後藤 洋央紀
1979/6/25
新日本プロレス所属。三重県桑名市出身。
来歴
三重県立桑名工業高等学校時代は柴田勝頼と同級生であり、共にレスリング部を立ち上げていた。
国士舘大学へ進学後、レスリングで上位入賞を果たした。大学時代の後輩にプロレスリング・ノアの伊藤旭彦、先輩にプロレス同期入門の山本尚史がいる。大学卒業後新日本プロレスに入団するが、肩の怪我のため一旦新日本を退団した。新日本が経営する闘魂ショップ名古屋店併設の道場でトレーニングを重ねた後に2002年11月に新日本プロレスに再入団を果たした。2003/7/6の岐阜産業会館における田口隆祐戦でデビュー。
同年にはデビュー戦で対戦した田口と組み、邪道、外道とIWGPジュニアタッグ王座決定戦を争うなどタッグで活躍。2004年のヤングライオン杯ではその田口に敗れ涙を飲んだが、翌年2005年ヤングライオン杯で見事優勝を果たした。
同年4月にC.T.Uに加入すると天然キャラを見出され、先輩の獣神サンダー・ライガー、邪道、外道らを差し置いてリーダーとして(形の上だけ)活動。5月に稔と組んで金本浩二&井上亘組からIWGPジュニアタッグ王座を獲得。エル・サムライ&田口組に敗れるまで3度の防衛を果たした。12月の「夢☆勝ちます」では棚橋弘至の持つIWGP
U-30無差別級に挑戦するも敗北。
2006年の4月と5月にそれぞれTNAへ遠征。8月にはメキシコへ無期限海外遠征に出発。
2007年に髪を伸ばし今の容姿に。同年3/4にはウルティモ・ドラゴン、TAJIRIらが参戦した闘龍門MEXICO自主興行で行われた8人参加トーナメント「〜YAMAHAカップ
NWAインターナショナルJrチャンピオンシップトーナメント〜」でショッカーを破り優勝。22年ぶりに復活したNWAインターナショナルジュニア王座を載冠した。それまで91kgだった体重を同年の6月に103kgまで増量。8/26「LAST
OF C.T.U」興行で凱旋帰国予定だったが、棚橋弘至の欠場を受け日程が前倒しとなり、8/25の大会で凱旋試合。ヘビー級転向を宣言した。
2007年の10月に両国国技館でかつての師匠天山広吉とシングルで対戦。大流血の末、必殺の昇天で勝利。この試合で後藤が繰り出した変形バックブリーカー(後の牛殺し)で天山は頸椎負傷し長期欠場に。11月にはついに棚橋弘至が持つIWGPヘビー級ベルトに初挑戦。31分を超える文字通りの死闘を繰り広げたが、テキサス・クローバーホールドで敗北。
2008年の1月にあっては、7年と8か月ぶりに新日本へ降臨したグレート・ムタと初遭遇を果たし、変幻自在の極悪殺法に敵わずムーンサルトプレスであえなく敗北を喫した。3月に行われたNEW
JAPAN CUP(NJC)では棚橋弘至との対戦がいきなり1回戦で実現。“事実上の決勝戦”と称された戦いだけあって両者激しい攻防戦を繰り広げたが、最後は首固めで敗れリベンジは失敗に終わった。
同年8月にG1 CLIMAXに初出場。自身も「初出場・初優勝を狙う」と発言しており優勝候補と目されていた。初戦の川田利明戦で黒星を喫するも、その後は着々と白星を重ねていき、8/17に見事決勝進出を果たした。決勝戦では真壁刀義と対戦。場外でのイス攻撃とG・B・Hのセコンドの介入などにより流血を負いながらも最後は昇天・改で勝利。2003年7月にデビューしてからわずか5年のキャリア、そして初出場ながら“夏男”の称号を獲得した。後日8/31、全日本プロレスでは史上初となるIWGPヘビー級王座戦が行われ、王者武藤敬司と対戦。追い込む場面がいくつか見られたもののキャリアの差もあったのか、最後はムーンサルトプレスで敗退。
その後、真壁刀義、矢野通が所持するIWGPタッグ王座に的を絞り、9/5に中邑真輔とタッグを組み挑戦。ところが、試合終盤同じRISEメンバーだったはずのジャイアント・バーナードとリック・フーラーが乱入しG・B・Hと結託し、最後は真壁のキングコングニー・ドロップを受け惨敗。試合後、G・B・H勢とバーナード、フーラーに袋叩きされるもここで救出に駆けつけた棚橋弘至と握手を交わす。本隊と共に打倒G・B・Hをアピールすると10月13日にRISEを裏切ったバーナードと一騎打ちを行う。あと一歩のところまで追い詰めたが、やはりセコンドの介入があり最後はバーナードライバーで沈んだ。
2009年の1月にプロレスリング・ノア対抗戦に出陣。中邑と共に“ノアの象徴”三沢光晴、杉浦貴組と対戦。最後は中邑が杉浦を飛びつき式腕ひしぎ逆十字固めでタップを奪った。「文句があるならいつでもやってやる」という中邑の発言に対し、三沢もホームアウェイ問わず団体対抗戦継続の意思を表した。
3月に行われたNJCには2年連続で出場。1回戦でカール・アンダーソンを下し、2回戦では同期の中邑、準決勝で第三世代最後の砦とも言われた永田裕志に勝利し、決勝戦でジャイアント・バーナードを変型腕固めで1本勝ちを収め、昨年のG1優勝に続き春夏連覇を果たした。
