本名:エドワード・ヴィクツ(Edouard Weicz)1940年代から1980年代までアメリカ、カナダ、フランスなどで活動したプロレスラーである。ポーランド出身。ニックネームは『マットの魔術師』。
来歴
体操競技のオリンピック強化選手に選ばれていたが、祖国ポーランドがアドルフ・ヒトラー支配下のドイツに侵略されたのを受けフランスに疎開。その地でドイツに対するレジスタンス運動にも関わっていた。
第二次世界大戦が終わると、体操のキャリアを生かしサーカス団に入ったが、周囲の勧めでプロレスに転向。
1956年にカナダに移住し、アメリカ大陸での活動をスタートさせる。1957年6/14、イリノイ州シカゴにおいてルー・テーズを破りNWA世界ヘビー級王座を獲得したが、裁定に意見の違いが生じ、その後しばらくカーペンティアとテーズが共に王者を名乗る状態が続いた(ベルトそのものはカーペンティアに渡っている)。
またこの頃、フランス帰省中に、木こりをしていたアンドレ・ザ・ジャイアントを山中で見つけてスカウトした、という逸話が語られているが、実際にはごく普通にアンドレをスカウトしたにすぎない。しかし最初にアンドレを発掘した人物がカーペンティアであるのは確かである。
日本への登場は1970年・1973年の国際プロレス参戦の2度のみ。1980年に同じく国際プロレスの大木金太郎が保持していたインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦が内定していたが急遽来日中止となった。1970年にはサンダー杉山、1973年にはストロング小林のIWA世界ヘビー級王座に挑戦している。「もう少し若い時に見たかった」とも評価されたが、そのアクロバティックなスタイルは、同団体にいた寺西勇、マイティ井上に多大な影響を与えている。井上のニックネームは「和製マットの魔術師」、寺西のニックネームは「和製カーペンティア」である。
1981年にモントリオールで引退した後は、コーチ業やWWFのフランス語解説などを歴任。
サマーソルトキックやサンセット・フリップなど、体操経験を生かした身軽な動きは、プロレスにおける空中殺法の祖とも言われる。
サマーソルトキックは当初日本では写真だけで知られており、マスコミやファンの間では伝説の大技として幻想がふくらんでいた。しかしカーペンティアが来日した際に公開されたサマーソルトキックは、コーナーに追い詰めた相手の目の前でトンボを切るだけの技で(つまり相手へのダメージはまったくない)、竹内宏介は「魔術師カーペンティアは軽業師だった」と書いている。
2010年10月30日、心不全のためカナダ・モントリオールで死去。享年84歳。
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