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Strieforce

ヘビー級トーナメント1回戦
アリスター・オーフレイムvsファブリシオ・ヴェウドゥム



 
 
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2010/8月以降おまとめは休止しています。
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2011/6/18
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プロレス/格闘技 ニュース


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スポニチ
デイリースポーツ
格闘技WEB
マガジンGBR
東スポ
  • 曙が髙山の「メジャー3団体タッグ王座統一戦」案に合意
  • 8・27はプロレス記念日!猪木も本社主催オールスター戦と同日に復興イベント
  • 初代タイガーマスクが格闘人生初の手術を決断
  • W王座戦に挑むバーナードがシングル王座戦線にも進出
リアルライブ
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NJPW
2011/3/20
ベイコム総合体育館

NEW JAPAN CUP 2011 最終戦
NEW JAPAN CUP 2011

タイガーマスク/獣神サンダー・ライガー/KUSHIDAvs
邪道/外道/キラーラビット


中西学/金本浩二vs本間朋晃/タマ・トンガ

ジャイアント・バーナード/“ザ・マシンガン”カール・アンダーソンvs飯塚高史/石井智宏

NEW JAPAN CUP 2011準決勝戦
永田裕志vs矢野通

AJW
1984

ジャガー横田vsペギー・リー

AJW
1983

立野紀代vsエリザベス・チェイス

SNASH
SMASH.19に関する記者会見/2/2

JWP
6.26大阪IMP大会でトリプル選手権が決定

アイスリボン
TEENS3(予告)~長野レミデビュー戦

Teens3~社会科見学(予告)

スポルティーバ
2011.6.10金プロダイジェスト(若鯱リーグ)

K1
K-1史上初! 全試合ライブ配信が決定

HIROYA&谷川貞治EPによるトークショーMAX TALK

アパッチ
Apache Pro Wrestling Anarchy In The Crazy Monkey 3.30.07 music video


NJPW

NJPW
1986/10/9

INOKI闘魂LIVE Part.1

オープニング/2/2

藤波辰巳vs武藤敬司/2/2
アントニオ猪木vsスティーブ・ウイリアムス
(1986/10/13 後楽園ホール)

前田日明vsドン・ナカヤ・ニールセン/2/2

アントニオ猪木vsレオン・スピンクス/2/3/3/3

INOKI闘魂LIVE

NJPW
1989/6/27
札幌中島体育
センター

長州力vsビック・バン・ベイダー/2/2

獣神ライガー/野上彰vs佐野直喜/笹崎伸司

藤波辰巳/木村健吾vs馳浩/飯塚孝之/2/2

NJPW
1989/7/3
青森市民体育館

獣神ライガーvs笹崎伸司

馳浩/飯塚孝之vsビック・バン・ベイダー/ブラッド・レイガンス/2/2

SSマシン/ジョージ高野vs藤波辰巳/長州力/2/2

NJPW
1989/7/12
大阪府立体育会館

オープニング

ビック・バン・ベイダーvsチムール・ザラソフ

SSマシン/ジョージ高野vs越中詩郎/飯塚孝之

獣神ライガーvsブラックタイガー/2/2

サルマン・ハシミコフvs長州力

NJPW
1981

燃える闘魂 -名勝負編-/2/2

燃える闘魂 -格闘技編-/2/2

NJPW
1978/11/1
愛知県体育館

NWF
アントニオ猪木vsクリス・マルコフ

WWA
1990/6/23

テリー・ファンクvsスタン・ハンセン/2/2

NWA
1989/10/20

NWA世界TV
グレート・ムタvsエディ・ギルバート/2/2

NWA
1989/7/1

グレート・ムタvsザ・イタリアン・スタリオン

NWA
1989/11/24

グレート・ムタvsフロッグマン・レ・ブランク

NWA
1989/11/25

リック・フレアーvsグレート・ムタ/2/2

NWA
1989/12

ムタ/バズ・ソイヤー/ドラゴン・マスターvsニル・フォード/ロック・ハード・リック/エージェント・スティール

NJPW
1996/4/29
東京ドーム

橋本真也 vs 高田延彦/2/2

天龍源一郎 vs 藤波辰巳/2/2

サスケ vs ライガー/2/2

長州/西村/小島/飯塚 vs 越中/野上/小原/斎藤/2/2

石沢/永田 vs 大谷/金本/2/2

96 Battle Formation
Part.1 
グレート ムタ vs 白使


96 Battle Formation
Part.2
橋本真也 vs 高田延彦


NJPW
1996/7/16
札幌

ライガー/サムライ/保永vs大谷/高岩/石澤/2/2

藤波/越中vs長州/橋本

山崎/飯塚vs蝶野/天山/2/2

リック・フレアーvsランディ・サベージ/2/2

NJPW
1996/7/17
札幌

山崎/飯塚vs後藤/小原/2/2

スティングvsザ・ジャイアント

藤波/越中/野上vs蝶野/天山/ヒロ/2/2

獣神サンダー・ライガーvsランディ・サベージ

IWGP
橋本真也vsリック・フレアー/2/2

1990/4/13
東京ドーム

日米レスリングサミット

ハルク・ホーガンvsスタン・ハンセン/2/2

ジャイアント馬場/アンドレ・ザ・ジャイアントvsアックス/スマッシュ〈ザ・デモリッション〉

アルティメット・ウォリアーvsテッド・デビアス

天龍源一郎vsランディ・サベージ/2/2

鶴田/ハクvsヘニング/マーテル

ジェイク・ロバーツvsビッグ・ボスマン

タイガーマスクvsブレッド・ハート/2/2

スヌーカ/サンタナvs渕/小橋

NJPW
1993

グレートムタ/2/2


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プロレス/格闘技
今日のテレビ放送/出演



スカイA 14:15
#異種格闘技戦

1976/12/9 蔵前国技館
格闘技世界一決定戦
アントニオ猪木vsウィリエム・ルスカ (柔道)

1977/8/2 日本武道館
格闘技世界一決定戦
アントニオ猪木vsザ・モンスターマン (キックボクサー)

1977/10/25 日本武道館
格闘技世界一決定戦
アントニオ猪木vsチャック・ウェッブナー (ボクサー)

15:45
巌流島の決闘

1987/10/4
アントニオ猪木vsマサ斎藤

GAORA 18:00
プロレスKING #241
OZアカデミー
Ride on time
5.22新宿FACE

松本浩代&大畠美咲 vs 井上貴子&紫雷美央

ジャングルジャック21 vs 正規軍
シークレット・キャプテンフォールマッチ
輝優優&アジャコング&AKINO&中川ともか vs カルロス天野&豊田真奈美&栗原あゆみ&小松奈央

リアル正規軍決定シングル三番勝負
永島千佳世 vs 桜花由美
加藤園子 vs 悲恋
ダイナマイト関西 vs 尾崎魔弓

サムライTV 22:00
アリーナ
2011年6月18日(土)号

両国直前!全日本プロレス 6.17新潟大会
大日本プロレス 6.17横浜大会
<DDT 6.19後楽園直前特集>
<出演予定>
MC/三田佐代子(古舘プロジェクト)
解説/鈴木健.txt
ゲスト/マサ高梨(DDT)

23:00
闘龍門「DRAGOMANIA VI」
2011.5.14 メキシコ アレナ・メヒコ

<マスカラ・コントラ・マスカラ>
ウルティモ・ドラゴン×ブラック・タイガー
TAJIRI&マグヌス&イホ・デル・ファンタスマ×ウルティモ・ゲレーロ&アトランティス&サングレ・アステカ

<時間差バトルロイヤル>
出場選手:大原はじめ、ブラソ・デ・オロ、ブラソ・デ・プラティーノ、トラウマI、ニトロ、デムス3:16、スカンダロ、ドゥランゴ・キッド、ヘディ・カラウイ、ロコ・マックス
ソラール&イホ・デル・ソラール×ネグロ・カサス&トラウマII
朱里&マルセラ&ジュビア×下田美馬&ラ・コマダンテ&ダリス・ラ・カバーニャ
花岡大輔&ロビン・フッド&カト・クン・リー×Mr.ローリン&イステリアJr.&ビサロ

CSテレ朝 23:00
#145 異種格闘技特集

飯塚孝之vsハビーリ・ビクタシェフ

アントニオ猪木vsチャック・ウェップナー

テレ朝 26;25
ワールドプロレスリング

6/10 後楽園ホール

・ BEST OF THE SUPER Jr.準決勝
   Bブロック1位     Aブロック2位
   飯伏幸太    vs  デイビー・リチャーズ

・ BEST OF THE SUPER Jr.準決勝
   Aブロック1位        Bブロック2位
   プリンス・デヴィット  vs  田口隆祐

・ BEST OF THE SUPER Jr.決勝戦

【見どころ】
また今年も、この季節がやってきた
ベスト・オブ・ザ・スーパージュニアX VIII
今夜は、華麗なる3Dバトルのクライマックス!
準決勝から決勝までを一挙放送!!
ジュニア最高峰の栄冠に輝くのは果たして!?

東日本大震災復興支援 チャリティープロレス
「ALL TOGETHER」
大会を前に、3団体・総勢30名のレスラーが早くも集結!
復興への想いを歌声に乗せ、
プロレス界が今こそ送る、「元気」と「勇気」。


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プロレス/格闘技
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1989年以前

1966/6/18
ヒロ・マツダが地元神奈川での防衛戦で得意の原爆固めを決めるなど、6年ぶりの凱旋に会場は大喝采。

NJPW
1982/6/18
蔵前国技館

タイガーマスク vs ウルトラマン

~猛虎伝説~
Vol.3
初代タイガーマスク(佐山聡)~猛虎伝説~3


最強!マスクマン烈伝
Vol.2
最強!マスクマン烈伝


アンドレ・ザ・ジャイアントvsハルク・ホーガン

昭和名勝負篇
昭和名勝負編


アントニオ猪木vsスコット・マギー

アントニオ猪木全集 11
闘魂ロードⅡ
未知の強豪達との激闘
アントニオ猪木大全集 12


AJW
1989/6/18

WWWA世界タッグ
クラッシュ・ギャルズvsマリン・ウルフ(北斗晶 & みなみ鈴香)


ヤフオクで今、売れているプロレス商品は何?
ヤフオクプロレス


1900年代

WING
1993/6/18
後楽園ホール

月光闇討ちデスマッチ

RINGS
1994/6/18
有明コロシアム
 
前田日明vsヴォルク・ハン



2/3 / 3/3

RINGS in ARIAKE
前田日明vsヴォルク・ハン
ビターゼ・ダリエルvsディック・フライ
ウイリー・ウイリアムスvs成瀬昌由
ビターゼ・アミランvs山本宣久
他 全7試合

前田日明 JJPWおまとめ
リングスおまとめ
リングスビデオ

UWFインター
1995/6/18
両国国技館 

高田延彦vs垣原賢人
ゲイリー・オブライトvs田村潔司
佐野直喜vs安生洋二
山崎一夫vs高山善廣
マレンコvs宮戸優光
金原弘光/ビリー・スコットvs中野龍雄/ライディック
山本健一vsネルソン

魂The UWF Spirits
魂The UWF Spirits


最強伝説 1995-1996
最強伝説


GAEA
1995/ 6/18
後楽園ホール

長与千種 vs デビル雅美

ガイア ジャパン
Vol.1
ガイア ジャパンVol.1

WWE
1995/6/18

ブライアン・ピルマン vs. アレックス・ライト

ハイエスト・フライヤーズ
ハイエスト・フライヤーズ


パンクラス
1997/6/18
後楽園ホール

鈴木みのるvsジャッグジット・シン
国奥麒樹真vsジェイソン・デルーシア
柳澤龍志vsレス・ジョンストン
伊藤崇文vsジェイソン・ゴトシ-
渋谷修身vsデビッド・モア
長谷川悟史vsポール・レイゼンビー

97アライブツアー
97アライブツアー

AJW
1997/6/18
札幌

WWWA世界タッグ
渡辺智子 & 前川久美子vsラス・カチョーラス・オリエンタレス(三田英津子 & 下田美馬)