5月になると8年振りに“レスリングどんたく”と冠が付けられ、3年ぶりに開催した福岡国際センターでNJC覇者として棚橋弘至とIWGPヘビー級王座を賭けて再び対戦。3度目の正直を誓うもやはり執念が棚橋の方が上だったかハイフライフローであえなく敗戦。5/5では岡田かずちかと組み、杉浦貴、青木篤志組と対抗戦を行う。ハードヒットな打撃戦が展開され、最後は岡田が杉浦のオリンピック予選スラムで轟沈。6月20日では杉浦とのシングルマッチが組まれたが、敗北を喫す。さらに8月のG1
CLIMAX 2009公式戦で再び対決するも、やはり最後は雪崩式オリンピック予選スラムで惨敗。この敗戦で屈辱の予選落ちとなった。
それから程なくして真壁刀義と組み矢野通、ZERO1の田中将斗とハードコアルールマッチで対戦。今年のG1覇者と昨年の覇者の強力タッグだったが、矢野と田中が凶器をうまく使いこなし、終始ペースを握った。最後は田中のスライディングDの前に撃沈した。リベンジを誓うべく11/8、田中と初のシングルマッチ。一気に攻め込んでいき必殺技を狙うも田中は全てクリアし、最後は側頭部へのスライディングDを叩き込み敗戦。「もう一回やらしてくれ」と後藤はさらに対戦を要求し、12月ついに田中から昇天3連発でピンフォール勝ちを収めた。
2010年の1月から杉浦貴とGHCヘビー級王座を賭けて対戦するも足首固めで敗退し3連敗を喫した。2月にはハードコアルールで再び田中将斗と対戦。エルボーパッドに鉄パイプを仕込んだスライディングDをまともに喰らい無念の敗北。3月のNEW
JAPAN CUPでは前年度優勝者だったことからシード権を獲得し出場。高橋裕二郎に勝利に収め、準決勝で改めて田中を撃破した後、決勝戦で真壁刀義と対戦。これに勝利し史上初となる2連覇を達成した。
4月4日、IWGPヘビー級王者中邑真輔に挑戦。同期のライバル対決として注目を浴びるも最後はボマイェで防衛を許し、試合終了後のバックステージで田中が現れ再戦を言い渡される。
5/3、博多で田中と4度目の対戦を行い、昇天・改で勝利し田中との抗争は2勝2敗の戦績で終える。 10/11に両国で中邑真輔と対戦。昇天・改で勝利してIWGPへ名乗りを上げる。小島聡が真壁からIWGPを奪取した際、新日プロレスの管林社長の指名で小島に挑戦者表明をするも、小島がこれを頑なに拒否し続ける。結局会社側が当時のIWGP王者小島聡の指名をのむ形で、挑戦者が中邑に変わってしまう。
12/11の大阪で棚橋弘至を相手に、2011年1月4日のレッスルキングダムでのIWGP王者決定戦の挑戦者決定戦を行うも、棚橋のハイフライフローに敗れてしまう。
2011年1月4日、東京ドームのレッスルキングダムにて、12月に密かにTNA無期限修業から帰国した岡田かずちかをタッグパートナーにして、杉浦貴・高山善廣組と対戦するも、岡田が高山のエベレストジャーマンで敗北してしまう。
2/20の仙台大会で、一度もIWGPのベルトを巻いていないことに怒りを抱き、「あんたは新日の四天王にふさわしくない」と真っ向から後藤を全否定した後輩、内藤哲也と対戦し、これに勝利する。その後、3連覇達成を目指しNJCに出場するも、中邑真輔に敗れた為予選敗退、3連覇実現は失敗に終わってしまう。また、タッグを組んでいた棚橋と確執が発生、試合後棚橋にヘッドバッドをお見舞いし、単身メキシコのCMLLに修業へ向かった。CMLLでは同年4/29にウルティモ・ゲレーロの持つCMLL世界ヘビー級王座に挑戦。奪取は失敗するも、CMLLにおけるベストバウトクラスの闘いを見せた。
5/3のレスリングどんたくにて電撃帰国、CMLL時の黒袴姿で新しい入場曲と共にタマ・トンガをパートナーにしたチーム「荒トンガ」で出場、NOHAの杉浦貴・橋誠組と対戦。昇天・改で橋から3カウントを取り、IWGP戦で中邑真輔から防衛を果たした棚橋弘至にヘッドパッドをお見舞いして挑戦者表明する。
人物
- 「週刊プロレス」で邪道が執筆する「CTU珍遊日記」では笑いを提供するキャラとして毎回登場し、「アホの後藤」呼ばわりされている。
- 趣味は『pop'n music』をすることと「週刊プロレス」で発言している(海外遠征前)。
- 2009/10/15に結婚・入籍していたことが、翌2010年1月の契約更改の際に明らかになった。2010年中に結婚式を挙げたいとの意向を示している。
タイトル歴
- IWGPジュニアタッグ王座(第15代、パートナーは稔)
- NWAインターナショナルジュニアヘビー級王座
- 第10回ヤングライオン杯 優勝
- G1 CLIMAX2008 優勝
- NEW JAPAN CUP 2009・2010 優勝
- J SPORTS CROWN 2010 優勝(パートナーは田口隆祐・プリンス・デヴィット)
入場テーマ曲
2011年のCMLL修業の最中に自身の全てを変えるという意味で
入場曲をこの曲にする。2011年5月3日の福岡大会にて初披露する。
- Rock Me Wild
- 「秀吉」テーマ音楽
- Where Are We Runnin' ? / Lenny Kravitz
- ヤングライオン時代は1972年 - 1979年の新日本プロレスのオフィシャルテーマ曲であった。
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