日本の元プロレスラー、俳優、タレント。本名は小林 省三(こばやし しょうぞう)。プロレスラーとしての全盛時のリングネームはストロング小林だが、俳優・タレントに転じてからはストロング金剛(ストロングこんごう)を芸名に活動した。東京都青梅市出身。現役晩年以降はスキンヘッドが特徴。
来歴
国際プロレス時代
東京都立農林高等学校卒業後、国鉄に就職。その傍らボディビルに打ち込み、コンテストに参加した会場で、国際プロレス社長・吉原功にスカウトされ、団体旗揚げ間近の1966年12月に入門。翌年7月、「覆面太郎」というマスクマンとしてデビュー。日本でデビューした覆面レスラー第1号となる。
1968年1月に素顔になり、10月には海外修行へ出発。その後何度も帰国と遠征を繰り返す中で実力を上げ、パリでのIWA世界タッグ王座奪取(1969年5月、パートナーは豊登、相手はジャイアント・ロシモフ〈後のアンドレ・ザ・ジャイアント〉、イワン・ストロゴフ組)、アメリカ・ミネソタ州でのIWA世界ヘビー級王座戴冠(1971/6/19、対ビル・ミラー)、1972年IWAワールドシリーズ優勝(決勝の相手はモンスター・ロシモフ、後のアンドレ)などの輝かしい実績を残し、国際プロレスのエースに君臨する。IWA世界ヘビー級王座は前述の獲得から1973年11月まで2年6か月保持、25回の防衛を記録している。この記録は、ジャイアント馬場のインターナショナル・ヘビー級王座21回連続防衛を破る当時の日本人新記録であった(後に馬場がPWFヘビー級王座で38回連続防衛を達成して抜き返し、現在も日本記録として残っている)。
新日本プロレス参戦後
順調に国際の屋台骨として活躍していた矢先の1974年2月、小林はアントニオ猪木への挑戦を表明して団体を離れる。小林が自己主張が得意でない性格であったことから、後年この事件は新日本プロレスの選手引き抜きであったと目されているが、小林自身は「グレート草津らをエースに立てようとするフロントとの意見の対立が元々背景にあり、以前から離脱を考えていた」としてこれを否定している。またこの時小林に対し国際プロレス側が移籍金の支払を要求するというトラブルが発生したが東京スポーツ新聞社が仲介に入り、一時的に小林は同社所属のレスラーとなる。
同年3/19、蔵前国技館において猪木とNWF世界ヘビー級王座をかけて激突。団体エース同士のメインイベントでの戦いであり、この時期には日本人同士が本格的に争う図式が定着していなかったため、大きな話題を呼んだ(もっとも、小林は前年にラッシャー木村とIWA戦を戦っている)。結果は猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドに敗れる。なおこのときのジャーマンは猪木がブリッジの際に首だけで二人分の体重を支え、猪木のレスラー人生の中で最も危険かつ美しい角度で決まったといわれている。その後、WWWF(現WWE)などへの海外遠征を経て、同年12月同じく蔵前国技館で再戦が行われたがまたもや敗退、1975年5月、新日本に正式入団した。
なお、WWWFではフレッド・ブラッシーをマネージャーにヒールとして活動し、1974/9/21にフィラデルフィアにてブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦。マディソン・スクエア・ガーデンの定期戦においては、10月7日にキラー・コワルスキーと組んでアンドレ・ザ・ジャイアント&ビクター・リベラと対戦、11/18にはペドロ・モラレスとのシングルマッチも組まれた。また、WWWF入りする前の1974年5月から7月にかけてはNWAフロリダ地区(エディ・グラハム主宰のCWF)を短期間サーキットし、パク・ソンのタッグパートナーとして覆面レスラーの「コリアン・アサシン」に変身、覆面太郎以来となるマスクマンに扮した(マネージャーはゲーリー・ハート)。同時期、フロリダに遠征してきたジャイアント馬場とも邂逅しており、その際に全日本プロレス入りを打診されたという。
新日入団後は坂口征二とタッグを組み、1976年2月に北米タッグ王座を獲得。以後3年2か月に渡り防衛。新日本プロレスにおいて、猪木、坂口に次ぐ存在感をもったレスラーとして人気を博した。当時のキャッチフレーズは「怒濤の怪力」。しかし、腰痛の悪化もあって1979年には坂口のパートナーの座を長州力に譲るなど、徐々にトップグループから退いていった。なお、1978年以降の新日本と国際の対抗戦に際しては新日本軍団の一員として国際勢と戦っており、1979年8月のプロレス夢のオールスター戦では、当時の国際のエースラッシャー木村との試合が実現し、1980年には永源遙とのコンビでIWA世界タッグ王座に返り咲いた。
1981年頃から腰痛を理由にレスラー活動はセミリタイア状態となり、俳優・タレントとしての活動が目立つようになり、映画『伊賀忍法帖』(1982年)出演時、役名が「金剛坊」であったことをきっかけに「ストロング金剛」に改名。同年9月21日、猪木vs木村の敗者髪切り戦の場外乱闘の際、木村とハサミで猪木の髪を切って観客のヒートを買い、復帰が期待されたものの、その後は参戦もなく、1984年8月に正式引退する。以後は完全に芸能界に転身し、『痛快なりゆき番組
風雲!たけし城』『超電子バイオマン』で怪人役を演じるなどした。愛嬌のあるキャラクターでお茶の間、子供に親しまれる。キャラクターもアーキタイプとして認知されスキンヘッドの怪人で「ストロングoo」という名を持つパロディキャラクターも多数誕生した。
1992/3/1、横浜アリーナにて開催された、新日本プロレス設立20周年記念大会の企画として、坂口征二とタッグを組みエキビジションマッチに出場、タイガー・ジェット・シン&上田馬之助組と対戦した。なお、現役時代に使用したガウンやタイツなどのコスチュームは全てファンや知人にプレゼントしてしまい、残っていなかったため、唯一手元に残っていたWWWFに遠征した際に着用したロングタイツを着用し、試合に出場している。
2000年代以降は芸能活動も引退し、表舞台に姿を見せる機会は減ったが、現在でも首と脚のトレーニングを毎日1時間行い、体重も100キロ以上を保っており、痛めた腰の影響で歩行に杖が必要である他はいたって健在である。
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