三沢 光晴
1962/6/18 - 2009/6/13
本名は三澤 光晴は、日本のプロレスラー。1981年に全日本プロレスにてデビュー。同団体のトップレスラーとして活躍した後、2000年にプロレスリング・ノアを旗揚げ。レスラー兼社長として同団体を牽引した。2009年6月13日、試合中の事故により死亡した。46歳没。
経歴
少年時代
1962年6月18日、北海道夕張市に生まれる。父親は北海道炭礦汽船に勤務していたが、三沢が生まれて間もなく夕張炭鉱が閉山同然の状態となったため、一家は埼玉県越谷市へ転居した。
三沢は子供のころから体が大きく、小学校時代に越谷市が開催した走り幅跳びの大会で優勝するなど、運動神経が良かった。中学校では器械体操部に入部。三沢曰く、器械体操を経験したことがプロレスの飛び技に生きているという。
中学2年の時、テレビで全日本プロレス中継を見て「観るよりやるほうが絶対におもしろい」と直感した三沢はプロレスラーを志すようになる。三沢は中学校を卒業してすぐにプロレスラーになるつもりだったが、担任の教師と母親にアマチュアレスリングの強い高校へ進学して基礎を学んでからの方がよいと説得され、足利工業大学附属高等学校に特待生として進学した。レスリング部に入部した三沢は高校の3年間を学校の寮で過ごし、ハードな練習に明け暮れる日々を送った。休みは大晦日と正月三が日のみであった。三沢は3年の時に国体(フリースタイル87kg級)で優勝するなど活躍したが、本人にとってアマチュアレスリングはプロレスラーになるための手段に過ぎず、競技自体を好きになることはなかった。
なお、高校2年の時、三沢は寮を抜け出して全日本プロレスの事務所を訪れ、入門を志願したことがある。この時はジャンボ鶴田に高校を卒業してから来るよう諭され、断念している。
全日本プロレスに入門 [
高校卒業後の1981/3/27、全日本プロレスに入団。同年8/21に浦和競馬場正門前駐車場で行われた越中詩郎戦でデビューした。入門から5か月でのデビューは全日本プロレス史上最速であった。三沢の1年前に入団したターザン後藤によると三沢は受け身を覚えるのが早く、またたく間に後藤と同じレベルに達したという。当時の全日本プロレスでは、ジャンボ鶴田や桜田一男(ケンドー・ナガサキ)など、身長190センチ前後のレスラーが活躍する傾向にあったが、若手レスラーの指導に当たっていた佐藤昭雄の後押しを受けて頭角を現すようになる。ちなみに、当時の全日本プロレス練習生の月給は5万円であったが、三沢だけは特別に7万円貰っていた。
2代目タイガーマスクとして活躍
1984年春、三沢は越中詩郎とともにメキシコへ遠征に出た。数か月が経ったある日、三沢は馬場に国際電話で「コーナーポストに飛び乗れるか」と問われ、飛び乗れると答えたところ帰国するよう命じられた。帰国後、三沢は馬場に2代目タイガーマスクとなるよう命令を受ける。三沢は佐山聡の初代タイガーマスクの二番煎じであったことに抵抗を感じたが、すでに2代目タイガーマスクのデビュー戦のスケジュールは組まれていた。
三沢は8月26日、ラ・フィエラ戦で2代目タイガーマスクとしてデビュー。はじめは小林邦昭を破ってNWAインターナショナル・ジュニア王座を獲得するなどジュニアヘビー級で活躍し、1985年10月にヘビー級に転向した。タイガーマスク時代の三沢は、本来自身が目指すプロレスを前面に出せない(渕正信によると、三沢には「もっと寝技をやりたい」という願望があった)ことと、初代タイガーマスク(佐山聡)が確立した華麗な空中技を受け継ぐ必要性に苦しんだ。また空中技を多用したことで膝に負担がかかり、左膝前十字靱帯断裂を引き起こし、負傷箇所の手術を受けるため1989年3月から1990年1月にかけて長期欠場を余儀なくされた。なお、全日本プロレスは「タイガーマスクは1年に1つ新しい技を開発する」と宣伝していたため、三沢がタイガーマスク時代に開発した技の名前には「タイガー・スープレックス84」といった具合に開発年がついている。ちなみに三沢は2代目タイガーマスクとして活動していた最中の1988年5月に結婚したが、その際記者会見で正体を明かし、その上で2代目タイガーマスクとしての活動は続行させるという、覆面レスラーとしては異例の行動に出ている。
超世代軍・プロレス四天王の中心として活躍
1990年春、天龍源一郎が全日本プロレスを退団しSWSへ移籍、複数のプロレスラーが天龍に追随した(SWS騒動)。この騒動により、全日本プロレスは天龍対鶴田という当時の黄金カードを失うことになった。騒動の最中の5月14日、三沢は試合中にタイガーマスクのマスクを脱ぎ、三沢光晴に戻ると同時にポスト天龍に名乗りを挙げた。三沢は川田利明、小橋健太らとともに超世代軍を結成。1990/6/8に「全日の『強さ』の象徴だった」ジャンボ鶴田とのシングルマッチで勝利を収め、1992/8/22にはスタン・ハンセンを破って三冠ヘビー級王座を獲得するなど、超世代軍の中心レスラーとして活躍した。超世代軍とジャンボ鶴田を中心とする鶴田軍との世代抗争は全日本プロレスの新たな名物カードとなった。とくに超世代軍は高い人気を獲得し、全日本プロレスに大きな収益をもたらした。永源遙曰く、超世代軍の人気は初代タイガーマスクを凌ぐほどであった。三沢はこの時期にエルボーやフェイスロックといった必殺技を習得した。