2000年以降

2000/6/18
ジャンボ鶴田メモリアル献花式が青山葬儀所で行われる。

JWP
2000/6/18
後楽園ホール

JWP認定タッグ王座
日向あずみ/コマンド・ボリショイvsZAP-I&ZAP-T

BJW
2005/6/18
横浜文化体育館

BJW認定デスマッチヘビー級選手権試合 
時間無制限1本勝負 蛍光灯300本デスマッチ
伊東竜二 vs 佐々木貴

日本の過激プロレス
大日大戦 BJW
DEATHMATCH WARS
日本の過激プロレス

ROH
2005/6/18
モリスタウン

ROH世界ヘビー級王座
オースチン・エイリースvsCMパンク

NWA
2006/6/18
オーランド

NWAヘビー
クリスチャン・ケイジvsジェフ・ジャレット

NJPW
2006/6/18
後楽園ホール

第13回 Best of the Super Jr.
決勝
稔 vs タイガーマスク

BEST OF THE SUPER
Jr.
2006
BEST OF THE SUPER Jr. 2006


フェーゴ&金本浩二 vs ブラック・タイガー&サングレ・アステカ

最強!マスクマン烈伝
Vol.2
最強!マスクマン烈伝


ビック・マウス
2006/6/18

柴田勝頼/飯伏幸太vs丸藤正道/森嶋猛

Big Mouth Illusion
2006 激闘
Big Mouth

ハッスル
2008/6/18
後楽園ホール

ハッスル・ハウス vol.37

赤鬼蜘蛛 vs 青鬼蜘蛛 vs 黄鬼蜘蛛 vs エンジ鬼蜘蛛

アン・ジョー司令長官/レネ・ボナパルト/ザ・モンスター℃
vsボノちゃん/あーちゃん/よしえちゃん

天龍源一郎/RGvs“モンスターK”川田利明/ニセHG

坂田亘/TAJIRIvsKUSHIDA/\(^o^)/チエ/長尾銀牙

ドラゴンゲート/
大阪プロレス
2010/6/18

オープン・ザ・ブレイブゲート王座
ビリーケン・キッドvsCIMA


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プロレス/格闘技
今日のバースデイ / 忌日


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ラリー・ヘニング
Larry "The Axe" Hennig
1936/6/18

来歴

ミネソタ州立大学ではレスリングとアメリカンフットボールで活躍したが、在学中に結婚して子供が生まれ、家族を養うために中退。大学の先輩バーン・ガニアの指導のもと、1956年にプロレスラーとしてデビューする。1960年、地元ミネアポリスでガニアが興したAWAに参戦。1962年1月にはデューク・ホフマンとのコンビでAWA世界タッグ王座争奪トーナメントに出場、決勝でカルミコフ兄弟を破りタッグ王者となった。

同年4月、日本プロレスへ初来日。北欧系の出自であることから一時期はヴァイキング・ギミックで活動しており、日本でも「ヴァイキングの末裔」などと紹介され「北海の獅子王」の異名を付けられた。1964年にはAWAを離れ、NWA圏のテキサス州アマリロ地区に進出。同じギミックのザ・ヴァイキングとのコンビでフリッツ・フォン・エリック&ケン・ルーカスからサウスウエスト・タッグ王座を奪取した。

アマリロでは風貌と体型が似通った若手のハーリー・レイスと意気投合し、彼を新パートナーにAWAに凱旋。"プリティボーイ" ラリー・ヘニングと "ハンサム" ハーリー・レイスというギャング風のニックネームを冠した極道コンビとしてヒール人気を集め、1965/1/30に元祖・極道コンビのディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーを撃破、AWA世界タッグ王者に返り咲く。以降もブルーザー&クラッシャーを相手に、同タイトルを巡る熾烈な抗争を展開した。1966年にはレイスと共にオーストラリア(ジム・バーネット主宰のWCW)にも遠征し、豪州版の初代IWA世界タッグ王者チームに認定されている。

レイスとのコンビ解消後は1970年11月に国際プロレスに来日。ボブ・ウインダム(後のブラックジャック・マリガン)とのチームでグレート草津&サンダー杉山から国プロ版のIWA世界タッグ王座を奪取した。シリーズ最終戦で草津と杉山に奪還されるも、シリーズ中は草津&杉山、杉山&ラッシャー木村、草津&木村を相手に3回の防衛に成功し、一時はタイトルの海外流出が危ぶまれた。

その後、AWAでは1972年にダスティ・ローデスともコンビを結成。1973年下期からはキャプテン・ルー・アルバーノをマネージャーにニューヨークのWWWF(現・WWE)に登場、11/12にマディソン・スクエア・ガーデンにてペドロ・モラレスのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦した。翌1974/1/30には、ボルティモアのシビック・センターでブルーノ・サンマルチノの同王座にも挑戦している。

WWWFサーキットを終えるとAWAに戻り、ラリー "ジ・アックス" ヘニングを名乗ってベビーフェイスに転向。以降1970年代全般に渡り、ニック・ボックウィンクル、レイ・スティーブンス、スーパースター・ビリー・グラハム、バロン・フォン・ラシク、ブラックジャック・ランザ、ボビー・ダンカンなど、AWAを代表するヒール勢と激闘を繰り広げた。

この間、日本には1976年10月に新日本プロレスに参戦。パット・パターソンと組んで坂口征二&ストロング小林の北米タッグ王座に挑戦した。1981年11月には全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦にハーリー・レイスとの往年の名チームで出場、昭和の4団体への全参加を果たす。当時のヘニングは体力的にピークを過ぎており、かつての弟分レイスのフォローを仰ぐ形となったが、ブルーザー・ブロディやタイガー・ジェット・シンらを相手に一歩も退かない貫録を見せた。

1980年代に入り息子のカート・ヘニングがデビューすると親子タッグを組むようになり、1982年にオレゴン地区のPNWでNWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座を獲得。AWAでは1984年にロード・ウォリアーズとも抗争した。1985年の引退後は、1990年代末にカートが参戦していたWCWのリングサイドに姿を見せたことがある。

現在はミネソタ州のセントクラウドに在住し、不動産会社を経営。2007年3月31日にはWWE殿堂に迎えられたカート・ヘニングの顕彰セレモニーに出席した。同席したカートの息子である孫のジョー・ヘニングも同年7月にプロレスラーとしてデビューしている。

獲得タイトル

AWA
  • AWA世界タッグ王座:4回(w / デューク・ホフマン×1、ハーリー・レイス×3)
  • AWAミッドウエスト・タッグ王座:1回(w / ラーズ・アンダーソン)
NWA
  • NWAサウスウエスト・タッグ王座:1回(w / ザ・ヴァイキング)
  • NWAブラスナックル王座(アマリロ版):1回
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座:1回(w / カート・ヘニング)
その他
  • IWA世界タッグ王座(オーストラリア版):1回(w / ハーリー・レイス)
  • IWA世界タッグ王座(国際プロレス版):1回(w / ボブ・ウインダム


ブルーザー・ブロディ
Bruiser Brody
1946/6/18 - 1988/7/17

フランク・ドナルド・グーディッシュFrank Donald Goodish)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ミシガン州デトロイト出身。

全日本プロレスや新日本プロレスに参戦し、日本でも活躍した外国人トップレスラーの一人である。

来歴

ウエスト・テキサス州立大学(現ウェスト・テキサスA&M大学)でアメリカンフットボール選手として活躍していた(同期にダスティ・ローデス、ボビー・ダンカン。後輩チームメートがスタン・ハンセン。ザ・ファンクスは大学の先輩)。1968年夏、NFL球団「ワシントン・レッドスキンズ」入団するが、膝の故障から3年で引退。その後、朝刊紙「ダラス・モーニング・ニュース」のフットボール・コラムニストとなる(生計を立てるために、酒場の用心棒などもしていたという)。

やがてフリッツ・フォン・エリックにスカウトされ、1972年にヒューストンでプロレスラーとしてデビュー(一説には1973年デビューとも)。デビュー時のリングネームは本名「フランク・グーディッシュ」。エリックの主宰するダラス地区を主戦場に、ルイジアナやオクラホマなどミッドサウス・エリアにも転戦してキャリアを積む。

1974年10月、同じくレスラーとなっていたスタン・ハンセンとルイジアナ地区でコンビ結成。テキサス出身のハンセンに合わせ、出身地を同じ南西部のニューメキシコ州アルバカーキとし、リングコスチュームもハンセンのテンガロンハットに対しグーディッシュはソンブレロを被っていた。同年12月にUSタッグ王座を奪取するが、翌1975年7月に陥落しタッグを解消。この時リングネームを「フランク・ブロディ」へ改称。その後、シングルプレイヤーとして多くのローカル・タイトルを獲得した。

1976年7月、「ブルーザー・ブロディ」に改名してニューヨークのWWWFへ参戦。同年9/4と10/4、マディソン・スクエア・ガーデンでブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に連続挑戦。アンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦して知名度を高め、メインイベンターとしての地位を築く。ちなみに当時のWWWFには、同年4月26日に首折り事件を起こしたスタン・ハンセンも共にサーキットしていた。また、当時は新日本プロレスとWWWFの提携が本格的に開始された頃であり、1977年1月に予定されていたアントニオ猪木のMSGにおける対戦相手候補としてハンセンとブロディの名前が挙がったこともある。当時の日本のプロレス専門誌には「一番強い奴とやりたい。サンマルチノの首を折ったハンセンが一番強いかというと、あれは偶発的なものでハンセンの実力じゃないという声もある。どうもブルーザー・ブロディというのが一番骨があるらしい」などという猪木のコメント記事が載っていた。結局、猪木のMSG登場は延期になり、この対戦は幻に終わっている。77年にはWWWFとの提携ルートでハンセンが新日本プロレスに来日しているが、ブロディの新日本登場は実現しなかった。

1977年、ダラス地区に凱旋。同年1/3にフリッツ・フォン・エリックを破りNWAアメリカン・ヘビー級王座(後のWCWA世界ヘビー級王座)を獲得する。その後、インディアナポリスのWWAに参戦し、1978/9/11にはディック・ザ・ブルーザーとの「ブルーザー対決」でWWA世界ヘビー級王座を奪取した。

1979年1月、フリッツ・フォン・エリックの斡旋により全日本プロレスに初来日。ジャイアント馬場に反則負けした以外、負けなしの好成績で帰国(タッグながら得意のニードロップをフィニッシュに馬場からフォール勝ちという快挙も果たす)。翌年より、常連外国人レスラーとしてシリーズ毎に何度も来日を果たすようになった。1981年10月にはドリー・ファンク・ジュニアからインターナショナル・ヘビー級王座を奪取(このシリーズ中には、仙台でのザ・ファンクス対上田馬之助&バック・ロブレイ戦の試合直後に乱入し、父親の援護にとリングに上がったドリー・ファンク・ジュニアの息子に攻撃を加え、素人である彼にキングコング・ニー・ドロップを放つなど、凶暴なキャラクターを印象付けるためのアングルも展開された)。以後このベルトを巡ってドリー、ジャンボ鶴田、天龍源一郎らと名勝負を繰り広げる。1982年からはスタン・ハンセンと全日本プロレスにてコンビを再結成。「超獣コンビ」とのネーミングが与えられた。ハンセンとのコンビでは年末恒例の世界最強タッグ決定リーグ戦で優勝1回・準優勝2回(準優勝2回はいずれも最終公式戦での反則負け)の戦績を残し、また1984年に新設されたPWF世界タッグ王座でも初代王者となった。

1985/3/21、新日本プロレスへ引き抜かれる形で移籍し、来日。以前新日本がアブドーラ・ザ・ブッチャーを全日本から引き抜き、それに怒った全日本がタイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセンを新日本から引き抜いたことも含め、両団体の関係がさらに険悪となる。アントニオ猪木とは、7度シングルマッチで対決(2勝1敗4分けでピンフォール決着は一度もなし)。同年12月、IWGPタッグリーグ戦にジミー・スヌーカとのタッグで出場するが、仙台での決勝戦出場をボイコットし、突然の帰国。新日本プロレスからは、永久追放処分となる(新日本はスヌーカとはその後に和解)。金銭トラブルではなく、新日本プロレス側の「外国人レスラーに優勝させたくない」、「藤波辰巳&木村健吾に勝たせたかった」、「自らが膨らませた坂口負傷アングルを反故にされた」等というブックに反発したトラブルが原因という説が有力。このように、ブロディはブッカーにとって扱いにくいレスラーであり、そのことが後の死につながる。その後、新日本プロレスと和解しかけるが、自ら来日直前にキャンセルし、再度、新日本プロレスから、永久追放を宣言される。

この間、本国アメリカではダラスを拠点に主要テリトリーを転戦し、ジョージアではブラックジャック・マリガン、フロリダではダスティ・ローデス、テネシーではジェリー・ローラー、AWAではサージェント・スローターなど各地のトップスターと対戦。他地区では常にヒールのポジションだったが、古巣であるダラスでは、1980年代からはエリック・ファミリーの助っ人的なベビーフェイスとして活躍した。また、同じテキサスのサンアントニオ地区(SCW)でも善玉となり、トップ・ベビーフェイスのワフー・マクダニエルとタッグを組んだことがある(しかし、プロモーターからの束縛を嫌ってか、特定の地区を長期間サーキットすることはほとんどなかった)。また、1984年よりビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下でスタートしたWWFの全米侵攻への参加も噂され、新日本移籍時の記者会見でも新WWF王者ハルク・ホーガンへの挑戦をアピールしたが、結局は実現しなかった(新日本側は当初、ブロディの新日本登場はWWFからのブッキングであったと発表していたが、もともとブロディにはWWFからのオファーはなく、新日本側がブロディ引き抜きの大義名分として、当時提携関係にあったWWFを隠れ蓑にしたともされている)。

