桜庭 和志
1969/7/14
日本のプロレスラー、総合格闘家。秋田県南秋田郡昭和町(現・潟上市)出身。Laughter7主宰。株式会社39代表取締役。3児(男の子3人)の父。新聞などでは常用漢字外の文字の使用には制約があるため、桜庭和志と表記されることが多く、著書などでも桜庭の表記が一般的である。
秋田市立秋田商業高等学校卒業、中央大学商学部中退。
レスリングをベースに持つ。1990年代末 - 2000年代初頭頃のPRIDEにおいて、強豪外国人に対し、互角以上の戦いを演じた数少ない日本人選手の一人。
総合格闘技の試合では滅多に見られないような変則技を繰り出して対戦相手を翻弄し、観客を沸かせることからIQレスラーと呼ばれ、人気を博した。また、様々な総合格闘家が苦杯をなめてきたグレイシー一族に対し何度も勝利したことからグレイシー・ハンターとの異名もとる。
来歴
レスリング
小学生の頃に当時ブームを呼んだタイガーマスクに憧れ、レスリングの名門秋田市立秋田商業高等学校ではレスリング部で活躍。中央大学レスリング部では主将を務め、卒業後にはスポーツクラブのインストラクターに内定していたが、4年間で卒業できず、内定を辞退。5年生のときに入団テストを受け、プロに転向。その際大学を中退。
UWFインターナショナル
1992年7月にUWFインターナショナルへ入団した。当初は藤原組の入団試験を受けるつもりだったという。UWFインターではレスリング技術に加えて、打撃と関節技を習得。1993/8/13の日本武道館大会でプロデビューするが、UWFインターは1996年12月に解散。在籍中はキモとの対戦もある。またこの時期はサソリ固めを得意技にしており、さらに技を掛ける時は大声を出して気合を入れるなど、総合時代の冷静な試合運びとは対照的な戦い方をしていた。一夜限りのプロレス復帰を果たした2000年12月31日のINOKI BOM-BA-YE 2000でも技をかける際に大声を出している。
キングダム
UWFインター所属選手のほとんどが参加した新団体キングダムへ移籍。キングダムはオープン・フィンガー・グローブを着用した顔面殴打ありのルールを採用した団体で、桜庭にとってはUWFルールからPRIDEルールへの橋渡しとなった。1997/12/21、怪我で欠場した先輩の金原弘光の代役として急遽UFC
Japanヘビー級トーナメントに出場。マーカス・"コナン"・シウヴェイラに一本勝ちし、UFC-J王者となった。このとき「プロレスラーは本当は強いんです」と発言した。なお、このトーナメントは日本大会限定で行われたため、UFCの正式な王者となったわけではない。
PRIDE
グレイシー撃破
1998年に高田延彦主宰の高田道場へ移籍。PRIDE.2のヴァーノン・"タイガー"・ホワイト戦でPRIDEデビュー。
1999/4/29のPRIDE.5では前年にヴァンダレイ・シウバをKOしたばかりのビクトー・ベウフォートに判定勝ちを収めている。PRIDE参戦後はアラン・ゴエス戦(PRIDE.4)での引き分けを挟んで、ヴァーノン・ホワイト(PRIDE.2)、カーロス・ニュートン(PRIDE.3)、ビクトー・ベウフォート(PRIDE.5)、エベンゼール・フォンテス・ブラガ(PRIDE.6)、アンソニー・マシアス(PRIDE.7)に5連勝を飾り、ミドル級のトップコンテンダーに登りつめた。
1999/11/21のPRIDE.8ではメインイベントに登場し、当時不敗神話を誇っていたグレイシー一族の一人、ホイラー・グレイシーとの対戦を迎える。1Rから15kgの体重差を生かしてホイラーのタックルを切り続けた桜庭は猪木アリ状態からのローキックでダメージを与えていく。2Rも優勢は変わらず、引き込んだホイラーにハーフガードからチキンウィングアームロックを極めた。ホイラーはタップせず、セコンドのヒクソン・グレイシーもタオルを投げなかったため、島田レフェリーが試合をストップした。ホイラーは抗議するものの裁定は覆らず、桜庭はマイクアピールで「あそこからどうやって逃げたのか知りたいです。次はお兄さん僕と勝負してください!」とヒクソンに対戦を要求した。
2000年1月、桜庭は「PRIDE GP 2000」に出場する。ガイ・メッツァーの試合放棄という幕切れで1回戦を突破すると、5月の決勝大会ではホイス・グレイシーとの対戦が決定した。ホイラー戦での裁定に不満を持つホイスはルール変更を要求、桜庭も受諾し、15分無制限ラウンド・レフェリーストップおよび判定無しで行われることになった。試合は1時間を超す長丁場となったが、桜庭はホイスの道衣を脱がせようとするなど観客を沸かせ続けた。桜庭がホイスの左足にローを蹴り続けたダメージで7R開始直前にホリオンがタオルを投入し、桜庭の勝利で実に90分に及ぶ死闘に終止符が打たれた。その後準決勝に進出するものの消耗が激しく、イゴール・ボブチャンチン戦では途中から押される展開になった。1R終了後の判定ではドローとなったものの、陣営がレフェリーにタオルを手渡し、TKO負けとなった。
