フリッツ・フォン・エリック
Fritz Von Erich
1929/8/16 - 1997/9/10
アメリカ合衆国テキサス州出身のプロレスラー。本名はジャック・バートン・アドキッセン(Jack
Barton Adkisson、ハンス・アドキッセンとも)。
ギミック上の出身地はドイツ・ベルリン。アイアンクローの開祖として知られ、「鉄の爪」はそのまま彼の異名にもなった。引退後はテキサス州ダラスのWCCWテリトリーのプロモーターとして活動した。
来歴
13歳の時にアメリカに移住、父母ともにドイツ系ユダヤ人であり、ナチスの迫害を逃れたものだった(とされる)が、リング上のキャラクターとしては「ナチス親衛隊の生き残り」と称することもあった。
大学時代はフットボールの選手として活躍、スチュ・ハートのコーチを受け1954年にプロレスラーとしてデビュー。ナチ・ギミックのヒールとなって活動し、1950年代後半からは彼の「弟」という設定のワルドー・フォン・エリックとの兄弟タッグでも悪名を売った。1963/7/27にはネブラスカ州オマハでバーン・ガニアを破りAWA世界ヘビー級王座を獲得、第9代王者となった。
1966年よりテキサス州ダラスにてNWA傘下の団体NWAビッグタイム・レスリングを設立。同年12月にはメインタイトルであるNWAアメリカン・ヘビー級王座の初代チャンピオンとなり、以降ビッグタイム・レスリングのオーナー兼エースとして活躍。アメリカン・ヘビー級王座には1966年から1977年にかけて、ブルート・バーナード、ザ・スポイラー、バロン・フォン・ラシク、ジョニー・バレンタイン、ボリス・マレンコ、トール・タナカ、ブラックジャック・マリガン、ブルーザー・ブロディ、オックス・ベーカーらを破り、通算15回に渡って戴冠した。また、1975年からは1年間、NWAの会長職も務めている。
1980年代からは団体名をWCCW(World Class
Championship Wrestling)に改称し、1982年のキングコング・バンディ戦を最後に現役を引退。以降はプロモート業に注力し、WCCWのボスとして黄金時代を築く。自らの息子たちをエースに、最盛時には「ダラスのプロレスラーはエリックのホテルに部屋を与えられ、エリックのレストランで食事をし、エリックの銀行の小切手でファイトマネーを支払われる」と言われたほど、経済的にも成功をおさめた。一方で、長男のハンス・アドキッセン・ジュニアが幼くして不慮の事故により夭逝して以降、デビッド、ケリー、マイク、クリスとその息子たちがことごとく死去、「呪われたエリック一家」とも囁かれた(デビッドは日本で病死、一説には急性ドラッグ中毒と言われているが、エリック・ファミリーは否定している。ケリー、マイク、クリスは自殺)。健在なのは次男(プロフィール上は長男)ケビンだけとなっている(ケビンはプロレスラーを引退し、近年は母親や妻子とともにカウアイ島在住)。
1980年代後半、ジム・クロケット・ジュニアの発言力が増してNWA内部のパワーバランスが崩れ始めたことを機に、団体名をWCWA(World
Class Wrestling Association)と改称してNWAを脱退。WWFとの興行戦争に抗するべくテネシー州メンフィスのCWAと合併し、新たに発足したUSWAのダラスにおける興行を手掛けるが、最終的にはメンフィス派と袂を分かちプロレスリング・ビジネスから撤退した。その後、長年連れ添った夫人とも離婚し、1997年に癌のため死去。68歳没。
2009年、フォン・エリック一家のWWE殿堂入りが決定。授賞式にはケビンが出席した。
日本との関わり
1966年の初来日以降、日本に度々遠征し、ジャイアント馬場とはインターナショナル・ヘビー級選手権のベルトをめぐる数々の好勝負を残した。初来日時の東京での馬場とのインター戦は、日本武道館のプロレス初興行のメインイベントであった。日本プロレス時代は馬場戦以外にも、ギミック上の「弟」であるワルドー・フォン・エリックや「青銅の爪」キラー・カール・クラップを従えてのインターナショナル・タッグ選手権や、アントニオ猪木とのUNヘビー級選手権などを戦っている。
