飯塚 高史
1966/8/2
日本のプロレスラー。本名は飯塚
孝之(いいづか たかゆき)。北海道室蘭市出身。新日本プロレス所属。
来歴
若手時代の1989年、馳浩と共にロシアでコマンドサンボ修行を行っており、グラウンドレスリングの技術力が非常に高く、道場でコーチを務めていた時期もあった。またその技術を買われて、パンクラスのリングでは鈴木みのると「キャッチレスリング」(打撃無しルール)で対戦している。
スリーパーホールドを得意としており、過去に何度もこの技で勝利をあげている。
本人曰く「裏投げとフィッシャーマンズ・スープレックスを併せた」というブリザードを得意としており、技の名前は出身地が北海道であることから、リングアナウンサーの田中秀和が命名したものである。
海外遠征からの帰国時、闘魂三銃士、馳浩、佐々木健介の5人にシングル戦を要求するマイクパフォーマンスをリング上で行い、エル・サムライおよび野上彰との3人で「新世代闘魂トリオ」という形で売り出されたが、希望は即座に通らずに売り出し失敗。併せて本人の性格の地味さもあって、トップグループに割って入ることができなかった。なお健介は後にプロレス雑誌の飯塚との対談で、このシングル戦要求に答えなかった理由を、「同い年の同年デビューなのに、短期サンボ修行、長州力と組んでのIWGPタッグ王座戴冠、ドラゴンボンバーズ、お膳立ての整った海外武者修行という、エリートコースに乗った流れが気に食わなかったから」と述べていた。
この後も、野上彰との「J・J・JACKS」、山崎一夫・永田裕志・木戸修との「山崎隊」など、ユニットの形でチャンスを与えられるが、生かすことは出来ず、「隠れた実力派」と称される中堅選手の位置に甘んじていた。
1999年1月4日、小川直也対橋本真也戦における場外乱闘で、小川のセコンドについていた村上和成に対し、一時昏睡状態に陥るほどのダメージを負わせた張本人とされる(これが原因で、村上は一時執拗に飯塚の首を狙っていた)。
2000年1月4日、橋本とのタッグで小川・村上組と対決。橋本を馬乗りパンチで攻める小川をドロップキックで駆逐するなど大活躍し、最後はスリーパーホールドで村上をKOした。この一戦がきっかけで一躍大ブレイクし、決め技となったスリーパーは前述のように彼の代名詞となった。4/7にはシングルでも村上からスリーパーで勝利すると、7/20に健介の持つIWGPヘビー級王座に挑戦。試合には敗れるものの、その後のG1
CLIMAXで永田裕志と大会中ベストバウトと呼ばれる試合を展開。G1タッグリーグ戦では永田と組んで初優勝と、飯塚にとって2000年は非常に実りの多い年であった。
しかし2001年、長井満也との試合で首を負傷し、長期欠場を余儀なくされる。
その後、トップ戦線との関わりは無く光が当たる事はなかったが2008年、復帰したがG・B・H勢に袋だたきに遭った天山広吉を助け、タッグ共闘を持ちかけた。最初は冷たくあしらわれていたが、G・B・Hのイス攻撃から身を挺して天山を守る等の捨て身の救助を行い、気持ちが通じて“友情タッグ”が誕生した。4/27のIWGPタッグ挑戦の際突如天山を裏切ってG・B・Hとグルになって袋叩きし、長いキャリアで初のヒール転向宣言。これに伴い、頭を坊主にし眉毛も落とし、無口で鋭い眼光の別人の風貌に変わった。
当初は全く喋らないキャラで逆にその不気味さを際立たせていたが、徐々に喋るようになった。のちのインタビューでは「善良だったころの飯塚高史の魂は等々力のほこらに封印した」と語った。
2008/10/13に天山、2009/4/5に永田とチェーン・デスマッチで対戦し勝利したが、2009年5月3日に永田とドッグカラー・チェーンデスマッチで、7月20日に天山とチェーン・デスマッチで再戦し敗北。同年のG1
CLIMAXに9年振りの出場を果たすも永田裕志、同ユニットの中邑真輔以外は全てアイアンフィンガー・フロム・ヘルをはめての地獄突きによる反則負けだった。
9月シリーズでは真壁刀義にピンフォール勝ちを3度も取られるという屈辱を味わい、9/27のメインイベント終了後に真壁を襲撃し両者に因縁が芽生える。さらに11/1の全試合終了後、菅林直樹社長の接待という事で車に乗り込んだ真壁に対して、持参したバットでテロを起こした。
11/8にチェーン・デスマッチとして試合が組まれK.O.負けとなったが、その後も襲撃を繰り返し12月5日、再度チェーン・デスマッチで激突するが今度はレフェリーストップを食らいデスマッチ4連敗を喫した。
