秋山 成勲
1975/7/29
旧名:秋 成勲(チュ・ソンフン、ハングル:추성훈)は、総合格闘家。元柔道家(三段)。大阪府大阪市生野区出身。クラウド秋山道場主宰。妻はモデルのSHIHO。
在日韓国人四世として生まれ、後に日本国籍を取得した。ニックネームは「反骨の柔道王」、「魔王」」「ヌル山」。大晦日の桜庭戦の反則から、やれんのか!では「反骨の柔道鬼」と紹介された。
来歴
出生から柔道家時代まで
父親の影響で、3歳より柔道を始める。清風高校から近畿大学へ入学。
大学卒業後、韓国へと渡り、市役所に勤務しながら韓国代表としてオリンピック出場を目指した。しかし、僑胞への差別は激しく、韓国代表となることを断念して、2001年9月日本へ帰国、日本国籍を取得し現在の本名・秋山成勲に改名する。平成管財へ入社し、柔道81kg級で活動した。
日本に帰化し、釜山アジア大会に出場・優勝した際、韓国のマスコミに対し「柔道のために日本国籍を取りはしたが、私は永遠に韓国人だ。私を声援してくれた同胞たちに感謝する」とインタビューに答え、かえって韓国のマスコミの批判・バッシングを受ける結果となった。
2004/4/4、全日本選抜柔道体重別選手権大会(兼アテネオリンピック代表最終選考会)男子81kg級の準決勝で塘内将彦に優勢負けし、アテネオリンピック代表を逃した。これがきっかけとなり、5月には平成管財を退社、7月には全日本柔道連盟の強化選手指定を辞退した。
プロ格闘家への転身
2004年7月からフリーのプロ格闘家として活動。
2004年12月31日、K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!でプロ格闘技デビュー。1R、腕ひしぎ十字固めでフランソワ・"ザ・ホワイトバッファロー"・ボタに勝利。
2005/3/26、HERO'Sに初参戦し、K-1ファイターのジェロム・レ・バンナと対戦。左膝蹴りでKO負け。試合後、「あまりにも体重差がありすぎた。体幹の太さが違う」と振り返った。
2005/10/12、K-1 WORLD MAX 2005のスペシャルマッチ(総合格闘技ルール)でマイケル・ラーマと対戦、パウンド攻撃のラッシュで1R2分47秒、TKO勝利。
2005年12月31日、K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!でホイス・グレイシーと対戦予定であったが、12月上旬にぎっくり腰およびヘルニアを発症し欠場となった。
2005/11/5、HERO'S 2005 in SEOULに参戦。「韓国軍 vs. 世界連合軍」をテーマに開催された同大会に韓国軍の大将としてメーンに登場し、奥田正勝と対戦。1R、バスターからのパウンドで失神KO勝ち。なお、フィニッシュとなったパウンドで奥田の前歯を折った。
2006/8/5、HERO'Sライトヘビー級トーナメントに参戦。1回戦で総合ルールデビューとなる元K-1戦士金泰泳と対戦。腕ひしぎ十字固めで
レフェリーストップ勝ちを収めるも、金から「タップしていない」というクレームがついた。試合後、「ファンからのブーイングをもらったのは仕方ない。(腕
ひしぎ十字固めを)自分がやっていた時は音がなっていたんで、正しいレフェリングだったと思います。もちろん完全燃焼はしていない」と語った。しかし後
日、協議の結果、レフェリングミスが認められ、レフェリーストップまでの判定による判定勝ちに変更された。
2006/10/9、HERO'Sライトヘビー級決勝トーナメント準決勝でケスタティス・スミルノヴァスをハイキックからのパウンドでKO勝ち、決勝ではメルヴィン・マヌーフを腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。HERO'Sライトヘビー級王座に就いた。試合後のマイクアピールで、「チャンピオンになってしまいました。桜庭さん、じっくり治して、大みそか。このHERO'S、柔道最高!」と発言した。
