マーク・ルーイン
Mark Lewin
1937/2/26
アメリカ合衆国の元プロレスラー。ニューヨーク州バッファロー出身。
日本での異名は毒蛇。極太の腕で相手を絞め上げる得意技のスリーパー・ホールドは、「アナコンダ殺法」とも呼ばれた。
来歴
地元バッファローのプロモーターであるエド・ドン・ジョージとプロレスラーのダニー・マクシェインのトレーニングを受け、1953年に16歳でデビュー。ルーイン兄弟(ドン・ルーイン、テッド・ルーイン)の末弟として売り出され、1956年3月にはメリーランドにてドンとのコンビでレイ・スティーブンス&ドン・ファーゴからアメリカン・タッグ王座を奪取。ジョージアでは1957年2月にインターナショナル・タッグ王座も獲得した。
その後、ニューヨークのキャピタル・レスリング・コーポレーション(現在のWWEの前身団体)にてドン・カーティスのタッグパートナーを務め、1958年にカーティスとのコンビでディック・ザ・ブルーザー&ハンス・シュミットを破り、ノースイースト版のNWA・USタッグ王座(後のWWWF・USタッグ王座)の初代チャンピオン・チームとなる。9月にグラハム兄弟(ジェリー&エディ・グラハム)に敗れるが12月に奪還し、同王座には2度に渡って戴冠した。1963年には南部のフロリダ地区で1月にザ・カンガルーズ、11月にジ・アサシンズを破り、同地区認定のNWA世界タッグ王座にも2度戴冠している。
カーティスとのタッグチーム解消後はオーストラリアに遠征し、1966/7/1にドン・デヌーチと組んでラリー・ヘニング&ハーリー・レイスから豪州版のIWA世界タッグ王座を奪取。同7/9にはメルボルンにてトール・タナカを破りIWA世界ヘビー級王座も獲得している。帰国後の10/28にはロサンゼルスのオリンピック・オーディトリアムでルー・テーズを撃破、WWA世界ヘビー級王者となった。さらに、12/10にはペドロ・モラレスとのコンビでWWA世界タッグ王座にも戴冠し、二冠王となっている。
1967年6月、韓国のソウルでキム・イルに敗れWWA世界ヘビー級王座を失うが、その後も北米と南半球を股にかけて活躍。WWAがNWAに吸収されてからのロサンゼルスでは、後継タイトルであるNWAアメリカス・ヘビー級王座をマイク・デビアスやフレッド・ブラッシーと争った。オーストラリアでは1967/10/13にシドニーでキング・カーティス・イヤウケアを破り、IWA世界ヘビー級王座を再び獲得。同世界タッグ王座も再三獲得し、1971年は3月にキラー・コワルスキーと組んでジ・アウトローズ(ダスティ・ローデス&ディック・マードック)から、6月にはイヤウケアをパートナーにタイガー・ジェット・シン&ミスター・フジから、それぞれ奪取している。
1970年代初頭はカナダのバンクーバー地区にも進出し、1970/2/9にパシフィック・コースト・ヘビー級王座を獲得。1971/11/29にはスティーブン・リトル・ベアと組んでジン・キニスキー&ボブ・ブラウンからカナディアン・タッグ王座を奪取した。1972年からは古巣のフロリダ地区に参戦し、1973/1/9にバティ・コルトを破り南部ヘビー級王座を獲得。デトロイトではザ・シークと抗争を繰り広げ、1975/9/27にシークからUSヘビー級王座を奪取している。
この時期までは主にベビーフェイスのポジションにいたが、1970年代後半からは狂人系のヒールとして活動し、"マニアック"
マーク・ルーイン("Maniac" Mark Lewin)または "マッド" マーク・ルーイン("Mad" Mark
Lewin)を名乗るようになる。フリッツ・フォン・エリックの主宰するテキサスのダラス地区では1979年から1980年にかけて、ダスティ・ローデス、ブルーザー・ブロディ、スーパースター・ビリー・グラハムらを下しテキサス・ブラスナックル王座を通算5回獲得した。また、1979/12/10にデビッド・フォン・エリック、1980/5/25にジノ・ヘルナンデスを破り、テキサス・ヘビー級王座も2回に渡って手中にしている。
南半球での活動も続け、1981年はニュージーランドにてジョー・ルダックと英連邦ヘビー級王座を、1982年にはスティーブ・リッカードとのコンビでバロン・フォン・クラップ&キング・カマタ、カマタ&オックス・ベーカーなどのチームとオーストラジアン・タッグ王座を争った(南半球でのルーインは1960年代の豪州IWA時代から一貫してベビーフェイスであり、ニュージーランドでは同地のプロモーター兼エースのリッカードとタッグを組んでいた)。
1983年よりフロリダ地区でパープル・ヘイズ(The Purple
