アントニオ 猪木
Antonio-Inoki
1943/2/20
神奈川県横浜市鶴見区出身の元プロレスラー、経営者(新日本プロレス設立、イノキ・ゲノム・フェデレーション設立など)元参議院議員、事業家。本名は猪木
寛至。血液型AB型。キャッチフレーズは「燃える闘魂」。愛称は「アントン」。
新日本プロレス創業や、異種格闘技戦の実施で日本のプロレス・格闘技史上最も影響を与えた存在の一人である。2010年WWE殿堂入り。
プロフィール
生い立ち
神奈川県横浜市鶴見区生麦町(現在の鶴見区岸谷)出身。5歳の時に父親は死去。第二次世界大戦後、エネルギー源が石炭から石油に変わったこともあって実家の石炭問屋は倒産した。
12歳で横浜市立寺尾中学校に入学するも、生活は厳しかった。13歳の時に母親、祖父、兄弟とともにブラジルへ渡り(長兄は同行せず。祖父は渡航中に船上で毒性のある未熟なバナナを食べて死去)、サントス港を経由してサンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごす。
ブラジル移住
ブラジルへ移住した最初の1年半は、農場で過酷な労働を強いられた。コーヒー豆などを収穫する作業が中心だったが、作業のたびに手の皮がずる剥けになり血まみれになっていた。1年半の契約があり逃げることはできなかった。あまりにも過酷なため、作業が終わり与えられた電気も通っていない小屋に戻り着替えるためにTシャツを脱ぐと、Tシャツに染みこんだ汗の塩分のため、Tシャツが固まって立ったほどだったという。猪木の精神力と基礎体力はこのブラジルでの生活で強く培われた。
幼少時代は運動神経が鈍く、友達からは「ドン寛(鈍感)」「運痴の寛ちゃん」と呼ばれていた程であったが、ブラジルへ移住してからは陸上競技選手として砲丸投げなどで活躍し、その身体能力を発揮する。なお陸上部の前にバスケットボール部に入っていた。ただし「うまくないから」という理由で退部。その後現地の陸上競技大会の砲丸投げに出場して優勝。その際、ブラジル遠征中の力道山の目に留まる。
プロレスデビュー
1960/4/11にサンパウロで興業を行っていた力道山から「日本に行くぞ」と直接スカウトされ、そのまま日本へ帰国し日本プロレスに入団した。猪木はこの出会いを振り返り、「本当に自分は運がいい」と今でも語っている。力道山から掛けられた最初の言葉は、「オイ、裸になれ」であった。上半身だけ脱がされて背中の筋肉を見て合格になったという(後日談であるが、猪木の肉体は全盛期のルー・テーズにそっくりだったため、力道山もそこに目を付けた。デビュー後に外国人トレーナーからもオファーが殺到したと言う)。
1960/9/30、東京都台東区の台東区体育館にて大木金太郎とデビュー戦を行った(敗戦)。デビューはジャイアント馬場と同日である。この時は本名の猪木寛至でデビュー戦のリングに上がった。
なお、『アントニオ猪木』というリングネームは、先輩レスラー豊登道春による命名である。当時の名レスラー、アントニオ・ロッカにあやかって名付けられたという説が一般的であるが、単に「ブラジル帰りの日系ブラジル人」であることを強調するため洋風な名前にされたという節もある。
なお、まだリングネームが決まる前に出演したテレビドラマ『チャンピオン太』での役名「死神酋長」を気に入った力道山によりその名をつけられそうになったが、猪木自身はそれが気に入らず、その名前を付けるのであればやめるとまで言ったとの逸話もある。
また力道山は当初猪木を日系ブラジル人として売り出そうとしていた。これは南アメリカでの興行を成功させる布石でもあり、弟子入りのために帰国した際には「日本語は話せますか?」と記者に問われた。その記事を見た横浜在住時の猪木の幼馴染が日本プロレスの道場を訪ね、「お前は横浜にいた猪木だろ?」と質問したが、猪木は「違う」と貫き通した。そのために当時の猪木は、片言の日本語でインタビューに答えたりした。猪木自身が「横浜生まれ」だということを公にしたのは力道山が亡くなった後であった。
デビューしてからまもなく、力道山の付き人となったものの、力道山は1963年12月15日に死去。その後に初めて「俺は日系ブラジル人と言われてましたが、れっきとした神奈川県出身の日本人です。力さんの付き人になってからは何時も力さんに殴られるので、このままでは馬鹿になってしまうと思って(日本プロレスを)辞めようと思ってました。でも力さんが亡くなったので、これからは豊登さんに着いて行きます」と初めて日本人であることをマスコミに公表した。
その後の1964年に、アメリカへ武者修行へ赴く(当初正式な労働ビザが取れなかった為本名を名乗ることを避けていたと後に述べている。この時のリングネームは、ロサンゼルスの日本人街であるリトル・トーキョーをもじった『リトル・トーキョー・トム』等多数。)地方巡業を中心に活躍して2年後に帰国。なおアメリカ時代にアメリカ人女性と同棲し、子供をもうけた。
東京プロレス
かつて日本プロレス社長であった豊登に「日本プロレスに帰っても一生馬場の上には行けん」と口説かれ、豊登と東京プロレスを旗揚げする。猪木はエースとして扱われ、ジョニー・バレンタインとの一戦で名声を得る。
しかし、テレビ放送が付かなかったことや営業力の弱体、豊登の横領などにより急速に業績が悪化、「客が少ない」という理由で興業を中止にしようとしたら、それに怒った観客がリングに火をつける「板橋事件」などにより、3か月で東京プロレスは破産し、最終的に古巣である日本プロレスに戻ることになる。
日本プロレス復帰
日本プロレス復帰後は馬場に次ぐ待遇を受け、馬場とのタッグ・BI砲としてインターナショナル・タッグ王座を獲得。NET(現テレビ朝日)が日本プロレス中継を開始すると日本テレビとの取り決めで、馬場の試合が日本テレビの独占とされた関係上、NETの日本プロレス中継のエースという格になり、UNヘビー級王座を獲得した。また、ドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦した。
しかし、馬場との対戦要求が容れられなかった(力道山が日本マットを統一して以降、日本人対決はタブーになっていた)ことや日本プロレスの経理が不透明であったことなど日本プロレスとの度重なる確執から1971年に追放処分を受ける。また、同年11月、女優の倍賞美津子と結婚した(1987年に離婚)。
新日本プロレス設立
日本プロレスを追放された後は新団体設立を画策し、1972/1/26に新日本プロレスを旗揚げした。当初はテレビ放送もなく苦しい経営であった。また、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスの圧力により有力な外国人プロレスラー招聘に難航したが、タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセン、ハルク・ホーガンなど外国人エースを育成した。
さらに、WWFと提携してからは多数の外国人スターを呼べるようになり、元国際プロレスのエースストロング小林との大物日本人対決、日本プロレス時代の先輩である大木金太郎との遺恨試合、ビル・ロビンソンとの実力世界一決定戦などで人気を博し、力道山亡き後のプロレス黄金時代を築いた。
異種格闘技戦
新日本プロレスにおいて、「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」というストロングスタイルを標榜。その後のプロレスのスタイルに大きな影響を与える。最強の証明のため、猪木は格闘技の英雄アクラム・ペールワン、「熊殺し」の異名をとる空手家ウィリー・ウィリアムスとの対戦など、異種格闘技路線への挑戦を続け後年の総合格闘技の礎を築いた。
中でもプロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリとの一戦は世界各国に中継され話題を呼んだ。日本ではそのアリ戦は昼間の生中継と、同日のゴールデンタイム19時からNETテレビ(現テレビ朝日)にて録画中継という形で2度放送された。。なお、1979年1月には元アフリカのボクシングヘビー級チャンピオンでウガンダの元大統領イディ・アミンとの異種格闘技戦の計画が浮上した。アミンは猪木戦を承諾したものの、その後アミンが反体制派クーデターを受けサウジアラビアに亡命したため、結局対戦は実現しなかった。
「猪木監禁事件」
1982/2/27には、「ルールの無い命をかけた」果し合いを申し込んだ沖縄松林流空手東海支部長水谷征夫とともに猪木はフルコンタクト空手の団体「寛水流空手」を設立した。同年、漫画原作者の梶原一騎により、暴力団関係者を使い、大阪のリーガロイヤルホテルの一室に呼び出され、銃などを持っていることをほのめかされ、猪木が監禁される事件が起こった。当時週刊誌やスポーツ新聞のみならず、テレビや全国紙でも大きく取り上げられるニュースとなった。
後に梶原が著書『わが懺悔録』で語ったところによると、この事件は、「タイガーマスクのキャラクター使用料が猪木側から支払われなくなっており、猪木も梶原を避けていたので全く連絡がつかなかった時にたまたまホテルで会ったので、部屋に招いてその件を問いただしただけで監禁恐喝は完全に冤罪である」という。これにより、一連の騒動はタイガーマスク使用料を巡る軋轢が原因で起きたという結論を見た。ただし、恐喝に関して梶原の他に「同席者」がいたことは否定されていない。
IWGP立ち上げと世代交代
1983年には世界統一タイトルを目指しIWGPを立ち上げるが、同年6/2に、自身の立ち上げた第1回IWGP優勝戦において、当時新鋭であったハルク・ホーガンにロープ越しのアックスボンバーを受けリングサイドに落ちた際に頭を打ち脳震盪を起こし、失神完全KO負けを喫した。
また、この頃より猪木自身が「アントン・ハイセル」など様々な事業に新日本プロレスの資金を投資したものの、その多くが失敗に終わって新日本プロレスの経営を圧迫することになり、これに嫌気がさした所属レスラーによる「クーデター」と、タイガーマスクや長州力の退団騒動がこの後に起こることになる。
1987年、不倫騒動で倍賞と離婚。そしてアントン・ハイセルへの借金。クーデターで最悪の精神状況の中、「リングで死ぬ」と言い、一番の敵であり、一番の仲間であったマサ斎藤と巌流島で観客なしのノーピープルマッチを敢行。2時間5分14秒の闘いの末、猪木が勝利した。
1988/8/8の藤波とのIWGP戦は、「猪木負ければ引退か?」と憶測が飛び交った試合であるが、この一戦の前には長州力の不意打ちのラリアットをくらいピンフォール負けするなど、先行きが危ぶまれる中でIWGP挑戦者決定リーグ戦を何とか勝ち抜いてのものであった。「負けたら引退する」と宣言し、引退試合の実況を約束していた古舘伊知郎がテレビ朝日の演出により、急きょ実況する設定の中行われた試合は、結果60分時間切れの引き分け。猪木がIWGPに挑戦した最後の試合となった。
1989/2/22、両国国技館での長州力とのシングルマッチで完璧なピンフォール負けを喫した。猪木はセコンドに肩を担がれ涙を流しながらリングを後にした。
政界進出・参議院議員
同年には「スポーツを通じて国際平和」の合言葉で、スポーツ平和党を結成。第15回参議院議員通常選挙にも比例区から99万3989票を集めて初当選(キャッチコピーは「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」)。史上初のレスラー出身の国会議員となった。「今話題になっているリクルート問題に対して私はこの一言で片付けたい“逆十字固め”」、「国会の場でも俺にしかできないことをやる」と宣言した。
なお、当時参院比例区は政党名の投票であったのに対し、自身の知名度の高さから猪木の個人名を書いた無効票が大量に出た(当時の参議院比例代表選挙は厳正拘束名簿式)。政治活動を続けながらもプロレス界からは引退せず、政治とプロレスの「二足のわらじ」状態で活動した。
1989/10/14、福島県会津若松市で講演中に暴漢に刃物で襲われ、左の頸部などを負傷。会場が一時騒然となる中、傷口をタオルで押さえたまま講演を最後まで行い、終了後に東京の病院に入院した。10/25、統一会派を組んだ民社党の配慮により、頭に包帯をし車椅子に乗った状態で初めて質問に立った。
湾岸戦争で邦人人質解放
1990/8/2、当時サダム・フセイン政権であったイラクは突如クウェートに侵攻(湾岸戦争)。イラクは日本を含む国際連合から非難や制裁措置などを受けたことを受け、当時クウェートにいた日本人41人などが事実上の人質としてイラクヘ連行・国外移動禁止処分にされる。
政府間の人質解放交渉が膠着していたところ、猪木は12/1、イラクにおいて「平和の祭典」を行うことを発表。外務省による引き止めをよそに、猪木は費用を個人負担でトルコ航空機をチャーター、関係者や人質被害者41家族46人と共にトルコ経由でバグダードへ入った。このイベントの開催後に、在留日本人と全人質が解放された。
不測の事態発生時などの賛否はあるものの、猪木のこの行動によって結果的に多数の人質が救い出されたことは事実である。
この勢いを追い風に、その後行われた1992年7月第16回参議院議員通常選挙でも1議席を獲得(参議院会派で2議席目)した。
落選
1994年、公設第1秘書(当時)であった佐藤久美子(当初は公設第2秘書であったが第1秘書の猪木快守が借金問題で秘書を解雇され昇格)およびスポーツ平和党前幹事長の新間寿らが、「政治資金規正法違反の問題」、「賄賂の問題」、「右翼(日本皇民党)との癒着問題」、「佐川急便会長の依頼で東京都知事降板問題」、「税金未納問題」、「女性問題(カンボジアで13歳の少女買春)」などを中心とした、いわゆる「猪木スキャンダル」をぶち上げた。新間にそそのかされたTBSテレビは、新間の記者会見を急遽生中継までして放送した。
なお、少女売春などこのうちのいくつかは完全なねつ造であり、特に政治資金規正法違反については、東京地検捜査中に時効となり、処分はまぬがれた。税金未納問題については、世田谷区役所および国税から差し押さえ処分。(官報に記載)
この前後に、もう1人のスポーツ平和党所属の議員であった江本孟紀と党の運営を巡って対立。特に党運営に関わる金銭疑惑による猪木への不信感により、大きな亀裂が生じた。また釈明記者会見の際に、激高した猪木が机を叩き記者を怒鳴るなどの高圧的な態度も強い批判を浴びた。また、東京佐川急便事件との関与も報じられた。
一連の「猪木スキャンダル」もあって、1995年の参議院選挙で落選。なお、同じ参院選挙では高田延彦が副党首を務めた「さわやか新党」も立候補したが、「スポーツ平和党」同様に議席を獲得出来なかった。選挙後、江本は離党した。
引退
1994/5/1に福岡ドームでグレート・ムタと対戦、フォール勝ちしたものの、この試合より引退への布石となる「イノキファイナルカウントダウンシリーズ」が始まった(なお「ファイナルカウントダウン」と銘打ったが、カウントがダウンせずに「1・2・3」とアップしている)。