2006年12月31日、K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!のメインイベントで桜庭和志と対戦。レフェリーストップで1R TKO勝利。試合後はセコンドについた清原和博と抱き合い勝利を喜んだ。後日、秋山の悪質な反則行為(本稿#不正および疑惑参照)が発覚し、2007/1/11付けで試合結果はノーコンテスト扱いとなり、FEG主催大会への無期限出場停止の処分を受けた。
2007/10/1、HERO'Sの記者会見が韓国で開かれ、出場停止処分の解除が発表された。
2007/10/28、HERO'S KOREA 2007でデニス・カーンと対戦し、右アッパーでKO勝ち。試合後、マイクを持った秋山は韓国語で「いろいろありましたけど、国民一人一人の力によって戻ってこれることができました。我が国、大韓民国、最高!」とアピールし、観客の拍手を浴びた。
2007年12月31日、「やれんのか! 大晦日! 2007」で三崎和雄と 対戦。大会前日に新宿で行われた公開記者会見でも、入場時にも大ブーイングを浴びた。右ストレートで三崎からダウンを奪うも、持ち直した三崎の左フックで
倒され、起き上がろうとしたところに右キックを受け1R8分12秒KO負け。三崎は試合後のマイクアピールで「オレはお前を許さない」「お前の心が俺にも
届いた」と批判とエールを込めた発言をし、マットに正座をして秋山に礼をした。試合後に直行した病院での検査で、鼻骨骨折と左膝の内側側副靭帯損傷と診断された。なお、桜庭戦以降、秋山のショーツに広告は付いていなかったが、NIKE・週刊TVガイドなどの広告があった。
「やれんのか!」でのフィニッシュとなったキックが4点ポジション時に受けたものだとして、2008年1月9日付けで主催者に抗議文を提出した。1月22日、三崎のキックがルールに抵触していると判断され、試合結果はノーコンテストに変更となった。
2008/2/13、DREAMの記者会見に参戦予定選手として出席。同会見で流された佐藤大輔作成の煽りVの中では「秋山"SATAN"成勲」と紹介された。DREAMミドル級GPに参戦予定であったが、大晦日に骨折した鼻骨を再度骨折し、欠場となった。
2008/4/17に韓国で発売されたオムニバスアルバム『08恋のソナタ』に歌手として参加し、パク・サンミンの『一つの愛』を収録した。6月7日にはソウル蚕室メイン競技場で開催された「2008ドリームコンサート」に出演した。また、KIAやHITEビールなどのCMに起用されるなど韓国で芸能活動を行っており、日本のマスコミからのインタビューで「(気分は)韓国のマイケル・ジャクソン」と発言した。
2008/7/21、DREAM初参戦となったDREAM.5で柴田勝頼と対戦し、袖車絞めで柴田を絞め落とし一本勝ち。この試合が地上波放送の瞬間最高視聴率13.7%を獲得(平均10.0%)。9/23のDREAM.6では外岡真徳に一本勝ちし、試合後のマイクでは「年末、吉田秀彦さんとやりたいです。自分の夢であり、越えなきゃいけない壁だと思っています。そのためにはいろんな方の力が必要です」とアピール。なお、青木真也の対戦要求については「リスペクトされるのは選手冥利に尽きますが、自分は今は吉田先輩しか見えていないです」とコメントし、青木は「自分の都合の良いように解釈されてますね」と苦笑していた。この試合が地上波放送の瞬間最高視聴率13.4%を獲得(平均9.0%)。
2008年12月31日に開催される「Dynamite!! 〜勇気のチカラ2008〜」にはオファーを受けていたものの、「今年の大晦日は辞めておきます」として欠場を表明した。また、秋山が希望するファイトマネーがK-1最高水準に達したことにより、FEGサイドとの関係も悪化。11月をもって契約が切れた。
