本名:Galton W. Young、、アメリカ合衆国のプロレスラー。テキサス州ヒューストン出身のアフリカ系アメリカ人。生年は1956年ともされていた。
スウィート・ブラウン・シュガー(Sweet Brown Sugar)のリングネームでも知られる。正面飛び式およびスクリュー式のドロップキックなど、跳躍力を活かした空中殺法を武器に、ジュニアヘビー級の黒人ベビーフェイスとしてアメリカ南部を主戦場に活躍した。
来歴
1970年代中盤にスキップ・ヤングのリングネームでデビュー、フリッツ・フォン・エリックの主宰する地元テキサスのダラス地区(後のWCCW)を皮切りに、中西部のセントラル・ステーツ地区、エディ・グラハムの主宰するフロリダ地区など、NWAの主要テリトリーを転戦してキャリアを積んだ。
1979年、フロリダで覆面レスラーのスウィート・ブラウン・シュガーに変身。ダスティ・ローデスやボボ・ブラジルのパートナーとなり、キング・イヤウケア、キラー・カーン、パク・ソン、ジョー・ルダック、ソー・ザ・ヴァイキング、バグジー・マグロー、レロイ・ブラウンなど、スーパーヘビー級の巨漢ヒールとも激闘を展開した。同年9/29にはブラジルとのコンビでミスター・サクラダ&ミスター・ヒトからフロリダ・タッグ王座を奪取、シングルでは10/26にアーニー・ラッドを下して南部ヘビー級王座を獲得している。
1979年はフロリダを主戦場としつつ、素顔のスキッピー・ヤングとしてカリフォルニア州のロサンゼルスにも遠征し、8月10日に藤波辰巳のWWFジュニアヘビー級王座に3本勝負で挑戦。タイトル奪取はならなかったものの、得意の正面飛び式ドロップキックで藤波から1本奪っている。翌1980年1月には新日本プロレスにスキップ・ヤング名義で初来日、藤波への挑戦権を賭けてダイナマイト・キッドとも対戦したが、キッドのダイビング・ヘッドバットに敗れた。
1980年の下期より古巣のダラス地区に戻り、フロリダ時代と同じく黒人マスクマンのスウィート・ブラウン・シュガーとして活動。同年8月1日、故郷ヒューストンにてケリー・フォン・エリックと組み、キラー・ブルックス&スタン・ステイジャックを破ってNWAテキサス・タッグ王座を獲得した。フロリダへの参戦も続け、1981/2/4にディック・スレーターから南部ヘビー級王座を奪取、同王座への2度目の戴冠を果たした。1982年1月にはダラスとの提携ルートで全日本プロレスに来日している。
以降はスウィート・ブラウン・シュガーのリングネームはそのままに、覆面を脱いで素顔に戻って活動。主戦場のフロリダでは1982年4月にレイ・スティーブンスからTV王座を奪取、同月11日にはブッチ・リードとの黒人コンビでドリー・ファンク・ジュニア&デビッド・フォン・エリックを破り、フロリダ版のNWA北米タッグ王座を獲得した。1983年はテキサスのサンアントニオ地区に登場。アドリアン・アドニス、タリー・ブランチャード、ボビー・ジャガーズ、ルーク・ウィリアムスらヒール勢と対戦した。
1984年はテネシー州メンフィスのCWAに参戦し、ペッツ・ワトレーと組んでココ・ウェア&ノーベル・オースチンのプリティ・ヤング・シングスと黒人タッグ抗争を展開(ココ・ウェアもかつて「スウィート・ブラウン・シュガー」を名乗っていたことがある)。1987年はダラスのWCCWにて、ブッカーのゲーリー・ハートのアイデアでトニー・アトラスともタッグチームを結成した。
その後、ココ・ウェアの仲介でWWFと契約する話もあったが実現せず、1990年代初頭はキラー・ブルックスが旗揚げしたダラスのインディー団体NAWAで活動。ベテランのジョバーとしてWCWのショーにも出場した。プエルトリコのWWCにも遠征し、1996年1月にTV王座を獲得している。
引退後は父の後を継いで説教師に転身した。2010/
12/3、テキサス州ダラスにて死去。享年59歳。
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