2000/8/27、PRIDE.10でヘンゾ・グレイシーと対戦。バックを捕られるもアームロックで切り返し、TKO勝ち。12/23のハイアン・グレイシー戦ではハイアンが直前に怪我をして10分1Rに変更、試合は桜庭が終始優位に立って判定勝ちを収めた。
「グレイシー狩り」と呼ばれたグレイシー一族相手の4連勝を果たし、「グレイシー・ハンター」の異名を取った。ただ勝利するだけでなくファンを喜ばせるために戦うというファイトスタイルでファンを魅了し、高く評価された。桜庭の活躍と共にPRIDEは大きく成長を遂げ、2000年の桜庭はPRIDEのエースとして全盛期を迎えていたといえる。
シウバとの闘い
2001/3/25、PRIDE.13でヴァンダレイ・シウバと初対戦し、この大会から解禁されたサッカーボールキックでTKO負け。続いて参戦したPRIDE.15では初参戦のクイントン・"ランペイジ"・ジャクソンと激突、下からの腕ひしぎ十字固めや三角絞めをことごとくパワーボムで返すというジャクソンのパワーに手こずるも、最後はチョークスリーパーで一本勝ちを収めた。
2001/11/3、PRIDE.17で新設されたPRIDEミドル級王座が新設され、同時にPRIDEミドル級の設定が93kgとルールに追加された。当時の桜庭の通常体重は83kgから84kgで、桜庭自身が希望していたミドル級は90kg以下だったが、以後のPRIDEで、桜庭はこの条件で戦っていくことになった。PRIDE.17ではミドル級王座を賭けてヴァンダレイ・シウバと再戦するが、シウバの投げでマットに叩きつけられた際に左肩を脱臼しTKO負け。王座獲得には至らなかった。翌2002/8/28にはDynamite!のメインイベントでミルコ・クロコップと対戦するも、下からの蹴り上げで眼窩を負傷しTKO負け。キャリアでは初の連敗となった。その後も膝に慢性的な故障を抱え、出場が不安定な時期もあった。
2003/8/10、ミドル級GPに出場、シウバに3度目の挑戦をする。試合はスタンドで打ち合う展開が続くが、1R5分、ローキックに合わせシウバにワンツーを打ち込まれて失神KO負け、対シウバ3連敗となってしまった。
2003/12/31、PRIDE 男祭り 2003のメインイベントでアントニオ・ホジェリオ・ノゲイラと対戦し、判定負けを喫した。開催前には、UWFインターナショナル時代の先輩田村潔司との対戦オファーがあるも、田村が準備期間の短さを理由に拒否したため実現しなかった。
2005/2/20のPRIDE.29で、アリエフ・マックモドと対戦し、精彩を欠いた勝利に終わった田村に対し、リングサイドから「こんな試合じゃつまらないでしょう。田村さん、僕と勝負してください」とマイクアピールをしたこともあったが、田村は無言でうつむいたままリングから去っていくなど、対戦を何度か申し込むもなかなか実現には至らず。
2005年、ミドル級GPに出場し、1回戦ではユン・ドンシクを破り、2回戦ではヒカルド・アローナと対戦。タックルをパワー差で切られるとガブりの体勢からアローナに膝蹴りを貰い続け、2R終了時には顔面は鮮血に染まり変形していた。自力で起き上がることもできず、タオルが投入された。この試合を契機に主戦場としていた「ミドル級(-93kg)」は桜庭の適正体重に比べて重すぎるので「ウェルター級(-83kg)」に転向すればいいのではないのか、というファンや関係者からの声があがった。だが本人は「ミドル級より軽い階級には興味はない」と語っていた。
2005年8月、シュートボクセ・アカデミーに出稽古のためブラジルに渡航している。PRIDE.30においてケン・シャムロックをシュートボクセ仕込みの打撃でKOした際は、アカデミー会長のフジマールと抱きあって共に勝利を喜んでいる。
2006/3/31、8年2か月所属した高田道場を退団。フリーランスとなり、高田道場時代の後輩の豊永稔、高橋渉、佐藤豪則と行動を共にする。
HERO'S
2006/5/3のHERO'Sにおいて、タイガーマスクを被りリングに登場。翌日に会見し、正式にHERO'Sへの参戦を表明した。なお、HERO'Sへの移籍表明の後、高田延彦から「彼とはもう酒も食事もすることは無い」と事実上の絶縁状を叩きつけられた。高田は絶縁の理由として、移籍そのものが原因ではなく、前もってではなく、移籍表明の後に挨拶に現れた桜庭について「筋が通っていない」とし、同時にPRIDEとK-1が敵対していた関係上、PRIDE統括本部長の役職を務めていた自らがHERO'Sの選手と親しくすることは立場上出来ないことを説明した。
