魔裟斗
1979/3/10
日本のキックボクサー、タレント、スポーツ解説者。本名は小林
雅人。千葉県柏市出身。妻は女優・タレントの矢沢心。シルバーウルフ所属。
日本人初のK-1 WORLD MAX世界王者。2009/12/31を以って現役を引退した。
人物
- K-1のミドル級では№1の実力を持っている。パンチ主体のファイトスタイル。ボクシング世界王者をパンチだけでKOしたこともある。
- リングネーム『魔裟斗』の名付け親は、同ジムの加藤重夫会長。最初に藤 山海山なる名前を提案されるも断り、2番目に提案された魔裟斗に落ち着いた。当の魔裟斗は「暴走族みたいで嫌でしたよ。」と各方面で述べていた。
- K-1 WORLD MAX開始当初は、ライバルと目されていた小比類巻貴之のストイックぶりと比較された。魔裟斗は「これだけ練習したのだから負けることはない」と豪語するほど練習熱心であり、真の「ミスターストイック」は魔裟斗であると評価する関係者も多い。その一方で、当の「ミスターストイック」の異名を持つ小比類巻を「六本木で飲んでいる時バッタリ出会った」事を『さんまのまんま』(関西テレビ)出演時に明かしている。
- 握手するときは右手と決まっている。
- 試合当日は、必ず母手作りのおはぎを食べていた。
- 試合後は勝敗に関係無く温泉に入りに箱根へ行くという。
- 普段の体重は74kg前後だが、試合に向けて食生活などを変えながら、K-1ミドル級のリミットである70.0kg丁度になるように仕上げることを信条としている。また、「殴られすぎてパンチドランカーになった人を何人も見てきた」ことから、自身の体調管理にはかなり気を使っている。「パンチドランカーになった姿を子供に見せたくない」旨を引退理由の一つに挙げている。
- K-1が1日で3試合も戦う1DAYトーナメント制を採用していることについてK-1参戦前から批判しており、「トーナメントは運の要素が強すぎて最強は決まらないのは明らかだし、選手の命を危険に晒してるから選手もファンも皆が迷惑してる」とコメントしており、K-1の世界トーナメントで優勝した以降の現在もその考えに変わっていない。また、2007年の世界トーナメント終了後に、一度はトーナメントから撤退してワンマッチに専念することを示唆していた。
- ラスベガスでビッグマッチを戦うことを夢として挙げており、2003年にK-1 WORLD MAX初優勝を果たした後には「K-1 WORLD MAXで3連覇したら、ラスベガスでボクシング史上初の4団体統一世界ミドル級王者バーナード・ホプキンスと戦って引退したい」と発言したり、2008年6月のSRSと格闘技通信での武蔵との対談では「今年のK-1
WORLD MAXで優勝して来年はラスベガスでボクシング史上唯一の6階級制覇王者オスカー・デ・ラ・ホーヤと戦いたい」と発言していた。
- 2007年頃からフジテレビ放送のK-1 WORLD GPシリーズに解説者としても出演している。
- 格闘技以外の活動としては、後述の通り数々のテレビドラマ・映画・CMなどに出演、フレグランスやシルバーアクセサリーのプロデュースも手掛けていた。2009年にはスイスの時計ブランドであるオーデマ・ピゲと、日本人で初めて契約し、オリジナルデザインの「ロイヤル
オーク オフショア MASATOモデル」を発表した。
- 2010年12月31日のDynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜の長島☆自演乙☆雄一郎対青木真也にてテレビ放送の解説を務めていたが、2R(総合ルール)開始4秒にて長島のKO勝ちとなると、立ち上がって長島の勝利を祝福し、「K-1なめんなっつーの!」と発言した。
- 理由は謎だがブログが削除されている。
ファイトスタイル
10代の頃にボクシングジムに通っていた魔裟斗は、元々はパンチを武器とする典型的なインファイターであった。しかし、近年では、左右両方のパンチのコンビネーション・キック・膝蹴りなどの打撃を放つスタイルへと変わった。ディフェンステクニックで相手が放つ大振りなパンチをかわし、カウンターを合わせる。最も得意とするブローは相手の右を左でブロックし、即左フックを返すというものである。また、ローキックをブロックした直後に左のインローを返す得意技も公開している。近年ではリードブローに磨きがかかり、飛び込みざまに放つ左ジャブが相手の顔面を捉える場面をよく見かけるようになった。相手のガードの隙間を縫うような右アッパーも得意技の一つ。
2003年にK-1 WORLD