1992年7月にジャンボ鶴田が内臓疾患により長期休養を余儀なくされたことにより超世代軍と鶴田軍の抗争は終わりを告げ、同時に三沢は全日本プロレスの実質的なエースとなった。超世代軍の活動は1993年に川田が離脱したことで区切りを迎え(正式に解散したのは1998年)、それ以降は小橋・川田・田上明とともにプロレス四天王(後に秋山準が加わり「五強」と呼ばれた)の一人として全日本プロレスの中心を担った。三沢は1992年8月から1999年10月にかけて三冠統一ヘビー級王座を5度獲得、21度防衛。1994/3/5には全日本プロレスの象徴的存在であったジャイアント馬場からタッグマッチでフォール勝ちし、名実ともに同団体を代表するレスラーとなった。
超世代軍が結成された当時、馬場は凶器攻撃、流血、リングアウト・反則・ギブアップによる決着のない、3カウントによってのみ決着するプロレスを理想とするようになり、三沢たち超世代軍のレスラーは馬場の理想を具現化すべく、大技をカウント2.9で返し続ける激しい試合を行うようになった。プロレス四天王の時代になると、三沢たちは次第に考案者である馬場の想像すら凌駕する激しい試合を繰り広げるようになった。三沢が川田と対戦した1997/6/6の三冠統一ヘビー級王座のタイトルマッチは、馬場が「あまりにもすごい」と涙したほど激しい試合として知られる。三沢自身は小橋健太との戦いを「極限の力を見せることができる」戦いとして認識しており、両者の試合の激しさは三沢自身が死の恐怖を感じることがあったほどであった。このような、大技を連発するプロレスは「四天王プロレス」と呼ばれた
全日本プロレスの社長に就任
全日本プロレスではジャイアント馬場の妻の馬場元子が会社の運営について大きな発言権を有し、試合会場での実務や対戦カードにまで口出しする状況が生まれていた。仲田龍(全日本プロレスのリングアナウンサー。後にプロレスリング・ノア統括本部長)によると三沢は1996年、元子に反発を覚えるレスラーや社員を代表する形で、「周囲の人間の声に耳を傾けた方がよい」という内容の忠告をした。それをきっかけに三沢は元子と対立するようになり、1998年には馬場に対し所属レスラーを代表して「元子さんには現場を退いてもらえないでしょうか」と直談判するなど、対立を深めていった。
1999年に馬場が死去すると、マッチメイクなど現場における権限を譲り受けていた三沢はレスラーの支持を受けて後継の社長に就任した。ただし馬場の死後3か月間もの間紛糾した末の人事であった。三沢は就任時に「いいものは採り入れて、今までとは違う新しい風を吹き入れてやっていきたい」と抱負を語ったものの、全日本プロレスの株式は三沢ではなく馬場元子が保有しており、何をするにも自分に断りを入れるよう要求する元子の前に思うように会社を運営することができなかった。和田京平によると元子は三沢が決めたマッチメイクに対して必ず反対意見を出した。また仲田龍曰く、三沢には馬場の運営方針を100%受け継ぐことが求められ、新たな試みを行うことは一切禁じられた。後に三沢はこうした環境が「オレのやろうとすることが、尊敬する馬場さんが作り上げたプロレスを汚すと言われるなら、全日本らしくないと非難されるなら、俺のほうが身を引く」と全日本プロレス退団を決意する原因になったと語っている。さらに三沢によると、経営に関する不透明な部分を目にするうちに全日本プロレスに対する不信感が募ってプロレスそのものに愛想が尽きかねない心境になり、そうなる前に退団した方がいいと思うようになった。
プロレスリング・ノア設立〜最期
2000/5/28、臨時取締役会において三沢は社長を解任された。これを受けて6月13日、三沢は定例役員会において取締役退任を申し出た。これをもって三沢は全日本プロレスを退団することになった。三沢はすでに退団後に新団体を設立する構想を抱いており、6/16に記者会見を開いて新団体設立を宣言した。三沢の当初の構想は居酒屋を経営しながら5人の新人を育成し、3試合ほどの小さな興行を催すというものであったが、三沢以外に9人いた取締役のうち5人が三沢に追随して退任するなど社内から三沢の行動に同調する者が続出、全日本プロレスを退団して新団体に参加するレスラーは練習生を含め26人にのぼった。一方、全日本プロレスへの残留を表明したレスラーは川田利明と渕正信、マウナケア・モスマン、馳浩の4人だけであった。予想より多くの選手が新団体への参加を表明したため三沢は資金繰りに苦しみ、自身の保険を解約し、さらに自宅を担保に金を借り入れて選手たちの給料にあてた。三沢はこの事実を公にすることを嫌っていたが、死後、徳光和夫によってテレビ番組で公表された。