1973年、日本プロレス最後のシリーズとなった「アイアンクロー・シリーズ」に参戦。日本プロレスの崩壊後は馬場の全日本プロレスに来日するようになり、最後の来日となった1979年には馬場の弟子であるジャンボ鶴田とも戦っている。「ジャンボ鶴田試練の十番勝負」の最終戦の対戦相手を務めたもので、さすがに年齢には勝てず敗れはしたが、その迫力は健在であった。リング下にいた当時若手の大仁田厚を顔面にアイアンクローをかけてそのままリング上に引きずり上げたのはこの最後の来日時である。1985年頃から日本での提携先を全日本から新日本に変更したが、新日本に来ることはなかった。
また、テキサス州ダラス地区のプロモーター・ブッカーとして、息子たちやブルーザー・ブロディ、ジノ・ヘルナンデス、ファビュラス・フリーバーズなど数々の選手を日本に送り込んだ。
息子たちがまだ幼い頃、一緒に来日した際に広島市の広島平和記念資料館を見学させ、戦争の悲惨さを繰り返し説いていたという。
獲得タイトル
- AWA世界ヘビー級王座:1回
- インターナショナル・タッグ王座:1回(w / キラー・カール・クラップ)
- NWA南部タッグ王座(ミッドアトランティック版):1回(w / ワルドー・フォン・エリック)
- NWA北米ヘビー級王座(アマリロ版):4回
- NWA USヘビー級王座(デトロイト版):3回
- NWA USヘビー級王座(テキサス版):3回
- NWA世界タッグ王座(テキサス版):2回(w / キラー・カール・コックス、デューク・ケオムカ)
- NWA世界6人タッグ王座(テキサス版):1回(w / ケビン&マイク・フォン・エリック)
- NWAテキサス・ヘビー級王座:3回
- NWAアメリカン・ヘビー級王座:15回
- NWAアメリカン・タッグ王座:6回(w / ワルドー・フォン・エリック、ビリー・レッド・ライオン、グリズリー・スミス、フレッド・カリー、ダン・ミラー、ディーン・ホー)
- WWE殿堂:2009年度(フォン・エリック・ファミリーとして受賞。プレゼンターはマイケル・ヘイズ)
etc.
エピソード
- 生まれついて掌が大きく握力も強靭で、その握力は一説には200kgを超えていたという。「アイアンクロー」誕生の逸話としては、街で刃物をもった暴漢と遭遇、とっさにその手をつかんだところ、相手は手首を骨折、失神してしまった…などの話がある(他の有力説としては、フットボール選手の頃にボールを握りしめたところ、それを破裂させたことがある経験から考案したというもの)。相手の顔面あるいは胃袋を握りつける、という単純明快な技で、一躍スターダムにのぼりつめる。その「鉄の爪」はルー・テーズのバックドロップなどとともに、20世紀のプロレスを代表する必殺技に数えられる。
- また、そのアイアンクローで相手選手を出血させたり、自らも試合で出血する場合があり、常に「流血」のイメージがまとわりつくようにもなった。キック力にも優れ、ジャイアント馬場も「馬の蹴りのようだ」と表現したほど。引退の直前までヒール・スター選手であり続けた。
- 1975年7月に日大講堂で行われたジャイアント馬場との試合の際、場外で男にボールペンで刺される事故に遭うが、平然としている様子が映像に残っている。
- 梶原一騎は、前記「刃物をもった暴漢と遭遇、とっさにその手をつかんだところ、相手は手首を骨折、失神したのがアイアン・クローの始まり」のほか数々のアイアンクロー伝説を『プロレススーパースター列伝』などで書いた。その中には、「アイアンクローを頭に食って脳波がおかしくなったレスラーは5人をこえる」というものまである。
- エリックの経済的な成功についての前記の逸話は、『プロレススーパースター列伝』のブルーザー・ブロディ編で取り上げられた。これは1977年にプロレス雑誌で紹介された、当時若手レスラーとしてダラスに参戦していたロディ・パイパーの「エリックの車に乗り、エリックのアパートに住み、エリックのレストランで食べ、エリックのスーパーマーケットで買い、エリックの銀行からファイトマネーを受け取った」というコメントと、「ガソリンをエリックのスタンドで入れ、ファイトマネーの小切手の5%を現金化する際の手数料で払うため、収入の2/3はエリックの懐へ帰る仕組みとなっている」という悪徳マネージャーのゲーリー・ハートの言葉が引用されたものである。
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