1987/10/2、全日本・新日本の2大プロレス団体間の、レスラーに対する「引き抜き防止協定」が足かせになっていたが、新日本プロレス側の違反から、ブロディはリストからはずされ、全日本プロレスに復帰来日。同年暮れの世界最強タッグ決定リーグ戦では、タッグマッチながらスタン・ハンセンとの最初で最後の対戦が実現した。

1988年3月にはジャンボ鶴田からインターナショナル・ヘビー級王座を奪回。野獣ギミックの仮面を守り通したブロディがこの時ばかりはファンや関係者と抱き合って歓びを分かち合い、バックステージでは涙を流しながら控え室に戻っていった。

1988/7/16、プエルトリコ・バイヤモン市にあるバイヤモンスタジアムでのWWCの興行中、同団体のボス、カルロス・コロン(WWEで活躍していたカリートの実父)とのトラブル発生。カルロスの配下である、レスラー兼ブッカーのホセ・ゴンザレスに、ドレッシングルームにて腹部をナイフで刺される。刺し傷が肝臓に達し、翌7/17、出血多量により死亡。痛み止めのために常用していたアスピリンの副作用により、出血が止まらなかったともいわれている。また、興奮剤を服用していたのが裏目に出たともいう。なお、裁判では、現場に居合わせたレスラー仲間たちが揃って証言を拒否し(命を脅かす脅迫をされたり、出廷要請の通知が届かなかったりしたため)、結局、ホセ・ゴンザレスは無罪判決を得ている。

人物

リング上では超獣ギミックを一貫して守ったブロディだったが、本来は家族思いの穏やかな人柄で「インテリジェント・モンスター」と呼ばれるように独自のレスリング哲学を持っており、インタビューでは彼本来のクレバーさを感じさせる発言が多く見られた(超獣ギミックについてブロディは「プロレスを初めて見る子供やお年寄りに『あのチェーンをブルブル振り回す奴は誰だっけ』という印象を与えるため」という趣旨を語っている)。また、ラフファイトの裏側に隠された緻密な試合運びは馬場や鶴田も認めていた。「プロレスはチェスのようなもの」と語っていた。

試合だけでなく、自分の言葉と思想で自分の存在をファンに訴えかけた選手であった(生前最後に受けた1988年4月における『週刊プロレス』でのインタビューでは、事前にインタビュアーの斉藤文彦に「今回のインタビューは3週連続で掲載してくれ」と提案するなど、マスコミ向けに常に色々とアイディアを持ちかけていた。そしてこのインタビューは、ブロディの提案通り3週連続で掲載された)。

ブロディは日本人選手の中でジャンボ鶴田を特にライバル視しており、鶴田への競争意識から2度目の来日時(1980年1月)には初来日時よりウェイトを落として臨んだという(2000年春ごろのサムライTVでの鶴田追悼番組において百田光雄が証言している)。また、全日本離脱直後に行われた1985年4月掲載の『週刊プロレス』インタビューでは「長州力はしょっぱい。鶴田の方が断然優れている」とまで語っている。

一方で各地のプロモーター、ブッカーとは衝突が絶えず、WWWF時代のゴリラ・モンスーンを始めとして、ディック・ザ・ブルーザーとの大喧嘩など、その最期に至るまでエピソードには事欠かない。WWFには『1984』への参加を表明していたものの実現せず、その後も何度となく契約が噂されたが、ビンス・マクマホンはブロディとビジネスをしようとはしなかった。トラブルが無かったのは、若手時代に世話になったダラス地区のフリッツ・フォン・エリックくらいであった。ハンセンによれば、若手時代に格安のギャラで働かされた(レスラー兼プロモーターだったビル・ワットのことらしい)頃から彼のプロモーター嫌いが始まったといい、馬場のような普通なら信頼に値するはずのプロモーターでもブロディは信じていなかったという(だが、馬場を信頼しなかったのは1985年までのことで、1988年4月の『週刊プロレス』インタビューにおいて、ブロディは「馬場を裏切ったことは本当に失敗だった。馬場に申し訳ないことをした」と悔いていた)。

また、海外遠征時代にブロディとサーキットを共にした武藤敬司は「滅多に他人を褒めなかったが、アドバイスは的確で色々と教えてもらった」と当時のことを語っている。初めて会話した際にいきなり「お前の試合はしょっぱい」と言われたとのこと。

なお、ブロディはアメリカ遠征中の日本人レスラー・米良明久に「ダラスでヒールのできる日本人を捜している」とダラス転戦を助言、米良はダラスでヒールレスラー「ザ・グレート・カブキ」に変身し、大活躍することとなった。結果として、ザ・グレート・カブキ(およびザ・グレート・ムタ)誕生のきっかけにブロディが絡んでいることになる。

アントニオ猪木が一番扱いに困ったレスラーがブロディであったと語っている。ブロディは試合直前にギャラアップを求めることがあり、アップしないなら試合に出ないと理不尽な要求を猪木に叩きつけていた。猪木は出られないのは困るからとそれをいつも仕方なく承諾していた。のちに猪木はブロディについて「自分の物差ししかない男」と回想している。それを物語ってか、新日本プロレス参戦時は日本人選手にシングルはおろか、タッグ戦でもピンフォール負けを許さなかった。逆に全日本プロレス参戦時はジャイアント馬場とジャンボ鶴田にのみシングル戦でピンフォール負けを喫している(馬場には2回、鶴田には1回)。

ブロディは毛皮を巻いたレスリングシューズを使用していた。一見、超獣ギミックを演出するための手法と思われるが、馬場によると、足首に傷があり、それを保護するためだったという。また、ブロディは逞しい上半身や太腿に比べて膝下が細いため、それを隠すためとも言われている。

獲得タイトル

  • NWA USタッグ王座(トライステート版):1回(w / スタン・ハンセン)
  • NWAテキサス・ヘビー級王座:1回
  • NWAテキサス・タッグ王座:3回(w / マイク・ヨーク、ジノ・ヘルナンデス、ケリー・フォン・エリック)
  • NWAアメリカン・ヘビー級王座:4回
  • NWAアメリカン・タッグ王座:3回(w / ケリー・フォン・エリック)
  • NWAブラスナックル王座(テキサス版):6回
  • WCWA TV王座:1回
  • WWA世界ヘビー級王座(インディアナポリス版):1回
  • NWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座:1回
  • NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座:1回
  • NWAセントラル・ステーツ・タッグ王座:1回(w / アーニー・ラッド)
  • SCWサウスウエスト・ブラスナックル王座:1回
  • SCW世界タッグ王座:1回(w / ディック・スレーター)
全日本プロレス
  • インターナショナル・ヘビー級王座:3回
  • PWF世界タッグ王座:1回(w / スタン・ハンセン) ※初代王者

テーマ曲

  • 全日本プロレス時代
    • レッド・ツェッペリン『移民の歌』のドラマー石松元によるアレンジバージョン(ヴォーカル無し)
  • 新日本プロレス時代
    • 前奏ベートーヴェン『交響曲第5番 運命』
    • レッド・ツェッペリン『移民の歌』原曲使用


三沢 光晴
1962/6/18 - 2009/6/13

本名は三澤 光晴は、日本のプロレスラー。1981年に全日本プロレスにてデビュー。同団体のトップレスラーとして活躍した後、2000年にプロレスリング・ノアを旗揚げ。レスラー兼社長として同団体を牽引した。2009年6月13日、試合中の事故により死亡した。46歳没。

経歴

少年時代

1962年6月18日、北海道夕張市に生まれる。父親は北海道炭礦汽船に勤務していたが、三沢が生まれて間もなく夕張炭鉱が閉山同然の状態となったため、一家は埼玉県越谷市へ転居した。

三沢は子供のころから体が大きく、小学校時代に越谷市が開催した走り幅跳びの大会で優勝するなど、運動神経が良かった。中学校では器械体操部に入部。三沢曰く、器械体操を経験したことがプロレスの飛び技に生きているという。

中学2年の時、テレビで全日本プロレス中継を見て「観るよりやるほうが絶対におもしろい」と直感した三沢はプロレスラーを志すようになる。三沢は中学校を卒業してすぐにプロレスラーになるつもりだったが、担任の教師と母親にアマチュアレスリングの強い高校へ進学して基礎を学んでからの方がよいと説得され、足利工業大学附属高等学校に特待生として進学した。レスリング部に入部した三沢は高校の3年間を学校の寮で過ごし、ハードな練習に明け暮れる日々を送った。休みは大晦日と正月三が日のみであった。三沢は3年の時に国体(フリースタイル87kg級)で優勝するなど活躍したが、本人にとってアマチュアレスリングはプロレスラーになるための手段に過ぎず、競技自体を好きになることはなかった。

なお、高校2年の時、三沢は寮を抜け出して全日本プロレスの事務所を訪れ、入門を志願したことがある。この時はジャンボ鶴田に高校を卒業してから来るよう諭され、断念している。

全日本プロレスに入門 [

高校卒業後の1981/3/27、全日本プロレスに入団。同年8/21に浦和競馬場正門前駐車場で行われた越中詩郎戦でデビューした。入門から5か月でのデビューは全日本プロレス史上最速であった。三沢の1年前に入団したターザン後藤によると三沢は受け身を覚えるのが早く、またたく間に後藤と同じレベルに達したという。当時の全日本プロレスでは、ジャンボ鶴田や桜田一男(ケンドー・ナガサキ)など、身長190センチ前後のレスラーが活躍する傾向にあったが、若手レスラーの指導に当たっていた佐藤昭雄の後押しを受けて頭角を現すようになる。ちなみに、当時の全日本プロレス練習生の月給は5万円であったが、三沢だけは特別に7万円貰っていた。

2代目タイガーマスクとして活躍

1984年春、三沢は越中詩郎とともにメキシコへ遠征に出た。数か月が経ったある日、三沢は馬場に国際電話で「コーナーポストに飛び乗れるか」と問われ、飛び乗れると答えたところ帰国するよう命じられた。帰国後、三沢は馬場に2代目タイガーマスクとなるよう命令を受ける。三沢は佐山聡の初代タイガーマスクの二番煎じであったことに抵抗を感じたが、すでに2代目タイガーマスクのデビュー戦のスケジュールは組まれていた。

三沢は8月26日、ラ・フィエラ戦で2代目タイガーマスクとしてデビュー。はじめは小林邦昭を破ってNWAインターナショナル・ジュニア王座を獲得するなどジュニアヘビー級で活躍し、1985年10月にヘビー級に転向した。タイガーマスク時代の三沢は、本来自身が目指すプロレスを前面に出せない(渕正信によると、三沢には「もっと寝技をやりたい」という願望があった)ことと、初代タイガーマスク(佐山聡)が確立した華麗な空中技を受け継ぐ必要性に苦しんだ。また空中技を多用したことで膝に負担がかかり、左膝前十字靱帯断裂を引き起こし、負傷箇所の手術を受けるため1989年3月から1990年1月にかけて長期欠場を余儀なくされた。なお、全日本プロレスは「タイガーマスクは1年に1つ新しい技を開発する」と宣伝していたため、三沢がタイガーマスク時代に開発した技の名前には「タイガー・スープレックス84」といった具合に開発年がついている。ちなみに三沢は2代目タイガーマスクとして活動していた最中の1988年5月に結婚したが、その際記者会見で正体を明かし、その上で2代目タイガーマスクとしての活動は続行させるという、覆面レスラーとしては異例の行動に出ている。

超世代軍・プロレス四天王の中心として活躍

1990年春、天龍源一郎が全日本プロレスを退団しSWSへ移籍、複数のプロレスラーが天龍に追随した(SWS騒動)。この騒動により、全日本プロレスは天龍対鶴田という当時の黄金カードを失うことになった。騒動の最中の5月14日、三沢は試合中にタイガーマスクのマスクを脱ぎ、三沢光晴に戻ると同時にポスト天龍に名乗りを挙げた。三沢は川田利明、小橋健太らとともに超世代軍を結成。1990/6/8に「全日の『強さ』の象徴だった」ジャンボ鶴田とのシングルマッチで勝利を収め、1992/8/22にはスタン・ハンセンを破って三冠ヘビー級王座を獲得するなど、超世代軍の中心レスラーとして活躍した。超世代軍とジャンボ鶴田を中心とする鶴田軍との世代抗争は全日本プロレスの新たな名物カードとなった。とくに超世代軍は高い人気を獲得し、全日本プロレスに大きな収益をもたらした。永源遙曰く、超世代軍の人気は初代タイガーマスクを凌ぐほどであった。三沢はこの時期にエルボーやフェイスロックといった必殺技を習得した。

