全日本プロレス所属のプロレスラーである。長野県上伊那郡箕輪町出身。身長180cm、体重108kg。坂口道場出身。弟は全日本プロレス練習生の征矢匠。
無我ワールド
坂口道場で体を鍛え、坂口征二の推薦で無我ワールド・プロレスリング(現:ドラディション)に入門。
2007/4/11、無我ワールド後楽園大会で対竹村豪氏でデビュー。当時の無我生え抜き第1号であり周囲からは“藤波二世”と呼ばれていた。 10/18の後楽園大会では吉江豊と組み、ZERO1-MAXの佐々木義人&崔領二組を相手に敗れはしたが、大健闘を魅せる。試合後吉江は『今日の征矢を見て無我の未来が見えた』と語っていた。
全日本プロレス
しかし翌日10/19、師匠の西村修と共に全日本プロレスへ電撃移籍。11/23の後楽園大会にて対近藤修司戦で全日本デビュー。
2008/1/2の後楽園大会で駿河一との一戦で初勝利を挙げる。
全日本プロレスにTAKEMURAが襲撃してきた時は、相手を自分が努める事を強く望み、2/17にシングルマッチが実現した。 が、一歩及ばず敗れてしまう。
4月頃からは諏訪魔のタッグパートナーとしてメイン、セミの試合に出場することが多く、デビュー当初の試合数の少なさをカバーされている。
4/7、VOODOO-MURDERSとの8人タッグ戦にて、場外フェンスの扉の部分が勢いで自分に跳ね返り顔面を直撃。歯を3本失う。(現在はちゃんと歯を入れている。)
6/10、武藤祭にてよくタッグを組む諏訪魔と、同じく若手の真田、T28と共に3人掛けマッチで対戦。3番手として戦い、奮闘するも三冠王者の壁は崩せず破れる。
6/22、後楽園ホールで元WWE史上最年少世界タッグ王者でVMの新メンバーレネ・デュプリーとシングルでの対戦が決定したが完敗に終わる。
前座からの脱却
秋頃からは武藤塾の援助の下、肉体改造に着手。新技開発のためトレーニングをしている。
11/3両国大会では、新技のパワプロブースターで真田聖也を下す。その試合後、年末の世界最強タッグ決定リーグ戦に真田と出場することをアピール。真田にも呼びかけ、真田は呼応した。
最強タッグからはひげを蓄え、そのゴツゴツした肉体と同時にワイルドさを醸し出している。
最強タッグ最終戦のドーリング、ゾディアック組とは不戦勝に終わり、悔しさを露にした。そして真田と同様、ドーリング組との再戦を熱望。新春シャイニングシリーズの最終戦でタッグマッチが決定。
完敗を喫するも、これを期に上昇を誓った。
2009年、チャンピオンカーニバル出場を賭けて相棒の真田とシングルで対決するも敗北。しかしチャンピオンカーニバルの出場権を得られなかったことよりも、お互いが納得出来る試合内容ではなかったということで真田と共に大いに悔しがった。そのチャンピオンカーニバルでは相棒の真田を全面的にサポートしセコンドを買って出たが、カーニバルでは真田の全敗という結果に終わった。
5/17、相棒の真田をパートナーにF4の大和ヒロシとKAIとタッグで対戦。若手同士の熱戦を展開し、最後は征矢の垂直落下式デスバレーボムで勝利。この試合を見た武藤敬司から「俺達には出来ないような可能性を見た。」と高評価を受けた。
8/22に、西村修をパートナーにしてアジアタッグ王座に挑戦するが、NOSAWA論外に完敗。
長州への弟子入り、新世代として
8月30日両国大会では、以前から対長州力のパートナーとして懇願していた西村との思想の相違から仲間割れ。離別し、今度は長州イズムを学ぶかのような行動(長州力に弟子入り志願)を取り始め世界最強タッグリーグ戦も長州と組んで出場し、トータル8点という好成績を残す。
その後は新世代の一人として諏訪魔、河野、浜、そしてライバルの真田と共に切磋琢磨していたが、新世代のメンバーやジュニアのKAIや大和達若手が活躍していたのに対して実績を残せていないことに焦りを感じスランプに陥る。そして1月から海外修行に出ることを発表し、海外武者修行に出る。
2010/7/25に凱旋帰国し新世代軍に合流。かつての盟友真田とアジアタッグに挑戦することが決まった。
8/15凱旋試合では西村修と対戦。鍛え抜かれた見事な肉体を披露し、パワーファイトで西村を攻め立てるも観客から「成長が見えないぞ」などと野次が飛び、最終的には西村が手を後ろに回して弟子のチョップを受け切るという展開に発展。最後は必殺のブレーンバスターで勝利を得て勝ち誇るも完全に師匠の胸を借りての勝利だった。
8/29、両国大会でアジアタッグ王座奪取に成功。自身初となるベルト獲得となった。
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