7/4、新団体の名称は「プロレスリング・ノア」(由来は『創世記』に登場するノアの方舟)に決まったことが発表され、8/5にディファ有明で旗揚げ戦が行われた。ディファ有明は三沢と行動をともにした仲田龍と関係の深い施設で、プロレスリング・ノアの事務所と道場もここに置かれた。
なお、三沢にはノア旗揚げ後の時期に全日本プロレスの興行に出場する契約があった。三沢は興行主への配慮から7月に全日本プロレスの興行に4日間出場している。13日に愛媛国際貿易センターで行われた試合では観客から「裏切り者」と罵声を浴びせられた。これに対し三沢は「ファンは大切だけど、その人の思い込みに何でオレが従わなければいけないんだ。オレの人生をその人が保証してくれるのか。」と怒りを露わにした。
仲田龍曰く、ノア旗揚げ後の三沢の体調は常に悪く、思うように練習ができない日々が続いた。しかし三沢はノアの社長として試合に出続け、GHCヘビー級王座を3度(初代、5代、11代)、また小川良成とのコンビでGHCタッグ王座を2度(2代、8代)獲得。2007年には同王座チャンピオンとして防衛を続け、それまで縁のなかったプロレス大賞MVPに当時史上最年長(45歳)で選出された。また2009年5月6日には潮﨑豪とのコンビで第2回グローバル・タッグ・リーグ戦の優勝を果たした。
晩年の三沢は頸椎に骨棘ができて下を向くことが困難になり、右目に原因不明の視力障害が起こるなど体力面の不安が深刻化。さらに肩、腰、膝にも慢性的な痛みを抱えていた。頚部は歯を磨いたり、ガウンの襟の部分が当たったり、寝返りを打つだけで痛みが走る状態にあった。休養をとるよう勧める声もあったが、それに対し三沢は次のように反論し、ノア旗揚げ後のすべての興行に出場した。
2009/6/9、東京スポーツの取材に応じた三沢は「もうやめたいね。体がシンドイ。いつまでやらなきゃならないのかなって気持ちも出てきた。」と語っている。それから4日後の6月13日、三沢は広島県立総合体育館グリーンアリーナ(小アリーナ)で行われたGHCタッグ王座選手権試合に挑戦者として出場。試合中、齋藤彰俊の急角度バックドロップを受けた後、意識不明・心肺停止状態に陥った。リング上で救急蘇生措置が施された後、救急車で広島大学病院に搬送されたが、午後10時10分に死亡が確認された。46歳没。翌14日、広島県警広島中央署は死因をバックドロップによって頭部を強打したことによる頸髄離断(けいずいりだん)であると発表した。
死後
6/19に東京・中野区の宝仙寺にて密葬が行われ、200人が参列した。法名は「釋慈晴」(しゃくじはる)。遺影には「リングの上の栄光の瞬間や社長としてのスーツ姿ではなく、2000年に1度だけ参戦した耐久レースにおいてレーシングスーツを着て笑っている写真」が家族の意向で選ばれた。日刊スポーツは「トップレスラーとしてプロレス団体社長として家族として責任を背負い続けてきたので、最後くらいは解放させてあげたい」という家族の配慮があったと報道した。7/4ディファ有明にて献花式「三沢光晴お別れ会
〜DEPARTURE〜」が開催され、プロレス関係者やファンなど約26,000人が参列した。。
三沢の後任の社長には田上明が就任し、2009年秋には三沢光晴追悼興行として「GREAT VOYAGE '09 in TOKYO」が9/27に、「GREAT
VOYAGE '09 in OSAKA」が10/3に行われた。
三沢の死の翌日(6月14日)には、大阪プロレスでもレフェリーのテッド・タナベが試合終了直後に急性心筋梗塞を発症し、翌日死亡している。プロレス界で立て続けに発生した2件の問題を受け、6/18に行われた自民党文部科学部会・文教制度調査会の合同会議において、再発防止策や選手の健康管理について意見交換が行われ、プロレス関係者から仲田龍取締役、新日本・菅林直樹社長、全日本・武藤敬司社長が出席した。仲田は、会議終了後「レフェリーや対戦相手は、戦いながら相手の状況を観察してもらう技術を身に付けてほしい」と再発防止を強調した。
年表 [
- 1962年6月18日、誕生。
- 1978年、足利工業大学附属高等学校に入学、レスリングに入部。
- 1981年4月、全日本プロレスに入門。
- 同年8/21、デビュー(於浦和競馬場正門前特設リング、越中詩郎戦)。
- 1984年3月、越中詩郎と共にメキシコに遠征に出発。メキシコシティなどで試合を行う。
- 同年7月、極秘帰国し、2代目タイガーマスクに変身。
- 1988/5/10、結婚。
- 1990/5/14、試合中に自らマスクをとり、素顔の三沢光晴に戻る。
- 同年6/8、ジャンボ鶴田とのシングルマッチで勝利を収めた。
- 1992/8/22、スタン・ハンセンを破って初めて三冠ヘビー級王座を獲得。
- 1994/3/5、タッグマッチでジャイアント馬場からフォール勝ちを収めた。
- 1999年5月、全日本プロレスの社長に就任。