1992年7月にジャンボ鶴田が内臓疾患により長期休養を余儀なくされたことにより超世代軍と鶴田軍の抗争は終わりを告げ、同時に三沢は全日本プロレスの実質的なエースとなった。超世代軍の活動は1993年に川田が離脱したことで区切りを迎え(正式に解散したのは1998年)、それ以降は小橋・川田・田上明とともにプロレス四天王(後に秋山準が加わり「五強」と呼ばれた)の一人として全日本プロレスの中心を担った。三沢は1992年8月から1999年10月にかけて三冠統一ヘビー級王座を5度獲得、21度防衛。1994/3/5には全日本プロレスの象徴的存在であったジャイアント馬場からタッグマッチでフォール勝ちし、名実ともに同団体を代表するレスラーとなった。

超世代軍が結成された当時、馬場は凶器攻撃、流血、リングアウト・反則・ギブアップによる決着のない、3カウントによってのみ決着するプロレスを理想とするようになり、三沢たち超世代軍のレスラーは馬場の理想を具現化すべく、大技をカウント2.9で返し続ける激しい試合を行うようになった。プロレス四天王の時代になると、三沢たちは次第に考案者である馬場の想像すら凌駕する激しい試合を繰り広げるようになった。三沢が川田と対戦した1997/6/6の三冠統一ヘビー級王座のタイトルマッチは、馬場が「あまりにもすごい」と涙したほど激しい試合として知られる。三沢自身は小橋健太との戦いを「極限の力を見せることができる」戦いとして認識しており、両者の試合の激しさは三沢自身が死の恐怖を感じることがあったほどであった。このような、大技を連発するプロレスは「四天王プロレス」と呼ばれた

全日本プロレスの社長に就任

全日本プロレスではジャイアント馬場の妻の馬場元子が会社の運営について大きな発言権を有し、試合会場での実務や対戦カードにまで口出しする状況が生まれていた。仲田龍(全日本プロレスのリングアナウンサー。後にプロレスリング・ノア統括本部長)によると三沢は1996年、元子に反発を覚えるレスラーや社員を代表する形で、「周囲の人間の声に耳を傾けた方がよい」という内容の忠告をした。それをきっかけに三沢は元子と対立するようになり、1998年には馬場に対し所属レスラーを代表して「元子さんには現場を退いてもらえないでしょうか」と直談判するなど、対立を深めていった。

1999年に馬場が死去すると、マッチメイクなど現場における権限を譲り受けていた三沢はレスラーの支持を受けて後継の社長に就任した。ただし馬場の死後3か月間もの間紛糾した末の人事であった。三沢は就任時に「いいものは採り入れて、今までとは違う新しい風を吹き入れてやっていきたい」と抱負を語ったものの、全日本プロレスの株式は三沢ではなく馬場元子が保有しており、何をするにも自分に断りを入れるよう要求する元子の前に思うように会社を運営することができなかった。和田京平によると元子は三沢が決めたマッチメイクに対して必ず反対意見を出した。また仲田龍曰く、三沢には馬場の運営方針を100%受け継ぐことが求められ、新たな試みを行うことは一切禁じられた。後に三沢はこうした環境が「オレのやろうとすることが、尊敬する馬場さんが作り上げたプロレスを汚すと言われるなら、全日本らしくないと非難されるなら、俺のほうが身を引く」と全日本プロレス退団を決意する原因になったと語っている。さらに三沢によると、経営に関する不透明な部分を目にするうちに全日本プロレスに対する不信感が募ってプロレスそのものに愛想が尽きかねない心境になり、そうなる前に退団した方がいいと思うようになった。

プロレスリング・ノア設立〜最期

2000/5/28、臨時取締役会において三沢は社長を解任された。これを受けて6月13日、三沢は定例役員会において取締役退任を申し出た。これをもって三沢は全日本プロレスを退団することになった。三沢はすでに退団後に新団体を設立する構想を抱いており、6/16に記者会見を開いて新団体設立を宣言した。三沢の当初の構想は居酒屋を経営しながら5人の新人を育成し、3試合ほどの小さな興行を催すというものであったが、三沢以外に9人いた取締役のうち5人が三沢に追随して退任するなど社内から三沢の行動に同調する者が続出、全日本プロレスを退団して新団体に参加するレスラーは練習生を含め26人にのぼった。一方、全日本プロレスへの残留を表明したレスラーは川田利明と渕正信、マウナケア・モスマン、馳浩の4人だけであった。予想より多くの選手が新団体への参加を表明したため三沢は資金繰りに苦しみ、自身の保険を解約し、さらに自宅を担保に金を借り入れて選手たちの給料にあてた。三沢はこの事実を公にすることを嫌っていたが、死後、徳光和夫によってテレビ番組で公表された。

7/4、新団体の名称は「プロレスリング・ノア」(由来は『創世記』に登場するノアの方舟)に決まったことが発表され、8/5にディファ有明で旗揚げ戦が行われた。ディファ有明は三沢と行動をともにした仲田龍と関係の深い施設で、プロレスリング・ノアの事務所と道場もここに置かれた。

なお、三沢にはノア旗揚げ後の時期に全日本プロレスの興行に出場する契約があった。三沢は興行主への配慮から7月に全日本プロレスの興行に4日間出場している。13日に愛媛国際貿易センターで行われた試合では観客から「裏切り者」と罵声を浴びせられた。これに対し三沢は「ファンは大切だけど、その人の思い込みに何でオレが従わなければいけないんだ。オレの人生をその人が保証してくれるのか。」と怒りを露わにした。

仲田龍曰く、ノア旗揚げ後の三沢の体調は常に悪く、思うように練習ができない日々が続いた。しかし三沢はノアの社長として試合に出続け、GHCヘビー級王座を3度(初代、5代、11代)、また小川良成とのコンビでGHCタッグ王座を2度(2代、8代)獲得。2007年には同王座チャンピオンとして防衛を続け、それまで縁のなかったプロレス大賞MVPに当時史上最年長(45歳)で選出された。また2009年5月6日には潮﨑豪とのコンビで第2回グローバル・タッグ・リーグ戦の優勝を果たした。

晩年の三沢は頸椎に骨棘ができて下を向くことが困難になり、右目に原因不明の視力障害が起こるなど体力面の不安が深刻化。さらに肩、腰、膝にも慢性的な痛みを抱えていた。頚部は歯を磨いたり、ガウンの襟の部分が当たったり、寝返りを打つだけで痛みが走る状態にあった。休養をとるよう勧める声もあったが、それに対し三沢は次のように反論し、ノア旗揚げ後のすべての興行に出場した。

2009/6/9、東京スポーツの取材に応じた三沢は「もうやめたいね。体がシンドイ。いつまでやらなきゃならないのかなって気持ちも出てきた。」と語っている。それから4日後の6月13日、三沢は広島県立総合体育館グリーンアリーナ(小アリーナ)で行われたGHCタッグ王座選手権試合に挑戦者として出場。試合中、齋藤彰俊の急角度バックドロップを受けた後、意識不明・心肺停止状態に陥った。リング上で救急蘇生措置が施された後、救急車で広島大学病院に搬送されたが、午後10時10分に死亡が確認された。46歳没。翌14日、広島県警広島中央署は死因をバックドロップによって頭部を強打したことによる頸髄離断(けいずいりだん)であると発表した。

死後

6/19に東京・中野区の宝仙寺にて密葬が行われ、200人が参列した。法名は「釋慈晴」(しゃくじはる)。遺影には「リングの上の栄光の瞬間や社長としてのスーツ姿ではなく、2000年に1度だけ参戦した耐久レースにおいてレーシングスーツを着て笑っている写真」が家族の意向で選ばれた。日刊スポーツは「トップレスラーとしてプロレス団体社長として家族として責任を背負い続けてきたので、最後くらいは解放させてあげたい」という家族の配慮があったと報道した。7/4ディファ有明にて献花式「三沢光晴お別れ会 〜DEPARTURE〜」が開催され、プロレス関係者やファンなど約26,000人が参列した。。

三沢の後任の社長には田上明が就任し、2009年秋には三沢光晴追悼興行として「GREAT VOYAGE '09 in TOKYO」が9/27に、「GREAT VOYAGE '09 in OSAKA」が10/3に行われた。

三沢の死の翌日(6月14日)には、大阪プロレスでもレフェリーのテッド・タナベが試合終了直後に急性心筋梗塞を発症し、翌日死亡している。プロレス界で立て続けに発生した2件の問題を受け、6/18に行われた自民党文部科学部会・文教制度調査会の合同会議において、再発防止策や選手の健康管理について意見交換が行われ、プロレス関係者から仲田龍取締役、新日本・菅林直樹社長、全日本・武藤敬司社長が出席した。仲田は、会議終了後「レフェリーや対戦相手は、戦いながら相手の状況を観察してもらう技術を身に付けてほしい」と再発防止を強調した。

年表 [

  • 1962年6月18日、誕生。
  • 1978年、足利工業大学附属高等学校に入学、レスリングに入部。
  • 1981年4月、全日本プロレスに入門。
  • 同年8/21、デビュー(於浦和競馬場正門前特設リング、越中詩郎戦)。
  • 1984年3月、越中詩郎と共にメキシコに遠征に出発。メキシコシティなどで試合を行う。
  • 同年7月、極秘帰国し、2代目タイガーマスクに変身。
  • 1988/5/10、結婚。
  • 1990/5/14、試合中に自らマスクをとり、素顔の三沢光晴に戻る。
  • 同年6/8、ジャンボ鶴田とのシングルマッチで勝利を収めた。
  • 1992/8/22、スタン・ハンセンを破って初めて三冠ヘビー級王座を獲得。
  • 1994/3/5、タッグマッチでジャイアント馬場からフォール勝ちを収めた。
  • 1999年5月、全日本プロレスの社長に就任。
  • 2000年6月、全日本プロレスを退団し、新団体(プロレスリング・ノア)を旗揚げ。
  • 2006/9/12、グローバル・レスリング連盟(GPWA)が発足。初代会長に就任する。
  • 2009年6月13日、試合中に意識を失い、搬送先の病院で死去。46歳没。

