アーメッド・ジョンソン
Ahmed Johnson
1970/6/6
アンソニー・ノリス(Anthony
Norris)は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。ミズーリ州セントルイス出身のアフリカ系アメリカ人(ギミック上の出身地はミシシッピ州パール・リバー)。生年は1966年ともされる。
1990年代半ばのWWF(現・WWE)において、近年のボビー・ラシュリーにも通じるヘビー級の硬派な黒人ベビーフェイスとして活躍。黒人初のWWFインターコンチネンタル王者であり、一時はWWF世界ヘビー級王座載冠も有力視された。
巨体ながら空中技も軽々とこなすなど優れた身体能力の持ち主だったが、病気や怪我が相次ぎ、レスラーとして大成することはできなかった。
来歴
NFLのダラス・カウボーイズを経て軍隊に入り、除隊後はサーカスのライオン使いなどの職に就いていた。テキサス州ヒューストンのイワン・プトスキーのスクールでトレーニングを積み、1994年(1992年説もある)にダラスのインディー団体GWFにてデビュー。当時はモアディブ(Moadib)なるリングネームを名乗り、スカンドル・アクバをマネージャーにイスラム系アフリカ人ギミックのヒールとして活動した。1995年3月には大日本プロレスの旗揚げ興行に来日。7月の再来日を経て、同年9月にWWFと契約。
WWFではベビーフェイスのアーメッド・ジョンソン(Ahmed
Johnson)に改名し、11/6には提携団体であるメンフィスのUSWAでジェリー・ローラーからユニファイド世界ヘビー級王座を奪取。11/19のサバイバー・シリーズではショーン・マイケルズのパートナーとなって活躍し、翌1996年上期はジェフ・ジャレットと抗争を展開した。
1996/6/23のキング・オブ・ザ・リングでゴールダストを破り、WWFインターコンチネンタル王座を獲得。WWFの歴史上、黒人レスラーとしては初のシングル王座載冠を果たした(周囲の風当たりは強く、車に差別的な言葉を落書きされたり、嫌がらせの手紙を送られたりしたこともあったという)。腎損傷のためにタイトルは返上することになったものの、その後もロール・モデル(Role
Model)をニックネームに、不良少年から更生したアスリートというキャラクターのもとトップ戦線で活躍。久々に登場したブラック・ヒーローの新星として日本でも注目を集め、黒人初のWWF世界ヘビー級王座奪取も期待された。
1997年、ネーション・オブ・イスラムやブラックパンサー党をモチーフとした、ファルーク率いる黒人至上主義軍団ネーション・オブ・ドミネーション(NOD)との抗争が勃発。融和を訴えるジョンソンvs暴力主義を唱えるファルークという「WWF版黒人思想闘争」が展開される。3/23のレッスルマニア13ではリージョン・オブ・ドゥームをパートナーに、ファルーク、クラッシュ、サビオ・ベガとのシカゴ・ストリート・ファイトが行われた。一時は短期間ながらNODと行動を共にするも、すぐに離脱して抗争を継続、新メンバーのマーク・ヘンリーやカマ・ムスタファ、ヒール修行時代の“ザ・ロック”ロッキー・メイビアらと激闘を繰り広げた。
1998年2月のRAWにおけるケイン戦を最後にWWFを脱退(離脱の原因は諸説あり)。その後しばらく近況が聞かれなかったが、1999年の末にWCWと契約。翌2000年1月にヒールのビッグ・T(Big T)として登場し、当時ブッカー・Tと仲間割れしていたスティービー・レイとハーレム・ヒート2000を結成する。しかしながら、WWF時代の筋肉隆々とした肉体は長期間の欠場中に劣化しており、腹周りに贅肉がつきパワーもスピードも激減、かつてのブラック・ヒーローの面影はなかった。
同年3月にWCWを解雇されてからはセミリタイアとなり、2001年に俳優としてテレビドラマ『M.C.ハマー ストーリー』にマリオン“シュグ”ナイト役で出演。2003年3月7日にはインディー団体のMXPWに登場、モンティ・ブラウンと組んでサブゥー&ギャングレルと対戦した。近年は、旧友ブッカー・Tの主宰するPWAのアカデミーにて、トレーナーとして後進の指導・育成にあたっている。
獲得タイトル
- USWAユニファイド世界ヘビー王座:1回
- WWFインターコンチネンタル王座:1回
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