2009/2/24、UFC公式サイトにて秋山と契約したことが発表された。3/3には日本で記者会見を開かれUFCと6試合契約をしたことが本人より発表された。翌4日には韓国でも記者会見が開かれた。韓国での会見にて「FEG側には強い相手との対戦を望んだのに、マッチメイクを実現してくれなかった。弱い相手と対決することを望むならDREAMに残っただろう」と批判した。しかし、秋山は自伝にて「総合ルールでジェロム・レ・バンナとのリベンジ戦か、バダ・ハリとの対戦を希望した」と明かしており、K-1ファイターであるバンナとハリは秋山が主戦場とする総合格闘技ルールの経験は浅く、ハリに至っては総合ルールの経験が一度しかなく勝ったことも無いため、客観的に見て強豪とは言えない。また、谷川貞治は格闘技専門誌等で「こちらはミルコ・クロコップや青木真也辺りと対戦してほしいとオファーしたが、秋山くんは自分よりも2階級も下で総合ルールの経験が一度も無い魔裟斗とK-1と総合のMIXルールで対戦したいと言ったり、高額なファイトマネーを要求したり、“強い相手と戦いたいからマッチメイク権を譲渡しろ”などと無理難題な要求をしてきた」と発言している。
2009/3/10、自身のサイトでSHIHOとの入籍を発表(入籍時期は同年1月)。5月には、東京都渋谷区広尾に自身の道場「クラウド秋山道場」が完成し、5/30に道場内覧会が行われた。
2009/7/11、UFCデビュー戦となるUFC 100でアラン・ベルチャーと対戦し、時折右フックを当てるが、ベルチャーのパンチとローキックをくらい続けるなど劣勢となる。結果は2-1の僅差判定勝ちとなったが、僅差の試合内容であったにもかかわらずジャッジの一人の採点が30-27のフルマークで秋山を支持という判定が指摘され、UFC社長ダナ・ホワイトを初めとして「ベルチャーの勝ちだった」との声も多く挙がった。この試合はファイト・オブ・ザ・ナイトに選ばれボーナス10万ドルを手にしたが、試合直後にはローキックのダメージで倒れこみ、さらに左目眼窩底と鼻骨を骨折し現地の病院で眼窩底の手術を受けた。
2009/9/1、「クラウド秋山道場」がグランドオープンした。10/18にはSHIHOとの結婚式を挙げた。
2010/7/3のUFC 116でヴァンダレイ・シウバとの対戦が決定していたがシウバが怪我で欠場し、代役として6/19に試合をしたばかりのクリス・リーベンと対戦。3R終了間際に三角絞めを極められタップアウト負け。敗れはしたものの2試合連続のファイト・オブ・ザ・ナイトを受賞した。
2010/10/16、UFC 120のメインイベントでマイケル・ビスピンと対戦し、0-3の判定負け。敗れはしたものの3試合連続のファイト・オブ・ザ・ナイトを受賞した。
獲得タイトル
柔道
- 1996年 全日本選抜柔道体重別学生選手権大会 2位
- 1999年 USオープン柔道大会81kg級 優勝
- 1999年 韓国国際柔道大会81kg級 3位
- 2000年 韓国国際柔道大会81kg級 優勝
- 2001年 アジア柔道選手権大会81kg級 優勝
- 2001年 東アジア大会柔道81kg級 優勝
- 2001年 全日本実業柔道個人選手権大会81kg級 優勝
- 2001年 講道館杯全日本柔道体重別選手権大会81kg級 優勝
- 2002年 日本国際柔道大会81kg級 優勝
- 2002年 パリ国際柔道大会81kg級 優勝
- 2002年 アジア大会柔道81kg級 優勝
- 2003年 全日本選抜柔道体重別選手権大会81kg級 優勝
- 2003年 世界柔道選手権大会81kg級 5位
総合格闘技
試合での反則行為の指摘
柔道
