日本の元プロレスラー。本名は辻本
恭史(つじもと やすし)。京都府宇治市出身(大阪市西成区出身とコールされることもある)。南京都高等学校出身。通称はブラザー。
経歴
高校卒業後闘龍門に入門。7期生に当たる。プロレスデビューは2000年、メキシコ・アレナ・ロペスマテオスにおける大鷲透戦である。日本マット初登場は吉野正人と共にみちのくプロレスに参戦。T2PではミラノコレクションA.T.らの所属するイタリアン・コネクションというユニットのメンバーであった。なお、イタリアン・コネクション時代はギミック上ジャマイカ・キングストン出身、イタリア・ジェノヴァ出身を名乗ったこともある。当時より受けの上手さには定評があり、同じ団体でやはり受けの達人である横須賀享とのシングル(2003/2/16)等で示されている。
闘龍門JAPANを経てDRAGON GATEではヒールのユニットである「悪冠一色」で下品なマイクパフォーマンスなどで人気があったが2004年末に近藤修司らとともにリング外における素行不良・職務怠慢で解雇される。
2005年2月に近藤とともにVOODOO-MURDERSに加入。以来全日本プロレスを主戦場とする。会場を盛り上げる口の巧さと嫌われ者キャラクター、気持ちいいまでの受け(やられっぷり)が高い評価を得、同団体のレギュラー格となった。同年7月からはdragondoor興行へ参加。2006/2/23以降はdragondoorの後継団体プロレスリングElDoradoに所属している。
2006年に入り、5/28には佐々木健介とのシングルマッチ(通称「公開処刑」)が実現。体格で大きく劣る健介に立ち向かうにあたり、「これならカス野郎の逆水平も耐えられる」として、剣道の防具を装着して入場。しかし、リングに上がった直後に頭が大きすぎて被るのが辛かったのか面を取ったためにダイレクトに攻撃を受ける結果となる。当の健介も「面を被っていればよかったのに」と語っている(後に健介はブラザーとのシングルを今後も続けたいと話している)。さらにこの後通路で休んでいたらメーンの武藤と諏訪魔の場外乱闘に巻き込まれて武藤に踏みつけられ、「二次災害や」と散々な目に遭う。さらにこの後には、相手の攻撃からやっとのことで逃げ出したのに、仲間であるはずのVMメンバーに連れ戻されさらに痛めつけられたり(TARU曰く『こいつはやられるのが仕事』)、会場にたまたまあった檻の中に閉じ込められながらも「今日はこの辺で勘弁したるわ!」と叫んで見せたりと、「いじられキャラ」ぶりに磨きがかかり、ヒールの枠を超えた人気を集め始めた。
同年6月のジュニアシングルリーグではいつものスタイルではなく、黒のショートパンツで試合をしたが、全敗。「ストロングスタイルを見せたる」と大見得を切ったのはよかったのだが、それを逆手に取られてしまい、2006/7/3の大田区体育館興行では、「ブラザーストロングスタイル体感マッチ」と称した健介との再戦が行われ(この時のリングネームはパワーウォリアーを真似たヤッシーウォリアーであった)、健介にはおろか乱入した北斗晶にまで叩きのめされる。なお"strong"YASSHIが初登場したのは闘龍門JAPANにおけるストロング市川(ストーカー市川)戦でこの時は白のショートタイツで登場。試合自体はドン・フジイの介入によりストーカー市川が念願の勝利、と思いきやブラザーはわざと試合に負けることで市川の「闘龍門最弱」というアイデンティティを奪ってしまったのであった。
2006/7/23、石川県産業館で行われた全日本プロレスの試合で、出場予定の健介が目の怪我で欠場したため、プロレス現役引退を間近に控えた馳浩が地元ラストマッチを行うという名目で健介の代わりに出場することが決まった。これを知ったYASSHIは自分が少年時代から馳のファンであったことを明かし(これ以前にも、学生時代馳の著書を愛読していたことを明かしている)、対戦相手に立候補し、武藤敬司・小島聡・馳浩との対戦(TARU・近藤組)が実現した。試合前にYASSHIは(スーツを着た)馳の顔写真入りの緑茶を飲みながら「俺は政治家じゃないレスラー時代の馳が好きだったんや」と叫んだ。
さらに8/27の両国国技館大会では、馳の最後の試合の対戦相手を務めることとなった。この試合では、観戦していた森喜朗元首相を得意のマイクで罵倒し場外乱闘一歩手前にまで持ち込むという暴挙に出る。2006年12月小島聡と対戦するも敗北。