1996/11/3には以前自身が平壌での対戦を熱望したジョージ・フォアマンが来日し、東京ベイNKホールで行われたマイナー団体のプロボクシング世界戦で判定勝ち。猪木は二宮清純と共にTBSテレビの解説を務めた。
1998年豊見城市内の平仲信明のジムで現役生活最後のキャンプ、3/22愛知県体育館で角田信朗と公開スパー、4/4に東京ドームで行われた引退記念イベント「ファイナルイノキトーナメント」で、小川直也などと対戦し勝ち上がったドン・フライと引退試合で対戦、グラウンド・コブラツイストで勝利し引退した。
引退の際のスピーチは、いまだに盛んに春一番らがものまねの対象にしている。
引退後
引退後はUFO、PRIDE、INOKI BOM-BA-YEの盛り上げ役や、猪木完全プロデュースによる「ジャングルファイト(MMA/VT)」をブラジルで開催していく。なお、2002/8/28に行われた「Dynamite!」では、上空4,000メートル(夜間規制があったため発表は3,000メートル)からのスカイダイビングに挑戦。このスカイダイビングに猪木は10億円の保険を掛けていた。
国立霞ヶ丘陸上競技場への着地に成功したが、その後「PRIDE」と絶縁。2003/12/31に日本テレビ協賛で「イノキボンバイエ」を開催したが大失敗に終わり、格闘技プロデュースからは退いた。
2005/11/14に自身の持つ新日本プロレスの株式(全株式の51.5%相当)を株式会社ユークスに売却し、事実上新日本プロレスの経営から身を引いた。以降は自身が提唱したバングラデシュ興行が中止になる等、同団体への影響力は全盛時ほどは無くなりつつある。
IGF設立
2006年4月にはアメリカの新興総合格闘技団体IFLの世界大使に就任し、同年9月には、IFL参戦のため東京サーベルズを結成し監督に就任する。同9月には自らが企画し、モハメド・アリの娘や猪木の娘(サイモン猪木の妻)などが参戦を表明した格闘技イベント「INOKI
GENOME 〜格闘技世界一決定戦〜」の開催延期を発表するなど、試行錯誤を繰り返していたが、2007年3月、新団体「イノキ・ゲノム・フェデレーション(IGF)」を発足させ、自身が社長となると共に6月に旗揚げ戦を行った。なお、同時期に娘婿であるサイモン・ケリー猪木も新日本プロレス社長を辞職、IGFへ合流した。
また、2007/7/11、交友のあるTRIPLE-Pと“TRIPLE-P vs. アントニオ猪木”を組み、アントニオ猪木の名言「道」を曲にして発売した。道のCDジャケットの裏側はアントニオ猪木の手書きの「道」が書かれている。プロモーションビデオにも出演しDJプレイしたりサンプラーを叩いたりする。
2007/12/20の有明コロシアムの小川直也対安田忠夫戦の試合終了後、レフェリーの制止をも聞き入れず暴れまわる小川を止めるため乱入し、裸絞めで小川を失神させた。
WWE殿堂入り
2010/2/1、WWEは猪木のWWE殿堂(WWE ホール・オブ・フェイム)顕彰を発表した。WWE殿堂入りを果たした日本人は、猪木が初めてである(日系アメリカ人では、過去にミスター・フジが殿堂入りしている)。WWFヘビー級王座の獲得を始め、世界のプロレス界発展に貢献したことを評価しての選出であった。インダクター(プレゼンター)はスタン・ハンセン。
猪木のWWE殿堂表彰セレモニーは3/27、アメリカ合衆国アリゾナ州フェニックスにて行われた。また翌日のアリゾナ州グレンデールのユニバーシティ・オブ・フェニックス・スタジアムにて開催された第26回レッスルマニア大会の際にも猪木が登場し、観衆からの祝福を受けた。
プロレス
主な戦績
- 1960/9/30、デビュー戦で大木金太郎(金一=キム・イル)に逆腕固めで負け。
- 1966/11/19、ジョニー・バレンタインと対戦し、勝利。US王座獲得。
- 1967/10/31、ジャイアント馬場と組み、ビル・ワット、ターザン・タイラー組に勝利。インターナショナル王座獲得。
- 1969/5/16、クリス・マルコフを破りワールドリーグ戦初優勝。
- 1969/12/2、NWA世界ヘビー級王者ドリー・ファンク・ジュニアに挑戦、ノーフォールのまま60分時間切れ引き分けとなった。
- 1971/3/2、ジョン・トロス戦に勝利。UNヘビー級王座を獲得。
- 1972/10/4、カール・ゴッチと対戦、勝利世界ヘビー級王座を獲得。
- 1973/10/13、坂口征二と組み、カール・ゴッチ、ルー・テーズ組と90分3本勝負で対戦、2-1で勝利。
- 1973/12/10、ジョニー・パワーズと対戦。NWF世界ヘビー級王座獲得。
- 1974/3/19、NWF世界ヘビー級選手権試合でストロング小林と対戦、大物日本人同士の対決が話題となった。ジャーマン・スープレックス・ホールドで勝利。
- 1974/4/26、坂口征二と初対戦。30分1本勝負で時間切れ引き分け
- 1974/6/26、タイガー・ジェット・シンと対戦し、腕を折る。
- 1974/8/16、坂口征二と組み、クルト・フォン・ヘス、カール・フォン・ショッツ組から北米タッグ王座を奪取。
- 1974/10/10、NWF世界ヘビー級選手権試合で大木金太郎と対戦、13分13秒でバックドロップからフォール勝ち。
- 1975/12/11、ビル・ロビンソンの挑戦を受けてNWF選手権、60分時間切れ引き分け。
- 1976/2/6、ミュンヘンオリンピック柔道無差別級金メダリストウィレム・ルスカと初の異種格闘技戦。バックドロップ3連発で勝利。
- 1976/6/26、プロボクシング世界ヘビー級チャンピオン モハメド・アリと対戦、時間切れ引き分けに終わる。
- 1976/10/7、アンドレ・ザ・ジャイアントと格闘技世界一決定戦を戦いレフェリーストップで勝利。
- 1977/8/2、空手のWKA世界スーパーヘビー級チャンピオンであった、ザ・モンスターマン(エベレット・エディ)と対戦、KO勝ち。
- 1979/8/26、プロレス夢のオールスター戦で、ジャイアント馬場と組み、タイガー・ジェット・シン、アブドーラ・ザ・ブッチャー組と対戦、シンを逆さ押さえ込みに仕留めて勝利。
- 1979/11/30、ボブ・バックランド戦に勝利。日本人初、WWFヘビー級王座獲得(王座はのちに返上)。
- 1980/2/27、極真会館所属のウィリー・ウィリアムスと対戦、ドクターストップの無効試合となった。
- 1980/9/25、スタン・ハンセンと対戦、逆ラリアートでフォール勝ち。
- 1982/11/4、ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇と1対3変則マッチで対戦、寺西、浜口からフォールを奪うも木村にリングアウト負け。
- 1983/5/27、第1回IWGP決勝リーグ戦で前田日明(当時は前田明)と(唯一のシングル)対戦、フォール勝ち。
- 1983/6/2、第1回IWGP決勝戦でハルク・ホーガンと対戦、アックスボンバーによりリング外に転落し頭を打ちKO負け。
- 1983/11/3、維新軍との4対4綱引きマッチで谷津嘉章と対戦、フォール勝ち。
- 1984/6/14、第2回IWGP決勝戦で前年優勝したハルク・ホーガンに挑戦、2度の延長戦や長州が乱入するもののリングアウト勝ち。
- 1985/4/18、ブルーザー・ブロディと対戦、両者リングアウト。
- 1985/12/12、'85IWGPタッグリーグ戦決勝戦で坂口征二と組み、藤波辰巳、木村健吾組と対戦、藤波のドラゴン・スープレックスで敗北。
- 1986/2/6、UWF代表の藤原喜明と対戦、疑惑の急所蹴りがあるものの勝利。
