トリプルH
Triple H
1969/7/27
(、本名:ポール・マイケル・レヴェック(Paul Michael Levesque)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。
WWE所属。正式のリングネームはハンター・ハースト・ヘルムスリー(Hunter Hearst
Helmsley)だが、頭文字をとってトリプルHと略して表記、呼称される(J
SPORTSのWWE系番組の字幕では、HHHと表記されていた)。ニューハンプシャー州ナシュア生まれ。公式プロフィールではコネチカット州グリニッチ出身。
D-Generation
X後期、2000年夏頃、2002年前半(大腿四頭筋断絶による長期欠場から復帰した直後)などの一時期を除いては、一貫してヒールレスラーであり、ヒールにとっては勲章とも言える観客から浴びるブーイングは他のレスラーと比べ物にならないほど多かった(そしてまた、その裏に込められた賞賛の意も)。現在はWWEのトップベビーフェイスの1人である。レスラーとしての実力も当然一級品でリック・フレアーの後継者を自認しており、特に相手の技を受けた時の動き(受身)にはついては「芸術」とも評される。 ニックネームは「残忍な知能犯
or 知的な暗殺者 (Cerebral Assassin)」「ザ・ゲーム (The Game)」「王者の中の王者 (The
King of Kings)」など。
来歴
初期
1986年に高校 (Nashua High School) 卒業後、地元のスポーツジムにトレーナーとして就職。共同マネージャーにまで出世する一方、14歳から始めたボディビルディングに努め、1988年にはアマチュア・ボディビルディングのタイトルである「ティーンエイジ・ミスター・ニューハンプシャー」を獲得した。
1992年からキラー・コワルスキーのもとで修行。プロレスのトレーニングを開始して3週間後の同年3月、コワルスキー主宰のインディー団体IWFでテラ・ライジング
(Terra Ryzing) のリングネームでデビューし、半年後には同団体の王座を獲得した。
1994年からはWCWに所属。登場当初はIWF時代と同じくテラ・ライジングの名義でリングに上がっていた。その後、没落したフランス貴族の末裔と称し、リングネームをジャン=ポール・レヴェック
(Jean-Paul Levesque) と改名。英国貴族を称する"ロード" スティーブン・リーガル(現ウィリアム・リーガル)とタッグチームを結成し、ヒールのポジションで頭角を現した。なお、フランス貴族のキャラクターは、彼の本名
"Levesque" がフランス系の名前だったことに起因している。
同年12月には年間最大のPPV『スターケード』にも出場し、第2試合でアレックス・ライトとのシングルマッチが組まれた。また、リーガルとのコンビでWCWタッグ王者となる路線も用意されるなど、WCWでの出世の道も開かれつつあったが、WWF(現:WWE)のトライアウトを受けて合格し、翌1995年からWWFに移籍した。
WWF/1995-2001
WWFでは1995年5月に、コネチカット州の似非貴族のギミックでデビュー。リングネームもハンター・ハースト・ヘルムスリー
(Hunter Hearst Helmsley) に改名した。当初はアーカンソーの養豚農夫をギミックにしていたヘンリー・O・ゴッドウィンと抗争を展開。試合中に豚の餌を頭からぶちまけられたり、会場内に特設された豚小屋で戦ったりと、現在では考えられないような汚れ役を演じていた。翌年のWrestleMania
XIIではアルティメット・ウォリアーの対戦相手としてレッスルマニア初出場。バックステージではクリックのメンバーとなり、5/19のカーテンコール (Curtain Call) と呼ばれる事件をきっかけにマネージメントの怒りを買ったが、10月には初のIC王座を獲得。1997年、キング・オブ・ザ・リングでの優勝後、ショーン・マイケルズ、チャイナと共にD-ジェネレーションX(略称DX)を結成、一気にトップレスラーの仲間入りを果たした。略称のトリプルHで呼ばれるようになったのもこの頃からである。
