戴冠。
11/20 東京ドーム、憧夢超女大戦でのV☆TOP WOMAN日本選手権トーナメントでは、1回戦でダイナマイト・関西と対戦し敗戦。本来東京ドームでは、ルシア・ライカとの対戦が計画されていたが直前で流れ、同トーナメントで空いていた最後の一枠(長与千種やデビル雅美に打診していたがいずれも首を縦に振らなかったといわれている)に急遽組み込まれるということで、京子にとってはきわめて不本意なかたちでのトーナメント参加であった。 1995年
3/21 大阪城ホールで開かれた「大阪美神王国SUCCESS」では、自主的に返上した第100代WWWA世界タッグ王座決定戦に、ダブル井上として参加。1回戦ではみなみ鈴香・レジー・ベネット組のパワーに苦戦、準決勝ではアジャ・コング・吉田万里子組のコンビネーションと粘りに苦戦を強いられたが、決勝では豊田真奈美・ブリザードYuki(長谷川咲恵)組をナイアガラ・ドライバーで沈め、1日3試合を勝ち抜いて、2度目の王座となった。
3/26 横浜アリーナでブル中野の保持するWWF世界女子シングル選手権に挑戦。ブルをかなりの程度追い込んだが、最後はギロチン・ドロップ2発からローリング・ギロチンという必殺フルコースの前に沈んだ。ブルは試合後、獄門党の解散を宣言したが、京子は「中野さんとシングルで勝ってからにしてください」と涙ながらに訴えた。ブルは「勝てるか?待ってるんだぞ、ずっと!勝てよ!」と答え、解散延期を快諾した。
5/7 後楽園ホールでの王者豊田真奈美とのWWWAシングル選手権。60分ノンストップの時間切れ引き分け。女子プロレス史上に残る名試合の一つといってよい、充実した内容であった。
9/2 日本武道館でブル中野とのシングル・マッチ。ブルの場外攻撃やプランチャ、エプロンから場外へのギロチン・ドロップ2連発などの猛攻で半失神状態となり、リングアウト負け寸前まで追い込まれるが、最後は20分53秒、ナイアガラ・ドライバー3連発でついにブル越えを達成。 1996年
3/31 横浜アリーナで豊田真奈美の保持するWWWA世界シングル選手権に挑戦。怪我を抱えており体調は万全ではなかったが、1994年8月24日、1995年5月7日のタイトル戦同様、お互いに持ち技を出し切る熱戦となった。最後は21分29秒、豊田のジャパニーズ・オーシャン・ボムの前に沈んだ。健闘をたたえる豊田のマイクに対し、「今日は完全に3カウントとられました。すっごい悔しくて、すごく憎たらしいんですけど、ほんとにほんとに憎らしいんですけど、あの、怪我直したら、そのベルト豊田さんから絶対に取りますんで、その時まで持っててください」と応じた。
6/22 豊田真奈美・下田美馬組にWWWA世界タッグ王座を奪われる。 ジャパン・グランプリ'96では、決勝に進むものの、アジャ・コングとの死闘に敗れて準優勝に終わる。
12/8 両国国技館で豊田真奈美の保持するWWWA世界シングル王座に挑戦、遂に豊田を破って王座を獲得した。 1997年 オールパシフィック選手権とIWA世界女子シングル選手権の二冠を保持していた井上貴子との、WWWA世界シングル王座防衛戦。勝った方が全てのベルトを得るという試合に勝利し、史上初の女子三冠王者となった。 8月9日 慕っていた先輩アジャ・コングが全日本女子プロレスを退団することになり、最後にタッグを組み三田、下田組と最終決戦。のちに語り草となるこの試合は両者の希望で完全決着ルール、反則OKであったため消火器を発射するなど衝撃的な内容であったが勝利する(於 後楽園ホール)。 8月20日 『武道館女王列伝brightness』大会で堀田祐美子とのWWWA世界シングル王座防衛戦の直前に全日本女子プロレスを退団することを宣言した。