- 1986/6/17、アンドレ・ザ・ジャイアントと対戦、世界初のギブアップ勝ち。
- 1987/3/27、大阪城ホールでの「INOKI闘魂LIVE Part2」のマサ斎藤戦に海賊男が乱入。観客が暴動を起こす。
- 1987/10/4、マサ斎藤と「巌流島の戦い」を行う。2時間5分14秒の死闘の末勝利。
- 1987/12/27、たけしプロレス軍団の刺客、ビッグバン・ベイダーと対戦し、2分49秒で敗れる。再三のカード変更と猪木の敗北に観客が、大阪城ホールに続き暴動を起こす。
- 1988/7/22、長州力と対戦、フォール負け。
- 1989/4/24、「格闘衛星闘強導夢」と釘打ち、プロレス初の東京ドーム大会でショータ・チョチョシビリと異種格闘技戦。裏投げを食らい、左肩を脱臼し(異種格闘技戦初の)敗北。
- 1989/5/25、大阪城ホールで再戦し、ギブアップ勝ちを収めている。
- 1990/2/10、坂口征二と組み、蝶野正洋、橋本真也組の挑戦を受ける形で対戦し、結果は蝶野からフォール勝ち。この試合で初めて「1、2、3、ダー!」を披露。
- 1992/1/4、馳浩と対戦、卍固めで勝利。
- 1994年/1/4、天龍源一郎と対戦、パワーボムで敗れる。
- 1994/5/1、福岡ドームでグレート・ムタと対戦、フォール勝ち。この試合より引退への布石となる「イノキファイナルカウントダウンシリーズ」が始まる。
- 1998/4/4、「ファイナルイノキトーナメント」を勝ち上がったドン・フライと引退試合で対戦、グランド・コブラで勝利。
通算成績
- シングル戦 - 612勝41敗50分
- タッグ戦 - 1466勝104敗130分
獲得タイトル
アメリカ修行時代
- NWAテキサス・ヘビー級王座:1回
- NWA世界タッグ王座(テキサス版):1回(w / デューク・ケオムカ)
- NWA世界タッグ王座(ミッドアメリカ版):1回(w / ヒロ・マツダ)
東京プロレス時代
日本プロレス時代
- インターナショナル・タッグ王座:4回(w / ジャイアント馬場)
- アジア・タッグ王座:4回(w / 吉村道明×3、大木金太郎)
- UNヘビー級王座:1回
新日本プロレス時代
- 世界ヘビー級王座(カール・ゴッチ所有):1回
- 北米タッグ王座:1回(w / 坂口征二)
- NWFヘビー級王座:4回
- WWFヘビー級王座:1回
- WWF世界マーシャルアーツ・ヘビー級王座:1回
- UWA世界ヘビー級王座:1回
- IWGPヘビー級王座:1回
その他
- WCW殿堂(1995年度)
- WWE殿堂(2010年度)
「燃える闘魂」
新日本プロレス設立後〜現在に至るまでのキャッチフレーズは「燃える闘魂」(当初は「燃ゆる闘魂」)。当時テレビ朝日プロレス中継アナウンサーの舟橋慶一の命名である。日本プロレス所属時代のキャッチフレーズは「若獅子」。
「イノキボンバイエ」
「イノキボンバイエ」のフレーズを持つ入場曲『炎のファイター 〜INOKI BOM-BA-YE〜』は、元々モハメド・アリの伝記映画『アリ・ザ・グレイテスト』の曲であったが、猪木と対戦したアリが、猪木に贈りアレンジしたものとされる。ちなみに「ボンバイエ」とは、「Boma
ye(ボマ・イェ)」(リンガラ語:“彼を殺せ!”。“やっちまえ”程度の意味)が訛ったもの。アリがコンゴの首都キンシャサでジョージ・フォアマンと戦った際の声援が由来とされる。猪木の弟子で、「猪木最後の闘魂継承者」と呼ばれる藤田和之は、オーケストレーション・バージョンを入場曲とする。
2006年韓国のヒップホップ・グループSide-B(サイドビー)が「SB BOMBA YE」としてラップ風にカバー、2007年にDJ OZMAが同曲を「疾風迅雷
〜命BOM-BA-YE〜」として再カバーした。
猪木の弟子たち
- 猪木の最初の弟子は藤波辰爾であり、日本プロレス時代の付き人であった。
- 猪木を慕って来た者の中にはその後袂を分かったケースも少なくない。前田日明(猪木の関係する旧UWFへエースとして参加→崩壊)、佐山聡(旧UWF→シューティング→UFO→決裂)、高田延彦(「PRIDE」で共闘するも後に絶縁)、いわゆる闘魂三銃士(武藤敬司=全日本プロレスへ移籍、橋本真也=ZERO
ONE設立)などである。
- 猪木最後の愛弟子は前UFC世界ライトヘビー級王者であるLYOTOである。
寛水流空手
寛水流空手は、1982/2/27に空手家・水谷征夫とアントニオ猪木が創設したフルコンタクト空手の団体。その名称はアントニオ猪木の本名である猪木寛至の「寛」と水谷の「水」を取って命名された。現在は正式名称を「NPO法人
世界寛水流空手道」として東海地方を中心に活動している。
寛水流空手発足の経緯
『いつ何時誰の挑戦でも受ける』と表明したアントニオ猪木に対して、安藤昇の小説『東海の殺人拳』のモデルとして知られる空手家・水谷征夫が「ルールの無い命をかけた戦い」を申し入れた。
その申し出を猪木は承諾し、具体的な話が進められた。なお、「ルールの無い命をかけた戦い」とはプロレスと空手のいかなる技も自由とし、急所攻撃さえ禁止しない、勝負は生死をもって決するというものである。
水谷が鎌、サイ、トンファーなど琉球古武術の達人でもあったことから、猪木の素手に対して鎖鎌で戦いを挑んだといわれているが、これは誤りである。
この試合は両者で一旦は合意され、当時マスコミに「昭和の巌流島」として取り上げられた。猪木有利の予想の中、新間寿は水谷の実力を冷静な目で判断していた。そして、テレビ放映のスポンサーがつかなかったことと、水谷の貫手による目への攻撃や蹴りによる急所攻撃によって猪木に万一のことがあることを恐れた新間の必死の仲裁により、直前で中止された。
交渉の過程で水谷は猪木に対して、プロレス界のスターでありながら、一空手家の挑戦をリスク覚悟で承諾した姿勢に尊敬の念を抱く。また、猪木は、自らの命をかけて戦いを挑んでくる日本人がいることに驚嘆する。戦いを前に鋭く対立した二人であったが、その後交流を深め寛水流空手を創設した。水谷は1990年に死去したが、訃報を知った猪木は、盟友の早すぎる死に涙したという。
寛水流出身のプロレスラーには後藤達俊、松永光弘などがいる。
政治
略歴
- 1989年に「スポーツを通じて国際平和」の合言葉で、スポーツ平和党を結成。同年に行われた第15回参議院選挙に比例区から出馬し初当選し、史上初のレスラー出身の国会議員(=参議院議員)となり、「猪木チャリティーテレホン」(ダイヤルQ2)など様々な政治活動を行った。
- 東京スポーツは "レスラー・猪木" と "参議院議員・猪木" で扱いを分けていた。「猪木」と呼び捨ての記事にした場合はレスラー・アントニオ猪木、「猪木さん」「猪木氏」と書いた場合は参議院議員・猪木寛至についての記事。
- ソビエト連邦から勇利アルバチャコフ・オルズベック・ナザロフをはじめとするアマチュアボクシングのトップ選手を親交の深い金平正紀率いる協栄ボクシングジムに預け「映画『ロッキー4』の世界を現実化させる」と謳い、日本でプロデビューする道を拓いた。現在は薬師寺ボクシングジム後援会名誉会長として薬師寺保栄を支援している。同時にソ連のアマチュアレスリングのトップ選手サルマン・ハシミコフ・ビクトル・ザンギエフなども新日本プロレスでプロデビューさせた。
- 湾岸戦争前夜にイラクにおいて行ったイベントにより、人質状態にあった在留日本人と全人質の解放に貢献。なお、北朝鮮でもイベント「平和の祭典(リック・フレアーと対戦し勝利を収めている)」を開催した。翌1996年春、自身は落選し前議員ながら崔鉄洙を協栄ジムからプロデビューさせる道を拓いた。