翌1998年、WrestleMania XIV後、腰の負傷のためリングから離れなければならなくなったマイケルズに代わり、リーダーとなって第二期DXを結成(構成メンバーはチャイナ、Xパック、ビリー・ガン、ロード・ドッグ)。その後、DXは次第にベビーフェイス的人気を得るようになったが、トリプルH自身はDXの事実上の解散を期に1999年にヒールに転向、WWF世界ヘビー級王座戦線に参入してライバルザ・ロックらとの抗争に入る。8/23にはマンカインドを下しWWF世界ヘビー級王座を初戴冠。WWF社長ビンス・マクマホンと抗争を開始し、彼に王座を奪われるも王座決定戦を制し奪回に成功。11/14"ビッグ・ショー"
ポール・ワイトによって再び王座から陥落するが、11/29、まだ清純派だったステファニー・マクマホンとストーリー上強引に結婚し、ビンスとの遺恨をさらに深める。翌月ステファニーが父を裏切りトリプルHと組んだことで、いわゆる「悪の夫婦」が誕生しWWFにおける支配体制を確立した。2000年1月ビッグ・ショーを下し王座を奪回、2月にはカクタス・ジャックとしてのフォーリーをハードコア戦で激闘の末退け防衛、WrestleMania
2000のメインイベントでもWWF女子王者となったステファニーと共にロック、フォーリー、ビッグ・ショーの4人を相手に王座を守り切った。その後も勢いは止まらず王座を巡りロック、更には妻ステファニーの『不倫相手』カート・アングルと激しい抗争を展開、9月からはもう一人のWWFの絶対のヒーロー、ストーン・コールド・スティーブ・オースチンとの抗争を繰り広げ、2001年のスリー・ステージ・オブ・ヘル戦ではWWE史に残る名勝負を演じた。WrestleMania
X-Sevenでは前年5月以来の因縁を引きずるジ・アンダーテイカーに挑戦して敗れるも、これは名勝負揃いの同大会中でも出色の試合であった。しかし完全にWWFの顔となり全てがうまく行っているかに見えたが、5/21のRAWにてオースチンとのタッグでクリス・ベノワ&クリス・ジェリコ組を相手にタッグ王座の防衛戦中、左脚の大腿四頭筋を断裂する重傷を負い、長期欠場を余儀なくされた。
2002-2006
2002年1月、ロイヤルランブルのロイヤルランブル戦で復帰、優勝を果たしWrestleMania X8での王座挑戦権を獲得。2月には遂にステファニーと『離婚』し、レッスルマニアでは彼女と組んだクリス・ジェリコを下し、WWF統一ヘビー級王座を獲得。同年のブランド分割時には王者であったためどちらの番組にも属さず、7月にショーン・マイケルズの誘いでRAWを選択する。後日、マイケルズからDXの再結成を持ちかけられるが、突如彼に襲い掛かると絶縁を宣言、サマースラムではマイケルズの復帰戦の相手を務めた。翌日のRAWでアンダーテイカーを下しWWE王座への第一挑戦者権を獲得したが、WWE王座がスマックダウンの管轄になったために、9/2エリック・ビショフからWCW王座の系譜を汲む新設の世界ヘビー級王座初代王者に認定される。以降は同王座戦線の絶対的な主役として脅威の強さを見せる。
2003年、リック・フレアー、バティスタ、ランディ・オートンと共にヒールのユニットとして自らの派閥エボリューションを結成。しかし若手の2人が相次いで怪我で長期欠場したため、すぐにフレアーと2人で行動することになった。RAWでの中心的存在であり続けたが、この頃はどちらかといえば不遇の時期であるといえる。というのはスコット・スタイナー、ブッカー・T、ケビン・ナッシュやゴールドバーグ等元WCWのメインイベンターたち、タイプ的には不器用な選手ばかりが相手であり、彼の技術を持ってしても名勝負は生まれなかった。アンフォーギヴェンで一旦ゴールドバーグに王座を奪取されるが、バティスタとオートンの復帰と時を同じくしてアルマゲドンのトリプルスレット戦で再び王座に就く。