主な試合

1981年
  • 8/21 - 埼玉・浦和競馬場正門前特設リングにて同期の越中詩郎を相手にプロレスデビュー。
  • 10月 - シングル戦初勝利。
1983年
  • 4月 - ルー・テーズ杯争奪戦で準優勝。
1984年
  • 3月 - 越中と共にメキシコに遠征に出発。メキシコシティなどで試合を行う。
    (同年7月極秘帰国し、2代目タイガーマスクに変身)
  • 8/26 - 田園コロシアムにてラ・フィエラを相手にデビュー戦を行い、8分37秒、タイガー・スープレックス'84で勝利。
1985年
  • 6月 - 日本武道館にて小林邦昭の持つNWAインターナショナルジュニアヘビー級王座にタイトル初挑戦するも敗退(2代目タイガーマスクとして初のフォール負け)。直後から痛めていた左膝の治療と肉体改造(ヘビー級転向をにらんだウエイトアップ)に専念するために試合を欠場。
  • 8月 - 両国国技館大会で復帰。小林邦昭の持つNWAインターナショナルジュニアヘビー級王座に再挑戦、15分36秒、タイガー・スープレックス'85で勝利しシングル王座初戴冠。
  • 10月 - チャボ・ゲレロを相手に王座初防衛。
1986年
  • 3/13 - 日本武道館でのジャパンプロレスとの全面対抗戦で長州力と唯一のシングル対決。長州のサソリ固め返しを披露するなど奮闘するも、リキラリアットでフォール負け。
  • 3月 - 後楽園ホール大会のリング上でヘビー級転向を正式に表明する。この時すでに保持しており防衛戦を行っていなかったNWAインターナショナルジュニアヘビー級王座を返上する(同年7月にこの王座は世界ジュニアヘビー級王座に改称される)。
  • 10月 - 猛虎七番勝負が始まる。1988年3月までに7戦が行われ3勝4敗の成績に終わる。
1987年
  • 7月 - 後楽園ホールにてジャンボ鶴田をパートナーにPWF世界タッグ王座に挑戦、スタン・ハンセン、テッド・デビアス組に勝利し第3代王者になるも8日後のリターンマッチに敗れ王座陥落。
1988年
  • 1月 - 後楽園ホールにてカート・ヘニングの持つAWA世界ヘビー級王座に挑戦。リングアウト勝ちを収めるがAWAルールにより王座移動はせず。
  • 4月 - 両国国技館で開催された「'88格闘技の祭典」のメインイベントに馬場とのタッグで出場、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ジョージ・スコーラン組に勝利する。また、同興行にシューティングのエキシビションで出場していた初代タイガーこと佐山聡を激励する形で、初のツーショットが実現している。
  • 5/10に現夫人と結婚。同時にタイガーマスクの正体を公表する。
  • 6月 - 仲野信市・高木功・高野俊二・田上明と共に決起軍を結成。
  • 9月 - 試合中の怪我で左膝の靭帯を切断。シリーズを数日間欠場しただけで無理をして復帰する。
1989年
  • 3月 - 日本武道館にてリッキー・スティムボートの持つNWA世界ヘビー級王座に挑戦し敗北。
    この試合後左膝の怪我が深刻化、手術を受けるために長期欠場に入る    。この間に決起軍解散(馬場の「全然、決起してない」という一喝から)1990年
  • 1月 - リング復帰。
  • 2月 - 新日本プロレスのリック・フレアー来日中止騒動の余波から「'90 スーパーファイトIN闘強導夢」に天龍とのタッグで出場。自身初の交流戦に挑む。長州力・ジョージ高野に勝利。
  • 4/13 - 全日本プロレス、新日本プロレス、そしてWWF(現・WWE)との3団体合同による「日米レスリングサミット」を東京ドームにて開催。ブレット・ハートとのシングルマッチを戦い、20分時間切れで引き分ける。
  • 4月 - 岡山武道館にて小橋健太(現:小橋建太)をパートナーにカンナム・エクスプレスの持つアジアタッグ王座に挑戦、勝利。第51代王者となった。
   (5/14、試合中に自らマスクを取って投げ捨て、素顔の三沢光晴に戻る。)
  • 5/17 - 広島県立総合体育館にてアジアタッグ王座初防衛後に返上。
  • 6/8 - 日本武道館にてジャンボ鶴田との一騎討ち。これに勝利して下の世代で初めて鶴田越えを達成。
  • 8月の強化合宿にて川田・田上・小橋・菊地毅・浅子と共に「超世代軍」結成。
    田上は鶴田のパートナー指名を受けて超世代軍としての活動を
    ほとんどしないまま離脱。1991年
  • 7月 - 石川県産業展示館にて川田をパートナーに世界タッグ王座挑戦、ゴディ&ウィリアムスを破り王座奪取。第17代王者となった。
  • 9月 - 日本武道館にて川田をパートナーに鶴田&田上明組と世界タッグ王座防衛戦。フェイスロックにより鶴田から初ギブアップ勝ちを奪う。世界最強タッグ決定リーグ戦に伴い王座返上。
1992年
  • 8月 - 日本武道館にてハンセンの持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦、勝利し第10代王者に。
  • その直後、鶴田がB型肝炎発症を理由に長期離脱。名実共に全日本のエースになる。
  • 12月 - 日本武道館にて川田をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦で田上&秋山準組を下し優勝、第20代世界タッグ王者となった。
1993年
  • 1月、千葉県体育館にて世界タッグ王座防衛戦、ゴディ&ウィリアムス組に敗れ王座転落。
  • 4月、川田が超世代軍離脱を表明。いわゆる四天王プロレスが幕を開ける。
  • 12月 - 日本武道館にて小橋をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦で川田&田上組を下し優勝、第24代世界タッグ王者となった。
1994年
  • 3月 - 馬場から初のピンフォール勝ち。チャンピオン・カーニバルのダグ・ファーナス戦で喰らったフランケンシュタイナーが原因で歩行困難に。途中リタイアとなった。
  • 6月 - 日本武道館にてチャンピオン・カーニバル優勝者の川田利明を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛戦、タイガードライバー’91で防衛。
  • 7月 - 日本武道館にてスティーブ・ウィリアムスを相手に三冠統一ヘビー級王座防衛戦、ウィリアムスの殺人バックドロップの前に敗れ王座転落。
  • 12月 - 日本武道館にて小橋をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦でウィリアムス&エース組を下し優勝。第25代世界タッグ王者となった。
1995年
  • 1月 - 山形県体育館にて川田&田上組を下し世界タッグ王座初防衛。
  • 4月 - チャンピオン・カーニバルの試合中に川田の蹴りを浴びて左眼窩骨折の重傷。以後、試合に出続けて、日本武道館での優勝決定戦で田上に勝利して初優勝。
  • 5月 - 札幌中島体育センターにてハンセンの持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦、勝利し第14代王者に。
  • 6月 - 日本武道館にて川田&田上組に敗れ世界タッグ王座から転落。初めて川田からピンフォール負けを喫した。
  • この試合は1995年度プロレス大賞年間最高試合賞を受賞。
  • 12月 - 日本武道館にて小橋をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦で川田&田上組を下し2連覇。
1996年
  • 5月 - 札幌中島体育センターにて秋山をパートナーに川田&田上組の世界タッグ王座に挑戦。勝利し第29代王者になる。札幌中島体育センターにて田上を相手に三冠統一ヘビー級王座戦。田上の迎撃式のど輪落としに敗れ王座転落。
  • 9月 - 日本武道館にてウィリアムス&エース組に敗れ世界タッグ王座から転落。
1997年
  • 1月 - 大阪府立体育会館にて小橋の持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦、40分を越える激闘を制し王座奪取。第17代王者になる。
  • 5月、小橋が超世代軍を正式に離脱。
  • 10/21 - 日本武道館にて小橋を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。この年のプロレス大賞・ベストバウト賞に選ばれる大激闘だった。
1998年
  • 4月 - 日本武道館のチャンピオン・カーニバル優勝決定戦で秋山を下し3年ぶりの優勝。
  • 5月 - 全日本初の東京ドーム大会開催。川田に敗れ三冠統一ヘビー級王座を失う。長く続く激闘を考慮し、馬場社長の命を受け暫く休養に入る。8月に復帰。この間自ら志願して一部試合のマッチメイクを任される。
  • 9月 - 秋山戦に敗れた小川良成に試合後寄り添い、タッグチーム「アンタッチャブル」結成。超世代軍はこれをもって消滅。
  • 10月 - 日本武道館にて小橋の持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦。王座奪回に成功し第20代王者に。
  • この試合でプロレス大賞・ベストバウト賞を2年連続受賞。
1999年
  • 1月 - 大阪府立体育会館大会で川田利明に垂直落下式ブレーンバスターで敗れ、王座転落。ただし、川田は右腕尺骨骨折のため直後に王座返上。
  • 5月 - 1月に死去したジャイアント馬場の引退興行として行われた東京ドーム大会にてベイダーの持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦。王座奪回に成功し第23代王者に。大会後、選手会の強い要請を受け全日本社長に就任、三沢体制が誕生する。
  • 8月 - 広島市東区スポーツセンターにてアンタッチャブルとしてノーフィアーの持つ世界&アジア両タッグに挑戦、勝利し第39代世界タッグ王者、第67代アジアタッグ王者に。この時三沢は三冠ヘビー級王座、小川は世界ジュニアヘビー級王座を保持しており、二人で全日本に存在するタイトルを総ナメにした。その後アジアタッグは即返上。
  • 10月 - 愛知県体育館にて小橋&秋山組を相手に世界タッグ王座防衛戦、王座転落。日本武道館にて三冠統一ヘビー級王座にベイダーの挑戦を受けるも、敗北し王座転落。
2000年
  • 4月 - チャンピオン・カーニバルでベイダーを裏十字固めで骨折させ、勝利。
  • 5月 - 臨時取締役会議にて代表取締役を解任。
  • 6月 - 全日本プロレスを退団、プロレスリング・ノアを設立。
  • 8月5日 - プロレスリング・ノア旗揚げ戦開催。
  • 10月 - 「アンタッチャブル」を「WAVE」に名称を変更、池田大輔と丸藤正道が加わる。
  • 12月 - 有明コロシアムにて因縁のベイダーとのシングルマッチをランニングエルボーで勝利。
2001年
  • 1月 - 橋本とタッグマッチで対戦。闘魂三銃士と初めて手を合わせる。
  • 3/21、団体公認のベルトGHCヘビー級王座をかけたトーナメント戦が開始。
  • 4月、有明コロシアムにて高山善廣をエメラルド・フロウジョンで下し初代GHCヘビー級王者となった。
  • 日本テレビにてNOAHの地上波放送が開始。
  • 7月 - 旗揚げ1周年興行で念願だった日本武道館に進出。メインで秋山準を相手にGHCヘビー級王座防衛戦に臨むも敗北。
  • 11月 - 小川良成をパートナーにベイダー&スコーピオ組からGHCタッグ王座獲得。
  • 12月 - 有明コロシアムで高山善廣&大森隆男組に敗れGHCタッグ王座を失う。
2002年
  • 5/2 - 新日本との交流戦で新日本東京ドーム大会に参戦し蝶野正洋とシングルマッチで対戦、かつてのお互いの団体の主を象徴する技であるランニング・ネックブリーカー・ドロップや卍固めを掛け合う攻防を展開、30分フルタイムで引き分ける。
  • 9/23 - 「GREAT VOYAGE 2002」日本武道館大会にて高山善廣を下しGHCヘビー級王座奪還に成功、第5代王者に返り咲く。
2003年
  • 3/1 - 「Navigate for Evolution 2003」最終戦 日本武道館大会において、完全復帰を果たした小橋建太を相手にGHCヘビー級王座防衛戦に挑むも、小橋のバーニング・ハンマーの前に敗れる。
  • この試合は2003年度プロレス大賞ベストバウト賞を受賞。
2004年
  • 1月 - 小川良成とのコンビで新日本の永田裕志・棚橋弘至組に流出していたGHCタッグ王座に挑戦、ベルト奪還に成功。
  • 7月10日 - ノア初の「DEPARTURE 2004」東京ドーム大会を開催。GHCタッグ選手権試合にて全日本の武藤敬司&太陽ケア組と対戦、防衛に成功。
  • これで三沢は新日本出身のいわゆる闘魂三銃士と全て手を合わせたことになる。
2005年
  • 1/23 - 最終戦 神戸大会ワールド記念ホールにおいてスコーピオ&ダグ・ウイリアムス組に敗れGHCタッグ王座を失った。
  • 9/18 - 「2nd GREAT VOYAGE 2005」日本武道館大会において、力皇猛の持つGHCヘビー級王座に挑戦するも敗北。
    これにより1992年より続いていたシングルタイトル挑戦成功率100%の
    記録が途切れた。
2006年
  • 12/10 - 「GREAT VOYAGE 2006」日本武道館大会において、丸藤正道の持つGHCヘビー級王座に挑戦。雪崩式エメラルド・フロウジョンで勝利し、第11代王者に返り咲いた。
2007年
  • 12/10 - GHCヘビー級王座を7度防衛。プロレス大賞最優秀選手を史上最高齢で初受賞。プロレス大賞年間最高試合賞を受賞(12月2日の小橋建太復帰戦)。
2008年
  • 3/2 - 森嶋猛のGHCヘビー級王座の挑戦を受けるが、強烈なバックドロップからフォールされて敗れ、8度目の防衛に失敗し王座陥落。
2009年
  • 5/6 - 潮﨑豪とのコンビでグローバル・タッグ・リーグ戦で優勝した。
  • 6/13 - 広島県立総合体育館グリーンアリーナ(小アリーナ)大会で行われたGHCタッグ選手権試合に王者組の齋藤彰俊&バイソン・スミス組に、潮﨑豪とのタッグで挑戦。試合中、齋藤彰俊の急角度バックドロップを受けた後に意識不明・心肺停止状態に陥り、午後10時10分に広島大学病院で死亡が確認された。46歳没。

主な獲得タイトル

全日本プロレス

  • 三冠ヘビー級王座(5回 / 第10代・第14代・第17代・第20代・第23代)
  • 世界タッグ王座(6回 / 第17代・第20代・第24代・第25代・第29代・第39代)
    パートナーは川田利明2回→小橋健太2回→秋山準→小川良成。
    第39代王座戴冠時にアジア・タッグ王座も同時戴冠。
  • アジアタッグ王座(2回 / 第51代・第67代)
    パートナーは小橋健太→小川良成。
  • PWF世界タッグ王座(1回 / 第3代)
    パートナーはジャンボ鶴田。
  • NWAインターナショナル・ジュニアヘビー王座(1回 / 第17代)
    ヘビー級転向のために王座を返上。
  • チャンピオン・カーニバル(優勝2回 / 1995年・1998年)
  • 世界最強タッグ決定リーグ戦(優勝4回 / 1992年・1993年・1994年・1995年)
    パートナーは1992年が川田利明、それ以降は小橋健太。

プロレスリング・ノア

  • GHCヘビー級王座(3回 / 初代・第5代・第11代)
  • GHCタッグ王座(2回 / 第2代・第8代)
    パートナーはいずれも小川良成。
  • グローバル・タッグ・リーグ戦(優勝1回 / 2009年)
    パートナーは潮﨑豪。