- 1992年7月に実施された第16回参議院議員通常選挙には、比例代表候補として元阪神タイガースのプロ野球解説者江本孟紀を擁立。当選し参議院会派で2議席目を獲得。
- 猪木は第8代自民党総裁・清和政策研究会初代会長の福田赳夫に可愛がられ、福田の実弟の福田宏一が猪木の格闘家としての後援会会長を務め、また福田の愛弟子で第19代自民党総裁・清和会第4代会長森喜朗とも親交が深い。
- 二階堂進は日本プロレスリングコミッション(新日本プロレス・国際プロレス)のコミッショナーも勤めていた。1985年、新国技館(両国国技館)の新日本プロレス使用を、前年の蔵前国技館でのファンの暴動騒ぎ(IWGPリーグ戦第二回大会決勝戦の項を参照)から相撲協会が貸し出しを渋った際には、仲介の労をとった。
- いわゆる「猪木スキャンダル」によって、1995年の参議院選挙で落選する。
- 同年に突如江本副代表から党の運営を巡って対立する。特に党運営に関わる金銭疑惑による猪木への不信感は2人の関係に大きな亀裂を生じてしまう。江本孟紀副代表は離党し無所属になってしまい、元公設第1秘書(借金問題で一度は解雇された)だった、実兄である猪木快守(テノール歌手・パブロ猪木)が党首(代表)に就任。
- その後スポーツ平和党は主立った政治活動を行わなくなり、2007年3月には公式サイトを閉鎖。既に政治団体解散届を総務大臣に提出している。
イラク在留邦人人質解放までの真相
1990年湾岸戦争が危惧される中、イラクのサダム・フセイン大統領は、在留外国人を国外出国禁止(事実上の人質)とした。その中に多くの日本人が含まれており、安否が気遣われていたが、外務省主導による、人質解放交渉は遅々として進まなかった。
解決の糸口さえ見えない外務省の人質交渉に痺れを切らした猪木があることを決断する。それは被害者家族等を率いてあえて緊張高まるイラクでのイベント"スポーツと平和の祭典"を行うため、バグダードに向かうと言うものだった。
猪木に対して外務省はイラク行きを止めるよう説得するもこれを拒否、すると今度は人質被害者家族に対し圧力を掛け「いつ戦争が起こるか分からないし、日本政府としては責任を持てない。そんな所に行くことはまかりならん、もしどうしても猪木議員とイラクに行く場合は、……それはあなた方も含めて命の保証が無いと言う意味です。」と猛烈に反対した。イラク邦人人質被害者家族(あやめの会)は悩んだ末に、外務省が動かないために、猪木に全てを託すことにしたのである。
1990年11月、猪木は日本の各航空会社にイラクへの出航を要請したが、外務省の強い圧力もあり、他のいずれの航空会社も拒否してきたことでイラクへの直行便の計画は暗礁に乗り上げた。やむなく猪木は、園遊会の会場で当時の駐日トルコ特命全権大使に懇願したところチャーター機の費用を猪木個人が負担することが条件で、トルコ大使の仲介によりトルコ航空の協力でバグダード入りが可能となった。
1990/12/1、平和の祭典関係者や人質被害者41家族46人と共にトルコ経由でバグダード入りを果たした。この時サダム・フセイン大統領は、一国会議員でしかない猪木を国賓級の扱いで迎えたという。
イラクでのスポーツと平和の祭典は邦人人質を中心に人質被害者家族とイラク人観衆が会場を中心に向き合う中で始まり、12月2日、3日の両日に渡り、ロックコンサートと、日本の大太鼓を初めとする伝統芸能や空手トーナメント、そして最後にプロレスが行われ無事終了し平和の祭典は成功を収める一方、イベント開催中に家族の面談は許されたものの解放までには至らなかった。
焦りと落胆の中、帰路に着くべく機中に着いた時、フライト直前の猪木にイラク政府から「大統領からお話があります」と告げられ急遽猪木だけ飛行機を降り、この結果まず12月5日在留邦人の解放が決まり、7日には人質全員の解放が決定する。
猪木はかつて新日本プロレスのパキスタン遠征において、格闘技の英雄アクラム・ペールワンと対戦し腕を折るなどして勝利を収めると一躍国民的一大事になり、同行した妻の倍賞美津子と共に猪木が国王と並んで国民に挨拶をする姿が当地のマスメディアで大きく紹介されるなど、猪木はアラブ諸国において英雄として扱われていたことが、イラクへの入国と人質解放に向かわせた大きな要因と言える。
これらの背景には、反米感情を背景に米国ブッシュ大統領との対決姿勢を強める中、イラク国民に敬虔なイスラム教徒を強くアピールしていたサダム・フセインは、英雄的存在であり同じイスラム教徒である猪木の扱いを通じてイスラム諸国や国王の支持を取付けたいとの政治的思惑があったとされる。
東京都知事出馬と撤退
1991年東京都知事選挙に、かつてNHKのニュースキャスターだった磯村尚徳が出馬を表明した後に出馬を表明したが、マスコミから「なぜ出馬したのか?」と聞かれ猪木が「彼(磯村)には、かつて『ニュースセンター9時』でアリとの試合を茶番扱いされたので」と答えた。
その後スポンサー佐川急便の佐川清会長や福田赳夫、森喜朗、三塚博に説得され、出馬を断念し磯村と政策協定を結んだ。出馬断念に至る裏には、数千万円の現金が動いたとの証言があり、東京スポーツの激闘の永田町にスクープを書いた菊池久を名誉毀損で民事提訴し、マスコミを賑わせたが、判決は領収書の所在が不明との判断で金銭授受を否定して菊池側の敗訴となった。
地裁判決には、猪木と新間寿も出廷していたが、判決後には猪木が菊池久に対して『もう少しうまく話し合いが出来ればねえ』と余裕の表情で語っていた。
参議院落選まで
1995年参議院出馬するが、1993年に佐藤久美子元公設第1秘書とスポーツ平和党前幹事長新間寿に告発された「政治資金規正法違反の問題」「賄賂の問題」「右翼(日本皇民党)との癒着問題」「佐川急便会長の依頼で東京都知事降板問題」「税金未納問題」、「女性問題」などスキャンダルが発覚。政治資金規正法違反については、時効となり、処分はまぬがれたがこの影響により落選。TBSテレビ・フジテレビ・ニッポン放送は、新間寿の記者会見を急遽生中継までして放送した。
数多くのスキャンダルに対して猪木本人は完全否定したが、マスコミから「なぜちゃんと反論しないのか」と聞かれ猪木は「めんどくせえ!!」の一言で終わらせた。
なお、TBSテレビは、新間の記者会見を急遽生中継までして放送した。これは「仕掛け人」の異名を持つ新間は猪木の出馬する参議院選挙に合わせ告発本の出版を計画していたが、参議院選が早まると急遽出版時期を繰り上げて、本の出版を理由に記者会見を開いた。
新間は出版記者会見で、「女性の方は耳を塞いでください」と言って、「アントニオ猪木のPKO、それはパンパン、来い来い、オマンチョやろう」と放送禁止用語を生中継にもかかわらず発言し物議を醸す。
その後佐藤はオーストラリア在住の日本人と結婚永住。現在は現地IT企業勤務。
事業
猪木の旺盛な野心はリング内に収まらず、多くの事業に挑戦している。ただし成功を収めたものはほとんど無い。数多くの事業の大半はブラジルに関係することが多く、アントン・ハイセルに私財を投げ打ってまで事業を進めることに対して美津子夫人(当時)は新間寿に「なぜそこまでしてブラジルに拘るのか」と聞いた程である。下記のように、猪木はプロレスだけに止まらず、様々な事業に手を広げているが、本人は「(事業欲が旺盛であった)力道山と祖父の影響が大きい」と述べている。かつて「さんまのまんま」に出演した際、明石家さんまに対して「さんまさん預金いくらあるの?うまい儲け話があるけど投資してみない?」と誘っていたが、さんまはやんわりと拒否している。