HERO'Sではそれまで各ラウンドを5分で行っていたが、桜庭の要求に伴い、桜庭の階級である85kg級のライトヘビー級だけがPRIDEと同じく1R目を10分という変則的な形のルール変更が行われた。
2006/8/5に行われたケスタティス・スミルノヴァス戦において顎を打ち抜かれ半失神状態にまで追い込まれたが、ガス欠を起こしたケスタティスに執念の打撃を浴びせた後、腕ひしぎ十字固めで勝利した。試合中に桜庭は殴り倒されて意識が朦朧となるが、レフェリーはこの状態をダウンと取らず、ドントムーブから試合再開。この判断が物議を醸した。10/9の準決勝で秋山成勲との対戦が決定するも、9月25日の練習中に嘔吐し、検査の結果、脳には異常が無かったが、椎骨脳底動脈血流不全と診断され、欠場となった。
2006年12月31日、K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!のメインイベントで改めて秋山成勲と対戦。秋山の打撃のラッシュを浴び、上からパウンドをもらい続け、1R5分37秒TKO負けとなった。しかし、桜庭は試合序盤タックルに行った際に秋山の足が滑ると感じ、レフェリー梅木良則にタイムを要求したが受け入れられず、その後は秋山の打撃を一方的に浴び続けた。パウンドを浴び続けている間も桜庭はレフェリーに「滑る!」「反則だよ!」とアピールしたが受け入れられなかった。結局秋山のパウンドを受け続けている状態が危険と判断され、ゴングが鳴らされTKO負け(レフェリーのストップが先ではなく審判長によるストップ)となるも、桜庭は試合が止められた後も秋山を指さし、「すごい滑るよ!」などと怒りを露にした。数日後、秋山が試合前に全身にスキンクリーム(米国製)を塗っていた事実が明らかにされ、この試合は秋山の反則行為によりノーコンテストとなった。
2007/3/12、HERO'S開幕戦でユーリー・キセリオから一本勝ちをとった試合後のMCで大晦日の試合内容には一切触れず、ファンに対しての謝罪にとどまった。
2007/4/8、PRIDE.34のリング上にタイガーマスクの覆面姿で登場し、同時に田村潔司もスーツ姿で登場した。この日がDSE代表として最後の興行となった榊原信行の夢のカードであったという田村との対戦を示唆した。
2007/6/3、Dynamite!! USAでホイス・グレイシーと再戦。0-3の判定負けを喫した。リベンジを許してしまった。
2007/8/28のHERO'S記者会見において、7月16日の大会で現役復帰を表明していた船木誠勝に「桜庭選手と試合をしてみたい」と対戦要求を受けた。
2007年9月頃に高橋渉、佐藤豪則らと自らのチーム「チーム桜畑」を結成。9/17のHERO'Sで、「チーム桜畑」vs田村潔司のジム「U-FILE
CAMP」の対抗戦も行われた。自らは柴田勝頼と対戦。テイクダウンを奪うとパウンドを連打し、最後は腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。試合後、リング上で「次、船木さん試合お願いします」と船木の対戦要求に応え、更にリングサイドで観戦していたヒクソン・グレイシーに「お兄さん、そろそろ僕らも年なんで試合お願いします」と対戦を呼びかけた。
2007年12月31日、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!のメインイベントで船木誠勝と対戦し、チキンウィングアームロックで一本勝ち。
2008/4/1、東京都品川区に自身の総合格闘技ジム「Laughter7」をオープン(「桜畑道場」としての仮オープンは2007年12月3日)。
DREAM
2008/4/29、DREAM.2のミドル級トーナメント1回戦でアンドリュース・ナカハラと対戦し、フェイスロックで一本勝ち。6/15、DREAM.4の2回戦でメルヴィン・マヌーフと対戦し、TKO負け。序盤のマヌーフのハイキックを受けた際に左腕尺骨を骨折した。
2008年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2008〜のメインイベントで田村潔司と12年半ぶりに対戦し、判定負けを喫した。ちなみに、この時の入場では、仮面ライダーをモチーフとした入場がされた。
2009/10/6、DREAM.11で現役プロボクサールビン"Mr.ハリウッド"ウィリアムズと対戦し、アームロックで一本勝ち。大会3日前の10/3に出場が発表されるという緊急出場となった。
2009/10/25、DREAM初のケージ開催となったDREAM.12に連続参戦。ゼルグ・"弁慶"・ガレシックと対戦し、膝十字固めで一本勝ちを収めた。
