アメリカ合衆国のプロレス・プロモーター、プロデューサー。2005年12月まで、WWEのTV番組ロウにおいてゼネラルマネージャー(GM)を務めていた。何か企んでそうな笑顔が特徴である。近年はTNAにて活動。
空手、拳法の有段者ということになっているが、本人によれば完全なギミックでもなく若い頃実際に道場で鍛えたそうである。プロレスラーではないが、ストーリーに応じて時折リングで試合を行うこともあった。
来歴
AWA
いくつかの職を経てAWAに営業職として就職、1989年に急遽インタビュアーを代理で始めたのがテレビに出た最初の仕事である。その後正式にインタビュアーを務めるようになったが、1991年にAWAが活動を終了。WWE(当時:WWF)への入団を希望したが採用されず、WCWへリングアナウンサーとして再就職。この経緯が後の彼の大きなモチベーションとなる。
WCW
WCWでもリングアナウンサーからプロモーター、ブッカーへと仕事を移していき、もともと優秀なビジネスマンだったこともあり1993年にはWCWの副社長まで上り詰めた。ビショフが現場の責任者となってストーリー構成の中心者になってからは、1995年にWWFのロウの裏番組としてマンデー・ナイトロを開始し、WWFに対して視聴率戦争(マンデー・ナイト・ウォーズ)を仕掛ける。またWWF、ECWから多額の移籍金で数多くのスーパースターを引き抜くようになる。
スーパースターの引き抜き、自らも加入したnWoの大ブレイクなどでWWFに対し人気優位に立ち、一時はWWFを倒産寸前まで追い詰めるもベテラン中心のストーリーで若手が育たず、またストーリーもマンネリ化が目立った。その間WWFはストーン・コールド・スティーブ・オースチンとビンス・マクマホンの抗争ストーリーなどで巻き返し、WCW側が窮地に立つ。ビショフは1999年にWCWを解雇されるも半年後に復帰。しかし2001年にはWCWが崩壊。
WCW崩壊後はTV番組のプロデューサーを務めたり、またインディー団体に関わるなどした。
WWE
2002年に電撃的にロウのGMとしてWWEと契約、ファン・関係者を驚愕させた。過去のWCWとWWEとのTV番組抗争、更にレスラーを引き抜いては十分に使わないで解雇するといった印象が強かったこともあり、GM就任以来一貫して強力なヒールを演じた。特にECWファンからは嫌われており、2005年に開催されたPPV、ECW
ワン・ナイト・スタンドに反ECW義勇軍を率いて登場した際も、観客から多くのブーイングを浴びた。
ヒールらしく独裁的なGM活動を行い、2002/9/2に世界ヘビー級王座をトリプルHに授与する形で創設したり、同年10/20の統一戦でインターコンチネンタル王座を消滅させたりしていた(後に復活する)。また、WWEで最も過酷なデスマッチ形式「エリミネーション・チェンバー・マッチ」を考案したのも彼である。
2004年2月に来日し、2005/2/4に開催された、さいたま大会ROAD TO WRESTLEMANIA 21 JAPAN TOURにも参加し、同大会の開会宣言を務めた。
2005年10月から始まったロウとスマックダウンとの抗争にて、スマックダウン側にも登場。サバイバー・シリーズでの敗戦後、巻き返しをビンスに誓うも同年12月にGMを解任された。2006年秋、自伝「Controversy
Creates Cash」(物議が金を生む)を出版、自書のプロモーションも兼ねてWWEのテレビ画面に復帰した。
2007年、WWEとの契約満了により退団(ストーリー上では解雇ということになっている)。
2009年にTNAと契約した。
入場曲
エピソード、その他
- 現場においてはハルク・ホーガン、ケビン・ナッシュ、DDPなど自分と仲のいい選手をプッシュし、また彼等が望めば簡単に高額の契約金を払ったことから「ATMエリック」と陰口を叩かれた。一方でリック・フレアーの派閥とは非常に仲が悪かった。
- かつてはビル・ゴールドバーグと共に絶対にWWEには登場しないであろう人物の筆頭に挙げられていた。ビンス・マクマホンは宿敵であった彼を雇った理由を「自分の部下として働かせるなんて最高の復讐だ」と語っている。
- 夫人のローリー・ビショフは「全米で最もセクシーな女性」の一人に選ばれたほどの美人である。
- WCWのエグゼグティブ時代に、K-1 GRAND PRIX '95 開幕戦の日本武道館大会に来場し、リング上でアンディ・フグに花束を渡したことがある。
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