2003年、世界柔道選手権大会の日本代表決定戦となる全日本選抜柔道体重別選手権大会に優勝。しかし、この決勝戦において対戦相手の中村兼三に「柔道着が滑る」と抗議された。
同年10月の世界柔道選手権で2回戦から4回戦の対戦相手であるフランス、モンゴル、トルコの3か国から「柔道着が滑る」という抗議を受けた。なお、1回戦は不戦勝であり、すべての対戦相手から抗議を受けるのは史上初の珍事。国際柔道連盟のチェックでは大きな問題なしとされたが、「疑われるようなことが問題」という山下泰裕理事の指示で柔道着が交換させられた。本人は「洗ったばかりで石鹸が少し残っていた」と弁明。柔道着を交換した後は準決勝、敗者復活戦で2連敗して5位。この世界選手権で優勝すればアテネオリンピックにおける柔道81kg級のオリンピック代表が決まるともされていたが、この後の最終予選権を兼ねた全日本選抜柔道体重別選手権大会でも準決勝で敗れて落選した。
総合格闘技
身体へのオイル(ワセリン)の塗布
2006年12月31日、K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!で桜庭和志と対戦。タックルから足を取ろうとした桜庭が異常を感じて行った、桜庭の試合中断要求(秋山の足が「滑る」と格闘技戦では異例の「タイム」を要求し、猛アピール)をレフェリーを務めた梅木良則、
および秋山は、受け入れずに試合を続行させた。桜庭はその後も数度、足を取ろうと試みるが失敗(その際も桜庭は試合を行いながら「滑る」と抗議のアピー
ル)。秋山はそのままパンチのラッシュからオープンガードの上を取り、桜庭に百発を超えるパウンドのラッシュを続けた。その最中も殴られながら、桜庭は
「滑るよ!」「反則だろ!(反則だ!)」と繰り返し抗議したが試合は続行された。その後、レフェリーストップ(平直行審判長と前田SVの 判断)のゴングが鳴り、秋山が勝利。試合後も「全身が滑る」と訴えていた桜庭の抗議を受け、秋山の体をレフェリーがチェックしたとのことだが、実際は秋山
の背中を2度、左肩を1度、胸を1度なでた程度だった。しかも、そのチェックの前に秋山は、Tシャツを着ているセコンドのトレーナーと2度(2度目に抱き
合う直前にカメラのアングルが桜庭に変わっている)抱き合い、その次に清原と、がっしりと体をなすりつけるように抱き合っている。結局、桜庭の片足タック
ルをすり抜けた足、秋山の試合着については一切チェックしなかった。桜庭は既に決着が付き、リングを降りた試合直後も控え室に向かう廊下で「思いっきりオ
イル塗ってる」「汗とオイルの滑りの違いくらい判りますよ」と憤慨を隠さず、「信じられんわ。抗議しますよ僕は」と強い口調で遺憾の念を表明した。その様
子は主催者側が用意していたカメラにも収められている。やっと実現した夢のカードは、疑惑・疑念を残す後味の悪い試合となった。また試合後は、お互いを讃
え合うこともせず、秋山は桜庭と目も合わせていない。この試合についてイベントプロデューサーの谷川貞治は「最後に試合を止めたのは、レフェリーと前田SVの判断。秋山の体から油らしきものは出なかった。金的(急所への攻撃)やサミングがあったなら試合は止めるべきだが、あれは桜庭の主張なので止めるべきではない。しかし、あんなに桜庭が怒りを露わにするのを見たのは初めてだ」とコメントした。この件に関して秋山は、2007/1/1の記者会見で「多汗症なんですよ」と弁解した。また、試合出場時にはボディーチェックがなされるが、この時はスタッフがイベントの流れをスムーズにするよう指示されていたことや、チェック時に本人がなぜか走ってリングに入ったことから、ほとんどチェックできなかったことが後になって判明した。
2007/1/11、都内ホテルにおいて、主催者による秋山VS桜庭戦に関する記者会見が行われ、秋山が試合前、全身にアメリカ製のスキンクリームを塗っていた事実が明らかにされた。しかも、成分にワセリンやグリセリンも