MAXチャンピオンになった翌年の2004年は、ディフェンスを最重要視し、ポイントアウトを狙う戦い方を貫いた。本人は後にこれを反省し、観客に魅せるファイトスタイルに改めた。ポイントで圧倒的にリードしている場面でも、積極的に打ち合いにいく姿勢が評価を集めた一方、実際に相手からパンチをもらう場面も多く見られた。
来歴
両親の都合で千葉県柏市から埼玉県新座市へ引っ越す。埼玉栄高校中退。中退理由は、友人数人と「勢い」で辞めたと『ジャンクSPORTS』(フジテレビ)に出演した際に述べている。
高校中退後は10種類余りの職を転々とした。中でも焼き鳥店に至っては、勤務初日に「昼ご飯を食べに行く」と言い残し、そのまま戻らず辞めたという。
1994年、15歳でボクシングの名門ヨネクラボクシングジムに入門。しかしプロテストをドタキャンし、そのままジムを去る。その後、「喧嘩に使えそうだから」との理由でキックボクシングに転向、17歳で藤ジムに入門する。
1997/3/23、全日本キックボクシング連盟でのプロデビュー戦で竹原太と対戦し、1RKO勝ち。
1997/5/30、小比類巻貴之と対戦し、膝蹴りの連打により3RKO負け。初黒星を喫した。共にデビュー2戦目同士で3回戦の前座扱いであったが、メイン、セミの試合のキャンセルが相次ぎ、繰上げでその日の興行のメインイベントになった。この試合を、『格闘技通信』(ベースボール・マガジン社)は急遽見開き2ページ、オールカラーで掲載した。
2000/1/21、全日本キックボクシング連盟主催『LEGEND-I』のダブルメインイベント(セミファイナル)でモハメッド・オワリ(ベルギー)と対戦予定であったが、魔裟斗が試合出場を拒否し「試合放棄」とされた。3/14付けで藤ジムと全日本キックボクシング連盟に退会届を提出し、同連盟ウェルター級王座も返上、「シルバーウルフ」所属となった。その後しばらくは、総合格闘技団体・パンクラスの東京道場や新日本キックボクシング協会の伊原道場を間借りして練習を行う。魔裟斗は「自分のジムもなくて、いつ試合ができるかも分からないこの時期が一番つらかった」と語っている。
2000/7/26、初の自主興行『Wolf Revolution』を開催し、メインイベントでクレイトン・コリヤーに1RKO勝ち。
2000/11/1、K-1 WORLD MAXの前身に当たる興行『K-1 J・MAX』で、ムラッド・サリ(フランス)とI.S.K.A.世界オリエンタルウェルター級タイトルマッチを行い、2Rに左フックでKO勝ち。王座奪取成功。試合後、リング上でマイクを握った魔裟斗は「これからは俺の時代です」と宣言した。この試合は大きなターニングポイントになったと後に語っている。
2000/12/5、タイで行われた『タイ国王生誕記念大会』でスリヤー・ソー・プルンチットと対戦し、判定負け。小比類巻貴之戦以来、3年6か月ぶりの敗戦となった。
2001/1/12、Wolf Revolution 〜Second Wave〜にて1年前に対戦予定だったモハメッド・オワリを一方的に打ちのめして3RTKO勝ち。試合後、「俺が逃げたわけじゃないってことが証明できた」とコメントした。
2001/3/30、マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟主催『ODYSSEY-1』で伊藤隆の引退試合(エキシビションマッチ)の相手を務めた。
2002/2/11、K-1 WORLD MAX 日本代表決定トーナメントに出場。1回戦、準決勝共にKO勝ちで決勝に進出し、小比類巻貴之と対戦。的確にパンチをヒットさせ判定勝ち。
2002/5/11、K-1 WORLD MAX 2002 世界一決定戦の準決勝でアルバート・クラウス(オランダ)と対戦。2Rにクラウスの右ストレートでダウンを奪われ判定負け。試合後の控室に向かう途中、嗚咽を漏らし号泣した。
2002/10/11、K-1 WORLD MAX 2002 世界王者対抗戦でアルバート・クラウスと対戦。雪辱を誓ったものの、互いに決め手を欠き引き分け。
2003/3/1、K-1 WORLD MAX 2003 日本代表決定トーナメントに出場。3試合とも判定勝ちながら危なげない試合運びでトーナメント2連覇。
2003年7月5日、K-1 WORLD MAX 2003 世界一決定トーナメントの1回戦でマイク・ザンビディス(ギリシャ)と対戦。1R、わずかな隙を見せたザンビディスに跳び膝蹴りを見舞いダウンを奪うも、その後ザンビディスの反撃によりポイントを奪い返され、2-1の判定で辛勝。決勝戦で前年度王者アルバート・クラウスを2R、左フックでKOし、優勝を果たした。
