佐々木 健介
1966/8/4
日本のプロレスラー。本名同じ。福岡県福岡市南区出身。東福岡高校卒業。
2008年7月よりプロレスリング・ノアを主戦場とする。健介オフィス所属で同社取締役を務めるほか、タレント活動も行っている。妻は、全日本女子プロレス出身の元プロレスラーで健介オフィス代表取締役の北斗晶(佐々木久子)。
来歴
ジャパンプロレス - 新日本時代
福岡市立花畑中学校時代から柔道を始める。東福岡高等学校卒業後、長州力に憧れ1985年6月にジャパンプロレスに入門、1986年2月に笹崎伸司戦でデビュー。長州が新日本プロレスに出戻るとそれに付き従い、1987年6月に移籍。前座戦線で鈴木みのると幾度となく対戦。これが後のライバル関係の発端となった。
1991年秋に、馳浩とのタッグチームで当時新日本プロレスが業務提携を結んでいたWCWへ長期遠征することになっていたが、出発直前の試合で足を骨折(全治6か月と診断)、そのまま長期欠場を余儀なくされ、結局遠征そのものが取りやめとなってしまうというアクシデントに見舞われた。1992年に復帰。11月からは別キャラクター『パワーウォリアー』に変身。ホーク・ウォリアーとヘルレイザーズを結成しタッグ戦線で活躍する(詳しくは別項)。
1994年12月からは再び素顔の佐々木健介としての活動がメインとなり、1997年には第30代IWGPタッグ王座を奪取(パートナーは長州力)。また、8月にはG1クライマックス初優勝、第32代IWGPタッグ王座奪取(パートナーは山崎一夫)、さらに橋本真也を倒し第20代IWGPヘビー級王座に就き、史上初の新日本プロレスタイトル3冠制覇を達成した。2000年には1月4日の東京ドーム大会で2度目となるIWGPヘビー級王座を天龍源一郎から奪取、また同年のG1クライマックスにも2度目の優勝を果たしたが、これは1995年大会の武藤敬司以来2人目となる、IWGPヘビー級王者としてのG1制覇であった。同年10月には全日本プロレス代表として乗り込んできた川田利明と新日本プロレスの代表として対戦するも敗北し、IWGP王座を返上した。翌2001年年1月4日の東京ドーム大会では前年に佐々木自身が返上し空位となっていたIWGPヘビー級王座の新王者決定トーナメントが開催され、決勝戦で川田と対戦して勝利し、前年10月の雪辱を果たすとともに3度目のIWGPヘビー級王座獲得を果たした。
コスチュームは1990年代初期よりスパッツタイプを使用。しかし1997年、長州の引退発表直後のG1クライマックスから黒いショートタイツに黒いリングシューズのみのストロングスタイルに変身する。
迷走期
長州政権下で本隊のエースとして君臨、闘魂三銃士と肩を並べる存在として絶頂にあった佐々木であったが、長州が実権を失いつつあった2000年後半頃より迷走を始める。
中でも2001年は佐々木にとっては悪夢とも言える年となった。3月スコット・ノートンに敗れてIWGPヘビー級王座を失った際、藤田和之へ「正直スマンかった」と発言。4月の大阪ドーム大会で藤田とタイトルを賭けてシングルが組まれる予定であったが、この発言に激怒した猪木の介入により対戦が取消になる。4月のドーム大会では代わりに橋本真也と対戦するも、健介は橋本の顔面への重爆キック一撃で失神KO。橋本戦敗北後は新日本隊のエースでありながら巡業を欠場して失踪する。後に総合格闘技の修行を行うため渡米していたと判明。現地のMMAの大会で勝利を上げる等の実績を重ねたとして、10月の東京ドーム大会で藤田和之との対戦が組まれたものの6分余りで完敗した。なお、この頃よりリングコスチュームを再びスパッツタイプに戻して現在に至っている。
2002年1月、小川直也とシングル戦で対戦するが両者セコンドの乱入等もあって無効試合に終わる。6月に鈴木健想、棚橋弘至、ブルー・ウルフと新ユニット「SWING-LOWS」を結成するも、当時の新日2大勢力であった本隊およびTEAM