アントン・トレーディング
「アントン・トレーディング」という貿易会社を設立。この会社は一時日本国内でのタバスコ(マキルヘニー・カンパニー)の販売権を持っていたことがあるが、別件で借金を抱えたため手放している。当時はまだタバスコは一般的ではなく、その後激辛ブームや宅配ピザが広まり需要が大幅に伸びた。また、「タバスコを最初に日本に持ち込んだのは猪木」と言われることもあるが、事実ではない。
アントン・フーズ
スペアリブのレストランチェーン「アントンリブ」を展開する他に、健康食品などを販売していた。そのほかにも「アントンマテ茶」やスナック菓子「アントンナッツ(ひまわりナッツ)」を販売。ワールドプロレスリングの番組内で古舘伊知郎アナウンサーが宣伝したが、販売実績は振るわなかった。
アントン・ハイセル
ブラジル政府を巻き込んだ国際的なプロジェクト「アントン・ハイセル」(1980年に設立)は、猪木自身にとって生涯最大の事業であった。これは、ブラジル国内で豊富に収穫できるサトウキビの絞りかすを有効活用法として考案された事業で、当時からブラジル政府は、石油の代わりにサトウキビから精製したアルコールをバイオ燃料として使用する計画を進めており、バイオテクノロジーベンチャービジネスの先駆けであった。このアントン・ハイセルを開始するにあたって、猪木は自民党の大物議員に「アントン・ハイセルによって世界中のエネルギー問題や食糧問題が全て解決する」と言って協力を呼びかけたが断られ逆にブラジル情勢を危惧し辞めるよう説得されるが、猪木はこの事業に傾倒して行く。
この一大プロジェクトとも言える計画に、解決しなければならない大きな問題が発生する、それは弊害としてサトウキビからアルコールを絞り出した後にできるアルコール廃液と絞りかす(バガス)が公害問題となった。そこで家畜に飼料として食べさせるが、直ぐに下痢を起こしてしまう。また、土中にバガスをそのまま廃棄すると、土質を悪化させるため、その土地では農作物が取れなくなるなどの弊害が生じる結果になってしまう。
それでも猪木は世界の食料危機問題に対応すべく、バガスの再生飼料を食べた家畜の糞を有機肥料として、農業生産の向上と家畜の増産を目指すも、結局は日本とブラジルの気候の違いから発酵処理に失敗する。さらに追い討ちをかけるように、ブラジル国内のインフレが原因で生産コストはさらに悪化の一途を辿る。
これらの原因により、経営は数年で破綻する。マスコミ報道によれば、アントン・ハイセルのおよその負債額は数十億円とも言われ、テレビ朝日に放送権を担保に12億円の肩代わり(後に、株券と引き換えに佐川清佐川急便会長に債権を移動)してもらうがそれだけでは補えず、遂には新日本プロレスの収入の大半を補てんしてしまう。しかしこれが仇となり新日本プロレスでは初代タイガーマスク(佐山聡)や長州力などスター選手をはじめ13名もの選手が大量離脱するなど当時クーデターと言われた騒動が起き、やがて猪木の社長解任劇に発展する。山本小鉄などの動議により猪木代表取締役社長と坂口副社長は解任されテレビ朝日の社員が役員に就任したが、両者とも混乱の終結と共に数か月後に復帰した。
なお、ブラジルではサトウキビからエタノールを抽出するバイオ燃料事業は環境対策や2005年以降の原油価格高騰などから、内容が見直され積極的に行われている。
永久機関
INP技術研究所の名誉会長となっている。同社は「永久電気」用発電機を開発していたが、途中から「高効率モーター」に変化している。研究開発には莫大な資金を投じ、新日本プロレスの経営にも悪影響を及ぼした。
かつてマスコミ関係者(スポーツ新聞やプロレス雑誌の編集者)を集めて永久電気の発表会を開いたことがあったが、実験は失敗に終わった。猪木の弁明は「ネジを一本締め忘れた」というものであった。
アントニオ猪木酒場
東京・池袋に2006年、居酒屋「アントニオ猪木酒場」を開店した。「午後八時のプロレスを見ながら食べたメニューを再現する」がうたい文句の居酒屋で、店内は古きよき昭和の時代をイメージし、常時プロレスが放送されており、プロレスにあやかった名がついた料理がメニューに並ぶ。なお実際の店舗運営は、IGFのスポンサーでもあり、焼肉屋さかいなどを傘下に収める外食産業大手のジー・コミュニケーションが行っており、猪木は経営には関与していない。ジー・コミュニケーションでは同ブランドのフランチャイズ展開を進めているが、沖縄店・仙台店・千葉店が既に閉店するなど展開は順調とはいえず、2009年6月現在店舗数は4店舗(池袋・新宿・広島・福岡)にとどまっている。
その他
- 「サンダリッパ」や「とうふパン」のプロデュースも手掛けた。
- ジャパンフリトレー 闘魂スナック監修(2010年)
エピソード
プロレス
- 日プロ入門当初、ジャイアント馬場は付き人を経験せずにすぐにアメリカ遠征に出され、給料も出ていたという完全に特別扱いだったが、猪木はその全く正反対で、力道山からはまるで目の仇のように厳しく育てられた。例えば、力道山にリングシューズを履かせる際、ちょっとした紐の掛け違いでも殴られたり蹴飛ばされたりしたほどであった。
- 過去に『ハンマープライス』内で素人と対戦したり、力道山メモリアル内で滝沢秀明と対戦している。なお『ハンマープライス』で猪木との試合権を購入したのは諸富祥彦明治大学文学部教授である。リングネームは「ゾンビー諸富」であった。
- 「延髄斬り」は海外マットでもenzuigiriと呼称され、名詞として定着している。
- 猪木は力道山の生前に馬場と16回対戦したが、16戦全敗で、一度も勝てなかった。
- 袂を分かってからジャイアント馬場を執拗に敵視し挑発してきたが、私生活ではホテル(キャピトル東急など)で馬場に会った際、「どーもどーも」と笑顔で握手に行き食事に勝手に同席した上、会計を馬場にまかせて去っていったなどの逸話が残されており、公私は別にしていた。プライベートでは「馬場さん」「寛ちゃん」と呼び合う仲であった。馬場も挑発には乗らなかったが(そもそも馬場は「猪木をライバルと思ったことはない」と生涯語っていた)、新日本のNWA加盟に対して妨害工作を行うなど、内心ではかなり猪木を意識していたと考えられる。
- 引退後もプロレス・格闘技のイベントや試合の開催案を不定期で発表するが、実現せずに終わることも多い(実現しても大赤字に終わってしまうケースが多い)。「できるかどうかは関係ない。まず発表してしまうこと。それでいろいろ周りを巻き込んで
実現へと向かわせればいい。それがオレのやり方」と、交渉の前に発表するという方法を使う。この方法は新日本プロレスおよびその派生団体で今も使われ続けているが、名を挙げられた選手、所属団体のフロントなどからの反発も大きい。
- かつて「いつ何時誰の挑戦でも受ける」とコメントしていたが、新日本に復帰した前田日明の挑戦は受けなかった。後の前田との対談で、前田に「なぜシングルで戦ってくれなかったんですか?」と聞かれ、笑いながら「逃げてたから」と答え、それを聞いた前田も笑っていた。また闘魂三銃士のうちシングルで戦ったのは武藤敬司(グレート・ムタ)のみであった。
- 猪木は引退の時、「後継者は前田と思っていた」とコメントした。しかし前田自身は猪木のことを心良くは思っておらず、かつてインタビューで猪木のことを「格闘界に老人が徘徊しとるやんけ」と痛烈に批判している。
- 成田空港で渡航前後に記者会見を行い、今後の自分の動向や、プロレス・格闘技界に意見を言う「成田会見」が定番である。
- 力道山は、角界と関係修復を計る際、『猪木を一度大相撲に入門させ、十両になったらプロレスに復帰させる』と言う計画を持っていたが、猪木自身はこのことを知らなかった。