2004年、久々の技巧派との抗争になるショーン・マイケルズとの抗争が復活し、さらにWrestleMania XXでクリス・ベノワに敗れて王座を手放してからはベノワとも抗争を開始。しかしマイケルズと争って王座を自分の手で取り返す前にサマースラムでエボリューションのメンバーのオートンがベノワに勝利し王座戴冠となる。この事からオートンに嫉妬し(実際はオートンが単独で売り出せるまで成長した為)エボリューションから追放。以降はエボリューションとオートン、ベノワ、ジェリコ等ベビーのスーパースター軍との抗争がRAWのメインストーリーとなる。
2005/2/4のさいたまスーパーアリーナ大会ROAD TO WRESTLEMANIA 21 JAPAN TOURで、メインの世界ヘビー級選手権試合でエッジの挑戦を退け、試合後、「お前達(ファン)がWWEだ」というメッセージを残し、大会を締めた。さいたま大会以降、ロイヤルランブルで優勝したバティスタを脅威と感じ、SmackDown!へ移籍させようと画策したが、それに気づいたバティスタに造反され、(これもオートンと同じケースでバティスタが単独で売り出せるまで成長した為)WrestleMania
21で対戦。WrestleMania 21でバティスタに王座を奪われた後もバックラッシュ、ヴェンジャンスで再挑戦するがいずれも敗北。以降長期休養に入り、またフレアーもベビーターンしたためエボリューションは活動を終了した。10月のWWEホームカミングにてフレアーとのタッグで復帰。しかしフレアーに牙を向き抗争を開始。タブー・チューズデイでは敗れたが、翌月に行われたサバイバー・シリーズでのラストマン・スタンディング・マッチでは、勝利を収めた。ニュー・イヤーズ・レボリューションでビッグ・ショーに勝利した後、RAWで数週間に渡って開催されたWWE王座挑戦者決定トーナメントで優勝しWrestleMania
22でジョン・シナと対戦するが敗れる。その後バックラッシュでシナ、エッジとのトリプルスレット戦で再挑戦したが、ここでも敗れた。
D-X再結成
WrestleMania 22でのシナとの王座戦ではD-Generation Xのポーズ(DXチョップ)を取り、同大会でビンス・マクマホンと対戦したショーン・マイケルズもDXチョップを行った為、第三期D-Generation
X結成の噂が流れた。WrestleMania 22以降のRAWでもマイケルズと抗争しているビンスとの確執が見え始め、特別レフェリーを命じられた試合でレフェリーを放棄し、その後マイケルズが代理のレフェリーとして登場する等数々の伏線が張られた後、ヴェンジャンスでついに第三期D-Generation
Xが結成された。
復活後は再結成の発端となったビンスに標的を定め、ビンスの息子のシェイン・マクマホン、スピリット応援団、さらにビンスがECWから呼び寄せたECW世界王者のビッグ・ショーとの抗争を開始。サマースラムでビンス親子との直接対決で勝利し、続くアンフォーギヴェンで史上初となるハンディキャップ形式ヘル・イン・ア・セルでビンス親子&ビッグ・ショーとの2対3の苦しい戦いを強いられたが、大流血戦の末にビンスをピンフォールし、抗争は決着した。
その後10/2のRAWでWWE王者ジョン・シナ対エッジの王座戦に乱入し妨害した事でエッジが激怒。「DXを排除する」という共通目的の下結託したエッジ&ランディ・オートンの新タッグ「Rated-RKO」との抗争に突入した。サイバー・サンデーではエボリューション時代に共謀していた元RAWGMのビショフがスペシャル・レフェリーとなったが、ビショフはRated-RKOに加担し、結果スティール・チェアー上にオートンのRKOを受けて敗北。サバイバー・シリーズではトリプルH、マイケルズ、ハーディー・ボーイズ、CMパンクからなるTeam