- 2000年6月、全日本プロレスを退団し、新団体(プロレスリング・ノア)を旗揚げ。
- 2006/9/12、グローバル・レスリング連盟(GPWA)が発足。初代会長に就任する。
- 2009年6月13日、試合中に意識を失い、搬送先の病院で死去。46歳没。
主な試合
1981年
- 8/21 - 埼玉・浦和競馬場正門前特設リングにて同期の越中詩郎を相手にプロレスデビュー。
- 10月 - シングル戦初勝利。
1983年
1984年
- 3月 - 越中と共にメキシコに遠征に出発。メキシコシティなどで試合を行う。
(同年7月極秘帰国し、2代目タイガーマスクに変身)
- 8/26 - 田園コロシアムにてラ・フィエラを相手にデビュー戦を行い、8分37秒、タイガー・スープレックス'84で勝利。
1985年
- 6月 - 日本武道館にて小林邦昭の持つNWAインターナショナルジュニアヘビー級王座にタイトル初挑戦するも敗退(2代目タイガーマスクとして初のフォール負け)。直後から痛めていた左膝の治療と肉体改造(ヘビー級転向をにらんだウエイトアップ)に専念するために試合を欠場。
- 8月 - 両国国技館大会で復帰。小林邦昭の持つNWAインターナショナルジュニアヘビー級王座に再挑戦、15分36秒、タイガー・スープレックス'85で勝利しシングル王座初戴冠。
- 10月 - チャボ・ゲレロを相手に王座初防衛。
1986年
- 3/13 - 日本武道館でのジャパンプロレスとの全面対抗戦で長州力と唯一のシングル対決。長州のサソリ固め返しを披露するなど奮闘するも、リキラリアットでフォール負け。
- 3月 - 後楽園ホール大会のリング上でヘビー級転向を正式に表明する。この時すでに保持しており防衛戦を行っていなかったNWAインターナショナルジュニアヘビー級王座を返上する(同年7月にこの王座は世界ジュニアヘビー級王座に改称される)。
- 10月 - 猛虎七番勝負が始まる。1988年3月までに7戦が行われ3勝4敗の成績に終わる。
1987年
- 7月 - 後楽園ホールにてジャンボ鶴田をパートナーにPWF世界タッグ王座に挑戦、スタン・ハンセン、テッド・デビアス組に勝利し第3代王者になるも8日後のリターンマッチに敗れ王座陥落。
1988年
- 1月 - 後楽園ホールにてカート・ヘニングの持つAWA世界ヘビー級王座に挑戦。リングアウト勝ちを収めるがAWAルールにより王座移動はせず。
- 4月 - 両国国技館で開催された「'88格闘技の祭典」のメインイベントに馬場とのタッグで出場、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ジョージ・スコーラン組に勝利する。また、同興行にシューティングのエキシビションで出場していた初代タイガーこと佐山聡を激励する形で、初のツーショットが実現している。
-
- 5/10に現夫人と結婚。同時にタイガーマスクの正体を公表する。
- 6月 - 仲野信市・高木功・高野俊二・田上明と共に決起軍を結成。
- 9月 - 試合中の怪我で左膝の靭帯を切断。シリーズを数日間欠場しただけで無理をして復帰する。
1989年
- 3月 - 日本武道館にてリッキー・スティムボートの持つNWA世界ヘビー級王座に挑戦し敗北。
この試合後左膝の怪我が深刻化、手術を受けるために長期欠場に入る 。この間に決起軍解散(馬場の「全然、決起してない」という一喝から)1990年
- 1月 - リング復帰。
- 2月 - 新日本プロレスのリック・フレアー来日中止騒動の余波から「'90 スーパーファイトIN闘強導夢」に天龍とのタッグで出場。自身初の交流戦に挑む。長州力・ジョージ高野に勝利。
- 4/13 - 全日本プロレス、新日本プロレス、そしてWWF(現・WWE)との3団体合同による「日米レスリングサミット」を東京ドームにて開催。ブレット・ハートとのシングルマッチを戦い、20分時間切れで引き分ける。
- 4月 - 岡山武道館にて小橋健太(現:小橋建太)をパートナーにカンナム・エクスプレスの持つアジアタッグ王座に挑戦、勝利。第51代王者となった。
(5/14、試合中に自らマスクを取って投げ捨て、素顔の三沢光晴に戻る。)
- 5/17 - 広島県立総合体育館にてアジアタッグ王座初防衛後に返上。
- 6/8 - 日本武道館にてジャンボ鶴田との一騎討ち。これに勝利して下の世代で初めて鶴田越えを達成。
- 8月の強化合宿にて川田・田上・小橋・菊地毅・浅子と共に「超世代軍」結成。
田上は鶴田のパートナー指名を受けて超世代軍としての活動を
ほとんどしないまま離脱。1991年
- 7月 - 石川県産業展示館にて川田をパートナーに世界タッグ王座挑戦、ゴディ&ウィリアムスを破り王座奪取。第17代王者となった。
- 9月 - 日本武道館にて川田をパートナーに鶴田&田上明組と世界タッグ王座防衛戦。フェイスロックにより鶴田から初ギブアップ勝ちを奪う。世界最強タッグ決定リーグ戦に伴い王座返上。
1992年