アゴ
その特徴的な尖ったアゴは猪木を猪木たらしめており、コンプレックスでしかなかったそのアゴをやがては武器にまで昇華させた。藤原喜明は「スリーパーをされると尖ったアゴが肩に食い込み非常に痛かった」と語っている。モハメド・アリとの対戦前の記者会見で、アリから「ペリカン野郎」とそのアゴをバカにされるが、猪木は「オレのアゴは尖っているからそれだけ強い」と、自分のアゴをアピールした。金的と並び鍛えようのない急所である喉元をガードしている、という意味でも武器であることは、本人も認めている。
顎の形が花王の「月のマーク」に似ていることから、若手時代には「花王石鹸」というあだ名で呼ばれていたこともある。また、アメリカでタッグを組んだことがあるヒロ・マツダは、「猪木のアゴはジャーマン・スープレックスの際に相手の背中に引っ掛かって邪魔になるから、綺麗なジャーマン・スープレックスにはならない」と語ったことがある。
かつて前妻の倍賞美津子がテレビ朝日「徹子の部屋」に出演した際に、猪木の顎の深さを図ろうと、寝ている間に口を開けて、中指と薬指の2本を入れてみたら全部入ってしまった、と語っている。
「猪木信者」
- 力道山も馬場も、その支持者は「ファン」であるが猪木のファンは「猪木信者」である。猪木信者の代表的な人物は春一番、桑田佳祐、森岡隆三、和田竜二、石橋貴明、岡野雅行など多数に上る。信者は猪木のことを「会長」または「先生」と呼ぶのが特徴。森岡は、サッカーアジア杯で優勝した際に「1!2!3!ダァ〜!」を行っていたが、その姿を見た彼の妻に「今度猪木のマネをしたら、離婚する」とまで言われたという。和田はテイエムオペラオーで宝塚記念を勝った時には「ダァ〜!」(1!2!3!は無し)を、同年の有馬記念では「1!2!3!ダァ〜!」を行った。桑田佳祐は、サザンオールスターズのライブの際、ライブ終了後に「1!2!3!ダァ〜!」をやるのがかつてのお約束であった。また、ダァ〜!ばかりか桑田はライブが佳境を迎え盛り上がると、何度となくアゴを突き出しファイティングポーズを取っていた。
- 全日本プロレス中継の担当だった倉持隆夫アナウンサーも、日本テレビ退局後に、実は猪木信者であることをカミングアウトした。
- 竹内睦泰は『これだけは知っておきたい 世界の宗教 知識と謎 80』において、「イノキイズム」を「わが国において、宗教を超え、もっとも信仰を集めている思想」と評価している。
闘魂ビンタ
- 国会議員当時の1990年5月16日、早稲田予備校での講演(題目「五月病に卍固め」)で、予備校生のパンチを腹部に受ける余興を行った。その中の予備校生一人は、実は少林寺拳法の有段者であり、力を込めて殴った。この不意打ちに準備できなかった猪木は反射的に予備校生にビンタを打ってしまった。予備校生は猪木ファンであり、ビンタを受けた直後に「ありがとうございました」と一礼した。この様子は、テレビカメラにより録画されており、全国に流れた。その後、縁起が良いと東大受験生が受験前に猪木にビンタをお願いし、全員合格を果たした。このことから、縁起ものの『闘魂ビンタ』が生まれた。その後も有名になり、女性の有名人までもテレビ番組中に闘魂ビンタ(近年は「闘魂注入」と表されるケースが多い)をねだるまでになっているが、2006年のテレビ番組で語ったところによると、最近は闘魂ビンタをあまりやりたくないとのこと。
また、アメリカに帰る際(猪木は現在ニューヨーク在住)に国際線のスチュワーデスから「闘魂注入ビンタしてください」と頼まれ、飛行機の中でしたと猪木自身もインタビューで語っていた。
その他
- テレビ番組にて司会者から身長を聞かれ、「昔は189位あったんですけど、今はちょっと縮んで186位」と答えている。公称身長は191cm。なお、中学校に入学した時点で身長は既に180cmあったという。
- 1986年にアントニオ猪木と倍賞美津子の娘である猪木寛子がミュージカル『アニー』のアニー役で主演を務めている。現在、猪木寛子は新日本プロレス前社長のサイモン・ケリー猪木の妻である。
- よく大量の氷を入れた水風呂に入る。のちに猪木自身が語ったところによるとこれは「糖尿病で血糖値が上がった際、氷風呂に入り全身の筋肉をガチガチと痙攣させ血糖を消費させるため」だったらしい。医師は「とんでもないことだ」と驚愕し、「普通の人間は真似してはいけない」と語っている。
- 「愛読書は朝日新聞」と語っている。
- ある日、古舘伊知郎から1万円を借りたがそのことを忘れてしまった。当時若手だった古舘にとって1万円は高額であったが、相手は大スターであり、なかなか言うに言えず困っていた。ところがある日、猪木は急にそのことを思い出し、「いや〜、ごめんごめん」と30倍にして返した。
- 「1! 2! 3! ダー!」は商標登録されている(登録商標としての表記は「1・2・3・ダァーッ」)。この登録商標を使ったラーメンが「1・2・3・ダァーッ麺」という名で発売されている。ちなみに猪木の「1!
2! 3!
ダー!」が商標登録されていることは2004年3月3日のフジテレビの『トリビアの泉』で紹介された。なお、「ボンバイエ」、「猪木イズム」、「闘魂」も商標登録されている。
- キューバとパラオにアントニオ猪木の名前がつけられた「猪木アイランド」と呼ばれる無人島を所有している。島の名前はイザベル島であったがイソラ、アミーゴ
デ イノキ(友人猪木島)であり、2島ともキューバのフィデル・カストロから贈られたものであり、猪木は休暇の際に利用しているという。キューバ本島からかなり離れたカリブ海にその島は浮かんでおり、まわりを珊瑚礁に囲まれた平坦な島で、海水が上昇すれば海に沈んでしまいそうな島である。島の周りは白砂のビーチで海水は透きとおり美しく、背の低い木、草がはえている中にイグアナがいる。
- 渡米時代アメリカ人の女性リンダと結婚し1児をもうけるが死亡している。その後、女優の倍賞美津子と1億円の結婚式を挙げて当時の話題になった。離婚後、現在の22歳程離れた妻と3度目の結婚をしている。
- 1984年発表(1983年度)のいわゆる長者番付でプロスポーツ部門で1位(納税額8,268万円)になる。
- 力道山はエンターテイメント施設「リキパレス」を建設。猪木は若い時から付き人として夜遊びのお供をしていた。猪木はロサンゼルスからニューヨークに住居を引っ越し、そして最近では日本を拠点に興行活動を再開したが、そのためか夜遊びが多い。猪木の場合はやはり銀座、赤坂、六本木が夜の主戦場で何軒もハシゴをして遊んでいるのが確認されている。
- 圓鍔勝三が熱心なプロレスファンだったことが縁で空襲で焼失した東京の池上本門寺の仁王像再建の際、モデルを依頼され快諾。数十枚の写真撮影を行いこれをもとに仁王像が作られた。仁王像は近年修復され、本殿に安置されている。
- ホームレスの人たちに食べ物を配るなどしてボランティア活動も積極的に行っている。自身も「俺はアメリカにしか家がないから日本ではホテル住まいだ。実質、日本ではホームレスだな」と語っている。年末になると炊き出しを自ら行い、9回目となる2009年では新宿の都庁前で行い2000人が集合、猪木のモノマネをするアントニオ小猪木らも参加し手伝っている。
- 好物は納豆。オランダの柔道家ウィレム・ルスカとの異種格闘技戦の際、「私はチーズを食べているから強い」とするルスカに対し「俺は納豆を食べて強くなった」と発言したところ、納豆協会から表彰された。最低でも100回以上はコネ回し(アミノ酸やコラーゲンが出るから)、醤油ではなくフレックスオイルをかけて食べると言う哲学がある(『闘魂レシピ』より)。他には函館漁港に水揚げされたイカを好む。