2000の陰に埋没し、佐々木自身のWJ移籍(後述)もあり暫くの後に雲散霧消した。
WJ時代
2002年11月、鈴木みのる戦を巡る交渉の過程で会社への不信感を理由に新日プロを退団(10月の東京ドーム大会寸前に退団を発表したため、「妨害行為」として藤波辰爾社長や永田裕志ら選手から激しい批判を浴びた)。移籍先は長州力を中心に設立されたプロレス団体WJプロレスであった。長州らによる放漫な団体運営や観客動員数の低迷による給料未払い、有力選手の離脱など困難の中、2003年7月WMG(ワールド・マグマ・ザ・グレーテスト、WJのシングルベルト)初代王者決定戦トーナメントに優勝、9月には『X-1』へ参戦する等奮闘するが、その甲斐も無くWJプロレスは崩壊、12月に退団した。
結婚式では仲人を務めて貰い、一時は二代目長州力を襲名する話[2]が持ち上がるほど良好だった師弟関係は、長州の「会社に貸した金だよな。オレ、返さないから」という借金踏み倒し宣言をきっかけに疎遠となった。 これは、興行に必要な会場代や外国人選手を呼ぶギャラ等の経費として健介から借りた500万円の借金を踏み倒す際に堂々と宣言したものであった。
この当時の佐々木家は息子のミルクを薄めて飲ますような経済状態で、自分や子供の保険などを解約して工面した500万円を借用書無しで貸していた。 一方、長州は娘2人をイギリス留学させておりその際の生活費に月100万ほど掛けていたとされる。
2005年のWRESTLE-1トーナメント1回戦にて長州と対戦するも、無気力ファイトを展開され消化不良のまま健介の勝利に終わる。 試合後に健介は「気持ちがわかりあえると思ったけど…」と埋まらない溝を改めて痛感、鬼嫁・北斗晶が「二度とやることはない」と絶縁宣言するに至る。
この頃から健介は、プロレスラーとしてのパフォーマンスを技術として観客に魅せるものへと徐々に変化の兆しを見せ始めていた。折しもこの時期に次男が誕生している。だが、籍を置いたWJという団体の低迷も災いして、造詣の深いプロレスファン以外に佐々木のリング上での変化は知られることも無かった。
団体に恵まれなかったといえばそこまでであるが、その後の活躍への布石を微かに見せながらも、まさにプロレス界のどん底を這い回る状態であった。
健介オフィス設立 - 全日本、NOAH参戦
フリーランス宣言して2004年を迎えたが、しばらく仕事がほとんど無い状態が続いた。糊口を凌ぐためにインディーズ団体への1日2試合出場などもこなしたが、経済的には窮地へと追い込まれてゆく。そんな折、全日本プロレス社長の武藤敬司から参戦オファーを受ける。埼玉県吉川市の自宅に直接かかって来たこの電話に、健介と北斗は二人で涙したと語っている。
その後自宅に健介オフィスを設立。新日本や全日本などのメジャーからDDT(健介そっくりのキャラクターで戦う健心(藤沢一生)とタッグを結成している)のようなインディーまで幅広い団体に出場する。妻の北斗晶をマネージャー兼プロデューサーの「鬼嫁」として、「息子」こと中嶋勝彦を交えた「健介ファミリー」ではカカア天下キャラを押し出すパフォーマンス手法を確立して、観客アピールの幅を大きく広げる。健介自身のファイトスタイルも大型レスラー相手に名勝負を展開できるまでに進化し、かつて新日本時代に散々苦しめられた『しょっぱい』というレッテルを完全に払拭することに成功した。
2004年度にはプロレス大賞MVPを受賞。この年藤田和之からIWGPヘビー級王座を奪取したのが決め手となった。 しかしこの試合では、技(チョークスリーパー)をかけつつ自ら後方に倒れこんだ藤田に対して3カウントを取るという不可解なレフェリングに疑問の声が挙がり、健介自身もリング上にベルトとトロフィーを置いたまま引き上げることで抗議の意思を示している。
この裁定に健介の妻・北斗晶は激怒。子供を抱えたままリングサイドにいた新日本プロレスのフロント陣を蹴りつけ、そのままインタビュールームに乗り込み、涙を流しながら「これが新日本のやり方か!?
