テリー・ファンク(Terry Funk、1944/6/30 - )
インディアナ州ハモンド出身。本名はテレンス・ファンク(Terrence
Funk)。「テキサス・ブロンコ」・「テキサスの荒馬」の異名を持つ。実兄であるドリー・ファンク・ジュニアとタッグチーム「ザ・ファンクス」を組み、日本でも活躍した。
何度となく引退と復帰を繰り返している。俳優として活動していたこともある。
来歴
NWA〜WWF
プロレスラーのドリー・ファンク・シニアの次男として生まれ、兄のドリーと共にレスリングの英才教育を受けながら育つ。
1965年にプロレスラーとしてデビュー。1970年6月に日本プロレスに初来日。1971/12/7にはドリーとの「ザ・ファンクス」でジャイアント馬場・アントニオ猪木のBI砲を破りインターナショナル・タッグ王座を獲得。1972年10月に全日本プロレスの旗揚げシリーズに参加、以降全日の常連となり活躍した。
アメリカでは、1975/12/10にジャック・ブリスコを破って第51代NWA世界ヘビー級王者となり、兄ドリーと並んで史上初の兄弟世界王者となった。1977/2/6、兄と同じくハーリー・レイスに敗れ王座陥落。
1977年12月の世界オープンタッグ選手権では「地上最凶悪コンビ」アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク組を退けて初優勝。1979年と1982年の世界最強タッグ決定リーグ戦でも優勝した。
日本において絶大なベビーフェイス人気を博していた同時期、本国アメリカではレッドネックのワイルドさを強調したラフファイト主体のヒールとして活躍。ロサンゼルスではチャボ・ゲレロ、フロリダではダスティ・ローデス、テネシーではジェリー・ローラー、サンアントニオではワフー・マクダニエルなど、各地のヒーローと流血の抗争を繰り広げ、業界誌の不人気部門(すなわち悪党人気部門)では常に上位にランキングされていた。
1983/8/31に全日本のリングで現役を引退したが、1984年8月に復帰。1985年6月にWWFと契約し、ジミー・ハートをマネージャーにカウボーイ・ギミックのヒールとしてハルク・ホーガンやジャンクヤード・ドッグと抗争劇を展開。1986年1月にはドリーもホス・ファンクのリングネームでWWF入りし、同年4/7のレッスルマニア2(ロサンゼルス大会)にはザ・ファンクスとして出場している。
その後、膝を負傷してWWFを離脱。再び引退宣言して俳優活動に入り、『オーバー・ザ・トップ』など数本の映画やドラマに出演。
WCW、ECW以降
1989/5/7、リック・フレアーとリッキー・スティムボートのNWA王座戦に採点ジャッジとして参加。試合後、勝者フレアーに襲い掛かり、史上初とも言われる「テーブル上でのパイルドライバー」を敢行。フレアーとの因縁ドラマでは「イカレた中年(Middle
Aged and Crazy)」のヒールとして活躍。
以降インディ団体を転戦するようになり、旧敵ザ・シークの甥であるサブゥーとの邂逅などもあり、かつて南部地区でダスティ・ローデスやジェリー・ローラーらと繰り広げてきた荒っぽいラフファイト路線に回帰。ハードコア・レスリングの先駆者として再評価される。
1993年からは創世記のECWに参加。1997年末までのECW全盛期を主役の一人として支える。1998年からはECWと提携関係にあったWWFにチェーンソー・チャーリー(Chainsaw Charlie)のリングネームで久々に登場。弟子のような存在であるフォーリーとのタッグで活躍し、レッスルマニア14ではニュー・エイジ・アウトローズのWWF世界タッグ王座に挑戦。その後はジャスティン・ブラッドショーとのカウボーイ・タッグも結成した。2000年からは末期のWCWに参戦し、ハードコア・タイトルを獲得している。
現在も数多くのインディ団体に登場し、一時期は初期TNAにも登場した。2005年にWWEがECWを復活させると、当初は反WWEの立場を取っていたが、翌年のECW
One Night Stand 2006には参戦した。
2009年には、兄ドリーと共にWWE殿堂入りを果たした。
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