日本のキックボクサー。大阪府豊中市出身。ZEBRA244所属。バックボーンは正道空手(初段)。
K-1ヘビー級ファイターであり、長身でスタイリッシュなファイトスタイルが特徴で、JAPANの貴公子、魔界のプリンスのニックネームを持つ。
長い手足を活かした空手ベースの打撃を得意とする。メンタル面での弱さが長年の課題。
2005/12/18の試合から中迫 強とリングネームを改名した。
来歴
1998年にK-1デビューを果たし、同年のJAPAN GPで準優勝を果たした。佐竹雅昭、武蔵に次ぐJAPANのエースと期待されたものの、なかなか結果を残せなかった。
2001/3/17、K-1 GRADIATORS 2001でグラウベ・フェイトーザと対戦し、左ハイキックでKO負け。
2002/1/27、2001年WORLD GP王者マーク・ハントと対戦。右ハイキックでハントから生涯初のダウンを奪い、さらに左ハイキックでハントをKO寸前にまで追いつめるも、ハントに3回ダウンを奪い返され、KO負け。これだけでなく2002年の中迫は、ボブ・サップとの試合で、サップの反則ファイトに真っ向から立ち向かい殴り合ったり(この試合は中迫の反則勝ち)、JAPAN
GPで好調に勝ち進み、決勝戦で武蔵と最後まで互角に渡り合った。
だが、その後2003年からまたもや低迷期に入る。2004年は、武蔵不在のJAPANグランプリで優勝候補と言われながら初戦で敗退するなど、散々な結果であった。
2005/6/14、K-1 JAPAN GPの1回戦で後輩に当たる堀啓と対戦。2001年の子安慎悟戦で見せたような気迫で真っ向勝負を挑んだが、判定負け。試合後のコメントでは「蹴りが右半分見えないから、インファイトをやるしか無かった」と語った。
2005/12/18、「R.I.S.E. DEAD OR ALIVE TOURNAMENT '05」のスペシャルワンマッチに出場し、百瀬竜徳と対戦しドローに終わる。この試合からリングネームを中迫
強に改名。
2006/6/3、K-1 WORLD GP 2006 in SEOULで行われたASIA GPに参戦。1回戦でガオグライ・ゲーンノラシンと対戦し、ダウンを奪い判定勝利。3度目の対戦でようやくリベンジを果たした。しかし、準決勝では藤本祐介に足の負傷もあってか、判定負け。
さらに、同年7月に開催された「K-1 REVENGE 2006」でワンマッチで出場し、ビヨン・ブレギーと対戦したが、ブレギーのパワーの前に、ほとんど何もできずに1ラウンドでKO負け。
2007/3/4、「K-1 WORLD GP 2007 IN YOKOHAMA」でザビット・サメドフと対戦するも判定負け。試合後に「膝に水が溜まり満足に練習出来なかった」とコメントした。
2007/8/11、「K-1 WORLD GP 2007 IN LAS VEGAS」でアレキサンダー・ピチュクノフと対戦し、判定負け。
2007/12/22、チームドラゴン主催興行で強太郎レンジャーと対戦し、KO負け。
2008/4/13、K-1 WORLD GP 2008 IN YOKOHAMAのオープニングファイトで佐藤匠と対戦し、判定勝ち。
2008/6/29、K-1 WORLD GP 2008 IN FUKUOKAで行われたK-1 JAPAN GPに出場。1回戦でベルナール・アッカに判定勝ちしたものの、準決勝でエヴェルトン・テイシェイラにダウンを奪われ判定負け。
人物
- 試合前インタビューでは、闘志を見せる言動を必ずしている(「『世界に一つだけの花』は、僕らの世界では綺麗事。一番にならなければ意味が無い」、「鬼になる、ヒールになる」など)が、その言動と試合内容との乖離が目立ちがちである。
- ヒップホップ好きで、ファッションも典型的なB-BOYファッションである。空手を始める前はヘヴィメタル好きであった。
- B級映画や漫画への造詣も深い。
- K-1ブログ最終回では、2008年12月よりイタリアンラウンジ「BANCARA(バンカラ)」のオーナーをしていることを告白。
- ブログやオフィシャルサイトはないが、Twitterでは趣味を中心につぶやいている。
- 格闘家界きってのサッカーフリーク。2010 FIFAワールドカップでは、産経新聞にてコラム「中迫剛の蹴闘三昧」を連載。
戦績
47試合19勝26負2分
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