2007/4/30、世界ジュニア王者・中嶋勝彦に挑戦するも敗北。8/11、総合格闘技イベント「HEAT4」に"brother"YASSHIとして総合格闘技初挑戦(対戦相手は久米鷹介)するも、2R3分7秒チョークスリーパーでレフェリーストップ負け。
前年に続けて2008/1/4の新日本・東京ドーム大会出場が決定したのに先立って、2007/12/24の新日後楽園大会に来場。ドームでの対戦相手となる長州力に対して「団体経営に失敗した出戻り」と長州にとって「消したい過去」とも言える事実に基づく挑発を行い、ファンから喚声を浴びた。その長州と2月とはカスイチで対戦し、リキラリアットを喰らった際に首を負傷し長期欠場に追い込まれる(2分足らずの秒殺)。
2008年10月、ElDoradoから離脱。その後ElDoradoが活動休止となる。親会社ソウル・コネクション所属となる。
2009/1/3の全日本プロレス・後楽園大会のジュニアヘビー級バトルロイヤルで自身3度目の優勝を果たした。しかし、試合後に2月シリーズを最後にプロレスを休業すると発言し、2/6の後楽園大会でかつての盟友・近藤との一騎打ちを全日本に要求、実現した。
2009/2/15の地元・京都大会、YASSHI&TARU対諏訪魔&近藤戦をもってプロレスラー活動にピリオドを打つこととなったが、試合終了後武藤敬司がシングルマッチを申し入れ、ボーナスマッチも実現。10カウントゴングで送り出された。
本人は完全にプロレス界から引退するとは明言しておらず、レスラー活動は休業という形となる。活動中は足首や首の怪我による長期欠場が何度かあり、本人はキャラクター上明言しないが、ジュニアヘビー級の体格でヘビー級選手の攻撃を受け続けたことによる蓄積されたダメージも大きかったと思われる。週刊プロレスで連載していたコラム「カス野郎千人斬り」の連載はプロレス活動の休止とともに連載休止となったが、同誌1500号記念号において1回限りの復活。
タイトル歴
全日本プロレス
UWA
- UWA6人タッグ王座
- 第23代…brother"YASSINIとして、パートナーはミラノコレクションA.T.&YOSSINO。
- 第28代…パートナーは近藤修司&大鷲透
リングネーム
辻本が用いたことがあるリングネームを順に記す。
- STEVIE"brother"TSUJIMOTO
- "brother"YASSINI
- "brother"YASSHI(現在のリングネーム)
- "strong"YASSHI
- ヤッシーウォーリアー
- "SAMURAI"YASSHI
エピソード
- マイクなどで罵倒する際、「カス野郎」と対戦相手を罵り(原則としてVMメンバー、尊敬する馳浩、縁の深いSUWAに対してはそういうことは言わない)、一日のマイクパフォーマンス内においてこの言葉を十数回頻発する。最後は「ご機嫌ちゃーん」と締める。コール時には股間に手を突っ込み、陰毛を毟って息で吹き飛ばすような仕草を見せる。
- 学生時代は手のつけられない不良だったと自負しているが、闘龍門出身者では数少ないレスリングの経験者であったり、書道の有段者(五段)であるなど意外な経歴を持っている(悪冠一色のユニット名発表の際の題字は彼によるもの)。また、プロレスリングElDoradoのジャンピングキッド沖本とKAIENTAI-DOJOの火野裕士は南京都高校時代のレスリング部の後輩である。
- 特技は自作のラップ。リング上で披露したり、リリックを自らのブログで公開することもあった。
- 原宿のムラサキスポーツの前で、痴話喧嘩しているところを、666のラム会長に見られている。
- アントーニオ本多とはトークがうまい同士なライバル関係でエルドラドのリングで「二人でトークをして三秒黙ったら負け」というルールの試合をしたことがある(試合は本多が唐突に出した暗算で三秒黙らせて勝利、納得いかないブラザーが通常のシングルマッチに移行させてナイス・ジャマイカで勝利)。
- 高校生の頃に越中詩郎に「お前にはプロレスラーは無理だ」と冷たく言われ長年恨んでいたがカスイチ3で対戦し「打倒・越中」を決意、「カスイチ4」では「超・平成維震軍」を結成し、越中とタッグを組んでいくことにした。
- プロレスを始めて間もない頃は、プロテインを買えるほどの経済的な余裕がなく、チェーン店の牛丼でタンパク質を摂っていたと語っている。
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