1998年 ネオ・レディースを旗揚げと共に同団体所属となった。 11月、当時話題になっていた「オカマムエタイ戦士」パリンヤー・ジャルーンポンと異種格闘技戦を行い敗戦。 2000年 ネオ・レディースを解散する。 ネオ・レディースを引き継ぐ、NEO女子プロレスに所属し、『団体の象徴』として人気を集める。 2007年 3月より子宮筋腫による無期限欠場。
7/3、妊娠を発表し、11/2に男児を出産。 2008年
5/5、後楽園ホールで開催された『MAY HISTORY'08』で第18代NWA女子パシフィック王座&NEO認定シングル王者の松尾永遠に勝利し5年ぶりに同王座に返り咲く。
10/4、川崎市体育館で開催された『NEO DREAM 2008?終わらない夢を見るのもいいが新しい夢を描いてみせよ ?井上京子デビュー20周年記念興行』では全日本女子プロレス時代の後輩で元付け人であった高橋奈苗を相手にNWA女子パシフィック王座&NEO認定シングル選手権試合を行い、敗れる。 2010年
5/5、NEO女子プロレスが同年12/31をもって解散することが発表され、その団体との考え方の違いにより自身は退団することを表明した。当面はフリーで活動していくが、将来的には新団体を旗揚げしたいと後日インタビューでコメントしている。
7/29、新団体の母体たる会社を設立。 11月、カンボジア遠征。終了後に手術。
12/26、NEO板橋大会で最後の古巣リングに上がる。ただし手術直後のためバトルロイヤルのみ参加。
12/31、NEO最終興行に来場し、団体の最後を見送った。 2011年
1/9、Tommyレフェリー25周年記念イベントで本格復帰。
1/28、新団体「ワールド女子プロレス・ディアナ」設立を発表。自身が団体の運営会社社長を務めるのは初となる。
入場テーマ曲
タイトル歴
- NWA女子パシフィック王座&NEO認定シングル王座
- NEO認定タッグ王座(&三田英津子、&松本浩代)
- WWWA世界シングル王座
- WWWA世界タッグ王座(&井上貴子)
- TWF世界シングル王座
- オールパシフィック王座
- IWA世界女子王座
- 全日本シングル王座
- WEWタッグ王座
- WEW6人タッグ王座
その他
新人の頃はベビーフェイス志望だったが、当時交際していた男性がいたため、全女時代の三禁(酒・煙草・男)に抵触し、その後、男性とは別れたが、ペナルティとして、「ヒールになるか全女を辞めるか」を迫られ、ヒールになったと2010年7月23日放送のやじうまプラスにて紹介されている。
過去に2度リングネームを変えたことがある。1度目は『アダモ井上(アダモいのうえ)』で、2度目は『井上狂虎(呼び名は本名と同じく、いのうえきょうこ)』。共にブル中野率いる獄門党に加入した際、ほんの一時期使用している。ちなみに、これらのリングネームは地方興行中に改名した後、すぐ本名に戻していて、大都市でのビッグマッチ等では名乗っていないので、あまり知られていない。
ちなみに『アダモ井上』の由来は、入団当時に先輩レスラー達の前で芸を披露することになり、島崎俊郎の持ちネタであるアダモステを披露した所、非常にウケ、それ以降『アダモ』というあだ名をつけられたことによる。
井上京子と言えば、ペイントレスラーとして有名だが、1試合のみペイントの代りに覆面を被り試合を行っている。だが、覆面が気になり試合に集中できず、それ以降被っていない。
2003年、プロレスリング・ノア選手興行にて井上雅央は「負けたら井上京子に改名する。」と言って敗退。井上京子のコスチュームとメイクで本人とともに登場した。
現在はレスラー活動と並行して居酒屋「あかゆ」(元は実家が経営するラーメン屋の屋号)も経営しており、NEO時代の後輩も現役・元問わずスタッフとして手伝っている。
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