D-Generation Xで、Team Rated-RKOとの伝統の5対5エリミネーション・マッチに挑み史上初のスイープを達成した。しかし年明けのニュー・イヤーズ・レボリューションにて、Rated-RKOとの世界タッグ王座戦中に今度は2001年とは逆の右脚の大腿四頭筋を断裂する重傷を負ってしまい以降長期欠場に入る。(状況を察知したマイケルズの判断で試合はノーコンテストに)。
2007-2010
夏頃からトリプルHの復帰告知がされ始め、これにキング・ブッカーが反感を示しサマースラムにて『"King"の称号を巡り』トリプルH対キング・ブッカーの復帰戦が行われた。観客からは大歓声で迎えられ、DXチョップからのペディグリーで勝利し『王者の中の王者』としての貫禄を示した。その後ウマガとの抗争の後ノー・マーシーの第1試合でランディ・オートンとのWWE王座戦に挑み勝利、2年半ぶりの王座を手にする。第4試合でのウマガとの試合では王座を防衛。しかし最終試合でのオートンとのラストマン・スタンディング形式での再戦に敗れ数時間で王座を手放す。
2008年、2月のノー・ウェイ・アウトのチェンバー戦に勝利し、WrestleMania XXIVではオートン、ジョン・シナとの3つ巴のWWE王座戦に挑むが勝利を逃す。翌日のRAWではリック・フレアーの引退式のプレゼンターを演じた。4月のバックラッシュにてオートン、シナ、JBLとのフェイタル4ウェイ・エリミネーション形式王座戦を制し12度目の王座を獲得。その後行われたドラフトによって2ブランド制以降初めてスマックダウンへと移籍が決定。シナとのナイト・オブ・チャンピオンズでの防衛戦に勝利したため、WWE王座と共に移籍となった。
スマックダウン移籍以降は主にエッジなどと抗争。11月のサバイバー・シリーズではジェフ・ハーディー、ウラジミール・コズロフと三つ巴のWWE王座防衛戦の予定が、当日ジェフが何者かの襲撃に遭い病院へ搬送されたため試合開始から暫くコズロフとシングル戦で対決。しかし勝利目前でヴィッキー・ゲレロが現れサマースラムにおいてジ・アンダーテイカーに火葬されて以降姿を消していたエッジを参戦させ、更に病院に搬送されたはずのジェフも乱入。そしてジェフがエッジに放ったイス攻撃がトリプルHに誤爆してしまい、これが原因でエッジにWWE王座を奪取された。アルマゲドンではエッジ、ジェフとの三つ巴のWWE王座戦で王座奪還を狙うも、ジェフの初載冠を許した。
2009年に入り、ロイヤルランブルではレガシーの援護もあったランディ・オートンに優勝を譲るが、その後のノー・ウェイ・アウトでエリミネーション・チェンバー・マッチで13度目の戴冠となるWWE王座を獲得。時を同じくしてマクマホン家と抗争中だったオートンがステファニー・マクマホンを攻撃するに及んで、ついにストーリー上では離婚したとされていたステファニーとの夫婦関係を明らかにし、WrestleMania
XXVでの対決を宣言、これに勝利し王座を防衛した。4月のドラフトでWWE王者のままRAWへ復帰。移籍後もオートンと抗争を続けるが4/26のバックラッシュでのオートン&レガシー対トリプルH&バティスタ&シェイン・マクマホンの変則WWE王座戦にてオートンのパントキックを受け王座陥落、休場に入る。その後6月に復帰、オートンにレガシーの介入で敗れてからは王座戦線から離れショーン・マイケルズとD-ジェネレーションXを再結成、レガシーのテッド・デビアスJrとコーディ・ローデスにターゲットを変更する。この抗争はヘル・イン・ア・セルで勝利し決着した。またこの頃DXグッズに身を包みDXの真似事をするホーンスワグルを煙たがっていたが最後には根負けしホーンスワグルをDXの公式マスコットとした。12月のTLC:テーブルズ・ラダーズ・アンド・チェアーズではクリス・ジェリコ&ビッグ・ショーに勝利し統一タッグ王座を獲得。