含まれているものだった。クリームは、秋山が乾燥肌で、それを防ぐために普段から使用しているものとした。秋山は、直接ワセリンやタイオイルを謳った類い
のものではないので、塗っても大丈夫という認識だったとしている。またFEG側は、テレビカメラの前で堂々と塗っていることから、秋山サイドに悪意はな
く、過失と判断した。しかし、HERO'Sルールは、試合前に体に何かを塗る事自体を禁止しているため、試合はノーコンテスト(無効試合)、秋山のファイ
トマネーは全額没収となった。その後1月17日、FEGが主催する大会への無期限出場停止(事実上の永久追放)の追加処分が下された。また、この件に伴
い、レフェリーを務めた梅木良則や他の審判員も処分を受けている。総合格闘技で身体に何かを塗布する行為は、通常主催者側から厳重な注意・監視がなされて
おり、本来綿密にすべきルールミーティングを怠ったとしてFEG側を糾弾する動きも一部で見られた。
不正グローブ使用疑惑
当該試合において、秋山のオープンフィンガーグローブに異物が入っているような膨らみがあり、手の平の部分にもなんらかの(桜庭および他選手の手のひらにはない)異物が確認できる写真が存在している。これらに関し「メリケンサックを着用していたのではないか?」との疑惑が持たれた。2007年1月19日放送のFIGHTING
TV サムライにおいて、サブレフェリーを務めた和田良覚は「(メリケンサックの使用は)ないと思う。バンテージチェックが行われ、確認される、そして実際チェックが行われた。」、熊久保英幸は
「メリケンサックを付けて殴ったら、まずは頭蓋骨が陥没する。状況から鑑みてまずあり得ない。」というような旨の、それぞれの意見を表明した。なお、この
点に関する公式な見解は発表されていない。なお、秋山が使用したグローブに、本来あるはずのロゴが確認できないことも指摘され、合わせて「不正なグローブ
が使用された」とする疑惑が挙げられた。これに対しては、「ロゴがはがれやすいもの」だったため、ウォーミングアップ中に剥がれ落ちたと判断され、試合後
回収されたグローブも試合前に渡したものであり、バンテージにも問題がなかったことが確認されている。と説明。また、これを受け1月17日、グローブを製
作したメーカーであるイサミは公式にFEG、秋山の主張を認める形で原因の検証を行うとし、その後、3月16日にネットを通じ、製造過程に問題があったとするオフィシャルコメントを発表した。一方で、ファンの問い合わせに応じた関係者は「簡単にロゴが剥がれるような物は作っていない」とも言っている。その他、ロゴが剥がれた状態で試合を行う事自体がルール違反であることや、スポンサーとの契約に違反しているとする等、指摘が相次いだ。
人物、エピソード
- 桜庭戦での一連の騒動は、ネットでも大きく話題に上り、日本では秋山に対する批判や失望の声が多く挙がっている。一方、韓国では主催側の秋山への処分に対する不満が発生した。
- 復帰後の韓国大会で勝利した後のリングインタビューで「韓国に帰ってくることができました」といった趣旨の発言や、「わが大韓民国最高」などと発言した。秋山は以前から「柔道をするために日本国籍を取得した」と発言するなど、韓国を意識した発言をすることが多い。
- みのもんたと懇意にしていて、2006年5月の試合では勝利した後、リング上で抱擁した。
- 桜庭戦での反則行為による謹慎中にフライデー2007年3月16日号で、ファッションモデルSHIHOとの交際をスクープされ、2人はその後、2009年に入籍した。
- 2009年4月、ベストセラーズ社より自伝「ふたつの魂 HEEL or HERO」を出版。
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