- 「最後の晩餐」は、ふぐとブラジリアン・コーヒーを用意して欲しいと言う(『闘魂レシピ』より)
- 39歳の時、血糖値596の糖尿病にかかり、自然治癒で血糖値180まで下げ44日後にはカムバック戦を行った。インシュリン注射の力で治すのは自分の哲学に反すると言っていた。その間の主食は主にキャベツであった(どんぶりにキャベツの千切りを平らげていた)。
ポエム
- 詩(ポエム)を作るのが趣味で詩集も出版した。
- 「この道を行けば…」という詩を自らの引退試合で引退メッセージとしてファンに贈った。これは以後新日本プロレスの道場訓となった。このセリフは後のMr.Childrenの楽曲、『one
two three』の最後の部分に、ほぼ原文のまま収録されている。これはボーカルが是非引用したいと、本人に許可を得て実現したもの。
その他
- DREAM競馬 - 2008年の菊花賞、オープニングに登場。京都競馬場で観客と「1・2・3ダー」をした。
- 日刊スポーツ東海・関西版(東海地方・北陸地方・近畿地方・山口県以外の中国地方・四国地方向けの新聞)コラム・「猪木のコトバ」(水曜日テレビ面)
- 大井競馬場 - 2009年の帝王賞、プレゼンターゲストとして登場。観客や勝利馬・ヴァーミリアン関係者とと「1・2・3ダー」をした。
- 明治神宮野球場 - 2010/6/26のヤクルト対阪神戦において、「同じ場所で一斉に乾杯した人数」ギネス記録に挑戦した際、乾杯の音頭を務める。その結果、ギネス記録を更新(27,126人)。
著書
- 格闘技世界一(1978年、ベストセラーズ)
- 勇気 炎のメッセージ!(1981年3月、スポーツライフ社)
- 苦しみの中から立ちあがれ(1983年2月、シャピオ)
- 男の帝王学 闘魂革命(1990年6月、ワニブックス)
- 最後に勝つ負け方を知っておけ 思ったことを面白く実現してしまう(1990年9月、青春出版社)
- 闘魂記(1990年9月、集英社)
- たったひとりの闘争(1990年12月、集英社)
- 心の叫び(1991年8月、世界文化社)
- アントニオ猪木議員の闘魂ハイスクール(1992年1月、未来出版)
- 猪木イズム(1998年4月、サンクチュアリ出版)
- 猪木寛至自伝(1998年5月、新潮社)※猪木寛至名義
- 不滅の闘魂(1998年12月、海鳥社)
- アントニオ猪木自伝(2000年2月、新潮社)※猪木寛至名義
- 猪木詩集「馬鹿になれ」(2000年10月、角川書店)
- 俺の魂(2001年9月、あうん)
- もう一つの闘い―血糖値596からの糖尿病克服記(2001年12月、三笠書房)
- 非常識(2002年4月、河出書房新社)
- 闘魂レシピ(2002年11月、飛鳥新社)
- 風車の如く―アントニオ猪木の人生相談(2003年2月、集英社)
- あなたの体も危ない!―糖尿病1600万人を救う魔法の杖(2005年9月、PHP研究所)※主治医であった舘一男との共著
- 元気があれば何でもできる!(2007年5月、ロングセラーズ)
- 猪木語録 元気ですか!一日一叫び!(2007年12月、扶桑社)
- 猪木式教育論「父親の背中」の見せ方(2008年4月、講談社)
- 花が咲こうと咲くまいと生きていることが花なんだ(2008年9月、経済界)
- 真実(2009年4月、ゴマブックス)
- 踏出力。(2010年1月、創英社)
- 元気ですか!?ニッポン!!―日本を元気にする猪木の言葉(2010年5月、ポプラ社)
映画
- がんばれ!ベアーズ大旋風-日本遠征- - 本人役(1978年)
- 激突!格闘技 四角いジャングル - ドキュメンタリー映画(1979年)
- 格闘技オリンピック 四角いジャングル - ドキュメンタリー映画(1980年)
- ACACIA
- 2010年6月12日公開。辻仁成監督、元プロレスラー・大魔神役(主演)。俳優として初主演作。
- 2010年11月13日公開。『アントニオ猪木デビュー50周年DVD-BOX』発売記念としてDVD収録映像を劇場用に特別編集し1週間限定上映。
テレビ
- プラチナチケット(2003年、テレビ東京)
- そこまでやるかマン 世界最強の勇者たち(2010年、日本テレビ)
ドラマ
- チャンピオン太 - 死神酋長役(1962年)
- プロレスの星 アステカイザー - 本人役(1976年、第1話ゲスト出演)
- 佐々木夫妻の仁義なき戦い 第1話(2008年、TBS)
ラジオ
- 日曜夜は馬鹿になれ、847ダー!!(2010年4月 - 、FMヨコハマ)
アニメ
テレビアニメ『タイガーマスク』では出演はしていないが実在の人物としてのアニメキャラが登場している、声は中曽根雅夫。
- タイガーマスク二世 - (1981年、プロレス指導としてクレジット)
- スキージャンプ・ペア Road to TORINO 2006 (2006年)
音楽
- 道(2007年7月11日、TRIPLE-P vs アントニオ猪木)
CM
- 陶陶酒本舗 陶陶酒(日本プロレス時代に出演)
- エースバッグ 企業イメージCM
- マキルヘニー・カンパニー タバスコ(初代タイガーマスクと共演)
- 大塚製薬 ハイネックスV
- 日本ハム ジャンボフランク
- OSGコーポレーション 低周波治療器「リズムタッチ」
- サントリー 缶コーヒー「BOSS」
- 久光製薬 エアーサロンパスEX
- ロッテ モナ王
- ポッカコーポレーション ポッカコーヒー顔缶
- 平和 企業イメージCM
- ABCマート 企業イメージCM
- 富士通 パソコンFMVシリーズ (木村拓哉と共演、声のみの出演)
- マルハン 企業イメージCM (和田アキ子との共演バージョンも存在した)
- キャドバリー クロレッツアイスライト CGでの出演 (玉木宏と共演)
パチンコ・パチスロ
- パチンコ
- CRアントニオ猪木という名のパチンコ機(2004年・平和)
- CR燃える闘魂 アントニオ猪木(2006年・平和)
- CRアントニオ猪木という名のパチンコ機 道(2010年・平和)
- パチスロ
- アントニオ猪木という名のパチスロ機(2002年・平和)
- アントニオ猪木自身がパチスロ機(2003年・平和)
- アントニオ猪木も燃えるパチスロ機(2007年・平和)
- アントニオ猪木が元気にするパチスロ機(2010年・オリンピア)
2006年秋にフィールズが猪木に関するパチンコ・パチスロの商品化権独占使用許諾契約を結んだため、「CR燃える闘魂〜」、「アントニオ猪木も燃える〜」の2機種はフィールズから販売されている。
猪木のものまねをする人物
- ゆーとぴあ・ピース
- 石橋貴明
- 春一番
- 井手らっきょ
有田哲平(くりぃむしちゅー)
- アントニオ小猪木
- アントキの猪木
- グラップラーたかし
猪木をモデルとした架空の人物・キャラクター
マンガ・小説
- 国会議員(浦安鉄筋家族)
- グレート巽(餓狼伝)
- 猪狩完至(グラップラー刃牙)
- アイアン木場(高校鉄拳伝タフ)
- 金小路鉄男(The・かぼちゃワイン)
- グレートニオ猪地(マーダーライセンス牙)
- 生野勘助(喧嘩商売)
- アドニオン諸本(頑丈人間スパルタカス)
ゲーム
- ビクトリー武蔵(ファイヤープロレスリングシリーズ)
- ファイター隼(プロレス)
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