2010年、マイケルズがレッスルマニアでのジ・アンダーテイカーとの再戦に固執し始めたことでチームワークが乱れ始め、2月のRAWではマイケルズとの連携ミスでタッグ王座を失う。その後マイケルズとは和解しテイカーへの挑戦に理解を示した。エリミネーション・チェンバーではWWE王座奪回に挑むが敗れる。この試合でトリプルHにより敗退させられたシェイマスとの遺恨でWrestleMania
XXVIで対決し勝利。翌日のRAWではテイカーに敗れ引退が決まったマイケルズのスピーチに現れ抱擁し、長年の親友を送り出した。その後4月のエクストリーム・ルールズでのシェイマスとの再戦にて頭部に5発のブローグ・キックを受けるなど猛襲に遭い長期離脱に入った(実際には首の手術、古傷である腿の治療、映画の撮影、ステファニーの出産、将来の舞台裏やクリエイティブチーム本格参加のための勉強など多くの要因が絡んだ休場であり、サマースラムでの復帰も予定されていたようだが、ダニエル・ブライアンに自らのポジションを譲り復帰は延期となったようである)。
10/30のRAW、SD共催"Fan Appreciation Day"では、一夜限りで復活。アルベルト・デル・リオにペディグリーを与え変わらない強さを見せつけた。その後も基本的にバックステージには居るがショーへの復帰はしないまま年を越した。
2011-
2011/2/21のRAWにて「2.21.11」のプロモーションを行い大々的に復帰したジ・アンダーテイカーの入場直後に突然登場し電撃復帰を果たす。そのままテイカーと対峙しレッスルマニアでテイカーの連勝記録への挑戦が決定した。翌週には長期離脱の原因となったシェイマスを実況席貫通のペディグリーでKOし貫禄を見せた。WrestleMania
XXVIIでのテイカーとの一騎打ちでは客席からブーイングが起こるほどの激しい攻めでテイカーを圧倒するものの、最後はヘルズ・ゲートの前にギブアップ負けを喫し、連勝記録を止めることはできなかった。
4/26、WWEの新ブランド戦略の一環として発足したタレント開発部門の統括に就任。リング上での活動は大幅に減少するものと思われる。
バックステージ
DXの仲間であったチャイナとはプライベートで恋人同士であった。チャイナは2人が婚約していたと主張し、トリプルHがドラマ上で夫婦を演じていたステファニー・マクマホンが彼を奪ったのだと非難したが、実際には、トリプルHとチャイナは2000年には既に破局を迎えていた(2000年出版のチャイナの自伝「If
They Only Knew」にトリプルHとの破局が既に書かれている)。ステファニーとトリプルHが現実に恋愛関係に発展したのは2001年以後である。トリプルHはストーリー上では2002年に離婚したステファニーと実際に2003年秋に結婚。マクマホン・ファミリーの一員となったことで、WWE幹部としてプロデューサーも務めるようになった。
スマックダウンのジ・アンダーテイカー同様、RAWのバックステージではボス格(選手会長的な立場)として知られている。後輩の面倒見もよいが、彼に「戦いたくない」と嫌われるとWWEでの出世の道は断たれるという説もある。現にビリー・ガンがTNAImpact放送中に(比喩を使っているものの)D-Xの有り方について批判している。
ベテランとなった現在では若手を熱心に指導しており、シェイマス、ドリュー・マッキンタイア、エヴァン・ボーンなど現在WWEで若手に活躍の場が多く与えられているのは彼の影響があると考えられる。
非常に高いプロ意識を持っていることでも有名。育成企画のタフイナフにおいて自身の業界への愛情を候補生たちに熱く語っており、その中で部屋にビル・ゴールドバーグのポスターを貼った候補生とゴールドバーグについて「この業界は楽じゃない。腹が痛かろうが、爪が痛かろうが絶対にリングに上がらなくてはいけないんだ。トップレスラーでありながら三ヶ月休む時間が必要だ、ストーリーラインが気に入らないからTVショーにも出ないなんてことを平気で言う奴を尊敬する奴はこの団体にはいらない」と激しく非難している。
タイトル履歴
WWF/WWE