2009年8月、G1クライマックスに出場、初参戦のNOAHのレスラー杉浦貴とも対戦した。
2010年1月4日の東京ドーム大会のスペシャルタッグマッチでテリー・ファンクス・長州力・蝶野正洋・中西学組と対戦(タッグパートナーはアブドーラ・ザ・ブッチャー・矢野通・石井智宏)。試合中にブッチャーの地獄突きの誤爆に遭った事でブッチャーを攻撃してしまった為、テリーの手引きで自身のアイアンフィンガーフロムヘルを装着したブッチャーに反撃の地獄突きを食らってしまい、直後に中西のアルゼンチンバックブリーカーでギブアップ負けをする。
8月、G1クライマックスのスペシャルタッグマッチで永田裕志・TAJIRI組と対戦(タッグパートナーは高橋裕二郎)。入場中に観客席の中を暴れまわり、実況席にいたテレビ朝日実況アナウンサーの野上慎平を襲撃(後述「野上アナとの抗争の始まり)。野上の衣服を破り、引きずり回した。試合はTAJIRIのグリーンミスト攻撃を受けたことによる反則勝利となるも、直後に永田に捕まった状態でTAJIRIにアイアンフィンガーフロムヘルを食らう屈辱を受けた。
12月に首の負傷で長期欠場状態だった天山広吉の復帰戦で、試合終了直後にリング上でマイクコメントしていた天山をスリーパーホールドで襲撃、失神させるという暴挙に出て裏切り以来の因縁抗争を再燃させた。
2011年1月4日の東京ドームで、DEEP SREEP TO LOSEルールで天山と対戦。リング入場中に野上アナを襲撃するも試合は解説席にいた井上亘の介入によって天山のアナコンダクロスで失神KO負けを喫する。
3月のNJCに出場。第1試合に天山と対戦するも再びアナコンダクロスで敗退する。
6月、SMASHの「初代SMASH王座決定トーナメント」に参加。1回戦でAKIRAと対戦。「J・J・JACKS」の元相棒と以外な所で再会した。(試合は、飯塚のレフェリー暴行による反則負け)
テレビ朝日・野上アナとの抗争
2010年の8/8のG1クライマックスのスペシャルタッグマッチにて実況席にいたテレビ朝日の実況アナウンサー野上慎平を襲撃したことから始まった。2010年度のG1終了後も、度々飯塚は野上を襲撃しその度に野上が半裸でネクタイが残っているという姿が一部のお約束事になってしまっている。因みに2011月1月以降では野上は青義軍のメンバーから貰った青いTシャツを着て実況を行うようになるも、その態度が気に入らないのか、飯塚はそのTシャツまでも破りにかかっている。
2011年に入ってからは飯塚のタッグパートナーである矢野通が野上を捕まえる、飯塚に服を破かれている最中の野上に水を掛けるなどして便乗するようになった。また、野上アナが飯塚に襲撃されているのを救出しようと、青義軍の井上亘や飯塚との遺恨が絶えていない天山広吉、挙句の果てには解説席の山崎一夫が介入するなどより一層の激しさを増している。
因みに、この一連の飯塚の行動を見た解説の金澤克彦は、飯塚は野上が飯塚の「J・J・JACKS」時代のパートナーの野上彰の亡霊に見えているからなのではないかと推測を立てており、大阪尼崎大会では飯塚が実況席に向かうも、実況者が野上でないと知るや否やすぐさまリングに向かった為、「飯塚は見境なく実況アナを狙っているんでなく野上慎平を狙っているんだ」と実況していた。
また、野上アナと同じ席で解説を行っている東京スポーツの記者柴田惣一が、蝶野正洋と対談した際、柴田が「飯塚の野上アナ襲撃」について質問したところ、蝶野は自身が新日本所属時代に辻アナウンサーを襲撃した過去を基に分析し、「飯塚にとって野上君の実況はただの雑音にしか聞こえておらず、しかもその実況に不満を持っているからだと思う」と述べた。
略歴
- 1986/11/2、野上彰(現:AKIRA)戦でデビュー。
- 1993年9月、野上彰とタッグチーム「J・J・JACKS」を結成する。1996年3月に解散。
- 2005年から2007年まで選手会長を務めた。
入場テーマ曲
- TERRIBLE AIR
- against rules(G・B・H加入時から使用)
タイトル歴
第10代パートナーは長州力、第27代パートナーは山崎一夫
パートナーは永田裕志
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