- 8月 - 日本武道館にてハンセンの持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦、勝利し第10代王者に。
- その直後、鶴田がB型肝炎発症を理由に長期離脱。名実共に全日本のエースになる。
- 12月 - 日本武道館にて川田をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦で田上&秋山準組を下し優勝、第20代世界タッグ王者となった。
1993年
- 1月、千葉県体育館にて世界タッグ王座防衛戦、ゴディ&ウィリアムス組に敗れ王座転落。
-
- 4月、川田が超世代軍離脱を表明。いわゆる四天王プロレスが幕を開ける。
- 12月 -
日本武道館にて小橋をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦で川田&田上組を下し優勝、第24代世界タッグ王者となった。
1994年
- 3月 - 馬場から初のピンフォール勝ち。チャンピオン・カーニバルのダグ・ファーナス戦で喰らったフランケンシュタイナーが原因で歩行困難に。途中リタイアとなった。
- 6月 - 日本武道館にてチャンピオン・カーニバル優勝者の川田利明を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛戦、タイガードライバー’91で防衛。
- 7月 - 日本武道館にてスティーブ・ウィリアムスを相手に三冠統一ヘビー級王座防衛戦、ウィリアムスの殺人バックドロップの前に敗れ王座転落。
- 12月 -
日本武道館にて小橋をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦でウィリアムス&エース組を下し優勝。第25代世界タッグ王者となった。
1995年
- 1月 - 山形県体育館にて川田&田上組を下し世界タッグ王座初防衛。
- 4月 - チャンピオン・カーニバルの試合中に川田の蹴りを浴びて左眼窩骨折の重傷。以後、試合に出続けて、日本武道館での優勝決定戦で田上に勝利して初優勝。
- 5月 - 札幌中島体育センターにてハンセンの持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦、勝利し第14代王者に。
- 6月 - 日本武道館にて川田&田上組に敗れ世界タッグ王座から転落。初めて川田からピンフォール負けを喫した。
- この試合は1995年度プロレス大賞年間最高試合賞を受賞。
- 12月 - 日本武道館にて小橋をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦で川田&田上組を下し2連覇。
1996年
- 5月 -
札幌中島体育センターにて秋山をパートナーに川田&田上組の世界タッグ王座に挑戦。勝利し第29代王者になる。札幌中島体育センターにて田上を相手に三冠統一ヘビー級王座戦。田上の迎撃式のど輪落としに敗れ王座転落。
- 9月 - 日本武道館にてウィリアムス&エース組に敗れ世界タッグ王座から転落。
1997年
- 1月 - 大阪府立体育会館にて小橋の持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦、40分を越える激闘を制し王座奪取。第17代王者になる。
-
- 10/21 - 日本武道館にて小橋を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。この年のプロレス大賞・ベストバウト賞に選ばれる大激闘だった。
1998年
- 4月 - 日本武道館のチャンピオン・カーニバル優勝決定戦で秋山を下し3年ぶりの優勝。
- 5月 - 全日本初の東京ドーム大会開催。川田に敗れ三冠統一ヘビー級王座を失う。長く続く激闘を考慮し、馬場社長の命を受け暫く休養に入る。8月に復帰。この間自ら志願して一部試合のマッチメイクを任される。
- 9月 - 秋山戦に敗れた小川良成に試合後寄り添い、タッグチーム「アンタッチャブル」結成。超世代軍はこれをもって消滅。
- 10月 - 日本武道館にて小橋の持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦。王座奪回に成功し第20代王者に。
- この試合でプロレス大賞・ベストバウト賞を2年連続受賞。
1999年
- 1月 - 大阪府立体育会館大会で川田利明に垂直落下式ブレーンバスターで敗れ、王座転落。ただし、川田は右腕尺骨骨折のため直後に王座返上。
- 5月 - 1月に死去したジャイアント馬場の引退興行として行われた東京ドーム大会にてベイダーの持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦。王座奪回に成功し第23代王者に。大会後、選手会の強い要請を受け全日本社長に就任、三沢体制が誕生する。