フリーだからと舐めるな!!」と叫ぶ。健介もトロフィーを廊下に投げつけて破壊し、ファミリーは早々に会場から引き上げた。これらの言動を当時世話になっていた天龍源一郎から「子供に悪影響を与えたらどうするんだ」と諌められた。その後、天山広吉に敗れて王座から陥落。以降新日本には参戦してない。
2005年7月18日、NOAH東京ドームで行われた対小橋建太戦では、常識を超えた逆水平の打ち合いを繰り広げ、この年のプロレス大賞ベストバウトに選ばれた。小橋との試合後、興奮が冷めないことと、小橋が試合後もトレーニングに励むと聞いたことから健介も控え室でチューブトレーニングなどを行った。翌日は試合はなく、ある雑誌の取材を受けていたが、小橋が「健介は今日も試合があると思ってトレーニングをしていた」という発言をしたと聞き、帰ってすぐトレーニングに励んだ。11/5、NOAH日本武道館大会に参戦して、小橋とタッグで対戦。翌年1月になっても胸の傷は治らなかった程の逆水平チョップの打ち合いを繰り広げた。
2005年12月14日に健介オフィスの株式会社化を発表、2006/2/11にデビュー20周年の節目に初の自主興行を全日本プロレス、NOAHの協力の下後楽園ホールにて開催し、メインで小橋と組み中嶋勝彦と天龍源一郎とタッグマッチに出場した。7月16日、NOAH日本武道館大会で腎腫瘍摘出手術により欠場することになった小橋の代役として、左眼窩底骨折を隠してリングに上がり、この日に復帰戦を行った高山善廣とのタッグを結成した。これらの経緯もあって小橋と親交を深めることになり、NOAHに参戦するようになる。
2007/8/26、三冠ヘビー級選手権試合で王者である鈴木みのると対戦。この試合のために新技「キングバスター」「ストラングルホールドZ」を開発した。42分の激闘の末にラリアットで下し、3度目の正直で、三冠王座初戴冠を果たした。王座陥落後は主戦場をNOAHに移した。2008/9/6、NOAHで森嶋猛からGHCヘビー級王座を奪取し、史上初めて日本国内3大メジャー団体(新日本・全日本・NOAH)のヘビー級シングルタイトルを奪取した。
人柄・エピソード
プロレス、プライベート
- 健介はデビュー当初、全く勝つことができず初勝利まで203連敗という記録を喫していた。対照的に妻の北斗は当時デビューからの連勝記録を保持していた。
- 新日本プロレスが全日本女子プロレスと合同で平壌興行を行った際、当時全日本女子プロレス所属であった北斗晶に一目惚れ(しかし、後に当初健介は豊田真奈美を狙っていた事が発覚した。)し、帰国後に結婚を申し込む。北斗もこれを快諾し、異例の早さでの結婚となった。現在は北斗との間に二人の息子をもうけている。なお、パブリックな場では妻を「北斗」と呼んでいるが、プライベートでは「チャコ」と呼んでいる。現在のフィニッシュムーヴであるノーザンライトボムは、もともとは北斗が考案しフィニッシュムーヴとしていたもので、結婚前後から健介もこれをフィニッシュムーヴとして使用するようになった。一方、北斗は現役時代に健介のオリジナルホールドであるストラングルホールドγを使用している。
- 小橋建太とは、2005年のドームからの付き合い。ファイトスタイルや体つきが似ていることなどでかなり共通点が多い二人だが、小橋が腎臓癌で入院した際、健介は左眼窩底骨折を患い、同じ時期に入退院をしたり、同じ時期に買った携帯がたまたま全く同じ機種だったり、偶然の所でも通じ合うものがあるという。
- 長男は将来両親と同じプロレスラーになりたいと言っている。
- 健介は自宅を純和風にしたかったが、北斗は洋風が良いと譲らず、最終的には庭に松の木を一本植えさせてもらうことしかできなかったという。
バラエティ番組での活躍
バラエティ番組では笑顔を見せることが多くプロレスラーとしての活躍の一方、TBS『どうぶつ奇想天外』やテレビ東京系の旅行番組などのバラエティ番組にも夫妻や一家で時折出演している。多くは夫人の北斗の鬼嫁キャラを活かして、自らは「カカア天下の尻に敷かれる亭主」という恐妻家の役回りであるが、旅行番組などでは一家で仲睦まじいところを見せている。
テレビ朝日のバラエティ番組『いきなり!黄金伝説。』の人気コーナー「夫婦2人1週間5千円節約バトル」に夫婦で出場し、王者(防衛1回)になった。
また、ココリコの遠藤章造がナビゲーターを担当するBRAVO!では嫁の北斗晶とガチンコでトレーニングする様子が紹介された。
2008年大晦日の『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!山崎VSモリマンスペシャル』には佐々木は偽ダイナマイト四国として、北斗はお助けキャラとして夫婦揃って出演し、佐々木は相手役の武藤敬司と実戦さながらの白熱した戦いを見せた。