- WWE王座:8回
- 世界ヘビー級王座:5回
- IC王座:5回
- WWE・ヨーロピアン王座:2回
- WWFタッグ王座:1回(w / ストーン・コールド・スティーブ・オースチン)
- 統一タッグ王座:1回(w / ショーン・マイケルズ)
- 2002年ロイヤルランブル優勝
- 1997年キング・オブ・ザ・リング優勝
- グランドスラム達成(2001年)
IWF
- IWFヘビー級王座:1回
- IWFタッグ王座:1回(&ペリー・サターン:1回)
その他
- 2000年、2009年、PWI500(ProWrestlingIllustrated誌が選ぶプロレスラーベスト500)で1位に選出。
- 2001年、タッグ王座獲得を以て、ショーン・マイケルズに次ぐ二人目のグランドスラム(ヘビー級関連王座全制覇(当時は、ヨーロピアン王座、IC王座、WWF王座、WWFタッグ王座))を達成。
- 2003年、初来日。
- 2004年、ビリー・グラハム("Superstar" Billy Graham)のWWE殿堂入りに際し、盾を授与するプレゼンターを務めた。
- 2004/12/8、初出演映画「Blade Trinity(邦題「ブレイド3」)」が 全米公開。
- DVD・VHS日本語版の吹き替えは蝶野正洋(新日本・当時)が担当。
- 2004年末、初の自著 Making of the Game 発売。
- 2009年にWWE日本公演のプロモーションで来日。その際に「MTV Video Music Awards Japan」にゲスト出演して「最優秀映画ビデオ賞」のプレゼンターを務めた。
- 2011/2/14、初主演映画「The Chaperone」公開。銀行強盗による服役を終えたムショ帰りの父親役。心を入れ替えて、10代の娘との絆を取り戻すファミリーコメディ。
特記事項
- 入場時に行う「ペットボトルの水を口に含み、頭上に吹き出す」行為を、トリプルH自身は "spritz" と呼んでいる。彼自身が大ファンである「グレート・ムタ」の毒霧を参考にして思いついたらしい。
- 入場時に「コネチカット州グリニッチ出身」とコールされるのは、似非貴族ギミック時代の名残。
- ショーン・マイケルズ、ケビン・ナッシュ、スコット・ホール、ショーン・ウォルトマン(1-2-3キッド、Xパック)とは団体の垣根を超えた親友の間柄にあり、正式なユニットではないが「KLIQ」(クリック)と呼ばれる。
- トリプルHは長年、イギリスのロックバンド「モーターヘッド(Motörhead)」のファンであり、彼の入場テーマ“The Game”、エヴォリューションのテーマ“Line
in the Sand”、そして新しいテーマ曲“The King of Kings”はこのバンドの曲である。
- 某誌のインタビューで、AWAの帝王であったニック・ボックウィンクルのスタイルをモチーフにしていると語っていた。
- (出演CMで示されたデータによれば)、腕周り56cm、腿周り71cm、胸囲142cm、胴回り89cmらしい。
- ハーストはウィリアム・ランドルフ・ハースト、ヘルムスリーはレオナ・ヘルムズリーのアメリカで最も嫌われている資産家両名から拝借したもの。ハンターには利を漁る者という意味がある。
入場曲
- Break It Down (The DX Band)
- My Time (The DX Band)
- Higher Brain Pattern
My Timeのインストルメンタル版
- The Game (Motörhead)- 現在使用中
- The Game (Drowning Pool)
- Line in the Sand (Motörhead)
- King of Kings (Motörhead)
- The Game: イントロ部分がKing of Kings
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