- 8月 - 広島市東区スポーツセンターにてアンタッチャブルとしてノーフィアーの持つ世界&アジア両タッグに挑戦、勝利し第39代世界タッグ王者、第67代アジアタッグ王者に。この時三沢は三冠ヘビー級王座、小川は世界ジュニアヘビー級王座を保持しており、二人で全日本に存在するタイトルを総ナメにした。その後アジアタッグは即返上。
- 10月 -
愛知県体育館にて小橋&秋山組を相手に世界タッグ王座防衛戦、王座転落。日本武道館にて三冠統一ヘビー級王座にベイダーの挑戦を受けるも、敗北し王座転落。
2000年
- 4月 - チャンピオン・カーニバルでベイダーを裏十字固めで骨折させ、勝利。
- 5月 - 臨時取締役会議にて代表取締役を解任。
- 6月 - 全日本プロレスを退団、プロレスリング・ノアを設立。
- 8月5日 - プロレスリング・ノア旗揚げ戦開催。
- 10月 - 「アンタッチャブル」を「WAVE」に名称を変更、池田大輔と丸藤正道が加わる。
- 12月 - 有明コロシアムにて因縁のベイダーとのシングルマッチをランニングエルボーで勝利。
2001年
- 1月 - 橋本とタッグマッチで対戦。闘魂三銃士と初めて手を合わせる。
- 3/21、団体公認のベルトGHCヘビー級王座をかけたトーナメント戦が開始。
- 4月、有明コロシアムにて高山善廣をエメラルド・フロウジョンで下し初代GHCヘビー級王者となった。
- 7月 - 旗揚げ1周年興行で念願だった日本武道館に進出。メインで秋山準を相手にGHCヘビー級王座防衛戦に臨むも敗北。
- 11月 - 小川良成をパートナーにベイダー&スコーピオ組からGHCタッグ王座獲得。
- 12月 - 有明コロシアムで高山善廣&大森隆男組に敗れGHCタッグ王座を失う。
2002年
- 5/2 - 新日本との交流戦で新日本東京ドーム大会に参戦し蝶野正洋とシングルマッチで対戦、かつてのお互いの団体の主を象徴する技であるランニング・ネックブリーカー・ドロップや卍固めを掛け合う攻防を展開、30分フルタイムで引き分ける。
- 9/23 - 「GREAT VOYAGE 2002」日本武道館大会にて高山善廣を下しGHCヘビー級王座奪還に成功、第5代王者に返り咲く。
2003年
- 3/1 - 「Navigate for Evolution 2003」最終戦 日本武道館大会において、完全復帰を果たした小橋建太を相手にGHCヘビー級王座防衛戦に挑むも、小橋のバーニング・ハンマーの前に敗れる。
- この試合は2003年度プロレス大賞ベストバウト賞を受賞。
2004年
- 1月 - 小川良成とのコンビで新日本の永田裕志・棚橋弘至組に流出していたGHCタッグ王座に挑戦、ベルト奪還に成功。
- 7月10日 - ノア初の「DEPARTURE 2004」東京ドーム大会を開催。GHCタッグ選手権試合にて全日本の武藤敬司&太陽ケア組と対戦、防衛に成功。
- これで三沢は新日本出身のいわゆる闘魂三銃士と全て手を合わせたことになる。
2005年
- 1/23 - 最終戦 神戸大会ワールド記念ホールにおいてスコーピオ&ダグ・ウイリアムス組に敗れGHCタッグ王座を失った。
- 9/18 - 「2nd GREAT VOYAGE 2005」日本武道館大会において、力皇猛の持つGHCヘビー級王座に挑戦するも敗北。
これにより1992年より続いていたシングルタイトル挑戦成功率100%の
記録が途切れた。
2006年
- 12/10 - 「GREAT VOYAGE 2006」日本武道館大会において、丸藤正道の持つGHCヘビー級王座に挑戦。雪崩式エメラルド・フロウジョンで勝利し、第11代王者に返り咲いた。
2007年
- 12/10 - GHCヘビー級王座を7度防衛。プロレス大賞最優秀選手を史上最高齢で初受賞。プロレス大賞年間最高試合賞を受賞(12月2日の小橋建太復帰戦)。
2008年
- 3/2 - 森嶋猛のGHCヘビー級王座の挑戦を受けるが、強烈なバックドロップからフォールされて敗れ、8度目の防衛に失敗し王座陥落。
2009年
- 5/6 - 潮﨑豪とのコンビでグローバル・タッグ・リーグ戦で優勝した。
- 6/13 - 広島県立総合体育館グリーンアリーナ(小アリーナ)大会で行われたGHCタッグ選手権試合に王者組の齋藤彰俊&バイソン・スミス組に、潮﨑豪とのタッグで挑戦。試合中、齋藤彰俊の急角度バックドロップを受けた後に意識不明・心肺停止状態に陥り、午後10時10分に広島大学病院で死亡が確認された。46歳没。
主な獲得タイトル
全日本プロレス
- 三冠ヘビー級王座(5回 / 第10代・第14代・第17代・第20代・第23代)
- 世界タッグ王座(6回 / 第17代・第20代・第24代・第25代・第29代・第39代)
パートナーは川田利明2回→小橋健太2回→秋山準→小川良成。
第39代王座戴冠時にアジア・タッグ王座も同時戴冠。
パートナーは小橋健太→小川良成。
パートナーはジャンボ鶴田。
- NWAインターナショナル・ジュニアヘビー王座(1回 / 第17代)
ヘビー級転向のために王座を返上。