プロレス大賞

  • 1982年、新人賞
  • 1985年、敢闘賞
  • 1990年、殊勲賞
  • 1991年、最優秀タッグチーム賞(パートナーは川田利明)
  • 1992年、特別大賞
  • 1993年、最優秀タッグチーム賞(パートナーは小橋健太)
  • 1994年、最優秀タッグチーム賞(パートナーは小橋健太)
  • 1995年、年間最高試合賞(川田利明&田上明 vs 三沢光晴&小橋健太)
  • 1997年、殊勲賞、年間最高試合賞(三沢光晴 vs 小橋健太)ダブル受賞
  • 1998年、年間最高試合賞(三沢光晴 vs 小橋健太)
  • 2003年、年間最高試合賞(三沢光晴 vs 小橋建太)
  • 2007年、最優秀選手、年間最高試合賞(三沢光晴&秋山準 vs 小橋建太&高山善廣)
  • 2009年、特別功労賞(死去後)

入場テーマ曲

  • タイガーマスクのテーマ(演奏:寺内タケシとブルージーンズ) - 2代目タイガーマスク時代
  • スパルタンX(作曲:Keith Morrison) - ジャッキー・チェンの映画「スパルタンX」の主題歌。
  • 全日本時代当初はノーマル曲だったが、徐々に効果音やアレンジを加えた。ノア移籍後はピアノの前奏を付け加えた「ノア・バージョン」を使用。入場時には観衆が音楽に合わせて「みっさーわっ! みっさーわっ!」と合いの手を入れていた。2009/3/1の日本武道館大会より、ニューバージョンが使用された。
  • なお、この曲は三沢よりも早く上田馬之助が入場曲として使用していた。
  • その他、映画「惑星大戦争」のサントラ曲や、アニメ「メガゾーン23PART II」のサントラ曲「レッド・ゾーン・ファイター」、佐野元春の「約束の橋」を使用していたこともある。

プロレス観

受け身

三沢は「受け身の天才」と評される。三沢自身、「相手の得意技をわざと受けて身体的な強さをアピールする」ことがプロレスの最高の技術であり、それは「受け身への確固たる自信があるからこそ体現できる」ことだと述べている。三沢は相手の得意技をあえて受けて相手の特徴・長所を十分に引き出し、その上で勝利を目指すことが他の格闘技にはないプロレスの特徴であるとしている。

一方で三沢は受け身をとりきれない技が多くなっているとも述べている。受け身の取りにくい技としてフルネルソン・スープレックス、ハーフネルソン・スープレックス、タイガー・スープレックス、バーニング・ハンマー、エクスプロイダーなどを挙げている。三沢は近年のプロレスについて、「1試合のうちに脳天から落とされる類の大技を何度も受け、それが毎日のように続く」ことからダメージがどんどん蓄積されると述べ、自身の首にもダメージが蓄積していることを認めていた。「受け身の天才」がリング禍で死んだことは、周囲に大きな衝撃を与えるものであった。

受け身の巧拙は、投げられた際にどのようにマットに着地するかを見ればわかるとしている。受け身の下手なレスラーは腰からマットに落ち、次いで後頭部を打ち付ける。そのため、マットにぶつかる音が2回聞こえる。受け身をとりきれない投げ技に対しては、投げられる瞬間に自ら飛んで衝撃を和らげることがダメージを和らげるコツとしている。三沢曰く、オーバーアクション気味に技を受けるレスラーは受け身が上手い(ハーリー・レイス、リック・フレアー)。自ら飛ぶという方法は投げ技だけでなく、ドロップキックやラリアットなどの打撃技にも有効としている。

渕正信は、三沢の受け身の優れた点は、通常レスラーは背中でとるのに対し、首筋の下でとる点にあると評している。

プロレスラーの資質について

レスラーに求められる資質として、前述したように相手の得意技をあえて受けて相手の特徴・長所を十分に引き出し、その上で勝利を目指すための心身の強さを挙げている。また、自分の体型に惚れこむナルシスト的な要素があったほうがトレーニングに打ち込みやすいと述べている。

パフォーマンス

一流のプロレスラーは「自然と滲み出てくる個性の表れ」がそのままパフォーマンスになることが多いと考え、マイクパフォーマンスをしたり無理に怖い表情を作るといった意図的なパフォーマンスを好まなかった。三沢が初めてリング上で自らマイクを握ったのは、1995年10月に小橋と対戦した後のことである。

徳光正行によると、三沢は試合中に倒れた相手を引き起こす際、髪の毛をつかむ行為を「下品だ」と嫌っていたという。

技について

三沢は自身の技について、ヘビー転向後は自分よりも体が大きく体重の重い相手と戦うことが多くなったため、力ではなく技のキレ、落とす角度を重視するようになったと述べている。他のレスラーが使用する技のうち印象に残るものとしては、ジャンボ鶴田のバックドロップ、スタン・ハンセン、小橋建太のラリアットを挙げている。

三沢は「やっている方が楽しくないといけない」という考えから従来プロレス界にあった「若手は派手な技を使ってはいけない」という暗黙のルールを排し、若手であっても大技を使い、先輩レスラーの持ち技を使うことも許した。三沢自身も小川良成にタイガー・ドライバーを使うことを許可し、技の繰り出し方が上手いと評価している。

エピソード

緑色

緑は三沢を象徴する色として知られる。三沢はタイガーマスクから素顔に戻った後、緑のロングタイツを着用した。これは三沢が好きだった正統派外国人レスラーのホースト・ホフマンに倣ったといわれることが多いが、佐々木賢之によると実際には知人の助言がきっかけで着用するようになった。緑のロングタイツが定着する前に数回ではあるが赤や青のロングタイツを着用したこともある。2000年にプロレスリング・ノアを設立すると、他の団体にはない色という理由から緑色のマットを使用した。

人柄

三沢はしばしば男気があると評される。そのような性格を物語るエピソードの一つに、冬木弘道(サムソン冬木)の引退興行が挙げられる。若手時代、三沢は冬木と仲が良かった。1990年に冬木がSWSへ移籍したことで両者の交流は途絶えたが三沢の全日本プロレス退団・ノア旗揚げをきっかけに再び接点が生まれ、2002/4/7にシングルマッチで対戦した。翌8日、冬木は医師から大腸癌であると宣告され、18日に手術を行いプロレスラーを引退することを決意した。当初冬木は9日を引退試合にするつもりであったが、この事実を知った三沢はノアの主催で引退興行を行い、5/5に予定されていた新団体・WEWの旗揚げ興行にも協力。三沢はその収益の全てを冬木に贈ったとされ、冬木は「俺の人生で、三沢光晴に出会えたことが最高の出来事だった」と述べたという。

仲田龍は、三沢を損得勘定で動かない人間と評している。ノアの経営者として三沢は、休養中の給料保障、年間の最低保障を定め、所属レスラーを金銭面でバックアップすることに留意した。全日本プロレスの社長時代には、会社の財政状態が厳しいにもかかわらず所属レスラーがかける保険の保険料を全額負担する決断を下している。

全日本プロレス時代にジャンボ鶴田の付き人を務めたことがあったが、鶴田は干渉をあまりしない性格で、その影響から三沢自身も付き人に対し雑用を多く言いつけたり小言を言うことがなかったという。徳光によると新人時代に先輩から理不尽な仕打ちを受けた経験から、「自分は下の人間に、おなじようなことは絶対にしない」と心に誓ったのだという。

試合で見せた癖

覆面をつけ視野が狭い状況で試合を続けた影響から、ロープに振られると下を向いて走る癖があった。

三沢には額の汗を指を使ってぬぐう癖があった。この動きは「汗ワイパー」と呼ばれ、モノマネ芸人のイジリー岡田が三沢のモノマネとして取り入れている。

家庭環境

三沢によると父親は酒乱で家庭内暴力がひどく、母親を包丁で刺したこともあった。幼少期の三沢はいつも「はやく大きくなって親父をぶん殴ってやろう」と考えていたという。三沢が小学校1年の時に両親は離婚し、父親とは音信不通になった。三沢はプロレスリング・ノアを旗揚げした時期に父親に対し、「今さら俺たち家族の前に顔を現すのだけはやめてくれ」と心情を吐露している。

趣味

ヒーローものが好きで、徳光正行によると三沢の部屋はヒーローもののグッズで溢れていたという。葬儀の際には三沢が好きだったヒーローものの曲が多くかかった。漫画も好きで、「少年誌から青年誌まで、ほとんど全てを自分で買っていた」という。プロレスを描いた漫画の中では『1・2の三四郎』について、「プロレスの練習風景を、ここまでリアルに描いた作品は他にないね」と高く評価していたという。その他、学園もののテレビドラマや、ジャッキー・チェンやトム・ハンクス主演の映画を好んだ。

動物好きで、ネコ、イヌ、鳥、カメ、ウサギなどを買っていた。

スキューバダイビングを好み、年に1度は必ずハワイに行ってダイビングを行っていた。

臓器移植への支援活動

ノアの興行で募金活動を行うなど、日本移植支援協会の活動を10年近くに渡り支援していた。三沢が臓器移植に大きな関心を持つようになったのは、ジャンボ鶴田が肝臓移植手術中に死去したことがきっかけであった。三沢の死の直後の2009年6月18日、衆議院において臓器移植法の改正A案が可決されたが、この日は三沢自身の47歳の誕生日でもあった。

関連書籍

著書

評伝

DVD
三沢タイガー伝説
虎仮面7年の咆哮
DVD-BOX
三沢タイガー伝説~虎仮面7年の咆哮

三沢光晴 DVD-BOX
~緑の方舟2~

三沢光晴 DVD-BOX ~緑の方舟2~

三沢光晴DVD-BOX
~緑の方舟~

三沢光晴DVDBOX

G+ プロレスクラッシック #88 追悼・三沢光晴


ヴィトー/ビッグ・ヴィトー
Vito/Big Vito
1969/6/18

ヴィトー・ログラッソVito LoGrasso)ニューヨーク州ニューヨークシティ・ブルックリン出身。

WCWやWWEで活動した。イタリア系アメリカ人であり、自身のギミックでもそれを強くアピールしている。

来歴

ジョニー・ロッズ・レスリングクラブで2年間学んだ後、1990年、NCWでデビュー。当初はスカル・フォン・クラッシュSkull Von Krush)なるネオナチ・ギミックのキャラクターで、1992年10月にNOWに初来日。1998年1月には全日本プロレスにも来日している。その後はインディー団体やECWを経て1999年よりWCWに所属。WCWではジョニー・ザ・ブルと共にイタリア系であることを前面に押し出したユニット、ママルークスThe Mamalukes)を結成していた。

2004年にはTNAに参戦し、2005年にWWEと契約。契約後は下部団体のOVWを経て、同年6月よりダークマッチに登場。8月からスマックダウン所属となり、ナンジオとチームを結成する。両者ともイタリア系であることから、F.B.I.(フル・ブラッデッド・イタリアンズ)の再結成とも位置づけられた。

2006年には、「ヴィトーは実はオカマなのでは」というストーリーが展開されるようになる。パートナーのナンジオは否定していたが、ヴィトーは事実であることをカミングアウトし、ナンジオとタッグを解消。ワンピース(番組中ではドレスと表記)の出で立ちで試合をするようになり、清算マッチでナンジオを撃沈した。2007年5月にWWEを解雇される。

2010年3月にプロレス・エキスポのネパール大会に参戦。同じくジョニー・ロッズの弟子であるヒマラヤン・タイガーと一騎打ちを行うが、凶器攻撃により観衆がエキサイトし暴動が発生。決着戦を1週間後に行うも敗れた。

リングネーム

ログラッソが用いたリングネーム

  • The Skull
  • Skull Von Krush
  • Vito "The Skull" Lograsso
  • Big Vito
  • Vito
  • Big Vito "The Skull"

獲得タイトル

WCW
  • WCWハードコア王座 : 1回
  • WCW世界タッグ王座 : 2回(w / ジョニー・ザ・ブル)
OVW
  • OVW南部タッグ王座 : 1回(w / グイドー)


鈴木 鼓太郎
1978/6/18

日本の男性プロレスラー。埼玉県蕨市出身。本名は鈴木 康弘(すずき やすひろ)。プロレスリング・ノア所属、実家は焼肉店「焼肉ファミリー」を経営している。

来歴

鈴木のプロレスとの出会いはプロレスゲーム「ファイヤープロレスリング」で、最初に愛用するようになったキャラクターは三沢光晴をモデルとした「氷川光秀」だった。実際の三沢をテレビ中継で目の当たりにし、憧憬の対象とするのはその後のことである。