2003/12/15、『WOLF REVOLUTION meets LUZ』で宇野薫とエキシビションマッチを行った。1Rはキックボクシングルールであったが、2Rは総合格闘技ルールとなり、オープンフィンガーグローブでの戦いを披露した。
2004/7/7、K-1 WORLD MAX 2004 世界一決定トーナメントでジャダンバ・ナラントンガラグ(モンゴル)、アルバート・クラウスをそれぞれ判定で下し、決勝戦でブアカーオ・ポー.プラムック(タイ)と対戦。連戦によるダメージが蓄積し、なおかつ片目が塞がった状態での戦いを強いられた。ブアカーオの攻撃に成す術もなく3Rにはフラフラの状態で戦っていたのにもかかわらず、3R終了時点判定1-0で延長R突入となり、延長Rで判定負け、準優勝となった。この判定は問題となり、大会終了後の7/9に「3R終了時点の判定はミスジャッジングであり、不適格かつ不可解」であったとして、角田信朗を始めとした審判員の処分を発表した。また、3R終了時点でブアカーオが3-0の判定勝ちであったことを正式に認証することになったが、公式記録上の変更は行わなかった。
2004/12/31、K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!で山本"KID"徳郁とK-1ルールで対戦。1R、山本にダウンを奪われた直後、ローキックが山本の金的を直撃し試合が中断する。山本自身「手足が震えた」というほどの致命的なダメージであった。この時、リプレイ映像を見た解説の船木誠勝が魔裟斗の視線が下に行っているのを指摘、故意であることを匂わせる発言をしている。そして5分の休憩の後、精彩を欠いた山本から2Rにダウンを奪い返し、判定勝ちを収めた。
2005/7/20、K-1 WORLD MAX 2005 世界一決定トーナメント決勝戦の準々決勝でマイク・ザンビディスと対戦。ダウンを奪い判定勝ちしたが、自身の蹴りで左足腓骨を骨折し準決勝を棄権。
2005/12/31、K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!で復帰。大東旭に2RTKO勝ち。
2006/6/30、K-1 WORLD MAX 2006 世界一決定トーナメント決勝戦の準々決勝で小比類巻貴之と通算3度目の対戦。3Rにボディブローを効かせ、直後の左ストレートでダウンを奪い判定勝ち。準決勝でアンディ・サワー(オランダ)に3R終了間際にダウンを喫し判定で敗れ3位に終わる。
2006/12/31、K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!において対戦予定だった元WBA世界スーパーウェルター級王者・チェ・ヨンス(韓国)が練習中に負傷したことにより、試合10日前に対戦相手がボクシング元日本ミドル級王者・鈴木悟に変更。結果は2RKO勝ち。
2007/2/11、女優・タレントの矢沢心と6年間の交際、5年間の同棲を経て入籍。翌2008/4/20、都内のホテルで結婚披露宴を行った。
2007/10/3、K-1 WORLD MAX 2007 世界一決定トーナメント決勝戦では、自ら指名した前年度王者ブアカーオ・ポー.プラムックと準々決勝で対戦。1Rに右ストレートでダウンを奪い、判定勝ち。準決勝ではアルトゥール・キシェンコ(ウクライナ)に2Rにカウンターの左フックでKO勝ち。決勝ではアンディ・サワーと対戦したが、2試合を戦ったダメージの蓄積に加え、サワーの猛攻で足が限界に達し、2R終了時に立ち上がることが出来ず、セコンドがタオルを投入しTKO負け。準優勝に終わった。
2007/12/31、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!でチェ・ヨンスと対戦。3年続けて元ボクシング選手との対戦となった。1Rにダッキングに合わせたハイキックでダウンを奪うと、その後もパンチやローキックで攻め立てて3Rタオル投入によるTKO勝ち。