- チャンピオン・カーニバル(優勝2回 / 1995年・1998年)
- 世界最強タッグ決定リーグ戦(優勝4回 / 1992年・1993年・1994年・1995年)
パートナーは1992年が川田利明、それ以降は小橋健太。
プロレスリング・ノア
- GHCヘビー級王座(3回 / 初代・第5代・第11代)
- GHCタッグ王座(2回 / 第2代・第8代)
パートナーはいずれも小川良成。
- グローバル・タッグ・リーグ戦(優勝1回 / 2009年)
パートナーは潮﨑豪。
プロレス大賞
- 1982年、新人賞
- 1985年、敢闘賞
- 1990年、殊勲賞
- 1991年、最優秀タッグチーム賞(パートナーは川田利明)
- 1992年、特別大賞
- 1993年、最優秀タッグチーム賞(パートナーは小橋健太)
- 1994年、最優秀タッグチーム賞(パートナーは小橋健太)
- 1995年、年間最高試合賞(川田利明&田上明 vs 三沢光晴&小橋健太)
- 1997年、殊勲賞、年間最高試合賞(三沢光晴 vs 小橋健太)ダブル受賞
- 1998年、年間最高試合賞(三沢光晴 vs 小橋健太)
- 2003年、年間最高試合賞(三沢光晴 vs 小橋建太)
- 2007年、最優秀選手、年間最高試合賞(三沢光晴&秋山準 vs 小橋建太&高山善廣)
- 2009年、特別功労賞(死去後)
入場テーマ曲
- タイガーマスクのテーマ(演奏:寺内タケシとブルージーンズ) - 2代目タイガーマスク時代
- スパルタンX(作曲:Keith Morrison) - ジャッキー・チェンの映画「スパルタンX」の主題歌。
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- 全日本時代当初はノーマル曲だったが、徐々に効果音やアレンジを加えた。ノア移籍後はピアノの前奏を付け加えた「ノア・バージョン」を使用。入場時には観衆が音楽に合わせて「みっさーわっ!
みっさーわっ!」と合いの手を入れていた。2009/3/1の日本武道館大会より、ニューバージョンが使用された。
- なお、この曲は三沢よりも早く上田馬之助が入場曲として使用していた。
- その他、映画「惑星大戦争」のサントラ曲や、アニメ「メガゾーン23PART II」のサントラ曲「レッド・ゾーン・ファイター」、佐野元春の「約束の橋」を使用していたこともある。
プロレス観
受け身
三沢は「受け身の天才」と評される。三沢自身、「相手の得意技をわざと受けて身体的な強さをアピールする」ことがプロレスの最高の技術であり、それは「受け身への確固たる自信があるからこそ体現できる」ことだと述べている。三沢は相手の得意技をあえて受けて相手の特徴・長所を十分に引き出し、その上で勝利を目指すことが他の格闘技にはないプロレスの特徴であるとしている。
一方で三沢は受け身をとりきれない技が多くなっているとも述べている。受け身の取りにくい技としてフルネルソン・スープレックス、ハーフネルソン・スープレックス、タイガー・スープレックス、バーニング・ハンマー、エクスプロイダーなどを挙げている。三沢は近年のプロレスについて、「1試合のうちに脳天から落とされる類の大技を何度も受け、それが毎日のように続く」ことからダメージがどんどん蓄積されると述べ、自身の首にもダメージが蓄積していることを認めていた。「受け身の天才」がリング禍で死んだことは、周囲に大きな衝撃を与えるものであった。
受け身の巧拙は、投げられた際にどのようにマットに着地するかを見ればわかるとしている。受け身の下手なレスラーは腰からマットに落ち、次いで後頭部を打ち付ける。そのため、マットにぶつかる音が2回聞こえる。受け身をとりきれない投げ技に対しては、投げられる瞬間に自ら飛んで衝撃を和らげることがダメージを和らげるコツとしている。三沢曰く、オーバーアクション気味に技を受けるレスラーは受け身が上手い(ハーリー・レイス、リック・フレアー)。自ら飛ぶという方法は投げ技だけでなく、ドロップキックやラリアットなどの打撃技にも有効としている。
渕正信は、三沢の受け身の優れた点は、通常レスラーは背中でとるのに対し、首筋の下でとる点にあると評している。
プロレスラーの資質について
レスラーに求められる資質として、前述したように相手の得意技をあえて受けて相手の特徴・長所を十分に引き出し、その上で勝利を目指すための心身の強さを挙げている。また、自分の体型に惚れこむナルシスト的な要素があったほうがトレーニングに打ち込みやすいと述べている。
パフォーマンス
一流のプロレスラーは「自然と滲み出てくる個性の表れ」がそのままパフォーマンスになることが多いと考え、マイクパフォーマンスをしたり無理に怖い表情を作るといった意図的なパフォーマンスを好まなかった。三沢が初めてリング上で自らマイクを握ったのは、1995年10月に小橋と対戦した後のことである。
徳光正行によると、三沢は試合中に倒れた相手を引き起こす際、髪の毛をつかむ行為を「下品だ」と嫌っていたという。