小学校時代は卓球部に在籍し、中学・高校は柔道部に在籍した。中学時代には既にプロレス技の練習にも励んでおり、三沢が扮する2代目タイガーマスクを真似しプランチャやタイガードライバーを決めていたほか、ムーンサルトプレスにも成功していたという。

日本体育大学ではジムで体作りに励みながらその間に柔道以外の格闘技も経験。三沢に憧れて、2001年3月に旗揚げして間もないプロレスリング・ノアの入門テストを受験し、約200人の応募者の中から合格。さらには、練習生の段階から三沢の付け人となった。

当時の合格者4人の中で唯一デビューまでこぎつけ、2001/12/24のディファ有明大会の対佐野巧真・金丸義信戦でデビュー(パートナーは池田大輔)、ノア生え抜き第1号となる。デビューと同時に三沢がリーダーを務める「WAVE」に加入。デビュー当初は本名で出場していたが、2002/2/2のディファ有明大会より鈴木鼓太郎に改名。「太鼓のように打たれ強く、打てば響く選手に」との願いをこめて三沢が命名した。2004/11/20、最初で最後となった三沢とのシングル戦では、本家にタイガードライバーを決めたものの、最後はエメラルドフロウジョンに敗れた。2005/3/5にはZERO1-MAXの大谷晋二郎・高岩竜一戦の三沢のパートナーとして指名された。

2004年末に登場したタイガー・エンペラーと、2005/7/18の東京ドーム大会で登場したムシキング・テリーの正体と噂されているが、真相は不明である。

2007/1/21、4度目の挑戦で自身初のタイトルとなるGHCジュニアヘビー級タッグ王座を獲得した。

2007年7月、団体初の公式リーグ戦である、日テレ杯ジュニアタッグリーグ戦に、リッキー・マルビンと共に参加。日本武道館での最終戦にて、引き分けという結果に不完全燃焼をおこした観客からノアでは珍しい程の大ブーイングを受けた。

2008/6/29の後楽園ホール大会で鼓太郎が盟友のリッキー・マルビンに強烈なイス攻撃を喰らわしコンビ解消。その後金丸と握手をし、金丸と平柳と組むことを選んだ。同年7/13、博多スターレーン大会でKENTA&石森太二組が保持するGHCジュニアヘビー級タッグ王座に金丸義信と挑戦し31分の激闘の末に、レクイエムでKENTAからフォール勝ちをし王座奪取。その後はヒール道を邁進、12/7の再戦ではKENTAを血祭りにして返り討ちに成功。その実績を買われて、2009/1/25の後楽園ホール大会のメインでGHCジュニア王座に挑戦。結果は惜敗したが、急所蹴り・鉄柱攻撃・凶器攻撃・目潰し・セコンド介入・西永秀一レフェリーへの誤爆などでKENTAをまたしても大流血に追い込む悪行三昧で新境地を開拓することに成功。

3月からは新ユニット「DIS OBEY」の一員としてモハメド・ヨネ・力皇猛・金丸義信・平柳玄藩と共闘、これにより鈴木は悪行にも一段と磨きがかかり、完全に極悪路線へと進んでいった。

ところが6月13日、試合中のアクシデントにより師匠の三沢光晴が急死。これをきっかけに今までのヒールファイトを封印し、三沢のファイトを受け継ぐと天国の三沢と約束した。

2009/12/23、ムシキング・テリーとの試合中のアクシデントにより左膝前十字靭帯断裂および内側側副靭帯を損傷した。それもあり、金丸と保持するGHCジュニアヘビー級タッグ王座を返上した。

2010/9/18の大阪大会における8人タッグマッチにおいて、金丸へのエルボー誤爆によりディスオベイを強制離脱。袋叩きの状況を小川良成によって助け出され、以後は小川と共闘。10/30、潮崎豪・小川と共に新ユニット「潮崎軍」を結成する。そして12/5、日本武道館においてV7を目指した因縁の金丸を14分49秒・タイガードライバーで仕留め、念願のGHCジュニア王座を獲得。その後、2011年に入ってエドワーズ・平柳・中嶋・石森・マルビンを退けて5度の防衛に成功している。

人物・エピソード

  • 実家は埼玉で焼肉店「焼肉ファミリー」を営んでいる。ノアのファンクラブイベントや番組収録もこの店で行われることが多い。
  • ガンダム好きが昂じてアニマックスのガンダム特集特番にゲスト参加している。
  • デビューしてから自身のイメージカラーの「青」を基調としたコスチュームを身に纏っているが、ヒールターンした際に一時期だけ赤を基調としたコスチュームに変えたが、Disobey脱退後は元の青に戻している。
  • 師匠の三沢光晴と誕生日が同一である。

ファイトスタイル

上記の「ガンダム殺法」を中心とした投げ技中心のスタイルである。また、師匠である三沢の影響を受けた、ジュニアながら受けを重視したスタイルでもあり、ミル・マスカラスを意識したような一面をも見せる。

三沢死去以前のフィニッシュ・ホールドは、ブルーディスティニーとエクスカリバーとレクイエムであり、本人はこの3つの必殺技を駆使して三種の神器のようにしていきたいとコメントしていた。

現在は、師匠からの伝承としてエルボーやタイガードライバーでのフィニッシュ・ホールドが多くなっている。

タイトル歴

  • GHCジュニアヘビー級王座 - 第20代王者
  • GHCジュニアヘビー級タッグ王座 - 第6代王者(パートナーはリッキー・マルビン)、第10代王者(パートナーは金丸義信)

入場テーマ曲

  • 戦慄のブルー


ダリウス・スクリアウディス
Darius Skliaudys
1981/6/18

リトアニア出身の総合格闘家、キックボクサー。リングス・リトアニア所属。ムエタイがバックボーン。



永野 一男
1952/8/1 - 1985/6/18

ながの かずおは、日本の会社経営者(実業家)。金のペーパー商法を行った豊田商事の創業者(会長)。
第1次UWFスポンサー


トレント・アシッド
Trent Acid
1980/11/12 - 2010/6/18

1990年代から2000年代に掛けて活動した、アメリカ合衆国出身のプロレスラー。身長おおよそ180センチメートル、体重おおよそ89キログラム。本名マイケル・ヴァーディ(Michael Verdi)。 決め技はアシッド・ボムとヤクザキック。『”ホーリー”・トレント・アシッド』というギミックを備え持ちつつ、コンバット・ゾーン・レスリング(CZW)やリング・オブ・オーナー(ROH)やプロレスリング・アンプラグドを主とする数多のプロレス団体を舞台に活動した。
来歴
ペンシルベニア州フィラデルフィアの南部にあたるサウス・フィラデルフィア―通称サウス・フィリーに生を享け、幼年期から祖母に連れられてプロレスの試合を毎週のように観にいっていた。 いつしか様々なプロレスラー養成所にてプロレスを学んだのちに、1995年の5月20日にプロレスラーとしてデビュー。 1999年頃からCZWのマットを舞台に活動し始めた。やがてCZWと大日本プロレスとの抗争の時代が幕を開けると、いわゆるCZW軍の一員として日本の地を踏み、大日本プロレスの巡業に伴い愛知県、静岡県、千葉県、東京都、神奈川県、埼玉県、三重県などを巡行。この時期に対戦した相手には、ザンディグ、『神風』、金村キンタロー、関本大介、ジョニー・カジミア、葛西純、ジ・ウィンガー、ジャスティス・ペイン、ラッカス、MEN'Sテイオー、ファンタスティック、ネイト・ヘイトリッド、伊東竜二、保坂秀樹が含まれ、タッグを組んだ相手には、ワイフビーター、マッドマン・ポンド、ネイト・ヘイトリッド、山川竜司、ニック・ゲージ、ジョニー・カジミア、ジ・ウィンガー、関本大介、ファンタスティックが含まれた。2000年の6月に開かれたCZWの大会『バウンド・フォー・グローリー5』にてCZW世界ジュニアヘビー級王座を奪取。その翌2001年に横浜を舞台にこの王座を再び獲得したうえ、フィラデルフィアに開かれたCZWの『ケージ・オブ・デス3』にあっては、自身3度目であったCZW世界ジュニアヘビー級王座を―同時に大日本プロレスの同王座を獲得。
2001年のCZWにあっては、ネイト・ヘイトリッド、ニック・モンド、ニック・ゲージ、ジョニー・カジミア、ジャスティス・ペイン、ロボ、・・・こうした面々とともに『ヘイト・クラブ』(H8 Club)という連合を結成し、更にはジョン・ザンディグ、ニック・モンド、ワイフビーター、Zバール、葛西純という面々とともに『ビッグ・ディールズ』(Big Dealz)という連合を組んでいた。
2002年には自身2度目の出場となったCZWベスト・オブ・ザ・ベストの第2回を制覇し、更にその翌2003年にあってはCZWアイアンマン王座をも戴冠するに至った。
いつしかジョニー・カジミアとともに組んだ『ザ・バックシート・ボーイズ』というタッグの活躍は目覚しく、1999年におけるイースト・コースト・レスリング・アソシエーションのタッグ王座の獲得に始まり、2000年から2003年に掛けてCZWのタッグ王座を4度にわたって獲得したうえ、2003年の9月に至ってROHのタッグ王座をも獲得することとなった。
2004年を通してCZWとROHとを主戦場に活動し、サンジェイ・ダット、ジミー・ジェイコブス、アレックス・シェリー、テディ・ハート、メサイア、サブゥー、アダム・フラッシュ、ロドリック・ストロング、MASADA、コルト・カバーナ、マット・サイダル、サモア・ジョー、ジャック・エバンスなどの面々を相手に激戦を繰り広げ、それから2005年〜2006年〜2007年〜2008年〜2009年と、プロレスリング・アンプラグドやジャージー・オール・プロレスリングを含む数多のプロレス団体のマットに活躍した。
2010年にはおおよそ10年ぶりの大日本プロレスのマットへの参戦が予定されたものの、健康上の問題に係る長期の治療の必要という理由で頓挫するに至り、そのまま実現せずに終わった。 そして同年の6/18の朝―自宅で死亡している姿が母親によって発見された。29歳であった。死因は特定されていない。長年の相棒であったジョニー・カジミアがフェイスブックで喪に服す様が伝えられた。
「日本流」
日本を舞台に数多のプロレス経験を積んできたアシッドは、それを自身のプロレスラーとしてのアイデンティティと見做していたようで、自らを『日本流レスラー』(Japanese style wrestler)と評し、更には自身のことを『日本人スーパースター』であると語っていた。いわく、ビデオなどから学び取っただけで日本に行ったこともないのに『日本流レスラー』を名乗りたがるレスラーらが米国にはかなり存在しているが、そうした者らは批判されるべき存在であり、それらと違って自身は真の『日本流レスラー』の一人であったのだという。アシッドいわくの日本流(Japanese style)とはすなわちストロングスタイルのことであった。
更には、日本のプロレスファンと比較したうえで、米国のプロレスファンのことを『甘い』(spoiled)と評した。いわく、日本のプロレスファンのほうがこのスポーツ―すなわちプロレスに対する尊重心が厚く、それは米国と日本の文化の違いから来ているものであるのだという。そうしたことを総括したうえで、自身の日本におけるプロレスの経験の回想として『とにかく日本のプロレスは偉大だった』とそう語っていた。

戴冠歴

単独

  • コンバット・ゾーン・レスリング
CZWアイアンマン王座×1
CZW世界ジュニアヘビー級王座×3
ベスト・オブ・ザ・ベスト×1(2002年)
  • 大日本プロレス:BJW認定ジュニアヘビー級王座×1
  • ジャガロ・チャンピオンシップ・レスリング:JCWヘビー級王座×1
  • プロレスリング・アンプラグド:PWUヘビー級王座×1
  • ユナイテッド・ステイツ・エクストリーム・レスリング
UXWヘビー級王座×1
UXWエクストリーム王座×1
UXWユナイテッドステイツ王座×1
  • アーバン・レスリング・アライアンス:UWAライトヘビー級王座×2
  • プロ・レスリング・シンジケート:PWSヘビー級王座×1
  • GWAライト級王座×1

タッグ

  • ∽ジョニー・カジミア
コンバット・ゾーン・レスリング:CZW世界タッグ王座×4
アサルト・チャンピオンシップ・レスリング:ACWタッグ王座×1
イースト・コースト・レスリング・アソシエーション:ECWAタッグ王座×1
ハードウェイ・レスリング:HWタッグ王座×3
ジャージー・オール・プロ・レスリング:JAPWタッグ王座×2
ナショナル・チャンピオンシップ・レスリング:NCWタッグ王座×1
フェニックス・チャンピオンシップ・レスリング:PCWタッグ王座
リング・オブ・オーナー:ROH世界タッグ王座×1
  • ∽ビリー・レイル
ジャージー・オール・プロ・レスリング:JAPWタッグ王座×1
ニュー・ミッドウエスト・レスリング:NMWタッグ王座×1
アーバン・レスリング・アライアンス:UWAタッグ王座×1
  • ∽マイク・トービン
ユナイテッド・ステイツ・エクストリーム・レスリング:UXWタッグ王座×1