名言
「ポカやった、ポカやりすぎた…」
1995年10月、UWFインターナショナルとの全面対抗戦での垣原戦後のインタビューにて。
「正直スマンカッタ」
2001年3月、IWGPタイトルマッチを約束しながら、直前の試合でスコット・ノートンにタイトルを奪われ、約束を果たせなかったことに対する藤田和之への謝罪。
「納得いかない、ヴァー」
2002年1月、セコンドの乱入により無効試合となった小川直也戦後の発言。一部のスポーツ紙が「ヴァー」と表記したため話題に。
獲得タイトル
全日本プロレス
- 三冠ヘビー級王座…第36代王者。
- アジアタッグ王座
- チャンピオン・カーニバル…2005年大会優勝。
- BAPE STA!! PRO-WRESTLING a・k・aトーナメント…優勝(マスクド・ボルケーノとして)。
新日本プロレス
- IWGPヘビー級王座…第20, 26, 27, 36, 39代王者。
- IWGPタッグ王座…7度獲得。
- 第13, 15代…パートナーは馳浩。
- 第21, 23代…パワー・ウォリアーとして、パートナーはホーク・ウォリアー。『ヘルレイザーズ』として、第21代時には4度の防衛と40連勝という大記録を樹立した。
- 第30代…パートナーは長州力。
- 第32代…パートナーは山崎一夫。
- 第37代…パートナーは越中詩郎。
- G1 CLIMAX…第7回、第10回優勝。
プロレスリング・ノア
- GHCヘビー級王座…第13代王者。
- GHCタッグ王座…第18代王者。
みちのくプロレス
WJプロレス
- WMG(ワールド・マグマ・ザ・グレーテスト)シングル王座
海外
- WCW・USヘビー級王座
- HCWヘビー級王座、タッグ王座
- UWA世界タッグチーム王座
佐々木健介の別キャラクター
健介は素顔でのファイトのほか、さまざまなキャラクターでリングに上がっている。その代表が『パワー・ウォリアー』である。
1992年、アメリカ遠征中だった健介は、ロード・ウォリアーズのホーク・ウォリアーからの呼びかけでタッグチームを結成、『パワー・ウォリアー』と名乗った。同年11/9、ミネアポリスでの小興行がデビュー戦で、日本には11月23日の新日本プロレスの両国国技館大会で初上陸(相手は長州力&馳浩組)。程なくスコット・ノートン&トニー・ホーム組を破りIWGPタッグ王座を奪取。1993年8月に奪取されるまで40連勝という、プロレス界の最高連勝記録を打ち立てた。このホークとのタッグはファン公募により『ヘルレイザーズ』と命名され、1990年代の新日を代表する名タッグチームとなった。
パワー・ウォリアー単独としては、1997年と2000年にグレート・ムタと対戦。ムタの十八番である毒霧を吹いたこともある。
フリーとなった後はレスラーとしての幅が広がり、ハワイ遠征時は将軍キャラ『KENSUKE』、闘龍門ジャパン / DRAGON GATE限定で、フロリダ・ブラザーズの一員の「博多生まれのアメリカ人」『ケンスキー佐々木』、みちのくプロレス限定の覆面レスラー『マスクド・ボルケーノ』など普段のファイトスタイルとは全く違った一面をリング上で発揮するようにもなっている。
2007/9/1、エルドラドの近藤修司&"brother"YASSHIと対戦するために、封印していたパワー・ウォリアーを復活。ロード・ウォリアー・アニマルと共に「ヘル・ウォリアーズ」として戦った。また"brother"YASSHIもウォリアーのメイクで登場し、ウォリアー対決が実現した。
入場テーマ曲
- TAKE THE DREAM ∞ + THE WORLD
- WJ退団後(2004年以降)から現在までの入場曲。「TAKE THE DREAM ∞」 の冒頭部分から「THE
WORLD」に移行する。
- THE WORLD (演奏:BLOOD STAIN CHILD)
- 2001年10月8日の東京ドーム大会から使用。
- 2000年1月4日の東京ドーム大会から翌年4月9日の大阪ドーム大会まで使用。英語のボーカル入り。
- テイク・ザ・ドリーム 〜閃光〜 (演奏:BLUE STEALER)
- 1990年代後半に使用。ボーカル入りのバージョンも存在し、主に試合に勝った際に流れていた。
- ヘルレイザーズ結成時に使用。
- 1990年代前半に使用。現在は弟子の中嶋勝彦が使用中。
テレビ
ドラマ
- 佐々木夫妻の仁義なき戦い(2008年、TBS)
- こちら葛飾区亀有公園前派出所(2009年、TBS) - 六西会の担ぎ手役
CM
- 大日本除虫菊「金鳥・ティンクル」
- 資生堂「UNO」
- DMJえがお生活「ノニ濃縮ソフト」
- トヨタ自動車「残価設定型プラン」
- 吉野家「サラリーマン編」
- 尾長屋
- マンチェス 大きいサイズ専門のファッションメーカー
|