技について
三沢は自身の技について、ヘビー転向後は自分よりも体が大きく体重の重い相手と戦うことが多くなったため、力ではなく技のキレ、落とす角度を重視するようになったと述べている。他のレスラーが使用する技のうち印象に残るものとしては、ジャンボ鶴田のバックドロップ、スタン・ハンセン、小橋建太のラリアットを挙げている。
三沢は「やっている方が楽しくないといけない」という考えから従来プロレス界にあった「若手は派手な技を使ってはいけない」という暗黙のルールを排し、若手であっても大技を使い、先輩レスラーの持ち技を使うことも許した。三沢自身も小川良成にタイガー・ドライバーを使うことを許可し、技の繰り出し方が上手いと評価している。
エピソード
緑色
緑は三沢を象徴する色として知られる。三沢はタイガーマスクから素顔に戻った後、緑のロングタイツを着用した。これは三沢が好きだった正統派外国人レスラーのホースト・ホフマンに倣ったといわれることが多いが、佐々木賢之によると実際には知人の助言がきっかけで着用するようになった。緑のロングタイツが定着する前に数回ではあるが赤や青のロングタイツを着用したこともある。2000年にプロレスリング・ノアを設立すると、他の団体にはない色という理由から緑色のマットを使用した。
人柄
三沢はしばしば男気があると評される。そのような性格を物語るエピソードの一つに、冬木弘道(サムソン冬木)の引退興行が挙げられる。若手時代、三沢は冬木と仲が良かった。1990年に冬木がSWSへ移籍したことで両者の交流は途絶えたが三沢の全日本プロレス退団・ノア旗揚げをきっかけに再び接点が生まれ、2002/4/7にシングルマッチで対戦した。翌8日、冬木は医師から大腸癌であると宣告され、18日に手術を行いプロレスラーを引退することを決意した。当初冬木は9日を引退試合にするつもりであったが、この事実を知った三沢はノアの主催で引退興行を行い、5/5に予定されていた新団体・WEWの旗揚げ興行にも協力。三沢はその収益の全てを冬木に贈ったとされ、冬木は「俺の人生で、三沢光晴に出会えたことが最高の出来事だった」と述べたという。
仲田龍は、三沢を損得勘定で動かない人間と評している。ノアの経営者として三沢は、休養中の給料保障、年間の最低保障を定め、所属レスラーを金銭面でバックアップすることに留意した。全日本プロレスの社長時代には、会社の財政状態が厳しいにもかかわらず所属レスラーがかける保険の保険料を全額負担する決断を下している。
全日本プロレス時代にジャンボ鶴田の付き人を務めたことがあったが、鶴田は干渉をあまりしない性格で、その影響から三沢自身も付き人に対し雑用を多く言いつけたり小言を言うことがなかったという。徳光によると新人時代に先輩から理不尽な仕打ちを受けた経験から、「自分は下の人間に、おなじようなことは絶対にしない」と心に誓ったのだという。
試合で見せた癖
覆面をつけ視野が狭い状況で試合を続けた影響から、ロープに振られると下を向いて走る癖があった。
三沢には額の汗を指を使ってぬぐう癖があった。この動きは「汗ワイパー」と呼ばれ、モノマネ芸人のイジリー岡田が三沢のモノマネとして取り入れている。
家庭環境
三沢によると父親は酒乱で家庭内暴力がひどく、母親を包丁で刺したこともあった。幼少期の三沢はいつも「はやく大きくなって親父をぶん殴ってやろう」と考えていたという。三沢が小学校1年の時に両親は離婚し、父親とは音信不通になった。三沢はプロレスリング・ノアを旗揚げした時期に父親に対し、「今さら俺たち家族の前に顔を現すのだけはやめてくれ」と心情を吐露している。
趣味
ヒーローものが好きで、徳光正行によると三沢の部屋はヒーローもののグッズで溢れていたという。葬儀の際には三沢が好きだったヒーローものの曲が多くかかった。漫画も好きで、「少年誌から青年誌まで、ほとんど全てを自分で買っていた」という。プロレスを描いた漫画の中では『1・2の三四郎』について、「プロレスの練習風景を、ここまでリアルに描いた作品は他にないね」と高く評価していたという。その他、学園もののテレビドラマや、ジャッキー・チェンやトム・ハンクス主演の映画を好んだ。
動物好きで、ネコ、イヌ、鳥、カメ、ウサギなどを買っていた。
スキューバダイビングを好み、年に1度は必ずハワイに行ってダイビングを行っていた。
臓器移植への支援活動
ノアの興行で募金活動を行うなど、日本移植支援協会の活動を10年近くに渡り支援していた。三沢が臓器移植に大きな関心を持つようになったのは、ジャンボ鶴田が肝臓移植手術中に死去したことがきっかけであった。三沢の死の直後の2009年6月18日、衆議院において臓器移植法の改正A案が可決されたが、この日は三沢自身の47歳の誕生日でもあった。
関連書籍
著書
評伝
DVD
G+ プロレスクラッシック #88 追悼・三沢光晴
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