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団体 会場 / 時間
新日本
DOMINION 6.18
大阪府立体育会館 18:00
DOMINION 6.18

IWGPヘビー級選手権試合
棚橋弘至vs後藤央洋紀

IWGPタッグ・GHCタッグダブル選手権試合
ジャイアント・バーナード、カール・アンダーソン vs 高山善廣、佐野巧真

IWGPインターコンチネンタル選手権試合
MVP vs 矢野通/2/2

真壁刀義、小島聡 vs 鈴木みのる、ランス・アーチャー/2/2

IWGP Jr.ヘビー級選手権試合
プリンス・デビットvs飯伏幸太

内藤哲也 vs 高橋裕二郎/2/2
天山広吉、永田裕志、井上亘 vs 飯塚高史、田中将斗、石井智宏

CMLL世界ウェルター級選手権試合
田口隆祐 vs マスカラ・ドラダ

獣神サンダー・ライガー、タイガーマスク、KUSHIDA vs 外道、邪道、キラーラビット
金本浩二 vs 高橋広夢

ノア
潮崎豪凱旋大会
熊本市流通情報会館 18:00

杉浦貴、モハメドヨネ vs 潮崎豪、谷口周平
金丸義信、KENTA、平柳玄藩 vs バイソン・スミス、ロデリック・ストロング、ボビー・フィッシュ
佐々木健介 vs 相島勇人
吉江豊 vs 宮原健斗
井上雅央 vs 中嶋勝彦
秋山準、齋藤彰俊 vs 鈴木鼓太郎、石森太二
森嶋猛 vs リッキー・マルビン
小川良成 vs 青木篤志

ドラゴンゲート
CHAMPION GATE in HAKATA 2連戦・初日
福岡・博多スターレーン 18:00

オープン・ザ・トライアングルゲート王座決定戦
CIMA、土井成樹、B×Bハルク vs 吉野正人、YAMATO、Gamma

オープン・ザ・ブレイブゲート選手権試合
PAC vs リコシェ

堀口元気、サイバー・コング vs 鷹木信悟、ドラゴン・キッド
戸澤陽 vs 横須賀享
谷嵜なおき vs ドン・フジイ
神田裕之、斎藤了、トマホークT.T vs 望月成晃、スペル・シーサー、リッチ・スワン

K-DOJO
CLUB-K SUPER take
東京・後楽園ホール 19:00

CHAMPION OF STRONGEST-K選手権
火野裕士vs真霜拳號

海援隊★DXファイナルカウントダウン・FINAL
ディック東郷/MEN'Sテイオー/TAKAみちのく/FUNAKI/中島半蔵/with カズ・ハヤシvsザ・グレート・サスケ/スペル・デルフィン/新崎人生/グラン浜田/ヨネ原人

インディペンデント・ワールド・ジュニアヘビー級選手権
タイガースマスク(大阪プロレス)vs柏大五郎

リトル☆ギャラクシー vs 彩連's総力戦
8人タッグイリミネーションマッチ
旭志織/ヒロ・トウナイ/佐藤悠己/2代目シルバーウルフvs
滝澤大志/梶トマト/マリーンズマスク/ジャイアント・マリーンズ

千葉6人タッグ選手権次期挑戦者チーム決定戦》
HIROKI/関根龍一/房総ボーイ雷斗vsダンディ拓也/稲松三郎/JOE

KAZMA/山縣優/杉浦透(D.E.P)vsYOSHIYA/バンビ/田島久丸(ドラディション)

STYLE-E
西調布格闘技アリーナ 19:00
STYLE-E

たむたけイデオロギー闘争~2ndラウンド~
竹田誠志&佐々木大輔 vs 田村和宏&冨宅飛駈

ファイティン☆ヘビー・デューティー
柴田正人 vs 藤田MI太郎

獅子殿復帰戦~天下無双の傾き獅子、大家慶次郎にて候~
大家慶次郎&趙雲`骨`子龍&関白・豊臣宏志 vs GGG(GENTARO)&安部捨丸&翔太

妖怪ジメジメ大戦争~梅雨をぶっ飛ばせ!
末吉利啓&ダイスケ&石井慧介 vs 砂かけCHANGO&アミゴの親父&ぬりかべあ~

スタイルEフレッシュファイト
山田太郎&那須晃太郎 vs 吉野達彦&妻木洋夫

スポルティーバ 
スポルティーバでちゃんとしNight!(仮)
愛知Sportiva 19:00~

ミスター6号 vs 小仲=ペールワン
ミスター8号 vs 彰人

大阪プロ 大阪ミナミ ムーブ・オン アリーナ 18:00
沖縄プロ 沖縄・デルフィンアリーナ国際通り 20:00
アイスリボン
アイスリボン300
埼玉・イサミレッスル武闘館 18:00

都宮ちいvs志田光

さくらえみvs成宮真希

趙雲子龍vsRay

藤本つかさ/星ハム子/宮城もち/vsみなみ飛香/りほ/つくし

WAVE
HIROSHIMAWAVE ~BU☆TI~
広島県立広島産業会館(西展示場) 18:30

GAMI/コマンド・ボリショイ/紫雷イオvs
春日萌花/豊田真奈美/飯田美花

植松寿絵/輝優優vs桜花由美/大畠美咲

広田さくら/レイ:パロマvs華名/魁

Catch the WAVE
ビジュアルブロック・リーグ公式戦
栗原あゆみvs紫雷美央

Catch the WAVE
テクニカルブロック・リーグ公式戦
チェリーvs水波綾

JML 東京・新木場1st RING 18:00
Strikeforce
Overeem vs Werdum
アメリカンエアラインズ・センター

ヘビー級ワールドGP準々決勝
アリスター・オーフレイムvsファブリシオ・ベルドゥム
ジョシュ・バーネットvsブレッド・ロジャース

ダニエル・コーミアーvsジェフ・モンソン
ヴァレンタイン・オーフレイムvsチャド・グリッグス
KJ・ヌーンvsホルヘ・マスヴィダル
JZ・カバウカンチvsジャスティン・ウィルコックス
コーナー・ヒュンvsマグノ・アルメイダ

 

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試合結果


◆新日本

IWGPヘビー級選手権試合
○棚橋弘至(25分28秒 ハイフライフロー)後藤洋央紀×
※第56代王者・棚橋弘至が5度目の防衛に成功。

IWGPタッグ・GHCタッグダブル選手権試合
○ジャイアント・バーナード、カール・アンダーソン(12分03秒 ツームストーン・パイルドライバー)高山善廣、佐野巧真×
※第57代IWGPタッグ王者組・バーナード&アンダーソンが8度目の防衛に成功。
※バーナード&アンダーソンが第22代GHCタッグ王者組。高山&佐野が5度目の防衛に失敗。

IWGPインターコンチネンタル選手権試合
○MVP(10分50秒 レッグロール・クラッチホールド)矢野通×
※初代王者・MVPが初防衛に成功。

○鈴木みのる、ランス・アーチャー(12分39秒 ゴッチ式パイルドライバー)真壁刀義、小島聡×

IWGP Jr.ヘビー級選手権試合
○飯伏幸太(13分49秒 ファイアーバード・スプラッシュ)プリンス・デヴィット×
※飯伏幸太が第61代IWGP Jr.ヘビー級王者。プリンス・デヴィットが8度目の防衛に失敗。

○高橋裕二郎(11分12秒 東京ピンプス)内藤哲也×
○永田裕志、天山広吉、井上亘(9分12秒 バックドロップ・ホールド)飯塚高史、田中将斗、石井智宏×

CMLL世界ウェルター級選手権試合
○マスカラ・ドラダ(8分26秒 エビ固め)田口隆祐×
※マスカラ・ドラダが新王者。田口隆祐が3度目の防衛に失敗。

○ブライアン・ケンドリック、外道、邪道(8分33秒 スライス・ブレッド#2)獣神サンダー・ライガー、タイガーマスク、KUSHIDA×
※キラー・ラビット→ブライアン・ケンドリックに変更。
○金本浩二(3分04秒 逆片エビ固め)高橋広夢×

◆ノア

○佐々木健介[11分12秒 体固め]×相島勇人
平柳玄藩、○KENTA、金丸義信[20分55秒 片エビ固め]×フィッシュ、ストロング、スミス
谷口周平、○潮崎豪[25分36秒 体固め]×モハメドヨネ、杉浦貴

◆ドラゴンゲート

サイバ-・コング、○堀口元気[15分32秒 バックスライド・フロム・ヘル]×ドラゴン・キッド、鷹木信悟
▽オープン・ザ・ブレイブゲート選手権試合
○PAC(王者)[16分6秒 エビ固め]×リコシェ(挑戦者)
▽オープン・ザ・トライアングルゲート王座決定戦
○Gamma、YAMATO、吉野正人[24分14秒 片エビ固め]B×Bハルク、×土井成樹、CIMA

◆大阪プロレス

▽3WAYマッチ
○えべっさん[9分54秒 園田スープレックスホールド]×アップルみゆき
※もう1人は松山勘十郎
▽大阪タッグフェスティバル2011公式戦
○秀吉、政宗[13分19秒 片エビ固め]ツバサ、×くいしんぼう仮面
○タダスケ、ヲロチ[23分44秒 体固め]アルティメット・スパイダーJr.、×タコヤキーダー


◆K-DOJO
CHAMPION OF STRONGEST-K選手権試合
○真霜拳號(30分31秒 垂直落下式ブレーンバスター)火野裕士×
※第10代王者・火野が5度目の防衛に失敗。真霜拳號が第11代王者。

海援隊★DXファイナルカウントダウン・FINAL 10人タッグマッチ
○ディック東郷、MEN'Sテイオー、TAKAみちのく、FUNAKI、中島半蔵 with カズ・ハヤシ
(13分50秒 ダイビング・セントーン)ザ・グレート・サスケ、スペル・デルフィン、新崎人生、グラン浜田、ヨネ原人×

インディペンデント・ワールド・ジュニアヘビー級選手権試合
○柏大五郎(18分24秒 柏クラッチ3)タイガースマスク×

リトル☆ギャラクシー vs 彩連’S総力戦 8人タッグイリミネーションマッチ
○ジャイアント・マリーンズ、滝澤大志、梶トマト、マリーンズマスク
(1人残りで彩連’Sの勝利 15分41秒 スプラッシュ・マウンテン)旭志織、佐藤悠己、2代目シルバーウルフ、ヒロ・トウナイ×

千葉6人タッグ選手権次期挑戦者チーム決定戦
○稲松三郎、ダンディ拓也、JOE(8分48秒 デスバレーボム)HIROKI、房総ボーイ雷斗、関根龍一×

○KAZMA、山縣優、杉浦透(6分46秒 AXボンバー)バンビ、田島久丸、YOSHIYA×

◆アイスリボン

○さくらえみ[7分23秒 エビ固め]×成宮真希
趙雲子龍[時間切れ引き分け]Ray
▽30分3本
○宮城もち、○星ハム子、○藤本つかさ[3-0]×つくし、×りほ、×みなみ飛香


◆WAVE
○広田さくら/レイ・パロマ(16分7秒ときめきメモリアル→体固め)華名/●魁○チェリー【1勝1敗1分=3点】(9分24秒 春夜恋)●水波綾【3敗=0点】
春日萌花/○豊田真奈美/飯田美花(24分31秒 ジャパニーズ・オーシャン・クインビーボム→片エビ固め)●GAMI/コマンドボリショイ/紫雷イオ
○栗原あゆみ【1勝2敗=2点】(12分2秒 変形裏投げ→片エビ固め)●紫雷美央【2敗1分=1点】
○植松寿絵/輝優優(18分50秒 ドラゴン・スープレックス・ホールド)●桜花由美/大畠美咲

◆Strieforce

ヘビー級トーナメント1回戦
○アリスター・オーフレイム(判定 3-0)ファブリシオ・ヴェウドゥム×
○ジョシュ・バーネット(2R 肩固め)ブレット・ロジャース×

○ダニエル・コルミエール(判定 3-0)ジェフ・モンソン×
×ヴァレンタイン・オーフレイムン [1R判定TKO] ○チャド・グリッグス
JZ・カルバン[無効試合 2R0分31秒]-ジャスティン・ウィルコックス
※カルバンの指がウィルコックスの目に入る偶発性のサミングにより続行不可能に
○コナー・ヒュン[判定 3-0]×マグノ・アルメイダ
○ナーション・バレル[判定 3-0]×ジョー・レイ
○アイザック・ヴァリーフラッグ[判定 2-1]×ブライアン・メランコン

  


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