2009年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜の開会式にエヴァンゲリオン初号機仕様のマスクを被って登場し、開会宣言を行った。この日に向けて三崎和雄戦も検討されていたが「試合ができるコンディションではない」として欠場。2008年まで4年連続で大晦日興行のメインイベンターを務めていたが、試合への出場はなかった。
2010/5/29、ケージ開催となったDREAM.14でハレック・グレイシーと対戦し、0-3の判定負け。
2010/9/25、DREAM.16でジェイソン・"メイヘム"・ミラーと対戦し、パウンドから肩固めを極められ、2分9秒でタップして一本負け。生涯初の一本負けとなった。
2010年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜でDREAMウェルター級王者マリウス・ザロムスキーに挑戦し、右耳の裂傷によりドクターストップ負けとなり王座獲得ならず。試合後、応急処置を受けたのちにリング上で「すいません、耳がとれちゃいました」と挨拶した。なお、階級をウェルター級に落としたため、プロ初の大幅減量となった。
人物・エピソード
- イメージカラーはオレンジ。UWFインターナショナルとキングダムで先輩だった垣原賢人からたまたま借りたオレンジ色のコスチュームが似合っていたため、以後、スパッツなどでオレンジ色を愛用している。自身のジムのLaughter7のリングもオレンジ色のマットを使用している。
- 阪神タイガースの下柳剛投手とは親友で、プロ野球のオフシーズンには自主トレーニングに桜庭が同行するなど多方面で交流がある。彼がセコンドに付くこともある。
- 喫煙者。
- 天田ヒロミは中央大学の後輩にあたる。
- 故郷に里帰りした際、母親が自分の試合を観た経験が無いことが判明。桜庭は「自分の息子の仕事くらい憶えといてよ」と苦笑交じりに駄目出ししていた。
- あるアーティストの音楽に嵌るとそればかり聴き続けるという傾向がある。しかし何か特定の音楽ジャンルが好きというわけではなく、BOØWY、その前は石原裕次郎、さらにその前はデッドオアアライブと多岐にわたっている。
- 海外遠征の際にDVDに録画して持って行くほど、タモリ倶楽部「空耳アワー」の愛好者。
獲得タイトル
- 東日本新人戦 優勝
- 全日本学生レスリング選手権 第4位
- UFC-JAPAN ヘビー級トーナメント 優勝
- プロレス大賞 最優秀選手賞(2000年)
PRIDE GP2000 第3位
メディア出演
コマーシャル
- 協和醗酵工業「スーパーレモン」
- キリンビール「ラガービール」
- オリコ「オリコカード」
- リクルート「フロム・エー」
- 東洋水産「緑のたぬき」
- トクホン「トクホンVダッシュ」
- マクセル「DVD-R」
- 宝酒造「ジパング」
- ユニクロ
- ドワンゴ「いろメロミックス」
- サミー「北斗の拳SE」
- 資生堂「uno」
自重堂 「Jawin」イメージビジュアル。
テレビ
- 「39 LOVER'S」(さくらばーず)(東海テレビ)
- 格闘技の選手としては異例の、レギュラーの冠番組。2001年1月9日 - 3月27日(全12回)、毎週火曜21:54 - 22:00。提供はスクウェア。団体ではなく、格闘技の選手個人のみにスポットを当てた中京広域圏ローカルのミニ番組。
- プロフィール、得意技、人柄など「桜庭和志とは一体何者なのか?」という、云わば「桜庭和志徹底解剖」といった趣の内容であった。
パチスロ
著書
- 『凄技 プロレスラー桜庭和志の反常識技術講座』(ベースボール・マガジン社、1999年7月)
- 『ぼく。―桜庭和志大全集』(東邦出版、2000年4月)
- 『格闘ボーダレス―最強を決める男たちの証言!』(ソフトガレージ、2000年5月)
- 『桜庭和志のギミック―これが桜庭流PRIDE必勝法だ』(学習研究社、2000年12月)
- 『さくぼん―桜庭和志公式マガジン』(ダブルクロス、2001年5月)
- 『Comic&Document 桜庭和志』(講談社、2001年7月)
- 『まるごと桜庭和志―ゴング格闘技1999-2001編』(日本スポーツ出版社、2001年10月)
- 『WORKS―Special edition』(フォーブリック、2001年12月、共著)
- 『帰ってきたぼく。』(東邦出版、2002年8月)
- 『ぼく…。』(東邦出版、2007年6月)
- 『独創力。』(創英社、2009年11月)
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