2008/10/1、K-1 WORLD MAX 2008 FINALのトーナメント準決勝で、かねてから魔裟斗との対戦を熱望していた佐藤嘉洋と対戦。3Rに左フックでダウンを奪われるが、その後手数で上回り延長Rにもつれ込む。その際、当時は「優勢選手に必ず10ポイントを付ける」というルールであったが、レフェリーの角田信朗がジャッジの点数を不正に改竄(ジャッジペーパーでは10-9となっていたが、わかりやすさを優先するという名目で9-8に)佐藤のトレーナーは判定を聞く前にこれ10-9にされたらドローだからな。と言っているしたため、不信と混乱を招いた。その後延長Rで形勢逆転し、判定勝ち。続くアルトゥール・キシェンコとの決勝戦でも同様の判定が起こり、2Rに右フックでダウンを喫するも3R巻き返し、3R終了時の判定はドローとなり、延長Rに判定勝ち。2度目のK-1
WORLD MAX世界王者となった。優勝直後にはリング上で「15年間やってきて、一つのことを頑張るといいことがあるって思ったね。皆も色々とあるだろうけど、途中で投げずに続ければ、結果はどうであれ、充実できると思う。はっきり言って俺は99%の努力と1%の才能でここまで来たけど、“継続は力なり”じゃないけど、ずっと続けたことが、このチャンピオンベルトにつながったと思います」とコメントした。
2009/3/22、東京マラソン2009に出場し、3時間51分41秒で完走した。
2009/4/1、記者会見を開き、2009年末を以って引退する旨を表明。「大晦日のDynamite!!で今年のトーナメント優勝者と戦いたい」「アンディ・サワーとは2度戦ってまだ勝っていないから、是非ともサワーに優勝してもらって挑戦したい。最後に俺がサワーに勝って終わるのは俺の運命」と発言した。
2009/4/21、引退発表後の「初戦」として出場したK-1 WORLD MAX 2009 FINAL16で、「魔裟斗の後継者」と目されるHIROYAとエキシビションマッチを行った。
2009/7/13、K-1 WORLD MAXでのラストマッチとなったK-1 WORLD MAX 2009 FINAL8にて、ファン投票で推薦された総合格闘家・川尻達也と対戦。試合決定直後から、川尻の打撃トレーナーである山田武士も加わり激しい舌戦を繰り広げた。1Rに右ストレートでダウンを奪い、2Rにパンチのラッシュで追い込んだところで川尻陣営からタオルが投入されTKO勝ちを収めた。
2009/10/26、K-1 WORLD MAX 2009 FINALにてジョルジオ・ペトロシアンが圧倒的な強さで優勝。その直後に魔裟斗はリング上でペトロシアンに対して「大晦日空いてるかな?」「大晦日、日本で待ってるよ。」と挑戦を表明した。しかし、その翌日、ペトロシアンが準決勝山本優弥戦の時点で既に右手の指を骨折していたことが発覚したため、対戦の正式決定には至らなかった。
2009/11/7、「SILVERWOLF presents FINAL REVOLUTION 〜大宮司進 FINAL〜」で行われた「大宮司進引退エキシビションマッチ」(K-1ルール・3分2R)で大宮司進と対戦した。
2009/11/12、世界王者ジョルジオ・ペトロシアンの右手の指の骨折が完治しないため、準優勝者であり過去2戦2敗のアンディ・サワーとの大晦日での引退試合が決定した。これについて、魔裟斗は「サワーとの試合はやり残し。過去2度の対戦は、既にダメージが溜まっているトーナメントの準決勝と決勝だったけど、お互いが無傷で公平なワンマッチなら俺の方が強い」と語っていた。
2009/12/31、さいたまスーパーアリーナにて行われたDynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜でアンディ・サワーとK-1特別ルール(3分5R延長1R、サワーが希望するシュートボクシングのロングスパッツ着用可)で自身の引退試合を行った。4Rにカウンターの右フックでダウンを奪うもサワーも盛り返し、最終5Rまでもつれ込んだが3-0の判定勝ちを収め、現役を引退した。
戦績
63試合55勝6負2分
獲得タイトル]
- 全日本キックボクシング連盟ウェルター級王座(0度防衛)
- I.S.K.A.世界オリエンタルウェルター級王座(0度防衛)
- K-1 WORLD MAX 2002 日本代表決定トーナメント 優勝
- K-1 WORLD MAX 2003 日本代表決定トーナメント 優勝
- K-1 WORLD MAX 2003 世界一決定トーナメント 優勝
- K-1 WORLD MAX 2004 世界一決定トーナメント 準優勝
- K-1 WORLD MAX 2007 世界一決定トーナメント 準優勝
- K-1 WORLD MAX 2008 世界一決定トーナメント 優勝
魔裟斗DVD集
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