Haze)と名乗り、ケビン・サリバンと怪奇派のユニットを結成。同年11/24にはノースカロライナのジム・クロケット・プロモーションズが開催した『スターケード』の第1回大会
"A Flair for the Gold" にもサリバンとのコンビで出場している。以降1986年頃までフロリダを主戦場に、ダスティ・ローデス、アンジェロ・モスカ、ブラックジャック・マリガン、ワフー・マクダニエルらと抗争した。
1990年代に入ってもインディー団体のリングに単発的に上がり、1998年に引退した。
日本での活躍
日本には1973年3月、全日本プロレスの『第1回 チャンピオン・カーニバル』に南半球ヘビー級チャンピオンの触れ込みで初来日。決勝でジャイアント馬場に敗れたものの、実績に違わぬ活躍を見せた(チャンピオン・カーニバルには1974年の第2回大会と1975年の第3回大会にも参加し、3年連続で出場している)。その後も全日本の常連外国人選手となり、1982年1月まで計9回来日した(1981年1月にはアブドーラ・ザ・ブッチャーと組んで馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦。同年11月にはザ・シークとのコンビで『世界最強タッグ決定リーグ戦』にも出場した)。
1984年8月にはUWF『ビクトリー・ウィークス』に参戦。当時のUWFはシューティング・スタイルに方向性を見出した最初期の段階であり、ルーインも売り出し中の若手だった高田伸彦に勝ちを譲っている。全盛期を過ぎたとはいえ、シリーズのエース格だったルーインが遥かに格下の高田に敗れたことは業界に大きな衝撃を与えたが、ルーインは当時の『週刊プロレス』のインタビューにおいて「若者たちの新しいチャレンジに成功を託したい」などと好意的に語っていた。
エピソード
- キャリア後半は狂人系ヒールとなって一時代を築いたが、もともとはベビーフェイスのハンサム・ガイとして活躍していた。ビンス・マクマホン・シニアは
"Mark Lewin was the best babyface I ever had" と語ったという。
- アルコールに強く、リック・フレアーの自宅で開かれたパーティーでは、同じく酒豪のロディ・パイパーと "Hot Rod vs. Purple
Haze" と銘打った飲み競べが行われた(勝敗については意見が分かれたが、フレアーはパイパーに軍配を上げている)。
獲得タイトル
メリーランド
- アメリカン・タッグ王座: 1回(w / ドン・ルーイン)
ジョージア
- NWAインターナショナル・タッグ王座(ジョージア版): 1回(w / ドン・ルーイン)
ニューヨーク
- NWA USタッグ王座(ノースイースト版): 2回(w / ドン・カーティス)
フロリダ
- NWA世界タッグ王座(フロリダ版): 2回(w / ドン・カーティス)
- NWA南部ヘビー級王座(フロリダ版): 1回
オーストラリア
- IWA世界ヘビー級王座: 2回
- IWA世界タッグ王座: 8回(w / キング・イヤウケア×2、ベアキャット・ライト、ドミニク・デヌーチ、スパイロス・アリオン、マリオ・ミラノ、キラー・コワルスキー、アントニオ・パリシー)
- NWAオーストラ・アジアン・タッグ王座: 1回(w / スパイロス・アリオン)
ロサンゼルス
- WWA世界ヘビー級王座: 1回
- WWA世界タッグ王座: 1回(w / ペドロ・モラレス)
- NWAアメリカス・ヘビー級王座: 1回
トロント
- NWAインターナショナル・タッグ王座(トロント版): 1回(w / ホイッパー・ビリー・ワトソン)
バンクーバー
- NWAカナディアン・タッグ王座(バンクーバー版): 1回(w / スティーブン・リトル・ベア)
- NWAパシフィック・コースト・ヘビー級王座: 2回
デトロイト
テキサス
- NWAアメリカン・タッグ王座: 2回(w / ザ・スポイラー)
- NWAテキサス・プラスナックル王座: 5回
- NWAテキサス・ヘビー級王座: 3回
- NWAテキサス・タッグ王座: 1回(w / ディック・スタインボーン)
- NWA世界6人タッグ王座(ダラス版): 1回(w / キラー・ブルックス&ワンマン・ギャング)
ニュージーランド
- NWA英連邦ヘビー級王座: 1回
- NWAオーストラジアン・タッグ王座: 3回(w / スティーブ・リッカード、アル・ペレス)
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